何故かは知らない。―――が、突然夜中に目が覚めて、隣を見たら布団がもぬけの殻だった。
 同居人が時々夜更けにこっそりと家を抜け出して何処かへ出かけていることは知っていた。知っていながら放っておいた。自分の関わる領分ではなかったからだ。
 幾ら双子とはいえ別世界の自分だとはいえ、互いの全てを知り尽くしているわけじゃない。知りたくもないし知るべきでもない。自分たちの間にある関係は一般的な世の兄弟と比べて随分殺伐としていて水臭くて、よそよそしいものなのだろう。
 未だ一対一で向き合った時に感じる妙な緊張感と居た堪れない感覚と気まずい雰囲気。肩を並べて笑いあえる程の精神的余裕もまだない。出来るだけ関わらずに、気にせずに、お互いの行動に口出しせずに―――それが暗黙の了解だった。
 だからまたしてもその姿が見えなくなっていた時、秀吉はもう一度眠りに就こうとして上掛けを深く被った。
 ………のに、何故かその日ばかりは嫌な予感がして軽い舌打ちと共に寝床を抜け出した。音を立てないように気をつけながら長屋を抜け出して夜の最中に足を踏み入れる。
 完全に無視してしまえばいいものを、そうできないから嫌になる。互いに別の人間としてそれぞれの感情を抱いているから嫌になる。
 いっそのこと、この感情は俺のもの、あの感情はあいつのものと―――分け合えてしまえたならば少しは楽になれるだろうに。

 


― 半裁の感情 ―


 

 何か宛てがあったわけではない、勘が働いたわけでもない。人っ子ひとり通らない夜の道を秀吉は足早にすり抜ける。
 町を通り抜け幾度か角を曲がり、自分でも行く先を知らぬままに突き進んでいるといつの間にか人家から遠く離れてしまっていた。あかりも灯さないままに森の奥に入り込み、何となく見覚えのある小さな社の焼け跡を通り抜け、導かれるように吸い寄せられるように足を運ぶ。
 前方から微かに聞こえてくる音に耳を澄ませた。
 川―――がある、ようだ。
 それを頼りに歩を進めると徐々に視界が開けていく。切り立った崖が見える範囲まで進んで、秀吉は歩く速度を緩めた。
 ―――藤吉郎が、そこにいた。
 膝を抱えて蹲り、何を考えているのかは知らないが今にも落ちそうな程ギリギリの淵に寄って下を覗き込んでいる。吹き上げてくる風と共に舞い上がる水飛沫が前髪を濡らしていた。
 ここ数日、ずっと此処に来ていたのだろうか?
 多分………そうなのだろう。
 あと数歩で手が届くという所まで来て漸く藤吉郎が顔を上げた。その顔は浴び続けていた水飛沫の冷たさ故か、白く凍てつき何の感情も浮かんでいない。
 空ろで、空虚で―――何もない。限りなく『無』に近い表情。
 コイツは時折りこういう顔つきをすることがある。秀吉がそれに気付いたのはごく最近のことだった。
 ………どうせまた下らないことで悩んでいるに違いない。
 こんな世の中では一瞬の迷いが命取りになるというのに、どうしてコイツは四六時中悩んでばかりいるのだろう。ゆっくり悩んでいられるような恵まれた環境にいたワケでもなし、自分と同じ人生を送ってきていながらこの優柔不断さは何なのだ。
 隣に立ち、同じように暗い崖の淵を覗き込む。目を凝らしても見えない闇の奥底から湧き上がってくる水の音は随分と重い響きを伴って胸の中に届いた。
「―――深い、な」
 返事も期待せずに呟く。
「深い―――闇、だ」
 夜の闇が暗い所為か、川の流れが深い所為か、あるいは―――。
 見つめている者の心が暗い所為、か。
 らしくもない思い付きに自嘲気味に口の端を吊り上げたとき、流れる水の音に消え去りそうなほどか細い声が聞こえた。
「………ここで、会ったんだ」
 どうせ様子を窺ったところで相変わらずじっと水の底を眺めているのだろうから、隣には僅かに視線を投げかけるのみで変わらず前を見つめ続ける。
「殿と竹千代さまと会うのは二回目だったけど―――ヒナタとかヒカゲとか、犬千代さまとか一益さまとは此処で初めて会ったんだ。………五右衛門とも」
「―――ああ」
 なるほど、それでか………。
 先程の道に何処か見覚えがあると思ったのはそのためだったのか。自分は藤吉郎の記憶をなぞったことがあるから―――そんな景色に出会っても不思議ではないのだ。言われてみれば確かに、あの焼けてしまった社も此処に至るまでの細い道筋も覚えている。ここでどんな遣り取りを交わしたのかも。
 崖っぷちまで追い詰められて、命の危険に晒されながらも必死になって叫んだ。

