暗い室内では目を閉じていてもいなくても、当然のように取り囲むのは薄暗い闇ばかり。拘束された身体は動かず、声を出すこともできず、何かを見ることも望むことも叶わない。
あれからどれだけの時が流れたのだろう。
虜囚たる立場を憂えながらも激しい拷問を受けながらも精神が壊されることはなく、肉体が滅びることもなかった。こんな時ばかりは『超兵』の肉体の頑丈さに感謝すべきなのかもしれないと誰もいない薄暗い一室でアレルヤは笑う。笑う。
あの、最終決戦の場で。
ハレルヤを失い、自らが戦っていたのがマリーだったと知った。
手傷を負い、キュリオスは破壊され、次に目覚めた時は見知らぬ施設に収容されていた。怪我が治り最低限の体力が回復するまではそれなりの扱いを受けていたが、それ以降については、もはや思い出す気力もない。
ただ、頑として口を割らなかった。
自分のことも、仲間のことも、誰のことも。
だからこそ連中も終には諦め、施設の一角の薄暗い部屋の中でただ飼い殺しにされている。
何もすることはないし、何をできる訳でもない。
思考は自然とたゆたい、ひたすらに繰り返し、繰り返し考える。
細波のように寄せては返す記憶を辿りながら懐かしくもつらい過去を振り返る。
精神が疲れ果てた頃に見る夢は胸が締め付けられるほどの苦しさと愛しさを秘めていた。ハレルヤの目覚め、マリーとの出会い、マイスターとの他愛もない会話。酒を酌み交わすスメラギの笑顔、一緒に整備するイアンやラッセの笑い声、向こうではフェルトがハロと戯れている。
嗚呼、今日は誰の夢が見れるのかな、と。
僅かにアレルヤは表情を緩めた。
目の前でふわりと栗色の髪が踊る。『ほら、アレルヤ! 元気出してよ。みんな頼りにしてるんだからさっ』
からからと陽気に笑う女性。
彼女の名は、クリス。フェルトと共にトレミーのオペレーションを一手に引き受けていた。
『ちぇー、クリスってばいっつもそれなんすから。偶にはオレに頼ってくれたっていいじゃないすか』
『だって、リヒティは………ねえ?』
栗毛の女性にからかわれて唇を尖がらせる青年は、リヒティ。軽い口調に誤魔化されそうになるが、彼は優秀な操舵士だった。
(………いない)
一緒に食事をしようと誘ってくれる、体調はどうですかと気遣ってくれる、休日は何してるんですかと尋ねてくれる。言葉を交わせることの嬉しさがこんなにも身に染みているというのに。
所詮は自分にとって都合のいい回想なのだと分かっている。分かってしまっている。
(もう、―――いない)
施設に捕まっている間に聞こえてきた噂話。
でも、たぶん本当の話。
ガンダムは全機撃墜された。プトレマイオスは落ちた。イオリア・シュヘンベルグの意志は潰えた。ソレスタルビーイング自体は世間が想像しているより巨大な組織だとしても、最前線で戦っていた自分たちが破れ、ガンダムも大破した以上は「滅びた」と捉えられるのも当然だ。
(いないんだ………!)
きつく唇を噛み締める。
誰が生きているのか誰が死んでしまったのかも分からない。こんな曖昧な状況で、一体なにをどうすればいいと言うのだろう。
分からない。
本当に、もう、分からなくて。
抑えようのない寂しさと共にゆっくりと暗がりで目を開いたアレルヤは。
「………」
クリスとリヒティの代わりに登場した人物に、ちょっとだけ、思考を停止した。
おかしな話だ。何故か彼は―――彼だけは、これまで一度も自分の前に現れたりしなかったのに。
捕まる前に嫌でも受け入れざるを得なかったからだろうか。幻影すら描こうとしなかったのは。
彼がいないことを。
既に、知っているためか。
口元も覆われているから確たる声にはならなかったけれど、どうせ相手は幻だと頓着しなかった。
「………久しぶりだね、ロックオン」
気力の尽き掛けた視界に映る世界は狭い。
暗い空間にぼんやりと浮かび上がった相手は困ったように笑っている。彼の服装は見慣れた普段着でもパイロットスーツでもなく地味な色合いのシャツだったけれど、疲れ果てたアレルヤにはそこまで思考を回す余裕がなかった。
これは、自分の精神が作り上げた幻に過ぎない。
「………ロックオン」
だから―――弱音だって。
零すことができる。
「ロックオン………っ!」
ぐ、と歯を食い縛って顔を俯ける。
逝ってしまった。彼は誰よりも早く逝ってしまった。あの宙域にいた仲間の中で、彼だけが一足先に旅立ってしまった。
彼が最期の瞬間に何を思ったのかなんて知る由もないし、彼が戦っていた理由だって、トレミーが堕ちたいまとなっては大した意味なんてないのかもしれない。もしそこに確たる意味があるとするならば、それはただ、残された者たちに大きな悲しみを刻んだことだけだ。
「わからない………わからないんです………っ」
自分達は滅ぶべき運命にあったのか。
知らぬ間に大切な存在と殺し合ってまで、一体なにを望んでいたのか。
自分達のしたことは正しかったのか。
数少ない戦友を失ってまで、実現すべき理想だったのか。
「世界の答えを聞きたかった………けど、返ってくるのが絶望と………つらい出来事だけなら………望む、意味なんて………!」
希代の犯罪者になる覚悟を固めたはずなのに。
失ってばかりの現実を突きつけられると立ち止まってしまう。
相対する青年の右目は黒い眼帯に覆われている。それすらも、目に見える形で「失った」代償だ。
『アレルヤ』
懐かしい声が響いた。
『答えが絶望だけだなんて、誰が決めたんだ』
最初の問い掛けに返って来たのが絶望と失望と拒絶だけだからと言って、それ以降に齎されるものもまた負の要素でしかないと誰が決めたんだ。
決めるのは、お前だ。
受け止めたものに絶望するのも、希望に変えるのも。
答えながら、記憶にある通りのやわらかな表情で彼は、笑う。
『アレルヤ。―――あいつらは、生きてる』
「え………?」
『刹那も、―――ティエリアも、フェルトも、スメラギさんも、ラッセも、おやっさんも。生きてる』
鼓動が撥ねた。
生きている。
―――生きている?
