地下に続く細い階段の突き当たりに位置する、薄暗く、さびれた狭い部屋。差し込むのは小さな窓から差し込む僅かな月明かりと部屋の前に灯された蝋燭のゆらめきだけ。部屋と言ってしまえば随分と都合のいい、誰かを閉じ込めておくための単なる牢屋。
格子の向こう側に立つ兵士の耳にも中にいる男の呼吸音が聞こえることはほとんどなくなっていた。最も連れ込まれた当初からこの男は身じろぎひとつしていない。手に枷をはめて壁に縫い止められ、隠した金の在り処を話せと痛めつけられ、それでも微笑したまま兵士たちが躍起になる様を見守っていた。
何を考えているのだろう? わざわざ殺されるために捕まりに来たようなものだ。
蝋燭の炎が微かに揺らめき、兵士は石造りの階段を下りてくる足音に気付いた。
こんな時刻に誰がやって来ると言うのだろう―――重大犯罪人を閉じ込めておく牢屋などに。緊張して武器を構えなおした兵士はしかし、現れた者の姿に慌てて平伏した。
「たっ………太閤様! このような処にわざわざお出でいただかなくとも………!」
「いい。気にするな」
一介の兵士とは比べ物にならないほど豪奢な着物を纏った人物が軽く手を翳して肝要に応える。しかしその視線は兵士を通り越して奥の部屋の人物に注がれていた。
「下がれ」
「はっ………?」
「下がれと言っている。誰も近づけるな」
「! はっ、畏まりました!」
向けられた視線の強さに恐れを成し兵士は慌てて階段を駆け上って行った。それを見届けてから改めて視線を奥へと向ける。耳には遠くの風の唸り声が届くのみ。「起きてるんだろ………五右衛門」
秀吉は静かに呼びかけた。
しばらく待ってみても相手は何の返事もしない。が、慌てる素振りも見せずに重ねて問い掛けた。
「起きてるんだろ………無視してるんじゃねえ。お前があの程度の拷問でくたばるわけないだろうが」
その言葉に漸く相手が反応を示した。灯りも意味を成さない闇の中で薄っすらとその目が開かれて真っ直ぐに為政者とかち合う。口元がやや苦しげに歪んだ。
「………珍しい、な。わざわざお前みずか………ら、来る、なんて―――よ」
痛めつけられた喉から漏れる声は途切れ途切れだ。両腕につけられた傷から流れ出ていた血は既に固まり、枷と一体化してもう二度とはがれることはないように思われた。足元には血溜まりが延々と続いている。命に関わるような傷ではない―――が、生半可な精神で耐えられるような傷でもなかった。手当てすらされずに放っておかれた傷口は炎症を起こし化膿しかけている。それでも彼が苦痛に呻くことはなく、秀吉が医者の手はずを整えてやることもなかった。
ふたりとも知っている―――この後にたどる運命を。
このまま行けば死ぬしかないのだということを。
「………馬鹿だ」
秀吉はポツリと呟いた。
「お前は―――馬鹿だ」
相手は黙って薄ら笑いを浮かべるだけで、何だか立場がちょっと違うんじゃないかと秀吉は思ってしまう。
織田信長が本能寺から消えた後―――明智光秀を倒し柴田勝家を倒し織田家の面子すらも偽り操って、数多の敵を打ち破ってついに念願の天下を手に入れた。
………けれど。
思っていたほど良くもなければ楽しくもない。
やるべきことはもう何もない―――ならば、一体自分は何処に行けばいい? 何をすればいい。
目の前で力なく項垂れた男も、自分と同じように何か大切なものを失ってしまったように見える。きっと突き詰めたならその感情は単純な一言で括られてしまうのだろうけれど。
「太閤の寝所に忍び込んで寝首をかこうとする泥棒がいるか? 確かにお前の実力は知っている。だが―――あまりにも無謀だ」
「………だって、さぁ」
少しだけ顔を伏せてかつての知り合いは笑う。―――笑いはするがその瞳に真の喜びを見ることはできない。
「つまんねぇんだもん」
黙って秀吉はその言葉を受け止めた。
そうだ、自分たちはそんな下らない感情によって振り回されている。
命の危険を感じない、身内を失う恐れもない、誰かの命を奪う必要もない。そんな理想の状態に近づけたはずなのに何故か心が晴れることはなかった。
「忍をやめ、て泥棒に………なって。金持ちを悔し、がらせるのも、兵士………を巻いて、からかうの、も………。楽し、かったさ。楽し、かったけどよ。―――違う、んだ。消えねぇんだ、ずっと、『つまんねぇ』って、言う、声が。だから、な―――」
―――全て終わらせたかったのか。
世に覇を唱えた人物に大っぴらに刃を向けることで自らをのっぴきならない状況に追い込んで。
