※リクエストのお題:『陰陽』パラレル設定で明るめのお話。

※マサオミさんがモンジュさんに振り回されてたりマサオミさんがハヤテさんと仲良くしてて

ヤクモさんがむすったれたりつまりは結局いつも通りの展開に。

※例によって例の如く「パラレル設定がハッピーエンドで終わっていたら」というIFエンド版です。

※つまり本当の本編では以下省略。

 

 

 

 

 ここ数日の天候は曇りがちで春らしからぬ陽気であったが、最近はだいぶあたたかく、縁側に寝転がりながら庭の桜を愛でるのは楽しい。もう少ししたら入学式が来て授業が始まって―――いまでもガイダンスだの買出しだのはあるのだが―――忙しくなってしまうのだろう。だから息抜き息抜きと嘯きながら縁側で猫よろしくのんびりしているのが特にお気に入りなのだ。
 庭の桜は随分と長く持つ。裏に『異界』への通路を隠しているためかと見上げれば青空を背景に薄桃色の花びらが風に散って行った。古い家屋の屋根に降りかかる花はお世辞抜きで美しい。壁の欄間から透けた光が畳の上に広がり、合間合間を小さな花影が流れるのは趣がある。天井には染み、柱はくすみ、歩けば廊下は軋む。こんな古びた建物の方が心底落ち着く己は『現代』に慣れきることはないのかもしれない。
「………ん?」
 壁に貼っておいた闘神符がぼんやりと光って客の来訪を告げる。玄関口にあるインターホンは押しても鳴らない不良品だ。わざわざ修理して代金を払うよりも闘神士の特権を利用すればいいじゃないかと主張したのは自分で、お前がいいんならとあっさり引き下がったのは同居人である。もしかしなくてもあれは甘やかしているつもりなのか。そうなのか。しかし、来客の有無はわかっても肝心の相手が誰かまでは分からない。
「はいはいはい、っと」
 よいしょと縁側から立ち上がり玄関まで出迎えに行く。戸を開けたら見慣れた人物がにっこり笑って佇んでいた。
「やあ。近くまで来たから立ち寄ってみたよ」
「ああ―――ようこそ。モンジュさん」
 相変わらずマイペースなひとだ、と、自分のことを棚にあげてマサオミはそんなことを思った。

 


精霊再来


 

 マサオミがヤクモと同居を始めたのはつい先日のことである。大学進学にあわせて新居へ移ることを考えていたのに、いつの間にか伝説様の中では同居が決定事項とされていて、家まで決定されていて、ついでにマサオミが探し出した物件は勝手に解約されていて、なんだかんだでこんなことに。
 ………別に、いい。別にいいのだ。確かに家賃は安いし大学にも近いしコンビニやスーパーだって手頃な距離にあるともさ。
 ただ唯一の問題は同居人。他にはない。
(―――嫌いじゃないんだけどな)
 むしろ好きだ。大好きだ。思わず自分の命を賭けてしまう程度にはヤクモのことが大好きだ。
 でも、だからって恋愛につきもののアレやコレやをしたいかと問われると途端に及び腰になってしまう。以前の自分ならからかい半分に「オレが上ならヤっちゃってもいいぜー?」と笑い飛ばせたのだろうが、冗談ですまなくなってからは下手に口にすることもできないでいる。いま現在、ヤクモとはわりかし上手くやってるとは思うが、その点では激しく意見の食い違いを見ていた。
 自分は「ヤらなくてもいいんじゃね?」と言う。
 相手は「ヤらないでどうする!」と主張する。
 ふたりの関係が恋人なんつーむず痒くも照れ臭い言葉で言い表せるのであれば正しいのはヤクモということになるのだが、マサオミにとって自分たちの関係はようやく友人になった程度であり―――流石に文通から始めましょうってのは酷かったかもしれないが、とにかく、そんな考えただけで悶え死にそうなことをするのは死んでも御免なのである。
 葉が広がりきった急須と湯呑みを盆に乗せ、ついでにヤクモが先日買ってきた桜餅も皿に盛り付ける。庭の桜が見える縁側沿いの居間はこの家の一等地だ。お茶を差し出せば「ありがとう」とモンジュが受け取った。机を挟んで向かい側に腰を下ろす。
「折角いらしていただいて難ですけど、生憎とヤクモは出かけてるんですよ」
「遠くのスーパーの大安売りに行ってるのかな?」
「今日日、食事代も馬鹿になりませんから」
 幾ら家賃が安くとも学生ふたりの稼ぎなど微々たるものだ。かといって食事量を制限するのはまだまだ育ち盛りの若人にはきついことなので、だったらせめて足を使うしかなかった。
 綺麗な桜だと微笑んだモンジュがお茶を啜る。
「ヤクモとは上手くやってるのかな。変わったことは何も?」
「喧嘩ぐらいはしますよ。けど、そんなん誰相手でも一緒でしょーし」
 苦笑しながらマサオミは桜餅に齧り付いた。
 実を言うとつい先日、奥の物置から出てきた大量の掛け軸の中に妖が潜んでいて大変な目に遭ったのだが、そんなこと疾うにこの人物は知っているのだろうし、解決した出来事をわざわざ持ち出すこともないように思えた。ましてやええとその、あの時はまたしてもヤクモに迷惑をかけてしまったと言うか何と言うか………とにかく「それとこれとは別だよね」としておきたいのである。なんとなく。
 いずれにせよ存外上手くやっていると思う。家事全般は交代制だし、部屋も別々だ。伝説様が「個室を持つのに異存はないが寝室は一緒でいいはずだ」と謎の主張をしてくださったのには何処で寝ようがオレの自由だと力一杯拒絶させてもらった。渋々ヤクモが舌打ちと共に引き下がった時は彼が何に拘っていたのか分かっていなかったのだが、今となっては断っておいて本当によかったと胸を撫で下ろしている。だって、その………寝室が一緒ということはつまり布団も以下省略。
 要らんことまで思い出して自然とマサオミの眉間に皺が寄る。
 それを微笑ましく見詰めながら、ふと、モンジュが「そういえば」と懐を探り出した。
「君に見せたいものがあったんだ」
「なんですか?」
 もっさもっさと桜餅を飲み込み、茶を啜る。
 つい、と机の上に差し出された紙、は、単なる紙に見えるのだが。

