世界の果てを見たことがあるか、と問われたことがある。
世界の果てを見たことがあるか、グラハム。もしお前が軍に入るなら、戦闘機に乗ることがあるなら一度でもいい。世界の果てを目指してみるべきだ。
そう、目を輝かせて語ってくれた恩師もいまはいない。
こんな澄み切った夜空を眺めていると妙にセンチメンタルな気分になるものだと吐息を白く凍らせながらグラハムは僅かに苦笑を零した。
深夜から朝に向かうこの時間帯、常よりも北に進路を取りつつあるプトレマイオスはすっかり冷え込んでいた。だが、いつもとは異なり部屋の其処彼処に灯りがついている。特にプレゼンルームから漏れてくる光と声は相当なもので未だかなりの人数が夜通し騒いでいることが察せられた。
一年の終わりから一年の始まりへ。
年越しの瞬間の乾杯シーンにはグラハムも居合わせていた。かなりほろ酔い気分でいたのも記憶に新しいが、いまは会場を抜け出してこんなところで油を売っている。もう少し居るべきだったかと妙に殊勝なことを考えてしまうのは、参加したかったのに参加できなかった人物を知っているからだ。本当はアポロニウスへ向かう任務なんてないはずだった、勿論入ってしまった以上はそちらを優先するに決まっているが、色々と出し物も考えていたのに残念だ、だから絶対に時間内に戻って来ると軽い口調でありながらも真剣な眼差しで呟かれた言葉を聞いていたからだ。
しかして、彼は未だ戻らない。
だから、たぶん、余計に淋しい。
彼自身も参加すると何の根拠もなく思い込んでいただけに、いざ叶わないとなると変な虚しさを覚えてしまう。我侭なものだ。彼がいなくとも他に親しくしている友人や信頼すべき同僚や誇りに思える部下が居たのに、一杯どうですかと声をかけてきた彼らの誘いを断るのに微塵の迷いも感じはしなかった。
いまは凍えるような空気と寒々とした甲板上の空気が己を取り巻くすべてだ。カツカツと靴の先端で甲板を叩けば硬い音が返る。薄っすらと氷が張っているのだ。彼方に浮かぶ月は蒼く、星は瞬き、少し視線を転じたならば薄蒼く照り返された雲海が目に入る。
絶景だ。
胸を、締め付けられるほどに。
飛び降りれば地に叩きつけられるより先に周囲の景色に目を奪われることは確実で、堕ちる途中で気絶して自覚なしに身体が砕けたならば、自らの『死』にすら気付かぬまま意識だけは空を飛び続けるのかもしれない。
ただの夢物語だとしても。
あの朗らかな上司の魂が好きなだけ空を飛んでいるのだと考えることは、なかなかに素敵なことに思われた。
悴んだてのひらを重ね合わせたところでポケット内の端末が震えていることに気付いた。誰からの着信かを確認して、少し、笑う。タイミングがいいのか悪いのか。あるいはダリルやハワード辺りが頼み込んだのか。
相手の姿をホログラフで映し出すこともできる高性能モバイルではあるが、表示された着信の知らせはサウンドオンリー。彼の戦闘機が未だ帰還していないことを考えれば当然か。
意を決して端末の受信を許可した。
「私だ」
『―――私だ、じゃねえよ。散々待たせやがって』
苦笑混じりに届いた声は僅かに途切れがちで随分と小さい。相手との距離を感じさせるそれに意味なく青褪めた空を見上げた。
まだ、陽は昇らない。
「待たせてしまったことは謝罪しよう。君の声を聴けたことを嬉しく思うよ、姫」
『だから姫は―――まあいいや。何はともあれ新年おめでとう、グラハム』
「おめでとう、ニール。君の相棒はどうしている?」
『ハロならスリープモードで待機中だ。そっちは? 皆まだ騒いでるのか?』
「ほとんどは寝てしまったと思うが、まだ騒いでいる連中もいるな。声が聞こえる』
任務の首尾について重ねて尋ねれば問題ないさと軽く返された。確かに、彼が任務において失敗らしい失敗をしたことはない。不確定要素に段取りを壊されることはあっても最終的には成果をあげる。実に優秀な軍人だと賞賛しても誰からも異論はないに違いない。
吹き付ける風が密やかに音を立てる。遠く、空が白んでくるのを目の当たりにしながらゆっくりと甲板上を欄干にそって歩いた。
不思議な沈黙が落ちる。何か躊躇うような気配の後に、あらためてやわらかく落ち着いた声が響く。
『グラハム。そこから何か見えるのか?』
