無言のままで時が流れる。
 こんなに居心地悪い思いをすることはなかなかにないだろう、と半兵衛は密かに冷や汗を流した。庭に面した縁側で隣に座すのは部下である佐助と茜のふたりだけ。常ならば気心の知れた相手であるが、どうにも今日はこちらの分が悪い。自業自得と言われてしまえばそれまでだが。
 戸惑いながら呼びかけた。
「………そんなに怒るな」
「怒ってなどおりませんよ」
 既にその答え方が怒っていると思う。
 ひどく冷めた目つきで佐助は眼前の主人を睨み付けた。

「知らぬ間に怪我をしてくる方に怒ることなど、何もありませんよ」

 やはりそれが原因か、と苦笑を禁じえない。
 つい先日のことだ。半兵衛はかつての主君である龍興と争い、手傷を負った。彼自身は頓着していないが傍からだとかなり痛々しく映るらしい。それは両手に巻かれた無駄に厳重な包帯の所為だ―――と、思う。
「無茶をしたことは謝る。しかしまあ、聞いてくれ」
「我々のいない時に限って怪我をなさる方のどの言葉に耳を傾けろと?」
「そう言うてくれるな。長政が帰ってしまう直前だったからな………見届けてもらいたかった」
 遠く旅立ってしまう。
 次はいつ会えるのか、会うことができるのか、それすら分からない昔からの友に。
 立会人としてそこに居てもらいたかった………本当に、それだけだったのだ。
 黙って聞いていた付き人たちは諦めたかのように揃ってため息をついた。そうして、やがて押し殺した声を改めて出すのである。
「―――わかりました」
「でも、もう駄目ですからね、半兵衛様」
 何がだ? と問い掛ける半兵衛に茜は強く言い返す。
「危険を犯す可能性があるのなら私どもを手元に留め置いてくださいませ。無茶ばかりなさるのですから………ふたり揃っての任務を下されても従いませんからね」
「善処する」
 面と向かっての謀反宣言に半兵衛は笑って答えた。確かに彼女はやるといったらやるだろう。離れるべきでないと考えた時にはこちらの要望など無視して傍に居続けるに違いない。ただ、本当に自分がひとりを望むときは身を引いてくれるだろうと―――心底信じきっているから、主の反応は暢気だった。
 仕切り直し、というように佐助が居住まいを正して声を発した。
「ところで半兵衛様、ご報告したき義がございます」
「ああ」
 月夜の縁側での報告会こそが常の在り様。
 ふたりが巡ってきた町の様子、人々の状況、流通の具合などを聞いた半兵衛は先ほどまでとは少々趣の異なる笑みを頬に刻んだ。
 なるほど、と呟いて先を知らぬ人間には突拍子ないと感じられる言葉を返す。
「となればおそらく、堺は織田を毛嫌いするであろうな」
「何ゆえに」
「信長公が下すであろう命令ゆえに、だ。彼らには商業都市としての自負がある。今更新参者の言うことなどに耳を傾けられようものか」
 織田信長は都の反乱さえ見越した上で動いている。ひとつの町相手に喧嘩を売るとして、そのきっかけに用いるのは金か自由か権限か。しくじれば取り戻すに難い存在だとしても、ばくち打ちの感覚のみで切り抜ける。その危険を切り抜ける嗅覚は大したものだ。
 ならばこちらもそれに便乗させて頂こうと部下の部下は笑う。
「商人どもや三好衆に色を見せておけ、佐助。決して媚びを売ることはなく。気安く相談しやすい相手が織田にも存在するのだとそれとなく訴えておけ」
 彼らが織田信長の部下として『木下藤吉郎秀吉』の名を記憶の片隅に留め置けばよい。
 たとえいまは思い起こさずとも苦しい立場に置かれたときほど、最後の拠り所として脳裏によみがえる。

「いつか彼らが敗れたとき、信長公へ取次ぎできるのは彼しかいないと思い込むように」

 そのためなら自らが堺へ出向くことすら厭わない。
 秀吉自身が出向けば確実だが、半兵衛は彼に根回しに奔走してもらいたい訳ではないのだ。
 堺と、堺が頼りにする三好の者達に頼られたとなれば織田における秀吉の立場の介添えにはなるだろう。
 淡々と言葉を続ける主君に向かって佐助は少し、膝を寄せた。
「ならば―――お会いになりますか」
「伽藍老か?」
「その方だけではありませぬ。おそらくは都における実力ある風流人の一角」
 天空を見上げていた視線を部下のもとへと戻す。視線を交錯させた相手はそっと続けた。

「千宗易―――都の外れに住まう、茶人でございます」

 


― 千客万来 ―


 