兵士たちに追われて捕らえられても、最後の瞬間に抵抗はやんでいた。
天下人の前に引きずり出されてもその斜に構えた笑みは消えず、ただこれで全てのしがらみから逃れられるとでも言いたげな清々しい表情を浮かべていた。
「飽きち、まったよ、俺は―――なんか、もう………どーでも、いいん、だ」
秀吉は無言のまま格子に手をかけた。
―――コイツは。
きっと、自分と『同じ』なのだ。
生きることに価値を見出せなくなっている―――他人の血が流れても何とも思わなくなっている。
何か新しいことを始めればこの例えようもない切実な渇きが少しでも癒されるかと、愚かな行為ばかりして空回り、空回り、空回り。
諌める者は誰もいない。罵り合える者が存在しない。浮き彫りにされた己が孤独にただ焦がされるだけ。
「お前は明日―――」
そう告げる声は酷く抑揚がなく、無関係とは言えない人間の命に関わることだというのに、
「刑に、処される」
………何の感慨も浮かばない。それは仕方のないことなのだろうか。
「見せしめだ」
互いに歳を経て。
「天下人の命を狙った奴に、寛大な処置などありえない」
互いに喪ったものがあって。
「大勢の見物人の前で」
悔やんだところでどうしようもなく、後戻りできないほどに………
「―――釜茹での刑に処される」
壊れてしまったのだから。
五右衛門が低く笑った。世の中の全てを嘲ったような笑いだった。
「………盛大、だな」
「―――お前は変わった」
自分にも言えることだと知りながら淡々と言葉を紡ぐ。
「以前のお前ならこんな簡単に捕らえられたりはしなかっただろう。捕まっても隙を見て逃げ出すことぐらいできたはずだ、お前なら。だがそれをしない―――そして今も、黙って死を迎えようとしている」
「………」
「意地を見せて舌を噛むぐらい、するかと思ってたんだがな」
「しねぇ、っての………」
笑い声と共に微かに枷が軋んだ。
「その、代わり、わら、いながら逝ってや、ろうじゃねぇの………石川の、浜の真砂は、つきるとも………って、な」
目を瞑り歌うように紡がれる言葉を聞く。
秀吉は無言で袂から鍵束を取り出すとそれを格子の鍵穴に差し込んだ。金属が弾き合う音がしてゆっくりと牢屋の扉が開く。血で滲んだ床の中に足を踏み入れると捕らわれ人はほんの少しだけ眉をひそめた。
忌々しげな視線だけは絶やすことなく淡々と用件だけを告げる。
「ならば―――今更、覚悟なんて必要ないな」
「………あ?」
「そこまで言うのなら………死ぬか? 今、ここで」
―――俺の手にかかって。
怪我が悪化して死んだとも舌を噛み切って死んだとも幾らでも誤魔化すための手立ては存在している。別の死体を引きずって行ってもいい。疑う者は容赦なく罰する―――自分は権力者であり、独裁者だ。
自分になら、それがきでる。
徐々に発言の意味を解してきたのか五右衛門が驚きに目を見開いた。
分かっている―――これはかけるのも馬鹿らしい『慈悲』の類だ。
わざわざ自分の手を汚さずとも明日になればコイツの命は消える。人々の眼前で釜茹でにされるという例を見ない残忍な処刑法は後の世まで噂になるだろう。そして当時の権力者への批判とも相まって、たとえそうしていなくともコイツは最期の瞬間まで笑っていたということになり、辞世の句を詠んだということになり、権力に屈しなかった英雄として扱われるようになり―――。
………或いはその方がいいのかもしれない。消えることない名を歴史に刻む事ができる。
だが、コイツのどうしようもない思いを分かっているのは自分ひとりだ。
どうでもいいという投げやりな気持ちを、救われないという絶望的な思いを、取り戻したいという狂おしいまでの願いを―――。
きっと、自分と同じぐらいに報われない感情を。
ゆっくりと腰に差した刀を抜く。それを見ていた五右衛門の瞳がふっと穏やかな色に包まれた。
「………ご親切に、どーも………」
静かに瞳が閉じられるのを確認して、小柄な身体に似つかわしくないほどに大ぶりな刀を振り上げた時。
突如耳をつんざく奇妙な音と波動が生じ全ての闇と穢れを吹き飛ばし。
そこに。
―――『光』が―――
………現れた。
「よっ………良かった―――っっ!! やった―――っっ!! やっと繋がったっっ!」
突如生じた光の渦が回転しながらその幅を広げてくる。暗闇に慣れていた目にはかなりキツイ光を投げかけつつ渦の中心点に現れた人物は実に場違いな歓声を上げた。光の中から足を踏み出して、泣いてるのか笑ってるのか分からないほどに顔を歪ませている。