「養子縁組をしないかね」
「ぶはっ!!」

 ―――噎せた。

「い、っきなり何いいだすんですか!?」
「だって折角なら『おとうさん』と呼んで欲しいじゃないか」
 果てしなく個人的事情である。
 養子縁組だの何だのをこれまでに聞かされたことはない。寝耳に水もいいところだ。あの子供にしてこの親あり、いや、この親ありにしてあの子供ありと言うべきか。
 わなわなと怒りに肩を震わせるマサオミを余所に伝説のお父上様はのんびり笑っていらっしゃる。
「実はね、この前うちで『言うことを聞かない相手に言うことを聞かせる有効な手段は何か』という家族会議を開いたんだが、結論としては一に説得、二に懐柔、三、四がなくて五に実力行使(※既成事実)と」
「この流れの何処に説得が!?」
「いやだなあ、マサオミくん。もし本気だったら君の意志など確認せずに養子縁組を完了させておくよ。判子やサインの捏造ぐらい訳はないんだからね?」
「さり気に黒いことを言わんでください!」
 モンジュが裏闘神士会のボスだという話は本当の本当だったのかもしれない、てゆーか、つい先日全く同じ台詞をヤクモから聞かされたような………まじでなんつー家族会議を開いてるんだ吉川家。頼むからリクだけはまともに育ってくれよ、などと、かつてならヤクモがしていたであろう心配を何故か自分がすることになっているこの現状。泣きたい。非常に泣きたい。身内のいない自分にとっての憧れの吉川さん一家は一体何処に行ってしまったのだ。
「とにかく! オレは養子だの何だのになるつもりはありませんから!!」
 取り上げた用紙を容赦なくビリビリと目の前で引き裂いた。ちょっとだけ良心が痛まないでもないが、そんな可愛らしい相手ではない。こう見えても腹黒な上に守護霊まで抱えた立派な策士様である。
 机の上にばらばらに散らばった紙を見てわざとらしくモンジュが溜息をついた。
「勿体無いことをする」
「持って来るあんたが悪いんです!」
「ダミーだけどね」
 本物はうちに置いてあるから安心したまえと笑いかけられて今度こそマサオミは机に突っ伏した。駄目だ。完全に遊ばれている。冗談抜きにこんな人物を『義父』に持つようになってみろ、事あるごとにからかわれて大変な目に遭うに違いない。いまのところからかいの対象は主にヤクモ、時々リクであるから被害を被る回数も少ないのだが、名目上でも『親子』になってしまえば遠慮の欠片もなくなってしまう。
 反論する気力もないマサオミを余所に、願いましては養い親な人物は桜餅にゆっくり手を伸ばした。
「そういえば、マサオミくん。君の誕生日祝いはいつやるんだい?」
「………週末でいいんじゃないかってあいつは言ってますが」
 やる必要ないと思ってんですけど、とぼやきながらマサオミは新しいお茶を湯飲みに注いだ。
 過去から現在へやって来たマサオミに正確な『誕生日』は存在しない。生まれたのは春先だと分かっているが当時はそこまで拘っておらず、正月が来ればみんな仲良く一緒に歳を取るようなご時世だった。
 でも、オレにもリクにも誕生日はあるんだし、これから先の事務手続きに必要な書類の発行とか登録とか生年月日が明確でなきゃどうしようもない、そもそもお前は免許証の申請をどうしたんだ、もしや無免許運転だったのか、と。
 ―――やたらうるさい方が約一名いらしたので誕生日を設定することとなったのだ。
 考えるのが面倒くさくなっていたマサオミは「リクと同じでいい」と答えたのだが、有り難味がないだとか祝い事は多い方が楽しいとかやはりよく分からんままに押し切られて、終いには
「お前が考えないならオレが決めてやる!」
 と、これまた勝手な伝説様の主張のもとに勝手に誕生日を決定されてしまった。
 なのに、じゃあいつにしたんだと尋ねてみれば「秘密だ」と返されるのだから全くもって意味が分からない。本人の知らない誕生日、本人が役所の書類に書けない誕生日、本人が尋ねられて答えられない誕生日、そんなものを決めて一体何の役に立つのやら。
 つまるところマサオミは生年月日を必要とする書類を提出するには常にヤクモを頼らなければならないということになる。用紙だけ持ち帰ってヤクモに書いてもらって自分で提出することも、途中で生年月日設定を盗み見ることもやろうと思えばやれるのだが、たぶんやったが最後、伝説様の怒髪が天を突く。
 もしかしなくてもこれって束縛? オレって超理不尽な扱い受けてね? とリクにぼやいてみれば、「のろけですか」と一刀両断された上に「兄さんのためだと思えば我慢できますよね」と笑顔で返された。ブラコンに愚痴を零した己が馬鹿だった。
「この前リクの誕生日を祝ったばかりだってのに………何がしたいんだか」
「そうかい? 私には物凄く分かりやすいよ。単にあの子は、自分だけが君の誕生日当日に『おめでとう』と言える権利が欲しいのさ。君さえ誕生日を知らなければ、他の誰が君に対して『おめでとう』と告げたところで単なる偶然の結果に過ぎないじゃないか」
 必然が欲しいんだよと言われてもマサオミは首を傾げるしかない。
 じゃあ、ヤクモが『おめでとう』と告げた日が即ち自分の誕生日で、だとしたら翌年以降は自分の誕生日を知ってることになりはすまいか。その辺は適当に誕生日をランダム設定して煙に巻くつもりなのか。意味が分からん。
 桜餅を食べ終えたモンジュが手を懐紙で拭きながら悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「私の読みでは、ヤクモが設定した君の誕生日は三月三十一日だよ。この桜餅をかけてもいい」
「………食い終えてますが」
 じゃ、なくて。
 どうしてそんな結論が導き出せるのか。
「同学年中でヤクモとの年齢差が一番広くなる日だろう?」