「少なくとも君はまだ見えない」
『ああ、いや、そうじゃなくてさ。………そうだな。オレの居るところからは空と雲しか見えない。時たま高い山の天辺が見えるくらいでな。雲が途切れて地上が見えても、ひどく遠いんだ』
「高度をトレミーに合わせているのなら君もまた雲の上に居る。ともすれば視界に入るのは果て無き空と雲、天上の主、更には帰るべき場所のみということになる」
『星よりも月の光が強くて、月に照り返される雲海まで蒼い。―――まるで海だな』
底なしの、と。
妙に揺れて感じられる彼の言葉に、歩みを止めてその光景を思い描いてみた。
空の色も雲の色も己が甲板から見ているものと大差あるまい。違うとすればその圧倒的な迫力か。基地に身を寄せる立場と異なり、空を舞う者が頼れるのは真実自らと機体のみ。普段は賑やかな言葉を交わす相方さえもいまは沈黙を貫いているとあらば襲い来る静寂はどれほどのものか。
鉄製の冷え切った柵に背を預ける。反り返るように天を仰げば視界を占めるのは堕ちかけた月と僅かに白さを増した夜空ばかり。
誰も視界に映らない。
誰もいない。 ひとりきりだ。
「―――私の恩師が言っていた」
端末を掴んだ右手をだらりと垂らし、背中を柵に完全に預けて、左手を天に伸ばす。
月は既に空の遥か下方だ。
「空を飛ぶ以上は、世界の果てを見てみなければとてつもなく損なのだと」
何者も拒まず何者も寄せ付けない天の偉大さを見ろ。
堂々と行く手を阻む白き絶対者を見据えろ。
すれ違う戦闘機の羽根と羽根、撃ち合ったビームの描く光跡、贈られた言葉、途切れる通信。堕ちて行く翼が纏った炎の色を覚えている。
蒼い海原とは対極の色。
「ニール」
焦げ付いた機体から回収されたのは。
「いま、我々の目の前にあるのは果ての光景か?」
何があるわけでもない、誰がいるわけでもない、世界の果てなのか。
伸ばした腕が何も掴まずにいる内に端末からささやかな声が響いた。ああ、あんたは本当にロマンチストだなと笑いながら、
『グラハム。この世に果てなんてものは存在しないんだ』
―――幻想なんざ捨てちまえと唆す。
地上はまっ平らなテーブルなんだと信じていた時代ならいざ知らず、既にして人類はこの星が球形であることを悟っている。果てへ果てへと飛び続ければ、いつかはもとの場所に戻って来ることを疾うに知っている。
『果てを目指してたはずが、いつの間にか振り出しに戻ってるなんてなかなか皮肉だと思わないか?』
「故にこそ果てはないと? 現実的だな」
『まあな』
先刻まで言葉の端に滲んでいた揺らぎをかき消して彼は笑う。そうか、かろうじて掴み掛けた彼の輪郭を逃してしまったのだと気が付いて遅ればせながら舌打ちをした。
我が事に気を取られているからこういうことになる。彼は滅多に本音を見せない。だからこそ少しの機会で最大の結果を得ようとしていたはずなのに。これまでに彼が弱さらしい弱さを垣間見せたのなんて、酔って眠り込んでしまったあの時ぐらいのものだ。
倒していた身体を起こして漸う白んできた空を睨みつけた。
太陽は、何処にいる。
「君は果てなどないのだと嘯く。ならばいま、蒼い空と雲の海を見て何を思う。諦観か。孤独か。寂寥か。自然の偉大さに対するヒトの矮小さか」
『それを感じたのはあんたじゃないのか?』
「君が抱いた感情にこそ興味がある」
『だから、どうしてそこでオレの感想―――………そういや前にも―――』
「どうかしたかね」
後半の呟きは本当に小さなもので、話を逸らしたなと思いつつも敢えて流されてみる。純粋に言葉の続きに興味があったのかもしれない。
『悪い。話を逸らしたかった訳じゃ―――うん。ちっと思い出したっつーか。………覚えてないかもしれないけどさ。以前、あんた、同情でも憐憫でも貰えるものならばって言ってたなあって』
言った。
確かに言った。
それは彼が弱さを垣間見せ、彼の家族らしき人物の名前を零したのと同じ日のことだ。
あんたが、オレから向けられる感情がどうだのオレの感想を聞きたいだのと、いつもみたいな自己主張より先にこちらのことを訊いて来るからペースが狂うんじゃないかと勝手な愚痴を零される。
『―――同情や憐憫の情ならば容易く好意に転じるっつってたが、それってどうなのかと思ってさ』
