強い風が雲を吹き飛ばす。
張り巡らされたバリア越しであっても風の流れは顕著に感じられる。
プトレマイオスの高度はいつもよりもやや低く、『ヴェーダ』の影を意識しながら海上を浮遊している。 共に甲板に並び立ち、空と海の果てを見据える。
水平線と地平線の交わる場所。
何の変哲もない風景に思えども、あれが今回の目的地。
「本当に、ひとりで大丈夫なのですか」
「そう心配すんな。適材適所って言葉があるだろ?」
気遣う少年―――ティエリアの問いに青年―――ニールはあっけらかんと答える。
傍らでは愛機『デュナメス』と相棒のハロが共に出番を待っている。
目指すは旧世代の頃より『魔の地帯』と呼ばれる海域。通りかかる船や飛行機がことごとく消息を絶つとされている謎めいた場所。
ゴーグルを装着しながらニールが懐かしそうに目を細める。
「思い出すよなあ。あの頃はまだお前さんも『ヴァーチェ』に乗りなれてなかったっけ」
「今は違います。やはり―――この任務は私に下されるべきなのでは」
「お前さんは何かあった時のとっておきだ。異変があったらすぐに知らせるから、そうしたら駆けつけてくれ」
もし戻っていたらエースパイロット様と一緒にな、と、別任務でプトレマイオスを離れている男の名を上げる。
「んじゃ―――ちょっくら、行って来るぜ!」
名目上はただの『試運転』であるが故に見送りの人間も疎らだ。アレルヤも、ハレルヤも、刹那でさえも、他の訓練メニューをこなしている最中であるために此処にはいない。管制室のスメラギとイアンだけが行く末を見守っている。
もしかしたら甲板にいる彼の姿を見るのは自分が最後になるのだろうか?
否。
断じてそんなことにはさせない。
強く拳を握り締め、ティエリアはデュナメスに乗り込むパイロットの背を見送るのだった。
それは、丁度1年ほど前の出来事。
ティエリアが初めてプトレマイオスを訪れた。
砂漠に埋もれて終わるはずの運命を偶々通りかかったパイロットに救われた。
余計なことをしてくれたと初めこそ忌々しく思いもしたものの、共に過ごす内に、彼を通じて「ニンゲン」への興味がわいて来た。
彼を追って軍に入りたいと願い出たのもその延長線上の感情ゆえである。通常なら叶うはずもない願いは、しかし、不思議と軍からの許可が下り、晴れて入隊の運びとなった。
自身が戦闘機の知識を持ち合わせていることを少年は青年へ告げていた。青年もまた、それを上に報告したと思われる。入隊式の除外、健康診断の免除など、数々の特例を許してもらえていることを踏まえると、彼の知っていることを洗いざらい報告したのかもしれなかった。
ティエリアに否やはない。
もとより我儘を言っている自覚はある。ましてや、これから背中を預け合う関係になろうと言うのに、出自のすべてを隠していては得られる信頼も得られないと感じた。
「あらあ。その子があなたのお勧めの新人? 随分若いし、綺麗な子なのね」
最初に訪れた執務室で笑いながら迎え入れてくれたのは専属気象予報士のスメラギだった。
非常に優秀な人物だと聞いている、ひとは見かけによらないことも知っている―――が、床の其処彼処に瓶の類が無造作に転がっているのはどうかと感じた。
ニールがそっとティエリアの肩を叩く。
「ああ、そうだ。俺の家族みたいなものなんだ。よろしく頼むよ」
「任せなさい―――と言ってあげたいけれど、細かいことは私だけでは決められないわ。もう顔見せはすませたの? せめてイアンとモレノと………セルゲイ大佐には直に話を通しておきなさい」
「そのつもりです」
深々と一礼をして執務室を辞した。
プトレマイオスの話はニールから色々と聞かせてもらってはいたが、やはり、実際に目で見ると印象がかなり違う。
思ったよりも広く、常に誰かしらが動いている「気配」がする。生活の音、と言い換えてもいい。だが、この船も夜の時間帯になれば静まり返り、空を飛ぶ低い駆動音のみが辺りを支配するのだろう。
瞬間、脳裏を白いノイズが駆け巡った。
白亜の宮殿。
機械仕掛けの天蓋。
そこに居た、複数の―――。
(………っ)
