― こぞことし ―


 

 窓の外では深々と雪が降り続いている。温暖化が叫ばれるようになって久しい昨今においても気象条件が揃いさえすれば充分に雪は降る。
 見事な年の瀬、大晦日。
 かじかんだ手足をすり合わせて家路を辿る人々のなんと多いことか。
 ………なんてのは想像に過ぎず、実際に室内に篭もってればなにひとつ見えやしないのだが。
 個人的には遠目の居間から響いてくるテレビの音声に気を取られて先刻から勉強が手につかない。折角の年末なのにどうして客間に閉じ込められてなきゃいけないんだとヒシヒシと不満が募る。
「………つまらん」
 ぽつり、とマサオミは呟いた。
「我慢しろ」
 と、同じく机ならぬ炬燵に噛り付いて勉強中のヤクモが返した。
「飽きた。退屈。めんどくさい。向こうに行きたい」
「いちいち煩いぞ、お前は。何がそんなに不満だ」
「何が不満て! 全部に決まってるじゃんか!!」
 どばん! と炬燵の天板を叩いてマサオミは訴える。勢いよくシャーペンが部屋の端っこに転がってったのを無視していたら何故かヤクモが拾ってくれた。
「今日が何日だと思ってんだ! 大晦日だぞ!? 読み方を変えればおおつごもり!! 一年の労苦を洗い流して新年に至ろうって時になんでオレらは切なく教科書と睨めっこしてんだよ!」
「受験生だからだ」
「あっさりゆうなーっ! オレは『紅白』みながら年越し蕎麦すすって除夜の鐘を聞きながら炬燵でみかんの一家団欒を楽しみたいんだよっっ!!」
「蕎麦はさっき食ったじゃないか。第一、最近の『紅白』は軟派に過ぎて気に入らん」
「じゃあ、年末恒例の格闘技とか意味不明のバラエティのがいいってのかよ」
 確かに近年の国営放送は目を覆いたくなるような迷走っぷりではあるが他の番組もどっこいどっこいじゃないかと愚痴る。
 とは言え自身が年末恒例の歌番組を見たがる理由だって、大音量に過ぎる実況の公害ならぬ音害に悩まされるくらいなら適当に聞き流せる国営放送の方がなんぼかマシなんじゃないの、とゆーかなり後ろ向きなものではあったのだが。
「第一、炬燵とみかんならこっちにもあるだろう」
「違う! 全然違う!」
 叫びつつ教科書の上に顔を突っ伏した。
 隣の部屋にはリクもモンジュもイヅナもナズナも揃って楽しくやってると考えると虚しさが募ってくるのだ。
 勿論、自らの立場を考えれば勉学に勤しむべきだとは分かっている。センター試験も近いし気を抜いてる暇はない。
 でも「少しぐらい」と思ってしまうのが人情で、淡々とシャーペンを走らせるヤクモの方が異常なんだとマサオミは決め付けた。相手のこれ見よがしな溜息は見て見ぬフリで。
 突っ伏したままの顔を逸らして開け放した障子の向こうの窓を見る。
 窓の奥の雪を見る。
 窓に反射しているヤクモを見る。
 もともと対面で座ってた訳じゃないから、顔を窓へ向けることでようやく、正面からヤクモを見ることになる。鏡像であろうとも正面は正面だ。
 一定の速度でさらさらと何かを書き付けていくシャーペンの動きは見ていて気持ちがいい。
 向こうが気付いていないのをいいことにじっと目で動きを追う。手元の教科書とノートを交互に行き来する俯きがちの視線。時に考え込むように動きが止まったり、解法に悩んでいるのか長めに瞼が閉ざされるのが見ていて面白い。
 しかし、こうして真面目に勉強している知人の姿を見て抱く感想が「綺麗な顔してんなあ………」である辺りかなり終わってると思う。せめてそれは女の子を見た時の感想にしておけ、自分。今更のように己の面食い加減を自覚してどうする。
 観察対象が視線に気付きそうになる気配を先に察して、一瞬早く目を閉じる。
「………」
 しばしの沈黙の後に、相手が立ち上がる音がした。手洗いでも行くのかと思っていたら小気味よい音と共に障子を閉められる。
 なんて真似をしてくれるんだ。これでは折角の雪景色が楽しめないではないか。
「なんで閉めんだよ」
「寒いだろ」
 恨めしげに睨めばサラリとかわされた。
 寒いんだったらもっと早くに閉めておけよと言いたい。モンジュお手製の半纏の袖にてのひらを引っ込めて、シャツの左のカフスボタンが取れかかってるのに気がついた。他のは大丈夫かな、と無意識の内に首もとの第一ボタンと第二ボタンに手をかけて。
