「逸れ精霊が出る?」 月の照らす夜道、ひとの集まる酒場、談笑するひとびとの声。
偶々立ち寄った町の一角でマスターの話に耳を傾ける。この手の場所での情報収集はベタだが役に立つ。取るに足らないものも多いが時として真実を隠した噂話に行き当たることもある。
だからいつもニールは、少し落ち着いた感じの町なら必ず酒場に行くようにしているのだ。勿論、美味い酒を飲みたいという多少の欲求も紛れてはいるけれど。
「要は『堕ちた』精霊ってことですか?」
物騒ですね、と、同じく杯を傾けながら穏やかに言葉を紡ぐのはアレルヤだ。
刹那やティエリアを伴っても良かったが、年端も行かぬこどもにしか見えない彼らを夜も遅くに連れ回すのは気が引けた。なので年少組みは留守番。
弟のライルも宿に残る方を選んだ。彼と自分は双子である。ひとりでさえ目立つ容姿をしているのに並んで歩いていたらより一層に衆目を集めてしまう。隠密行動の是非を分かっているのか―――と、ティエリアに説教されたからだが、だったらお前も刹那もアレルヤも充分以上に「美形」だし、目立つことに変わりはないんじゃないかとニールは思う。
それはさておき、問題は、いま仕入れた情報についてである。
主を持たず、彷徨っているだけの「逸れた」精霊であるならまだ良い。だが、そこに国の思惑が絡んでくると途端に胡散臭くなる。
初老の、ひとのよさそうなマスターはのんびりとグラスを拭きながら教えてくれる。
「実際に見た訳じゃないから詳しくはわからん。だが、この二、三ヶ月ほど、隣町に行く連中の多くが姿を消してるのは事実みたいだぜ」
「精霊じゃなくて山賊とか、もっと他の原因である可能性は?」
「闇夜に踊る水と炎と風を見たって話だ。正体がなんであれ、ただモンじゃあなかろう」
むかしから噂のある森ではあったが、以前は酒のひとつも土産に持ってきゃ通してくれる、いたずら好きの精霊のはずだったんだがな。昨今の不穏な空気を受けて変質しちまったのかもしれん。
そう語る主の話に耳を傾けながらニールは「なるほど」と頷いた。
刹那達と行動を共にするまではひとりで『堕ちた精霊』を狩っていた身である。マスターの話には信憑性があると長年のハンター生活で培われた勘が告げていた。
だが、かつてと異なり、いまのニールはひとりで行動してはならない身の上だ。
杯に残っていた酒を一気に飲み干して、アレルヤが気前よくも店で一番高い酒を追加注文する。
「でも、東へ抜けるのはその森を行くのが一番近道なんですよね? 遠回りするとどれぐらいかかりますか?」
「そうだなあ………」
気を良くしたマスターが幾つかの抜け道を教えてくれる。
確かに、安全度で言えばそちらの方が段違いに上だ。急がば回れとの格言もある。
だが、迂回路を選択した場合の余分な消費日数は事前の予想よりも多くなりそうだった。まして、本当にそちらが「安全」であるかなど誰にも言い切れない。
「ありがとな、また飲みにくるよ」
「ご馳走様でした」
「おお! あんたらに、セブンスの加護があらんことを!」
軽く手を振り合って店を後にする。
「思ってたよりも色んなお話を聞けましたね」
「ああ、意外と面白かったしな。刹那達に土産も買ったし、一緒に食べながら相談しようぜ」
「土産って………その腐ったナマモノですか?」
「ブルーチーズだよ。確かにちょっときついかもな」
笑い合い、語り合いながらも足元は揺らがず、周囲への警戒も怠らない。
夜道の先に立ち、さり気なくニールを背に庇いながら歩くのはアレルヤの癖だ。否。彼だけでない。他の仲間たちも、ふたりきりで行動する場面では誰もが自然とニールを護ろうとしてしまうのだろう。
(そんな性分じゃねえんだけどなあ)
密やかな溜息ひとつ。
ふたりは皆が待つ今日の宿場へと歩を向けた。
