※リクエストのお題:IF版本編後のヤクマサ・キャンパスライフ。

※むしろ内容的には「キャンパスライ………フ?」(盛大な疑問符) ← オイ。

※例によってパラレル設定です。

※相変わらずなオミさんとヤクモさんがいるとお考えください。だってこのふたりってどうにも進展のさせようが………。

 

 

 

 しっかりと着替えた上でがらりと自室の襖を開ける。洗面をすませて髪の毛の跳ねも確認して寝惚け眼を叩く。ぼんやりしていた視界が鮮明になる。窓から差し込む日の光は清浄、畳に刻まれた足の短いテーブルや食器の影。同居人が作っておいてくれた今日のメニューは炊きたてご飯と豆腐の味噌汁と魚の干物と煮物とお新香、日本食の定番とも言える内容であった。
 こんな暮らしもいいものだとほんのり幸せを噛み締めながら手を合わせる。
「いただきます」
 一日一日、食事を取ることができる有り難味を感じながら箸を取り上げ―――。
 ………って。
「いや、違うだろ」
 ビシッ! と、同居人のいない居間でヤクモは自分自身にセルフ突っ込みを入れた。




「おはよー」
「おはよーっす」
「よう! なあなあ、この間の課題のさあ………」
 教室に出入りする同級生たちの会話を聞くともなしに聞きながらヤクモは実に不機嫌そうにノートをめくる。有名大学に相応しく広い教室の最後尾左手奥、出入り口の一番付近が指定席だ。
 大学が始まって早一ヶ月。最初は講義形態や特定のクラスが存在しないことなどに戸惑いもしたが、顔見知りが増えるに連れて徐々に馴染み始めていた。高校と違って大学ではその気になれば誰とも関わらずに過ごすことができる。それをよしとする者もいるだろうが、折角だからとヤクモもマサオミもちょくちょく同じ専修の学友たちと一緒に昼食をとったりしていた。が、そこは苦学生。小遣いを貰っている学生たちと異なり、基本的には全ての生活費を自腹で賄おうとしているふたりはあまり飲み会にも参加できずにいた。
 それどころか。
(―――遅い)
 壁時計を見てヤクモは眉間に皺を寄せる。教室内の席は粗方埋まっていて、あとは教授の訪れを待つだけだ。
 あと一分待っても来なかったら強制的に呼び出す。ポケットの中でヤクモが闘神符を握り締めた瞬間、それを察したかのように扉が開いた。
「セーフ、セーフ! わっりぃヤクモ、遅れた!!」
「遅刻寸前だぞ、マサオミ」
「遅刻しなかったからいいだろ」
 にんまりと笑いながら同居人がヤクモの左の席に滑り込んだ。あ、大神くんだー、と振り返った女子連中にひらひらと手を振り返すのは流石の余裕と言ったところか。何故かこいつはむかしっから妙に女受けがいい。実に腹立たしいことに。
 くあぁ、とマサオミが大きく欠伸をして机に伏せった。
「おい!」
「あー………悪い悪い、眠くてたまんねーんだよ。代返頼む。ついでにノートも頼む」
「来たならきちんと自分で授業を受けろ! 眠いんなら家で寝ろ、余所で!」
「いや、ここが丁度いいあたたかさで………」
 モゴモゴとマサオミは呟いて、間を置かない内に小さな寝息を立て始めてしまった。思わずヤクモは舌打ちしたが、同居人を教室から叩き出すことはしなかった。以前、眠ってばかりの彼を教室から追い出したら、事もあろうに彼は外のベンチで爆睡していたのである。道理で家にいなかったはずだと少なからず探し回る羽目になったヤクモは苛立ち、更に、自分が来るまでマサオミの寝顔が道行く女性陣に激写されまくっていたと後から知って怒髪天を突きそうになった。なんで勝手にオレのものを撮ってるんだ! と叫ばずに済んだのは僥倖である。それについてマサオミをあまりにも不注意だと叱ったら「ひとのこと言えんのかよ」と不貞腐れられたが全く意味が分からなかった。
 苛立ちを紛らわせるように前回までのノートを捲り、視線を横に流したヤクモは穏やかに眠る友人――― 一応、まだ、いまは―――の表情にちょっとだけ表情を和らげた。
 こんなに近くに居るのは久しぶりだなと思って、ついでに今朝方の不満を思い出して、やっぱり彼は片眉を上げた。大学の友人たちには知られていないが自分とマサオミは同居している。本来なら一緒に居る時間なんて山ほどあるはずなのだ。
 なのに、お互いにバイトを始めたら生活時間は全然合わないし選択科目は一部を除いて食い違ってるし同じ講義を取ってもマサオミは今回のように寝ていることがほとんどだし。
 ここ一週間はその傾向が特に顕著で、今朝だってマサオミは新聞配達のバイトがあるからと早朝に出かけてしまい、残されていたのは彼が用意してくれた朝食のみだった。ついでに言うと前日の夜は前日の夜で「明日は五時起きなんだ」と時計が二十二時を回る前に自室に引っ込んでしまった神流である。
(何か、違う)
 同居を始める前は一緒に住めば色々と新しい発見もあるだろうと楽しみにしていたし、実際、彼と「おはよう」、「おやすみ」などの言葉を交わす生活は嬉しかった。
(絶対、違う)
 しかし、自宅に居る間はともかく大学に来てしまえばほとんどの時間が離れ離れ、高校の時よりも広い校舎内ではほんのちょっとの休み時間では顔を見せに行くことも叶わず、昼食だけでも一緒にと必死にカフェテリアへ戻ってきてみればマサオミはとっくに他の連中と食べ終わっていたり、ヤクモが教授に話があるから帰りが遅くなると告げると「先に帰ってメシでも作っとくぜ」の代わりに「んじゃあ臨時でバイト入れっかな」と返されたり、何だか色々と理不尽なのだ。よって、最近は彼と住まいを一にしている事実に安心している場合じゃないだろうと今朝も今朝とてセルフ突っ込みを繰り返していた訳である。
 じゃあお前が早起きすればいいだろと言われそうだが何故か朝は常に爆睡である。連夜のレポート作成が祟っているのではなく、マサオミが何らかの<呪>をかけているに違いないとヤクモは頑なに信じていた。
 どうにかしなければならない。
 どうにかしなければならないが、バイトをやめろと言ってもマサオミは聞かない。生活費のすべてをヤクモやモンジュに頼るなんて彼の男としてのプライドが許さないはずである。ヤクモだって彼が意地っ張りであることは重々承知していたので、できれば意志を尊重してやりたくはあるのだが―――。
(でも、なあ)
 いい加減に足りなくなりそうだ。
 教室前方の扉から入ってきた教授が出欠を取り始める。誰も見ていないことを確認し、だらしなく椅子の脇に垂れ下がっていたマサオミの右手を左手で持ち上げる。たくさんのバイトをこなしている指先は荒れていた。
 きちんとハンドクリーム塗っておけよ、尤も、化粧品を買うぐらいなら牛丼を食べたがるだろうが。
「大神マサオミー」
「はぁい!」
 考え事をしながらもきっちり代返を務めてしまう己にヤクモは自嘲を篭めた溜息を零すのだった。