『こんな…くだらない殺し合い、もうやめましょう!!』

 ―――と。
 ヒカゲは言ってくれた、『あなたの生き方は間違ってなんかいない』と。
 自分のやり方を認めてもらえたのが嬉しかった。馬鹿にされてばかりだった自分の言葉を肯定してくれたのが嬉しかった。
 敵であったはずの五右衛門は自分に協力してくれた。『敵味方、両方を勝たせる戦い―――俺だってできればそんなヤツの下で働いてみたい』と。
 信頼されたことが嬉しかった。初対面にも関わらず力を貸してくれたことが純粋に嬉しかった。
 でも自分の根本にあったのは深い洞察力や尊い志でも、気高い精神でも何でもなく―――。

「………怖かった、だけだ」

 血を流すのも―――流されるのも。
「痛いのは………苦手、なんだ。でも」
 人を殺したり―――殺されたり。
 この世の中、誰かを犠牲にしなきゃ生きていけない。けれど他人を押し退けることしか出来ない考えなしは獣に等しい。そんな連中を馬鹿にして、憎んで、自分だけは絶対に違う生き方をしてやると心に決めた。
 ―――なのに。

「結局俺も―――人を殺した………」

「………」
 藤吉郎の独白を黙って秀吉は受け流した。自分がどうこう言える問題ではない。それに人殺しの経験なんて自分は嫌というほどしてきている。
 コイツだって覚悟を決めたはずだ―――京で。比叡山の戦いにおいて。何かを成し遂げるためには自らの手を汚さずにいられるはずがないのだと、主君の夢を叶えるためならばそれまで厭うてきたことさえも敢えてやってのけようと、そう決めたはずなのに。
 何を今更迷う必要がある?
 戦から離れてしばらく経ったことで自らの行いを顧みる余裕が出てきたということなのだろうか。
 これといった返事も期待せずに普通に秀吉は問い掛けた。
「で? ―――結局、お前は何をどうしたいってんだ」
「………俺は」
 瞳に苦渋の色を滲ませたまま藤吉郎が立ち上がった。秀吉の顔を見て淡々と宣言する。

「やっぱり―――誰も殺したくない。だから人を殺さずにすむ方法を………考えるよ」

「………は」
 どれほどの時が経過してからだろうか。
 秀吉の口から漏れ出したのは乾いた笑い声だった。
「っは………はは、ははははははは!」
 然程大きくもない声が夜の森の中に静かに響き渡っていく。微かに木々の間に木魂して、揺れる草をなびかせて。
 ひとしきり笑った後で秀吉は藤吉郎を睨みつけた。
 ―――強く。

「………なに、勝手なこと言ってんだよ」

 何を―――何を今更。
「お前、自分が京で何をしたのか忘れたのか?」
 主君を助けると言う大義名分、時間の流れを牛耳ろうとする『悪人』を倒すと言う建前だけの正義。
「殺しただろうが、その手で」
 相手が悪人だったから『殺した』内には入らない―――そんな聞くのも寒い逃げ口上など使わせてやるものか。
 どんなに認めたくなくても拒絶しても忘れ去ろうとしても、既にその手は赤く血塗られているのだ。

