人間とは自分勝手な生き物だ。そう思う。
誰かを気遣っているつもりでも誰かのためだけに生きることは出来ないし、求めるものが得られなければ絶望するし、拒絶もする。こんなものは嘘だと叫んで事実を否定し僅かな希望に縋って無駄な足掻きを繰り返す。
どれだけの苦しみと悲しみを経験しても同じ道を選ぶ。愚かな道ばかりを選ぶ。
歴史を紐解けば誰の目にも明らかな事実。失って傷ついてもう二度と同じ過ちは繰り返さないと誓ったはずなのに。
どうしてだろう、何故だろう、変わらなければいけない、変わるべきだ、変わるためにはどうすればいいのかと、疑問を抱く者とて多いのに。
それでも世界は終わらずに続いて行く。
何を失おうとも変わらずに地球は回り続ける。
決して直に触れることの出来ない領域で現実を見せ付ける絶対的な存在として。
透明なガラス越しに見える青い球体を手でなぞってほんの僅かばかり目を細めた。人間が、あの青い姿を実際に目にしたのはもう三百年以上前になると言うのに―――。
何故。
未だに。
「刹那」
呼び声に視線だけを動かすと、重傷のはずの男がのんびりとやって来るところだった。
「なにしてるんだ」
「―――」
応えることなく、隣に並んで同じように眼下の地球を眺めやる。こちらから見える横顔には無骨な黒い眼帯がつけられていた。瞳の色はガラスに反射した姿からしか窺い知ることが出来ない。
無言のままあらためて視線を地球へと戻す。
「もうすぐ出発だろ」
「ああ」
「すまないな。オレもついて行きたかったんだが―――」
「お前は休んでいろ」
セリフを遮るとちょっとだけ驚いたように瞬きを繰り返された。
仕方が無いなぁと言う様に苦笑を洩らして、伸ばした腕でこちらの頭を撫でる。まだこころの何処かでこちらを子供扱いしているのか。そう思うことは少し業腹だった。
「答え、見つけて来いよ」
軽く首肯することで同意となし、けれども、抑え切れない妙な予感と共にぽつりと零す。
「―――分からない」
「分からないから見つけに行くんだろ?」
「どうすればオレの手に収まる」
掴みかけては零れていく現実、事実、真実。
救えなかった仲間の命、自らの手で奪った母親の命、止まらない世界の流れ。
足掻くしかないことは分かっている。信じた道を只管に進むことぐらいしか自分に出来ることはないのだということも。
それでも、尚。 まだ。
何も、この手には。
食い入るように目の前の青い星を見詰めていると、すぐ傍らの人間がゆっくりと微笑んだようだった。
「刹那」
声がやわらかい。
「手ぇ、貸してみ?」
「………」
内心で首を傾げながらも請われたままに左手を差し出す。
じれったくなるほどのんびりと、彼は、黒手袋に包まれた右手を重ねてきた。指と指とを組み合わせてしっかりと結びつける。無機物を一枚隔てて触れているはずなのにあたたかさを感じるのは彼が持つ穏やかな空気の所為だろうか。
にっこりと相手が微笑んだ。
「刹那。いまお前が左手で触れているものはなんだ?」
「………お前の、手だ」
ガンダムマイスターの手だ。
仲間の手だ。
ロックオン・ストラトスの―――ニール・ディランディの、手、だ。
お利口さん、と彼はまた笑う。
「そうだ。現実に、触れている手だ」
「―――」
「………なあ、刹那」
繋いだ手はそのままに視線を正面へと戻す。一度はこちらを向いた瞳が逸らされてしまうのを、なんとなく寂しいと感じた。
「答えだの意志だの未来だの、ヒトの中にしか存在し得ないものを掴もうとしたら、そりゃあ苦しいだろうよ。おまけに、そういったもんに限って一度は捕らえたと思っても容易く何処かに逃げ込んじまう―――消えたり、失ったり、見えなくなったりな」
「………」
でも。
この『現実』はちゃんと傍にあるだろう? と。
握り締めた指先に微かに力が篭もる。
「目に見える現実と目に見えない現実をごっちゃにすんのは危険だ。でもな、刹那。迷った時はほんのちょっとでもいい。誰かに頼れ。声を聞き、耳を傾け、言葉を交わし、お前の考えを伝えろ。少なくともそれは触れることのできる現実だし、理解できる真実だ」
「それは」
ふ、と。
