― 花冠の姫君 ―


 

 


「いい加減、どーにかなりませんかね」

 地に手をついた者の無礼と言えば無礼な陳情に信長は不機嫌そうに口を引き結んだ。いわゆる縁側から見えるのは俯いたままの発言者の姿。ろくでもない要求なら斬り捨てて終わりなのだが、今回ばかりは信長にも負い目があった。
 返事をしない主君に向かって淡々と秀吉は訴えた。
「本来、あの方のお相手は複数の人間で引き受けていたはずです。それをあいつひとりにやらせるなんて無用心にも程がありますよ。あいつときたら仕事を引き受けてから十日後には部屋の中で倒れ伏して動かず二十日後には土間で行き倒れ一月後には長屋の前で野垂れ死に―――」
「………」
「早朝から叩き起こされて野山を駈けずり回されること兎のごとく、手加減なしの攻撃をくらいKOされること数知れず、つい先日なんて長屋までたどりつくこともできず道の真ん中で牛に踏み潰されかけたところを通りかかった例のごくつぶし忍者に危うく助けられ」
「だーっ、うるせぇ! わかったよ、なんとかしろっつーんだろっ!!」
 バン! と手にしていた文を机に叩きつけて信長が叫んだ。苛立ちを紛らわすように筆をクルクルと回す。
 秀吉の言い分もわからないわけではない、わからないわけではないのだ。藤吉郎が『お市の方行状改方』に任ぜられて約一月。その間、信長の妹たるお市が仮にも目付け役である相手を引きずり回しまくっているというのは、ある意味奇跡にも近い出来事だった。なにしろ彼女は気に食わない人間の言うことは絶対に聞かないのだから。
 少なくとも外出する時は藤吉郎を同伴させるようになった辺り大した進歩だと信長は考えている。この点、他の誰かさんにも言えそうなことだが敢えてつっこまないでおこう。
 が、お市の面倒を見るには藤吉郎の体力が持たないのであった。秀吉の訴えはそういうことである。
 確かに仕事を終えて帰ってくる度に同居人が部屋でのしいかになっていたり土間でひっくり返っていたり長屋の前でさらし者になっていたらいい気はしないだろう。介抱するのは彼の役目なのだから。藤吉郎が行状改め方になったのを受ける形で秀吉はマキ係に任じられていた。本人もかなり体力的にキツイのに、この上相方の世話などたまったものではないというワケだ。
「だがな、サル以外にお市の面倒を見れる奴がいるか? 確かに扱いは容赦ねーが、あいつはあれでもサルのことを気に入ってるみてぇだしな」

 ―――誰かさんと一緒ですね。

 との発言は、まだ命が惜しいので控えておくことにした。
 信長が顎に手をやって考え込む。
「要は有給休暇を取ってやれればいいんだがな………」
 ワガママざかりの市姫がそんなものを認めるとはとても思えない。す、と面を上げて秀吉が提案した。
「いっそのこと仮病を使わせる―――とか?」
「………」
 意表を突かれたような顔をして、信長がしばし秀吉と見詰め合う。
「ふ………ふっふっふ………」
「ははは………」
 互いに口元が歪み笑い声が漏れ出した。
 やがて馬鹿笑いと化したそれが辺りに響き渡り、直後ピタリと消えた。

「バレるに決まってるだろうが、アホ」
「やっぱり駄目ですかね」




 ―――もう駄目だ、限界だ、絶対無理だ。
 やたら青く澄んだ空を見上げながら藤吉郎はそう長くないだろう自分の生涯を思った。
 ♪ああ 空はこんなに青いのに 風はこんなにあたたかいのに 太陽はとっても明るいのに………
 などと少々ズレた音程で歌い出してしまう自分はかなりヤバイかもしれない。空ろな目線のその先では疲れを知らない遊び盛りのお子様が一生懸命なにかを作っている。たどたどしい手つきで木材をいじくって組み立てているその姿は見ているだけならとてもあどけなくて可愛らしいものだ。
(そう………見ているだけならっっ!!)
 心の中で藤吉郎は叫んだ。
 城内の空き地で木工作に精を出しているのはこの国のお姫様。領主の妹君というやんごとなき身分にあらせられるお市の方である。対する遊び相手もといお目付け役、しかしてその実態は単なるイケニエという立場にいるのは草履取りから行状改方に任じられた少年。地位だけで言えば大抜擢だが仕事内容を知っている者は決して羨ましがらない。むしろ同情する。
 なにしろこの姫―――外見菩薩の内面般若なのだからして。
「でーきたっっ♪」
 お姫様が完成品を高々と上に掲げる。後ろを振り返ってにっこりと笑った。
「ほら、ヒヨシ! 弓矢よ、弓矢! すごいでしょ!!」
「ええ、大したもんです」
 藤吉郎は素直に賞賛した。市姫は先日、弓矢の作り方を武器職人から教わって以来、地道な制作に取り掛かっていたのである。まだ五歳にも満たないというのに作り上げるとは本当にすごいことだと思う。例えその弓矢が歪んでいて弦の張り方もなってなくてバランスが悪かったとしても。
 こちらは藤吉郎が用意した矢筒を肩から提げていっぱしの射手気取りである。試しに矢をつがえたりして喜んでいる。
(このままでいてくれればいいんだけどなー………)
 が、望みどおりにはいかないのが世の常である。なにか思いついたらしい姫がクルリと身を翻しキラキラとその目を輝かせた。
「ねえ、ヒヨシ」
「なんですか?」
「あんた、的になって!!」