 ふと思いつく。
「なあ、ヤクモ。後で除夜の鐘つきに行かねぇ?」
「そんな暇があるか」
「いーじゃん。息抜きだよ。叩いたらその足で帰っからさ」
「帰るのか?」
 物凄く意外そうにヤクモが口にした。自然とマサオミの眉間には皺が寄る。
「当たり前だろ」
「明日、うちの神社の手伝いに来るのにか? この雪の中をか?」
「一旦ウチに帰って仕切り直しするんだよ。ひとン家には泊まんねー主義なの!」
「………そうか」
 どう聞いても納得してない口調でヤクモが視線を逸らした。
 何故だか分からないが伝説様はしょっちゅう「泊まっていけばいいのに」と口にする。いまに始まった話ではなく出会った頃からそうだった。そして、マサオミが頑なにそれを固辞するのも出会った当初から変わっていない。
(ある種の勝負だとでも思ってんのかねえ、こいつ)
 もし、本当にこれが勝負なら―――。
「………ヤクモ」
「なんだ」
「もしかしてお前この部屋の周囲―――すまん、何でもない」
 洒落にならない予感がして後半は適当に誤魔化した。
 まさかお前、部屋の周りに結界でも張ってオレのこと帰らせないつもり? なんて。
 告げたが最後、薮蛇になりそうな予感がするのは本当に何故なのか。おかしな奴だなと笑う伝説様の笑顔がどす黒く感じられるのは気のせいだと思いたい。てゆーか気のせいにしておいてくださいお願いします。
 ブツブツと文句を呟いているとごくごく軽い力で頭を叩かれた。
「とにかく。一にも二にもお前は勉学に励め。この間の模試の合否判定は幾つだったんだ」
「E判定」
「ほらみろ。我侭いえる立場か?」
 嘘だ。本当はもうちょっとよかった。
 素直に結果を告げればヤクモも喜んで自分を解放してくれるのかもしれないが、しかしあれは、あれだ。試験なんて所詮は当日の体調と本人のやる気と運が関係してくるのだから、何判定が出たって駄目な時は駄目に決まってる。判定が合格圏内だったところで当日いきなり高熱を出して一気に脱落なんて可能性もゼロではない。
 いい結果を伝えて下手な期待を抱かせたくはなかった。
 模擬試験の内容に関しては信用など置けないというのがマサオミの主張で、それでも多少の目安にはなるだろうというのがヤクモの主張だった。
 仕方無しに上体を起こし、てのひらの上でクルクルとシャーペンを回転させる。
 そもそも自分は進学を希望していなかった。周囲に行った方がいいと勧められたから取り組んでいるだけで、こんな低い志では行きたくても行けない環境にある人たちにひどく失礼だと思う。中には高校進学さえ諦めて就職する人間がいるのに、と考えて。
 ぴたりと手の動きを止めた。
「………高卒認定、ってあったよな」
「それがどうした」
「いや。―――世の中にゃあ偉い人間もいるモンだなって」
 高等学校卒業程度認定試験、略して高卒認定。以前は大検と呼んでたっけ。
 何らかの事情で高校を卒業できなかった者が大学の受験資格を得るための制度だったはず。滅多に利用者は見かけないが、マサオミの身近には実際にこの高卒認定を受けたものがいる。
 ハヤテだ。
 冬になる前にハヤテがやたら嬉しそうに結果報告して来たことを覚えている。祝福の言葉の後にお前の夢は流離人じゃなかったのかと茶化したら、オレにはオレなりの夢があると笑いながらもしっかり言い返された。
 目標がある。
 叶えたい夢がある。
 それは、素晴らしいことだと思う。
 自分は未だ明確な目標を持ち合わせていないけれど、これから先もハヤテの「友人」でいたいなら、互いを誇れる存在でいたいなら、愚図愚図と駄々を捏ねてばかりはいられないと感じた。
 周囲に促された結果だとしても、これ以上、逃げ回るのは流石に男らしくない。
「―――よし!」
 ぱん、と軽く手を打ち合わせて。
 何度目か分からない新たな決意のもとにマサオミは教科書をめくった。ページをめくる度に現れる新しい英単語に泣きそうになったが、負けてたまるか。意地でも理解してやる。
 先刻までのダレ具合が嘘のように真面目に取り組んでいると急に突き刺さるような視線を感じた。