 結局、授業の最後までマサオミはぐっすりと眠っていた。途中何度か起こそうとしたのだが、突付いても揺すっても反応がなかったので、このままでは自分まで講義内容が疎かになると諦めた。
 大きな欠伸をして起き上がった友人に。
「学生の本分は勉強だぞ。そんなに寝てばっかりじゃ授業料を払ってるのに勿体無いじゃないか」
「ははっ、まったくだ。でも眠気には勝てないんだよな。でもって、ヤクモ。ノート取っといてくれたか?」
「誰が取るか。自分で教授に聞きに行け」
 そっぽを向く隣でマサオミがケチだの鬼だの喚いたが自分の基本方針は高校の頃から変わっていない。授業に必要なプリント類ならば幾らでも分けてやるし締め切りだって伝えてやるが、解法に関しては自力で学習しろというスタンスだ。
 しかしここ最近ですっかり怠け癖がついてしまったらしい神流はだらだらと椅子の背もたれにしがみつきながら唇を尖がらせた。
「早朝シフトが入ってるのは今月だけなんだからちったぁ見逃せよなー。ったく、いいよ。別の奴に聞くから」
「な………!」
 幾らなんでもそれはない!
 と、不満を述べる余裕もなく凝り固まってしまったヤクモを余所に、マサオミはふらりと立ち上がる。未だ教室内に残っていた他の顔見知りへと近づいて。
「おーい、高橋! いまの授業のノート見せてくれよ!」
「ああ? 吉川に聞きゃあいいだろ、めんどくせえ」
「そーゆーなって! こう見えてもお前のノートの綺麗さには一目置いてんのよ、オレ?」
 和気藹々と話しながら一頁幾らでコピーさせてもらえるか、ノートの貸し出し期限はいつまでか等の交渉に移る。気楽に誰とでも話せるのは彼のいいところであるが、その長所をもう少しこちらに発揮するつもりはないのかと恨めしい眼差しでヤクモはじっとりと睨んだ。もうちょっと、もうちょっとマサオミが粘ったなら、こっちだって少しは譲歩してやったのに。いや、講義で爆睡してる奴が一番悪いのは当然なのだから多少のペナルティは食らわせる気でいたのも確かだが。例えばそう、昼食を一緒に―――。
「よーしかーわくん!」
「………ああ」
 不意に後方から呼びかけられてちょっとだけ吃驚した。既にして疎らな教室の中、二、三名の女子が固まってヤクモの様子を窺っている。
 声をかけてきたのは鳥居という女子で、顔触れが固定されつつある専修の中でも目立つ存在であった。大学の連中曰く、彼女は少々ぶりっ子ながらも非常に可愛くてスタイルも抜群なので「是非とも付き合ってみたい」部類の女性であるらしい。年単位で色気も素っ気もない某人物(しかも男)に振り回されている者としては「ふーん」としか応えようがなかったが。
 鳥居が実に楽しそうに顔を覗き込んでくる。
「あのね、今度みんなで飲み会開こうって言ってるんだけど、吉川くんも来る?」
「飲み会? いつだ?」
「今度の土曜日かなー。十九時くらいから開こうかと思ってー」
 どうかな、どうかな、と傍で期待に満ちた眼差しを送られて、ヤクモは顎に手を当てて考えた。
 折角みんなと仲良くなったのだし参加したい気持ちは勿論ある。アルコールを飲めと強要されるのは困るが一緒になって騒ぐのは素直に楽しい。問題はバイトの日程だ。引越し業者のバイトとして働いているのでそうそう気楽な身の上でもない。予算の問題もある。何より同居人の動向も気になった。
「………週末の予定を確認してからでないとなんとも言えないな。いますぐ返事しないと駄目か?」
「えーっ! んー………別にいいけどお。じゃあ、吉川くんのケータイ番号教えてよー。連絡するから!」
 背後の女子たちが「やった!」、「ずるい!」等と叫んでいたが、それらを悉く無視して
「携帯は持ってないぞ」
「うっそぉ!?」
 さらりと事実を告げれば鳥居が目をまんまるく見開いた。予想できた反応ではある。最近は出会って名乗った後は携帯番号とメアドの交換を始めるのが普通らしく、固定電話しか使っていないと伝えると皆一様に驚いた。おそらくマサオミも似たような体験をしているはずだ。
 高校時代はどうにかなっていたが流石に大学になると携帯がないと連絡が難しいと感じ始めている。なにせ、補講や休講の連絡も基本はメール経由なのだから。
 最初は唖然としていた鳥居だったが、急に、いいことを思いついたと言うように手を打ち合わせた。
「あ! だったら明日! 明日、ケータイの契約行こうよ! あたし付き合ったげる! 任せて! 安くていいお店たっくさん知ってるから」
「明日? いや、そんな急には」
「いーじゃあーん。ケータイあった方が絶対便利だってー。ね。ね!」
「しかし………」
 迷いながら視線を巡らせると、高橋から借りたノートを抱えたマサオミが教室から出て行く姿が見えた。こちらが取り込み中だと思ったのか、にしたって何の断りもないとは酷い。
 慌てて荷物を大雑把にリュックに詰め込んで。
「すまん、鳥居! オレ、次は教室移動だから!」
「吉川くん! 明日、絶対だからね! 忘れないでね!!」
 鳥居への返事もそこそこに教室を飛び出す。辺りを見回し、相変わらずのんびりと歩いて行く背中を捉える。駆け寄り様に背中から蹴りつけてやりたい衝動に駆られのをどうにか堪えて肩を鷲掴む。
「おい! 勝手に置いてくな!」
「あっれー? 伝説様あ? 取り込み中だったんじゃなかったのか」
「もう終わった」
 むすったれた顔を晒すとカラカラと笑われた。こういう時、世の中はひどく理不尽だと思う。どう考えても勝手に出て行ったマサオミが悪いはずなのに彼が笑っただけで色々と許してやりたくなってしまう。お陰で言いたいことの半分も伝えられなくて欲求不満は募る一方だ。
 カフェテリアへと続く廊下を並んで歩きながらマサオミが肩を竦める。
「わーるかったよ。伝説様は相変わらずモテてるなあと思ってさ。折角の彼女ができるかもしれない機会を取り上げちまうのもどうかな、と。ま、お前に声かけてくる猛者なんて山都の存在を知らない他校生がほとんど―――」
「モテる? 誰が? 誰に?」
「………相変わらずの鈍さを表彰したくなってきたよ、オレは」
 今度はがっくりと肩を落とされてヤクモは首を傾げる。
 気を取り直すようにマサオミは前髪をかきあげると、ぴたりと歩みを止めた。
「オレ、図書館でコピーして、高橋にノート返してから次のバイト行くわ。お前は?」
「ちゃんと次の授業に参加するさ。昼間は、そうだな。教授のところにいるかもな」
「ほんとモリヤンのこと好きだなあ、お前」
「守屋先生と呼べ、守屋先生と!」
 守屋とは、ヤクモの選択した考古学専修の担当教授である。ぽやぽやした雰囲気の白髪の老人で、教授の名に劣らず博識で、温和で、学生たちには「モリヤン」の愛称で親しまれていた。どうやらモンジュと面識があるらしく、闘神士の生業にも理解を示してくれていることが何よりも有り難かった。
 もともと考古学の道に進みたいと思っていたヤクモだ。ここしばらくは教授の部屋に入り浸って発掘された遺跡について議論を交わしたり、仕事を手伝ったり、時に部屋を訪れる学部の先輩たちとお茶を飲んだりしている。お前も来ればいいのにとマサオミを度々誘ってはいるのだが、何故か彼は渋って顔を出そうとしない。
「お前は昼はどうするんだ。午後の授業は出るんだろうな」
「心配すんな、昼飯も適当にどっかで調達してくるからよ。授業だって、バイトが長引かなきゃきちんと受ける。オレだって受講料は勿体無いと思ってんだし」
 働けど働けど我が暮らし楽にならざり。じっと手を見る。なんつってな!
 軽く手を振ってマサオミは右手に見える図書館へと吸い込まれていった。ヤクモの進むべき校舎は左手にある。
 以前なら気楽に追いかけたり、強引にこちらに引っ張ってくることもできていたが、最近は少し迷わないでもない。相手がどう思っているかまでは分からないが、ヤクモはヤクモなりに、彼を束縛し過ぎているのではないかと気にしていた。住まいだって、奴自身の誕生日だって、自分が勝手に断りもなく決めた。すべては確かな繋がりを求める己の弱さ故である。
(あいつは、「此処にいる」って言ってくれてるのにな………)
 微かに視線を俯けたままヤクモはくるりと踵を返した。