 未だ秋の領分であるはずの空はくすんで白と灰色ばかりを頭上に掲げる。美しく色づいた木々の葉や枝さえも塗り替えるかの如く、気の早すぎる粉雪が京の都を覆っていた。ここ数日、随分と冷え込んでいたがまさか雪が降るとまでは思わなんだ。「晴れればすぐに融けます。そうしたら紅葉狩りに参りましょう」と暢気に軍師は呟いて。
 与えられた屋敷の庭、寒空の下に佇んだ秀吉はじっと空を見上げていた。
 つい先日、同盟者たる浅井長政が自国へと帰還し京に在留するのは織田軍のみとなった。その後密かに信長に呼び出された秀吉はそれとなく今後のことを示唆されている。
 曰く、都の警護は秀吉を含めた数名の武将に任せると。
 大した栄誉だ、勤め上げれば織田陣中での立場を少しは堅固にすることが出来よう。同じ役職に就く面子に明智光秀も居るだろうことを想像すると聊か腹立たしくもあるのだが、文句を言える立場でもない。
(殿の目的を叶えることが第一だ)
 消えた弟ほど一途でなくとも自分だって彼の作り上げる未来を夢見ている。
(殿は何を考えている?)
 先だっての入京よりこっち、信長は好意を示したがる将軍を袖にし続けている。要求を吊り上げる前ぶりか、無欲さを印象付ける策なのか、彼の目的は一時の名誉や名声、ましてやその内に消え去るだろう将軍からの信頼などでは決してない。求めるのは都における確かな基盤と財源だ。ならば、くだす指示は商業都市にとっては腹立たしいものとなるに違いあるまい。高圧的に出ることで今のうちに敵対勢力を叩いておこうという魂胆かもしれず、そんなの先の戦で充分見せつけたではないかと思うのだが、如何せん都は戦場から遠いから侮られている面もあるだろう。
 だからこその布石。この地で確固たる地位を築くために。
 いつの間にか秀吉の頭部には白い雪がうっすらと積もっていた。天からハラハラと粒が舞い落ちる。身体をかすめたものはあるいは溶け、あるいは残って水となり、触れ得なかったものは足元の地に降り積もる。
 庭に出た当初はただ地面が濡れている程度だったものを、さすがに長居しすぎたかと凍え始めた両腕をさする。吐く息が霧のように煙る。
 踵を返そうとした彼はそこで初めて誰かが背後に佇んでいることに気付いた。下げようとした足の向こう側に他者の草履が透けて見えている。即座に相手が誰かを察した秀吉は呆れ顔で身体をひるがえした。果たして出迎えたのは想像通りの人物で、一体此処で何をしているのかと開いた口が塞がらない。

「考え事はお済みですか?」

 にっこりと竹中総兵衛は上司に問いかけた。
 今日は珍しくも『弟』の方が表に出ているのだな、とまずは考えて。
 総兵衛はそのまま腕を伸ばすと上司の頭や肩に降りかかった雪を包帯つきのてのひらで払い落とした。親が幼子にするかのような態度に怒ればいいのか照れればいいのかは悩みどころだ。文句を言い募ろうと開いた口は、相手の姿をまじまじと見た瞬間に消え失せる。
 彼自身がそうであったように部下の身体にもまた雪が降り積もっていた。非番の日だからと色素の薄い内掛けに袴、もとより白い肌と色素の薄い髪に瞳に相まって粉雪も彼の周りでだけは目立たない。急ぎ手を伸ばし肩から裾から白く冷たい雫を払い落として、手の届かない相手の頭上は指し示すことで落とせと命じる。今更ながらに気付いたらしい総兵衛はゆったりとした動きで頭部の雪を払い除けた。
「おまっ………馬鹿、何やってんだよ。風邪ひくだろ?」
「その言葉そっくりお返しします」
「俺はいいんだ。大体なぁ、用事があるなら声をかけろよ。待つなら待つで縁側にいろ」
 思わず口調がきつくなる秀吉にも相手は頓着しない。
「呼ぼうと思ったんですけど何となく気がそがれてしまいまして。空を見上げるのは気持ちいいですから」
「そぉかぁ?」
「じっと見つめていると雪に埋もれそうになる。白さも冷たさも、指の先で融ける感触も、大好きです」
 よいしょ、と呟いた彼は背中から落ち着いた色合いの傘を取り出した。呆気に取られている秀吉にも差し掛けてまた笑う。
 ………時々、本当に、彼は、頭がいいはずなのに馬鹿なんじゃないかと真剣に思うのだ。
「………傘持ってたんなら、最初っから差しゃあいいだろ」
「え?」
「無駄に濡れる必要はなかったっつってんだ。俺も、お前も」
「だって」
 美濃の麒麟児とまで呼ばれていた青年はそこで不思議そうに首を傾げるのだ。

