※リクエストのお題:式神(闘神士)が活躍しているアクションもの。

※活躍というか、単に喋っているだけというか………。 ← オイ。

※例によってパラレル設定です。本編開始より三年ほど前だとお考えくだせえ。

 

 

 

 

「かーっとばせー! よーしかわ!」
「負けんなよー!!」
 カウントは残りひとつ。
 真夏の暑い陽射しの下で歓声が飛び交う。学校対抗でもないし甲子園で開く高校野球でもない。同級生たちが集まっての何気ない野球の試合。場所だってただの空き地だ。夏休みに入って未だ数日、終わらぬ宿題に頭を悩ませるのはまだまだ先のこと。折角の長い休みなのだから皆と一緒にゆっくり遊び倒したっていい。
 ギラギラと強い光を受けて影が地面に色濃く焼きついている。バッターボックスに立ったヤクモは汗の滲んできた掌でバットを握り直した。相手ピッチャーは中二にして野球部のエースを務める強敵だ。自然、仲間の応援にも熱が篭もる。リクがこの場にいないのが残念だ。弟は友人の家に遊びに行っている。流石に、中二にもなって交友関係に口を出そうとは思わない。………一応。
「ヤクモー、頑張ってー!」
「打たなきゃ承知しないからね!」
 バックネット裏で見学しているヒトハとナナの声も聞こえてきた。
 それに混じって。
「きゃーっ! やっだあ、伝説様ったら素敵! カッコいい! サインして! 横顔の凛々しさがたまんない!!」
 雑音まで聞こえてきて自然とヤクモのこめかみがひくついた。
 クソ忌々しい声は何故かいつでも一番に耳に届く。
 合間を縫ってちらりと視線を送れば、空き地脇の土管に腰掛けた同級生がへらへらと笑っていた。相変わらず緊張感のないヤツだ。ヒトハたちの声が純粋な応援の気持ちが篭もったものだとすれば奴のは多分にからかいを含んだものである。実に腹立たしい。
 振り切るように視線を正面のピッチャーへと戻した。
 相手が大きく振りかぶる。バットを握る手に力を篭める。瞬間。
「打ってえ―――、ヤっくん! アタシを甲子園に連れてって!!」
「―――っ!」
 とんでもない罵声に思わず手が滑った。
 そして。
「あー………」
「あらら」
 周囲から大きな溜息と間抜けな声が零れる。狙いを外したバットはボールを見当違いの方向へ運んでいた。空き地の傍に控える小高い丘は普段から誰も近づかない胡散臭い場所である。
 当たりだけならホームラン級でも指定範囲内に入っていなければ意味がない。試合時間を短縮するためにファウルで粘ることは許されていない。結果は、「アウト」。
 失敗の主な要因たる同級生が軽く口笛を吹いた。
「いやー、見事な一発だったな! 例えファウルでも一発は一発だな!」
「マサオミ!」
 お前がヘンなこと言うからタイミングが狂ったんだろ! と手にしたバットで殴る素振りを見せても相手はカラカラと笑うばかりで。
「だってまさかあんな一言で驚くなんてさあ。お前、知らないの? プロゴルファーは取材陣のシャッターの音で集中が途切れたからって何も文句は言わないんだぜ」
「お前の罵詈雑言をカメラのシャッター音と一緒にするな」
「ひっでぇ! 一生懸命、応援したのにっ!」
 泣いちゃうから! とわざとらしく目元を手で拭う阿呆の行動など気にはしない。
 向こうもヤクモが反応しないことぐらい理解しているのだろう。あっさり泣き真似をやめると土管から飛び降りた。
「―――ま。何にせよ、ファウルボールは回収しといた方がいいよな。あれって学校の備品だろ? ちょいと行ってくらあ」
「待て。オレも行く」
「いいのかよ。探しに行ってる内にチェンジしちまうんじゃねえの」
 友人の尤もな問いには「すぐ帰って来ればいいんだ」と答えた。そもそも打ったのは自分である。
「面倒くさい性格ー」
「お前にだけは言われたくない」
 少し席を外すと仲間に告げて、もしも順番が来たら飛ばしておいてくれと頼んだ。ふと、自分が探しに行く代わりに、いつも見学してばかりのマサオミを強制参加させてみたらいいのではと思いついたが、それでは肝心のマサオミのプレイを自分が見ることができないのでやっぱり提案しないでおいた。
 ボールが飛んだ場所は小高い丘ではあるが一見すれば森である。何処かの会社の私有地らしく金網が張ってあるが、ぼろぼろに引き倒されて碌な手入れもされていないために自由に出入りができる。なのに、誰も此処を遊び場に選ばないのは単純に不気味だからだ。生い茂った木々の葉のお陰で真昼でも薄暗いし、夏場でも冬場でも空気が湿っているし、何より妙に気分が悪くなる。以前に幼いリクがこの丘に近づいて急に泣き出して以来、何となくヤクモ自身も寄り付かなくなっていた。
 よりにもよって、こんな所にボールを飛ばすなんて………。
 やっぱりマサオミが悪い。あいつがヘンな掛け声かけなければ絶対ホームランになってたんだ。
 口元をへの字に曲げながらきょろきょろと辺りを見回して白球を探した。堆く積もった落ち葉と草の間には何も見当たらない。
「なーなー、ヤクモ。そういや課題図書ってもうやったか?」
「まだだ。どうせ今は皆に借りられてるだろうし」
「そうか? 意外と今の方が空いてるんじゃないかって気がするんだよなー。こういうのって駆け込みが多そうじゃん。だからさ、今度オレの分も借りて来てくれよ」
 足元の草を掻き分けたり、上空の葉を透かし見たり、木々の枝を揺らしてみたり。
「なに勝手なこと抜かしてるんだ。自分で借りろ。もしかして、まだ図書カード作ってないのか?」
「めんどくさい」
「少しは真面目にやれ! ………今度、図書館で作り方教えてやるから」
「いらねえってば」
「いらないことはないだろ」
 わいわいとふたりで語りながらどんどん奥へと進んでいく。まだ、ボールは見つからない。
「おっ!」
 マサオミが急に声を上げてひょいひょいと木の足元に蹲る。同時、ヤクモもやや離れた場所に目的の物を見い出して駆け寄って。
 木々の葉に埋もれかかっていた白い球体を拾ってから振り返る。
「あったぞ、マサオミ!」
「え? こっちにもあるぞ」
 立ち上がった同級生の手には確かに白いボールが握られていた。自分たちより前に誰かが此処へボールを投げ込んでしまい、回収できずに諦めたのだろうか。
 互いに首を傾げながら近づいて、掌の上の物を見せ合う。
 どちらも同じ野球用のボールだ。
「違いなんてわかんないよなー。落し物ってほどでもないしよ」
 参ったなあとマサオミが頬を掻く。何処かに細かな違いぐらいあるんじゃないかとヤクモがじっと目を凝らした時。
「………?」