 ―――さようなら、俺の人生。

 すかさずつがえられた矢に青ざめて後ずさりながら滝のような汗を流す。
「い、いきなりなに言い出すんですかっ! 大体、姫は全然やったことないでしょ! きちんと練習してからにして下さい!!」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。ちゃんと当てるから!」
「当てちゃマズいんです!! って、のわ―――――っっ!!?」
 すっとんできた矢を紙一重でよけた。木につきたった矢がビィィ…ンと音をたてて震える。青ざめている藤吉郎をよそに姫は次の矢を用意する。
「って、ちょっ、ちょっと待ってください!!」
「よけないでよ! あたらないでしょ!!」
「だから当てないでください!! 俺はまだ死にたくありませんっっ!!」
 叫びながら脱兎のごとき勢いで藤吉郎はかけだした。城外にでてしまったら町人に被害がでそうなので急遽進路をかえて城の奥へとむかう。塀のまわりを疾走する彼を追いかけるように矢が次々と壁や木々に突き刺さった。お市の方はかなり筋がいい。この分ならすぐに獲物を仕留められるようになるだろう。同時にそれが藤吉郎のXdayでもあるのだが………。
 徐々に精度をましてくる矢をかいくぐりながら血の涙を流す。
(あああ―――っっ!! どぉして俺がこんな目にっっ!! あの頃に帰りたい!)
 ちなみに『あの頃』というのはマキ係りに任ぜられていた頃のことである。あしからず。
 助けてくれ五右衛門、秀吉、ヒナタ、ヒカゲ、犬千代さん、あとえーとその、ちょっと恐れ多いけど殿っ!!
 あらん限りの知り合いの名前を連呼しながら垣根を飛び越える、が、足先が飛び越えきれずにひっかかった。見事に顔面から地に激突する。
「ぶへっ!」
 ひしゃげた悲鳴を藤吉郎があげた。おもいきりぶつけてしまった顔をなでさする。後ろを振り返るとさいわいなことに市姫はまだ追いついていないようだった。さすがに命をかけた藤吉郎の逃走にはかなわなかったのか、矢をつがえることに夢中になって途中で見失ってしまったのか………どちらにせよ見つかるのは時間の問題だろう。
 深いため息をついたところ、ぬっとばかりに現れた黒い影が彼の体を覆いつくした。
「―――藤吉郎さん」
「のわぁぁっ!!?」
「驚かないでください、わたしです」
「え? あ、ああ………女華さん」
 瞬間的に石灯籠の影までとびすさってしまったが知り合いとわかって安堵の息をもらした。濃姫のお付きとしてやってきた彼女のことは無論、藤吉郎とてよく知っている。初見ではまさか彼女こそが濃姫本人なのかと色んな意味でショックを受けたものである。
 ふしゅ〜っ、ふしゅるるる〜っ。と、相変わらずのえら呼吸のまま女華は笑った。
「市姫のお世話で随分苦労なさっているようですね」
「え? い、いえっ、そんなことは別に………!! ………ありますけど」
 最後の一言はぼそっと付け加えた。へたりこんだままだった藤吉郎を女華が助け起こす。
「日頃の労苦をねぎらおうと、濃姫さまがお呼びでございます。どうぞ奥の茶の間へおいでください」
「え? 奥の間?」
 いつの間にこんなところまで逃げ込んでしまったのか、確かにそこは普段は近寄ることも許されない奥の間の近くであった。常ならば立ち入ったりしないのだが、どうも市姫と命がけの追いかけっこをやっていると緊張がゆるむ。もしくは緊張しまくっているが故に些細な注意事項を忘れてしまうのだろうか。藤吉郎は恐縮した。
「あ、いえでも、きっともうすぐ姫がやってくると思うんで………」
「ご安心ください。藤吉郎さんが寛いでおられる間は、このわたくしめが姫のお相手をいたしましょうぞ」
 ギラッ! と眼を光らせて女華は切っ先鋭い槍をかまえなおした。
 ―――いったい、なんの相手をするつもりなのだろう。




「失礼しまーす………」
「あら、いらっしゃい」
 ちょっとした遠慮を抱えながら座敷に上がると、濃姫が奥の間でにっこりと微笑んでいた。手には茶器、横には茶杓など茶道具一式が取り揃えられている。藤吉郎が興味深げに見るのを知ってか、笑いながら手元の茶器を掲げて見せた。
「珍しいでしょう? これは殿が京から持ち帰ってくださったものなのよ。なんでも延暦寺のお坊様から頂いたとか―――」
(って、まさか天回のとこからガメたんじゃあ―――)
 ツッコミそうになったのをどうにか堪えた。いや、きっとあの騒動を機に仲良くなった僧に譲ってもらったのだ。そうに違いない、違いないことにしておこう。
 濃姫自ら淹れたお茶を恐れ多くも受け取り、「たしかこうだったよなぁ」という頼りない茶道の知識のもとに頂く。それはあらかた正解だったようで採点者でもある女性は満足げに頷いた。眼前には和菓子も置かれているのだが少々気が引けないでもない。
「あの………いいんでしょうか? 俺、女華さんと早く交代しないと―――」
「女華のことが心配ですか?」
「当たり前ですっっ!!」
 拳を握り締めて力説する。
「とにかく姫の体力はハンパじゃないんです! 信長様の遠乗りに散々付き合わされて一日中野原を駆け巡った経験のある俺でさえ疲れきってぶっ倒れるんですよ!? 殴る蹴るのに容赦はないわ要求は無茶苦茶だわ命令はしょっちゅう変更されるわ、も〜〜〜草履取りの身分がどれほど楽だったかと痛感しましたよっ! あれなら信長様の方がなんぼかマシ―――」
 そこまで言ったところでハッと口を噤んだ。主君にも、更にはその妹君にも随分な言葉だと気づいたからだ。しかも相手はご正室さまである。慌てて取り繕おうとした彼を濃姫は笑って制した。
「あ、ああああの俺っっ………!」
「いいのよ、別にわたくしは咎めだてするような立場じゃありませんもの。それにね」
 言葉を続けながら新たな茶を藤吉郎の椀に注ぐ。
「市姫は預けられた先では随分な問題児で、お目付け役の方々もほとほと困り果てていたそうよ? でもこちらに来てからは藤吉郎さんのおかげで少なくとも居場所は常に知れているし被害は他所に及ばないし、大変喜んでおられますわ」
「そ………れは、まあ………」
 兄妹そろって家臣泣かせらしいと勝手に予想してみる。
 濃姫の言葉を反芻してみて少しだけ誇らしい気持ちになった。名前こそ指し示されなかったものの、きっと『喜んでいる』のは殿なのだから。

(その分、ご自分が呼びつけられなくていささか不満そうですけど)