「秀吉殿は、雪に濡れたかったんでしょう?」

(………………)
 ならばその感覚を共有してみようと折角用意していた傘まで折り畳んで背後に立ったのか。
 普通なら考えに没頭している相手の頭に傘を差しかけるだろうに、自分も一緒に雪に降られるとは酔狂にも程がある。
「お前―――馬鹿?」
「よくそう言われます」
「言われるような真似をすんな」
「惚れた相手の前ではみんな馬鹿です」
 至言である。
 ―――ではなく、言うべき場面を間違えているような気がしないでもない。
 くるりと傘を回して降りかかる雪粉を周囲に散らせながら彼は改めて穏やかに微笑む。今日は非番でしたよね、だったら付き合いませんかと。何処へと問いかければ言ったこともない都の外れを示されて眉を顰める。
 ゆっくりと歩を戸口へ向けながら彼は語る。
「友人たちが茶の湯をするそうです。誘いを受けました。折角だから秀吉殿も参りましょう」
「俺が行っていいのか? じゃなくて、いつの間にそんな知り合いをつくったんだよ?」
「知り合うのに時間は要しません。大丈夫、誰を連れてきてもいいという気心の知れた集まりですから」
 結局どうやって知り合ったのかという具体的な回答は示されない。京についてからこっち、どうも軍師殿は勝手に色々と画策しているらしい。
 空からは未だやむ気配のない雪が降り続く。
 もういいから早くやんでくれ。隣り合ったこいつの身体が雪に濡れていて風邪を引きそうで怖い。
 傘の柄を握り締めるてのひらが常にもまして白すぎて見てられないのだと、口中で彼はぼやいた。