宿に帰り、相談をした結果、やはり森を抜けていくことに決めた。遠回りしても安全とは限らない上、また、いつ追っ手がやってくるかわからない状況を踏まえると、多少の危険を犯してでも前へ進むべきだと思われたのだ。
「前にそれやって見事に失敗したけどね!」
「気楽に言ってくれるな」
さり気なく駄目出しをしてくるアレルヤにニールは苦笑を零した。
朝になり、旅支度を整えたティエリアが人数分の細いブレスレットのようなものを差し出してくる。
「どうぞ。これをつけてください」
「なんだあ、これ?」
「昨日、兄さん達が出かけている間に作っておいたんだよ」
補足説明するのは弟のライルである。
一応は自分と並んでパーティ内で最年長。知識だけなら『セカンド』相当だ。
「この前会った騎士様達が使ってたアイテムにヒントを得た。俺達それぞれの『力』を練りこんだ紐を縒り合わせてある」
「へー………お祭りの時につける飾り紐みたいだな」
これさえ付けていれば多少遠くに離れていても互いの位置が分かるのだという。迷子札のようなものだ。『出来損ない』であるニールにとってはただの飾りでも精霊の手にかかれば確かな道標となる。
それに、少なくとも双子の転移魔法を使えばライルとニールは合流できるのだ。後は個々人がそれぞれにニールを探し出せば良い。
説明を聞いていた青年がふと表情を曇らせる。
「けど、それでもし俺がこれをどっかに落としたり、敵に奪われたりしたらどうするんだ? 逆にお前らの居場所がバレちまうことにならないか?」
「それはない」
きっぱりと否定を返したのは赤目をした少年の精霊である。
刹那は真正面からニールを見詰め、揺らがない声と表情とで応えた。
「この腕輪はお前の魂にだけ反応する。お前がつけていなければ意味はない。また、お前をもととして俺達の存在を気取られることもない」
「………そうか」
「お前は俺達を信用しているだけでいい」
「それは、勿論」
誰よりも頼りにしているさと笑いながら年下の友人の頭を撫でた。
気付けば問題の森はもうすぐだ。
町から森へと続く一本道は日の高い時間帯だと言うのにひとっこひとり見当たらない。もともと侘しい田舎道であったが、性質の悪い精霊が住み着いたとの噂が流れ始めてからはより一層に人気がなくなってしまったと、昨晩の酒屋のマスターが語っていたことを思い出す。
もし問題が起きたら森を抜けた先にあるという湖で落ち合おう。
そこまで話し合いながら、一歩、森の中へと足を踏み込んだ瞬間。
パァァ―――ッ………!!
「え?」
「なんだ!?」
「これは………!!」
「まさか!!」
地面に描かれた方円、浮かび上がる古の紋様。
アレルヤの、ライルの、刹那の、ティエリアの身体が浮かび上がる。
「お、おい! みんな―――っ!?」
咄嗟に伸ばしたニールの腕が空を切る。
辺りが眩い光に包まれて、次に目を開けた時には………その場には誰も残っていなかった。
ただひとり。
虚しく宙に手を伸ばしたままの青年だけを残して。
「マジ、か、よ………」
呆気に取られていたのは僅かな間。すぐに我を取り戻し、苦虫を噛み潰したような表情になる。
性質の悪い精霊が居るどころの話ではない。
これは罠だ。
しかも、精霊だけが引っ掛かるよう巧みに仕組まれた罠である。方円も紋様も既に消え失せているが、瞬間的に浮かんだ呪文には見覚えがあった。「四大元素の精霊が揃った時のみ発動する」制限を設けた上で、「四方に散らす」意図を持って刻まれた言葉の数々。
仲間達の行き先は分からずとも、森の方々に飛ばされたであろうことは察せられる。それに、故意か偶然か、あれは命を奪いかねない「強制転移」ではなかった。急なこととは言え皆が転送先で怪我を負っているとは考えにくい。
(だったら―――)
取るべき道はただひとつ。
森を突き進み、一刻も早く、集合地と定めた湖にたどり着くことである。
肩に担ったライフルを強く握り締め、ニールは再びの一歩を踏み出した。