思った。
「お前自身が『現実』に居ることの証明か」
「―――そう、だな。そうかも、な」
へにゃり、と。
珍しくもどこか幼い表情で彼は笑った。
「時々、だけどな。オレはオレの存在を確信したいし、皆の存在も確信したい。勿論、お前のことも」
報告書の文字列だけでも画面越しでも同じ部屋にいるだけでもいい。
理想や理念などと言う目に見えない現実を追う中でようやく得ることのできた、確かな存在を。
「………繋いでいたはずの手が冷たくなってく感触を知ってる。いまこうして繋いでいる手があたたかいのも知ってる。オレにとっちゃ、どっちも確かな拠り所となる『現実』だ」
だからお前にも、お前たちにも、他の人間と関わってほしいんだと。
誰に見捨てられても孤独を覚えても罪の意識に苛まされても答えを見つけられなくても。
世界にひとりきりだと嘆く前に、答えが見つからないと挫けるより先に、なぜ誰も理解してくれないんだと憤るより早く。
「触れ合うことで捕まえられる現実もあるんだ、―――だから」
ひとりに。
なるな。
伸ばした手を受け止めてくれる存在は必ずいるから。
「………」
繋いだままの左手に、視線を落として。
右手に広がる漆黒の宇宙と、ぽつりと浮かぶ青い宝石に目を転じて。
もう一度、相手に向き直って。
「―――なら」
強く、左手に力を篭める。
「オレの現実は、お前に預けておく」
驚きに見開かれる左の瞳を真っ直ぐに見上げながら。
「誰かに触れることで分かることもあるのなら。オレはお前に触れることでオレの存在と意志を確認する」
「別にオレでなくても―――」
「オレに『現実』を認識させろ」
宣言するとスッと胸が軽くなった。
大丈夫。
きっと、大丈夫だ。
理屈は分からないが―――もう、答えを得るために迷うことに、迷うことはない。
呆気に取られた表情で瞬きを繰り返していた男は、やがて、堪え切れないと言う様にクツクツと肩を揺らして笑った。繋いだ指先を解こうとしたのを左手に力を篭めることで阻止すれば、また笑い声が大きくなった。
わかった。
わかったよ、刹那。
「それじゃあ―――帰って来たら、お前とオレとで答え合わせな」
「お前はもう答えを見つけているのか」
「さぁな。でも、まあ、刹那。お前がいるから大丈夫だよ」
空いている左手で先刻のように頭を撫でられる。また髪が伸びてきたなあ、もうちょっと伸びたら切るか、なんて呟きながら。
大丈夫だよ、と、繰り返し笑う。
妙に硬質な意志を秘めた瞳を隠そうともせずに笑う。
刹那。
「大丈夫だよ」
―――お前なら。
「ロックオン・ストラトス………!!」
彼の名を繰り返し呟く。
操縦桿を握り締めた手が震える。
目の前に広がった光景。
あれは、何だ。
だって、見えていたじゃないか。大破した機体も、投げだされた武器も、暗闇に漂う彼の姿も。
掴めた、はずじゃないか。
答えを手に入れた気がしたんだ、行くべき道筋が定まったと思ったんだ、存在意義を見つけたと感じたんだ。自分たちの存在に、役割に、目的に、意味があって、意志があって、この世界を変えるための、そのための組織と力と仲間なんだと。
掴めた、と―――。
トランザムの反作用で思うように動かない機体がもどかしい。叶う限りの速度で飛びながら彼を捜す。
彼は、目に見える存在で。
触れることのできる存在で。
見ることのできない、触れることのできない、確かめることのできない曖昧な存在などではない。
捜し求めた結果を考えた瞬間に寒気がした。
それでも、このままでは。
繋いだ手があたたかい現実も、繋いだ手が冷え切っているかもしれない現実も、全てが自分の前から零れ落ちて行く。
残されるのはなんだ。お前の意志、という、目に見えず触れることすらできない現実か。
頬を伝う水滴が邪魔だ。視界を塞ぐ存在が邪魔だ。
何故だ。見つけたはずなのに。
間に合ったと思った瞬間に消えるなんて、そんな、理想や希望と相反する感情を体現してくれなんて誰も願ってない。
早く。
早く、あいつを見つけて。
早く。
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