 同様に、喩えマサオミの実年齢がひとつ上の学年だったとしても、年齢差が一番近くなる日でもあるのだと。
 ―――もし本当にそんな理由で誕生日を設定し、あまつさえ当人には隠しているのだとしたら呆れるばかりだ。年齢にそんなに拘ってどーすんだとか思うけど、『年上』になったからって立場まで上になる訳ないだろと思うけど。
 どんな反応を示せばいいのか分からなかったから苦虫を噛み潰したような顔で湯飲みの縁を噛む。
「誕生日には思い切り我侭を言ってみるといい。何が欲しいとか」
「はあ………」
 穏やかな生活と、気心の知れた友人たちと、大切に思っている相手が傍にいる暮らし。これ以上何かを望もうという気にはなれない。勿論、牛丼が食いたい甘いものが食べたい、のんびりしたいしバイクで遠乗りしたい、等の欲求は持っている。でも、ヤクモが期待しているのはそういう望みではない―――と、思う。たぶん。
「ゆっくり考えるといいよ」
 軽く背中を押してからモンジュが席を立った。
 玄関口まで彼を見送りながら、本当にこのひとは何をしに来たのかと今更のように疑問を深めた。様子を見に来ただけなのか。流石にあの書類を吉川家の意志の表れとして見せびらかすために訪れたとは思えない、もとい思いたくないのだが自信はなかった。
 リリリリリ………
「おっと」
 電話の着信音に慌てて廊下に設置された黒電話へ向かった。外見だけ旧式然としたそれはヤクモが骨董市で見つけてきたものである。屋敷がこれだけ古びているのに電話だけ最新式では釣り合いが取れないじゃないかとの主張である。前々から思っていたがヤクモは存外凝り性だ。いまのところは大丈夫だが、何かをきっかけとして骨董収集にはまり始めたらヤバいかもしれない。専攻は考古学だし。
「はい。もしもし」
『あら、マサオミ?』
 電話の主はナナだった。
「おー、久しぶりだな! ………っても卒業式で会ったばかりか。元気だったか?」
『まあね。ところで、いまいるのってあんただけ? ヤクモは?』
「買い出し中。用があるなら言付けぐらい受け付けるぜ」
 大丈夫、用があったのはあんたにだから、とナナは告げる。街角からかけてきているのか微かに音楽と人声が背景に響いていた。
『もーすぐあんたの誕生日だったなあと思ってさ。ま、あたしやヒトハからのプレゼントはリクくんの誕生日会で一緒に渡しちゃったからもうないけど。ヤクモに何を頼むか決めた?』
「………まだだ」
 またその話題か! と片眉を引き攣らせた。
 モンジュといい、ナナといい、どうしてこう示し合わせたように連続攻撃を繰り広げてくださるのか。オレだって考えてるっつーの、夜寝る前に必ず考えてるっつーの、でもいいネタがなくて悩んでるっつーの! と内心で虚しく主張を繰り返し、友人の御小言におとなしく耳を傾ける。
『やっぱり。そんなことだと思ったのよ。今週末にふたりでしっぽりヤるつもりなんでしょ? 可愛らしくねだってあげればヤクモなんてイチコロなんだからとっとと決めちゃいなさいよ』
「お前、ヤるの発音がおかしくね? なんか確実におかしくね?」
『え? だってもう最後までいってるんじゃなかったっけ』
「いってねーよ! どこ情報だよ、それ!!」
 一体どんな目で見てんだ! とマサオミは叫んだ。なんだって女友達にこんな台詞を吐かれなければならないのか。オレにだって「男」としての尊厳はあるんだぞチクショー、しかも絶対お前の頭ン中じゃオレが「下」だろ! と、思考回路が墓穴を掘りまくっていることに悲しいかな神流は気付いていなかった。
『同棲はじめたから、もう素直に全部受け入れちゃったのかと思ってた』
「してねえよ。なにひとつしてねえよ。せめて同棲じゃなくて同居って言えよ。つか、受け入れたらオレの人生終わるだろ!」
『進んで終わらせようとしてた人間がナニ言ってんのよ』
 ナナの声が急に剣を帯びた。いかん、これは危険信号だ。
 けれども流石に向こうもおとなになったのか、出先であるために忙しくて時間がないのか、深い溜息をひとつ残したのみで声の調子を切り替えた。
『まあいいわ。ヤクモが情けないってことで許しておいてあげる』
「………ありがたいぜ」
『でも、誕生日プレゼントに何が欲しいのか決めといた方がいいってのは本当よ? あいつと一線越えてないってんなら尚更にね』
「なんでだよ」
『お前への誕生日プレゼントはオレ自身にすることに決めた。―――なんて言われてもいいわけ?』
「物凄くよくわかりました!!」
 ずっざー! と、相手から見えないことを百も承知でマサオミはその場に平伏した。お願いだから伝説様の声真似だけはしないでください。マジでビビりました。
『分かればいいのよ、分かれば。まあ、あんまりとやかく言うつもりはないけど。嫌なら嫌でいいんだからきちんとそう説明しなさいよ?』
 向こうとしては据え膳状態で大変なんでしょうけどねー、などと他人事のようにナナは語ってくれるが、実際に「据え膳」に当たるのが自分であるために気軽に笑い返すことができない。
 しかし、どいつもこいつも自分の方が立場―――と言うかなんと言うか………が、『下』だと見ているのは何故なのか。思い続けた年数だとかこれまでの経緯を考えればヤクモより自分の方が上になるべきではないか。非常に不満である。
 更に幾つか助言とも小言ともつかないお言葉を頂戴してからナナとの電話は終了した。ここ最近のことではあるが、ナナは割りと頻繁に電話をかけてくる。自分とヤクモの行き先を案じてくれているのだと思うと有り難くなると同時に、なんだか申し訳なくもなった。奇しくも彼女もヒトハも四月から同じ大学に行くのだがこの分ではまだまだ迷惑と心配をかけそうだ。
