湖面に映える黄金のひかり。艶やかに過ぎる降り注ぐ残光。息つく暇なく押し寄せる炎熱。
ああ、見ているか、と彼は独り笑った。
見ているか。止めることができなかったと孤独に嘆いて膝を抱える者よ。
それは自身の弱さに由来するのではなく、ただ、最初からそう決まっていた為に逆らえなかっただけなのだと―――。
周囲の弁明も釈明も受け入れない姿はいっそ哀れといっていい程だ。
それと、同時に。「やれ」
天も地も、すべて焦がされてしまえばいい。
炎がすべてを包み込み、死や穢れを浄化すると共にこの身に消えない罪を焼き付けるがいい。
哀れなる者―――それだけに救われし者。
お前も、この炎熱の空を見ているか。
「………燃え尽きてしまえ」
呟きは誰の耳にも届かなかった。
「火をはなて」
男の指示はやけに虚ろに響く。眼前の神社に火を放ち山を巡る炎の海となる未来が見えていようとも、下された命を果たすが定めと仲間の制止さえ振り切った。
この、敵陣。この、守護本山。
幾ら攻め立てようと屈せず、立ち去れども逃げず、歯向かい続けること幾数年。主君の苛立ちが頂点に達すれば更なる戦の火種となろうと誰もが察すれど、ここまでの事態を想定していたかは分からない。
「宗教の総本山? 都の守護? 知ったことか! あれはただの山城だ!!」
怒りに燃える彼の瞳こそ炎獄。
高く腕を振り上げて冷徹なる判断を下すところには何よりも経験と先見に裏打ちされた自信がある。だからこそ尚、常識の皮を被った周囲は愚行を止めたがる。
愚行。
かつて誰も成し得なかったことをそう呼ぶのなら。
例え部下の誰が付いて来れなくなろうとも、世間に何と罵られようと、付き従うひとりがいるならば。
果てまでも駆け続ける―――その相手を見つけた『彼』ならば。
少なくとも、自分はそのひとりにはなれそうもないのだと直接の指揮を下すことになった司令官は叡山を亡羊と見上げる。
やがて己の髪よりも艶やかで残酷な紅蓮の色彩がこの空を焦がすのだろう。
東西南北を取り囲み、女子供も容赦なく殺せと命ぜられ、それに従うフリをして主君と正反対の方向へと出向いた。直接の指揮を執るよう命ぜられた同僚に弟は制止の言葉をかけていたけれど、立場上逆らえない相手は決して首を縦には振らなかった。
仕方あるまい―――自分とて、同じ立場だったなら抵抗の声を上げはすれども最終的には唯々諾々と従うのだ。
主君の怒りに触れようとも諌めんと声を荒げられるのはただ独り。
そして、そのただ独りに声をかけられる前に主君は踵を返した。
追いつけなかった相手は意気消沈した顔を垣間見せた後、毅然と前を向き、友である忍びを引き連れて陣へ戻ったのだ。
「やってらんねー………って?」
呟く。
それは主君への怒りか半身への憤りか、あるいは諦観と評するべきなのか。
形振り構わず突っ走っているように見えて常に背後のひとりの気配に注視している主と、恐怖と崇拝と憧憬とを抱え込み身動き取れなくなっている双子の弟と。
「―――同じ、だろうが」
所詮はこの天下のいずれかで屍をさらす身の上だ。
ならば今更どんな所業もどんな覚悟もどんな恐れも。
役に立たないと思えるほどに二の次の重要事項―――、だろう?