 雪のために往来の少ない道のりを言葉少なに歩いていると、本当にいまが戦乱の世なのかと疑いたくなる。深々と舞い落ちる白い花弁が辺りを覆いつくして何処の場所との判別も付き難くさせている。
 道中で総兵衛は、訪問場所はちょっとした風流人たちの集まりなのだと語った。これといって決まった日取りもなく、面子も固定されず、その日その時に身体の空いていた者が適当に訪れては話に興じて三々五々に立ち去る。晴れの日も雨の日も風の日も関係なく、だからこんな雪の日だって彼らは変わらず顔をつき合わせているに違いないと言う。
 たどりついた先はうらびれた庵だった。背後に森と山を見て、本当に人がいるのかと眉を寄せたくなる。戸を開けた総兵衛が先に通る。表から眺めていたよりはしっかりした造りの建物だったようだ、扉から家屋まで飛び石が幾つか置かれ、周囲に植えられた植物は楚々とした体で訪問者を出迎える。
 飛び石を踏み越えて傘を畳んだ部下が奥の門を開く。中からは微かに管弦の音色が響いていた。
「お邪魔いたします」
 彼の声にしばし喧騒がやむ。やがて復活した遠くの歌声に出迎えらしき足音が重なった。背後から覗き込んでいた秀吉は、迎えに来た人物に鋭い視線を向けた。
 ―――壮年の男だ。
 薄灰色の着物に茶色い羽織の質素な装い。頬に刻まれた柔和な笑みとしっかりとした視線は一筋縄では行かない相手だと感じさせた。静かに語る様は何処となく半兵衛に似ていなくもない。
「おお、これはこれは………こんな雪の中を、さぞやお疲れでしょう」
「何を仰います。あなたこそ雪にも関わらずの大勢の来訪者に気疲れしていらっしゃるのでは?」
「いつものことですよ。さあ、あなたの、後ろにいらっしゃる方も」
 自分のことかと睨み返してやれば穏やかな微笑で返された。とてもやりにくい。
「歓迎いたします。外はさぞや寒かったでしょう? ささ、お茶でも出しましょう」
 珍しく大人しい総兵衛は、これまた笑みを絶やさぬまま「お気遣いなく」と呟いて一礼し、草履を脱いで室内に足を踏み入れた。秀吉も遅れてそれに続く。
 庵は意外と広かった。正面に長めの廊下が続き、右手にひとつ囲炉裏のある部屋を挟んで奥の間が透けて見えている。更にその向こう側には雪の降り積もる庭が覗いていて、なるほど、管弦好きには堪らない光景だろうなと感じる。奥の間では老いも若きも琵琶や笛を手にして何やらはしゃぎ興じていた。
 傘を戸に立てかけた部下は慣れた様子で奥の間へ歩を向ける。その奥の間と、手前の部屋のしきりの前で歩みを止めるとこちらを振り返ってにっこりと微笑んだ。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
 ………何だ、その仲人を務めるかのような笑みは………。
 首を傾げつつも秀吉は歩を止めざるを得ない。こちらの戸惑いを余所に総兵衛は軽い足取りで奥の間へ行き、先に来ていた面子から歓声で迎えられた。車座に加わって和やかに談笑なんざしている。
 置いてけ堀を食わされたようで何だか納得いかない、のだが。
「どうぞ、そこにお掛けください」
 囲炉裏を挟んで座したこの庵の主にようやく合点がいった。
(あの野郎………)
 知らず呟くは部下への悪態。
 彼は、最初から自分とこの男を会わせるつもりだったのだ。
 腹の読めない妙な男と何を話させたいんだか知らないが、それならそうと最初から言え。向かいの座布団に腰を下ろした秀吉は絶好調に不機嫌である。
 むすったれた秀吉に構わず眼前の男は長閑に湯をあっためている。嫌味かと思うぐらい動じない態度で更に彼の機嫌を悪化させる言葉を口にした。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。藤吉郎殿………で、ございますな。お噂はかねがね」
「―――俺は、あんたの名前、知らないんだけど?」
「おや、それは」
 唇に刻まれたのは微笑。まるで親が子供を見守るような表情。
「となれば態とかもしれませんな。こちらもあなた様に関しては大まかな紹介しかされませなんだが………さてはて、彼らが何を考えているのかはなかなかに推し量りがたい」
 僅かに秀吉の態度が硬化する。相手が、『彼ら』という表現を用いたから。
 つまりそれは………総兵衛だけならず、半兵衛の存在もバレているということに他ならない。半兵衛がこの集会へ参加するに当たって、当座の偽名として身体を共有する弟の名を口にした訳ではあるまい。先ほどこの男と会った時の総兵衛は紛れもなく『総兵衛』のままだったし、奥の間で笑っているのだってそうだ。
 だから、もしかしたら、あいつらは。
 押し黙っている秀吉の胸中を察したかのように相手が付け足す。
「彼らのことは此処にいる殆どの者が存じております。打ち明けられた訳ではありませんがね」
「ふぅん………」
 自分から進んで正体を明かしたのではないと知って何となくほっとした。でも、この場に居る人間の殆どに『ふたり』の存在を嗅ぎ取られているとは―――総兵衛たちの防御が甘かったのか、単純に連中の勘が鋭いのか。
(どんな出遭い方をしたんだろうな、こいつら)
 屋敷に戻ったら訊いてみようと思った。
「改めて自己紹介と参りましょうかな。私の名は千宗易。ご覧の通りのしがない茶人でございます」
 考え込む秀吉を余所に勝手に話が進められる。
 囲炉裏でゆっくりと沸かされるお湯に、用意された茶器に、何となく居心地が悪くなる。自然と使用されている茶器の出来や価値を計りそうになった己を恥じたのだ。いつもなら値踏みして何が悪いと開き直るのだがどうも此処では躊躇してしまう。価値観の異なる空間に場違いに存在しているような。
「作法は、あまり知らないんだが」
「気になさる必要はございませんよ」
 両の手で支えるのに手頃な大きさの茶器を引き寄せて宗易は笑った。
「茶道などと申してはおりますが所詮は一介の道楽人が考え出したに過ぎぬもの。美味いと感じられたならそれで良いのではないでしょうか」
「あんたはその『道楽人』のひとりだろ?」
「さて、どうですかな」
 差し出された器を受け取って苦い汁を喉へ流し込む。知らぬ間に菓子まで手近な場所に用意されていた。程よい熱さを保っている茶に舌先を浸しながら秀吉はぶっきらぼうに答える。
「………見たところ、俺とあんたの好みは随分違うみてぇだな」
「ほう?」
「この庵だって、あんたの服装だって、全体的に―――質素というか………控えめだろう?」