 受話器を元通りの位置に戻して、廊下に座り込んだ体勢のまましばし考え込む。未だ同居人が帰る気配がないのを確認してから徐に黒電話の番号を回した。この年齢になっても未だに携帯電話は持っていない。高校の一時期だけ持っていたけれど、何故かヤクモが嫌がるので再び持つことはなかった。人間関係が基本的に闘神士間で完結しているからこそできる技であるが、成長して社会に出るようになったら流石にンなことは言ってられないよなあと思う。
 指先が辿るのは唯一諳んじられる人物の番号だ。何回かのコール音の後にあっさりと相手が電話に出る。番号通知設定もしてあるから向こうだって慣れたものだ。
『よ! 元気か、マサオミ!』
「いきなりそこまで特定すんなよ。ヤクモだったらどーすんだよ、ハヤテ」
『そんときゃ第六感が働くさ』
 だから問題ない、と友人はやたら自信満々に語ってくれた。
 三流派の争いの折りに知り合った彼とはなんやかんやでいまに至るまで付き合いが続いている。自分たちは京都府内の大学に進学を決めたが、彼は大阪府内の大学に入学する運びとなったらしい。高校もまともに通っていなかったのに大したものだ。素直な賞賛の意味を込めて彼にハッピーチェーンの特別牛丼割引券セットを送ったことは記憶に新しい。
「あー………この前は悪かったな」
『え? ああ、いつものことだからな。気にしてねえよ』
 慣れてると苦笑した声に申し訳なさが募った。
「いまは? バイト中だったか?」
『いや。今日はフリーだ。下宿が決まったんで引越し作業の真っ最中。けどまあ、吉川ヤクモが居たら電話なんて無理だからな』
 ハヤテは電話口の向こうで笑っている。確かにヤクモの居るところで彼に電話をかけるのは難しいから、わざわざ伝説様の不在を狙って連絡を取っているのだ。自分は彼を気に入っているのだがヤクモはどうも違うらしい。お調子者の度合いなら自分とハヤテはどっこいどっこいなのに何が伝説様の気に触るのやら。
『で? 今日はどーした』
 電話越しのやわらかな声に促されるようにぼそりと呟く。
「誕生日って何を頼むものなんだ」
『………あのなあ』
 数日前にも同じこと訊かれたぞ、と呆れた口調で言われて思わずふくれっ面になる。
「浮かばないモンは浮かばないんだから仕方がないだろ。誕生日プレゼントなんていままで強請ったことないんだからな!」
『吉川ヤクモならお前が何を注文しても快く応えてくれそうな気はするがな。牛丼奢ってくれとか家事全般一週間お任せコースとか、他愛無いものでいいんじゃないのか』
「だから困ってんじゃねーか………」
 お人好しの伝説様のことだ、余程突飛なものでもない限り全力で叶えようとしてくれることは想像に難くない。例えば願い事が「幻の魚が食いたい」であれ「世界一周旅行がしたい」であれ、いざとなったらありとあらゆる技を駆使して叶えてくれそうなだけに気が引けてしまう。
『清水の舞台から飛び降りるつもりでお願いしてみりゃいーだろ。あるいはいい加減、覚悟を決めて「好きです」と真顔で告白してみるとか』
「なんで告白っつー選択肢が出てくるんだよ。しかもそれ、どっつかっつーと喜ぶのはヤクモだろ」
『いいんじゃないか? 吉川ヤクモが嬉しそうにしてたらお前だって嬉しいんだろ』
 異論はない。
 ない、が―――あまり近づきたくない領域である。
 要は折れるか折れないか。しかして折れた後の状況は予測不可能、もとい予測できてしまうので踏み出すことが聊か躊躇われる。
『どーせ男としての建前とか誇りとか往生際の悪いことしか考えてねーんだろ。諦めろ。つーか、いい加減に認めろ』
「何を」
『吉川ヤクモがお前に惚れてるってことをさ』
 流石にそう来るとは思ってなかった。
 自分の感情はもとより疑うべくもないが、マサオミが見る限り、かれこれ七年ばかり一緒に過ごしてきたヤクモが好むのはモンジュとかツクヨミとかリクとか、根が真面目で真っ当な人間だ。かく言う己は自分で言うのも難だがお調子者だし面倒くさがりだし嘘吐きだし意固地だし好まれる要素が殆どない。
 お前を『現世』へ引き止めたのはヤクモじゃないかと問われれば首肯するしかなくとも、相手が自分じゃなくたって彼は引き止めたに決まっている。それこそナナでもヒトハでも他の同級生の誰かでも偶々通りすがっただけの赤の他人でも。
 ぶつぶつ呟いていると受話器の向こう側でハヤテが「奴も報われんな」と苦笑した。
 うーん、と唸りながら壁に額を預ける。俯いた面には前髪がはらはらと差し掛かる。すっかり長電話だ。人生にタイクツ覚えてる奥様方でもあるまいし、なんて関係ないことをちらりと考えながら。
「なあ、ハヤテ。まだもう少し忙しそうか?」
『引越しの整理して、バイト増やして―――最初のうちは大学のガイダンスとか教科書の買い出しとかあるからな。そっちだって忙しいだろ』
「まあな。けど、できれば会いたい」
『なんでまた』
「偶には面と向かって話そーぜ。どうしていつも電話越しなんだよ」
 たぶん自分はこの歳になっても未だに距離感を測りかねているのだ。本当に好きになった相手はいつもいつでも先にいなくなってしまったから、好きな相手が常にそこにいて、あまつさえ好意らしきものを寄せてくれるとあっては戸惑うしかない。落ち着かない。顔を会わせる度に密かに鼓動が跳ね上がっているだなんてヤクモには知られたくない。
 だって、悔しいじゃないか。
 心底惚れているという拭い難い事実が。
 偶には色恋の関係ないところで愚痴りたくなる。ナナに愚痴ってもいいが流石に女に頼るのは情けないとなけなしの意地にも似たものを張り巡らせて。
 ハヤテが物凄く困ったような声を出した。
『いまは無理だが―――もしかしてお前、うちに来るつもりなのか?』
「ああ」
 都合ならお前にあわせるとあっさり言い切った。左の拳で意味もなく目の前の壁を押しながら。
「会えればいいんだ。折角だし手料理もって押しかけてやるよ、ハヤテ」