真っ直ぐな視線がふたりを射抜く。
「無事で良かった………迎えにきたんだ、五右衛門!」
「………」
驚きのあまりふたり揃って固まるしかない。
現れた人物はそれに気付くこともなく晴れやかに微笑んでいる。見たことのない厚ぼったい服を着て、長すぎる袖が指先まで完全に覆い尽くしている。背丈や髪の毛が少し伸びたかな………とどうにか言えるぐらいで基本的になんら変わったところは見られない。
自分たちと比べたらこの人物は驚くほど、いや、いっそ不気味なほどに変化していなかった。
「………お前、藤吉郎………だ、よな?」
「秀吉! お前もいたの、か―――………?」
喜ばしげに向けられた視線がふと曇った。
再会の喜びが静まってくると同時に遅ればせながらふたりの様子が何だかおかしいことに気づいたのだろう。
薄暗く血の匂いと腐臭に溢れた狭い部屋。明り取りの役目を成していない小さな窓。五右衛門の手につけられた枷とその身体に残る痛々しい傷の数々。そして秀吉の手に握られた刀―――。
余程のアホでない限り現場の状況なんて日を見るよりも明らかだ。
瞳が疑惑の色に染まりきる前に秀吉は薄っすらと笑って刀を鞘に戻した。問い質すような目線を受け止めて何の感情も込めずに逆に問いを発する。
「―――迎えに、来たんだな?」
「………え? あ、ああ、そうだけど―――」
「だとよ。どうする、五右衛門」
話を振られた当人はひどく間抜けな面をしたまま呆然と藤吉郎に話し掛けた。
「お前………今、どこにいるんだよ?」
「ああそれがさ………『もんごる』って処にいるんだ。これがまた大陸の辺境で気候も違ってて言葉は通じないし民族は荒っぽいし戦が絶えないし、おまけに時代もここより何百年か前っていうとんでもない処で―――………でも」
顔を上げて話す姿に迷いは感じられない。
自らの進む道を信じている、叶えるべき夢を担っている、それを実現するための力と強さと潔さと共に。
全ての人間が一度は手にしていながら、それの大切さに気付く頃には既に喪ってしまっているものが確かに『そこ』に存在していた。
「また皆で、戦ってる。新しい国を作ろうと頑張ってる。まだまだ実力を伴わないちっぽけな団体だけどきっといつか叶えられると信じてる。だから五右衛門―――俺たちと来ないか? 大金払えるほど金持ちになんてなってないけどさ、出世払いってことでその………え〜と、だから………」
オロオロと手をばたつかせた挙句に片手で頭をかきむしり必死になって言葉をまとめようと努力している。
結局、まとめきれないと判断したのかその瞳だけを真っ直ぐ向ける。
「来て、くれないか。手を貸してほしいんだ」
―――しばしの沈黙の後。
何かを避けるように五右衛門は横へ目を逸らした。
「手を貸す、ね………悪いけど、俺、怪我人だぜ………? 即、戦力には、なれねぇん、だ、けどな」
「あっ、いやそのだからっ、だからさっ、そうじゃなくてっっ。確かに力も借りたいけどそれが一番大切なんじゃなくて、ただ単に俺は―――」
身を乗り出して五右衛門の肩を揺すろうと手を伸ばし、傷に触れてしまいそうになって慌てて両手を引っ込める。所在なげに拳を握り締めてゆっくり下へと下ろした。
「………五右衛門も一緒だったら、楽しいと思ったんだ―――」
「―――」
逸らされた瞳が僅かに揺らいだ。
その微妙な変化を秀吉が見逃すはずもない。
冷めた笑いを浮かべたまま五右衛門に近付くと袂から先ほどの鍵束を取り出した。選び出したひとつの金属が差し込まれた次の瞬間、澄みきった音を立てて壁に固定されていた枷が足元に転がり落ちる。戒めが消えて思わずよろめいた身体を慌てて藤吉郎が支えた。
数回、咳き込んだ後に五右衛門は唖然とした顔で秀吉を見つめた。
「お前………なに、考えて………」
「―――行くんだろう?」
武器ひとつ身に帯びていない五右衛門の服に刀を一振り挟みこんでやる。未だ呆けたままのその顔に皮肉げな微笑を返して。
「それとも………行かないのか?」
「………」
『天下の大泥棒』が無言でこちらを睨み返してくる。その瞳の中に先ほどまでは全く見られなかった強い意志を見つけて秀吉はひっそりと笑った。
―――行け。
行ってしまうがいい、何処へでも。
たとえそこが新たな戦乱の世であろうと、叶えられない夢ばかりが転がっている不条理な世であろうと、確かな証など得られない不安定な世であろうとも。
………此処で腐っていくよりはマシだろう?