 とは、藤吉郎にはわかるはずもない濃姫のぼやきである。しかしそんな微妙な『男心』を和菓子をほおばってしあわせそうにしている少年に説いたところで理解はできないだろう。まったくもって罪な男である。
 廊下の向こうから足音が聞こえてきたかと思うと「失礼いたします」の声と共に襖がスラッと開けられた。誰だろう? お客さんが来たのなら早いとこ退散しなくちゃあ―――と思ったが、なんのことはない。現れたのはヒナタであった。
「あっ、ヒヨシ! おはようv」
「あれ? ヒナタ、どうしてこんなところに………」
「最近濃姫さまにお茶を習いに来てるんだー。知らなかった?」
 少女は嬉しそうに笑う。お茶を習いに来ているなど初耳であった。ヒナタは正座したままの姿勢で後ろから籠を引っ張り出した。
「キーッ! キキキ!!」
「サスケ!?」
 ヒナタが籠のふたを開けるや否や、サスケが飛び出して藤吉郎の胸にしがみついた。このところ姫の世話に追われてサスケの面倒ができなくなっていたため約一月ぶりの逢瀬であった。嬉しそうに首もとにまとわりつく小動物に藤吉郎も顔をほころばせる。
 サスケをはりつかせておくぐらい構わないと思うのだが、残念ながらあのお姫様とサスケは相性が悪いのだった。制御がきかないお子様の体力に任せてサスケをぶん回したり投げ飛ばしたりひん伸ばしたりしてくださるので、見ている側の心臓に悪いというのが遠ざけておく一番の理由であった。
 そんなこんなでサスケは元通り濃姫のところに蟄居している。
「本当にすいません、なにからなにまで―――」
「いいえ、本来ならサスケは父上からの贈答品。わたくしが預かるべきものなのですから」
 お辞儀をしまくる藤吉郎の横でヒナタはお茶の準備をすすめている。まずったかなぁ、と彼は表情をくもらせた。
「あ、あのさ、ヒナタ。俺さっきお茶菓子いただいちゃったんだ。もしかしてこれから使う予定だった?」
「大丈夫よ、ちゃーんと自分の分は用意してきたし………姫様がくださったんでしょ? 気にしなくて平気ですよね?」
 最後の言葉は濃姫に向けられたものだ。当然の如く相手も頷いた。
「それより待っててね、あたしがちゃんとできるようになったらヒヨシの家で美味しいの淹れたげるから♪」
 考えようによっては積極的なお誘いである。しかし、
「え? いや、俺んち茶道具もないし狭いし持ってくるの大変だし、別にいいよ。小六さんとこでなら大丈夫かなあ」
 好意を向けられた相手には悲しいほど伝わっていなかった。どうやら『あなたのために美味しいお茶を淹れたいのv』とゆー切実な乙女心はわかってくれなかったようだ。やはり罪な男である。
「サスケもなあ………小六さんとこで預かってもらえたらいいんだけど」
「それってヒヨシが仕事帰りにサスケを迎えに行くってこと? そんなの大変じゃん。あたしほとんど毎日お城に来てるから、ついでに面倒見ておくよ?」
「そうか? 悪いな」
 困りきったような口調で藤吉郎が微笑みかけると、ほのかに頬を赤らめてヒナタが照れた。こっそりと影で口付けたこともあるというのに(実際はヒカゲだったかもしれないが)未だ恋愛の序の口でうろついる二人なのだった。側で見ている濃姫としては微笑ましいと同時に歯がゆさ三千倍である。今度だまし討ちで結納でもさせちゃおうかしら? と不穏なことを姫は考えた。
 ヒナタが取り揃えた茶道具の前に濃姫が座りなおす。
「それじゃあヒナタ、前回のおさらいから―――」

 ガシャーン!

「ん?」
 遠くでなにかが壊れたような音に顔を見合わせる。破壊音は連続して耳元に届き、そしてついに。

 バリッッ!!

 襖が蹴倒され巨大な黒い物体が部屋に倒れ伏した。その上に勢いよく着地して、歌舞伎役者のごとく大見得きった人物は―――

「討ち取ったりぃ♪」

 と、素晴らしい笑みを全員に披露した。
「ひっ………ひひひ姫ぇぇぇ―――――っっ!?」
「あらヒヨシ、ここにいたのね」
 間違いなくそれは市姫であり、先ほど襖に突っ込んできた巨大なものは女華のなれの果てであった。背中に幾つか矢が突き立っているように見えるのは気のせいだろうか。
「狩りのできはじょうじょうよ! さ、いくわよ」
「なにが狩りですか、なにがっっ! しかも行くってどこへ行く―――うわぁぁっ!?」
 何事もなかったかのように姫は藤吉郎を引きずっていく。既にサスケは藤吉郎からヒナタへと乗り場をかえていた。さすがに引き伸ばされるのはもうご勘弁らしい。
 呆気に取られている面子の中でただひとり濃姫だけが冷静だった。
「お待ちなさい、市姫」
 ピタリと姫が歩みをとめる。彼女は敬愛する兄上(信長)と、その正妻である濃姫にだけは若干の気遣いを見せないでもなかった。
「女華に相手をしてもらったのでしょう? きちんとお礼ぐらい言っていきなさい。信長様に叱っていただきますよ?」
 静かに諭す、が。
「お兄さまにあえるんならしかられたっていいもーん」
 五歳にも満たない女の子は振り返ってあかんべーをするとさっさと庭に駆け出した。無論、片手には日吉を引きずっている。
「ああっ、の、濃姫様! すいません、後できちんとお見舞いにぃぃ―――っっ!!」
「なーにさけんでるのよ。さっ、つぎの狩場へむかうわよ!!」
 激しい土煙を上げながら二人は遠ざかっていった。日吉の喉から搾り出される途切れ途切れの悲鳴が少しずつ聞こえにくくなったかと思うと、やがて完全に壁の向こうへと消えた。
 倒れこんで唸っている女華を濃姫が助け起こす。
「まったく………殿が仰ったとおり本当にお転婆なのね」
「げ、元気がよくてよろしいじゃありませんか」
 言い繕おうとするヒナタの声もこころなしか裏返っている。肩の上のサスケが二人の行き去った方角を見つめて小さく鳴いた。それは不幸に襲われまくりの哀れな主人のために祈っているようにも聞こえたのだった。




「濃姫さまはずるいわ!」
「な………なにがですか?」
 泥まみれになった身体を引きずりながら藤吉郎が問うた。茶室から出た市姫はまっすぐ城外まで駆け抜け弓矢も放り出して倉庫に直行し、先日つくった(藤吉郎がつくらされた)ばかりの遊び道具を手に延々町外れを歩いているのであった。その道具というのは実に単純なつくりで、数枚の板を並べて打ち付けたところに取っ手と車輪が設置されていた。裏面には何故か『すけぼぉ』と記されている。
「だってお兄さまとケッコンしちゃってるんだもんっ。あたしだってお兄さまとケッコンしたいのにっっ」
「いや、そりゃ無理でしょ」
「なにがムリよ、オトメゴコロのわからない奴ねっ! 天誅!!」

 ズガッ!!