 ………自分と同じく。

「ああ―――殺した」
 幾分青ざめた表情ながらも藤吉郎はしっかりと頷いた。
「でも、だからと言って―――諦めたくないんだ。誰も死なずに済む方法を考えるのを」
 その口調は何処か自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「人を殺すのと、殺さないよう努力するのとは別問題だ。犠牲が少なくなるに越したことはないんだから」
「利いた風な口きくじゃねぇか」
 秀吉は冴えきった笑みを口元に浮かべた。
「奇麗事ばっか語ってんじゃねえよ。自分とその他の人殺しの間に何の差異もないってことは、お前自身が一番よく知ってるだろ?」
 その言葉にも藤吉郎は頑なに首を横に振る。
「違う―――別に俺は殺したくて殺してるわけじゃない」
「だから甘いって言ってるんだ」
 忌々しげに秀吉は舌打ちした。
 駄目だ。コイツはやっぱり何にも分かっちゃいない―――自分が何をしたのか、これから何をしなければならないのか、これ以降生き抜くために背負う覚悟の程も何もかも。
 知らない、分かってない、認めてない。
 好き好んで人を殺すのはただの殺人狂。それ以外の大半の人間はみなコイツと同じ思いを抱いているのだ。その上で戦に出て敵を屠っている。殺されたくないから殺している、必要に迫られて。
 まさかそんな単純で厳正な事実すらも認識していないというのだろうか。
「自分だけ汚いことから目を背けて生きていけると思うのか? 殺しだって盗みだって嘘だって必要とあらばやらなきゃなんねぇ。お前だって信長さまの天下が見たいんだろう。だったら奇麗事なんか吐かずにきっちり現実を見つめろ。自分も『人殺し』のひとりだってな」
「そんなことぐらい分かってる」
 藤吉郎も語気を強めた。
「けど、現実を見つめたら夢や理想を追っちゃいけないなんて誰が決めたんだ。何ひとつ泥を被らずに生きていけるなんて俺だって思ってない。でも、出来る限り流れる血の量を少なくしたいと思って何が悪い。争いを避けて何が悪い。傷つけるのを恐れて何が悪いって言うんだ」
「そうやって逃げるんだな、お前は」
 秀吉は皮肉そうに嘲笑う。
「人を殺して恨まれるのも憎まれるのも、それによって自分が傷つくのも怖いってわけだ。笑わせてくれるぜ、お前があの戦いで得たのはその程度の覚悟か。少しはマシんなったと思ってたのにただの買い被りだったみてぇだな。そうやって嫌だ嫌だと叫ぶばかりで一番つらいところは他人任せにしようって魂胆なんだろ」
「違う!」
 握り締められた藤吉郎の拳から赤い血が滲み、夜目にもそれははっきりと見て取れた。それでもこの言い争いをやめようという気配は全く感じられない。
「確かに俺は怖がってる―――けど、逃げようとは思わない。戦うよ、戦って勝つさ、あくまでも俺のやり方を通して。出来るかどうか分からなくてもやらなくちゃいけないんだ。無理な話なんかじゃな―――」
「無理だ」
 低く、秀吉は相手の言葉を遮った。口を噤んだ相手の胸に人差し指を突き立てて冷酷に宣言してやる。
 ―――無性に腹が立ってならない。
 コイツの考え方も態度も言葉も何ひとつ気に入らない。自分ひとりこの苦境から抜け出そうと足掻いている、そんな自分勝手な行いなど許してやるものか。
 暗い思いを抱えているのはどちらも同じなのに。
「お前は、それが無理な話だって自覚してるんだ」
 耳を塞ぎたくなるような話でも言ってやる。聞きたくない言葉でも告げてやる。
「俺がさっき此処に来た時、お前は何を思った………?」
 僅かに藤吉郎が唇を噛み締める。『自分』が何を考えているのかなんて嫌というほど分かってしまう。だからこそ互いから発せられる言葉はどんな刀よりも深く自らの心をえぐるのだ。
「暗い川を覗き込んで、後ろからやって来る人間がいると知って、踏み出す勇気もなかったけれどそいつに背中を押してもらえばあっさり実行に移せることに気づいたんだろう? この崖から落ちれば、すぐにでも」
 突き立てていた指を引き、握り締めた拳で薄く相手の肩に触れる。
 ―――そうだろう? お前はあの時、そう考えていたんだ。何も映さない空虚な瞳をして、感情のない顔をして、ただひとつのことを願っていたんだ。
 出来るだけ人を殺したくないと願いながらもそれを叶えるための果てしない道程を思い、いつか自らの理想と精神が崩れていく様を予感して恐怖と絶望に怯えていたんだ。
 逃れたいと―――泣いていたんだ。