 リン………!

 ―――突如。
 小さな音を立てて回線が途切れた。
「ん?」
 受話器をまじまじと見詰める。視線は自然と親機へ向かい、漸く誰かの手が回線を切ったことに気がついた。闘神符の結界すり抜けて他人が入ってくるなど有り得ないので要するにこの手の主は。
「ただいま」
「………おかえり」
 当然、ヤクモしかいなかった。かなりの荷物を抱え込んでいる、買い出しは順調だったらしい。
「帰ってたんなら声かけてくれりゃよかった、って―――なに勝手に切ってんだ! 失礼だろ!?」
 向こうにしてみりゃこっちが回線事故だと憤慨し、再び黒電話の番号を回す。
 幸か不幸かハヤテはこの手の対応に慣れてはいたけれど、すぐに謝っておこうと考えたマサオミが一生懸命コールを始めるのはいつものことで、
 リン.
「切るなっっっ!!!」
 伝説様が邪魔してくださるのもいつものことだった。
 ハヤテとの会話はいつだって彼に邪魔される。気に入らないなら気に入らないと言えばいいのに、徐々に陰湿さが増してるのは思い違いか。ちなみにハヤテとの電話を途中で中断されるのはこれで………何回目だっけ。とにかくたくさんだ。
 勝手に切ったのは悪かった。
 これまでと同じ謝罪を一応ヤクモは口にした。そして、不機嫌そうな顔で続ける言葉も大差ない。
「でも、帰ってきた相手に気付かないのは失礼だ」
「………お前の方がより悪質に思えるんだが?」
「わかった」
 もういい、とあからさまな不機嫌面でずかずかと立ち去ってしまう。
 マサオミはマサオミで受話器を握り締めたまま途方に暮れる。彼がいなくなったいまならハヤテに謝罪するぐらい簡単だ。しかし、買い出しに行ったヤクモが次に向かうのは台所で、台所に居れば通話は丸聞こえで、彼の真ん前でハヤテに「ちょっと電話機の調子が悪くってさー」と白々しい嘘を付くのもどうかと思った。つか、なにこの気まずい雰囲気。
(………くそっ)
 舌打ちと共に受話器を元の位置に戻す。結局こうやってヤクモを優先してしまうから―――お陰でいつもハヤテとの電話は謝罪から始まる―――駄目なのだと分かってはいるが仕方がない。そっと台所を覗いてみるとヤクモが一生懸命に冷蔵庫の中身を整理していた。買い込みすぎて詰められなくなったらしい。アホか。
 いずれにせよ夕食までこの空気でいることは耐え難い。どちらに非があるのかと問われたら勿論ヤクモだと胸を張って宣言できるが、自らの態度の何処かしらが彼の神経を逆撫でしているのだと最近漸く気付き始めた。より正確に言えばヤクモの知らない範疇で己が仕出かした『何か』なのだろうが、何をもって怒っているのかどうにも判断つけ難い。
 ひとつの溜息と幾度かの瞬き。
 意を決して台所に踏み込んで未だ放置されたままだった野菜を袋から取り出した。
「………無理に冷蔵庫に詰め込むなよ。いざとなったら闘神符使って簡易冷却ぐらいできんだろ」
「マサオミ?」
 こんなに早く話しかけてくるとは思ってもみなかったのか。きょとりとしたヤクモは意外なほど可愛い顔をしている。
 頑張れオレ、素直になれオレ、この気まずい雰囲気が続いたらマジで窒息するぞ。
 必死にそんな言葉を繰り返しながらも表情に出したりはしない。こんな時はちょっとだけ嘘を吐き慣れていた自分に感謝する。
「―――相談してたんだよ」
「何を」
「………誕生日プレゼントって何を頼むものなのか、ってさ」
「………は?」
「だから! ふつーは何を頼むものなんだって聞いてたんだよ。ナナに聞いたってハヤテに聞いたってわかりゃしねー」
 彼らはあくまでも他人なのだから分かるはずもないのだが、どうして誰も具体的に教えてくれないんだと嘆きたくなることもある。一番手っ取り早いのは金銭関係だろうとブルーレイディスクに対応したデッキとか最新の携帯音楽プレーヤーを要求してみようかとも思ったが、ならばぞれが本当に欲しいものかと自問自答してみると「違う」となってしまうのだ。
 本当に「欲しい」ものは現時点ですべて揃ってしまっている。
 冷蔵庫の扉を閉めたヤクモは一頻り首を傾げた。
「別に―――普段お前が言ってるみたいに牛丼が食いたいとか有名店のケーキが食いたいとか一日中ごろごろしてたいとか、ひとつぐらいあるだろ」
 物に拘る必要ないんじゃないか、だってオレへの誕生日プレゼントは未だに「好きな場所へ連れてってやるぞ」だろ、と言われて。
 そんなモンかと溜息つきながら置きっ放しにしてあった湯飲みを洗う。
 遅ればせながらヤクモもそれに気付いたようだった。
「誰か来てたのか?」
「モンジュさん。元気してるかーって。………引き止めときゃよかったな。悪い」
「構わない。実家なんてすぐに帰れる」
 オレもお茶を飲みたいとヤクモが横から湯飲みを掻っ攫う。どうやら機嫌は直ったらしいのでほっとした。お湯わかすから待ってろよと言い置いて、茶葉は代えるなよと捨て置いた。一回しか使ってないのにもう交換してしまうだなんて勿体ない。
 荷物を片付け終えたヤクモが今朝の新聞を手繰り寄せてのんびりと目を通す。最近の若人ともなればニュースの出所は専らテレビかネットなのだろうが、時代に取り残されたようなこの家ではテレビさえ滅多につくことがない。マサオミがそこそこテレビが好きだから夕食時にはつけていたりするけれど、夜になれば静かなものだ。
 やかんのお湯を急須に注いでから視線をそらした窓の向こう、桜の花びらがひらひらと舞い落ちた。本当に綺麗だ。自分の居た時代では桜よりも梅の方が周囲からの人気は高かったが、こちらに来てからは桜もいいよなあと感じるようになった。つまるところ綺麗ならなんだって好きなのだ。
 ん? てことはヤクモのことも外見から好きになったのか? いやいや流石にそれはない、それもあるとしてもそれだけではない、と軽く首を振る。
 でもまあ、ヤクモの外見が自分の好みに合致していたことぐらいは認めておこう。やっぱり出身地もとい出身時代が出身時代な所為か和服美人に弱い。アカネだって初対面時は当然の事ながら和装だったし、最初から好感を抱いたモンジュは神主装束だし、それを継いだヤクモの着物姿だって心底好きなのである。特にかっこいいのは―――。
「―――あ」
 と。
 マサオミは両のてのひらを打ち合わせた。ヤクモが新聞から顔を上げる。
「決まった!」
「………何がだ」
「プレゼントだよ、プレゼント! 物に拘らなくてもいいっつったよな!?」
 どうしていままで思いつかなかったんだとややはしゃぎながら急須を手に居間へと駆けつけた。淹れたてのお茶を湯飲みに注ぐことすら忘れて、行儀悪くも真向かいに座ったヤクモを指差す。
「お前の舞いが見たい!!」
「………………は?」
「ほら、あれだ! 大祭でよくやってたヤツ! 演目変えろとか言わない、や、むしろ変えないであのまんまやってくれ! それがいい! それに決めた!!」
 ばしばしと己が膝を叩きながら訴える。はしゃぎすぎて声が上擦っているのが丸分かりだ。
 ヤクモはまだ訝しげに眉を顰めるばかりだが、実にいい案のように思われた。大祭は三年周期で行われているため次の機会があるとしたら来年だ。これまでにマサオミが参加したのは前回秋の大祭の一回こっきりだが、あの時はとんでもないことになってしまい、とてもじゃないけど落ち着いてヤクモの舞いを見ている余裕などなかった。
 だからできればゆっくりと、落ち着いて、他の観客もいない独占状態で!
 まさしくこれこそ誕生日の特権!
 よくぞ思いついた、オレ!!
 目を輝かせるマサオミに対して伝説様は困惑気味だ。舞いなんぞ舞いたくないということではなく。
「―――本当にそれでいいのか?」
 いいのかって、いいに決まってるじゃないか、いいじゃないか減るもんでもなし、とすっかりこころを決めてしまったマサオミが言葉を重ねる。相手の戸惑いを他所に勝手に次々と計画を立てる。この辺の身勝手具合は、実は伝説様と大差ない。
「そうと決まれば話は早いぜ。今週末なら天気も良さそうだし、昼間は忙しいから夜だな、夜。妖怪でると危ないから周囲に結界はってさ。でもお前って和服持って来てたっけ。ないよなー。さっきモンジュさんに頼んどきゃよかったなあ。そしたら手間が省けたのによ。あ、演奏は<傀儡>でどーにかするから任せとけっ。お前、あの技嫌ってるけどかなり便利で使えんだからな」
「………まだ了承してないぞ」
「え、じゃあ駄目なのか。マジで駄目なのか。あんだけ何が来てもオッケー、叶えられない願いはない! みたいな顔してたくせに駄目なのか。もしかしてヤクモさんったら自分の肉体労働が関わると途端にやる気なくすとか! やっだー、ひっどーい、さいていさいあくしんじらんなーい!」
「妙なシナを作るな! お前が勝手に話を進めてるからだ!」
「んじゃ、オレ、これからちょっとモンジュさんとこ行って来るわ。夕食までには帰ってくるから安心していーぞ。借りるとしたら衣装と笛と―――鼓は要らないよな、うん。あとは蝙蝠くらいかあ?」
「………」
 身を乗り出すようにしていたヤクモが溜息と共に引き下がった。こうなっては何を言っても無駄だと彼なりに悟っているのだろう。実際、本当に嫌なことならば何が何でも反対しているはずで、文句のひとつやふたつで済んでいる内は問題ないとマサオミも判断しているのだ。
 いそいそと部屋に戻ってジャケットを取ってくる。急須に湯を注いだままだったことを思い出し、乱雑な手つきでふたつの湯飲みにお茶を注ぐと、そのままひとつを一気に飲み干した。もう片方をヤクモへ押し付けて「じゃあな!」と浮かれ調子で席を立つ。
 ヤクモが諦めきった表情で玄関へ見送りに来た。
「あまり遅くなるなよ」
「ならねーって。夕食までには帰るっつったろ」
「わかった。ところで、マサオミ。買っておいたはずの桜餅が見当たらないんだが」
「ああ。オレとモンジュさんで食った」
「え」
 ぴき、と僅かに固まって。
 一瞬のちにはヤクモが「有名菓子店に並んで買ってきたとっておきで、一緒に食べるの楽しみにしてたんだぞ!」と怒り始めたが生憎と舞い上がってるマサオミの耳にはなにひとつ届いてはいなかった。
 玄関を潜り抜けて竹林の間から差し込む日の光に目を細める。
 ―――週末が楽しみになってきた。
 にい、と笑った神流はバイクのキー片手にひょいひょいと足を踏み出した。