 冷静なツッコミは強烈な蹴りでもって返された。すぐ暴力に訴える市姫もどうかとは思うが、いつまで経っても対処法を編み出せない藤吉郎も藤吉郎であった。
「あたしのふこうはこの世にお兄さまよりカッコイイ相手がいないってことよね。身内がいちばんすてきなんだもの、どっかにトツげるわけないでしょ!?」
 いつの間にか市姫の殿に対する呼称は「お兄ちゃん」から「お兄さま」へとグレードアップしていた。それに気づいたとき、「ああ………また妹バカに磨きがかかってしまったんだな」と藤吉郎は遠い目で空の彼方を眺めたものである。
「血がつながってちゃダメだなんてリフジンだわっ、イザナギとイザナミだってもとは兄妹なのよー!!」
「どっから仕入れてきたんですか、そんな知識を!」
「やだぁぁ〜っ! お兄さまがいいーっ! お兄さまじゃなきゃヤだぁぁ―――っっ!!」
「ワガママ言わんでください!!」
 ぶーぶーとごねる姫を片手にぶら下げて、もう片方で『すけぼぉ』を引きずる。どちらもかなり重いので一苦労だ。すれ違う農民たちも「大変そうじゃのう」と同情の眼差しは向けるものの一定の距離を保ったまま近づこうとはしない。下手に近寄ると蹴りの余波を食らってしまうからである。
(そりゃ確かに実家では弟や妹の面倒みてたけど………こんなに手間はかからなかったぞ―――っ!!?)
 本日何度目かの愚痴を内心でこぼす藤吉郎だった。
 たどり着いたのは村はずれのなだらかな坂道のある辺りだった。途中からはかなり急な坂になっており、かなりの難コースといえそうだ。
 そもそも先日、勢いをつけてこの坂道を走り降りながらふと市姫が「もっと勢いつけておりられたらおもしろいわよね」と思いついたのがすけぼぉ製作の発端であった。そして哀れ藤吉郎は城下町のあらゆる店を周り、時には『行状改め方』の名前と同情とで部品を手に入れてこなければならなくなったのである。素直に信長に「これこれの品を手配してください」と頼めば楽だったのだろうが、そうしたが最後なんに使うのかを問い詰められ、危険だと止められるならばまだしも
「面白そうだな! 俺にもやらせろ!」
 といわれるのがオチなのでその手だけは絶対に使えなかった。兄妹そろって趣味や興味の対象が似通っているのは如何かと思う。
(………別にいいけどさ)
 おかげで幾分、他の人よりは対応に慣れてるんだし………と少しだけ自分を慰めた。
 取っ手を頼りに姫がのっしと荷台に足をすえる。
「さぁ、いくわよ!」
「姫〜………やっぱり危険だからやめておいた方が〜〜」
「うるさいわねっ、さっさとあんたも後ろにのんなさいよ」
「お、俺!? 俺はいいですっ! 遠慮しときます!!」
 藤吉郎は激しく首を振った。一緒に乗るよりも先に、道筋を点検して障害物の有無を調べなければ。
「いいですか、姫様。これから俺が道の点検を………」
「ふーん、乗らないの。じゃあいいや」
 あっさりと姫はすけぼぉを蹴りだした。なだらかな傾斜にそって徐々に車が早さを増していく。
「ひっ、姫っっ!? まだ準備が―――っっ!!」
 慌てて追いかけたが乗り物は確実に速さを上げていく。待ってーっ! と叫んだところでこれだけは乗り手にもどうしようもない。かつて比叡山で使用した動く荷車を思い出して藤吉郎は青ざめた。このままでは確実に追いつけないどころか置いてけぼりをくった挙句に見失ってしまう。それだけは避けなければならなかった。姫の安全、そしてなによりも自らの命のために!
 ―――なんてことを考えている間にも姫の笑い声を乗せたまま滑る板は遥か先へと遠ざかっていく。
「ひっ………姫っ………!」
 半ば絶望感にかられながらできうる限りの力で足を回転させる。過ぎ去る景色が通常の五倍ぐらいに達している。いま、眼前に障害物が出現したらとてもじゃないが避けきれないだろう。
 藤吉郎にとっては幸運なことに、数分間疾走を続けたところ道端の木陰で休んでいる市姫を見つけることができた。荒く息をついて物もいえない藤吉郎をよそに姫がすっくと立ち上がってふんぞり返る。
「おそい! おそすぎるわ! どこであぶらをうってたの?」
「………」
「さ、もっかいやるわよ。ちゃんと車もひいてってよね」
 この幼女のわがままはいまに始まったことではないので半分諦めの境地に達しながら藤吉郎は取っ手の部分にひもを取り付けた。持ち運びしやすいように用意しておいたのである。きちんと結ばれているのを確認したところで改めて姫が台座に乗り込んだ。
「あの〜………?」
「なぁに? あたしにあるけっていうの? あの坂をのぼれっていうの?」
「………なんでもありません」
 最早逆らう気力も失せてトボトボとひもを引っ張った。
 斜面を登りきったときには藤吉郎の体力の限界も近かった。特に傾斜のきつい地点にさしかかるとご丁寧にも姫君がそれ急げやれ急げと抜き取った草の束で背中を叩いてくださるので、そのつらさも倍増した。これでは牛馬となんら代わりがないではないかと落ち込む。
 再度乗り込んで板を蹴ろうとした姫の肩をがっしりと掴んだ。露骨に嫌そうな顔をされたが構っている余裕はない。
「姫! 今度は俺も乗りますからね!」
「さっき、エンリョしますとかゆってなかった?」
「さっ………さっきと今回は別ですっっ。是非とも乗らせていただきます!」
 正直、これ以上歩くのがつらくて仕方がなかったのだ。今度、姫がひとりで飛び出して後ろから全力疾走で続けといわれたら間違いなく自分は事切れるだろう。そうなったら牛に踏み潰されるどころか犬にまで食われてしまうかもしれない。
「いいけど………あんたがきちっとこぐのよ」
「そりゃーもうっっ」
 喜び勇んで後ろに乗り込むと、体重の分わずかに台が軋んだ。姫の肩越しに取っ手を掴み片足で漕ぐ。二人乗りの所為か先ほどよりも勢いがつくまでに時間がかかった。なだらかな斜面を大人が歩くぐらいの速さで進んでいく。
(やっぱこれぐらいの方が安全でいいよな)
 と、思ったのも束の間。急斜面になるに連れて制御が難しくなってきた。慌てて速度を緩めようと片足を地面にすりつけてみるが一向に役立たない。