「死ぬことが出来る―――ってな」

 相手が息を飲んだのが分かる。
 ばれていないとでも思っていたのか。おめでたい奴だ。
「俺の手にかかって死んで嫌なことだらけの現世とおさらばか。他力本願もここまでくると立派だな」
 大声で笑い出したくなるのをどうにか堪える。笑いたいわけではない―――けれど、他にどんな表情をすればいいのかも分からないから静かに拳を突き付ける。
 自分は一体今どんな表情をしているのだろう―――ふと思った。
「殺しも盗みも嘘も汚いことは全て俺に預けて、自分だけあっさり死を迎えるのか。感情の汚い部分を全て俺に渡して、お前は独り穢れずにいるのか………よくできた話だよ、呆れ返る程にな」
「ひでよ………」
 肩に当てていた拳を上げて、何かを告げようとした喉元に軽く触れる。藤吉郎の左手に暗い崖、自分の右手に広い闇、このまま力を込めればきっと―――。
「………いいぜ、殺してやっても」
 自分でも不思議なほど気楽に言い切れる。と、同時に浮かべた笑み。
「残された俺が独りで生きてやるよ」
 言葉は途切れ、ただ川の濁流だけが途絶えることなく激しく耳元にその音を響かせる。
 藤吉郎は秀吉の右手首をそっと捕まえた。
「何で―――」
 ひどく、戸惑った色を浮かべてもどかしそうに口を開く。
「何で、そんなこと言うんだ………?」
「殺されたくないってのか」
「違う、そうじゃなくて―――ああ、いや、確かに死にたくはないんだけど。………でも」
 眉をひそめて秀吉を掴む腕に力を強める。
「お前の考え、何か変………じゃないか? 俺だって恨んだり憎んだりすることなんてざらにある。なのにどうしてお前ひとりが醜い物思いを抱いているような言い方をするんだ?」
 大きめの瞳が闇夜の中でその色を濃くする。自分よりも若干薄い色をした瞳の強さが気に入らなかった。
 違うものを見つめ、違うことを考え、違う生き方を選ぶ―――それが当たり前の道だとしても。
 ………同じ存在のはずなのに。
「俺だって人を殺す。でも必要に迫られなければ殺しなんかしたくない。逃げ道を残しているそれをただの偽善と呼ぶ人だっていると思う。だから、ある意味俺の方が汚いんだ」
「その言い方が気に食わないって言ってんだよ―――何もかも。聖人君子みたいな上っ面の言葉ばかりで吐き気がする。しかも心の底からそう考えていると、お前自身が思い込んでいるんだ。代わりに憎まれ役を演じてくれる奴がいなければ何ひとつ出来やしないくせに、それすらも分かっていないくせに」
「分かってないのはお前だ、秀吉。どうして俺とお前とをそんな………そんな、同一視したがるんだ。俺たちは別の人間じゃないか。どっちかが表でどっちかが裏だなんて、そんなこと有り得ない。俺の中にだって醜い感情は溢れてる。だからお前の中にも戦を嫌う心とか友人を守りたい気持ちとか、そういう思いが存るはずだ。なのにどうして」
「分かってないのはお前だ、藤吉郎。一度同調しちまった以上精神の繋がりが断てないってのはお前もよく分かってるはずだ。馴染めなきゃ反発するしかねぇ。共に行けないのなら逆らうしかねぇ。お前が奇麗事を口にするたび俺の中には悪意が蓄積していく。俺が殺意を露にするたびにお前はふざけた戯言をほざく―――そういう関係だろう、俺たちは」
 笑いながら睨みつけてやれば穏やかならざる色をした目つきで睨み返してくる。
 こうした我の張り合いにおいてどちらかが譲歩したことなんてない。決裂するのも憚られて今まで話題に上る度にどちらからともなく遠ざけていたが、今ここで決着をつけるのも選択肢のひとつかもしれない。
「もう一度俺の前ですました言葉のひとつも吐いてみな」
 腕に力を込めた。

「―――殺すぜ?」

 負けじと藤吉郎が手首を強く握り返す。
「やってみろよ―――でも、その時はお前も道連れだ」
 互いを見つめる視線に親しみなど微塵も感じられない。
 それでいい―――もともと自分たちの関係はこうだったはずだ。変に馴れ合ってしまった今の関係の方がおかしかったのだ。
 動いたのはどちらが先だったろう。
 秀吉が腕に力を込めるのと、藤吉郎がそれを跳ね飛ばしたのがほぼ同時。足払いをかけようとした秀吉の動きはあっさりとかわされた。しかし藤吉郎の拳も相手に届くことはなく、少しの距離を置いて睨み合い、牽制し、隙を探る。伸ばされた腕を払い、拳を避け、服の裾を捕まえて突き倒し、距離を置いたと思ったら蹴りを食らわされて、結局ふたりとも倒れ伏して―――もう滅茶苦茶だ。
 息が荒い。体力的にも精神的にもほぼ同程度のふたりが争っているのだ、簡単に決着がつかない分だけ疲労も増す。何より相手の行動が先読みできてしまう辺りが痛かった。それは即ち自分の行動が相手に読まれていることも意味している。
 取っ組み合いの喧嘩なんて一体何年ぶりだろう。理性も知性もなくただひたすら相手を打ちのめすことのみを考えるそれは、ひどく純粋で残酷な儀式のようにも感じられる。
 手刀を避けて藤吉郎が若干後ろへと退き、瞬間、草に足を絡め取られた。
「―――っ」
 一瞬の行動不能は全体の不利になる―――。
 焦った藤吉郎は慌てて体を起こすと、秀吉を警戒して更に後ろに下がり―――突如、体勢を崩した。
 足に感じられるはずの地の感触がない。それと自覚する暇もなく、藤吉郎の体は宙に浮いて崖下の暗闇へと放り出された。