捉えきれない幻影を追うのを止めるようにティエリアは緩く頭を振った。
「ニール。………何処へ向かっているのですか」
「ん? ああ、おやっさん達のところさ。おやっさん―――イアンさんは整備士で、モレノさんは医者だ。セルゲイ大佐ってのは人革連所属のひとなんだが前に話したことあったか?」
「名前と簡単な戦績だけならば」
「だったら話は早いな。今度、大佐が寄港した時に改めて紹介するよ」
生憎と今日は任務中みたいだ。他にも色々と紹介したい奴はいるんだが、どうにもお前さんは注目集め過ぎててなあ、とクスクス笑いを零す。
すれ違う兵士達が気軽に挨拶の声をかけ、甲板で修練中の新卒兵達は憧れの視線を送る。
ニールはそれらすべてを「新しく入ってきた少年」に注がれた視線であると解釈しているようだが、どう考えても半分は間違いなく彼宛のものである。鈍い男だ、一流パイロットのくせに。
ここが食堂、あっちが休憩室、左手に進むとメインブリッジがあって、右手に曲がると俺達が入ってきた甲板に続いてる、と、順番に案内される。
尚、彼の相棒「ハロ」は現在『デュナメス』のセンサーテスト中であるため不在である。良きにつけ悪しきにつけ「ニンゲン」に然程興味の持てないティエリアとしては、「ハロ」の方が余程に気が合う予感がした。
10分ぐらい歩くと整備ドッグへ到着した。数多の戦闘機がひしめき、大勢のメカニック達が所狭しと立ち回っている。いつ何時、召集がかかるか分からない戦場だ。自然、彼らの動きは研ぎ澄まされたものとなる。
見上げる鋼鉄の機体。
勇ましくも威圧的、優美にも鮮烈。
「ティエリア。お前はどれに乗りたい?」
「余剰機体があるのですか。物資は不足することはあっても充足することはない」
「俺の見立てだとお前さんは『ヴァーチェ』一択だな。なに、余所からの不満なんて、きっちり乗りこなしちまえば問題ないさ」
にんまりと笑う青年の言葉は答えになっているような、微妙にずれているような。
多くの機材を乗り越え、一際大きな戦闘機の角を曲がったところでニールが大きく声を上げた。
「おやっさーん! ちょっといいかー!?」
「なんだ? どうした」
戦闘機の下から、全身機械油まみれの男がにょっきりと顔を覗かせた。
天井のライトに眩しそうに目を細め、先ずはニールを、それから隣のティエリアを見る。
「なるほど」と一言呟いて、然程の驚きも見せずに眼鏡の男は立ち上がった。
「こいつがお前さんの言ってた新人パイロット候補か」
「ああ。今日きたばっかりなんで面通ししとこうと思ってよ。ほら、挨拶」
「ティエリア・アーデです。よろしくお願いします」
メカニックに逆らってもいいことはない。ぶっきら棒ながらも言葉だけは丁寧に手を差し出せば「油で汚れちまうからやめとけ」と遠慮された。
「イアン・ヴァスティだ。見ての通り、メカニック担当だよ。お前さんの話はニールから聞いていたが………思ってた以上にほそっこいな」
「どのような話を聞いていたのですか」
「優秀なパイロット候補生をひとり連れてくってな。だが、そんなに細くて体力はもつのか?」
自らの体格がいささか不安を誘うであろうことはティエリアにも分かっている。外見上の同年代と比べてやせ過ぎ、ということはないが、筋骨隆々で逞しい訳でもない。戦場で叩き上げてきた兵士たちよりも頼りなく思えて当然だ。
「こう見えて、こいつ、かなりしっかりしてるぜ? な、おやっさん。それよかこいつに『ヴァーチェ』を見せてやってくれよ」
「しかしなあ、あの機体は情報処理にかかる負荷がでかくて、もうちょいプログラムを改善しねえと実戦での使用は難しいと言われている。本当にいいのか?」
「勿論」
何の根拠があってか、ニールはあっさりと頷いた。
イアンは少し考え込むようにしていたが、永年の付き合いであるパイロットの言葉を信じてみることにしたのだろう。
じゃあ試してみるかと呟いて、後方に控えていた大きな―――先程も見かけた―――機体を指差した。
「細かいことは後回しだ。先ずは動かせなくちゃ話にならねえ」
「試運転できるのか?」