 ―――自分は。

 金が好きだ女が好きだ権力が好きだ。
 戦いが好きだ派手なものが好きだ綺麗なものが好きだ。

 根底にあるのはおそらく虐げられていた少年時代の鬱屈。
 誰かを従えるのが好きだし、興味を持ったものは手に入れたいし、言うことを聞かない奴は切り伏せたくなる。戦場の血風とて好ましいぐらいで、紅と錦と黄金で彩られた耐えられないほどに目映い世界ばかりを望んでいる。
 皆に誉めそやされたいと頼られたいと敬われたいと望む。こんなにも顕示欲と権力欲の強い己が仕えようとするのは強烈な威圧感を持つ信長ぐらいのものだ。
 それで行くとこの茶飲み相手とはどうにも合いそうにない。
 ひっそりとした建物と控えめな衣服、地味な家財道具に金や肉欲よりは詩吟や絵画にばかり興味を抱きそうな人付き合い。
 出会ったばかりにしては不躾に過ぎる言葉だったかもしれない。だが、訂正する気も謝る気も起きなかった。
 だってこいつは、人畜無害な顔をしながら腹にイチモツを秘めた古狸なのだ。
 開け放された障子の向こうからは暢気に話している部下の声が聞こえる。
 お前が連れてきたんだからきちっと会合の現場を見てろよ、と苛立つが、傍にいたってあいつは何も助けちゃくれないだろう。
「控えめならよいという訳でもないですが」
「ふーん?」
「要は精神の修練。茶道であれ、武道であれ、他の何であれ。物造りに精を出すもよし、管弦の音に真理を悟り、舞いを舞いて巫子たりし者は天地を繋ぐ柱となる。至る道は様々あれど辿りつく場所は同じでございましょう」
 ………などを、時にあなた様の連れと話しているのですよ。
 打ち明け話のように告げられたとて「ああ、そう」と頷くしか芸がない。何だかますます自分とは縁遠い世界に思えてきた。だが、なるほど、考えてみれば半兵衛たちはどちらかというとこいつ等の世界に近いのかもしれなかった。あれは管弦も詩吟も静かな時間も好む男だ。
「―――あんたの話は、難しいな。もともとが農民の俺にはわからんよ」
 本当ですかねえと笑う古狸と猿の化かし合い。
 表面上は笑いながらの激しい鞘当て。
 秀吉が飲み終えた茶器を引き寄せて宗易がもう一杯を注ぐ。その間の秀吉は脇に添えられた菓子に手を伸ばして、けれど視線だけは抜かりなく相手の動きを見張る。奥の間では穏やかな笑い声と共に琵琶の音が響き始めていた。
 無知な痴れ者の顔をして近づくことも、へりくだって彼を褒めちぎることだってやろうと思えば幾らだって出来る。けれどもこの宗易という男は一筋縄では行きそうにもないから、だったら最初っから敵意と反発を前面に押し出したっていいはずだ。
 囲炉裏越しに覗ける表情。くべられた木が爆ぜる微かな音は遠い管弦の響きに消されがちだ。眼前に座した男の存在感は強く、少しでも隙を見せたらやられる気がした。
「あんたは………あいつの友人、なんだろうな。でも俺は、その視点から見ることは出来ない」
 彼を、半兵衛たちの親しい身内と捉えてはいるけれど。
「殿の敵になるか味方になるか、それだけが全てだ。あんたが害をなすってんなら、この場にいる人間全員を敵に回したって構わない。斬り捨てて終わりにする」
「なるほど」
 新しい湯を注ごうとしていた手を止めて宗易は口元を歪めた。
 果たして彼は半兵衛たちからどの程度まで知らされているのか、「藤吉郎」と呼んだのだから簡単な人物関係ぐらいは承知しているだろうけど。ましてや此処は文化人が集まる交流の場。情報も自ずと集まってくるだろう。
「して、その観点からゆくと私は敵ですかな、味方ですかな」
「どうかな? 少なくとも俺はいま刀を手にしてない、それだけだ」
 腰に差すのは脇差一本。すぐさま抜き放ち斬り付けるには至らぬ。
 宗易は制止していた腕を再び動かして、もうひとつの器に自分用の湯を注ぐ。しばしの沈黙の後にゆっくりと茶を啜りながら、彼もまた秀吉に真っ直ぐな目を向けた。
「では藤吉郎殿、私があなた様をどのような視点で見ていたかはお分かりになりますかな」
「いずれの都の支配者の部下として?」
「それもある。されど、もうひとつ」
 一般人が信長と関わることはまずない。ならば彼に仕える部下を見てどんな主なのか判断しようとしたのも本当だ。だがそれよりはもうひとつの視点の方が重要だったのだと。

「彼らの主、として………ですね」

 ひくり、秀吉の頬が震える。
「人から聞かされた公の印象など何の役に立ちましょう。客観よりはいずれ主観が優先されるもの。ならば、かの方に関しては会うた時こそ真実を見極めるというもの。誰の手も借りはしますまい」
 ほんの束の間、辺りは静まり返って。
 少しずつ色を取り戻して途絶えていた琵琶の音も戻ってくる。咄嗟に言葉を返せなかった秀吉はようやく片頬を歪めて笑った。
「………じゃあ、それで行くと俺は如何なる?」
 ふむ、とだけ零した宗易はあごの下に手を添えて聊か回答に迷うかの素振りを見せる。
「さて、それは随分と難しい。主義主張も美的感覚も価値観も人生観も違う。彼は人死にを嫌い金にも女にも頓着なく名誉名声も興味なく自由自活知識の探求が真の希求」
 釣り合いが取れないことこの上ない。嗚呼、真逆だからこそ丁度よいのか。
 などと聞こえてくる呟きは先ほどまでの秀吉に負けず劣らず失礼な内容である。
「元より彼が在るべきは戦場にあらず。能力はあれど、武士や侍という立場がこれほどに似つかわしくない者も珍しい。鳥が地に縛り付けられているかのような愚行、叶うならば思いのままに歌い踊り旅するが相応しき哉」
(―――勝手に決めんな)
 知らず、秀吉の目は呟きを零す相手から逸れて奥の間へと向かう。話題の人物は琵琶を奏でる老人に触発されたのか、隣の若人から差し出されたいまひとつの琵琶を躊躇いなく受け取った。爪弾いて、音を確かめて。