 モンジュは既に話の流れを把握していたらしく、吉川家に到着した時点でおおよその準備は整っていた。「これで充分かな」と衣装やら小道具やらの類を指し示されて、本当にこの夫婦は何処まで見知っているのかと苦笑するしかなかった。
 イヅナが居合わせたのをいいことについでとばかりに頼みごとをすれば、普段は渋るであろう巫女までもがなんだかんだ言いながらも受け入れてくれた。誕生日の特権とはまこと素晴らしいものだ。
 何が欲しいかを伝えたのだと改めて報告すれば「相変わらず記憶にしか残らないものを好むんだね」と少しばかり寂しそうに微笑まれた。でも、結局は物を頼もうと何を頼もうと時が流れ行けば消え去るのみなのだから大した違いはないと思うのだ。
 かくして時は流れて、今日はめでたく週末の夜である。
 既に日も暮れて久しいが、桜の薄赤い花びらは青空にも茜色の夕焼け空にも漆黒の夜にもよく映える。担いできた水瓶と柄杓を縁側に下ろして息を吐き、額に張り付いた前髪を払いのけて天を見上げる。水は案外重い。それほど大きな水瓶ではないのだが持ち運ぶのに苦労した。
 柄杓に水を汲み上げて庭に下り、太い木の幹に手をついて目を閉じ希う。
「―――頼むから。何も起こってくれるなよ」
 あんたらにとってもあいつの舞いは心地よいはずだからと呟いて祈りを捧げる。長年この土地に根を張る木への畏敬の念と、場を借りることへの詫びと、共に楽しんでくれれば嬉しいという想いを。
 感謝の念を篭めながら柄杓の水を桜の根元へと注ぐ。瞬間、周囲の気配がざわついたのは気のせいではあるまい。
「マサオミ」
「お。準備整ったのか?」
「まあな」
 着物を身に纏ったヤクモが縁側に腰を下ろす。足元は袴と足袋と草履のためいつもより多少の時間を要する。草履の紐を縛りながら、彼は傍らに置かれた水瓶に視線を転じる。
「どうしたんだ、これ」
「里帰りして汲んできた」
「里帰りって―――<刻渡りの鏡>を使ったのか」
「ちゃーんとモンジュさんとイヅナさんの許可は取ったぞ。『現代』で売ってる天然水なんか目じゃないんだぜ!」
 口角を上げて柄杓を手渡す。興味を抱いたヤクモが素直に受け取って、何口か水を飲んだ後で賞賛の声を発した。
「………美味い」
「だろ? 神流の里の最奥にある湧き水を汲んで来たから味はお墨付きだ」
 むかしっから此処の水が好きだったんだと笑いながらマサオミが縁側に腰掛ける。
 代わりに、ヤクモが庭へと降り立った。手にした闘神符を四方に散じて結界と成し、更に幾枚かの符を明かりとして灯す。
 背景の桜と夜の闇とほのかな灯火。
 街の明かりも喧騒も雑踏も届かない此処はまるで夢のような光景だ。
 ともすれば、ここが『現代』であることを忘れそうなほどに。
 軽く頭を振ってからマサオミは足元の花びらを拾い上げる。比較的大きな蕾であったそれを宙に投げ上げて素早く印を結ぶ。
「―――態を変じよ!」
 ぱしり、と小気味良い音を立てて。
 桜の花が小さな子狐へと姿を変えた。獣は器用な手つきで胸元から笛を取り出して口元に添える。ぱちくりと目を瞬かせている舞い手ににんまりと笑いかけた。
「鳥獣戯画」
「………狐にする理由はあるのか」
「単なる気分さ」
 気にするってんなら変えるけど、と問い掛ければ、もとを辿れば桜の花なのだから問題ない返された。情緒を解しているんだか解してないんだかいまいち分からない。
 目を閉じて呼吸を鎮め、風が止む瞬間を待つ。
 僅かなざわめきも感じない空間に細やかな笛の音が響き、ヤクモの手が動いた。
 視線は揺るがない。動きに迷うこともない。手足の動きひとつひとつがぶれることなく美しい軌跡を描く様は素直に賞賛に値する。
 水瓶に寄り掛かりながら手にした柄杓で時折り喉を湿らすのは乾いて仕方がないからだ。飢えていることを自覚しつつあるからだ。
 只管に視線は彼の姿を追う。陰陽五行、四神に纏わる舞いならばいずれも習得しているが、中でもヤクモは『風』や『水』を好む。好むだけに留まらず、実際に適している。個人の性質が顕著に現れるものなのだ。巫子見習いとして育てられた己は敢えてどの属性にも近づかぬようにと鍛えられたが、本来は個々人に合った属性を伸ばしてやるのが吉である。
 衣は薄い青、手にした蝙蝠は白。
 衣装は彼が父の代理を務める際に身に着けていたものに他ならず、数年が経過したところで極端に丈が変わる訳もなし、数年前の彼の姿といまの姿が被さる。
 花びらが舞い散る。
 結界を張って尚、周囲がざわめいていることが分かる。もとより闘神士の舞いは<太極>に捧げられたものであり、どれほどに独占したいと望もうともたかがヒトひとりの領域に留め置けるはずもない。神々の<目>から隠そうとしたところで知らぬ間に覗かれている。だからもう最初から、周辺に住まう妖怪や精霊の類が窺い見ている気配には目を瞑ることにしている。
 だって、彼は最初から。
(―――オレのものじゃない)
 自分のものになどならなくていい。ならないでほしい。
 独り占めできれば嬉しく感じはするのだろう。けれども同時にひどい罪悪感と心痛に耐え難く、すぐに逃げ出してしまうことが予想できるから執着の類はできる限り持たないように努めている。己は最悪なまでに小心者で卑屈なのだ。ましてや今更その性質を治そうとも思ってもいない。
 降る。
 花びらは雪の如く降る。
 一心に舞う彼の目も、姿勢も、動きも、洗練されていて見事という他ない。それは同時に一抹の寂しさを感じさせる。もとから手に入らないと諦めていたものを目の前で披露されて隔絶の感を味わう。
 いま『人間』として彼の舞いを見ているのは己のみだと分かっていても、やはり、ひどく遠く感じた。
(参ったな………)
 嬉しいはずなのに。喜ばしいはずなのに。何より、望んだのは己であるというのに。