少なくともオレはそうじゃない、と、彼は呟いた。
同情は同情でしかなく憐憫は憐憫に過ぎず、それを好意の一種と捉えることは可能だとしても、何かが根本的に違う気がしてしまうのだ。
憐れむのは自らの内に余裕のようなものが存在するからで、相手に自分の常識を押し付けているにも等しくて、ともすれば自らが相手よりも上の立場にいると無意識に考えているからかもしれなくて、純粋な感情を歪んだ視点でしか見れないことをまた哀しく感じるとしても。
『頼むからさ。いちいちオレの反応なんか気にしないでくれよ。何かを期待されたところで、オレはあんたに同情はしないし、憐れむこともできない』
あんたは充分以上に強いし、出自こそ可哀想がられる要素を持っているとしても仲間がいて友人がいて戦う意志を持っていて、見様によっちゃあ淋しい人間になるのかもしれないが何よりオレ自身がそうとは認めたくなくてそんな感情を向けたくなくて。
ああ、でも、上手く言えないな。
同情したくないってのは確かなんだが、たぶん、それよりも。
何処かたどたどしい困ったような口調で言葉を紡いでいく。
少しずつ明けていく空を眺めながら、不思議と、彼は彼自身のために言葉を重ねているのではないのかもしれないと感じられてきた。
そうだ。
確かに、彼が「いつもと違う」と零したように、彼の呼び出しに応じた時の自分はやや「らしくない」心境に陥りかけていた。
だとすれば、彼は。
『そういうんじゃなくてさ、もっと単純に、理屈なんか関係なしにさ。オレは―――オレは、誰もが躊躇う中でひとり出撃するだなんてバカができるあんたを。あんたの生き方を。好ましく思うよ』
自分以外の誰かを。
励ます、ための。
知らず、不敵な笑みが口元に浮かんだ。
「―――仲間を救いに行くのはバカなことかね?」
『時と場合を考えない奴はみんなバカに決まってんだろ。いまのあんただってそうさ。宴会の席を離れてひとりで月見? 偶にはいいけどブツブツぼやきながら見てたって楽しくないだろ。みんなあんたを捜してるに決まってんだからカッコつけて登場してやれよ』
「なるほど。つまるところ君は私に弱みを見せるなと言いたい訳だ」
『そこまで言うつもりはないぜ? ただ、―――そうだな。こっちの調子が狂うからな。あんまりにもグズグズしてるようだったら殴りに行ってやる』
「君に殴られるのは痛そうだ」
『誰に殴られたって痛いだろ』
精神的な意味で告げたのだがイマイチ上手く伝わらなかったらしい。
何とはなしに楽しくなってきて、背筋を伸ばして今一度、天を睨みつけた。この空の何処かには『ヴェーダ』がいる。もしかしたらこちらを攻撃しようとセンサーを展開している最中かもしれない。
だが、それがなんだ。
「君が私の堕落や停滞を止めてくれるのならば安心だ! いつかこの魂が折れたならば君の拳でバラバラに壊せばいい」
『いやいや、流石にそれはまずいだろ!』
「何がだ? 破壊してこその再生もあると私は思うがね」
雲間から差し込んだ一条の筋に目を細め、いよいよ朝が近付いたことを知る。吐く息が白く周囲を凍らせるのがはっきりと目に映るほどに。
トレミーが見えてきた。
と。随分と明瞭になった彼の声が喜ぶ。
『ところで、あんたはいま甲板にいるんだな?』
「そうだが」
『だったらしっかり柵に掴まってるか、一旦奥に引っ込んだ方が得策だぜ。―――特等席は甲板だろうけどな』
「どういう―――」
意味か、と問い掛けるより先に何かの起動音が端末の向こうから響く。
『GNリュウシ、チャージカンリョウ! GNリュウシ、チャージカンリョウ!』
『新年会に参加できなかった腹いせってね。よっしゃ、ハロ! いっちょやったろうぜ!』
「姫!?」
青年の言葉に被さったのはスリープモードに入っていたはずの独立AIの声。ならば先刻響いた音はスリープの解除音か、どうして解除する必要があるのだ着陸だけなら彼ひとりでもこなせるはず、あるいはもとからスリープではなく作業中だったのか、―――それ以前にGN粒子をどうしろと。
呼び掛けに応じない端末を潔く諦め、左手を鉄柵に絡ませて太陽の果てを透かし見た。
地平から放たれる光が見事な太陽柱を描いている。
その中に浮かぶ光点。
緑と白の意匠が施されたガンダム・デュナメス。視認するが速いか否か、まったく速度を落とすことなく突っ込んでくる。