と、その瞬間。
再び周囲が明るく輝きだし、反射的に身構える。
「なんだ!?」
素早く銃弾を装填し、距離を取り、狙いを定める。
だが、光と共に現れたのは弟のライルだったからだ。発していた光も見慣れた転移魔法のものだったと思い出して安堵の息を吐く。
ライルは兄の姿を認めて視線を和らげたものの、すぐにまた険しい顔つきになった。
「脅かすなよ、ライル! お前だったのか」
「ああ。―――『俺だけ』、だ」
「………刹那達は連れて来れなかったってことか」
「強制転移させられたことは分かったからな。逆にこっちも転移し返そうと思ったんだが」
兄さんのところへは戻ってこれたが、他はご覧の通りさ。
両手を広げて肩を竦める様は気楽そうではあるが、内心、かなり苛立っているであろうことが僅かな表情の変化から感じ取れた。
しばしの沈黙の後で徐にニールは切り出した。
「一先ず………湖へ向かおう。皆もきっとそこへ向かっているはずだ」
「そうだな」
「―――っと、待て、ライル」
「なんだよ?」
早速とばかりに歩き始めた弟の肩を掴んで引き止める。
すぐさま振り払われた手に寂しさを覚えつつ、彼が歩き始めたのとは逆方向を指差す。
「なんでわざわざ森の中を突っ切ってくんだ。道はこっちだろ?」
「は? そっちこそ下らない冗談はやめて―――いや………待てよ」
不機嫌さも露に言い返そうとしたところで口を噤み、風の精霊はますます眉間に皺を寄せた。
不貞腐れた表情と共に呻き声が洩れる。
「―――そういうこと、か」
「あん?」
「『幻惑』の術。たぶん、いや、確実に、俺と兄さんには違う道が見えてる」
仲間達と引き離すのみならず、正しい道に辿り付けない様に更なる術が上掛けされているのだ。随分と手の込んだ真似をしてくれる。
「じゃあ、俺が見てる道は間違いってことか」
「いいや、むしろ兄さんが見ている道の方が正しいと思う。………右目が右目だし」
最後の言葉だけはやたら小さく耳に響いた。
いまでこそニールの目は問題なく動いているが、隠れた存在が『存在』である以上、通常と異なる能力を宿しているのは疑うべくもない。
青年は瞬きを繰り返し、そっと、右目だけで辺りを見渡してみた。周囲の景色には何ら変わりはない。それでは、と験しに左目だけで周囲を確認してもやはり同じようにしか見えないので、むしろライルの方が正しい道が見えているのではないかと少し案じた。
「どっちにしろ、ぼーっと突っ立ってる訳にはいかねえだろ。―――先へ進もうぜ、兄さん」
「迷子に拍車がかかるかもしれないぞ」
「少なくとも、ふたりでいるんだから刹那達よりゃ安全だ」
クラス『セカンド』のライルに対し、他の仲間は未だクラス『ファースト』だ。
もしこれが何処かの国の刺客による戦力分断作戦だとすれば年下の仲間達の身が案じられた。
「そうだな。―――行こう」
いずれにせよ先へ進む他ないのだと互いを納得させ、ふたりは肩を並べて歩き出した。
―――その頃。
「………」
森の北側に飛ばされた刹那は、じっと前方を睨みつけていた。
すぐに自らが罠に嵌ったことを理解した。相手が誰であるかは関係ない。ただ、それは「罠」で、自分がそれに引っ掛かったのは事実。
惨めたらしく地面に寝転がっていたのはほんの僅かな合間。
すぐに飛び起き、遠くへと地を蹴った直後、元居た場所に細く鋭利なナイフが幾つも突き刺さった。微かに射し込む日光に煌めきだけを残してナイフは溶けて消えてしまう。
離れた位置にある岩の上に立つ人影を、確かに刹那の目は捉えていた。
気を抜けばすぐに闇に溶け込んでしまいそうな―――怪しくも不吉な、黒い影を。
獲物を仕留め損なったことを悟った相手は鈴を転がすような可愛らしい声で笑う。
「へーえ、キミの能力は『水』なのね。それもなかなかいいかな」
「………」
「なあに? 折角、褒めてあげてるのに反応ゼロ? ちょっとつまんない」
