―――月が近い夜は嫌いだ。狂う奴が多いから。

 

 


― とはずがたり ―


 

 瞬きすらせずに秀吉は寝転がったままの体勢で天井を見つめていた。窓から差し込む月明かりが格子の形通りに畳と布団の上にぼやけた縞模様を描いている。安い宿場のさして広くもない角部屋、そんなところに三人も詰め込まれているのだから寝苦しくても仕方がない。最も………そんな理由で眠れないわけではないのだが。
 少しだけ視線を流せば古臭い布団にくるまって不本意そうな表情を浮かべている明智光秀と、布団から体の大半がはみ出してしまっている蜂須賀小六の姿が目に入る。本当に眠っているのかどうかは怪しいところだが余計な干渉はしてこないから有り難い。戸惑い気味の感情も値踏みするような視線も、幾ら慣れたとは言え始終向けられていては鬱陶しいことこの上ない。
 自分が『日野秀吉』である以上―――『木下籐吉郎』と同じ外見をしている以上、どうしようもないことではあったが。
 そこまで考えて秀吉は静かに瞼を閉じた。自分でも認めたくないけれど、思い出すのは理解しあう暇すら与えられず遠ざかってしまった奴のことばかりで―――嫌になる。

(………帰って、来なかったな)

 躊躇いがちに目を開けて自らの肩に巻かれた包帯にそっと手をやる。
 この傷が、自分とあいつとの境界線。もしもあの時怪我をしたのが自分ではなくあいつだったなら―――最後の最後まで付いていったのが自分であったなら、今頃この場所にはあいつがいたのだろうか。
 確かめようもない仮定の話だ………下らない。
 秀吉は思考を切り替えた。
 京を発って数日が経過し、明日には尾張に帰り着くことができる。問題はそれからだ。
 自分が悪いわけではない、だから罪悪感を覚えたりする必要も全くない。けれど、どうしても瞬間的に自分の中に奴の影を重ねてしまう連中の瞳が腹立たしいといえば腹立たしかった。そんな事でいじける程ガキではないから、道中、織田の家臣と話していても引け目を感じることはなかった。とはいえやはり無意識の内に気を張っていたのか宿で織田の面々と別の部屋に泊まり、『木下籐吉郎』がいなくなる前から『自分』を知っている顔ぶれだけになると深い安堵の溜息がもれたりした。
 だが、それも全て明日で終わる。
『自分』を知る明智光秀や蜂須賀小六とは別の道をたどり、かつてあいつがいたという足軽長屋に行って働き始めなければならない。自らが命をかけようと誓った主君のもとでどれだけ這い上がることができるのか。明日は、明日からは全て戦いの日々だ。
 ………今夜中ならまだ逃げ出すこともできる。自分そっくりの奴の後を継がなくたって、他にも選択肢はたくさんある。自分ひとりで生きていける、何だってできる。

(―――逃げねぇけどな)