 果たして、翌朝もマサオミの姿は影も形も見えなかった。不貞腐れた表情で見詰めるテーブル上にはクラムチャウダー………に、しようとして失敗した海産物入りクリームシチューもどきと、焦げたパンと、ヨーグルトが置かれていた。和食は得意でも洋食は不得手らしい。精進すると以前に宣言していたが、その間に哀れな姿になった料理の数々は誰が食すと思っているのか。勿論、彼自身も食べるのだが。
 何となく寂しかったからテレビをつけて、テーブルの上に神操機を置いた。かつての戦い以降、式神たちは神操機で深く眠り込んでいることが多い。たぶんにヤクモ自身と契約していた『存在』も影響しているに違いない。
 バリバリとパンに齧り付いているとなんだか段々腹が立ってきたので、闘神符を構えて問答無用で相手を呼び出した。連絡用の簡易符だ。その気になれば相手の姿を投影することもできるけど、一応は相手の立場を慮って音声のみを繋ぐこととする。
 しばらくして、赤く光る闘神符から聞き慣れた声が響いてきた。
『よっ! どうしたあ、ヤクモ。起きて一番に腹でも下したか!』
「朝の挨拶より先にそれか」
『いやあだってよく見たらあのヨーグルト賞味期限切れてたんだもんよ。ま、オレが無事なんだからお前も無事だよな!!』
「勝手に一緒にするな!」
 苛立ちも露に噛み付いてみても相手はカラカラと笑うのみ。
 ギィギィと何かが軋む音がするのは、きっと、彼が新聞配達の途中だからだ。受け持ち範囲が比較的狭いことと、昨今の経費削減の流れを汲んで、バイクを使うのは許されていないと以前に言っていた。よって、彼はむかし懐かしの自転車で配達を行っているのである。ご苦労なことだ。
『つか、マジで何の用だ? まだバイト中なんだよなー。闘神士としての仕事でも入ったか?』
「そういう訳じゃないんだが」
『急ぎじゃないんなら切るぞ。どーせまた大学で会うし』
「ちょ、ちょっと待て!」
 だから何なんだよ、言いたいことがあるならハッキリ言えよと、マサオミが呆れた声を上げる。確かに、理由もなしにかけたのは自分なので、呆気無く回線を切られても文句を言えた立場ではないのだが。
 告げたかった一言を思い出してゆっくりと口を開く。
「―――おはよう。最近は、大学に行ってからでないと言えてなかったからな」
『へ………え、あ、ああ。おはよう』
「………」
『………それだけ?』
「………そうだ」
『………うん。じゃあ………切るわ。またな』
 携帯電話を切る時のようにプツリと音を立てて闘神符が輝きを失った。
 一体何をやっているのかと自分で自分に呆れながら、取り急ぎ、ひとりの朝食を終えた。