唇を尖らせて、手には氷で作り上げた鋭利な刃物を幾つも閃かせて。
風が巻き上げた木の葉の隙間。
太陽の光が対峙者の姿を映し出す。
赤毛を少し高い位置でふたつにまとめた、猫のような目をした少女。その目が、刹那を認めて楽しそうに細められる。
「あたしの名前は―――ネーナ」
一緒に遊んでよ。
刹那に切り込んできた刃の鋭さは、到底、少女のものとは思われなかった。
時を同じくして。
森の、西側。
「なあるほど。俺様の相手はお前って訳だ。ついてねーえ!」
「………それはお互い様だと思うけど?」
出会うや否やの剣での鋭い一撃を避け、アレルヤは不快そうに眉を顰めた。
隠れる気もないのか、堂々と姿を現したおちゃらけた雰囲気の青年は、クルクルと手の中で長めの剣を回している。
「あーあ。愛しの妹はあっちに行っちまうしよお。何処の馬の骨ともしんねえ奴と遣りあうだなんて、何かあったら責任取ってくれんだろうな? ああ?」
「誰に対しての責任なのかハッキリしてくれないと応えようもないよ」
「言うねえ、『出来損ない』!」
―――僅かにアレルヤの瞼が震えた。
見下されることも、侮られることも、適当に扱われることも、己が人生においては珍しいことではなかった。
最近こそニールを始めとした「まとも」な人間や精霊と付き合っているけれど、かつては、より深く、暗く、苦しく、居心地の悪い世界に居た。その世界でアレルヤとハレルヤはただひとつの『救い』を『彼女』に求めたのだ。
(落ち着けよ―――アレルヤ)
(分かってるよ―――ハレルヤ)
焦る心算はない。
挑発に乗る心算もない。
ただ、唯一、気にかかるのは。
(僕達を―――『出来損ない』と呼んだ)
そう呼ぶだけの「理由」や「事情」を知っているのではないかと。
引いては、求めて止まない探し人へ繋がる情報を有しているのではないかと。
ささやかながらも強い願いがこころの内に囁きかけて止まない。
攻撃属性を高めるナックルを両手に構え、アレルヤは視線を鋭くした。
「―――名前」
「ああ?」
「名前ぐらい聞かせてほしいな。キミを倒してしまう前に」
「はっ! そりゃあ、100%有り得ねえ!」
けどな、自分を殺す相手の名前ぐらい覚えておきたいだろう?
だから教えてやるよ!
「俺様の名は―――ミハエルだ!!」
降りかかってきた鋭い斬撃をアレルヤは拳で受け止めた。
そして、また。森の南側。
残るひとりの元にも。
「少しばかり、君達を侮っていたようだ。まさか『影縫い』を解けるとは」
「褒め言葉として受け取っておこう」
足元に散らばった矢を足で踏み潰し、ティエリアは眼鏡の蔓を軽く人差し指で押し上げた。
表面上は平静を取り繕っているものの実際には間一髪だったと理解している。転送直後に動きを封じるべく打ち込まれた魔力を有した矢。
返し技が出来たのは最近の襲撃の数々で鍛えられた反射神経のお陰だ。
ティエリアの前に姿を現した青年は、手にした弓に再び矢を番えるでもなくのんびりと構えている。
「誤解しないでもらいたい。我々は君達と戦いに来た訳ではないのだ。ただ、少し、ここでおとなしくしておいてもらいたいだけなのだ」
「その言葉を信じる根拠が何処にある」
「残念ながら、ない―――な。しかしこれは私なりの譲歩だ。君が此処に留まってくれるならば魔術談義に花を咲かす程度の興味は持ち合わせている」
いよいよもって少年の視線が鋭くなった。
足止めが目的だとこの青年は言い切った。彼の言葉が真実であるならば、他の仲間のもとへも同様の刺客が差し向けられているに違いない。
その狙いなど、ひとつしか思い浮かばなかった。
打って出るのもひとつの手だが、自分がこの青年の相手をしている限りは、彼の―――ニールのもとへ行く敵がひとり減ることに繋がるのだろうかとも考える。