 身体にかかる水飛沫が近い。
 上から覗き込んでいただけでは分からなかった岩の存在とか流れの激しさとか、それらがより一層現実味を帯びて押し寄せてくる。真夜中の寒中水泳なんてたまったもんじゃない。
 どうやってこの状況から逃れよう―――。
 かろうじて相手の手首を捕まえたままの体勢で秀吉は必死に考えを巡らせた。
「ひで………よし………」
 藤吉郎が呆然と自分のことを見上げている。
 ああ五月蝿い、分かってる。そんな顔して見つめてくるんじゃない。何でこんな真似をしたのかなんて聞くな。俺が聞きたいくらいなんだ。
 足を踏み外した藤吉郎に向けて咄嗟に手を伸ばしてしまったのは何故だったのか。そのままにしておけば勝手に川に落ちてくたばってくれたのに。実際、先刻まではそうしようと思って争っていたのに。
 手首を捕まえたまではよかったがその後がまずかった。自分まで足を滑らせて半分落ちかけて、どうにか右手だけを崖際の木の根に引っ掛けている。
 捕まえている手首が微妙に捻られた。ぶつかった足先が僅かに岸壁を散らす。
「秀吉―――放せ」
「………」
「早く―――放すんだ。俺、一回ここから落ちたことあるから、だから………」
「アホっ。五右衛門はいねーんだぞ!? ひとりで泳ぎきれるような流れじゃないんだ!」
 木を握り締めた掌に血が滲む。
 全く持って何をやっているのだ自分たちは。端から見ている人間がいたら実に馬鹿げた光景に見えることだろう。互いに罵り合って崖から突き落とそうと企んで、そのくせして相手がいざ落ちそうになると助けてしまう。
 もし足を滑らせたのが藤吉郎でなく自分であっても、きっと同じ結果になっていた。
(本当に、何やってんだ俺は………)

 ―――俺たちは。

 悔むのは後にしてどうやって体を上まで持ち上げたものか考えを巡らせる。自分ひとりでふたり分の体重を支えているから身動きが取れないのだ。どうにか片手で藤吉郎の腕を自分と同じ高さまで引き上げて、同様に木の根を掴ませて、それから………。
「―――秀吉」
 掛けられた声が煩わしいと思いながらも目線を下ろす。見下ろした相手はこんな切羽詰った状況だというのにひどく落ち着いた顔をしていて、悟りきったような目をしていて―――何故か、胸をざわめかせる。
「俺は、大丈夫だよ」
 ………何が。
「何とかなるって」
 照れたように笑ったその表情は常にないほどの優しさと親しみを滲ませていて、一刹那、意識が逸れる。
 ―――まるでそれを待っていたかのように。

「―――っ!?」

 手の甲にくないが突き立てられた。
 意志の強さだけではどうにもならない条件反射に捕まえていた腕の力が緩む。すかさず振り払われて―――数拍の間を置いて闇夜に水飛沫が上がった。
 付けられた傷から流れ出た血が水に落ちるその前に秀吉もまた川に飛び込んでいた。視界が闇に閉ざされてあまりの水の冷たさに一瞬息が詰まる。
 ―――馬鹿だ。
 どうしようもない、馬鹿だ。

 俺も―――そして、お前も。




 その日、月が出ていたのかどうかは覚えていない。
 出ていたとしても言葉を交わしていたのは深い夜の森、月の光なんてもとより頼りにならない。ただ月には人を狂わせる力があると聞いた覚えがあるから、もしかしたらあの日もそうだったんじゃないかと思っただけだ。
 無論、そんなのはただのこじつけに過ぎない。感情をぶちまける機会が欲しくて、意地も見栄もなく本音を洗いざらい喋ってしまいたくて、何でもいいから、誰でもいいからとにかく思いの丈を打ち明けたくなるような時―――それが自分たちにとって偶々あの日だったというに過ぎない。

 寒い日だった。
 川は本当に死にそうなくらい冷たかった。

 暗くて周りがよく見えない。流れに翻弄されて岩に何度も激突して、精一杯その手を伸ばして岸に上がろうと足掻いた。体が重くてたまらない。濡れた服が纏わりついて気持ち悪い。吐く息も白ければ指の先もつま先も真白い。きっと、顔も色を無くしているだろう。
 気づけば空の端も少しずつではあるが白んできている。
 ああ、早く家に戻って出掛ける用意を整えなければ―――。
 川の側でくたばりかかっているというのに、そんなことを考えてしまう自分が何だかおかしかった。
 可笑しい―――奇怪しいよ、な。
 秀吉はやっとの思いで自らの体を岸辺に引き上げると、次いで藤吉郎の身体を引き上げてやった。水中で相手を掴んだ腕は凍り付いてしまって思うように動いてくれない。
 完全に身体を水中から抜け出させた時にはふたりとも息も絶え絶えになっていた。藤吉郎が仰向けに寝転がって目元を腕で覆う。
「………っか、しいな………俺、結構、川とか流された、こと、あるのに………」
「経験してたって、意味ない、だろ。助けも、なしに泳げるほど、お前に体力なんてない、んだっ、馬鹿が」
 ぐったりと座り込んで肩で息をする。凍えそうな程に寒い―――でも、動く気力が湧いてこない。
 濡れた身体を自分自身の腕で抱きしめる。ちっとも温かくない。
 ………このまま此処にいたところで凍え死ぬのを待つだけだ。そのままの形で固定されてしまったような足をどうにかひん曲げて、勢いをつけて立ち上がる。―――数歩、よろめいた。くないを突き立てられた右手の甲から血と体温がどんどん流れ出ていくのに、冷え切っているためか何の痛みも感じられない。
 何の気はなしに藤吉郎の方を見て―――動きを止めた。
 ……………。