 ぐにゃり

 急に、視界が歪んで。
 襲ってきた悪寒と既視感に、手にしたものは「ただのボール」ではないと思い至る。
「しまっ………!」
 白い球体がグネグネと曲がり細い糸の塊と化す。巻きついてくるそれを振り落とせず、傍らの友人に慌てて視線を転じるも彼もまた突如変じた手の中の物体に動揺を隠せずに。
 無事な方の手をマサオミに伸ばすより先に、ぷつり、視界と意識が途切れた。

 


望む世界に


 

 ―――なんだろう。
 すごく、あたたかな空気に包まれている気がする。陽射しがやわらかく、風は優しく、笑い声が耳元を掠めていく。
 ゆっくりと目を開くと、自宅の縁側に寝転がっていた。
 庭で皆が落ち葉焚きをしている。近所迷惑になるからと最近は許されていない行為だが、偶にはいいんじゃないかなと、時に父親がこっそりと風の流れを動かしているのを知っている。
 穏やかな笑みと共に皆がこちらを振り向いた。
『起きたのかい、ヤクモ』
『兄さん、こっちです!』
『相変わらず寝坊助なのね、ヤクモ』
 あれ………?
 ―――母さんが、いる。
 もう何年も前に亡くなった母が何故かリクと手を繋いで立っている。長い黒髪を風に靡かせ、父の隣で、紫の瞳を慈愛の色に染めながら、佇んでいる。身に着けた白い巫女装束がひどく似合っていた。
 少し視線を転じればイヅナとナヅナが手招きをしていた。
『何をしているのですか、ヤクモ様』
『ご両親も待っていらっしゃいますよ』
 ふたりだけではなかった。
 リクの友人であるモモも、幼馴染のヒトハも、ナナを始めとしたクラスメートたちも、揃ってヤクモのことを待っていた。式神たちも傍らの木々の上で笑っていた。
 傍らに落ちた影に面を上げて、驚く。
 会いたいと望みながらも叶わなかった人物が穏やかに微笑んでいた。自然と言葉が口をつく。
 ―――ツクヨミ、さん………
『ヤクモ君』
 耳に届く声音は以前と変わらぬ優しさを滲ませている。
 見ているだけで泣きたくなるような懐かしさに、座り込んでいた縁側から腰を上げる。視線はまだまだ相手の方が上だ。追いつくにはあと何年必要だろうとちらりと考える。
 共に戦った闘神士が笑いながら手を差し伸べる。
『さあ、行こう。皆まっているよ』
 喜びを隠さずに頷き、その手を取ろうとして。
 ―――………。
 ふと、襲ってきた違和感に動きを止めた。どうしたんだい? 何か気になることでも、そう笑いかけてくる表情は記憶通りなのに。
 改めて辺りを見回す。
 家族がいる、友人がいる、同級生たちがいる、式神がいる、ツクヨミだって。
 けれど。
『―――違う』
『ヤクモ君?』
 零れた呟きにグラリ、世界が「揺らいだ」。
『違う………!』
 伸ばした手を引っ込め、額に手を当て頭を振る。周囲から疑惑の視線が突き刺さっても構わない。
 違う。違う。違う。
 これは、こんな『世界』は違う。
 何回確認したって何回見直したって何回瞬きしてみたって変わらない景色。でも、認めない。これが『現実』だなんて認めない。
 だって、此処には。