 これは、自分の夢だから。
『織田信長の天下が見たい』と思ったのは確かにあいつが最初だ。けれど自分も共感できたから、そうである以上この夢は自分の夢でもある。そしてその夢を叶えるためにはあいつがいたところから始めるのが一番手っ取り早い。言い方は悪いが利用させてもらう―――その立場と状況を。誰かと顔を合わせる度に別人だと説明しなければならないのにはウンザリだが、交友関係を広めるには逆に便利かもしれない。
 ふと、廊下の軋む音がした。よくよく耳をすませていなければ聞き取れないような小さな音だったが、秀吉は鋭い目線を出入口へと走らせた。
「………こんな夜更けに客か?」
「分からん、何かあったのかもしれんな」
 ほとんど同時に小六と光秀が体を起こす。熟睡せずにいつでも戦えるようにしておくのは戦国の世の常識だ。秀吉も上体を起こすと何が起きても対処できるように身構えた。
 足音が襖の前で止まり、続いて遠慮がちな声が響く。
「すまん………起きているか?」
「―――犬千代どの、か」
 光秀がやや虚をつかれたという感じで襖を開ける。襖の向こう側では犬千代が膝をついてかがんでいた。
「悪いな、何分急な出来事で―――起きているだろうとは思ったんだが」
「何かあったのか」
 小六の問い掛けに表情をくもらせる。
「………信長さまが、いない」
「いない?」
「あまりにも部屋に人の気配がなかったんでな、もしやと思い覗いて見たら案の定抜け出された後だった。いつ頃ここを出て行かれたのか見当もつかない」
 犬千代は溜息と共に奥の部屋をつと指差した。安い宿にしては造りのいい、最もいい部屋が信長ひとりに割り当てられていた。そしてさほど離れていない隣室を織田の家臣五名が使い、そこから大分離れた角部屋が秀吉たちの寝所となっていた。遠くにいた自分たちが気付かないのはまだしも元忍者の滝川一益や歴戦の勇者である柴田勝家にも気付かれず出て行くとは―――。
 ………さすが、と言うべきか。
「いま他の連中が捜しに行っている。見つかるかどうか微妙なところでな………手を貸してほしい」
「夜の闇の中で人海戦術か。………見つかればいいがな」
 心配そうな光秀の言葉に犬千代は苦笑を返した。仕方ないか、と二人そろって頷いたとき廊下の奥から複数の足音が聞こえてきた。どうやら先発隊が帰ってきたらしい。半分程度しか開いていなかった襖が勢いよく広げられ残りの面々が顔を出す。狭い部屋に大の男共が何人もひしめき合って実に息苦しい。
 走り回ってきたらしく軽く息をついている一益が少しだけ項垂れた。結果など聞かなくてもその様子だけで察するに余りある。後ろに佇む勝三郎も万千代も勝家もみな疲労の色が濃かった。本来寝静まっている時刻に田舎道を駆けずり回ってきたのだから無理もないだろう。
「すまん、私のミスだ。まさか殿がこの時期に一人で外出なさるなどと………いや、弁解はよそう。全て私の至らなさ故だ」
「あんたも相変わらず固いな、滝川どの。ここは盗賊の類も滅多に現れない安全地帯なんだ。もっと気楽に構えたらどうだ?」
 落ち込みまくっている一益の姿に同情したのか小六が励ますようにその背中を数回、強く叩く。その態度に一層恐縮したように沈み込みながら一益は簡単に説明を始めた。とりあえず宿の近辺と町中は隈なく探索したらしい。しかし町の外となると果てしなく草原が広がっていたり農家に続いていたり、ようするに範囲が広すぎて手の打ちようがないという。
 組みになって手分けして捜すかと話がまとまりかえた時、秀吉がそっと呟いた。

「………ほっとけばいいんじゃないですかね」

 みなが一斉に振り返る。窓際の壁に背を預け、腕を組んだままの姿で秀吉はただ全員の視線を受け止めた。
「………何故だ?」
 問い掛けを発したのは光秀だった。彼は秀吉が尾張に仕えるということを知っている。その立場を慮って、面と向かって先輩たちに楯突くような科白を吐かせたくなかったのかもしれない。
 視界の隅には嫌味なほどに照り映える穢れない白い月の姿が映っている。

(………だから嫌いなんだよ)

 誰にも分からないほど密やかな冷笑を口元に浮かべた。
「信長さまだってガキじゃないし、いま自分がいなくなったらどれだけ俺たちが慌てるのかぐらい先刻承知のはずだ。それを理解した上で尚、出かけちまったってことは―――付いてくんな、捜すなってことだろ」
 ゆっくりと格子に手をかけて立ち上がる。
 窓から差し込んでいる月光が陰影を形作り黒い影が部屋に広がる。
 言葉を返す者はいなかった。自分たちより格下であるはずの少年に気圧されたかのように無言でその動作を見つめている。
「それに今日は―――」
 秀吉は薄く口元を歪めた。月を背後に佇んだまま、大きいとも言えない掌で窓の格子をきつく握り締める。
「月が、近いからな。下手に探し出して声をかけると―――斬られるかもしれないぜ?」
「まさか」
 僅かに気色ばんで光秀が語調を強めた。月が近いとか遠いとか、そんな抽象的な理由で斬られてはたまったものではない。そう言いだげだ。
 その考えは正しい。そして正しいだけにこの世じゃ何の役にも立たない。
 ………などと言ってやるつもりもないが。
「確かに信長どのは『うつけ』と評されてはいるが、そんな暴挙になど―――百歩譲って私や小六どのが斬られるとしても、自らの部下である彼らを斬り捨てるような真似はすまい」
「斬るさ」
 あっさりと秀吉は言い切った。こんなことを言ってしまっては織田家に勤めてからの立場が悪くなる。実際光秀の後ろにいる織田の面々は明らかに不愉快な表情を浮かべているのだ。分かってるだろうに、それでも何故か秀吉は言い改める気配も口を紡ぐ様子も見せなかった。
 自らの立場を悪くしてしまうと理解しつつ、青ざめた光に刺し貫かれた影は勝手に言葉を紡ぐ。