 朝食後、いつも通りの時間に家を出て、いつも通りの時間に大学に着いたヤクモだったが、渡り廊下の掲示板を見て僅かに目を瞠った。

 ―――『休講のお知らせ』―――

 まさか、朝イチで受ける予定だった授業が教授の都合で突如取り止めになるとは。
 休講のお知らせは大学のホームページで告知されていたのだろうがネットなんかやっていないし、ましてや自分とマサオミは携帯電話も持っていないので連絡網からも孤立している。固定電話は引いてあっても誰も知らなければ意味がない。
 マサオミも休講の情報は知らないはずである。授業が休みになったのは残念だったが、逆に言うと、一時間分の暇ができたということだ。もしかしたらこれはマサオミを守屋教授の部屋に誘う千載一遇の好機かもしれない。
 早速、建物の影でマサオミに連絡しようと思い立ったヤクモだったが、
「吉川くんみーっけ!!」
 嬉しそうに呼ばれた自分の名に止めざるを得なくなった。幾らなんでも、一般人が多い大学構内で堂々と闘神符をひけらかす気にはなれない。
 誰だと思えば、鳥居が嬉しそうに手を振りながら駆け寄ってくるところだった。いつも一緒に居る仲間の姿が見当たらない。もしかしたら鳥居も休講の予定を知らずに大学に来てしまったのだろうか。
「よかったあ、会えて! 会えなかったらどーしようかと思ってたんだあ。皆は一時間遅れて来るって言ってたけど早めに来てよかったよ! 覚えててくれたんだねっ」
「覚えててくれた?」
 やたらと鳥居がはしゃいでいる理由が思いつかなくて首を傾げると、「昨日の今日なのに忘れちゃったのお!?」と可愛らしく唇を尖がらせた。
「一緒に携帯ショップ行こうって約束したじゃん! だから、吉川くん待たせたら悪いと思って、休みなのにわざわざ早起きして来たんだよ!!」
「そうだったか?」
「そうだよー! 吉川くん、ひどい!」
 確かに昨日、鳥居と会話した記憶はあるが、果たして一緒に携帯ショップに行くという約束までしていただろうか。慌てて教室を出てしまったから細かな部分まで覚えていない。しかし、もし自分の曖昧な台詞のために鳥居を早起きさせたのだとしたら無碍にすることも躊躇われた。とかく女性の支度は時間がかかる、大学生ともなればお洒落にも気を使う、と、ヒトハやナナから聞かされている。
 己の記憶に自信がないながらもわかった、とヤクモは頷いた。マサオミに連絡を取れるのは自分だけでいたいとの独占欲があるのも事実だが、流石に携帯なしで大学生活をこなして行くことは難しいと諦める。少し、昨今の携帯事情を調べておくのもいいだろう。
「わざわざすまなかったな、鳥居。店、いまからでいいのか?」
「う、うん! いいよ! 案内しちゃうよー、任せてねっ!」
 頬を赤らめる鳥居は確かに可愛い、のだろう。所謂アイドル顔だし、すれ違う男子学生の多くが彼女に見惚れ、ヤクモに妬ましそうな視線を送っていくことからも明らかだ。鳥居は親切心から付き合ってくれているだけだと言うのに本当に困ったものである。
 嬉しそうに先を立って歩き出した鳥居の後ろでこっそりと懐紙を取り出し、マサオミのもとへ<式>を『飛』ばす。<隠>の術もかけておいたから一般人の目につくことはない。
 ヤクモのもとを離れた<式>はひらひらと廊下の角を折れ曲がったが、鳥居に引きずられて歩み去る彼がそれを見届けることはなかった。