近い。
速い。
方向転換もない。
―――ちょっと待て。
「っっっ!!」
耳を劈く轟音と共に頭上スレスレを戦闘機が通過した。
一瞬遅れた突風に激しく煽られると共に機体が纏っていた雲の欠片や水蒸気を頭から思い切り引っ被る。忠告を聞き入れて柵に掴まっていなかったら問答無用で吹っ飛ばされていたに違いない。
宙で大きく反転した機影は再び酷似したルートを辿って甲板の真上、管制室やブリーフィングルーム、各部屋の窓を衝撃波で激しく震わせた。真紅のGN粒子が降り注ぐ。二度の飛来にトレミーの面々が気付かぬはずもない。騒然となった艦内から甲板へ走り出てくる者、窓を開けて声高に叫ぶ者、戦闘機を指差して制御不能になったのか!? と慌てる者。到着を待っていた整備員たちは誘導灯を片手に途方に暮れて、この分では管制室も上を下への大騒ぎに相違ない。
何をするつもりだとずぶ濡れで彼の行方を見上げれば。
基地のごくごく近くを回遊する戦闘機から零れ出た真紅の粒子が空に軌跡を描く。昇り始めた太陽の光が反射して眩しさを増す。
ぎょっとした。
コックピットが開いて彼が上半身を覗かせたのだ。操縦はハロに任せているとしても何と言う無茶、何と言う無謀! 肩に担ぎ上げたのは何かあった時のためにと彼が常備しているスコープで、いまはそれに幾本かのコードが接続されていることさえもグラハムの目はしっかと捉えていた。
短い間隔で彼が空を撃つ。粒子量さえも調節されているらしきそれは何も無い宙に赤い線だけを描いて留まる。
幾度かの周遊と更に幾度かの軌跡。太陽を正面からではなく、僅かに透かし見る巧妙な角度で。
雲間をすり抜けた水蒸気が真紅の粒子と混ざり合い、雨と化して降り注ぐ。ともすれば人間の中を流れる体液と酷似したそれは、しかし、いまばかりは太陽と水で色合いを和らげていっそ花弁が降り積もりかの如く。
最後の仕上げを完了した彼が高く両手を掲げた。
自分だけではない。基地に所属する全員に、騒動を見ている者すべてに、あるいは偶然にもこの時間にこの方角を見上げた者たちすべてに贈る一言を。
L I V E !
―――どんな手品を施したのか。
宙に留まって形を成す文字に周囲からの歓声、笑い声、人騒がせだと渋面を作りながらも心底からは嫌がっていない人々の声。
生きる。
生きている。
ここまで生き抜いてきた、そして、これから先も。
―――生きることの、宣誓だ。
「………は、ははっ。ははははは!!」
満面の笑みが零れた。
ああ、ああ、なんてバカな真似だ、なんてバカな行為だ! 新年会に参加できなかった腹いせをこんな形で晴らすとは恐れ入るほどの捻くれ者。こんなことを仕出かすくせによくも他人の行動を「バカ」などと評してくれたものだ!
上半身を無防備に晒したそのままに両手を振る彼は遠目にも明らかに笑っている。パートナーのおふざけに付き合わされる独立AIも大変だ。さしものプログラミングの塊も呆れ返っているだろう。いや、むしろ誇らしく思うのか? ほんの一時、ほんの一瞬であっても、誰かのこころが浮き立てばいいと行われる実に自分勝手な振る舞いの数々を。
―――バカだな!
「無論、私は誇りに思うとも!!」
高らかに宣言して日の光に溶け始めた凍てつく甲板の上を走り出す。
戦闘機は着陸態勢に入る。
着陸ポイントには整備員ばかりか他の面々も駆けつけだしている。彼を出迎えて、バカだあほだすごいなやってくれるじゃないかと呆れて叱って褒め称えて嘆いて苦笑して、マトモな人間には「迷惑だ」、「つまらない」、「くだらない」と一笑にふされるに違いない出来事と時間を共有するために。
きっと彼は後からセルゲイやカティやスメラギに怒られ、苦笑され、始末書を書かされ、新年早々の幾日かを反省室で過ごす羽目になるのだろう。時に、彼の馬鹿げた行為を好ましく思った者たちから差し入れを貰いながら。
だが、それは今日、この瞬間が終わってからの話だ。
いまは他の誰に後れを取るつもりもない。
いの一番に駆けつけて祝福と賞賛の言葉を贈ると共に、彼の視線を真っ先に受けるのは自分だ。そして何よりも、
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