「―――違う!!」

 自らの叫び声で目が覚めた。




 飛び起きた瞬間、周囲のあまりの暗さに吃驚した。実はまだ目覚めてないんじゃないかと疑ったほどだ。
 だが、身体の下に感じた生暖かい感触と友人の声によってそれはすぐに否定された。
「よ。起きたか」
「―――マサオミ、か?」
「待ってろ。いま、明るくすっから」
 微かに何かを振る音がして、周囲がぼんやりと照らし出された。マサオミが握り締めた闘神符に<灯>の字が浮いている。いつ何時、緊急事態に巻き込まれてもいいように神操機と闘神符を携えているのは闘神士の基本である。ヤクモも懐から符を取り出して同じように灯と化した。
 ふたり分の光に照らし出されて周囲の景色が浮き上がる。改めて辺りを見回した。
「何処だ、此処」
「うーん………オレも今し方目覚めたばっかなんだよな。けど、」
 マサオミが足元をグニグニと踏みつける。妙にやわらかく滑った感触を伝える「地面」からは異臭さえ漂っているようだ。
 薄暗い闇の中でマサオミが苦笑した。
「なーんか面倒くさそうだよなー。しくじったな。たぶんコイツ、『水蜘蛛』だ」
「蜘蛛?」
「伏魔殿で見かけたことがある。時々地上に這い出ては獲物が求めてるモノをちらつかせて『巣』に絡め取るのさ。オレたちの場合はボールだったって訳だ。やっすいよなー」
 友人の声を聞きながらヤクモは口元に手を当てた。
 普段のマサオミは信用ならない。いつもふざけているし、ヒトのことおちょくってばかりだし、言動も行動も何処をどう信じればいいんだと言いたいぐらいだ。
 しかし、伏魔殿や妖怪関係の知識については一目おいている。妖怪が相手となると嘘や冗談を告げている場合ではないと知っているのかきちんとした情報を伝えてくる。神流としても監視対象である天流が妖怪にやられては困るということか。
「焼き払えばいいんじゃないのか」
「コイツは再生能力が高いし、獲物を捕らえておく『腹』と『本体』は離れた場所にいることが多い。必死こいて『腹』ン中で焼いてもすぐ外側に新しい『腹』を作られて終わりさ。だからとっとと『本体』―――『頭』を叩くしかない」
「伏魔殿に引きずり込まれたんだとしたらオレたちの力も制限されているだろうな。相手の結界内じゃ本調子とは行かない。―――ところで、お前、此処が『腹』だっつったか?」
「ああ」
「………ってことは、つまり―――」
「そのつまり、さ」
 性質の悪い笑みを浮かべてマサオミがその場で足踏みをする。靴の裏側にはねっとりと粘着性の糸が尾を引いていた。なまあたたかい感触と僅かな異臭も推論を補強する。
 マサオミが肩を竦めて同意を示す。
「蜘蛛に食べられんのは御免だぜ」
 獲物を内に取り込んで消化するだけあって中からの衝撃には強い。下手に攻撃して「胃袋」を活性化させ、強烈な消化液を出される事態も考え物だ。流石にあと数分で溶かされることはないと願いたいが。
 す、と視線を強くしてヤクモが独りごちた。
「―――外に出て叩くしかないか」
「やるか? たぶん、ひとひとりが通れるほどの穴は開けられない」
 幸先の悪いことを暢気な表情で呟きながらも同意を示すように神流が符を掲げる。
 ふたりで並び立ち、適当と思われる場所に精神を集中し、符を放つ。
「<破>!!」
 言霊が重なり、鈍い衝撃が地響きとなって伝わる。微かに聞こえる「誰か」の悲鳴。打ち破った「胃壁」の向こうから覗く世界は予想通りに赤黒い空を晒していた。
 即座に閉じようとする穴に素早く符を滑り込ませて。
 成り行きを見詰めるヤクモの傍ら、マサオミが<壁>の力を篭めた符を足元に何枚か投げた。伏魔殿、特に敵の結界の内とあらば力の消耗も激しい。だが、ふたりで交互に力を使えば多少の時間は稼げるはず。
 内と外、両方に精神を集中しながらの戦いとなる。だが、不思議なほどにヤクモは心配していなかった。
「―――後はあいつらに任せる、か」
「だな」
 この靴買ったばっかりだから溶け切る前には終わらせたいんだよな、とマサオミが付け足した。