 次の講義には出たいからあまり遠出はできないと告げると鳥居は不満そうに頬を膨らませたが、「今回は大目に見てあげよっかな」と引き下がってくれた。いまいち彼女の意図が読みきれないが、何にせよ、納得してくれてよかった。この年齢になっても未だに女性の心理とやらはよく分からない。
 着いたのは大学最寄り駅近くの携帯ショップ。キャリアとやらも色々と選ぶ基準になるらしかったが、どこのサービスも一長一短だから手始めは機種のデザインを理由に選んでもよいのではないかという話だった。素通しの硝子の向こうでは大勢の人間が携帯の契約をしたり充電をしたり持ち込み修理をしていたり、妙に洗練された空間になっていて何とはなしに戸惑った。上京したての田舎者になった気分である。
(強ち間違いでもないか)
 あの家は時代に取り残されたような様相をしているしな、と、同居人のためにわざわざ探してきた古い戸建の住まいを思い出した。
「最近の携帯はねー、いろんなのがあってー。流行はタッチパネル式かなー。液晶おおきくて画面も見やすいし、アプリもいっぱいあるし、何よりデザイン可愛いよ!」
 吉川くんが使いたい機能は? と尋ねられても、こちらの方面に関してはズブの素人である。積み上げられたパンフレットを見て眉根を寄せる。機種ごとの特徴のページとは別に料金プランが載っているのだが、これがまたややこしい。『坊主丸儲けプラン』てなんだ。消費者が得なのかメーカー側が得なのかすらも不明である。
「ちなみに、あたしが使ってるのはコレね! 色違いで黒もあるよー。吉川くんにはこれの黒が似合うんじゃないかなー」
 そしたらお揃いだね! と、鳥居が横で身体をくねらせるがヤクモの視界には映っていなかった。ぱらぱらとパンフレットを捲りながら自然と連想するのは同居人についてである。
(黒………黒、か。そういや以前、あいつが鷹宮と揃いで使ってたな。確かに黒も似合うが、どちらかと言えばイメージは白だな。でもあいつに言わせるとオレのイメージこそ白らしいし)
 自分ではなく、同居人主体で機種を選んでいることに全く気付かぬままずるずると腕を引きずられる。店内の隅に用意された椅子にすとんと落とされて漸く我に返る。正面の席に座った鳥居は不機嫌そうだった。
「ちょっとー、吉川くん。ちゃんとあたしの説明きいてたあ?」
「………すまん。聞いてなかった」
「正直に言わないでよ………なんだかなあ。吉川くんてあんまり慣れてなかったんだね。意外」
 慣れる慣れないとはなんの話だ。しかし、女性を不機嫌にするのはあまり宜しくないことである。もう一度だけ「すまん」と念押しのように謝った。
 ふたりの腰掛けたテーブルの上にはパンフレットが山積みにされている。どれも、自然とヤクモがかき集めてしまったものだ。パンフばっか見てても埒が明かないよ、実際に手にとってみないとね、との鳥居の言葉には一理ある。料金体系については店員に確認した方が早いのではないかとチラリと思ったが、相手が妙に乗り気なので黙って聞くことにする。
「要するに、ひとりで使うよりも家族や友人と一緒に申し込んだ方が得なのか?」
「そういうことー。団体さん割引みたいなモンだよねっ。あたしもさあ、ちゃーんと仲いい子とは割引適応されるようにしてるしい」
「そうなのか?」
「もっちろーん! なんだったら吉川くんも登録しちゃうよっ。特定の相手となら何時間かけても無料ってコースもあるからさあ」
 わざわざ登録してもらっても自分と鳥居の間では取り立てて話すこともないのに、いいのだろうか。特定の相手とだけ通話料金がお得になるというのなら自分が真っ先に登録すべきはマサオミである。あとはリクか。この際だからリクにも携帯電話を持たせるべきかもしれない。
 とことん思考回路が身内にしか向かない伝説様の背に、不意に声がかかった。
「あ、ヤクモ! 鳥居ちゃん! こんなところに居たんだあ。おはよっ!」
「おはよ。こんなところで会うなんて奇遇ね」
「ヒトハにナナあ?」
 ヤクモの背後を覗き込んだ鳥居が素っ頓狂な声を上げた。同時に「ちっ」と舌打ちも聞こえたようだったが―――気のせいだろう。たぶん。
 以前は気配だけで即座に察知できていたのに随分と鈍くなったものだと密かに天流は嘆く。おそらく、リクやマサオミを探し回る必要性がなくなったから相手の気配を辿る術も廃れてしまったのだろう。それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。
 振り返るとむかしっからの同級生がひらひらと笑顔で手を振っていた。両者の手には紙袋が握られている。携帯のオプションか何かを購入したか、故障したのを直してもらったようだ。
 ナナと目が合った。にっこりと微笑まれる。
「珍しいわね、ヤクモ。あんたがこんなところに居るなんて」
「………鳥居が案内してくれると言うんでな」
 ナナの笑みが深くなった。非常によくない兆候である。高校を卒業してからはすぐさま鉄拳制裁が出る回数こそ少なくなったものの、代わりに、怒りを内包した笑みを見せるようになった。まさしく、いまのように。
 過去の経験に則すると彼女の怒りにはマサオミが関わっていそうなのだが原因が思いつかない。
 ヒトハがそうそう、と手を打ち合わせた。
「あのね、鳥居ちゃん。さっき太田くんに会ったんだけど、この間買ってあげたプラダ」
「あっ! あーっ………ちょ、ちょっと待って、あっちで聞く! あっちで聞くから!!」