 何で。
 ―――何で、コイツは。

 傷口を左手でそっと抑える。流れ出す血はそれでも少しは温かいように思われた。寒さに痛む頭をどうしたものかと思いながら、早く身体を温めなければと思いながら、帰らなければと思いながらちっとも自分の身体は行動を起こそうとしてくれない。
 ………理由が、分からないから。

「何で………泣いてるんだ?」

 零れ落ちた―――体中から滴る雫と共に思いまで。
 交差した両腕に覆われた顔の端から透明な筋が流れ落ちていくのが見える。後から後から流れては頬を伝うそれが暗い闇夜の大地に色も残さずに吸い込まれていく。
「………うるさい」
 食いしばった口元から呻き声が漏れる。
「うるさい、うるさい、うるさい………っ。放っておけよ、俺のことなんてっっ」
 震えながらの言葉に返す言葉もなく、ただ呆然と相手の姿を見詰める。藤吉郎は横たわったまま、けして自らの顔を覆う腕を取り外そうとはしない。
「お前が言ったみたく、俺は何にも分かってない………甘ったるいこと言ったって、理想を追いかけたって、誰かの力を借りなきゃどうしようもない………っ。殿に助けられたり、五右衛門に助けられたり、お前に―――助けられたり。誰かに頼らないと生きていけない。俺には、何の力もない………!」
 それは彼の中に刻まれた癒されることのない負い目なのだろうか。
 これまで生き抜いてこれたのは運が良かったからに過ぎず、いざという時に手を差し伸べてくれる人がいたからに他ならず、本来ならばとっくに死んでいてもおかしくない立場だったということを―――きっと彼自身が誰よりも一番強く感じている。
 誰かを傷つけることはひとりでも容易く行えるのに、誰かを助けようと思ったらひとりでは何も出来ないのだ。
「………ちくしょうっ………」
 また、泣いた。
「どうして俺は………何も………できなくて。何でだよ―――何でこんな風にしか生きていけないんだよ………こんな世の中で………!」

 人を殺さない、盗みを働かない、嘘をつかない。
 それらは決して間違った行いではないはずなのに。何ひとつ間違っていないはずなのに。

 何故これらの誓いを破らなければひとりで生き延びることが出来ないのだろう。

「お、俺のこと、救いようのない馬鹿だって思ってるんだろ………? だったら、ほっといてさっさと帰れよ………へたな、同情なんて、要らないからな………っ!」
 声が弱まってすぐ側の川の音色に飲み込まれていく。
 止まったままだった足をゆっくりと秀吉は動かした。体力の限界にきている足は動きが鈍く、足元の砂利を踏みにじって重たい音を立てた。
 救いようのない馬鹿―――。
 自分の行いは何ひとつ間違っておらず、唯一無二の方法なのだと天に向かって堂々と宣言できるような奴だったら。
 自らの運の良さや恵まれた環境を省みず、ただ愚かしい心のままに世の平穏を願っているような奴だったら。

 何も苛立つことはなかった―――本当に最初から別の生き物として歯牙にもかけなかった。

 未だ地に寝そべったままの藤吉郎の身体を大きく跨ぐ。それに気付いているのかいないのか、藤吉郎が顔から腕を放すことはない。
 大いなる矛盾。誰も傷つかないようにするためには誰か傷つけなければならない。安定した世界を得るためには数え切れないほどの屍を乗り越えなければならない。
 それでも飽くことなく理想を追い続け、何処までも出来る限り苦しみに耐えて悲しみを押し殺して。
 この世で生き残るための冷徹な事実を知りながらも尚、理性や感情などの儚い希望に追い縋って頼って期待して。

(―――何処まで耐えられるんだろうな?)