 ふわり、ふわり、「外」へ舞い出た闘神符が伏魔殿特有の生暖かい風に煽られて大きく揺れる。
 遠ざかったり近づいたり、適度な距離を保ちながら重力に従い落ちていった二枚の符は、地面につく直前で動きを止めた。
 ゆらり
 あたたかな空気が符を取り囲む。
 ふるふると震えながら徐々に光を増していった闘神符は、やがて互いに「ひとつ」の姿を描き出した。影はないながらも動きのある姿を、重さはないながらも動くための手足を、寸分の狂いもなく浮かび上がらせて「現実」と成さしめる。
 ぱしゃり
 ひたひたと水の浸る地面に足を下ろして「彼」は呟いた。
『まったく………マサオミたちにも困ったモンだね』
『その意見には同意するでおじゃる』
 肩を竦めてキバチヨが嘆息すれば、サネマロも己が武器である槍を地面に突き刺し、その上で腕組みしながら答えとした。
 一定の腕を持つ闘神士が成せる技。
 式神に己の「目」や「耳」の一部を宿して同じものを「視」たり「聴」いたりすることができる。今回、歳若いふたりが取った手段はそれを少しだけ改変したものだ。先に闘神符に式神の意志と能力を宿し、自分たちの思考をも上乗せする。確かに、こうすれば式神も契約主の声を直に聞きながら行動することができる。
 しかし。
『この身体で技を出すのはきっついねえ。大技はできないよ、オーケイ? マサオミ』
(わかってるさ)
『某たちを長く召還しておくのは勧められぬでおじゃる。闘神士の身体にかかる負担が大きすぎる故』
(頼りにしてる、サネマロ)
 水蜘蛛と思われるモノの「内側」で両闘神士が並び立ち、また、式神たちも同じ方法で仮初の身を与えられているが故に、双方の交わす言葉はイヤホンでも装着しているが如く鮮明であった。
 改めて周囲の様子を確認する。
 場所は大方の予想通りに伏魔殿であった。空の色と流れる空気がそれを証明している。契約主たちは大きな木の根っこの塊のようなものに囚われていた。表面は毒々しい葉脈―――もとい血管―――で覆われ、地面から生えたそれが宙に向かって背を伸ばし、途中でぽっこりと大きな球を作り上げている。球体の表面を覆い尽くした葉脈は紛れもなく蜘蛛の「血管」だろう。
『ほ。ほ。勢いに任せて炎で焼き払わずに良かったでおじゃるな。燃ゆる水でおじゃるよ』
『符やタカマルの力で燃やした瞬間に大炎上! ってか。怖いねえ』
 某を召還してくださったのは果てさて偶然か必然かと笑いながら、サネマロがひょいひょいと器用にも槍の先端のみでトントンと地面を移動する。
 キバチヨも聊か眉を顰めながらふわりと身体を中空へと舞い上がらせた。先刻から感じていたイヤな匂いの原因はこれだ。辺り一体が燃ゆる水、即ち、石油で満たされている。地面から滲み出てきた黒い液体がひたひたと薄く地面を覆っていた。石油の供給で騒いでいる地上の人間たちが見かけたら新しい油田だと我先に飛びつきそうな光景である。
(ああ、だからか)
(何がだ、マサオミ)
(水蜘蛛って本来、そんなには悪さしないはずなんだ。でも石油が傍にあったんなら話は別だ。酔ってんだよ、こいつ)
(猫にマタタビみたいなものか?)
(そうそう)
 でなきゃヒトの子を獲物にするだなんて思い切った真似をするはずもない。普段は犬猫サイズの獲物で我慢しているのだから。
 式神の「目」を通じて確認した限りでは、ふたりを捉えている「胃袋」はかなりのでかさだ。余程の大物には違いなく、ましてや、囚われてしまった以上は見逃して逃げることも難しかった。この水蜘蛛の「巣」があの小高い丘に通じていたならば、いずれ、他の子供が巻き込まれないとも限らないから。
 葉脈の先を辿れば「本体」には辿り着けよう。だが、進む先は慎重に選ばなければならなかった。
(水蜘蛛は分身を一杯つれてる。ダミーってヤツだな。倒したと思ったら単なる偽者だったってことにもなりかねない)
(血管みたいなのの先を辿れば必ず「本体」にぶち当たるって訳でもないのか………)
(いまのこいつは酔っ払いみたいなもんだから? 普段と比べて「本体」を発見しづらいってこたあないと思うぜ)
『ほ。ほ。ならばヤクモ殿。力をお貸しいただきたい』
 ふたりの会話を聞いていたサネマロがくるりと槍の上で一回転し、逆さま立ちで掌を地面へつける。
『探査の術でおじゃる。この状況下では精度が落ちるとも、凡その方角さえ分かれば問題ないでおじゃる』
(―――わかった)
 ヤクモが精神を集中しているのが伝わる。
 同時、サネマロも目を閉じて神経を張り巡らせる。その間、マサオミとキバチヨは邪魔をしないように無言を通していた。事、相手を探し出す術については天流に一日の長がある。弟の無事を案ずるが故に彼はこの技術を身に着けたのだ。見上げた根性と言えよう。
 しばしの間を置いて、サネマロが目を開けた。掌付近に漂っていた一本の葉脈がぼんやりと光を放っている。あれが「本体」へ通じる道だと判断したらしい。
『ならば行こうか、青龍の』
『付いて来れるかな、榎の』
 にんまりと笑いあって一時に大地と空を蹴った。
 キバチヨは空から、サネマロは地上から、目的地へと向かう。伏魔殿の景色は何処まで行っても果てない平原だ。所々に生える潅木は石油に浸されて腐りかかっている。広大な油田は何処から湧き出たものかと今更ながらに伏魔殿の不思議さに思いを馳せぬでもない。
 前方に黒い霞の如きものがぼんやりとかかった。
(キバチヨ!)
『わかってる、マサオミ! でも、頼むから力は使わないでくれよ!』
(サネマロ、五分の力で行け。まだ先は長い)
『五分と言わず、三分で充分でおじゃる!』
 ひらり、キバチヨが矛を回し、くるり、サネマロが槍を構える。
 蚊か蚋の集まりの如く見えていた霞も近づけば正体が見えてくる。伏魔殿の空より、大地より、中より生じたる<陰>の気の塊。
 ―――妖。
 彼らにとっては出会うすべてが「敵」である。
 妖同士であっても、人間相手でも、無論、式神相手でも。ある程度の知性を有するほどの妖怪になって初めて「相手を選ぶ」行為ができるのだ。
『水蜘蛛は、本来、その辺を弁えてるはずなんだけどねっ!!』
『悪酔いはイカンでおじゃるな!』
 矛で敵を薙ぎ払い、槍で敵を突き刺しながら只管に地を這う一本の線を追いかける。
 敵を押し退けた後に宙へと跳躍し、キバチヨは僅かに眉を顰めた。どうやら此処は少々特殊な環境と言えそうだ。
『榎の。下手に斬ったり刺したりしないことをお勧めするぜ!』
『ほ。了解、了解』
 相手も心得たものでひとつ笑みを深くした後は敵を槍の柄で押し退けたり叩いたりする動作へ変える。
 大地に広がる石油は妖怪どもの身体まで侵食しているようだ。斬ったり、突いたりする度に刃に油が纏わりつく。切れ味が落ちる。未だ「本体」を見つけられてもいないのに鈍ら矛と鈍ら槍を武器として行く訳には行かなかった。
 闘神符があれば事は簡単に運ぶのにと考えたところで詮方もない。術者自身がこの場にいない。
(キバチヨ、サネマロを抱えて飛ぶことはできないか?)
『そーしてやりたいのは山々だけどねっ。結構数が多いんだな、これが!』
『気遣いは無用でおじゃるよ、マサオミ殿。身の軽さはましらの専売特許でおじゃる!』
 器用に槍の柄を時に地に突き、時に敵に叩き込み、返した刃の腹で追い払う。襲い掛かろうとした妖の一体をキバチヨが空からの一撃で吹き飛ばし、その足に掴みかかろうとした一体をサネマロが蹴り倒す。
 可能な限りの速さで移動しながら根気良く敵を振り払う。連中は対象さえあれば追いかけてくる程度の本能しか持ち合わせていない。一定距離、離れたならばもはや狙われることもないのだ。
 走り続ける前方にぼんやりと小高い丘のようなものが見えた。
『榎の!』
『頼むでおじゃる!』
 伸ばした手と伸ばされた手が中空でしっかと掴み合わされる。
 グン! とキバチヨが宙を強く蹴った。一気に妖怪たちを引き離しにかかる。最後まで追い縋ろうとした一体の横っ面にサネマロの矛が叩き込まれ、甲高い悲鳴と共に地上に落ちて行った。