 訝しげに顔をあげれば案の定、物凄くむすったれた表情のヤクモと目が合って。
「………んだよ?」
「なに、考えてた」
「なにって―――勉強のことをだな、」
 思ったままを答えれば「嘘だ」と即座に否定される。
 何を根拠にそんな自信満々に言い切れるのか、一度、伝説様の頭の構造を覗いてみたいものだ。折角やる気が出てきたのにと睨みつければ負けじと睨み返された。
 拗ねたような口調でぼそりと呟く。
「鷹宮のこと考えてただろ」
「れ? よく分かったな」
 取り繕うことも忘れて正直に感嘆の声を上げると、ほら見ろ、勉強のこと考えてたなんて嘘じゃないかと炬燵の中で蹴られた。痛い。蹴り返したろか。
「ちょっ………! あのなあ、単にオレはハヤテが高卒認定うけてたことを思い出してだったらオレも頑張らにゃいかんと考えただけであって突き詰めればどっちも勉強のことだろが!?」
「違う! 全然違う!」
 バン、と天板を叩いた後に。
 シャーペンを卓上に投げ出してヤクモはノートを閉じた。カンペキやる気を無くしたらしい。先刻まで勉強しろ勉強しろと焚き付けてたってのにこの変わり身の速さは何なのか。
 いや、違う。
 ある意味、原因は明白すぎるほどに明白だ。ただ、どうして彼がそういった反応をするのか理解できないから戸惑うしかなくて。
 おずおずと呼びかける。
「………なあ。お前、ハヤテのこと嫌いなのか?」
「苦手なだけだ」
「似たようなモンだろ」
 すっかり不貞腐れてしまったのか上体を倒したまま動こうともしない相手に、何だってご機嫌取りをしてやらねばいかんのだと理不尽なものを感じても結局は惚れた弱みだ。彼が不機嫌だと条件反射的に落ち着かない。
 だから、渋々ではあるがひとつの提案をすることにした。
「ヤクモ」
 答えはなくとも聞いていることは確かなので発言を続ける。
「よく分からんけど、なんならお前の頼みひとつだけ聞いてやるからさ。ンな沈むなよ。それこそ時間の無駄じゃないか」
「―――本当だな」
 ムクリ、と。
 突如としてヤクモが面を上げた。
「本当になんでも言うことを聞くんだな?」
「………オレの主義主張を否定せず、尚且つ良識の範囲内であれば叶えるのに吝かではない」
「どんだけ人非人な要求すると思ってんだ、お前は」
「だって、泊まってけとか言われたらヤだもんよ」
 ぽろりと本音を零すと虚をつかれたようにヤクモが目を瞬かせた。
 ああなるほど、と不穏な言葉を呟きながら顎に手を当てる。
「そうか。その手があったか」
「ちょっ―――ちょっとヤクモさーん? 聞かないからな! 宿泊の要求はもれなく却下だかんな!?」
「安心しろ、今日はやめておく」
 今日はってことはいずれする予定なんですか、等と更なる薮蛇になりそうなセリフをマサオミが吐けるはずもなかった。
 しかし、じゃあ代わりに、と示された要求は、
「あれがしたい」
「………は?」
 ―――なかなかに正体不明だった。
 指示語は明確にしろと現国の授業で習わなかったのか。しかも「してほしい」ではなくて「したい」とは。
「あれって?」
「以前、鷹宮がやってただろ。<気>の循環。あれがやってみたい」
「あー………」
 あれかあ、と何となく癖で左の頬を撫ぜた。
 確かにそんなこともあった。体調を崩していた頃に、不足している<陽>の気をハヤテに補ってもらっていたことがある。符を介しての治癒には高度な技術が必要だが『言霊』を通じての遣り取りならそんなに手間はかからない。施術者と被術者の意志の疎通があれば容易く行える。
 でも、あれは。
 微妙に。
 当時だって男子高校生ふたりでナニお寒い格好やってんだと内心で黄昏てたのに。あんなのをチラッとでも羨ましがっていたならば正直、ヤクモの常識を疑う。
「楽ンなるのはオレばっかだぞ? お前に利点なんかねぇじゃん」
「やってみたいんだから別にいいだろ。オレの方が絶対に上手いはずだ」
「単なる<気>の貸与に上手いも下手もあるか」
「あるかもしれないじゃないか」
 お前が判断すればいい、と、ちょっとだけ楽しそうにヤクモは笑った。
 自分から言い出した手前、断るのは気が引けた。このところ不機嫌になる回数が増えていたヤクモが楽しそうにしているからそれでヨシとするしかあるまい。