「整備はいつだってできてるさ。本当の修羅場になったらパイロット適正云々を話している暇はない。その辺の候補生でも突っ込んで何処かへ移動させる必要があるからな」
技術の粋を詰め込んだ『ガンダム』シリーズは人命よりも優先される機密事項の塊である。
僅かにニールは不愉快そうに眉を顰めたが、戦闘機の重要さは、戦いの先陣を切るパイロットだからこそ強く感じているはずである。敵と戦おうにも武器や食料などの先立つものがなければ如何にもならないのだ。
格納庫の隅に鎮座した『ヴァーチェ』は胴体がずんぐりと丸い、独特のフォルムをしていた。
コックピットには数多の機械とコード類が剥き出しのまま置かれていて、出発準備はともかく、未完成な機体であることを伺わせた。
なるほど。
これらの計器類すべてを同時に操りつつ、しかも敵からの攻撃も避けて他への指示を出さねばならないとすれば、余程の演算処理能力が必要になると思われた。
普通のパイロットはレーダーと肉眼で敵の位置を把握するが、この機体においては積み込まれた幾つもの監視スコープとプログラムによる空間把握能力が『目』の代わりを成す。
「離陸許可は」
「ミス・スメラギさんに会ってきました」
「そうか………なら、まあ、いいだろ。いまのところ『ヴェーダ』の影も見えねえしな」
気象予報士に会ってきたのは事実だが、試運転の話など全くしていなかったと思うのだが―――ニールとスメラギの間で知らぬ間に秘密の合図でも交わしていたのだろうか。もとより『ヴァーチェ』のパイロットが決まっていないのだから、実力が未知数の新人で試してみるのもひとつの手と考えたのかもしれない。
一般兵士用の救急胴衣を身につけ、シートベルトを締め、ゴーグルとメットを装着する。
シールドが閉じるとただでさえ狭苦しいコックピットが更に息苦しく感じられた。
『いいか、ティエリア。念のために説明しておくと………』
イアンの指示に従って起動用スイッチを順に入れていく。通常戦闘機の操作方法なら脳内に「刷り込まれて」いるが、どうやらこの『ヴァーチェ』、一癖も二癖もある機体のようだ。手順は煩雑、かつ神経質。手動入力する条件設定数値をひとつでも誤れば起動さえしないのだ。
ポツポツと内部に計器類の放つ光が満ちる。
システム・オールグリーン―――戦闘機が「目覚めた」。
途端に頭が重くなる。物理的なものではない、プログラムによる負荷が脳にかかっているのだ。
『難しそうだったらすぐに言えよ!』
「………問題ありません。続けてください」
気遣わしげなニールの言葉に否定を返す。
この程度のことで音を上げていてはパイロットなど務まらない。彼と共に空を翔けるなど出来ようはずもない。
案内通りに操作していると、メカニックルームから甲板へと通じる扉が開いた。
誘導灯が点灯する。
『ええ? おやっさん。いきなり飛ばす気か?』
『飛行訓練をするなら今がチャンスだ。本当の緊急事態下では練習などさせてくれんぞ』
それにお前さんは、ティエリアが「乗りこなせる」証拠を見せることで上層部を説き伏せようとしてるんだろう?
―――整備士の呟きは、本来ならば聞こえないはずの音量であった。
だが、『ヴァーチェ』に接続して五感が研ぎ澄まされた少年の耳には生憎と届いてしまった。
もとより失敗する心算などなかったがますます責任は重大だ。慎重に操縦桿を倒し、既存の「知識」に則って機体を動かす。
目の前の空間が開け、何処までも澄み切った空の青が視界を埋め尽くす。
ティエリアにはすぐに『ヴァーチェ』の動かし方が「わかった」。己が手足を動かすが如く、基地を飛び出した機体の動きに迷いはない。右旋回、左旋回、宙返り、何でもござれだ。
『いい調子じゃないか、ティエリア』
「はい」
『でも、初っ端から長距離飛行は勧められねえ。無理は禁物だ。そろそろ帰って来い』
如何に自在に操れるとて、体力面に不安があることに変わりはない。ここはおとなしく言うことを聞いておこう。
「わかりました。ティエリア・アーデ、帰還し………!?」
突如、何か大きな力に引っ張られたように機体が大きく揺れた。
操縦桿が動かない。故障? トラブル? まさか! システムはすべて正常値を示している!