「そちらは僕達のことを疾うに知っているらしいな。ならば、僕達がそちらの名前すら知らないのは不公平といえるのではないか」
「一理ある」
ふ、と笑みを深くして。
青年は告げた。
「私の名はヨハン。ヨハン・トリニティだ。―――ならばいま、『ヴェーダ』を巡っての純粋な議論を交わそうか、ティエリア・アーデ」
森は薄暗く、目の前にはひたすらに木々と草木の群れが続いている。如何に自分の目には「道」が見えていようとも、見るからに「旧街道です」といった風体に若干の迷いを覚えないでもない。そういう意味では隣を歩くライルの方が余程に落ち着いているのかもしれなかった。
(―――そういや………ライルとふたりきりになるのは久しぶりだな)
ふと、ニールは思い出した。
再会はとんでもない状況下だったし、風の谷で数日厄介になった時は他の仲間も合流していた。旅に出てからも野宿が主だし、部屋が取れたら取れたで、皆はニールにだけ寝所を提供して後は持ち回りで警備についてしまう。深窓の令嬢の如き扱いに辟易するのはいまに始まった話ではない。
「なあ、ライル」
「なんだよ」
「お前、もう、刹那達とは打ち解けられたのか? みんな個性的な奴らばっかりだしさあ」
「どれだけ一緒に戦ってきたと思ってるんだよ。大丈夫だって」
我が子がこども社会で馴染めているのかを気にする過保護な親じゃあるまいし。
との、明らかな呆れとからかいを含まれた言葉に「そうかもしれない」と逆に納得してしまった。
「そうだな………すまん。どうも俺ん中じゃ、まだ、一緒に住んでた頃の記憶が強くてよ」
「―――なるほど」
深い溜息をひとつ。
急にライルが歩調を速め、ニールを追い越して先頭に立った。
「おい、ライル」
「道理で兄さんの態度が全然改まらない訳だ」
振り向いた横顔は笑みを湛えていたものの、不機嫌であることが鋭い視線からすぐに察せられた。
「は? 態度?」
「この際だから言わせてもらうけどな。兄さん、はっきり言って過保護すぎんだよ。刹那やティエリアだけでなく! 何故か! 俺に対しても!」
つっけんどんな口調で告げられても心当たりなど皆無だ。
むしろ「過保護」なのはそっちだろうと反論すれば今度は鼻で笑われた。
「兄さんの場合は事情が事情だからな。イザという時に俺達が護るべきはあんただ。そのための保護と、そうでない時の保護を混同しないでもらいたいね」
「事情ぐらい俺も分かってる。だからこそ戦闘じゃ一歩引いてんじゃねえか」
仲間ばかり戦わせてなるものかと飛び出したくなるのをかろうじて堪え、後方に控え、ひたすらにサポートに勤めている。
ずっとひとりでハンターとして生きてきた。
仲間の援護など期待しないし、誰かを援護しようと考えたことなかった。
この数ヶ月で確実に戦闘スタイルは変更を余儀なくされているが、危急の場面で下手な意地を張るつもりはない。賭ける対象が互いの「命」である以上は我侭を通す意味はない。
だからこそ。
「何が不満なんだよ、ライル」
「全部―――とまでは言わねえ。もうそれは兄さんの根っこに染み付いた性分みたいなものだし。けど、俺としては」
せめて、俺だけは。
「危険から遠ざけようとするために手を離すのは論外だ。むしろ俺をこそ巻き込め。―――家族じゃねえか」
振り向いた翡翠の瞳が揺らぐ。
同じ服を着たならば咄嗟に見分けがつかないと言われるほどそっくりな自分達の、それでも、個々が見れば確実に違うと感じられる瞳の色。
思い出す。
いつもいつも、咄嗟に、遠ざけてきた掌。
巻き込むことをよしとせずに振り払った。
返答に窮した兄の姿に何を思ったか感じたか、僅かに表情を緩めて相手は苦笑を浮かべる。
見覚えのない、けれどもひどく懐かしい、おとなびた表情だった。
「………自覚、してねえんだろうなあ」
「ライル?」
「他の連中は自己犠牲っつーけど、俺は、そうは言ってやんねえよ。それはただの我侭だ。エゴだ。偽善だ」
