それは、いつか来るかもしれない未来。

 


―― 未来視 ――


 

 泥に汚れた手で口元の血を拭う。思い切り殴られたそこはズキズキと痛んだが、こんな痛みにはもう慣れた。むしろ腫れ上がった顔をしていた方が「ああ、やはり信長様に付き従うのは大変なことなのだ」と周囲の同情すら誘える。
 先ほどまでのひと悶着を経て此処に残っているのは意外と面倒見のいい異世界の兄弟だけだ。座り込んだまま無言で通している藤吉郎に飽きもせず付き合っている。何故か、と聞いたならばおそらく「仕事をさぼるのにいい口実だから」と答えるのだろう。ただし翌日は今日の分まで忙しくなる、だからお前は明日はずっと働いていろと悪意をこめて告げるだろう。
 その他の当事者たる信長も、五右衛門も、柴田勝家も、一益も………信行も、もういない。とうに立ち去った。
 ひとつ、ため息。
 さして気にならないだろうと踏んだのに頬の傷は今更ながらに痛む。と、してみると信長は普段あれでも手加減してくれていたのだろうか。今回の加害者である信行は完全に怒り心頭していたし、もとより彼は下賎の者を快く思っていなかったし、殴るのに躊躇いも何もなかったろう。
 瞳を閉じて思いを馳せた。




 京での一件が片付き、尾張に帰還したのが一月ほど前のこと。藤吉郎の出戻りと、その藤吉郎そっくりである秀吉の出現は周囲を驚かせたが、少しして騒ぎは沈静化した。むしろ表立って目立つようになったのが主君・織田信長と弟・信行の不仲だ。出かける前は信長に反発していた柴田勝家が何故か素直に従うようになっていることが事態を悪化させたらしい。もとは信行よりだったはずの彼が信長につく事で一族内の力関係は変化した。信長の政治基盤は固まり、逆に信行の権力は減少したのだ。そのことを弟君が不満に思わぬ訳がない。
 信長と信行は住む場所さえ違えていたけれども一触即発の空気にみなが胃をキリキリと痛めていて。
 珍しく仕事を早く切り上げて帰ろうとした矢先に、外出する信行を見つけてしまったのが運の尽き。そっとしておくべきかと思ったが、供のひとりも連れていないのが気になった。ましてや彼が向かう先は先日の大雨以来、地盤のゆるんでいる危険地帯。誰に断るでもなく跡を追ったのを―――間違いだったとは思いたくない。
 誰かが付けて来ていると悟った彼に逆に待ち伏せされて、問い詰められて、慌てて逃げようとしたら相手が足を滑らせて崖下に転落した。咄嗟に腕を伸ばしてその服を掴んだはいいけれども如何せん体力と腕力が不足していた。揃って落下、仲良く背中を強打。さすがにすぐ傍が氾濫した川とあっては互いに無駄な体力を消耗する訳にもいかず、救援を待つ羽目になり。
 肩にしがみついていたサスケを城へ送り出し、どうしたものかと途方に暮れる。
 張り詰めた空気に耐え切れなくなったのはおそらく藤吉郎が先で、怒りに我を忘れたのはきっと信行が先だったのだ。けれどこんな機会などそう何度も訪れるはずもないから、尋ねておかねばならぬと感じたのだ。
 ―――何故、争うのかと。
 血を分けた実の兄弟と争わねばならぬのかと。
 どんな人間でも最初の相棒は身内なのだと聞いた。下から這い上がる者たちはみな、そうしている。ならば何故に上にいる者たちは互いに手を組もうとは考えないのか。
 そんなの信行にとっては単なる戯言に過ぎない。彼は「ひとりでも戦えるからだ」と嘲笑った。
 尚も言い募ろうとした瞬間、殴り飛ばされた。
 お前に何がわかるのだと烈火の如く怒鳴り散らされた。
 嗚呼、悪いが、自分にわかるはずもない。立場も考えも違うし目的や決意や捨てられないものも違う。ひたすらに身を縮めて被害を最小限に留めながらも思うのはそんなことばかりだ。

 ………自分には、確かに、わからないかもしれないけれど。
 幼い頃の時間を共有していた信長になら、もしかして。

 そんなことも思った。

 殴り疲れた信行が膝をついて、殴り飛ばされた頬の腫れに藤吉郎が手をやって、暮れ始めた空にどうしたものかと天を仰いだときに救いの手がやってきた。五右衛門の声がする。上から覗いた面子の中に信長までいて驚いた。よほど弟のことが心配だったのだろう。
 おろされた縄にまず信行がぶら下がる。彼が崖の上に姿を消し、しばらくしてから再び縄がおろされた。下りてくるまで微妙な間があった。その上、のぼる途中で一回、縄が軋んだのに気付いたが、のぼりきるのが先決だから迷ったりしなかった。
 かくして地上へ這い出てみれば―――何故か、信長と信行が険しい表情で睨みあっていて。
 おまけに五右衛門や秀吉が明らかに不機嫌で、勝家や一益までもが眉をひそめていたりして。そっと、並び立つ忍びに問いかけてみれば、あんな奴の言葉に耳を貸すなと頭を抱え込まれた。
 鋭い視線のまま信長が口を開く。
「何故だ、信行」
「何ですかな、兄上」
 泥まみれの格好で弟は口元を歪めた。対する兄は感情の読めない顔をしている。