 そのまま秀吉は藤吉郎の腹の上に腰を下ろした。藤吉郎が鈍い叫びを上げ、顔を覆っていた腕を外して抗議の視線を送る。
「いっ………いきなり、何する―――」
 不用意に解かれた腕を間髪いれず追いかけ捕まえて、右の掌で相手の左手を、左の掌で相手の右手を、それぞれにたどたどしく指を合わせて握り締め地面に縫い付ける。
 涙に濡れたままの頬を見て秀吉は薄く笑った。

「譲歩―――してやってもいいぜ?」
「………『譲歩』?」

 救いようのない馬鹿、理想ばかり追いかける愚か者。
 自己の内側の矛盾する現実に気づきながら、何処まで上っ面を保っていられる? 正気を保っていられる?
 今にも壊れそうな細い綱をギリギリの線で渡っている分からず屋。
 その想いが崩れた時はさぞや見ものだろう。

「これから先も、お前が甘っちょろい戯言を心から口に出来ると言うのなら―――」

 ワリに合わない役目? ―――いいや、ひどく単純で気楽な立場。
 高みに在り続けるのは疲れるから嫌だ。堕ちるのは至極簡単で気持ちがいい。

「俺が引き受けてやるぜ―――全て、な」

 藤吉郎は微かに目をしばたかせて、抑えていた掌から逃れようとするのをやめた。
「………何の、全て?」
「負の感情の全て。それに伴う行動の全て。殺しも盗みも騙しも全部俺が請け負ってやるよ。お前が望めば力も貸すし命だって守ってやるさ。幾らでも、あらん限りの力でお前の思い通りに」
「それは―――」
「ただし」
 自分がキツい条件を提示していることは知っている。
 そう、コイツは『救いようのない馬鹿』だから、きっと自らの半身さえも犠牲には出来ない。皆そろって幸福になれる道があるなんて夢物語をまだ信じている。
 だから―――。
 前髪から滴る水が藤吉郎の額に当たって弾け飛んだ。

「お前は、抱くな」

 周囲の人間が『仕方のない奴』だと苦笑していられるように、それ故に貴重な奴なのだと誰もが感じられるように、今時稀有なその物思いが潰されてしまわないように。
 醜い感情の全てを見せるのは―――俺ひとりに。
「お前は、そんな感情を抱くな。恨んだり憎んだり呪ったり、そんな思いに身を任せることは許さない。強い感情に心を支配されそうになっても理性で食い止めろ。飽くまでも下らない戯言をほざいて、いつまで経っても甘い幻想を信じていろ。馬鹿馬鹿しくて誰も反論できなくなるぐらい………」
 自分が担うものよりも、もっときつい枷を課す。
「恨むよりも愛せ、憎むよりも許せ、呪うよりも信じろ。真っ直ぐ前だけを見て歩け。暗い思いに捕らわれるな。許すことを忘れて恨んだり、大切に思うことを忘れて憎んだりするのは全て俺の役目だ。―――お前じゃない」
 零れ落ちた水滴が幾つか、組み敷かれた相手の頬に当たって撥ね返る。
 幾度か戸惑いがちに口を開き―――驚きに見開いていた目をやや伏せるようにして藤吉郎は震えた。
「無理………な、こと言うなよ………。今だって俺は憎んだり嫌ったりしてるのに。なのに、そんな思いを抱くなって言うのか? 『お前』がそれを言うのか?」
「最後の最後で踏み止まれればそれでいい。ギリギリの境界線で立ち止まれたなら、そこまではまだ勘弁してやるよ。―――でもな」
 時の経過と共に相手の表情が徐々にではあるが明確に捉えられるようになってくる。
 ………夜明けが、近付いている。
「もし一瞬でもその内に迷いを抱いたりしたら―――激情に身を委ねて非情な行いに走ったりしたら、そこで終わりだ。言っておくが俺の目を誤魔化せるなんて思うなよ? お前の考えなんざ見ただけで分かるんだ。そして、お前が理想を語るに価しない人間だと俺が判断したなら、その時は」
 頬を緩め、穏やかな眼差しをして秀吉は笑った。

「―――堕ちろ、俺以上に」

 誰にも真似できないぐらい満ち足りた顔をして………笑う。

「殺してやるだけの価値もないから、何処までも独りで堕ちて行け。『独り』で―――な」




 しばらくどちらも何も喋ろうとはしなかった。川の流れだけが忙しく聴こえて、薄暗く同じような闇に統一されていた世界が少しずつ個々の色合いを取り戻していく。外気に晒されたままの肌は冷え切り、流れてくる微かな風でさえも身に突き刺さるかのようだ。
 藤吉郎が少しだけ身体を捩った。
「………どいてくれ、頼むから―――」
 細く紡がれた言葉に従い、ぎこちない動きながらも秀吉は身体を起こす。ずっと同じ姿勢でいたため関節が軋んでいる。きっとそれは向こうも同じことだろう。
 地面に押し付けられていた藤吉郎の手の甲には薄っすらと細かい石の跡がついていた。それをさすり、庇うように包み込んでしばしの間、藤吉郎は秀吉に背を向けていた。相手の真意を計りかねているのだろう。
「秀吉―――」
 数歩進んでから振り返り、言う。
「やっぱりお前の言ってることは………駄目、だ。実行しちゃ―――いけない。だって」
 何かを隠すかのように瞑目する。