『どうした、ティエリア!』
「わ、わからない! だが、急に乱気流に巻き込まれたように………!」
『乱気流だと!?』
イアンが叫び、数瞬後、舌打ちが響いた。
『―――トライアングル・ウォール!』
『それって、不意に出現するってあれか!?』
『今日に限ってプトレマイオスの付近に停滞してやがったとはな。ティエリア、しっかりしろよ! すぐに救援に向かう!』
トライアングル・ウォール。
旧世代において語り継がれた海の伝説。「バミューダ・トライアングル」の呼称をもじって名づけられた現象。
その地帯に突入した飛行機や船は制御能力を失い、行方不明となる。
厄介なことにこの現象は「移動する」のだ。気象予報士たるスメラギでもその動きを予測することは極めて困難であり、未だ発生原因も、ルートも、逃走手段すら判明していない。
数秒前までは前までは青く澄み切っていた空が俄かに掻き曇り、あっと言う間に機体の周囲を雷雲が取り囲む。天候の変化が激しすぎて対処しきれない。僅かに届く基地からの通信だけがティエリアの生命線であり、また、通信越しに基地の兵士達が混乱している様が感じ取れた。
万が一、プトレマイオスが丸ごとトライアングル・ウォールに突っ込んでしまったらどうなるのか―――などと考えたくもない。
横風に煽られて機体が大きく揺らぐ。懸命にバランス取りつつ、だが、方向を定めることさえ侭ならない。
(どうすれば………!)
背中を嫌な汗が流れた、直後。
バシュッ………!!
鋭い音と共に空の一部が明るくなった。
疑いなく、間違いようもない、太陽の如き眩さ。
すぐに意図を察し、ティエリアは渾身の力をもって機首を光の方角へ向けた。
機体はいまもって回転し続け、計器類は滅茶苦茶な数値を叩き出し、視界一面が灰色に染め上げられ上下の判断さえ侭ならない。
いや、上下はかろうじて判断できる。
先程打ち上げられた信号弾のお陰で。
『………リ、ア………ッ………!』
途切れがちな音声。
聞き間違えることない青年の声。
『………を………っ! しん………!!………』
「―――ラジャー!!」
かすれがちな声を研ぎ澄ませた五感で聞き取る。
明滅し続ける信号弾に機首を向けたまま、ティエリアもまた、「上」と思しき方角めがけて信号弾を上げる。自らの居場所を知らせるために。
大きく機体が揺らぎ―――ふ、と意識が遠退いた次の瞬間。
激しい頭痛に襲われた。
同時、『ヴァーチェ』は大きく機体を震わせながらも水平飛行へ移る。灰色の世界から水色の世界に視界が移り変わる。
雷雲を脱し、眼前に水平線が広がった。
『―――………リョウ! ハッキング・カンリョウ! ティエリア、ダイジョウブ? ティエリア、ダイジョウブ?』
覚えのある機械音声が鳴り響き、異常値を叩き出していた制御パネルが通常に戻る。
強制的に外から「立て直したのか」―――と。
理解はしたが、突如として回線に割り込まれた負担にティエリアの体力は限界近かった。
『ティエリア! 無事か!?』
「は………は、い………」
『機体の制御はハロが行う。お前はそのまま操縦桿だけ握っててくれ! ………無茶をさせて、すまなかった』
ニールの声には苦渋の色が滲んでいる。
落ち着いて周囲を見渡せば遥か後方にプトレマイオスと、自機を追いかけてくる『デュナメス』が居た。
(あんなに離れてしまったのか………)
我武者羅に突き進んでいる内に航路を随分と離れてしまったらしい。だが、今回のことは不慮の事故だ。青年の責任は追及されずに済むだろうか。
深く息を吐きながらティエリアは静かに目を閉じ、機体の行く先を独立AIへと委ねたのであった。
―――あの時は本当に危なかった。
ティエリアが無事に帰ってきてくれて本当に良かった。
当時のことを思い返すにつけ、ニールは何度でも同じ感想を抱く。あれは、外部からの接続で全ての制御を行える『ヴァーチェ』だからこそ為し得た技であろう。