 凛、と。
 音が辺りに響いた。

 楽音は豊かに部屋に満ち、先に流れていた老人の指により作り出される音階と絡み合う。遠くから揃えて一定の調べを刻むのは庭のししおどし。
 動くものはなく、他に流れる音もなく、息さえ潜めて聞き入るのは只管にその音色のみ。
 誰ひとり身動きしない狭い空間で声が重なり連なり静かに音階に乗って囁かれるのは古の和歌か詩歌か。歌い手の常の態度からは想像もつかぬような哀切を湛えた、しかし一方でこの上もなく彼らしい落ち着きのある声で。
「―――何を驚かれる」
 囁くように問いかけられて呆然と奥を見やっていた秀吉は我に返った。いまのいままで、己の部下が琵琶を弾く様など思い浮かべもしなかった彼である。ましてや、歌うに至ってはおよそ想像の範疇から外れている。酒宴においても穏やかに微笑んでいるばかりで決して自分から騒ごうとはしなかった軍師なのだ。
「此処に居る時は自然と歌い、舞い、楽を奏でる。日々の移ろいに紛れて扇を手にしては舞い、管弦を取りて楽のひとつも奏でねば調子も優れぬのが本性」
 全てを見透かしたかのような宗易の言葉が癇に障る。けれど、差し止める言葉を挟む暇もなく視線は一点に注がれたまま逸らすことも叶わない。
 即ち、弾き手の指にのみ。
「もしもと考えるのは無駄なこと。されど、ふとした瞬間に思いはする。もし彼が武家の生まれでなければ、いま少し雅な家に生を受けていれば、男ではなく女として生まれていたならば―――」

 舞いと、管弦の。
 祈りを、神に捧げるためだけの。

 それを、至上とする―――………。

 茶人の言葉がそれ以上続けられることはなかった。
 突如、無粋な足音が紛れ込んだかと思うと、次の瞬間にはゴトリと琵琶が床へ転がった。皆が呆気に取られた表情で元凶の人物を見つめる。前触れもなく響きあう管弦の中に乱入し、演奏を中断させた人物は物凄く不機嫌な顔をして弾き手の腕を宙へ掴み上げていた。
 演奏を断ち切られた青年は戸惑いの表情で相手を見やる。

「………藤吉、殿?」
「………」

 眉間に皺よせた秀吉は口を開きかけて、やめる。仏頂面のまま畳に座り込んでいる総兵衛を睨みつけた。何の説明もなしに彼の手首を捻り上げた体勢で言う言葉はただひとつ。
「帰るぞ」
「えっ………、ちょ、ちょっと待ってくださいよ。うわっ」
 さすがに慌てた総兵衛に構わず、畳の上を強引に引きずっていく。どうにか立ち上がってはみたものの振り返りもしない主に引きずられるのみだ。囲炉裏端に戻った秀吉はつっけんどんに館の主人に会釈した。
「宗易殿、生憎と急用を思い出しました。本日はこれにて失礼致します」
「そうですか………残念ではありますが用事があるとなれば仕方ありますまい。どれ」
「お気遣いは無用。見送りなどなくとも誰が貴殿をつれない人間と謗りましょうや」
 にんまりと口元をひん曲げて陰鬱な笑みを浮かべる。それを受けて宗易の頬に刻まれるのは、これもまた不気味な静けさを孕んだ微笑みだ。
 総兵衛が訝しげに眉をひそめ、背後の面々も同じく不思議そうに首を傾げている。唯一、事情を知っているふたりだけが無言の内に見えない火花を散らして今一度ふところに互いの刀の切っ先を隠しこむ。
 ―――待ってください、まだ傘だって持ってないのに。
 呼びかけた部下の声すら届いているのかいないのか、小柄な影は屋敷を早々に辞去する。それを確認した庵の主はくつくつと笑みを零してひとりごちた。
「………まだまだ、若い」
 客人がこの言葉を聞いていたならばまたしても眉間の皺を深くしたことだろう。