 少しばかり。
 彼に願ったことを悔いる羽目になってしまった。
 僅かばかりの寂しさを苦笑で覆い隠してもう一度マサオミは柄杓で水を煽った。『過去』から齎された雫は精気に満ちているのみならず、追憶の感情を揺り起こすようであった。正真正銘ただの水であるのに目眩がしてくる。結局この身体は本来『過去』に属するものであり、三種の神器の力を借りたところで、リクとは異なり『過去』において永い時を過ごした己はどれほどに『現代』に慣れ親しんだつもりであろうとも、完全に合致することはこの先もないのだ。
 笛が鳴り止み、動きが止まる。
 ほんの一刹那だけ遅れて宙を待った袖が地に落ちる。
 だらしなくも水瓶に身を寄せていたマサオミは、やはりだらしない格好でぱちぱちと手を叩いた。
「いよっ! 千両役者!!」
「これでよかったのか?」
「まだ言ってんのかよ。オレがいいって言ってんだからいーだろ。―――ありがとな」
 笑いかけると視線が逸らされた。
 あれ。珍しい。もしかして照れてるのか。
 まーた腕前上がったんじゃないのか、やンなっちまうね。闘神士の腕前と芸の腕前が比例するとは限らないけど、伝説様に限っては素直に比例してるようで全く感心するね、羨ましいね、などと。
 多分に本音も混じっているだろう言葉をずらずらと綴れば、何故かヤクモは眉間に皺を寄せた。
「オレがそうなら大祭のお前なんて―――」
「あん?」
「………なんでもない」
 途中で口を噤んで、ヤクモは水瓶を挟んだ反対側にどっかと座り込む。腕組をしている姿は不機嫌そのものなのだが、どうやら色々と我慢しているらしく、しばらく間を置いてから
「―――今日はお前の誕生祝いだからな。あまり説教はしないでおく」
 と、真顔で宣言してくださった。
 そりゃどーもと笑いを堪えながら柄杓を差し出せば相手も素直に水を喉に運んだ。春先であっても水は未だ冷たさを保っている。きっと彼ならば『過去』の成分を多分に含んだ水で渇きを潤したところで、妙な郷愁に駆られることもないのだろう。
 ぱしん、と指を鳴らすことひとつ。笛を吹いていた子狐が笛もろとももとの花びらへと姿を戻す。
 ヤクモから取り返した柄杓で再び水を煽る………事無く、ついと眼前に広がる庭を指し示した。
「見ろよ」
 つられて顔を上げたヤクモが驚きに目を瞠った。舞いに夢中な彼は気付いていなかったのだろう。いつの間にか結界の外側にぼんやりとした青や赤の光が屯している。神経を研ぎ澄ませば童のような笑い声までもが聞こえてくる。
 幾ら結界で世界を区切ったとて全てを遮れる訳もないと受け入れたのは今し方のこと。ヤクモはもとより、マサオミも排除に動くことはないと理解したのか、終盤に差し掛かってから急に『観客』が増えた。祓おうと思えば祓えたが、最近はこの手の弱い妖怪や雑霊の類は都会の明かりや音に押し遣られているのが正直なところだ。遠ざける気も失せた。
 腰を浮かせかけたヤクモも、マサオミに動く気配がないのを見てあらためて縁側に腰を下ろした。
 腕組みをしたまま目を細めて周囲の光に気を配る。ともる光は見ようによっては美しい。
「<光魚>みたいだな」
「似たようなもんだ。どっちも妖怪と呼ぶほど<陰>に染まりきってる訳でもない。人間には災厄と捉えられることさえも、実際、連中にとっちゃ単なる遊びだったりすることが多いしな」
 戯れに柄杓の中の水を結界外へと撒いてみる。
 当然のことながら重力に従い水は地に落ちるのだが、撒いた分量に対して地に吸い込まれた水はあまりにも少なかった。連中も精気に満ちた水はお気に召したらしい。
「むかしはこんな連中なんて何処にでも居て―――里の周辺じゃイザコザも絶えなかったし、戦に纏わる死者だの怨霊だの鬼火だのも慣れたもんでさ。日毎夜毎にその手の怪異と付き合ってりゃいちいち追い払うのも面倒になってくるってもんだろ」
「慣れか」
「………懐かしくなるんだ」
 都会の喧騒とはまた異なる魑魅魍魎の雑多な空気の中にいるのも嫌いではない。もとより、いずれは伏魔殿に篭もりきるになるものと考えて色々と受け入れてきた。だから、こんな雑霊程度の存在ならばむしろ微笑ましく感じてしまうのかもしれない。
 膝の上に頬杖ついて夜風の動きを意識する。先ほどまでは気にかけていなかった月の光がやたら強い。視界の隅を通り抜けていく雑霊の光こそが天の光を意識させるのか。目を閉じても瞼の裏はほんのりと明るく、宵の口であるというのにともすれば眠りそうになる。妙に穏やかで、静かな気分。
 視線を天へ向けていると思われる隣の人物が口を開く。
「マサオミ」
「ああ」
「戻りたいのか」
 咄嗟に答えが返せず。
 ただ単に同居前の個人宅に戻りたいという意味か、友人よりももう少し踏み込んだ関係になる前に戻りたいという意味か、あるいは『過去』へ戻りたいという意味なのか。
 一番最後のものだと判じて言葉を紡ぐ。
「どーだろーな。確かにこっちのが生活は便利だし命の危険もねえさ。けど―――自然に関しちゃ比べ物になんねえよ。里の周辺じゃ動物も植物も、妖怪だってもっとふてぶてしかった。煩わされもしたが、ある種の逞しさに憧れてた感も否めねえし。弱い動植物や妖怪ばっか相手にしてたんじゃ調子が狂う」
 むせ返りそうな草いきれ、濃い緑の香り、獣たちの遠吠えと足音。生霊のすすり泣き、死霊の呻き声、妖怪のせせら笑い。太陽は熱く、月は冷たく、『いま』よりも鮮明な四季の移り変わりが容赦なく仲間たちの命を奪い、疲弊させた。負けてなるものかと生き抜いて草の根を齧ってでも生き延びて、命を繋いで。
 現在の日本であればいますぐに命の危険に晒されることはない。
 それは喜ばしいことだ。
 ―――けれど。
「もし、お前が帰りたいと思っているなら―――」
 のんびりとした口調でヤクモが呟いた。