(………嫌いだって言ってんだろ)

 それは何に対しての科白なのか。
「必要であってもなくてもイザとなったら斬るさ。なにしろ殿は―――」
 自分はこの目で『見た』のだ、彼が刀を振るう瞬間を。この耳で『聞いた』のだ、彼が言った言葉を。
 鬱陶しい弁解を続ける商人の首をあっさりと斬り捨てた、そして言ったのだ。
 握り締めた格子が手に痛い。それでも緩めるつもりは毛頭ない。
 少しだけ目を伏せて月の光を遮ろうとするかのように手の位置を上げる。

 ―――月が近い夜は嫌いだ。
 ………狂う奴が、多いから。

「『独裁者』、だからな」

 そう告げた後、秀吉は目を閉じて安らかに笑った。




 瞬きすらせずに、何を見るという目的もなくただ目を見開いたまま前方の白い闇を見つめる。もう既に夜半を過ぎているというのに照らし出す月明かりの影響で辺りは異様なほど明るかった。真夜中の太陽を覆うように手を掲げても―――自らの眼前に落ちてくる黒い影が少し増えるだけで大した意味も成さない。
 ゆったりとした動作で腕を下ろし、信長は再び背後の木にもたれかかった。
 宿を抜け出すのなんて簡単だった。「じゃあな」と他の面子に挨拶をして大人しく素直に襖を閉める。みなが安心して自室の襖を閉めると同時に扉を開けて、ざわついている部屋の前を悠々と通り過ぎた。相手の裏をかくのはガキの頃から得意中の得意だ、造作もない。
 いなくなったことはやがてばれる―――そうしたらあいつらは顔面蒼白になって捜しに来るだろう。無駄に心配をさせるつもりはないが今日だけは、今日だけはそんなもの考えたくもなかった。やたら近くに感じる月の下で、ひとり考える。
 明日になれば尾張に帰り着く―――。
 視線を幾分鋭くして信長は月光を反射する稲穂の海を眺めた。農村をある程度見渡せる小高い丘にある木の下に座り込んだまま、唇をきつく引き結ぶ。上空には憎たらしいぐらいに月が照り輝き、眼下には白銀の海が広がり、そんな幻想的な風景の中で遠くに連なる薄暗い山の峰々を見つめていると自分が何処にいるのかよく分からなくなってくる。ただ、白銀の海に飲まれそうになりながら浮き上がっている貧しい農家の数々と其処此処に立てられた案山子だけが此処は陸地なのだと示している。
 風が辺りを吹き抜けて周辺の草を儚く揺らめかせた。手の届く範囲にあった葉を一枚ちぎりとり、何となく口に咥える。
 ―――京都に赴く前と後では、あまりにも多くのことが変化してしまった。
 訪れた事でなくしたもの、手に入れたもの、勝ち得たもの、見失ったもの………。
 何よりも行く前と後では自分の心構えが違う。以前から自分が何をしたいのか、何をすべきなのかはよく分かっていた。己が心の命ずるままに自分勝手に自由に突き進んできた。他人の目なんて気にせずにただひたすら前を向いて、道を切り開いて。
 ―――けれど。
 尾張に帰りついたら………もう、その道を進むしかない。嫌になったからとひとり出奔することも、飽きてしまったと途中でやめることも出来ない。己自身が目標を逸らす事をよしとしない、それ以上に周囲の人間がほっといてくれなくなるのだろう。

(―――逃げらんねえ)

 ………逃げる気もないが。
 予感している。過去なんか振り返る暇もないほど忙しい日々に煽られて、『今』の自分が何を考えていたのか、『未来』の自分は見失ってしまうだろうということを。変わってしまうだろうということを。
 だがこんな風に頭を悩ますのも今日限りと決めている。明日は、明日からは全て戦いの日々だ。
 それを横で支えるものはいない。助けとなる部下や仲間は存在しても、支えあえる同等の存在など何処にもいない。
 ―――もう………いない。
 噛み潰した葉から苦い味が広がる。それを吐き捨てると再び手を頭上へと伸ばした。何かを掴もうとするように高く、高く腕を伸ばして。届かなかったものを手に取るように強く、強く拳を握り締めて。端から見ていれば勝利の凱歌を挙げているかのように腕を振り上げて。
 数度、掌の開閉を繰り返した。やがてそれは開かれたままの状態でとどめおかれ、信長は自嘲気味の笑みを口元に上らせた。