 充分以上の高度を得、やや距離を置いて丘の天辺へと舞い降りる。奇しくもそこは地上でヤクモとマサオミがボールを探していた丘と同じような地形をしていた。
 闘神符の持ち主からも離れたためか、ヤクモの声は少し遠く感じられた。
(どうにか振り切ったな。急ごしらえのコンビにしては上出来だ)
『ほ。ほ。もとのおふたりの息が合っているからでおじゃる』
(―――は?)
『日頃から一緒に訓練しているお陰でヤクモ殿とマサオミ殿の息はピッタリでおじゃる。故にこちらも互いの呼吸が読みやすいのでおじゃる』
 学問の式神が告げた言葉は純粋な感想であり、事実であったろう。
 しかして受け入れる側はそこまで純粋ではないために思い切り嫌そうな声が返ってきた。
(馬鹿を言うな、サネマロ。この阿呆とコンビなんか組んだ覚えはない)
(うっわあ、ひっで! いつもいつもヒトを修行の場に引きずり出しておいてなんつー言い様!?)
(あくまでも修行だろ! コンビなんか組んだ覚えはない!)
(じゃあ<鏡合わせの印>の練習台に使うんじゃねえっつの!)
『ほ。ほ。仲がよいことでおじゃる』
 争い始めてしまった主たちの声を受け流してサネマロが笑う。同様に、彼らの遣り取りに耳を傾けていたキバチヨも苦笑交じりに肩を竦めた。
『榎の、あんまりからかわないでくれよ! あのふたりが本気で喧嘩を始めたら周囲なんかまったく見えなくなるんだぜ?』
『緊張の一戦の前の息抜きでおじゃる』
 にぃ、と笑った相手の意図も疾うに理解している。
 確かにちょっとは息抜きがしてみたくなるよなあと、小高い丘の向こうに広がる光景に今一度キバチヨは視線を転じた。
 途端、ヤクモとマサオミが口を噤む。彼らもまた「視」ているのだ―――式神の「目」を通じて。
 黒々とした生臭い水で埋め尽くされた湿原が延々と続いている。ふたりが辿ってきた一本の線は細々と眼下で屹立する「もの」へと続き、他からも集まってきた線と集約する。
 湿原の真ん中に突っ立つ物体は一見して巨大な磯巾着のようにも、崩れかけた仙人掌のようにも見えた。それが生きたモノであることを証明する如く天辺にぽっかりと球体が取り付き、球体の側面には赤い複眼が炯炯と輝いている。
(突然変異にも程があるな………)
 ぽつりとマサオミの呟きが響いた。
 本来の「蜘蛛」はあんな外見ではないのだろう。それは、式神はもとより、伏魔殿の妖怪の生態に然程詳しくはないヤクモでさえも推測できることだった。「蜘蛛」と名付けられているからには地上の「蜘蛛」に近い外見をしているのだと考えるのが普通だ。けれどもいま彼らの眼前に佇む存在は、蜘蛛の名残と言えば長く伸びた複数の手足―――式神たちが辿ってきたものだ―――と、虫を連想させる複眼のみだ。
『それはともかく、だ』
 ひゅいん、とキバチヨが武器を構え直す。
『いずれにせよ、彼女に考え直して貰えないと全員揃って契約解除でお陀仏ってことだね』
『式神として生まれた以上は伏魔殿で命尽きるとも後悔はせぬが、ヤクモ殿とマサオミ殿がこの地に屍を晒すことは聊か認め難いでおじゃる』
 含み笑いを零しながらもサネマロの瞳は真剣なものだ。竹馬のように足の代わりとしていた槍の矛先を返し、しっかと自らの足で大地を支える。通りすがりの妖との戦いではない。ましてやいまは契約者の能力も、式神自身の能力も封じられた状態だ。全力でかからねばならなかった。
 姿を隠せる障害物さえないこの地形では不意打ちなど無理だ。
『行こうか、榎の』
『了解でおじゃる』
 ふわり、と浮き上がり。
 キバチヨが空を一蹴りする。
 サネマロが大地を強く蹴る。
 途端、式神の存在に気付いた水蜘蛛が赤い目をこちらへぎょろりと向けた。
 ビュン!!
 しなる鞭の如く襲い掛かってきた手足を矛と槍とで叩きつける。触れた刃の切っ先に一部が絡みつき、一部が黒ずんだ液体を撒き散らしながら散って行く。鼻につく匂い。間違いなく、「蜘蛛」の中には石油が取り込まれている。おそらくはその故の変異、その故の酩酊、その故の暴走。
 矛の先端についた黒い液体が粘性を保っているのを見てキバチヨが舌打ちする。襲い掛かってくる無数の手足は「蜘蛛」の糸でもある。切り落とせれば幸い、切り落とせなければ。
『武器を取られるのだけは御免被りたいね!』
『なかなかやりづらいでおじゃる!』
 サネマロがやわらかい身体を活かして敵の攻撃を潜り抜け、本体に迫る。赤い目を宿した「頭部」と思われる部分に叩き付けた槍の柄は、しかし、直前で複数の手足に阻まれた。
 そのままギリギリと押し合う。
『蜘蛛殿、蜘蛛殿。できれば其方の抱え込んだ人間を解放してほしいでおじゃる。其方が食するには少々、重たい食事でおじゃる………!』
『無駄だよ、いまのそいつに言葉なんか届きやしない!』
 普段なら「話せる」奴だけに残念だねえと零しながら、サネマロにかかずらっている間に隙が出来た背後へキバチヨが回り込む。
 刹那の一閃。
 だが、防がれる。素早さでは相手に負けると本能的に踏んだのか、蜘蛛は数多の手足を連ねることで壁と成したのだ。矛が深く壁へと食い込む。そのまま絡め取られそうになり、忌々しげにキバチヨは思い切り蹴りをかました。衝撃で矛は手足から解放され、サネマロもまた大きく後方へと距離を取る。
 敵を挟んだ状態でキバチヨとサネマロが向かい合う。蜘蛛は赤い複眼を蠢かせるばかりで何の意志も読み取らせない。故に、攻撃が何処から飛んでくるかも判断がしづらい。幸いにしてふたりとも素早さや身体の柔らかさを売りとする式神ではあったが、もし、ヤクモが他の式神を召還していたならばかなり苦労していたことだろう。
『ブリュネなら飛んで逃げることも可能でおじゃるがな!』
『逃げてばかりじゃ始まらないってぇの!』
 側面から槍で突き、背面から矛で叩く。
 一旦は衝撃に押されてひしゃげたかに見えた身体も、ほんの僅かな間を置いて元の大きさへと戻る。妖力に果てがない、と言うよりも。
(コイツ、周囲の油を使って身体を再生してるのか?)
 ヤクモの疑問を篭めた言葉が真実と思われた。
 あくまでも推測ではあるが、おそらく「彼女」の身体は本来、薄皮一枚程度の厚みしかないのだ。水風船の如く「中」に水を溜め込むことで頭部から腹から手足までをパンパンに膨らませている。敵の一撃を食らった時は自らひしゃげてみせることで被害を最小限にとどめ、即座に周囲の水分を使って体積を元通りにしているのだ。
 このままでは埒が明かない。闘神符は術者から離れれば離れるほど、時間が経てば経つほど効力が薄れてくる。自分たちの契約相手はどちらも我慢強い性質をしている。だからこそ、式神たちには何も悟らせまいと「腹」の中の状況を語りはしないけれど。
(………っ)
 時折り脳裏に走る漣が彼らが切羽詰った状況に置かれていることを暗示していた。
 闘神符を使ったところで、極端に気力の激しい伏魔殿、ましてや敵の「腹」という結界内においてすべての影響を遮断できるはずもない。シャツや靴の裏には疾うに穴が開いているに違いない。
 だが。
『焦りは禁物でおじゃるよ、青龍の』
『言われるまでもないさ』
 全身を油塗れにしながらも式神たちは揃って笑みを刻んだ。
 黒い液体に塗れて重たさを増した各々の武器を持ち上げる。敵に動きはない。深く、息を吐いて。
 跳躍した。
『震、兌、離、兌!!』
 技は出なくともキバチヨが同じ動きを繰り出す。四方にほぼ同時攻撃を食らった水蜘蛛が傾ぐ。
 瞬間に襲い来る手足を掻い潜ったサネマロが敵の足元で大きく水平に槍を薙いだ。見上げるほどの巨体が更に揺らぐ。
 宙から舞い降りたキバチヨが思い切りよく矛を横から突き出した。
『震、離、震―――離!!』
 鈍い音を立てて、水蜘蛛の身体が完全に大地から切り離される。勢いに任せ、空へ吹き飛び。
(サネマロ!!)
『承知でおじゃる!』
 主の言に跳躍し、追いついたサネマロがガッシと本体にしがみつく。
 直後、身体が白く輝き、見る間に輪郭を緩めた式神が姿を消す。闘神符のみが残る。
 キバチヨの口から「ヤクモ」の声が流れた。