今度は自分の番だ。
曲がりなりにもパイロットとして「先輩」である以上は情けない姿など見せられない。
「よーし、行くぞ、ハロ! ………つっても今回は偵察だけだ。深入りはしねえからな」
『リョウカイ! リョウカイ!』
パタパタと耳をはためかせる相棒の声を聞きながらニールは慎重に方角を定めた。
これまでに何度も戦闘機を墜落させたトライアングル・ウォール。
人類にとって『ヴェーダ』は言うまでもない敵だが、この、謎の「三角地帯」については聊か意見が分かれていた。浮遊センサーでさえも同様に墜落する以上、一概に「敵」と判じることは出来かねた。
最近になって漸く凡その進路予測が可能となり、被害は減ったが、未だ詳細の知れぬ不思議な存在であることに変わりはない。
そんな中途半端な状況に一石を投じるべく、今回改めて調査が行われる運びとなったのだ。
トライアングル・ウォールに観測用の衛星を打ち込み、内部の様子を探る。『デュナメス』が選ばれたのは遠距離攻撃を得意としているからだ。他の機体ではギリギリまで近付く必要があるが、『デュナメス』ならある程度の距離を稼げる。
それでも念には念を入れ、プトレマイオスを巻き込まずにすむよう、ニールはトライアングル・ウォール進行方向の横手から仕掛けることにした。
(小型観測衛星は3体―――先ずは1体撃ち込んで様子を見る)
空は晴れ渡り、到底、正面方向にトライアングル・ウォールがあるとは思えない。
だが、不可視の透明な「壁」を越えた瞬間に天候は急変し、突風に煽られ多くの戦闘機が墜落する。傍から見ていれば前触れもなくバランスを崩して自滅したとしか思われない光景を、ニールは幾度となく目の当たりにしてきたのだ。
(距離7000………6000………5000………!)
『デュナメス』の攻撃可能範囲ギリギリまで接近し、照準を定める。
(―――いまだ!)
「狙い撃つぜ!!」
小型衛星が赤い軌跡を描いて真っ直ぐに飛んで行く。
青空を横切る光線が、ふと、見えない幕にぶち当たったかの如く姿を消した。
直後。
ブワッ………!
渦を巻きながら沸き起こる空気の『両手』を、確かに、ニールは『視』た。
「なっ―――!?」
『どうしたんです! 何があったんですか!』
『目標物マデ零距離! 零距離! インターバル・ロスト! インターバル・ロスト!!』
豪雨と突風に煽られて錐揉み落下。
複数のシステムを即座にハロの制御下に切り替え、自身はバランスを取ることに専念する。両翼を固定されたかの如く操縦桿が動かない。
視界は灰色一色。
雷鳴、雷光、降り注ぐ豪雨。
「くっ!!」
せめてもの意地とばかりに2体目と3体目の小型衛星を続けざまに放つ。
これで最低限の任務は果たした。後は帰還するだけだ。何はなくとも、自らは無理でも、『デュナメス』と『ハロ』は必ず帰還させてみせる。
覚悟を決めた瞬間、ふっ………と、機体の揺れが収まった。
「え………?」
正面の闇を見据える。
雨は止み、風は収まり、稲光さえも遠ざかり。
それでも尚、両翼を空気の腕で掴まれているような嫌な感覚は続いている。
無言のまま見詰め続ける世界。
灰色の雲の合間から。
垣間見える、ふたつの―――真紅の………。
『―――姫!!』
突然の声にビクリと身体が跳ね上がった。
真紅の「ナニモノ」かは姿を晦ます。
『姫、応答してくれ! いまから君を助けに行く! そのための道筋をどうか示してくれ!』
「グラハム!?」
『探査対象、トライアングル・ウォール! フィールド展開!!』
忘れようにも忘れられないエースの声と、緊張を帯びた少年の声と。
ティエリアの機体が、『ヴァーチェ』が、動く。幾つもの小型探査機を操り、広範囲での探索を開始する。彼は今、トライアングル・ウォール全域を探るようにプログラムを走らせたのだ。
何のために?
無論―――仲間を救うためにだ!