「………掴めねえ、よな」

 どれだけその手に掴む事を望んでいても―――叶わない願いならこの世にはごまんと溢れている。
 信長は僅かに顔を伏せ、次いで瞼も下ろすと自らを完全な闇の内に閉じ込めた。時に吹き抜ける夜風が木々の葉を揺らす音だけが静かに聴こえてくる。時間の流れを意識することのない、緩やかで穏やかな気配がそこには流れていた。
 ―――どれだけの間そうしていただろうか………。
 ふと信長は何かの気配を感じてその瞳を開けた。だが普段と違いその動作は緩慢でぎこちなく、腰にさした刀に手をやることもしない。
 ―――奇妙な感覚だった。
 月は相変わらず目に痛いほどの光を投げかけ、稲穂は風になびいている。
 だがそこに『音』は存在しなかった。風が吹いていると視覚は認識しているのにその音色が鼓膜に届くことはなく、微かに聞こえていた虫の音も全く聞こえなくなっていた。
 ただ―――月だけが、やたらと近い。
 思考のどこかが痺れているような感覚を残したまま信長は目線を眼下へと落とした。
 不思議だった。いつもならこんな雰囲気ろくなもんじゃないといってすぐにその場を立ち去っているだろうに、何故か今はこの空気の中に満たされていたいという気持ちが勝っていた。
 白銀の海に佇む、ひとつの小さな黒い影が目に映る。先程までは何も存在しなかった畦道に、置き去りにされた子供のように孤独の影を添えて突っ立つものがいる。
 風になびく着物の袂、かたく握り締められた小さな拳。
 夜ということと、二人の間の距離が邪魔をして表情までしっかりと見て取る事はできない。けれど信長は見覚えのあるその人影に自然と表情を緩めた。
 いるはずがないのに―――どうしてこんなところにいるのか。

「………失せろよ、幻影」

 口元を笑みの形に繕って唇だけでそう囁く。その声が辺りに伝わることはなかったが。
 あの時、確かに告げた言葉をもう一度繰り返す。

「てめぇがいてもいなくても―――俺の人生、大差ねえ」

 密やかに固めた決心を再び自覚するかの如く。
 人影は、少し笑ったようだった。
 すっとその小さな手を上げて、不届きにもこちらを真っ直ぐと指差してくる。尊い誓いを口にするかの如く厳かに闇と白い月光の下で静かに言葉が紡がれる。音のない世界ではあったが間違いなくそれは信長の脳裏に響いた。告げられた内容に信長が苦い笑みを浮かべる。

「勝手なことばかり言いやがる………だが」

 次いで、瞳の色を強くして真っ直ぐに相手を睨み返す。

「言われるまでもない―――俺は………」

 声には出さず、唇の動きだけで自らの意志を宣言する。自分が相手の囁きを読み取ったように、そっちも読み取ってみせるがいいと。
 その意図を理解したのかどうか知らないが、影は力強い頷きを返すと穏やかな笑みを見せた。その表情に満足して深く、深く瞳を閉ざす。
 立ち去れと―――旅立て、と念じながら。
 急速に何かが遠のいていく気配を感じた。自らの親しんでいた気配が、望んでいた存在が、役目を果たし終えたようにあっさりと風の音が近付くにつれて彼方へと巻き取られていく。
 しばらくの間そのままの体勢でじっと何かが遠ざかるのを待つ。耳元に涼やかな風の音色と虫の鳴き声が甦ってきても、まだしばらくの間瞳を閉じたまま完全に例の気配が遠ざかるのを待ち続ける。
 もういいだろうと判断を下して目を開けると、思った通り黒い影など何処にも見当たらなくなっていた。視線を周囲に巡らせて、誰にも見せたことのない穏やかな笑みを信長は浮かべる。

 ―――心配してやって来た、とか。
 ………何か言い残したことがあったとか。

 そんな理由で訪れたのではないだろう。別れはあの時に全て終わりを告げたのだから。
 今更何を告げる必要もない、恐れることもない。
(―――サルのくせに生意気なんだよ)
 言われなくても思い出したりしねえ、迷ったりしねえ、待ったりしねえ。