『<浄>!!』

 眩い光が辺りに満ち溢れ、黒く染まっていた視界を白に塗り替える。
 白で埋め尽くされた世界の中、水蜘蛛が大きく痙攣し、身悶えた。すかさずキバチヨの矛が、一閃。

 ―――………っ!

 声なき声を上げて水蜘蛛の身体が四散した。はらはらと紙吹雪の如く砕けた身が舞い落ちる。空は赤く、雲は黒くとも、大地だけは清浄な水へと戻された世界の中で。
 水音を立ててキバチヨが着地する。傍らに、再び像を結んだサネマロも足をついた。
 自分たちの役目は無事終了だ。本来ならばすぐに呼び戻してもらいたいところではあった、が。
(―――馬鹿か! 馬鹿だろ、お前! 召還、浄化、召還の連続攻撃ってどんな無茶だ! 伝説って呼ばれてるからって調子こいてんじゃねえ!!)
(うるさい! お前こそ何をやってるんだ、足がぼろぼろじゃないか!!)
 ………少し、時間がかかりそうだった。
『―――やれやれ』
 キバチヨは、目の前に浮かび上がった清廉な湖へと身を投じる。
『青龍の!?』
『気分転換さ! 幾ら本体でないとは言っても油塗れじゃ気持ち悪いだろ!』
 もともと水蜘蛛が住んでいたのはこんな世界だったのかもしれない。決して深くはないし、広くもないけれど、生きて行くには充分なだけの水を湛えた湿地帯。
 ひたひたと背中を水につけてぼんやりと空を見上げる。これで空の色が青かったならば地上の風景となんら変わりはないものを。
 契約者たちの喧騒もいまは遠い。言い争いに熱中する余りに「接続」が切れ掛かっている。それと意識してか、釣られるように水中に足先のみを浸していたもうひとりの式神が何気なく呟いた。
『………青龍の』
『なんだい、榎の』
『前々から気になっていたのでおじゃるが―――主の契約相手は、あれでよいのでおじゃるか?』
『何のことだか分からないね』
 目を閉じて、口角を上げる。
 向こうとてこちらが知らぬ存ぜぬを決め込んでいるのは承知の上。互いの主には聞こえないと理解しているからこその他愛ない愚痴であり、呟きである。
『ブリュネたちともよく話しているのでおじゃる。この先どうなってしまうのかと。されども所詮我らは式神、親には逆らえぬでおじゃる』
『―――こっちの身上を心配してくれるのはいいけど、そっちはそっちで問題アリアリじゃないか。だったら先ずはそれを心配した方がいいんじゃないかい? 十五の年月が過ぎる前にさ』
 核心を突いた話が出来ないのは互いに言葉を封じられているからだ。我を通して「言霊」をもって語れば記憶すらも封じられかねない。流石にそれは勘弁してもらいたいと思う。例え手出しができずとも、手助けもできずとも、最後まで契約相手の傍に居たいと願うのが式神なれば。
 マサオミは知識も記憶も有しているが、未だ事実を知らない。
 ヤクモは知識も記憶も事実も<彼>の手によって封じられている。
『思い出したら、どうなるのかね………』
 何気ないキバチヨの囁きが吹き付けてきたなまぬるい風に流される。
 それは、誰にも読めない未来の出来事の話であった。