あの、状況で。
あの、取り囲む影すべてが敵でしかなかった空間で。
………生きて、いる。
『だから。お前も簡単に諦めたりするな。あいつらはきっとお前を助けに来る。絶対だ』
それまでは挫けるな。
大切なひとを傷つけた記憶とふたつとない半身をなくした痛みが絶え間なくその身を襲うとしても、決して、決して、挫けるなと。
真っ直ぐに注がれる視線が妙に熱いようで、くすぐったくて。
随分と久しぶりに………本当に嬉しくなって、アレルヤは笑った。
「ありがとう―――ロックオン」
自分の作り出した幻であっても、虚言に過ぎなくとも、願う言葉を与えてもらえることは救いだった。
ありがとう。
ありがとう。あなたが、そう願ってくれるなら。
「もう少し………頑張って………みる、よ………」
呟きながら急激な眠気に襲われて、アレルヤは引き摺られるように瞼を閉じた。
重い音を立てて扉が閉まる。監獄の内と外を仕切る重たい扉だ。生半なことでは開かない。
牢を出た先で待っていた人物に声をかけられる。
「用件は終わったかね」
「はい。ありがとうございました。ホーマー司令」
低い声に青年は敬礼を返す。
ならば構わん、と背を向けて歩き出す上官に彼はおとなしく従った。
「囚人は何か吐いたかね」
「その件については黙秘権を行使させていただけると伺いました」
「違いない、な」
長めの髪を後ろで結わえた人物は振り向くことさえしない。延々と続く細く長い廊下には差し込む光さえ少なく、いるだけで気が滅入ってしまう。
―――ここまで、来てしまった。
疾うに死んだと思っていた身を救われて、知っていることを洗いざらい吐いてしまえと責められて、それでも何ひとつ答えたりはしなかった。
彼らも元ガンダムマイスターがそう簡単に口を割るとは思っていなかったのだろう。ましてや、既にソレスタルビーイングは滅んでいる。ガンダムも存在せず、ガンダムと同等の性能を持つMSとて、擬似GNドライヴを使ってこれから幾らでも開発できる。
だから、残された使い道はあとひとつ。
『MSに乗る気はないかね?』
その代わり、君にとって有益な情報をひとつだけ与えよう、と。
司法取引。
―――に、なるのか。一応は。世界の法律で守られるはずもないテロリストの分際であるとしても。
今更、武器を手に取るつもりはない。右目は潰れ、右手も自由に動かせない。こんな人間をテストパイロットにするなんて正気の沙汰とは思えないと嘲っても、それでも君の狙撃能力は群を抜いていると真顔で告げられた。
無視すればよかった。
その場で舌を噛んで―――例え再び強制的に治療されるとしても―――拒絶の意を示しておくべきだった。
そう、できなかったのは。
………彼に会えると。
何よりも欲しくてたまらない『餌』をちらつかされたからだった。
何も望んでいないし何を望む資格もない。
だが。
彼は大切な仲間で、信頼できる同志で、はにかんだ笑みや落ち着いた声音、相反する激情を抱え込んだ姿がどうしても忘れられなくて。
意志を、曲げて。
ガンダムマイスターとしての理念も、個人的な私怨も、何もかも捻じ伏せて。
持ち出された条件に乗ったのはもはやエゴと呼ぶことすらおぞましい『何か』だ。
再会した彼はやつれて見えた。意識が朦朧としていたのだろう、終に彼はこちらが『生きている』と気付くことはなかったが―――なんとなく、安心した。
紛争根絶を願うガンダムマイスターとしての自分も、家族の恨みを果たし、家族の未来を築くためにソレスタルビーイングに入った自分も、共にあの宇宙で死に果てた。
ここにあるのは未練がましく生き延びてしまった哀れな残骸だけだ。
だから。
アレルヤには「ロックオン・ストラトス」を死者として扱い続けてほしい。
「プロトタイプが仕上がったと連絡があった。折りよく中東が荒れていてね。性能を試しがてら出撃してもらうかもしれん」
「了解しました」
もはや何処にも逃げ場はないし何処にも行く気はない。
それでも自分はいつか必ずソレスタルビーイングが動き出すと確信しているし、刹那たちが死んだと思えない以上、アレルヤも救出されるに違いないと分かっているのだ。
そして、その日がいつか必ず来る以上、アロウズに加わった自身と戦うことになるのもまた明白な事実なのだ。
名乗り出るつもりはないし、戦闘パターンからそれと悟られるつもりもない。相変わらずの身勝手と知りながらもアレルヤが助け出される日までは生き延びて、彼らが連邦に牙を剥く日を待ち続けるのだ。
MSでの出撃は当然、指示されるだろう。命令に歯向かいはしない。戦場でソレスタルビーイングと対面できるなら本望だ。
そうしたら。
自らの能力不足を装って、かつての同僚たちが気付く暇もないほど呆気なく他愛無く、『敵』に一太刀浴びせるまでもなく殺されてみせるから。
どうしようもない成れの果ての分際で、かつての仲間に殺されたいだなんて高望みだと知りつつも尚、叶うことならガンダムマイスターの手で―――彼の、手で。
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