 血相変えた鳥居が慌てて席を立ち、「御免遊ばせv」と笑顔だけ置いてヒトハをずるずると引きずっていった。丁度、店の反対側でぼそぼそと話し込んでいるところを見ると女子は女子で色々と複雑な事情があるらしい。
 一瞬とは言えナナの凍りつくような視線から逃れられたことに安堵していたが、当然、ふたりが居なくなっても視線の冷たさは継続していた。むしろ悪化している。本気で如何にかしてもらいたい。
「ど………どうかしたのか?」
 心なしか逃げ腰でヤクモが問い掛ければあからさまにナナが溜息をついた。ごそごそとポケットを探り、何処かで見たような白い紙を取り出す。
「これ。返しとくから」
「って―――オレの<式>じゃないか!」
 さっき送ったばかりのものが何故ナナのところにあるんだと疑問符を飛ばす。紙袋を提げたまま腕組みをして、ナナは呆れたような諦めたような顔をしてみせた。
「あたしとマサオミが一緒に居たからに決まってるでしょ。廊下で偶然会っただけなんだけどね。ついでに言うと、あんたがあの子に引きずられて行くところも揃って見てました」
「そうなのか? 声かけてくれれば良かったのに」
 一緒に居たわりにはマサオミの姿が見当たらない。行き先を知っているのかと問い掛けるより早く鼻先にナナの指が突き立てられる。
「と、こ、ろ、で! ミス・大学祭が有力視されてる可愛い子と堂々とデート紛いのこと仕出かしてた伝説様は、テーブルに何のパンフレット広げてるのかしら?」
「携帯、だが」
「たぶん、あの子が勧めて来たのはコレなんでしょうね。あの子のと色違い。お揃い」
 現場に居なかったのにどうしてこうも状況を言い当てられるのか。ひょっとしたらナナには探偵の才能があるのでは―――と言うよりも、単純に彼女の観察力や洞察力が優れているのだろう。特に、マサオミに関することでは彼女の右に出る者はいない。聊か、嫉妬を覚えずにはいられないほどに。
「―――それで?」
「うん?」
「契約するの?」
「………そうだな」
 確かに携帯があった方が便利だと思うようにはなったさ、と、手元にパンフを手繰り寄せてもう一度機種名と価格を確認する。通話の基本料金や各種割引サービスも適応されるようだが、結局は本体の価格が相当なものだ。いますぐに買い求めるのは難しい。
「でも、オレは鳥居と同じヤツは使わないぞ」
「あら」
「オレには使いこなせそうにないからな。もっと古いタイプでいい。それに、この―――白いヤツは、たぶん、マサオミに似合う」
 以前に『黒』の携帯をプレゼントしていた鷹宮に対抗する意図はないけれど。
 携帯を使おうと提案したらあいつはどんな顔をするだろうか。驚くのか、呆れるのか、喜ぶのか。喜んでくれればいいな、と思う。
 自然と表情が和らぐ隙を見透かしたようにズバッとナナが切り込んだ。
「しまりない顔を晒さないでくれる? 殴りたくなるから」
「………あのなあ」
「ほんと、どうしてこうあんたたちって互いの努力を互いに無駄にするような関係なのかしらね。見てるこっちが疲れてくるわ」
 ナナが肩を竦めた向こう、やたらと慌てた表情で鳥居が戻ってきた。椅子に置いていたバッグを取り上げて。
「よ、吉川くん! ごめん、ちょっと急用できちゃった! また今度一緒に来ようね!」
「ああ。ありがとう、参考になった」
 でも、もう一緒に来る必要はないと思う………とヤクモが言うよりも早く鳥居は店から飛び出して行ってしまった。何だかよく分からない。のんびり戻ってきたヒトハに「何かあったのか?」と尋ねると、「女の子には色々あるの」と苦笑いを返された。「太田くん」とやらに関係しているのだろうが、流石のヤクモも、ひとつの学部だけで数百人にのぼる同級生の顔を逐一覚えておくことは無理だった。
 軽く溜息吐いたナナが手提げ袋を押し付ける。
「あんたにあげるわ」
「え?」
「処分してくれって頼まれたの。本当に要らなくなったんなら自分でゴミ箱に捨てればいいのに、ヘンなところで女々しいんだから」
 更に強く押し付けられて戸惑いと共に紙袋を受け取る。やたら腕に重い袋の中には冊子のようなものがギッシリと詰まっていた。
 用は終わったとばかりにナナは踵を返し、大学に戻ろうとヒトハを促す。
「あいつ、今日は一日、臨時のバイトでも探しに行ってくらあとか言ってたけど、たぶん今頃は家に戻って不貞寝してるから。別に放っておいてもいいわよ? その頃にはあいつも平然とした顔で笑えるようになってるでしょうし」
「なんでマサオミが家に戻ってるって思うんだ」
「勘」
 きっぱりと言い切られたそれはあまりにも根拠がなく、しかしながら、「ナナがマサオミに関して告げたこと」であるならばこれ以上に確かなものはない指針でもあり。
 紙袋の中を窺い見たヤクモが密やかに呟く。
「―――感謝する。ナナ」
「まったくだわ」
 高校を卒業してからも彼女たちには迷惑をかけっ放しだ。溜息を吐くナナの隣ではヒトハが微苦笑を零している。
 相変わらず進歩のない関係ですまないと、マサオミの分まで内心で謝罪しておいてから席を立った。手には紙袋を握り締め、向かう先は自宅である。
(オレだって、偶には講義ぐらいさぼるんだ)
 高校時代の真面目一辺倒のオレのままだと油断してたら大間違いだ。
 分かりづらい彼なりの好意や気配りはできる限り見逃したくはない。心がけとは裏腹に、実際にはこうやって周囲から指摘されることの方が多くとも、その決意だけは覆すつもりがなかった。