 夏の日差しは相変わらず。ジリジリと地面に焼け付く己が影を見詰めながら、ヤクモは額の汗を拭った。遠くから歓声が聞こえてくる。きっと、皆、また野球に精を出しているのだろう。
 不貞腐れた表情で歩く少年の右手には新聞紙が、左手には大きなビニール袋が握られていた。目的地は他流派に属する闘神士の友人宅である。携帯電話のように便利なツールは持っていない。向こうは家電すら引いていない。だからいちいち直接尋ねていく羽目になるんだと、「相手」を探すための能力は敢えて使わずに彼は歩き続ける。
 崩れかかったボロアパートの扉を開き、軋む階段をのぼって、通い慣れた立て付けの悪い戸を叩く。
「マサオミ。………いないのか?」
 無礼を承知でドアノブを捻れば案の定、何の抵抗もなく開いた扉に密やかな溜息を吐く。部屋の中はまるで釜茹でのような暑さだった。窓から差し込む日差しが室内に熱を貯め、施錠はしていないくせにきっちりと締められている戸と窓のお陰で篭もった熱が外に出て行くこともない。風も流れない。舌打ちひとつ、符を振ることで熱を取り払い。
 どうにか稼動しているポンコツ冷蔵庫を開けて苦虫を噛み潰したような表情になる。
「また、こんな栄養バランスの悪いものを………!」
 冷蔵庫の中身は日付変更線間近の牛肉としなびた野菜と調味料が少々。どうやって夏場を食い繋いでいるのか心底疑問になるほどだ。ビニール袋の中身―――レタスとかきゅうりとか桃とか葡萄とか―――を、問答無用で叩き込む。別に、マサオミのために持ってきた訳じゃない。モンジュに頼まれたからだ。本当に、それだけだ。あとはついでに、ちょっと、尋ねてみたいことがあっただけだ。
 ひととおりの食材を冷蔵庫に詰め込んで、ヤクモは少し躊躇した。傍らのビニール袋はまだ少し膨らんでいる。
「………モノで詫びるつもりはないぞ」
 不機嫌そうに呟いてビニール袋から運動靴を取り出した。安物だ。スーパーで二束三文で購入したものである。でも、サイズは間違ってないはずだ。あいつの足のサイズと自分の足のサイズはほとんど同じなんだから。
 マサオミはしょっちゅう「お前は馬鹿だ」と言ってくるが、向こうだって相当の馬鹿に違いないとヤクモは思っている。確かに、先日の水蜘蛛との一件で、闘神符ごしに操る式神を更に経由して<浄化>の術を行うなんてやたら制御の難しい阿呆みたいに気力を消費する真似をしたのは自分である。
 けれども、瞬間的に無防備になったヤクモがよろめいて水蜘蛛の胃液によって足を溶かされんとした時、横抱きにして掬い上げたのはマサオミである。当然、ヤクモが負うはずだった怪我はマサオミが負うこととなった。靴は跡形もない、靴下もボロボロ、足の裏の腫れ具合なんて「ひどい」と口で言うことすら憚られる有様で。おまけに、治療は拒否して勝手に帰るし。
「買ったばかりだったらしいしな。弁償するだけだ」
 ぶつぶつと呟きながら玄関に靴を置く。新品の靴は全体的に古ぼけた部屋の中で妙に浮いていた。
 上がりかまちに座り込み、持って来た新聞を開く。わざわざマサオミの家まで来たのは気になる記事があったからだ。親に頼まれたのも勿論だが、少し、気になることが書かれていたから。靴のことも怪我のことも関係ない。あっちは全然関係ない。
 指先で記事のタイトルをなぞれば自然と少年の目が迷いに揺れた。
 ―――『市内の丘に産業廃棄物』。
 奇しくもそれは、自分たちがボールを捜して迷い込んだ例の丘であった。地上と伏魔殿は無関係なようで密接に絡み合っている。もし件の水蜘蛛が、伏魔殿に「石油」として投影された「産業廃棄物」のために酩酊したのであれば―――………。
 抱え込んだ膝の上に顎を乗せて考え込む。
 あの水蜘蛛も、また、「被害者」と言えたのだろうかと。
 同時に、あの時見せられた「夢」にはどんな意味があったのだろうかと。
 会いたくても会うことのできないツクヨミが其処に居た以上、獲物にとって「都合のいい夢」を見せて、捉えておくためのものだったことは想像に難くない。そんな考えに僅かに引っ掛かりを覚えた。本当にそれが「都合のいい夢」であるならば、ヤクモの望むものすべてがあの世界に存在していなければならないのだが。
 勿論、大切なものはすべてあった。
 家族も、幼馴染も、友人も、尊敬するひとも、式神たちも、みんな揃っていた。