 力ずくで引きずり出された上に遠慮なしに掴まれている手首は痛い。足がもつれそうになりながら総兵衛が問いかける。
「待ってくださいよ、秀吉殿っ。本当にどうしちゃったんですか?」
「………」
 部下を引きずるようにして出てきた秀吉は未だ口を開こうとはしなかった。彼としてはあの庵から離れるのが先ず第一で、とにかく何しろどうしようもなく何故だか知らないが不愉快だったのだ。あの腹の読めない古狸のムカつき加減は柴田勝家なんかの比じゃなかった。悪い人間ではない―――のだろうが、どうも見下されているようで無性にいけ好かない。ただの被害妄想だと笑わば笑え。
 いつの間にか雪はやんでいた。
 それでも通りに人の影は見えない。
 かなり来たところで漸う秀吉は背後を振り向き、引っ掴んだままだった部下の手首を解放した。
「―――馬鹿か、お前は」
 開口一番、悪口雑言が切って出る。
 何のことかと首を傾げる相手に舌打ちしながら、いまし方まで琵琶を爪弾いていた手を指し示す。
「あんなに弾きまくってたんじゃ、治るもんも治らないだろ!」
「………ああ」
 合点がいったと総兵衛が頷く。出掛けには白い包帯で覆われていた両のてのひらにはところどころ血の赤が滲んでいた。あの庵を尋ねるたびに弾き語りをしていたら回復が遅れることは必至だ。
 けれど、態々それを辞去の理由しなくてもと彼は笑う。
「宗易殿との会見は―――面白くなかったですか」
「面白いもくそもあるか。あんな腐れた古狸の相手を俺だけにさせるんじゃねぇや」
 吐き捨てる秀吉の態度に困ったなぁと部下は苦笑した。
 苦笑いを目にして、お前は自分があいつや、おそらくはあの場にいた連中にどう思われてるのか考えたことはないのかと問い詰めたくなる。顔を出すたびに武家の生まれを悔やまれる侍など―――価値を否定されているようでムカつくではないか。そんなのは嫌だ、絶対に認めない。彼は充分過ぎるほど『武家の人間』として優秀なのに、それ以上に別の生を望まれるなど。

 まして舞いや歌を主とする者………、として、だなんてもってのほか。

 傷ついた左てのひらで傘を引きずりながら部下は首を傾げる。彼の背後には傘の先端でこすられた轍が延々と続いていた。
「彼との話が不愉快なだけだったなら場を設けた総兵衛たちの失策ですね。謝罪致します」
「ん? いや、別に………謝ってもらいたい訳じゃ………」
 文化人としては大した人間なのだろうと感じた。物腰や所作が洗練されていて隙がなかったし。ただ、相手の実力を認めるのと気に入る気に入らないは別次元という話なのだ。
「ってゆーか、そもそも俺とあいつを会わせた理由は何なんだよ? あぁ?」
「だって、会ったら面白いかなーって」
「誰が」
「総兵衛たちが」
「お前らかよ!!」
 拳を振り上げれば笑いながらひらりと総兵衛が飛んで避ける。少しだけ真顔に戻った彼が改めて口を開いた。
「でも、会っておいた方がよいと考えたのも本当なんですよ」
 傘を手元に引き寄せて、絡んだままだった白雪を払い除ける。
 ついでのようにこちらを振り向いてにっこりと微笑んだ。
「彼は今度の謁見の日に、信長公と対面しますから」
「なっ!?」
 秀吉の目が驚きに見開かれる。涼しい顔で部下は先の予定を滔々と語る。
「彼だけではありません。奥の間にも連れ立って対面する者が何名かおりました。だからこそ彼らと公が直接対面する前に、人となりを知る機会を設けた方がよいかと踏んだのですが」
 ―――なら、最初からそう言っておけ。
 それとも先入観を排除したかったのか。
 こいつはいつもこうだ。大切なことはいつだって後から告げられる。おかげでこちらは時間が経ってからそんな真意があったのかと地団太を踏む羽目になるのではないか。
(思惑通り―――か?)
 千宗易に会ったのも、彼に取り入ったのも、単純に彼らが管弦を楽しむためだけではなく後の展開も考えての行いだったのだろうか。信長に謁見する可能性のある者たちと接触を持って探りを入れる。ひとえに主を思ってのことだと言えなくもないが。
「お前たちの出会いは全て計算づくか………?」
「まさか」
 思わず漏れたため息まじりの言葉に相手が強い否定の言葉を返した。
「出会いは全て天の差配によるもの。非力な人間ごときがどうこう出来るものではございませんよ」
 総兵衛が閉じていた傘を開いて互いの頭上に差しかける。秀吉は空を見上げ、それから部下の顔を見て。
「もう、雪はやんでるぞ」
「偶にはいいでしょう。こういうのも」
「何が」
 風情を解してやる余裕なんざいまの俺にはないぞ、と言うより先に部下はさっさと話を進めている。
「そーだ、ついでにこのまま川べりの紅葉狩りと洒落込みましょう♪ 美味い団子屋さんを知ってるんですよー。きっといまなら人も少ないから狙い目ですっ」
「歩きでかよ!?」
「だから、偶にはこういうのもいいでしょう?」
 クルクルと傘を回して水滴を少しずつ飛ばしながら暢気に部下は歌を口ずさんでいる。気晴らしになるならいいけどな、と結局は部下に丸め込まれて、そうともこの程度の歌なら許せなくもないと秀吉はひとり頷いて。
 それから、ふと。
 ………でも。
 会おうと思わなければ人の繋がりなんて容易く途絶えてしまうんだ。
 そんなことを考えた。