 ―――忘れたりしねえ。

 過ぎ行く時の重みがやがて全てを忘却の彼方に運び去ろうとしても、望みどおりになどなってやるものか。
 その瞳に強い光を宿したまま信長は眼前の景色を見て笑った。
 月が近い―――。
 そう感じることは、もうなくなっていた。




「うわっっ!?」
 突然つんのめって思わず秀吉は声を上げた。畦道のぬかるみに足を取られてずり落ちたのだ。草履が田んぼの生ぬるい泥に突っ込んで変色してしまっている。軽く舌打ちをして秀吉は足を泥の中から引き抜いた。確かにあいつと精神同調したことはあるが、こんな間抜けなところまで伝染しなくていいと思う。体を起こし、遠くに霞んで見えるだけになった小高い丘に目をやる。
 ………大丈夫、きっともうすぐ帰って来る。明日には自分の領地に帰りつくから、今一度その決心を固めていただけに違いない。
 主君に追いつかれる前に宿に戻って布団に入り、翌朝には何もなかったような顔をして出迎えなければならない。おそらく向こうも先刻の出来事を幻だと思い込んでいるだろうから。
 実際、あれが何だったのか秀吉にもよく分からない。
 宿からこっそりと抜け出して気の向くまま足の向くままに歩いていたらあそこに辿り着いていた。辺り一面白銀に輝く稲穂の海の中、孤島のように浮かび上がる丘の木の根元に座する信長を見つけた。声をかけようかどうしようか迷ったのは、多分。
 静かに眠るかの如く、瞑想に耽るかの如く、目を閉じて座り込んだその姿が―――

 あまりにも、『孤独』だったからだ。

 外見だけなら景色と一体化したその姿は一服の名画になりそうなほど荘厳な気配を称えていたけれど………同時にそれは、無機質なものに例えられてしまうほど現実の世界とはかけ離れていて。

 ―――誰もついていけないのだと思った。
 ―――誰も理解できないのだと感じた。

 胸に去来した思いを例える言葉など存在しない。あえて説明しようとすればそんな陳腐な言葉しか浮かんでこないというだけだ。本当の思いはもっと切なくてもっと悲しくてもっと苦しくて………つらくて、狂おしい。
 そのまま凍りついていると何故か急に聴覚が途絶えて体が動かなくなった。なまぬるい水の中を掻き分けながら進んでいるように、体に何かの『流れ』が当たっているのを感じた。
 焦りや不安も感じず自然とその状況を受け入れて………座していた主君が涼やかな瞳を上げた。
 かち合った視線の中に、意志といえるようなものは何もなく。
 何事か呟かれたようだったが距離が離れすぎていて何を言われたんだか分かりゃしない。
 それでも自らの意志を無視して自然と右腕が上がって、丘の上の主君を指差した。自覚のないままに笑っていた気さえしている。無意識のままに言葉が口をついて出た。
 何を喋っているのか、何を伝えたいのか、自分がやっていることだというのに何も分からない。今、この体を使っているのは自分じゃない―――そんな感じがして。

 自分ではない『自分』と視線を交わす。
 自分ではない『自分』が微笑みを返す。

 相手が瞳を閉じたのが月光の下で見て取れた。同時に急速に音のある世界が戻ってきて、感じていた何かの『流れ』は現実の風の中に霧散した。束縛が解かれた瞬間、秀吉は振り返りもせずに一目散に駆け出していた。走って逃げるような後ろめたい事は何もしていないのだが―――閉ざされた瞳が開かれる前に遠ざからなければならないと、ただひたすらそれだけを考えて足を動かした。
 片方だけ田んぼに突っ込んで茶色くなってしまった足を見つめる。
 何だかよく分からないが、とにかくさっきの自分は。
(『あれ』は―――俺じゃないだろ)
 精神同調の余波がまたしても残っていたのだとは考えにくい。
 でも………何だ。
 じゃあ、あれは―――誰だ?

