慣れなかった制服も幾度も袖を通している内に慣れてくる。鏡に映る姿に違和感を覚えても続けていれば何も感じなくなる。これは、この組織がひとつの理念に基づいて行動していることの証。言葉だけではなく、目に見える形で表すための手段。
思えば自分たちはほとんど仲間内での会話をしなかった。当時はそれを当たり前のことだと思っていたし、自分のような出自の者にとっては全てを「守秘義務だ」の一言で片付けられるのは便利だった。
でも、いまは思う。あんな切羽詰った状況になる前に、取り戻せなくなる前に、もっと色々と話して、笑って、怒って、相手のことを―――知っておきたかったと。過去を振り返った際に語れるほどの思い出がないとはどれほどの悲劇か。ほとんどの時間はミッションと訓練に費やされ、穏やかなこころに残る記憶など片手の指で事足りるほどだ。薄れていく記憶の輪郭。自分でさえこうなのだから、普通の人間はもっと容易く記憶も想いも痛みも紛らわしてしまえるのだろう。 忘却は神が与えた最大の慈悲である、と。
言っていたのは果たして誰だったか。
それは真実の一面を表しているが全てではない。全てであっていいはずがない、と、鏡の中の己を睨みながら考える。世の中には忘れてもいいことと忘れてはいけないことがある。己に降りかかった数多の事象の中から選び取って思い続けなければならないものがある。
つけっぱなしの端末から零れてくるのは東西の国々で起こる暴動、反乱、鎮圧のニュース。
けれども、これらのニュースが一般人の耳に届くことは、ない。
届く前に握り潰される。そういう世界だ―――いまは。
彼が、望んだのは。
自分たちが、願ったのは。
こんな世界ではなかったはずだと唇を噛み締める。握り締めた拳の中、爪が掌に食い込んでも苛立ちが抑え切れない。深く息を吐いて呼吸を落ち着ける。
こんな、世界を。
認めたくないから、変えたいから、どうにかしたいからこその戦いだ。
自分たちは滅ぼされた。滅びることによって某かを訴えかけたはずだった。でも、まだ、何も変わっていないし、始まっていない。
力を失った。仲間を失った。基地を失った。
それでも立ち上がる。立ち上がらなければならない。失って、失って、自分たちが味わった喪失を、またしても世界に突きつけることになろうとも。
握り締めた右の拳で鏡の端を突く。
クリスティナ。時に煩わしさを感じる程に明るい女だった。
リヒテンダール。すっとぼけた顔で笑う気さくな男だった。
モレノ。確かな知識を持った頼りになる医師だった。
そして。
そして―――………。
何故、彼らが。
何故、失われなければならなかったと叫んでも思っても詰っても考えても。
自分たちの仕掛けた戦いは同じだけの悲劇を世界中に生み出していたはずだ。それがガンダムであろうとスローネであろうと、あるいは既に統合してしまった三大陣営のモビルスーツであろうと何であろうと奪われた者からすれば大差ない。
巻き込まれた者、家族を失った者、一生癒えない傷を負うことになった者。
それら全てが変革のために必要な犠牲だったのかと問われれば、―――迷うに違いない。かつては簡単に切り捨てることができたそれらを切り捨てることができないでいる。割り切れないでいる。
遣り切れない。
「………あなた、は」
最期の瞬間に何を見たのか、何を思ったのか、何を願ったのか。
苦しかったのか、何も感じなかったのか、満足していたのか、悔やんでいたのか、変えられない世界に絶望したのか、己が非力さを嘆いたのか、果たせない約束の数々に涙したのか。
最期の瞬間、彼の中に去来したものが。
絶望だけではなかったことを願う―――せめて、某かの、希望を。救いを。癒しを。
願ったところでどうしようもないけれど、願えるような立場ではないとしても、せめて、逝かねばならなかった彼らのこころに訪れたものが、慟哭と絶望と後悔だけではなかったことを祈る。強く、願う。
ヒトは変わらねばならなかった。
繰り返す争いを終わらせなければならなかった。