誰かが傷つくことに自分が耐えられないから先に自分が傷つくだけの。
「―――悪癖。治せよな」
「ライル………」
「お。やっぱ兄さんの道案内で合ってたな! あれ、目的地の湖じゃねえの?」
何の気なしにライルが会話を転じて、木立の向こうを指差す。木々の合間には確かに水面が見えていた。森を抜けたところにあるという湖で間違いあるまい。
無事に辿り着けた安堵と、他に人影がないことに感じるほのかな不安。
湖の畔まで来ると一気に視界が拓けた。
「やっぱり、刹那達はまだ来てないか」
「でもまあ此処を基点に上手く転移魔法を………」
ライルが背負っていた荷物を足元に置いた。
―――直後。
ふたりの周囲を黒い炎が取り囲んだ。
「なんだ!?」
「ちっ!」
即座に背中合わせになり迎撃体勢を取る。
ニールはライフルに弾を装填し、ライルは魔力を蓄える。手の甲にぼんやりと精霊の紋様が浮かび上がった。
晴れ渡った空すらも一気に暗黒と成さしめる程の威力と魔力。
未だ忘れるには早すぎる記憶が同時に脳裏を駆け巡る。あの時は仲間の力を借りてかろうじて追い払ったが―――いまは。
空高くから笑い声が降りてくる。
「仲がいいねえ、お前さん方は! ま、言っちまえば想像通りの組み合わせだけどな?」
宙に浮かんだ男。
黒い衣装、黒い覆面、合間から覗く瞳は暗く、髪は赤く。
―――あの後。
旅をする中で刹那はなんと語っていたか。
『堕ちた』精霊。
ありとあらゆる国を渡り歩き、戦場を掻き乱し、姿を消した男―――『アリー・アル・サーシェス』。
僅かに覗く瞳が嬉しそうに歪んだ。
「おお、いいねえ、その表情。どうやらこっちのことはご存知らしい。クルジスのガキは元気か?」
「何の用だか知らないが、俺達は急いでるんだ。退屈しのぎなら他でやってくれ」
前に進み出たニールが躊躇なく銃口を相手へと向ける。常ならば迷う行為でも相手が相手だ。実力差は先日の一件で痛いほどに感じている。
背後に控えたライルが密やかな詠唱を終え、周囲に守護の力が宿るのが分かった。
それらすべてを見越した上で男が笑う。「わかってないねえ」、と。
「嫌がる相手にするから―――暇つぶしの意味があるんだろーが!!」
一閃。
飛来した黒い炎を跳んで避ける。
周囲が瞬時に焼き尽くされ、木々が燃え上がる。守護の力が働いていなければ確実に大火傷だ。
ライルが護身用の短刀を手に切り込む。軽く避けられ、舌打ちし、飛びのいた男の背を狙ってニールが銃を撃つも黒い炎で焼き尽くされる。
駄目だ。あの炎を超えなければ致命傷は与えられない。
(炎に克つためには『水』―――刹那………! だが、二重三重に打ち込んだところで………!)
弾丸自体に力を重ねがけすることはできるだろうかと、未だ制御下にない『ヴェーダ』の力に想いを馳せる。
短刀の攻撃力を『風』の力で増幅させ、ライルが深く切り込んだ。
「―――理解できねえな! てめえの考えは!」
「ああ!?」
「依頼人は『ヴェーダ』の命を所望してんだろーが! 兄さんまで殺そうとしてどうするよ!!」
「はっ!! 関係ねえよ」
攻撃を紙一重で避けながら男はひとを小馬鹿にした笑みを浮かべる。
瞬間―――こちらを見た瞳の色に―――ニールは、背筋が震え上がる思いがした。
「俺自身は生きてても死んでても構わねえ………途中で死んじまったなら、そいつの運が悪かっただけのことよ!」
「こ、の、外道ぉぉ!!」
「おいおい、ふざけてんじゃねえぞ! ホンモノの外道ってのはなあ!!」
男の瞳が鈍く煌いた。
短刀が炎に巻き込まれて融け消え、瞬時の動揺を隠せなかったライルの頭を鷲掴みする。
右手で喉を封じ、首を巻き込み、腹に膝を入れる。
自身とほぼ同等の背丈の青年を投げ飛ばし、地に横たわった背に拳を叩き込み、呻き声を上げた顔を片足で踏み潰す。
上体をゆっくりと起こし、一糸乱れぬ風情で低く笑った。