 思えば、休日以外で真昼間から家にいるのは初めてじゃないだろうか。
 朝来た道を僅か数時間で引き返し、木々の隙間から差し込む日をヤクモは見上げる。自分は生真面目に講義にずっと参加していたけれど、あの気侭な神流は時にふらりと此処に帰って来ることがあったのだろうか。気分転換が目的ならいいが、何某かの寂しさを抱えて戻ってきているとあらば由々しき事態だ。
 ある種の覚悟を決めて戻ってきたが、案の定、居間には誰もいなかった。綺麗に片付けられたテーブルの上に紙袋を置いて、マサオミの部屋を見る。居間と直結した部屋には堂々と封印の札が貼られていた。時に、彼はこうやってあからさまな拒絶を表す。大抵はヤクモと喧嘩した後だったり、タイザンが尋ねてきた後にひとりで思い出に耽るためだったり、純粋に体調が悪いからだったりする。
 今回の理由は、きっと。
(また、何事もなかったように流すためだろう)
 凡その見当がついてしまうからこそ腹立たしく、自らの至らなさに対して苛立ちもする。
「マサオミ。帰ってきてるんだろ? ―――話がある。開けてくれ」
 当然、返事はない。
 寝ているのか、無視しているのか、瞑想していて本気で聞こえていないのか。
 何れの理由であってもいまは認めてやるつもりにはならなかった。懐から取り出した闘神符を一閃。
「ここを開けろ、マサオミ―――っっ!!」
「うわあっ!!?」
 どばあん! と前触れもなく襖が吹っ飛び、部屋の中で布団に包まっていたマサオミが悲鳴を上げる。なんだなんだと慌てている様を見るに、本気で眠っていたのかもしれない。
 寝惚け眼のマサオミの襟首を掴んで至近距離から睨みつける。
「―――起きたか」
「お………お、おお?」
 瞬きを繰り返す同居人をずるずると部屋から引きずり出し、放り出された座布団を指差した。
「マサオミ。そこに座れ」
「へ? あー………うん? あれ? お前、いつ帰ってきたんだ?」
「す、わ、れ」
「はい………」
 漸く目が覚めてきたらしいマサオミが、ややゲンナリした表情でおとなしく座布団の上に正座した。お前、モンジュさんに似てきたよなあとかぼやいているが、まだまだ自分には父親のような威厳や迫力や不気味さは醸し出せない。正面に座ってにっこりと微笑んだだけでマサオミがベラベラと真実を喋りだす。そんな人間に、いつかはなりたい。
 当人が耳にしたら思い切り嘆きそうなことを考えながら、ヤクモ自身も座布団に腰を下ろした。
 テーブルに置いていた紙袋を前に突き出す。それだけで察しがついたのだろう。バツの悪そうな表情をして、マサオミが僅かに視線を逸らした。ナナの奴、裏切りやがってと舌打ちしているが、そもそも彼女に託した時点でヤクモに事態が筒抜けになる可能性を考慮していなかった奴自身の失態だ。むしろこうなることを望んでいたんじゃないのか、実際は構ってほしかったんじゃないか、思い切り前向きに捉えそうになるぞ、オレは、とは、やはり零されることのないヤクモの台詞である。
「これはなんだ」
「………見たまんまだろ」
「そうだな。見たまんま、携帯のパンフレットだ」
 見覚えがあるどころの話じゃない。つい先刻、自分が店で見ていたのと同種のパンフレットが紙袋にはギュウギュウに詰め込まれていた。各携帯会社のコースやサービスを逐一チェックしてあり、ところどころ赤ペンで書き込みがされているとあっては、いつ頃から比較検討していたのかと尋ねるのも憚られるほどである。
 マサオミが何を切っ掛けとして携帯に興味を持ったのかは分からない。だが、以前にも彼は―――悔しいが―――鷹宮専用の携帯を持っており、その便利さは身に染みていたはずだ。きっと、携帯を使いたいと思ったのは、ヤクモよりもかなり早い段階だったのだろう。
 じっとり睨みつけても相手は悪戯が見つかったこどものように目線を合わせようとはしない。
「―――携帯が使いたいならそう言え。なんだって隠すんだ」
「や、………なんかお前、携帯にあんまりいい印象持ってないみたいだったし………基本料金もなんだかんだ結構かかるし………貧乏学生にンな贅沢が許されるのかと………」
 畳の毛羽を毟りながらぼそぼそ言われて深い溜息を吐きたくなった。
 確かに、携帯自体にあまりいい印象は抱いていない。だが、その主な理由はつまるところ「以前にマサオミとの会話をしょっちゅう携帯で邪魔されたから」に他ならない。自由に飛び回っているはずのあいつを電話一本で呼びつけられる。本当は、それがずっと、羨ましかった。
 色々と反省と学習を繰り返した結果、ナナに諭されずとも、大まかな事情は読み取れるようにはなった。携帯はあった方が便利だが「使いたい」と言うだけではヤクモは納得しない、と考えたであろうマサオミが次に取る行動は何か。即ち、外堀を埋めることである。
 紙袋からはみ出ているパンフレットの一冊を抜き出した。『坊主丸儲けプラン』にでかでかと丸がつけてある。
「オレが機種代金や基本料金で難癖つけた時のために、貯えならあると主張するつもりだったのか。ここ最近のバイト三昧もそのためか」
「まあ………その………」
 マサオミはまだモゴモゴと俯いているが、予想が真実であることをヤクモは確信していた。
 どうしてこいつはむかしっから妙に回りくどいのか。携帯があった方が便利だ、生活費は余分に必要になるけど、その分一緒にバイト増やそうぜ! とでも言ってくれれば自分とて素直に頷いたのに。
 鳥居と一緒に出かける自分を追って来なかったのは、ヤクモ自身が契約するつもりになったなら止める必要はないと思ったのか。あるいは、他の誰かと出かける姿に少しの寂しさや嫉妬を覚えてくれたのだろうか。
 そうだったら、いい。そうだったらいいと思う。
 自分が、他の人間と話しているマサオミの姿に妙な疎外感と苛立ちを感じるように、マサオミがほんの少しでもいいから、純粋に自らの感情を以って執着を示してくれたら嬉しいと思う。
 でも。
「オレは傷ついたぞ、マサオミ」
 今回はちょっとばかり本気で寂しかったからしっかり伝えることにする。理由を話してくれなかったこともそうだし、追いかけてきてくれなかったこともそうなのだが、それ以上に。
 訝しそうにするマサオミの瞳を正面から捉えて。
「朝起きて、いの一番にお前に挨拶できないことに、傷ついた」
「………………は?」
「オレがどれだけ苦労してお前に一番最初におはようと言える権利を獲得したと思ってるんだ。小さい頃は神流の仲間が、契約してからはキバチヨが、高校の一時期は鷹宮がその役目を務めてて、漸く晴れてオレの天下だと思えば今度は早朝バイトと来たもんだ。オレがどれだけ落胆したと思う」
「お、おま、お前、なんつー恥ずかしい主張を………!!」
 見事に頬を朱に染めて、しおらしさなんぞ何処かへうっちゃったマサオミが強く畳を叩く。
「馬鹿か! おはようぐらい言えなくてもいいだろ! おやすみもいってらっしゃいもおかえりなさいも言ってるだろ!!」
「鷹宮との電話中だと忘れるくせにな」
「根深ぇよ! しつけぇよ! なに心の狭いことゆっちゃってんの!?」
「うるさい。お前が素直にオレに相談しないのが悪いんだ」
 真顔で素直な心境を告げてやれば、面白いぐらいに頬を赤らめたマサオミが拳を握り締める。
「悪かったな! 仕方ねえだろ、ハヤテが恋人専用とか言ってたの思い出しちまったんだから!!」
「―――」
「本体いきなり買ってけば文句いわないだろって思ったけどお前のために携帯選ぶってのが、だから、その、ああっと―――………」
 黒がいいとか白の方が似合うとか。
 こっちの方が使いやすいとかあっちの方が格好いいとか。
 自分のためではない誰かのために、誰かの喜ぶ姿を思い描きながら『物』を用意するという行為が、ひどく。
 ―――ひどく。
「………ああ、くそっ! もういい!!」
 叫んだきり、マサオミはテーブルに突っ伏してしまった。現場から逃亡しないのが彼なりの成長なのか単なる意地の延長なのか判別することは難しくとも。
 腕の間に伏せられた僅かに覗く顔がひどくあからんでいるから。
「………」
 ゆっくり、ゆっくり、胸があたたかいもので満ちてきて。
 堪えるのも難しく、ヤクモはクツクツと笑いを零した。
「………マサオミ」
「―――なんだよ」
「昼飯くったら、一緒に携帯ショップに行こう。お前に似合うヤツを見つけたんだ」
 密やかに笑いを零し続けていると、少し落ち着きを取り戻したマサオミが物凄く嫌そうに顔を上げた。未だ、頬は赤い。
「―――そりゃ奇遇だな」
 嘯く彼の言葉が嘘でも本当でも構わない。
 大事なのはそんなことではなく、精一杯の強気の笑みを覗かせる彼がきちんとこちらを見詰めていることだ。
「オレも、お前に似合う携帯みつけたんだよ。お前よりずっと先に、な」