「―――ハロ! 収集可能な限りの位置情報を『ヴァーチェ』に転送!」
『任サレテ! 任サレテ!』
「ティエリア、聞こえるか!? いまから『上』に向けて長距離弾を放つ! そっから位置を割り出し、修正したデータをフラッグに!」
『ラジャー!』
「グラハム! あんた、いま何処に居るんだ!?」
『いつでも君のこころの中に!!』
「そーゆー冗談は後回しにしろ!」
緊張感のない奴だと呆れると同時、少し肩の荷が下りた気がした。
『ふむ、そうだな! 鳥瞰図で伝えたならばプトレマイオスが南方、正午10000にトライアングル・ウォール、2時の方向に私がいる!』
「だったらあんたは真っ直ぐ攻撃してくれ。それだけできっと―――当たる!」
『姫の思い、しかと受け止めた!』
短い遣り取りの間にも前方から例えがたい威圧感が圧し掛かってくる。
ぎしぎしと両翼が軋むくせに胴体部分は物音ひとつしない。目に見えない『何者か』は、まるで、鳥の羽根をもいで遊ぶことだけを目的としているかのようだ。
雲の中に垣間見えた赤いもの。
正体など知らないし、分かるはずもない。
だが、先程放った衛星が何処かで生き残っているなら―――いつかは。
精神を統一すべく目を閉じ、開き直した時には、ニールの瞳は驚くほどの冷たさを湛えていた。
「各機、インターバルは2秒! 10秒で現場を離脱する!」
『リョウカイ、リョウカイ!』
「カウント!!」
『2!』
ハロの目が明滅した。
『4!』
ティエリアが叫ぶ。
『6!』
グラハムが長距離弾を放つ。
「8!!」
砲門を開け、眼前の「何もない空間」に全弾を叩きつける。
コンマ数秒の遅れを持って飛来したグラハムの長距離弾が同じ「もの」へ命中する。
目に見えず、耳にも聞こえない苦悶の声と共に両翼を捕らえる力が弱まった。すぐさま操縦桿を倒し、擬似太陽炉をフル稼働させた。
鮮烈な光が周囲を照らし出し、光の中を一直線に駆け抜ける。
「―――10!!」
抜けた………!
グラハムとティエリアの更なる追撃がトライアングル・ウォールの中枢で爆発した。
爆風に押されて『デュナメス』は更に距離を稼ぐ。
だが、いまの攻撃を受けてもトライアングル・ウォールは消えはしないだろう。遠ざかっていく不可思議な『気配』に安堵の念を抱きつつ、ニールはそっと息を吐いた。
目の前に広がる蒼い海と広い空。
不安を孕む灰色は既に遥か後方だ。
計器類は正常値を取り戻し、通信がようやく安定する。
『………ル! ニール・ディランディ! 応答願います!』
「―――ティエリアか。大丈夫だ。すまん、結局お前さんの手を借りることになっちまったな」
『いえ………あの時の借りを、返したまでです』
冷静さを振舞いながらも喜びを隠し切れていない少年の言葉に笑みが浮かんだ。
労をねぎらうようにハロの頭を撫でてやっていると右側に見慣れた機体が併走した。
『姫! 無事でよかった!』
「グラハム! ―――あんたのお陰で助かったよ。ありがとう。けど、随分早く帰ってきてたんだな?」
『妙な予感がしたので無理を言って早めに出立させてもらったのだ。そうしてプトレマイオスに立ち寄ってみれば案の定だ。世界の秘密に対して抜け駆けで調査を行うのは感心できん』
要は、自分もトライアングル・ウォールに突っ込んでみたかっただけなのだ、この男は。
あんたは無茶を許される立場じゃないだろうと自分のことは放っておいてニールは思う。
『ところで、姫。結局トライアングル・ウォールとは何なのだ? 攻撃を命じた時の君は何らかの確信を得ているように見受けられたが………』
「別に何もねえよ。ただ、俺は―――」
突然の強風も、雷も、豪雨も。
中に居る「モノ」がわざと起こしているものだとしたら。
目に見えないと思っているのは自分達だけで、内側からはすべて「筒抜け」なのだとしたら。
―――ニールが思いつくようなことは既に上層部でも検討しているに違いない。それでいて尚、掴めないのがトライアングル・ウォールの正体なのだ。
「………世の中に少しぐらい、『不思議』が残っていてもいいんじゃないかと思っただけだ」
御伽噺ではない世界だからこそ、有り得ない浪漫や夢物語を求めている。
ふたりの機影を認めたティエリアがプトレマイオスの甲板で大きく手を振った。傍にはイアンやスメラギの姿も見える。
傾きかけた日に照らし出されたその光景はまるで絵物語のように美しいと―――。
ふと。
ニールは感じたのだった。
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