 炬燵から出てきたヤクモが背後に回る。
「左肩から腹部にかけてでいいんだな?」
「だな。オレの場合は左肩甲骨の下あたりがいっつもやられてっから」
「怪我が原因か」
「たぶん」
 肩甲骨の下辺りから腹部を通じて弱った体内の<気>を循環させる。民間療法にありそうな手だが確実性はこちらの方が上だ。事実、当時の自分はこうすることでかろうじて体調を維持していたのだから。
 素肌の方がやり易いはずだよな、と左側のみ半纏を脱いで、それから更にシャツのボタンを外して左肩だけを外気に晒した。暖房が入っているとは言え少し寒いかもしれない。
 じゃあよろしく、と両手を炬燵に突っ込んで待ってたのに何故か相手の反応が薄い。
 不思議に思って振り返ると、何故か向こうは呆れ返った表情でこちらを眺めていた。
「お前………」
「なんだよ。ハヤテん時もやり易いよーにってこれぐらいセルフサービスでやってたぞ?」
「いや、そうじゃなく―――」
 絶句していたヤクモは、やがて諦めたように首を左右に振った。
 もういいじっとしてろの言葉と共に右腕で引き寄せられる。身体の前に回った腕が下手すると喉仏に食い込みそうで、相手に急所を晒しているのだと強く認識させられる。ヤクモの右てのひらがしっかとこちらの左肩を押さえ込み、これじゃ本当に後ろからしがみ付かれた格好だなと考えると明後日を見詰めたくなった。
 この体勢が恥ずかしいとか暑苦しいとかより先に、個人的には。
「………っ、くす、ぐ、ってぇ………っ」
 意図せずに笑いが零れた。
「まだ何もしてないぞ?」
「わ、かってるっ………けど、む、むかしっから背中ってくすぐったっっ。あは、あはっ、はははは!」
 躊躇いがちに肩甲骨の線をなぞる指先とか、僅かに触れる呼吸なんかがくすぐってならない。こういうのは情け容赦なく一気にやってもらった方がマシなのだ。炬燵の中で手を叩く。
「うっわぁ、や、も、マジでくすぐってぇーっ! むず痒いっつーか歯がゆいっつーか!? ははっ! 気ぃ使いすぎだっつーの―――っ! うひゃひゃひゃひゃっっ!!」
「………笑いすぎだ!」
「ふぇ? あー、うん、そーね………だ、からっ―――早く、やるならやれよ。遠慮すんな」
 微妙に震えが止まらない身体を捻って振り返れば困り果てた表情のヤクモと目が合った。
 本当にいいんだな、と念押しされて、別にいいんじゃねえ? と頷いた。
 途端、意を決したようにヤクモが左手を腹の辺りに突っ込んできた。地肌に触れたてのひらのあまりの冷たさに吃驚して飛び上がる。
「つっ、めた―――っっ!!? んでこんな冷たいんだお前!」
「ノートめくってたからだろ。熱が放射されてだな、」
「ンな氷の如き手でヒトの腹に触るんじゃない! 炬燵であっためてから触るぐらいの礼儀を知れ!!」
「分かった」
 と、ヤクモはそのままの体勢で左手を炬燵へ突っ込んだものだから、マサオミは見事に炬燵とヤクモに挟まれる羽目となる。
「うぎゅ!!」
「よし」
「………っの、よし、じゃねぇ!! オレをのしイカにするつもりか!? くっつき過ぎ! 離れろ!!」
「くっつき過ぎてなんかいない。絶対、鷹宮はこのぐらいくっついてた」
「何と比較してるんだ、何と!!」
 あーもーなんだよコイツ、訳わかんねーよと炬燵に顔を突っ伏した。
 取り散らかしたノートと教科書と筆記用具の惨状に、そういやオレらって勉強してたんじゃなかったっけ? 等とひどく今更な疑問が思い浮かぶ。一体、何をどうやったらこんな事態になるのだろう。
 マサオミの存在を無視して炬燵へ突っ込んだおかげで、確かにヤクモの手は幾分ぬくもりを取り戻したらしい。あらためて触れてきたてのひらは飛び上がるほど冷たいという程ではなかった。
 でも。
(服の上からでもよかったんじゃ………?)
 遅ればせながら首を傾げる。
 個人差がある上半身のツボに関してはまだしも、腹部のツボなんてそんなに変わらない。ハヤテが面倒見てくれた時も循環に使っていたのは丹田だった。即ち、ヘソの下。つまりヤクモが確認したかったのはヘソの位置ってことで、それを確認するためにわざわざ地肌に、なんて。
 考えてる間に肩口に熱を覚えた。
 直後。