 ………だから、嫌いだ。
 月の近い夜は嫌いだ―――狂う奴が、多いから。

 汚れた草履を脱ぎ捨て、両足ともに裸足になると冷えた大地に体の内部の熱までも奪われていくような感じを覚える。冷めた笑みを頬に刻みながら宿への道を辿る。
 主君は最後の壁を乗り越えた。全ての迷いを振り切った。きっともう、立ち止まる最期のその瞬間まで心に抱くものは何もない。前だけを見つめて突き進んで、途中で失ったものの数など数えたりはしない。
 そうやって………孤独への旅路を選び取る決断をくだしたのだ。
 木の下に座り込み、全てとの関わりを絶とうとしていた姿を思い出す。
 誰かに語りかけるようにひっそりと呟いた。
(天下は―――簡単にとれやしないからな)
 半端な覚悟じゃやられるだけだ。日の目を見ることもなく木々の合間に倒れ伏し、土に還って行くものが大半を占めるこの戦国の世で―――天下を望むのならば平凡な幸せなんて諦めるしかない。

 ………きっと、ひとりになる。全てを手に入れようと躍起になる度に。
 ………ずっと、ひとりになる。何かを生み出すたびに何かを壊してしまうから。

 大声で笑い出したい衝動を抑えて秀吉は上空の月を見上げた。
 天に煌くその青白い光を全て手に入れようとするように、両手を精一杯差し伸べる。呼びかける思いが誰に向けられたものなのか………自覚、したくないけれど。
 ―――帰って来れるのか。
 でなきゃ、俺がお前の存在を塗り替える。例え最初は俺の後ろにお前の影を見ていても、流れる月日がお前に関する記憶を薄れさせ、代わりに新たな強い記憶として俺の存在が植え付けられるだろう。お前を知る者がいなくなる、お前を懐かしむ者がいなくなる。お前の存在が消えていく………忘れ去られていく。
 ―――戻って来れるのか。
 それでも一部の者たちの間には消えようもない事実としてその不在が与えられ、埋められない隙間に歳月だけが絶え間なく降り積もっていくだろう。表に出さずともその重みは年を経るごとに強まって、眩しくなって、耐え切れないほどになるだろう。
 そうなる前に―――その手を伸ばして。
(俺は、お前の目を通して世界を見た)
 だったら―――お前は、俺の目を通して世界を見ればいい。先刻のように意識の一部が乗っ取られる感覚は好きじゃないが、時に訪れるぐらいなら黙って堪えてやらないこともない。きっとそれは、向こうだって望んで発現できるものではないだろうから。
 誰かに向かって宣言するように右腕だけを高く、高く突き上げた。拳を強く握り締めて、その拳に月を重ねて覆い隠してしまえと。

 ―――望め、お前はお前の世界を。
 自分が生きていくように。

 仕えていた主君が夢を叶えようと歩み始めたように。

 真っ直ぐ顔を上げて白い月の光を真っ向から受け止める。挑むように口元を引き締めて目に見えない何かを睨みつける。突き上げた拳に、今は何も掴まれてはいないけれど。
 帰りたいと願い続けているその瞬間に、自分の意識と重なることがもしもあるのなら。
 知りようもない世界と世界の壁を越えて無意識にでも語り合えることがあるのなら。
 孤独を感じている―――感じることになる、その人物のことを支えたいと願うのなら。

 いつでもいい、ただ、望むままに。




 問わずとも語れ―――その胸の内を。



 

 


 

またしても場面が月夜ですか………しかしこの作品の舞台を太陽の光が燦々と降り注ぐ真昼間とか
健全な光が差し込む朝に設定するわけにはいかんだろうよ(言い訳)

 『とはずがたり』ってのは是非ともどこかで使いたいと考えていた題名です。
今回は珍しく題名とラストの一文が最初に出来上がっていたんですが、
書いている内に内容がどんどんズレてきてかなり焦りました。まあそれもよし(いいんか?)
古典文学に同名の作品が存在しますが勿論なーんの関係もありません(笑)

秀吉はおそらく「独裁者」発言した後、悠々と宿から抜け出してきたものと思われます。
この人の思考回路は複雑すぎて私にはよく分かりません(オイ)
ただ、殿と日吉は「ダチ」だけど殿と秀吉は「上司と部下」だと思うのですよ。
そいでもってこの二人には天下人の素質があるから、やっぱ何処か似通っておるのですよ………ってああそうか、
今回のコンセプトってこれだったんだ―――v(遅)
あと、書いてみて初めて分かったんですが、うちの秀吉とみっちーの関係はかなり微妙です(笑)
それなりに仲はいいはずなんですが。

 

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女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理