「せめて、こーんぐらいはしねえと『外道』の謗りには相応しくねえよなあ?」
「ぐっ………!」
「おっと! そちらのオニーサマもおとなしくしてもらおうか」
にんまりと笑みを深くして嘲笑う。
「このままこいつブッ殺してテメェを連れ去って終わりにしてもいいんだがな………それじゃあつまらねえ。月並みだが、とりあえず武器を全部捨ててもらおうか?」
アリーに踏みつけられながらもかろうじて視線を上向けたライルが、そんな奴の言うことを聞くな! と視線で訴える。
だが、少しでも迷いを見せればこの男はすぐにでも弟を殺す。容赦のない空いてであることは疾うに理解していた。
せめてもの反感を示すようにあからさまな舌打ちをし、ニールは、ライフルと共に背負っていたザックを遠くへ放り投げた。
「ジャケットも脱げよ。それから、腹に巻いてる奴と脇の下のホルダー。背中。ズボンのポケットと踝の裏側に弾ぁ隠してやがんな。外せ」
「………」
「いっそ全裸になれって命じてもいいんだけどよお。さすがに男の裸に興味はねえわ」
「奇遇だな。俺も男に見られる趣味はない」
内心で密かに臍を噛んだ。武器の隠し場所がことごとく読まれている。ハンター時代に幾つも編み出した秘密の隠し場所もアリーのような人間にはひどく分かりやすいものだったのだろう。
命令通りに全ての武器を投げ捨て、本当に、完全な丸腰となる。
「今更だが―――弟を解放する条件は?」
「聞ける立場か? 身の程を知れよ、『お姫様』。それよりこっちに来な」
ペットか召使を呼ぶように手招きされる。
どこまで近付かせるつもりなのか。至近距離まで行けばニール自身の危険も高まるがライルを奪い返すチャンスも増える。そしてまた、こちらがそう考えていることもアリーは計算済みだ。つくづく遣り辛い相手である。
ある程度近付いた段階で伸びてきた手に襟首を掴まれ、グッと引き寄せられた。
息がかかるほどの距離で睨み合う。
男の暗い瞳が堪え切れない愉悦を湛えていた。
「………見れば見るほどそっくりでいやがる。双子ってぇ存在は不気味なもんだ」
「そうでもないさ。家族も仲間も必要ないお前には関係ない話だろうがな」
「言うねえ、青二才」
くつくつと笑いながら男は空いている右掌をくるりとひっくり返す。
その手に握られた、漆黒の短刀。
禍々しい色を湛えた刃には赤い刻印が浮かび上がり、詳細は読み取れずとも、ロクでもない品であることだけはひしひしと感じられた。
尖った刃の切っ先が右目のすぐ隣に突き立てられる。
瞬きをする毎に睫が刃を掠める。
アリーは実に嬉しそうに笑った。
「抉りだしてやろうか」
「―――そうしたいならそうすればいい。テメェの技術でどうこう出来るってんならな」
脅えてなどやらない、怯んでなどやらない。
瞼を掠める切っ先にも不思議と恐怖はわかなかった。
ただ、やるならやれと。無様な姿など晒してやるものかと。足許で虐げられている弟の分まで矜持を持って立つ。
ひたひたと頬を刃で叩かれる度にひりつくような痛みを感じるのは、やはり、刃自体に何らかの魔力が籠められているためか。所有しているだけで持ち主を呪うアイテムなどごまんとある。ましてや、持ち主がこの男であるのなら。
「………おもしれえ」
低く、深く、満足そうに。
即座に手首を返し、漆黒の刃が翡翠の瞳へ突き立てられる―――寸前。
「う、―――おおおおおっ!!」
突風が湧き起こり大波に浚われる木の葉の如くニールとアリーの身体を引き離した。あまりの勢いにバランスを崩し、転倒しかかった身体を誰かが捕まえる。
「ライル!?」
「はっはあ! この俺の拘束を解いたか! レベル『セカンド』如きがよくやるぜ!」
空中でピタリと静止し、平然と風を受け止めながら漆黒の男が笑う。
兄の身体を引き寄せた青年がひどく呼吸を荒げているのとは対象的だ。ニールには精霊の術の如何など分かるはずもないが、弟がひどく無茶をしたのであろうことはすぐに察せられた。