「っ、て―――っっ!!?」

 冗談じゃない痛みに今度こそ本当に飛び上がった。
 それでも振りほどけなかった右腕に、お前どんだけ力こめてんだよと内心で悪態つきながら現実世界でも罵る。
「痛いだろーがっ!! 殴るぞ!!」
「痛かったのか?」
「何処の世界に肩を噛まれて善がる男がいる!!?」
 自分では見えない位置だが確実に噛まれてる。歯型が残ってる。血が流れてる。
 ここだと指定した場所に『言霊』を乗せた唇を寄せてもらうだけのはずなのに、何故こんな猟奇的体験をせねばならんのだ。
「すまなかった」
 ヤクモは至極真面目な瞳で口先だけの謝罪を口にする。
 その態度がからかっているようにもふざけているようにも悪びれているようにも見えなくて戸惑う。上手く言えないが―――「噛んで悪いか」と開き直られている、ような、気も………。
「っ!?」
 血を、流しているだろう箇所を舐められて。
 声が漏れないよう唇を噛み締める。急ぎ、抗議の意を篭めた右手でヤクモの右腕を捕まえる。服の下に潜り込んだきりの左手も左てのひらで上から押さえ込んだ。
「ば、っか………! オレが病気持ちだったらどーすんだ!?」
「責任取ってもらう」
「お前が進んでやってんだろ!!」
「そうだな」
 少しだけ笑みを含んだ言葉が響き、またしても左の肩甲骨あたりに熱を覚える。純粋なぬくもりを伝えてくるそれに、嗚呼、治癒の術を使ったんだなと認識する。傷つけたんなら治せばいいんだろ? なんて考え方はキライだと宣言するより早く、続けて伝わってきた『言霊』の熱に不本意ながらも押し黙ることになった。
 ジワジワと伝わってくるあたたかさに緊張が解けていく。意識していなくても何処かに疲れが溜まっていたのか、ゆっくりと体内を廻るぬくもりが気持ちいい。いま、己の背中に触れているのがよりにもよってヤクモの唇なんだと考えると―――冷静になって考えると―――意味不明の言語を吐きながら逃げ出してしまいそうだったから適当に意識は外へ逸らしておいて。
 くすぐったさの発作はかろうじて治まった。
 背中に張り出した肩甲骨の細い線を唇で辿られている。首筋の、うなじの方へ向かって。あっれー、伝説サマ、徐々に目標から離れてきてませんかー? と思っても、ぬくもりが心地よい内は大目に見てやろう。
「………マサオミ」
「んー?」
「顔、あげろよ。額にノートの線がつくぞ」
「そのうち消えるだろ………」
 少しずつ、少しずつ、眠気の縁へと誘われる足を止める術がない。温泉につかっているか、湯たんぽを抱えているか、ストーブの前に陣取ったネコの気分。閉ざした瞼の向こうで眠りの妖精さんたちがおいでおいでと手招きしている。実に抗い難い誘惑だ。
 ―――ったのに。
(うん………?)
 少々不穏な気配を感じて閉ざしていた瞼をピクリと揺らした。
 基本的には人間湯たんぽなんだからあったかいのは問題ない。故にこそ気持ちいいのだし。が、なんだかその、徐々に温度が上がってきているようで、これでは「あたたかい」よりは「熱い」もとい「暑い」に近くて。
 おまけに未だ捕まえたままだった腕が動こうとするから落ち着かない。
 目覚めを拒否しようとするだらけた精神を蹴っぽって必死に目をこじ開ける。
「………あの〜………ヤクモさん」
「なんだ?」
「ちょーっとばかり<気>の伝達が強すぎね? オレ、熱くなってきたんだケド」
 声の感じが少しぼやけているから、ひょっとしたら向こうも居眠りこいてたのかもしれない。それが原因で制御を誤ったんならまだ分かるけど、なにひとつ原因がないのに誤っていたら妙ではないか。
「オレも熱い」
「だったら緩めろよ。お前ね、オレのが上手いとか言っときながら―――っ………!」
 ひっ! と、息を呑んだ。
「ば、っか! ………っ、手ぇ、動かすな!」
「まだくすぐったいのか?」
「そ、うじゃない、そうじゃないが! 気になるだろ!?」
「オレは気にしない」
「気にしろよ!!」
 先刻まで腹部で留まっていたはずの腕は僅かずつ位置を違えつつある。肩に回されていた腕も下へと軌道修正しているように思えて、マサオミは自身の想像力の逞しさになんだか泣きたくなった。
 あああそうともそうともそうともさ、コイツは全然意識しちゃいないんだろうさ。気にするボクが馬鹿なのさ。でも気になっちゃうものは仕方ないじゃない!? このまま放置しておけば人体構造をあらためて脳裏に思い描くまでもなく奴の両手が辿り着く先は知れていた。