「―――やれやれ、とんだ目に遭わされたわい」
「そう言うな、伽藍。こちらは結構面白かったぞ」
 ふたりが立ち去った後の庵で、囲炉裏端に座り込む伽藍に向けて宗易は屈託なく笑った。この男は昔からの顔馴染みだが、管弦の腕は確かなくせにどこの貴族にも取り入ろうともせずにふらふらと町を練り歩いている生粋の変人だ。琵琶を片手に楽を奏でていられればそれで満足らしく、逆に言えばそれだけでしか満たされない。
 そんな彼の最近のお気に入りがつい先日町で出会った総兵衛という名の青年だったのだ。侍にしては雅事に理解のある奴だと喜んで共演し、常ならばひとりの演奏を好む奴が珍しいと仲間内でも随分と話題になった。青年は忙しいのか滅多に顔を出さないから、久々の演奏の機会を無碍にされては彼でなくとも不快になるだろう。
 他の面子は立ち去った静かな室内で共にあたたかな茶を差し出す。
「そういえば、な。伽藍」
「あー?」
「明恵より文が届いてな」
「春先にまた信長が来てたとか何とかの続報か? まだ叡山から下りとらんのかい、馬鹿奴が」
「弟子が残っている。彼が一人前になるまでは留まるらしい」
「面倒な奴じゃのー」
 叡山の重職などおりればよい。僧兵ばかりを集める殺伐とした場所に留まって何になろう。
 着の身着のままで何ら不都合を感じない老人はそう嘯く。
「宗易。わしは先だって恵瓊に会うたぞ」
「ほぉ………最近は集まりにも顔を出さぬというのに」
「庵に訪れる面子が増えたといったら興味を示しおった。奴いわく、な」
 手にした火串で囲炉裏端を突付きながら伽藍老は人の悪い笑みを浮かべる。

「かつて殺そうとして殺せなかったきつねつき―――に礼がしたい、らしいぞ」

 おやまたそれは、と宗易も笑う。
 恵瓊は宗教家の仮面を被った野心家だ。幼い頃より何処に味方するかを見極めようとしていた奴が、毛利に組みすると決意したのはいつのことだったのだろう。おそらくはそれ以前に何の気なしに訪れた城内で騒ぎを起こしてやろうと企んだ若者は、そこで何ひとつ出来ない己を見い出したに相違あるまい。
 後継者の暗殺も誘拐もやろうと思えばやれたのに………実行できなかった理由は恵瓊本人しか知らない。
 軒先から水の滴る音がする。
 陽も照りだした、間もなく雪は跡形もなく消え失せる。

「―――織田、信長」

 ぽつりと客人が零した。閉じていた瞳を開けて、囲炉裏の炎ごしに宗易を見やる。
「どう思う?」
「さて、それは」
 読めない笑みを浮かべながら彼は再び湯をわかす。
「会うてから判断するのが決まりでな」
「おー、そーかそーか。なら適当に城で腹の探り合いでもしてくるがよいわ。ちなみに、その部下の印象はどうだったんじゃ?」
「まだ若い。だが」
 それまで浮かべていた笑みを少しだけ翳らせると男はそっと。
 先に湯を注いでいた器を友へ差し出しながら。

「いずれは天をも焦がす炎を上げる―――そんな男だな」

 妙に確信めいた口調で呟いた。
 吹き抜けた風が木々の葉をゆすり、積み上げられた白雪をはたはたと地に落とした。

 

 


 

結局何が言いたかったんだ、この話(毎回言ってる気がするな、このセリフ)
この時代に果たして傘があったのかとか宗易の住まいは何処だったんだとか
都内の位置関係はどうなんだとかは全く考慮してませんので、あまり突っ込まないでくださいね(笑)

気分的には第一部と第二部の間の「つなぎ」のお話。だからタイトルも特に意味はなし。
今回は千宗易、後の千利休が初登場。
でも、実はまだこの人のキャラが捕らえきれてなかったりします(汗)
かなり食えない性格してんだろうなーとは思うんですが。
もうちっと人生経験積んで腹黒くなった半兵衛ってイメージかもしんない。
この数日後、彼は織田信長に謁見する設定になっています。史実だと1568年10月の出来事かな?

「明恵(みょうけい)」は『きつねつき』で出てきた老人です。
信長たちを出迎えてくれた爺さんなんですが、当時は名前すら紹介しなかったのでたぶん誰も覚えてらっしゃらない(笑)
彼は今後も話に関わる予定ありですが恵瓊の方は微妙です。なかなかに難しいんだ、これが………。

 

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