「なっ………ななななんでぇぇ―――っっ!!?」
「ひゃっほ―――っっ! やっぱこうでなくちゃっ!!」

 お市の方には大好評だが藤吉郎にしてみれば肝の冷える思いである。前方の風景はかろうじて視認できるものの横をすりぬけていくものが木なのか岩なのか人なのかすらわからない。
 質量が重いほど速度は弱まりにくい………などと、戦国時代在住の藤吉郎が知るはずもなかった。
(こ、このままじゃマズイ! この道ってどこまで続いてたっけっっ!?)
 まっすぐな道が延々続いているならいいが、カーブがきたら曲がれない。絶対に吹っ飛ぶ。そう、比叡山での信玄たちのように。
 その映像が浮かんだ瞬間、車輪が草に絡まったのか小石を巻き込んだのか。勢いのついた板が大きくしなり二人を空中へと跳ね飛ばした。
「うわっ!?」
「きゃあっっ!」
 上下逆さまの山、木、雲の流れ、緑の大地などが視野を巡り、直後、地面の上に投げ出された。ほんの数瞬後れで車体が続き派手な音と共に壊れた部品が横に散らばった。カラカラと車輪がむなしく回る。むっくりと起き上がった市姫は辺りを見回し、遊び道具が大破してしまったと知るとその可愛らしい頬をふくらませた。
「なによーう、せっかくつくったのにもうこわれちゃったの?」
 立ち上がろうとした姫は支えにした手が随分とやわらかいものを下敷きにしていることに気づいた。なんだろうと確認して、本当に少しだけ意外そうな、戸惑ったような表情を浮かべる。
「………うまいことクッションになったものね。ちょっとだけホメてあげるからカンシャしなさい」
「………光栄のいたり、です」
 幾分くぐもった声でうつ伏せになった藤吉郎が答えた。宙に舞い上がったあの瞬間、完全に抱きこんで保護するとまではいかなかったものの、どうにか自分が下敷きになることで姫をかばったのだった。背中から飛び降りた姫を追うように腹部をおさえながら起き上がり、若干顔をしかめた。
 足元の草を踏み分けて姫は飛び散った車体のかけらを拾い上げた。
「あーあ………もうのれないや………」
「仕方がないですよ。俺が後で片付けておきますんで、今日はもう別のことで遊びましょう」
「べつのことって、なによ?」
 真面目に問い返されて返事につまる。しばし首をひねった後で思いついたらしく手を打ち合わせると、藤吉郎はツイと姫の手を引いた。
「まあ、たまには女の子らしい大人しい遊びでも………」
「ちょっと、なんかいまヘンなことゆわなかった?」
「いっ………いいえっっ! 全然っっ!!」
 激しく首を横にふる藤吉郎にあくまでも姫は疑いの眼差しを向けた。けれど、さっきかばわれたことを本当の本当に少しだけは感謝していたので大目に見てやることにした。あたしってばこころが広いわよね、とは藤吉郎が血の涙を流して喜びそうな姫の内心のお言葉である。
 村に戻るのかと思いきや藤吉郎は街道沿いに森の奥へと踏み分けていった。木々の向こうに道祖神が垣間見えたりしているが確実に奥深くへと分け入っている。
 ―――季節は初夏の一歩手前、いまなら丁度いいだろう。
 時期を計算して藤吉郎は合格点を出した。以前信長の用事で使いに出たときにたまたま見つけたとっておきの場所なのだ。まさか、一番初めに市姫を連れてくることになるとは思いもよらなかったが。
 つかまれた腕を強く振って姫が不満を訴えた。
「ちょっとぉ、まだつかないのっっ!?」
「あと十秒だけ待ってくださればよかったのに………ほら、ここですよ」
 指し示された景色に姫は喜びの声をあげた。
「すごいっ、きれいっ! ねぇねぇ、これなに? これなに!?」
「詳しくは俺もわかんないですけど………ほんと、よくこんなところにこんなものが、って思いますよね」
 藤吉郎も久しぶりにやわらいだ笑みを見せた。
 眼前に広がっていたのは一面の花畑だった。名前すらつけられていないだろう花の数々が見事に咲き誇っている。広さでいえば四十畳ぐらいはあるかなあ………とはややしみったれた藤吉郎の概算だが。色とりどりの花が咲き乱れているが、まだこれでも最盛期ではないのだろう。もうしばらくしてから来てみればより一層、華麗さと可憐さに磨きがかけられているに違いない。
 市姫が歓声をあげて花の山の中につっこんだ。つぶしてしまってから気づいたらしく、慌てて身体の下から綺麗な薄紫色の花を引っ張り出す。すっかり平たくなってしまっている。
「もし気に入ったんなら、押し花とかにすればいいですよ」
「うん、するっ! あ、あとね、これとこれとこれと………」
 目に付くものを片っ端から取り上げていくのであっという間に花束が出来上がってしまった。顔を埋もれさせて満面の笑みを浮かべる。
「いいにおーいv」
「蜂とかにだけは気をつけてくださいね? 刺されたら痛いですから」
 忠告を与えながら藤吉郎は藤吉郎で花をより集め、互いの茎と茎を器用に編みこんでいく。花を集めようとしていた手をとめて、お市の方はその作業に見入った。
「ねぇ、なにしてるの?」
「ああ………えっとその、花冠をつくってるんです。知り合いに教えてもらったんですけど結構面白いですよ。―――やってみますか?」
「やるやる! さあ、おしえなさい! やってみせるわあたしならっっ」
 言った途端、花を握りつぶした。
「ああっ、姫っ! それじゃ使えないーっ」
「もっかいつむからいいのっ。さあ、おしえなさい」
 なぜかは知らねど教えを請う方がふんぞり返っている。だがしかし、哀しいかな忍耐力だけはいやというほど身につけた藤吉郎だ。ここで投げ出すわけにもいかなかった。
「えっとですね、まず茎をこうやって………」
「こう?」
 茎がもげた。
「ち、違いますよ。もうちょい丁寧に扱って―――」
「ちゃんとゆわれたとーりにしてるわよっ」
 まとめようと掴む先から花びらがこぼれ、もはや形状を留めていない。弓矢とか釣り道具とか水鉄砲をつくるときはあんなにも器用なのに不思議だ。力加減がわかってないんだろうなぁと思う。それでもどうにか形になっているのだから大したものである。藤吉郎自身、以前ちょっとヒナタに教えてもらったきりで自信がなかったので、きちんと教えられたことに胸をなでおろした。
「どう? ちゃんとできたわよ!」
「………でも、それじゃ腕輪にしかなりませんよ?」
「………」
 藤吉郎の笑いながらの指摘に姫が口元をへの字に曲げる。つくったばかりのそれをしっかり自分の腕にはめて次の製作に取り掛かる。いい加減足りてるんじゃないかという長さになっても更に継ぎ足しまた継ぎ足し、できあがった作品は大人の首を五周ばかりしそうなシロモノになっていた。どうしてこの方は極端から極端へと走るのだろう。
 ようやっと丁度いい大きさの花冠ができあがった頃、空には夕闇の気配が滲み出していた。
 幾つもの試作品を足元に散らかし、完成させた花冠を頭上に掲げて誇らしそうにクルクルとまわる。
「これお兄さまにあげる! ぜったいあげる!」
 大きすぎたり小さすぎたりする作品の数々を腕により集め、藤吉郎はため息をついた。
(本当になー、見てるだけならなー………)
 空を振り仰ぎ、色合いの変化に急がなければならないことを感じた。山のように花冠を抱え上げて声をかける。
「姫、もう帰りましょう。信長様が心配なさいますよ」
 なかなかごねて帰ろうとしない市姫を納得させるにはこの科白が一番効果的だ。事実、少しだけ不服そうな色は見せたものの大人しく藤吉郎の服のそでにつかまった。例の完成品だけはきちんと自らのあたまにのせて。
「花たば、あたしももつわ」
「え? でも、結構かさばりますよ?」
「もつっていったらもつのっ。よこしなさい!」
 呆気に取られる暇もなく約半分の花冠を姫にもぎ取られてしまった。引き千切られる形になった花びらが数枚、風に流されて裾にからげた。なにを思っての行動かはわからないが本人が持ちたいと言っているのだからヨシとしよう。花びらで埋もれそうな視界の隅に市姫の黒い頭を認めて藤吉郎は頷いた。
 手を繋いで家路をたどればようやく今日の仕事の終わりが見えてくる。ふと遠のきそうになる意識をどうにかとどめおく。途中、草むらに埋もれる妙な影を見つけた。地面から不自然に突き立ったまま、風に吹かれて時折り車輪を揺らしている。それはまさしく『すけぼぉ』の残骸であった。
 村人が行き来する辺りまで来たところで藤吉郎は立ち止まり、姫の手を離した。
「どうしたの?」
「いえ………やっぱりあれ、片付けてこようかと思いまして。破片とかも捨てちゃうには勿体ないですから」
 既に過ぎ去った道を指差す。いつ拾ったのか車輪のひとつを手の上で開いて見せた。
「俺、破片とか全部集めて店に寄ってから帰ります。それでその〜………姫には悪いんですけども」
「ひとりでかえれってんでしょ? いいわよ、それぐらいできるんだから」
 あっさりと姫が返した。護衛の相手をひとりで帰すなど、本来ならとんでもない職務放棄、怠慢、無責任、大馬鹿者など、どれだけの罵詈雑言を受けても反論することのできない重罪である。とはいうものの、その護衛の相手が姫―――特に『この』姫の場合には幾分規則が緩まないでもなかった。これまでにも行き倒れた藤吉郎をほっぽって姫がひとりで帰還した例は幾度もあったし、その所為で彼が厳重処罰を受けると知ってからはとりあえず、そこらの村人をつかまえて城まで送らせるようにしていた。見ず知らずの人間にいきなり頼みごとをと恐れる必要はない。姫の『命令&実行』能力は実兄の信長ですら一目おいているほどなのだ。
 ついでにいえばここ一ヶ月ですっかり市姫の顔は巷に知れ渡ってしまい、悪人が手出ししようにも目立ちすぎてできないという事情もあった。
「ちょっとそこの村人! あたしを城までつれていきなさい!」
「え………? ええっ、わ、わしのことかね!?」
 折悪しくたまたま近くを通りかかったおじさんが慌てふためく。相手の反応は無視して姫は男の傍らに寄ってから藤吉郎を振り返った。
「こいつについていくからねっ。ちゃんと顔おぼえておきなさいよ?」
「はい、大丈夫です。ほんとーにすんません。明日、また迎えに行きますから」
 手を振る藤吉郎に見送られながら姫は男を蹴飛ばして家路を急いだ。巻き込まれた形の男は観念して城まで送り届けるしかない。もしこれでなにかあったら自分の責任になってしまう。言い逃れしようにも、人相は藤吉郎にしっかりと記憶されてしまっているのだから。
 どうせまたいつものことだと姫は安心しきっていた。両手に抱え込んだ生乾きの花の香りが鼻腔をくすぐって気分を高揚させる。これを見せたら兄はどういうだろう? きっと、すごく喜んでくれて、それで。
 今日もまたあいつをふりまわしてきたんだなって笑うんだわ。あたしがうなずくと「しかたねぇなあ」っていってあたまをなでて。ちょっとだけ心配そうな顔してどこかとおいところを見てるような眼でいうの、ムリしてなきゃいいけどなって―――。
 楽しそうに考え事を巡らせていた姫だったが、突如、目の前に壁が出現したかの如く立ち止まった。大きな目がまっすぐに正面を見据える。まるでこれ以上はないくらい難しい問題を出された生徒のように眉を寄せ唇を引き締め、前方の薄暗くなりはじめた道筋を見つめる。軽く上空を睨み上げて落ちそうになった頭上の花飾りを支えた。ひらひらと音もなく花が舞い落ちる。護衛役の男が心配そうに振り向いた。
 歯を食いしばり自らの地に溶け込んだ影をとらえ、次いで視線を鋭くして怒鳴る。
「ちょっと、まだ城につかないのっ!? もっといそぎなさい!!」
「は、はいっ!!」
 村人は追い立てられて飛ぶがごとき速さで歩き始めた。