 女の子相手なら意義のある行動かもしれないが、お前わかってんの?
 オレ、男だよ?
 触っても何も出ないよ?
 ある意味では出るかもしれないけどそれじゃあシモネタ万歳だよ?

 ヤクモは相変わらず注ぎ込む<気>を緩めない。供給過剰だ。体内に熱が篭もって、熱くて熱くて仕方が無い。炬燵とヤクモの間に挟まってたおかげでもとより服の中もかなりの温度だ。それに加えて熱いコーヒーを一気飲みした時のように内蔵付近から強制的にあたためられるってどんな拷問だよと叫びたくなる。
 実際には叫ぶことなんて出来なくて、熱い息を吐くのがせいぜいだったが。
「ん………なぁ………マジ、で、熱い………!」
 振り向いて殴るためにはどちらかの手を外さねばならず、外したが最後、相手がどんな行動を取るか分からなくて決断をくだすことが出来ない。
 奴が文字通り手を出してくる前に素早く殴る。もしくは、ズボンのポケットに忍ばせた闘神符で吹き飛ばす。それが理想なのに、熱に浮かされたいまは身を捩るのが精一杯で。
 もしかして確信犯なのかと漸く疑った。
「うあっ………」
 最後の手段とばかりに身体を横に倒しても、向こうも揃って畳に倒れこんでは意味がない。単に横抱きになっただけである。
 ちくしょう、顔にノートの線がつくどころの話じゃない。右頬全面に畳のスジスジ確定だ。
 右手は捨てて左手の対処に専念することにした。腹を通り越して既に腰に回されているこの腕を解かない限り自分に明日はない。
 勝手に上がっていく体温に眩暈がした。
「な、あっ………いい加減これ、おかしくねえ………!?」
「そうか?」
「そうだろーがっ! 熱くてヤなんだよ、離せよ、もう―――」
「………熱いなら服でも脱いでおけばいいんじゃないか」
 脱げ。
 服を脱げと申しましたか、この御方は。
 口中でマサオミは呪いの言葉を吐く。
 確かに服を脱げば少しは涼しくなるだろう。既に半脱げだけど。が、それよりは部屋の暖房を止めるのが先だし、誰より何よりヤクモがこの不届きな手を止めれば、もしくは手は止めずとも<気>の貸与をやめれば済むではないか。ふつーこんだけヒトに<気>を貸与したらかなりの疲労を覚えるだろうに未だ背後に感じる伝説様は元気溌剌勇気凛々自信満々でいらっしゃる。
 それとも何か? 制御できなくなってコイツ自身も頭に血が昇っちゃってる状態なのか。
 畳に押し付けた頭を振る。あらためて己の状態を省みればごちゃごちゃと揉めたおかげで既に半纏は背中の後ろに蟠ってるだけだし、シャツは肌蹴て左半身は疾うに蛍光灯の下。寒さ対策でタンクトップも着といてよかったなー、なんて現実逃避している場合ではないのである。
「ヤ、クモ、そうだっ。勉強、戻ろ、ほら、受験生だし………!」
「息抜きがしたかったんじゃないのか?」
「し、した! もー充分、だいじょうぶだ、からっ………!!
 声を振り絞った瞬間を狙うように。
「っ!」
 首筋に刺すような痛みを感じて思わず掴んだ奴の左手に爪を立てた。
 噛みやがった! こいつまたしても噛みやがったヨ! もう泣いてもいい!?
 笑っている気配を感じる。こちらがオタオタしている様がそんなに面白いか。伝説様はいつから腹黒大魔王になったんだ、モンジュさんとリクに訴えるぞボケが! てゆーかお前は同年代男子のうなじやら肩やらに幾度も噛み付いて一体何が楽しいんだと以下省略!
 小刻みに零れる呼吸を整えるのに精一杯で敵を振り払う余裕がない。
 いまは自由を得ているヤクモの右手が、妙にゆっくりと、こちらの頤から唇をなぞる。とてつもない努力の果てに首だけどうにか捻って、仏頂面の端に笑みを滲ませた悪代官的な表情を睨みつける。