「二度と」
―――もう二度と。
「戻ってくるんじゃねぇぞ」
―――感情を殺したままで『死』を選ぶな。
生きていくための力がどこから湧いてくるのかなんて、人それぞれだとしても。
少なくともコイツと自分の活力源は似ている。分かりきっている。つまりそれはこの世で一番単純で一番大切で一番手に入れにくい願い。
―――『退屈したくない』。
フッ、と緊張を緩めて眼前の男が深い笑みを浮かべる。
「当たり前、だ―――言われる、までもねぇ………」
不敵に笑ってその顔を睨みつける。それから、五右衛門の身体を支えたまま「すいません、何が起こってるのか全然わからないんですけど俺はどうしたらいいんですか」と言いたそうにしている藤吉郎の肩を軽く押した。
「行けよ。あんまり時間もないんだろ?」
よろめいた片足は光に飲み込まれて輪郭を薄くする。戸惑うような、すがり付くような目を向けられた。
「秀吉、お前も―――」
「『お前も一緒に』、なんて言うなよ」
「………」
「俺には俺の役目がある。此処で果たすべき義務が、な」
人生を一からやり直すなんて贅沢な真似はもうできない。
………寂しさはある。
けれど不思議なほどに悔しさは感じなかった。
じっとひたむきな目線を向けてくる藤吉郎をよそにして一歩下がる。閉ざされる時空の流れに巻き込まれたくなんかない。
「ひでよ………」
「ああ、そうだ。忘れてた―――こいつも連れて行ってくれ」
言葉を遮って軽く口笛を吹く。行為の意味が分からず藤吉郎は不思議そうに首を傾げた。が、窓から顔を覗かせた小さな生き物を見てその表情が驚愕の色に染まる。
忘れるはずもない、懐かしいその外見に。
「サっ、サスケ!?」
「いや。正確に言えばサスケニ号ってとこか。サスケの子供だ」
「子供?」
ネコのように身体をしならせて秀吉の肩に飛び乗ったそいつは落ち着きなく辺りを見回していた。まだまだ子供なのだろう、体もサスケより小さいしよく見れば毛の色も若干茶色がかっている。
「ま、こいつならお前に懐くだろーよ。俺は要らんから連れてけ」
「要らんってお前………」
秀吉が腕を伸ばすと心得たかのようにサスケニ号は藤吉郎の肩に飛び移った。苦笑を浮かべたままだったその顔を覗き込んでしばし停止した挙句、かつてサスケがそうしていたように藤吉郎の上着の合間にスルスルと潜り込んでしまった。隙間から顔をのぞかせて当然のように居座っている。
「………どーゆー、躾、してんだ………?」
「躾は俺の担当じゃねぇよ」
五右衛門の質問をあっさりとかわす。
視線を戻すと藤吉郎が真摯な瞳を向けていることに気が付いた。
………もう、「一緒に来い」なんて言うつもりはなさそうだが。
藤吉郎がちょっとでも力を抜いたらすぐに五右衛門は倒れてしまうだろう。それが分かっているから精一杯地に足を踏ん張って支えた右手に力を込めて、その上で尚出来うる限りの長さで空いている左手を差し伸べる。
「ここから、遠く離れた地域では―――」
穏やかな声が狭い牢屋の中に静かに響き渡る。
「相手に対する信頼を表すために手を差し出すんだ。『私は武器を持ってませんよ』って証明なんだって」
そう言ってから少し困ったように笑った。ついでに少し首を傾げるのは昔からの変わらぬ癖だ。
「でもおかしいよな―――右手は友愛の証なのに、左手はその逆らしいんだ」
………伸ばされたのは、その左手。
「別にどちらの手でも変わらないはずだろ? そんな拘らなくなって………変なところに意味なんか込めないでほしいよな、迂闊な行動取れなくなっちゃうよ」