 ………そんなこんなで。
 その日の内に店を訪れたふたりは早々に契約を結んだ。マサオミが密かに決めていたヤクモ用の機種は旧式の折り畳みタイプで、わかってるじゃないかとちょっと嬉しくなった。お揃いではないけれど、互いが互いのために選んだものである。文句のあろうはずがない。
 翌日、講義で会った鳥居が妙に残念がっていたが、自分は新型より旧型の方が性に合っているのだと説明した。何故か、「意味が違う!」と叫ばれたけど。
 しかし、マサオミの早朝バイトはこれ以降も続いていた。早起きすると体調がいいし、色んなバイト仲間もできて純粋に楽しいらしい。なんでお前ばっかり楽しんでるんだと不満を漏らすと、お前だってゼミ仲間がいるくせにと返された。
 でも、以前とは違って、マサオミが出る時は朝食だけではなく、「行ってくるぜ」の一声が残されるようになった。その声が聞こえるとヤクモは慌てて起き出して、玄関で「おはよう、行って来い、気をつけてな」と告げるのである。勿論相手からも同様の答えが返されるので、伝説様の要望はほぼほぼ叶えられていると言えよう。
「おはよー」
「おはよーっす」
「よう! なあなあ、この間の課題のさあ………」
 教室に出入りする同級生たちの会話を聞くともなしに聞きながらヤクモはノートをめくる。有名大学に相応しく広い教室の最後尾左手奥、出入り口の一番付近が指定席で。
「セーフ、セーフ! わっりぃヤクモ、遅れた!!」
「遅刻寸前だぞ、マサオミ!」
「遅刻しなかったからいいだろ」
 にんまりと笑ったマサオミがヤクモの隣に滑り込み、大きく伸びをした。
 もう大分バイト代も溜まったろうに、まだ続けるつもりなのだろうか。問い掛けに神流は軽く笑った。
「なに言ってんだ。ぜってぇこの先、学部仲間とかゼミ仲間とかで旅行に行こうって案が持ち上がるに決まってんだぜ。大学の夏休みは長いしな」
「事前準備ってことか」
「そ。お前もきちんと貯金しとけよ? オレはカンパしないからな」
 笑いながらマサオミが机に頬擦りした。今日も今日とて、代返をヤクモに任せて眠りこける腹積もりのようである。いい加減、五回に一回ぐらいは起きてないと本気で授業について行けなくなるぞ、と詰る己はまだまだ彼に甘い。
 同級生たちのざわめきを余所に寝息を立てる彼の傍らには買ったばかりの携帯が鎮座している。
(そういえば………)
 こいつの待ち受けってなんだろう、と、ふと思った。
 自分の待ち受けはよく分からない幾何学模様である。要は、デフォルト設定から変更していない。使い方が分からないからだ。その点、携帯の使用経験があるマサオミなら待ち受けを変更するぐらいワケはないはずだった。
 何にしているんだろう。過去の景色か、牛丼か、あるいはデフォルト設定のままなのか。
 気になり始めると堪えようがなく、悪いと思いつつも自然と手は携帯へと伸びた。マサオミは起きる気配がない。起きない奴が悪いと勝手な理屈を捏ねてタッチパネルの表面をなぞる。
 途端、出てきたのは『暗証番号』という無機質な画面だった。
 ………当然と言えば当然か。個人情報をたぶんに含む機械だ、この程度のセキュリティはないと困る。ヤクモの携帯だって認証設定ができるはずなのだが使い方が分からないから以下省略。
(四桁、か)
 誕生日、は、ない。そもそもマサオミの誕生日はヤクモが秘匿している。設定したくとも彼には設定できない。ならばウスベニの誕生日か、他に関係してそうな何らかの数字か、考えを巡らせても答えが浮かぶはずもなく。
 がらりと戸を開けて教授が入ってきた。ざわついていた教室がおとなしくなる。
(………ひょっとして)
 ないない、それだけはありえない。
 呟きつつも微かな期待を込めて数字を打ち込んだ。自分の、『吉川ヤクモ』の誕生日を。
 ―――そして。
 解除がとけたことに歓喜する。まさか本当に、珍しくもあからさまにわざとらしくもベタな使い方をマサオミが!? と、動揺したところに更なる追撃が来た。
 表示された、待ち受け画像は。
「………っ!」
 叫びそうになった手を口で覆い、慌てて面を伏せた。
 いますぐマサオミを揺さぶって問い質したい。何を考えているんだと問い詰めたい。
(―――の、馬鹿っ………!!)
 頬が熱くなってくるのを抑えられない。
 馬鹿だ。
 こいつ、馬鹿だ。
 ヤクモが携帯に興味を持ち始めたのを知って、自分の携帯が盗み見られる可能性まで考えて設定したのだとしても、そんなの。
 そんなの―――ただ、こちらを喜ばせるだけだ。
 待ち受けに、自宅の縁側で居眠りするヤクモの寝顔を設定したところで。
 しかし、これでは本当に、真っ赤な顔を周囲に晒せるはずもなく、オレも欠席扱いになるから許せと呻く。
「大神ー。大神マサオミー。………いないのかー。休みだなー?」

 


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―――悪いが、今日ばかりは代返してやれそうもなかった。

 

 


 

マサオミさん視点のヤクモさんはふてぶてしいけれど、ヤクモさん視点のマサオミさんも相当だというお話。

一応ヤクモさんは頑張って「やらないか」と誘いをかけてみることもあるようですが、もし仮に

マサオミさんが了承したらうろたえて指一本ふれられなくなると予想。もうどちらもヘタレでよいよ!

 

こんな話ですが、少しでも楽しんでいただければ嬉しく思います。

リクエストありがとうございましたー♪

 

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