「何故、縄を切ろうとした。まだ上ってくる人間がいると知ってたんだろ」
「関係ないでしょう」

 うわぁ………。

 間の抜けた声が自身の口から漏れた。
 もしかしなくてもこの修羅場は自分が原因なのか。どうやら随分と弟君に嫌われてしまったらしい。確かに余計なことばかり言った覚えはあるけれど、殴られたんだし少しは大目に見てほしいよなぁと内心で愚痴を零す。
「その草履取りは身分を弁えていない。この俺に対する暴言の数々―――万死に値する」
 常識的に考えれば信行の行動は非難されるべきであろうとも、彼の中では至極当然の行動なのだろう。
 殴られて痛かったし理解されなくて悲しくなったし、でもこれでますますふたりの仲が悪くなるようならそれこそ御免被りたいと思った。
 実際には、藤吉郎が口を挟むより先にあっさりとカタがついた。信行がすぐに背を向けたからである。
「俺は先にお暇すると致しましょう。兄上―――貴方も城までの道中、せいぜい気をつけた方がよいですぞ」
 歪んだ笑みに、

「部下はいつ裏切るかわかりませんからな」

 そんな嫌味を添えて。
 視線は信長を通り越して勝家に向けられているようでもあって。
 長いようで短い沈黙ののち、信長が指示を下す。遠目に弟の背中を見守りながら語る主君の表情はいつもよりつらそうに見えた。
「あいつを頼む、権六。怪我の手当てをしてやってくれ。俺が言ってもあいつは聞かんだろう」
 部下は黙って頷くとその場を後にした。
 一益と五右衛門に護衛されながら帰途につく信長は、最後にこちらを振り向いて「明日は休め」と言い残した。大した傷じゃないのに、と言おうとしたが、「お前の傷を見ると信行様のことを思い出してつらいんだろ」と秀吉に諭されれば、それもそうかもしれないと頷くしかなかった。
 彼らが立ち去ってからもすぐに家に帰る気にならなくて………。
 いまに、至る。




 いい加減空も暗さが勝る。未だ懲りずに背後で佇んでいる片割れに問いかけてみた。
「―――なぁ」
「何だ? くだらない質問だったらぶっ飛ばす」
「………まだ、覚えてるか?」
「あ?」
 ほんの一瞬だったけど、確かに自分は、囚われている彼女を助けようとした時に。
『何か』を垣間見たのだ―――忘れていた方がずっとしあわせであろう、何かを。
 もはや霞のようにおぼろげになってしまっている記憶を手繰り寄せてみれば、曖昧ながらも不吉な印象の映像ばかりが脳裏によみがえる。同じものを視たはずの兄弟は、しかし、「さぁな」と素っ気無く首を振るばかりで。
 独り言と化した呟きを零す。

「殿が、泣いてたんだ―――冗談じゃないよな」

 弟の遺体を抱きしめ涙を零していた。
 殺される側は殺される側で呆気に取られた表情をしていた。
 事態を何ひとつ飲み込めていなかったのだろう。誰が、自分を、刺しているのかも、何故、自分が、殺されるのかも、兄が、こうして、涙を流している理由でさえ………。

 いまよりも成長した姿。
 いまからはさほど遠くない未来。

「………殿は冗談でだって泣かないさ」

 秀吉の言葉は誤魔化しているようにも聞こえる。冷静な彼は「弟だろうと何だろうと、天下取りに邪魔なら消しちまえばいいじゃないか」と考えているのだろうか。ならば、自分もいつか殺される。

『彼』の天下にとって邪魔ならば。

「うん。だから、本当に冗談じゃないって話なんだ」
 すっくと立ち上がり天を睨み上げる。
 何をどうするのが一番正しいのかなんて分かるはずもない。
 けれどもこの瞳に焼き付いて胸を焦がすのはいつだってあの人の悲しそうな姿なのだ。
「………俺は、嫌だよ」
 視線を鋭くして瞬き始めた星を見据えた。









 それは、いつか来るかもしれない未来。
 来させてなるものかと強く思った。




 

 


 

本当は長編だったのを無理矢理に短編にした所為かかなり謎な小説になってしまいました(哀)

要は「いずれ信長と信行が争うだろうことを予感して嫌な気分になる藤吉郎」とゆーお話。
時間軸としては京都編終了直後ですかね。
みなさん揃って尾張に帰ってきたというシチュエーションのもと描いております。
ヒカリが視ていた未来の中で、「信長が泣いてるのなんて珍しいよなぁ」と思ったのがそもそもの切欠ではあるのですが、
なんつーかその、どうにもこうにも信長と信行は仲が悪いよね!(苦笑)
結局死の瞬間を迎えても信行には真の意味での信長の考えは理解できてなかったんではないかと思います。
史実の殿はあっさり信行のこと殺してそうだけど、『ジパ』の信長は殺した後でそれなりに落ち込みそうだ………。

 

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