「………噛むぞ」

 脅した。
 つもりだった、―――のだが。
「噛んでみろよ」
 鼻で笑われた。
 悔しい。
 いま自分が噛み付くとしたら目の前をふらふら彷徨ってる奴の右手しかないのだが、事ここに至っても容赦なく噛み付くことには躊躇いを覚える。傷を負った瞬間に痛いことは紛れもない事実なのだから。
 のに。
 今度は、器用にも耳の後ろ辺りを噛まれて。
「った………!」
 反射的に、目の前の指を齧っていた。
 後ろでヤクモが息を呑んだのが分かる。口の中に広がる鈍い味に血が出るほどの強さで噛んでしまったことを知る。
 しまった。傷つけるつもりなんてなかったのに。
 でも悪いのは確実に向こうなんだし………と、思考はグルグルと廻る。
 口に含んだ人差し指を舐めてやるのはなんか違うよなあ、と更に考え込んでいると何故か中指までオマケのように突っ込まれて舌を封じられた。
 いかん。これでは言葉で反抗することも出来やしない。更には呼吸がしづらくて生理的に咽かえって涙が出そうですマジで。
 くすくすと腹の立つ微かな笑い声を零したまま、ヤクモが耳元で囁いた。
「―――声は出せるか?」
 出す、も何も。
 声を封じてるのはお前だよね舌を掴んでるのもお前だよねこちらの発言を逐一遮ってくれたのもお前だよねそろそろ本気で怒ってもいいですかオレ本気で怒っちゃうよちょっと。
「や、く、も………!!」
 少しだけ緩んだ指の合間で舌を動かしてなんとか言葉を発する。ぎりぎりと握り締めた左手の爪は奴の腕に食い込んでいるだろうに痛がる素振りも見せない。
 ただじっと、こちらを、からかいを含んでいるはずなのに妙に真面目な瞳で見詰めているから。
 ―――分からなくなる。
 未だ含んだままの指を噛み切ってやるべきなのか、突き立てた爪の力を弱めるべきなのか。
 最後の抵抗のように視線を逸らせば腕に一層の力が篭められた。耳元に寄せられた唇から零れる息がくすぐったい。くすぐったいからと身を捩れば静かに丁寧に左肩に口付けられて、色んな意味で、もう、駄目だなあと感じた。
 諦めたように軽く息を吐くと今度は素直に指を抜いてもらえた。
 目の前をちらつく指先には確かな朱色が滲んでいて、こっちが被害者のはずなのに罪悪感を抱かせてくれる。
 零れた声は掠れていた。
「………わるい」
 そんなに強くするつもりはなかったのだ。
 瞬間、歯形の残る人差し指が動きを止めて。背後の人物の見えない緊張を伝える。おずおずと顎の下から喉まで線を辿る手は先刻までの強引さが嘘のように穏やかなものだ。触れた指先は当然のように湿り気を帯びていて、その感触がイヤだと身を竦めれば、もう一度強く抱き寄せられた。
 ごくごく近くで声が聞こえる。
「マサオミ。お前、本当に―――」
 ああ、やっぱ、耳元に息がかかるのは、まだ、くすぐっ………。

 ―――ぐわらっっ!!