 ただひとり―――マサオミを除いて。

 それが故に抱いた違和感のお陰で「戻って」来られただなんて決して決して思わないけれど。
「………遅いんだよ」
 拗ねた表情で唇を尖がらせ、神流のもとで怪我の治療でもしているのかもしれないと考えて。
 ―――自分が治してやれれば話は早いのにと思った。
 ―――自分以外の誰かが奴の傷を癒すのは嫌だと感じた。
 新しい靴と一緒に玄関に座り込みながら、ヤクモは、もう少しだけ家主の帰宅を待つことにした。




 ひたひたと音を立てながら歩く。水浸しの湿地帯を、傷ひとつない裸足のままで歩いて行く。ズボンの裾を捲り上げてはいるものの跳ね返った泥が幾つも染みを作っていた。
 でも、彼は、気にしない。
 大きく抉れた一角に来ると、彼は両手を地面に突っ込んで泥をかき回しはじめた。汚れが服についても、手についても、顔についても気にすることなく。
 無言で作業を続けること数分、ぴたりと少年の動きが止まる。
 大事そうに持ち上げた掌の中には米粒ほどの大きさの「何か」が泳いでいた。
「やっぱ………生きてたか。水蜘蛛の生命力ってのはすげえからな」
 確認しに来てよかったとマサオミは顔を綻ばせる。
「なあ、お前。もう二度と人間に手出ししないって誓えるなら、安全な場所へ連れてってやるぜ? 此処は地上との繋がりが強すぎる。向こうじゃ今度は廃棄物撤去のための工事が始まるらしいし、ますます喧しくなること請け合いだぜ」
「………」
「そうか! よし、わかった。一番確実な場所を選んでやるから任せとけ」
 のんびりと微笑んで立ち上がる。しかし、次の瞬間には凍て付いた瞳を晒し、無感動に水蜘蛛が乗ったままの掌を真横へと伸ばした。
 ふわり
 白いワンピースを纏った少女が傍らに舞い降りる。少女が儚げな眼差しを彼に向けても、彼が、振り返ることはない。厭うているからだ。<彼女>を。<彼女>から連想される人物を。付随して思い出される過去の記憶の数々を。
「頼む」
『………ガシン』
「―――わかってる。オレの家に『来たい』んだろ。好きにしろ」
『………』
 微笑んだ少女が彼の掌から水蜘蛛の幼生を受け取って、来た時と同じように忽然と姿を消した。
 一連の流れを神操機の中で見ていたキバチヨは密やかな溜息を吐く。
 マサオミは別に仏でもなければ菩薩でもない。無闇に妖怪を殺すことこそ嫌っているが、倒した以上は振り返ることなどしない主義である。
 だが、今回は違った。自分たちの倒した相手がもしかしたら地上の騒動の影響を受けていたのかもしれないと知り、罪悪感を擽られた―――と、言うよりは、「罪悪感を抱くであろう」友人のために、先んじて動いたのだ。
 水蜘蛛は再生能力が高い。きっとまた復活していると嘯くことは容易い。だが、語る言葉に説得力を持たせるためには実際に彼自身の目で事実を見届けておく必要があった。
 結果は良かったが、弱りきった水蜘蛛を守りつつ、伏魔殿内の安全な場所まで連れて行くには、この場の『主』である<彼女>の手を借りるより他はなかった。マサオミは<彼女>にひとつの貸しを作る。闘神機を用いての契約とは、『神』との遣り取りとは、そういうものだ。
『―――マサオミ。これからどうする?』
「そうだな。水蜘蛛のことはあれで大丈夫だろうし、帰るか」
 怪我も治してもらったことだしと呟く彼は、一応感謝してはいるのだろう。憎みきってしまえばいいものを、そうできないから結局は囚われることになる。
 誰にも気付かれぬようキバチヨは神操機の中で息を潜め、目を閉じて、祈る。
 ―――自分は知っている。彼が、水蜘蛛にどんな「夢」を見せられたのかを。
 性根がどうであれ、生態がどうであれ、水蜘蛛とて所詮は妖の一種。捉えた獲物には「絶望」を誘う夢を見せる。ひどく恐ろしい光景を、姿を、未来を見せて、獲物が戦慄している内に恐怖に染まった魂と肉体を食らうのだ。
 同じ罠にかかった吉川ヤクモがどのような光景を見せられたかは知らないが、マサオミがどんな光景を見たのかは察して余りある。相手の罠にかかる気配すら見せず、即座に「夢」を打ち破ることができたのは、畢竟、彼にとっての「絶望」とは常態であるからに他ならない。

 即ち、彼の絶望とは。
 己自身が世界に「居る」ことなのだ。

 彼は自らがウスベニやタイザン、ハヤテを始めとした仲間たちや学校の友人、吉川家の人間と共に居る姿を見せられたのだろう。しかしてそれはいまの彼の「現実」であり、打ち破ることなど造作もなかったのだ。
 ―――生きたいって、願ってもいいんだぜ。
 かつての契約相手であり、いまは亡きウスベニの言葉を思い出し、キバチヨは強く拳を握り締めた。
 いますぐでなくてもいい。
 けれど、いつかは。




―――いつかキミが望む世界に、キミ自身が存在することを赦されるように。




 

 


 

だからリクエスト話に本編の過去話を組み込むなと(ry

「式神が活躍する話」って指定なのに、必殺技を封じたら非常に地味な話になりました。哀。

この数日後に<彼女>がマサオミさん宅を訪れてまあ色々あるのですが

そのうち本編で語れたらいいなあと思わないでもないでもないでもないです(どっちだヨ)

 

こんな話ですが、少しでも楽しんでいただければ嬉しく思います。

リクエストありがとうございましたー♪

 

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