風はすぐに収まり、ライルは地に膝をつく。
確かに解放はされた、が、状況はなんら改善していない。むしろ丸腰であるだけ始まりよりも分が悪い。仲間の援軍も期待できない今、どうするか。
必死に考えを巡らせるニールの前で、不意に、妙な出来事が起きた。
宙に浮かんだ、アリーの姿が透けているのだ。
「―――おっと残念。時間切れか」
にやにやと笑う男の姿が徐々に背後の空に溶け込んで行く。
微かな声で男は「戻れ、『トリニティ』」と呟いた。
だが、それが目の前のふたりに届くことはなく―――ただ、同時刻に。
「タイムアップかあ。もっと遊びたかったのに」
少女は猫のように目をくるりと閃かせ、
「『出来損ない』風情がよく持ちこたえたと褒めてやるぜ」
青年は嘲りの笑いを浮かべ、
「やはり君達は無知に等しいのだな。残念だ」
男はあからさまな溜息を吐いた。
刃を、拳を、言葉を交わしていた相手に見向きもせずに踵を返し、漆黒の男と同じように背後の闇へと溶け込んで行く。
「また………何処かで」
出会う機会があるならばその時は―――と。
同じ言葉と意識を伝えて。
双子と相対していた男も同様に歪んだ笑みを浮かべ、ふざけた態度で手を振った。
「やっぱ幻影での戦闘じゃ実感わかなくていけねーわ。また今度揉んでやるよ。そんときまでに実力磨いておくんだな」
「待て!」
「調子に乗るんじゃねえ、若造。テメェなんざ『実体』で相手するまでもねえっつってんだ」
階級の差はイタイほど身に染みてんだろうがと、地に蹲る風の精霊を見下ろす。
それから、と。
ニールへと視線を流し瞳の色を深め。
「マジでそのうち抉り取ってやるぜ………その目玉。標本にしたら好事家に売れそうだ」
甲高い笑い声と共に姿を消す。
後には表現しようのない沈黙と、倦怠と、うすら寒さだけが残された。
しばしの沈黙ののち―――動き出したのはライルが先だった。
「………兄さん」
「え? あ、ああ」
「刹那達と合流しようぜ。いまならこいつも反応する」
腕飾りを掲げての言葉には繕いようがない疲労が滲んでいた。
仲間達の状況も気になるが、先ずはライルが回復しなければ転移魔法すら使えない。少し休まなければならないだろう。ニールもまた、自らの無力さに歯噛みしつつ、散らばってしまった上着や道具類を拾い集めた。
未だ考えはまとまらず、傾く太陽と共に疲労は徐々に精神と身体を蝕んで行く。
「………ライル」
返事は期待しない。
聞いている気配は伝わる。それだけでいい。
「その………悪癖とか何とか言ってたが―――俺が無茶すんのは、お前らを信頼してるからだ。さっきのことだって、お前がどうにかしてくれると思ってたから、無防備になっても近づけたんだ。本当だぜ?」
「階級の差があっても?」
「階級の差があっても」
真顔で頷きを返す。と、蹲って膝を抱えていた弟が肩を震わせた。
くつくつと声を上げて笑い、目元を強引に掌で拭って。
「あー………! なっさけねえし、カッコ悪い!!」
「馬鹿。カッコ悪さなら俺のが上だ」
シャツ一枚の上に素足だぞ。わざとらしく不貞腐れながら手を差し伸べる。
「―――武器、拾うの手伝ってくれよ。風で散らかしたのはお前だろ」
「そのお陰で助かったんじゃねえか」
「それとこれとは話が別だ。ほら、早く!」
重ねての呼びかけに弟は苦笑いし、僅かな逡巡の後に、兄の手を借りて立ち上がった。
間もなく、刹那も、アレルヤも、ティエリアも戻ってくる。揃ったら早速いましがたの件について話し合い、策を練る必要がある。
だが、どれほどにその必要があったとて。
先ずは互いの無事を喜ぶ言葉を掛け合いたいと―――双子らしく、それぞれが胸中で同じ感慨を抱くのであった。
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