「どうしてお前独りが、そんな風に堕ちていかなきゃならないんだ」

 周囲を取り巻く朝靄が山際から滲み始めた日の光にうっすらと反射している。風と共に流れる白い粒子の波がやたらはっきりと見えた。
「俺は………自分が『いい人間』だなんて思ったことは一度もない。俺は『偽善者』で、理想ばっかり追いかけてる『愚か者』で、『救いようのない馬鹿』なんだってちゃんと自覚してる。所詮見る人が見たらただの臆病者にしか見えないってことも―――………ことあるごとにどうにかしようと足掻く俺なんかより、常に受けて立とうとするお前の方が、本当はずっと―――」
 言葉を詰まらせるときつく掌を握り締めた。そうしておいてから当然という如く強く頷き、静かに微笑む。

「―――譲歩、しようか。秀吉」
「………『譲歩』?」

「感情の全部を切り離すことなんて出来ない。俺もお前と同様泥を被る、汚いことだってやる、それでも」 伏せていた瞳はいまやしっかりと開かれて真っ直ぐ秀吉をとらえていた。
「やっぱり諦めたくないから―――足掻く。足掻いてみせる。馬鹿でも愚者でも偽善者でも、誰かに頼らなくちゃならない立場でもいいから………最後まで」
 少しだけ秀吉の方に歩み寄る。丁度釣り合う視線の位置、同じ姿をしていながら違う考えを持つ相手に苛立つことはある。
 けれどそれだけじゃない―――それだけじゃないはずだから。
「俺、さっき生きていくのが嫌だみたいに言ったけど………やっぱり、死にたくはない。色んな人にも会えたし楽しかったことだって沢山あったし―――だからその点についてだけはきっと俺は感謝してる。皆に会えなかったら、って考えるとぞっとする。だから俺はこの世界のこと、さ」
 差し込んできた日の光の眩さに目を細めながら笑う。

「好きだよ―――秀吉」

 秀吉も口元を歪めると軽く片手を挙げてみせた。

「―――上等」

 異なる人間なのに重なり合う感情、託したくなる想い、叶えてほしくなる願い。
 互いが互いの影として、光として生きていくことなんて絶対に出来ない。限りなく近い存在のはずなのに、血の繋がりのない他人よりも遠く感じられる時がある。
 けれど出来る限り誰よりも側で、感じられる思いの全てを互いに預けて開け放して打ち明けて。
 そう―――願ってしまう。
 藤吉郎がそっと秀吉の左手を取り上げて傷口をそっと掌で包んだ。
「ごめん………」
「………」
 俯いたその顔を軽く叩いて笑い、何も言わぬまま手を引いて歩き出す。指先から伝わってくる熱が自らと相手との違いを明確に表しているように思えて秀吉はあくまでも気付かれないように寂しげに笑った。
 繋がれることによって感じる違いが疎ましいから、分け合うことすら出来ない痛みと感情が切ないから、留まることの出来ない想いが苦しいから。
 伝わる熱が輪郭を溶かすように、重ねた吐息が交じり合うように、交わす視線がそらせなくなるように。
 流れる血や汗や涙、その一滴一滴までもがどちらのものと区別出来なくなるぐらい、近付いて抱きしめて溶け合っていつまでも。

 いっそのこと自分もなく他者もなく、触れただけで全てが読み取れてしまう程に―――ひとつになれたのならば少しは楽になれるだろうに。

 

 


 

問い : いや、だから結局何が言いたかったんですか?

答え : ―――分かりません。

 とゆーわけでまたしてもワケの分からない小説が誕生いたしました。いい加減にしろよ、自分………。
何故に日吉と秀吉の関係を真面目に書くとひたすら暗くなるのやら。
とりあえずこのふたりを比べてみた時、

同一化願望が強いのが秀吉。
自己愛を極度に恐れるのが日吉。
事実を受け入れ難くて最後の最後まで足掻くのが日吉。
足掻きもせずにあっさり受け入れて強かに生きるのが秀吉。

彼らは互いの存在が疎ましいんだか愛しいんだか分かってませんが、
そもそも書いてる作者からして分かってないんだから当たり前ですな(きっぱり)
嫌いではない………はず。
例えて言うならば「愛しくて愛しくて愛しくて憎い、俺のアマデウス」?(意味不明)

 本当はこの話、途中で視点が日吉に変わるはずだったんですが結局やめてしまいました。
この展開で視点移動したりしたらますます意味不明な物語になっちまうですよ………(涙)

 

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