 横倒しにした板の上に破片を転がす。車輪が二つ、外れてしまっているので引っ張って帰ることはできないだろう。壊れた取っ手の上に紐をまとめて置いて藤吉郎はため息をつくと同時にしゃがみこんだ。
(………ヤバい、かなぁ)
 右掌で腹部を抱え込む。身体を支える左手が揺らぐ。服に血がにじみ出てこなかっただけマシだろう。恐る恐る襟元から覗き込んでみれば青黒い内出血の跡が見られた。それを確認したのみで服を元に戻す。どれだけひどいのか調べたところで家まで帰らなければ医者にもかかれないことに変わりはない………歩かなければどうしようもないのだ。
(長屋に、つけば―――秀吉がいるんだろうけど………)
 深く息を吐き出しながら腹を抱えてうずくまる。額を地に押し付け歯を食いしばり、やたら重く感じる身体に耐える。傍らに置いた花冠の香りすら遠くに感じられた。
 素直にいえばよかったのだろうか? 怪我をしましたと。
 宙に跳ね飛ばされた際、姫をかばうことに気を取られて我が身への注意がおろそかになっていた。自業自得だ。姫が遊ぶのをとめもせず、自分から進んで一緒に乗り込んだんだし。下で姫が来るのを待っていれば受け止めることができたかもしれないのに―――。
(………どうやって帰ろうかなあ)
 意識が混濁してきていてまずい。思考がまとまらなくて支離滅裂な言葉ばかりを繰り返す。
 姫が怪我をしなかったのは不幸中のさいわいだ。怪我をさせたら周りがうるさいしなによりその所為であの子が部屋の中に閉じこもる羽目になったら見てられない。やっぱり外で暴れていてこそだ。花冠をつくるのもいいけれど、それは俺が動けなかったから打ち出した打開策にすぎないんだし………血、にじまなくてよかったな。幾らなんでもそれじゃあバレてしまうから。
 家に帰ろう、秀吉に頼んで医者を呼んでもらおう、明日になったらまた出仕するんだ。約束したんだし。
 地につけた耳に振動が伝わった。なにか近づいてきているのかと顔をずらして視線をあげてみれば真紅に染まった空の下に馬影がちらついているのがわかった。この間は牛に踏み潰されかけたけど、今度は馬に食まれてしまうのだろうか。
 ―――違う。そうなる前に起き上がって、村まで送ってくれるよう頼めばいいのだ。
 遅まきながら思考をまとめてどう呼びかけたものかを思案する。早くしないと行ってしまう。
 馬のいななきと足音がすぐ側まで来た。何気なく見て、馬上の人物に目を疑った。痛みも顧みず上体を跳ね起こす。