「オレは止めない。お前が帰りたい時に帰ればいい」

 瞬間。
 目を、見開いたのは。小さく息を呑んでしまったのは。
 単なる気のせいだ。身体の反応なんて本当に些細なものでしかないのだから、絶対、絶対になんでもない。幾度かの瞬きの後に目を閉じる。
「―――そ、っか」
 静かに呟いて。
 こころなしか先刻までよりも周囲が暗く感じられるだなんてことはない、と、思っていたい。それではあまりにも情けなさ過ぎる。
 動揺を押し隠す中、さして間を置かずにヤクモの声が静かに響いた。

「オレもついて行くけどな」

 しばしの沈黙。
 頬杖ついたまま再び開いた目を相手へと向けて、睨みつける。
「………ああ?」
 ガラの悪い声。
 だが、その程度で引き下がるような相手ではない。涼しい顔でマサオミの手から柄杓を取り上げて、冷たい水に舌鼓を打ちながら僅かに笑い当然のように言い切った。

「お前の隣にオレが居るのは当たり前だ」

 ………だから。
 そう、言い切れる根拠は何処にあるんだと。
 第一『現代』を捨てることになるんだぞ、『現代』と『過去』を行き来するつもりなのか、どんだけ忙しい生活だ、両立なんてできやしないくせに―――。
 反論だけは胸中に巡り続けているのに現実の肉体は石の如く静止したままぴくりとも動かない。動けない。深く考えるまでもなく先刻までの状態に輪をかけて情けない状態だ。
 視線だけは険しく、表情だけは不機嫌に。
 深い溜息をついて「勝手にしろ」と嘯いた傍らでヤクモが笑っている。ふたりの間を水瓶という異物が遮ってくれていることに感謝した。とてもじゃないが至近距離に居られたものではない。耳元でいまの言葉を囁かれてみろ、確実に自分には逃げる以外の手がなくなる。
 マサオミと呼ばわる声が腹立たしいはずなのに心地よい。
「なんだよ」
「お前が驚いたのは、オレが止めなかったことと、ついて行くといったことの、どちらだ?」
 それは勿論。
 ―――なんて口を滑らすことはない。この手の問いにあっさり引っかかってたのではこいつとの共同生活なんてやっていけない。
 口元歪めて胡乱な眼差しを送る。
 まあ、たぶん。
 言葉にしなくとも態度からバレバレなのだろうと半ば以上諦めているのも事実なのだが。
「………性質わりぃ」
「まさか」
 オレはお前よりずっと素直だなんて惚けた台詞を彼は真顔で吐いてくれる。馬鹿を言え。むかしから意地っ張りでどうしようもない頑固者だった奴がよく言える。『むかし』と比較して『いま』はまともだと言いたいのかもしれないが、じゃあ何処かどう素直になったんだ、具体例を挙げてみろ、と言ったが最後やはり藪蛇になる。
 でも、偶には素直に心情を吐露してみようかと、思ったのはほんの気まぐれだ。
「―――ヤクモ」
「なんだ」
「実際、帰りたくなることはあるんだ。里の皆に会いたくなるのなんてしょっちゅうだしな。けど、」
 なのに、そうしないのは。
 つながりを断ちたくない『誰か』が居るからに他ならない。

「………オレは『帰っていない』」

 いい加減わかれよ、と。
 告げるだけ告げて立ち上がると大きく伸びをした。水瓶も柄杓も今晩は置き去りにしよう。朝には雑霊に食い尽くされて跡形もなくなっているかもしれないが充分以上に英気は養えた。両肩をぐるぐると回して心身をほぐし、縁側と部屋を仕切る障子に手をかけた。
 振り返れば想像通りに今度は伝説様が目を点にして固まっている。
 ざまあみろ。
 ほくそ笑みながら居間を通り抜けて自室へ戻る。実に気分がいい。夢見もよさそうだし今日はこのまま眠るとするか。ああ、でも、誰にも安眠を妨げられないようにきちんと部屋の周囲には結界を張っておかなければ。
 閉じた襖の向こうで彼が何か叫んでいるのを耳に留めながら、そう簡単にお前の思い通りになってたまるかと、マサオミはほのかに赤くなった頬を笑みで彩った。

 

 


 

実は今回の話、途中で大幅に書き換えています。

なんかね………途中であらぬ方向に行って戻ってこれなくなっちゃったから(苦笑)

最初の方に出てきた妖怪入りの掛け軸云々は書けたら書きたいなー、程度のお話です。

このふたりはもうずっと清い関係でいるがいいヨ。

 

こんなんですが、少しでも楽しんでいただければ嬉しく思います。

リクエストありがとうございましたー♪

 

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