「………お前に言われなきゃ気付かないでいられたんだがな」
軽く溜息をついて差し出されたその掌を握り返す。
―――左手で。
「後で知ってショック受けられるのも嫌だしさ。それに結局、俺とお前の関係ってその通りだった気もするし」
元々は同じはずだったその手の強さも大きさも、今では。
一方には支配と権力とそれに伴う幾人もの犠牲、そして押し寄せる孤独と後悔と絶望が身を潜め。
一方には希望と信頼とそれに従う幾人もの仲間、そして来るべき不安と焦りと恐れが刻まれて。
あまりにも違う道を辿ってしまった、元は同じ存在だったはずのその掌で。
「でもきっと………それでいいんだ。俺とお前は別の人間だけど突き詰めれば同じ人間だもん。俺はまだ自分で自分を信じられるほど、強く―――ないから」
「まだ信じられないでいるのか? 仲間がどれだけ増えても?」
「増えた仲間の分だけ強くなれていると信じたいよ。信じたいし強くなりたい、今よりもずっと。………だから今は」
静かに浮かんだ微笑みはどんな決意の表れだったのだろうか。
「今は―――左手だ」
「………バ―――カ、一生勝手にやってろ。お前は………お前のやり方でな」
握っていた力が緩められた瞬間に手を組替えて、振り切るように、投げ出すように強くふたりの身体を光の中へ押し出してやる。それを待っていたように空間にあいた穴は徐々にその幅を狭めていった。
遠ざかるふたりの姿も僅かに垣間見えた遥かに広がる草原も、
静かな強さを湛えてこちらを見上げていた五右衛門の表情も、
それを隣で支えながら真っ直ぐこちらを見つめていた藤吉郎の瞳の色も。
覚えている―――覚えている。
きっと、ずっと、一生。
残された僅かな生の中でも繰り返し繰り返し思い出すだろう。
構わずに行くがいい―――重なりようもない未来を辿ったもうひとりの自分よ。
それを支えるがいい―――同じ思いを抱いていた孤独な自らの分身よ。
光が弱まり音が遠ざかる。
時空の門が完全に閉じられた後もまだしばらく秀吉は誰もいなくなった牢屋の中で佇んでいた。
瞳を閉じて外の風の気配に耳を澄ませ、消え去ったものに思いを馳せて。
―――けれど。
再び瞳を開けた時にはもうそんな気配など微塵も感じさせずに、静かに牢屋から出ると硬い石造りの階段を上り始めた。響く足音は確かな足取りを示す。重い扉を開ければ夜明け間近の暗い青の色がこの目に映る。
―――残されたものは残されたものの成すべき事を。
この場に留まって全てを見届けよう。かつて関わった者たちの作っていた物語の結末を記憶に刻み込もう。
(俺は)
―――狂うことなく律せよ、時の歯車。
(俺の生を全うするのだ)
階を上り切った秀吉は複雑そうな表情の合間にただ一度、少しばかり寂しそうな笑みを覗かせた。
友よ、これらの音ではなくて もっと快いものに声を合わせよう もっと喜ばしいものに
大きな贈物を受けたものは 友のなかの真の友たり、いとしき妻をえた者は 歓喜の声を和せよ
そうだ、地上にただひとつの魂を 自分のものとよんでいる者でも
そしてこれを今まで知ったことのない者は、泣き悲しみつつ この群れから去れ
楽しく、神の多くの太陽が 天空の壮麗な面をとぶごとく
走れ、兄弟たちよ 汝らの道を喜ばしく、英雄が勝利に赴くように
走れ、兄弟たちよ 汝らの道を
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