「のっ………のっ………!?」
「よう」
「信長様!?」

 むすったれた顔で答えたのは間違いなく信長だった。なぜこんなところにいるのか見当もつかない。
 主君は身軽に馬から飛び降りると藤吉郎の側に立った。
「こ、こんなところでなにやってるんですか? 仕事は!? 護衛はっっ!!」
「うっせーよ」
「ぎゃっ!」
 片足で鎖骨の辺りを踏み倒されて叫ぶ。普段の信長の蹴りに比べれば随分と手加減してあったが、それでもいまの藤吉郎には充分強烈であった。
 信長が片膝をつき腹を抑えていた藤吉郎の右手を無理矢理はぎとる。手を腹部にかざした瞬間、藤吉郎の顔に僅かに怯えの色がかすめるのを見た。触れはしなかったが、これでも戦場に出て多くの怪我人を目にしてきた信長である。着物の下がどんなことになっているのかはありありと想像できた。

「………アホか、お前は」

 左手を解放し肩口に乗せたままだった足をどける。藤吉郎は返事をしようにもできなかった。
 それにしてもどうして彼は自分がここにいるとわかったのだろう。偶々通りかかったわけでもあるまいに。問いを発する前に馬の方を見やった藤吉郎は身体を硬直させた。いままで影になって見えていなかった―――というより、いるという可能性が念頭になかったために見落としていたのか。
 日が暮れるに従い暗さを増してゆく馬の陰にひそんで、花冠を山のように抱えた姫が立っていることに。表情はよく見えないが、いいものであるはずがなかった。
 立ち上がりかけた姿勢のまま固まっている藤吉郎の前に姫が進み出る。

「―――うそつき」

 普段よりもずっと穏やかで静かな顔をして、まばたきもせずにこちらを見つめている。
「けがしたのだまってたでしょ。うそつき」
「うっ………嘘なんかついてませんよ、ほらっ!」
 手を腹部からはずして高々と掲げてみせる。
「ぜーんぜん自由に動きますしっ! 俺が姫に嘘なんかつくわけないじゃないすか!!」
 しかし。

「うそつきっっ!!」

 抱えたままだった花冠で顔を叩かれた。幾度も幾度も、繰り返し叩かれて無残にも花が散っていく。全然痛くはないのだが舞い散る花びらのおかげで窒息しそうだ。
「ちょ、ちょっと姫………!」
「なによなによなによ! いつもえっらそーに『うそついちゃダメですよー』とかゆってるクセにさ! もぉ二度とあんたのいうことなんかしんじないからねっ! あんたなんかネズミか害虫みたく長屋にでもこもってくさってればいいのよ! 顔もみたくないわこのバカバカバカバカ、だいきらーいっっ!!」
 とどめの一撃とでもいうように花冠がぶちまけられた。咳き込む藤吉郎をよそにとっとと姫は草むらから道へと戻り、走り始めた。信長が呼び止める。
「お市、いいのか?」
「あたしひとりでかえるっ!! そんな大バカもー知らないんだから!!」
 むきーっ! と奇声を発しながら見る間に遠ざかっていく小さな影を呆気にとられながら見送った。顔や頭など体中に花びらを張り付かせたまま、しばし呆然としていた藤吉郎だったが、やがてゆっくりと倒れ付した。衝撃が去ると共に痛みがぶり返してきたのである。
 珍しく苦笑を浮かべて信長が軽く藤吉郎の頭を小突いた。
「バーカ。見栄はるからだ」
「折角頑張ったのに、そりゃないです〜………」
 藤吉郎はさめざめと泣いた。痛みが増しているのも辛かったがそれよりも、自分でも意外なほどにキツかったのは。

「俺―――クビ、ですかね………」

「なんでだ?」
「だって、『大嫌い』とまで言われちゃあ―――お目付け役は続けられませんよ」
 きらいな奴につきまとわれるなんて姫もイヤだろうし………と殊勝な考えをこころに抱いた途端、信長に背中を踏まれた。
「いでっ………!!」
「なにぬかしてんだ。城の人事は全部俺の管轄なんだよ、勝手に職務放棄してんじゃねぇ」
「そっ、そうですけどでも………っっ!」
「大体お前以外にあいつの面倒が見れるわけねぇだろ? 当分解任はしねぇ。覚悟決めておくんだな」
 聞きようによっては誉め言葉とも思えなくはないそれに藤吉郎が動きを止める。
「とりあえずは医者に怪我を診てもらえ。有給休暇をやる」
「でも………その間の姫のお相手は………?」
「あいつ自身が休みをとれっつったんだ、しばらくは大人しくしてんじゃねーのか?」
 足をどけてもらえたので、その場に腹を抱えたまま座りなおした。
「休みをとれ? そんなこと言ってましたっけ??」
「『長屋にこもってくさってろ』つってたろ。あいつは感情表現がドヘタなんだよなぁ」
 小刻みな笑いをこぼす信長が本当に嬉しそうに見えて、藤吉郎も我知らず微笑んだ。妹に関しての話題ならこんなにも穏やかな笑顔を覗かせるのだ。………ちょっとだけ羨ましい。
 うずくまったまま動けない藤吉郎を彼は軽々と馬上に引き上げた。
「俺が直々に医者のとこまで送っていってやる。ありがたく思えよ」
「………光栄のいたりです」
 やっぱりこの兄妹って似てるよなあ、と今更なことを藤吉郎は再認識した。




「なんにせよ良かったじゃないか? 休みがもらえたんだしよ」
 包帯を取り替え終えた秀吉がそう言った。寝床についたままだった藤吉郎も頷く。
 あれから数日が経ち傷の具合も大分よくなってきていた。この分なら近いうちに職場復帰することができるだろう。医者に診せたときはあまりのひどさに―――手当てもせずに動き回っていたので、かなり悪化していた―――叱り飛ばされたものだったが。
 今日は秀吉も非番のため藤吉郎の世話をなにくれと焼いてくれていた。「仕事が増えた」とか「炊事当番が全部俺になった」とか文句を言いながらも面倒を見てくれる辺り、根はいい奴なんだよなと内心で笑う。
「それで? いま、姫の相手は誰がしてるんだ?」
「女華とか犬千代とか、みんなが持ち回りでやってるぜ。今日は誰が担当か知らないけどな」
 水を汲み替えようと秀吉が桶を手に立ち上がった瞬間。

 バサッッ!!