そのためには全ての人類が『痛み』を覚えることが必要で―――そこには、自分たちソレスタルビーイングの面々も含まれていたのなら。
彼を、彼女らを、失ったことが。
自分たちが戦争の根絶をより一層、強く願うために必要な『痛み』だったとするならば。
それは確かに消えない傷、に、なった。
もう戻らない。戻らないからこそ嘆き、怒り、こんな世界なんて嫌だと叫ぶ。叫ぶだけの時代を終わらせて、実際に行動を起こすための決意を抱ける。
戦い続ける。
自らの行動が、攻撃が、新たな悲劇を生むと知っていても。
落ち着きを取り戻した世界を再び引っ掻き回すのはやめろと、所詮はテロリストのくせにと、罪のない者たちを殺す極悪人だと謗られても、恨まれても、憎まれても。
それでも、叶えないと。
叶えないと、自分は。
自分たちは。
存在して、『痛み』を、世界に知らしめなければ。
「………何故………っ」
意志は失われていない。
遺志は受け継がれている。
自分の中に、ガンダムマイスターの中に、ソレスタルビーイングの面々の中に。遥か昔に存在した孤独な天才科学者の思想のもとに集った人々の中に。
「何故………!」
刹那・F・セイエイは戻ってこない。
アレルヤ・ハプティズムは行方が分からない。
スメラギ・李・ノリエガは姿を消した。
―――だが。
彼らは、生きている。
生きて、戦うことができる。全てを諦めて武器を捨てるのも彼らの自由だが、世界の歪みを目の当たりにした者たちがただ無為に時間を過ごせるはずがあるものか。
目の前にある多くの選択肢の中から、選び取るはずだ、その道を。
生きて、―――いる、から。
「何故………死ん………っ………!」
鏡に押し付けた拳が震える。
声が震える。
疾うに受け入れたはずの事実を未だ諦め切れないと喚いている。
姿見に映る自分の姿はあの頃と寸分の違いもない。せめてこの身が他の者と同じように明らかな身体的変化を遂げる造りであったなら、自身の容姿の移り変わりに時の流れを見い出して簡単に忘れ去ることもできたのだろうか。
消し去れない記憶は厄介だ。
深い、深い傷跡が、忘れかけては疼き出す。
だからせめて自分は、自分にできることを。目指したものを。彼の遺志を継ぐためだけではなく、それ以上に、抑え切れない衝動のために。
世界を。
―――変えるために。
深く、息を吐く。こころを落ち着ける。
分かっている。受け入れた。受け入れたのだ、自分は。喪われた者は二度と戻らないということを。だからこそいとおしく、大切で、守りたくて仕方が無くなるのだと。
きっと、組織に参加した時からそれを痛感していたから、彼は優しかった。仲間たちを繋ぐ糸のひとつであろうとした。似通っているのに重ならない傷を抱えた面々の中でも殊更に拘っていた。
奪われることの理不尽さを知っていたからだ。既に経験していたからだ。その『痛み』を。
あの、喪失を。もう二度と味わいたくはない。
身をもって実感したいまだからこそ、より強く戦争の根絶を願うことができる。
「………矛盾、しているな」
鏡の中の自分が憂い顔で自嘲する。
自らの『痛み』を他者にも強要するのかと詰られれば簡単には言い返せない。
でも、全てを任務だと割り切ってしまえたかつての己よりも、矛盾を抱えたいまの己をより気に入っているのは何故だろう。
多かれ少なかれ誰もが抱え込んでいる矛盾を否定することはできないし、したくもない。
きっと、それでいいのだと思う。
彼もまた頷いてくれると思った。間違いを犯すのが人間だと、そう語ってくれた彼ならば。大切なのは間違いを犯したことを受け入れる勇気と、過ちを犯した後の行動如何だと促してくれる気がした。恨まれる覚悟、憎まれる覚悟、討たれる覚悟と共に前へ進めと。
瞬きをひとつ。
鏡に映る視線は揺らがない。
立ち止まることはできない。世界は歪んでいる。再び、マイスターを集める必要がある。協力者を得る必要がある。
強く。
ひとつだけ頷いて。
遠くから己を呼ばわる声に、ティエリアは自室の扉を開けた。
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