共に在りたいと願う者たちへ自然と浮かぶ苦い感情に、関わらざるを得ない兄は歯噛みした。
まるで地獄絵図だと傍らの青年が呻く。
確かに、眼前の燃え盛る山と、逃げ惑う人々と、照り返された真紅の天はこの世の終わりを思わせるに相応しい光景かもしれない。ただ、未だ此処が地獄絵図にならずに済んでいるのは隊に下された命が僅かに変えられたからに他ならない。
山から下りくる者は殺せ。僧兵だろうと、匿われていた農民だろうと、何だろうと。
けれども自分たちの属するところでは少しだけ異なる言葉が付け加えられた。
「山に住まう獣はよく化けると聞く―――人は殺せと仰られたが獣を殺せとまでは命ぜられていない。皆、人と間違えて狐狸妖怪の類を殺めるなよ」
判断に困った時は我らの軍師を頼れ。幼き頃より「きつねつき」と称された者ならば狐狸妖怪の目利きは詳しかろう―――と。
いささかの笑みを周囲の人間に浮かばせるだけ浮かばせて、忍びひとりをつけて姿を眩ました。彼の想いがわかるからこそ追いかけることはしない。
しかし。
「―――末代まで祟られたいらしいですね、『上様』は」
「やはり………宗教の総本山を攻めることに畏怖の念を抱くのですか」
「いいえ? 宗教は人のこころにこそ宿るもの、形やところに留めるなど叶わぬものですし、真にいずれかの御仏や荒御神がおわすなら、かような争いとて起こらぬはずでしょう」
ふ、と笑い、ただ、と続ける。
「そこに惹き付けられる、捧げられる、人々の想いには幾許かの敬意を感じずにはいられませぬ。故に御山を攻めて咎められるとすればこれまでに費やされた文化や思想、観念に対してのもの。壊すのは一瞬でも、創り上げるのは容易でない故に………だからこそ御方は」
仇なす者に相応しく、『魔王』と冠せられるであろうと言葉を綴った。
傍らに佇む青年は少しだけ眉を顰めて、悩んだのか小首を傾げて、先の人物が消えた方面へと視線を流した。
微苦笑を浮かべて眺める側を走り抜けていく逃亡者の群れ。
「………気になりますか」
「なりますよ。―――兄さんのところに火の手が迫っていたらどうするんですか」
そうさせないための護衛とてしっかり付いているのだけれど。
「先生も下がって居て下さい。此処は俺が見張っておきますから」
「私も見張りです」
「でも兄さんは実質、『逃亡者はすべて見過ごせ』といったんです。下がっていてください、お願いです。体調も芳しくないのでしょう?」
「………見ていたいんです」
折角の心遣いを丁重に辞退した。見張れと言われたからだけでなく、彼が「地獄絵図」と評したこの光景と、逃げ惑う人間と、それを待ち受ける兵たちを、この目に焼き付けておきたかったから。
見張り、区別するまでもなく―――逃げてきたのが人であろうと、何かが化けたものであろうと。
「炎にまかれるのは………生物も静物も同じなのですから」
―――『人間』も、『ヒト』と呼ばれる狐狸妖怪の類に過ぎないのだとしても。
やれるだけのことをやったと胸を張りたかった。尽力したのだと自らに恥じず言ってのけたかった。
けれどそれは出来ないことで、出来なかった理由といえば告げるべき相手が目を逸らしたからというよりも、追いかけなかった自身にあるようで。
燃え盛る炎の中は人々の苦悶と恐怖の声で満ちているのだと思うと耳を塞いでしまいたくなる。
かろうじてそんな無様を晒さずにすんでいるのは―――守るように、監視するように、密やかに背後に付き従う友の所為なのだろう。
「燃える………」
本来いるべき場所を兄弟や部下に任せきりにしてこんな外れまでやって来た。隠れるように木立の側で情けなくも膝を抱え込んで。
遠く浮かぶ山の影が真紅に映えてこんな時なのにひどく美しい。近くの農村や町では御山が焼き払われると嘆いているのだろう。
焼き尽くせ、との命令を。
敵方を脅す手段としてではなく、実際に行なうべき絶対の命令としてしか捉えざるを得ない相手に。
あの方は命を下したのだ。
例えばそれが己か、己の半身であったならば、情けなくひれ伏すなり怯えるなりして拒否の意も示せようものを、新参の拒否できかねる者に命ずるとは故意か偶然か。
脇から口を挟む隙もなく広められてしまった実行の意図。
非道だと、無謀だと、残虐だと。
ありきたりな非難の言葉なら幾らでも出てくるし、それを苦に思うような人でもないから、いつもこちらは後手に回る。
そして。
付いていけない―――と、感じることがあっても良さそうなものなのに。
付いていきたい―――と、感じてしまう事実だけが。
従うのは楽か、命令を実行するのは至福か、逆らうのは罪か。
己が命を賭してまで尽くしたい相手に出会えるのはどれ程の幸運なのだろう。
それだけが存在意義のように、それだけが絶対の真実のように。
息を、ひとつ。
吸い込む。
眼前の光景や感じる炎熱は、共に下界の罪や死や愚かさを飲み込んで天まですべてを巻き上げてくれるだろうから。
膝を強く握り締めて、密やかに願う。
「………燃え尽きてしまえ」
囁きは誰の耳にも届かなかった。
その者と
涯てまで逝けると感じたならば
これも業かと項垂れるモノ
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