「にいさーん、マサオミさーん! そろそろ『紅白』の大、ト、リ―――………」


 問い
 下記のふたつの条件をもとに、Rくんが導き出した結論を考えなさい。

 条件1
 親友に背中から覆い被さって左手と右手を不穏な場所に置いている兄のYくん。

 条件2
 親友に背中から覆い被さられて髪やら衣服やらがヤバいことになってるMくん。

 結論
 YくんとMくんはfsdghjkl;jhkォチpyp@@!!?\(^0^)/


「ごっ………ごごごごごめんなさい、僕、そんなつもりじゃなくてっっ!!」
 威勢良く障子をあけたリクは、数度の瞬きの後に瞬間湯沸し機の如く顔を真っ赤に染めて。
 おたおたと両手を振り回して再び障子に手をかけると何を思ったか深く一礼した。
「ごめんなさい!! ゆっくりしててください! 僕、マサオミさんだったら大丈夫ですから!!」
 だだだだだ………!
 障子を開け放ったまま遠ざかる足音。
「! リ、リク!! ちがっ―――!!」
 時を止めていたマサオミはその音に我に返るや否や背中の人物を張り倒し、閉じられたばかりの障子に取り縋った。
 が、疾うに来訪者は姿を消していて。
「リク、待っ―――ぶへっっ!!?」
「落ち着け、マサオミ」
 立ち上がろうとした足首を掴まれて引っくり返る。
 見事に床に顔面衝突した鼻を押さえてマサオミは憤慨した。
「止めんじゃねぇ、バカヤクモ!! お、おまっ、あれだよ! あのままほっといたらとんでもない風評が吉川家に蔓延だよ! インフルエンザ今年も大流行どころじゃねぇよ!!?」
「その格好で止めに行くのか?」
 相手の言葉にハッとなる。
 左半身は二の腕までモロだし髪はぐしゃぐしゃ。すいまっせーん、今し方までアレでソレなことやってましたーv と全身で語っているかのような格好だ。
 慌ててシャツのボタンを留めて半纏を羽織り直し髪の毛を整える。
 と、ワタワタやってる間にまたしてもヤクモが障子を閉めてしまう。
「閉めんな!!」
「寒いだろ」
「寒いワケあるか―――っっ!!」
 ふるふると怒りに拳を震わせたところで、さり気に障子の前に陣取ったヤクモは居間への駆け込み寺を断固阻止している。
 何を考えてるンだか分からない。よからぬ噂が流れて困るのはこいつとて同じだろうに。
 隠し持ってた闘神符を空で切って即座に体内の熱を祓ったが、それを見たヤクモが舌打ちしたのは勘違いじゃないはずだ。
「………ヤクモ。ひとつだけ言っておいてやろう」
 怒りにひくつくこめかみに指先当てて。
 よーやっと不本意な熱から解放された身体を起こし、人差し指で相手の眉間を指差した。そもそものきっかけを思い直して結論を述べさせてもらうなら。

「―――へたくそv」

 怒筋を浮かべたまま満面の笑みで爽やかに宣言した。
 ヤクモが物凄く腹立たしそうに眉間に皺を寄せる。嫌がってなかったじゃないかとかお前も流されてたじゃないかとか考えてるのは明白だが、こちらの意志を無視した時点で須らくコイツは「三流」認定だ。ハヤテの爪の垢でも煎じて飲ませてもらえ。
「もー絶対お前にはやらせねーからな! 反省しろ!!」
「………噛んだくせに」
「正当な仕返しだ! あ、そうだ、お前この首の傷なおせよ! この冬ずっとマフラー巻いてろってゆー気か!?」
 シャツの襟ぐり引っつかんで噛み傷があるだろう辺りを見せ付ければ、「本当にどうしてお前は」と意味不明な不満を零された。
 ごぉ………ん、と。
 遠くで重々しく除夜の鐘が何回目かの余韻を伝えても。

「―――マサオミ」
「あん?」
「治してやるから、もっかい噛んでもいいか?」
「神操機ぬけや、天流v」

 喩え百八つの煩悩が祓えても、祓う先から新たな煩悩が芽生えるなら全く甲斐はないのだった。


 

 


 

どんだけ絡もうとも色気がないのは仕様です☆(断言)

このあとマジでヤクモさんは「マサオミをウチに泊めてみよう大作戦」を決行して部屋に

結界を張るとゆー暴挙を働くのですが、結局は逃げられて数時間後にあらためて年始の

挨拶を受けることになります。うん。報われないの。伝説様。

 

時系列では、この話の後に同居云々のIF話が来ます。今回の話を読んだ後に同居話を読むと

マサオミさんの鈍さとヤクモさんの報われなさに色んな意味で涙がこみ上げてくるでヨ(笑)。

「マサオミさんを後ろから抱きかかえるハヤテさん」はその内パラレル本編で書くかもしれないけど予定は未定。

 

タイトルは「こぞことし 貫く棒の ごときもの」とゆー俳句(?)から拝借しています。漢字で書けば

「去年今年」かな? 一瞬、「貫く」辺りに裏のイメージが浮かんだなんて言わないさ。言わないとも。

 

今回のお話はあくまでも「IFエンド」。パラレル本編は今後より一層報われない状況に

突入していくと思いますが(………)気長にお付き合い頂ければ幸いです♪

 

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