 出入り口にかけられていた御簾が凄まじい勢いで巻き取られ、土煙を引き連れたなにかがとんでもない勢いで突っ込んできた。
「なっ………なんだなんだ!?」
 危機一髪のところで桶を頭上に掲げた秀吉が叫ぶ。突撃してきた物体は藤吉郎の布団の前で潰れていた。哀れなほどに服が泥にまみれ髪型もざんばらになってしまっている。見慣れた服の柄から犬千代と知れた。
「ああっ、高そうな服なのに………!」
「第一声がそれかよ、おい」
「う゛。………え、えっと、犬千代様ーっ! 大丈夫ですか!? 意識はありますか!?」
 冷静な秀吉のツッコミに冷や汗をかきながらも倒れ付した犬千代のもとににじり寄った。必死に頬を叩いてみるが「ああ………お花畑でちょうちょがまわってる〜♪」などとうわ言をいうばかりで起きそうにない。巻きあげられた御簾の向こうに日の光を遮って何者かが立ちはだかる。大きな袋を二つほど抱えて犬千代以上に服を泥まみれにした姿に頭が痛くなった。
「ひさしぶりね、ヒヨシ! すこしはハンセーしたかしらっ!?」
「ひ、姫………! 犬千代さんにいったいなにさせたんすかっっ!!」
「このてーどでくたばる方がわるいのよっ。みなさい、差し入れよ! ありがたくうけとることね」
 返事もきかずに部屋に乗り込んで袋の口をがっぽりとあける。途端にバッタやコオロギ、蝶、トンボなどのありとあらゆる生物が溢れ出した。
「さあヒヨシ、たべるのよ! イモリの黒焼きはからだにいいんだからっっ!」
「って、生じゃないすか―――っっ!!」
「それがすんだらガマのあぶらを傷にぬるのよーっ! ざいりょうはいくらでもあるわ!」
 ゲコゲコと鳴きながら大量の蛙が部屋を闊歩する。右手にイモリを、左手に蛙の足をひっつかんだ姫がズズイと藤吉郎に詰め寄る。
「エンリョせずにたべなさい、あたしのシンセツにかんげきのなみだを流しながらっ!」
「せ、せめて生だけは勘弁してぇぇぇ―――っっ!!」
 全く別の意味の涙を流しながら藤吉郎はひたすら狭い部屋の中を逃げ回った。




 まず桶を外に出してから犬千代を部屋から救い出す。弟の悲鳴が外に漏れ出しているが気にするようではやっていけない。ざわついている付近の住民を秀吉はなんでもないと手を振って追い払う。
「あっれー? なんだ、取り込み中かぁ?」
「ん? ………随分珍しい取り合わせだな」
 振り向いた先に五右衛門とヒカゲの姿を認めてそう評した。二人とも包みを持っているところからして、見舞いに来てくれたのだろう。
「お察しの通り取り込み中だ。しばらくは部屋ん中はいれねーぜ」
「この声は市姫のものね………そう、その所為なのね。犬千代がのびているのは」
「情けねえ奴ーう。藤吉郎だってもうちょいもったぜ?」
 笑いながら五右衛門が犬千代の頬を引っ張る。落書きしたろか、と喜んでいるのに対し「やめておけ」と一応いっておいた。ヒカゲが壁に背をもたせかけて視線を送る。
「どれぐらいで終わるかしら?」
「当分、無理だろーな………藤吉郎は姫を追っ払えるほど強くねぇし」
「部屋もすごいことんなってんなあ。掃除が大変そうだぜ」
 格子から中を覗き込んで五右衛門がうへぇ、と声を出した。
 ああ、そうだ。藤吉郎はあまり動けないんだし結局自分が掃除するしかないのだろう。全く、怪我の余波がとんでもないところにまで及んでくるものだ。
 壁際に腰をおろし不機嫌そうに顔を歪めながら、それでもなぜか少しだけ羨ましそうに秀吉は呟いた。

「………見てるだけなら、かわいいんだよな」

 ―――と。




「もぉっ、あんたがあばれるからほとんど逃げちゃったじゃない!」
「お願いですから勘弁してくださいよ〜………」
 背中を姫に踏まれた姿勢のままで藤吉郎はうめいた。俺が怪我人ってこと忘れてませんか? と泣きたい気分になってくる。部屋のいたるところで蛙が鳴き蝶が舞いバッタが跳ね回る。イモリは壁を這っているしクモは巣作りしそうな勢いだ。
「あ、そうそう。もひとつおみやげがあったの」
(もうなにが出てきても驚きません………)
 消えた背中の重みにも身体を起こすことができず、頭の中だけで藤吉郎は答えた。姫がもうひとつの袋を持ってきて眼前で袋の口を開けた。途端にあふれでた芳香に伏せていた顔を上げる。目にも鮮やかな色彩が袋の端々から零れ落ちた。
「どう? ちゃんとひとりでつくれたわよ?」
 得意満面といった感じで姫が次々と袋から花冠を取り出す。虫たちで埋め尽くされていた室内に花の香りが満ちていく。
「全部………おひとりで………?」
「あたりまえじゃない」
 偉そうに胸を張ると、幾分いびつなそれを手に持って藤吉郎の頭にかぶせた。どうやら大きめにすぎたらしい花冠が頭をすり抜けて首元で止まる。そのまま姫が首にしがみ付いた。
「はやくよくなるのよ。いい?」
「ええ、それはもちろ………ん!?」
 同時に頬に感じた妙な感触にズザッと藤吉郎が飛び退いた。姫は平然としているけれど。

 ―――まさか。
 まさかとは思うけど、ひょっとしてこの人はいま俺に。

「あっ………、あの、もしやとは思うんですけど―――いま俺の頬にひょっとしてその」
「? したわよ? キス」
「ひっ、姫―――――――!!!」
 絶叫する。
「いったいどこでそんな知識を仕入れてきたんです! 俺はそんなん教えた覚えはありませんよ!」
「別にヘンなことじゃないんでしょ?」
「変なんです! いや、変じゃないんですけどとにかく姫はダメなんです! うわぁぁん、姫が!! 姫が穢れてしまったぁぁっ!! 誰だよこんなん教えたの!! バカ―――ッッ!!」
 藤吉郎が滝のような涙を流す。
 さすがにちょっと動揺しながらも姫は更なる爆弾発言をかましてくれた。

「だって、ヒヨシだってされてたじゃない」

 ピタリと藤吉郎の涙が止まる。
 ギギ、と関節を軋ませながら発言者を振り向いた。顔が強張ったまま動きそうにない。
「………されて、た。って―――いつ、どこで?」
「城で。あんたが昼寝してるときに」
「………」

 ―――誰に??

 思考が真っ白になっている藤吉郎を他所に姫はとうとうと捲し立てた。
「ねぇねぇ、こんど竹馬つくってよ! すんごく大きいのがいいっ。城の裏手でね、いいやつみつけたのv」
「………」
「みあげるぐらい高いやつがいいーっ、ひとまたぎで城をこえられるやつね♪」
「………む、無理っ! 無理です! 越えられません!!」
「やってもみないでなんでわかるのよー。じんせいチョウセンあるのみよっ!!」
「だってそれ作らされるの俺なんでしょ!?」
「きまってるじゃない!!」
 藤吉郎を指差してあどけなく笑う。こんな風に笑ってくれるから面倒だって見る気になるのかもしれない。
 この子は将来、絶対美人になる。そうしたら嫁ぎ先を巡って争いが起きるのかもしれない。もっとも、この性格にたえられる相手はなかなかいないだろうけれど。
 どうやら誰かに頬に口付けられたことがあって、しかもそれを姫に見られていたらしい―――その衝撃を追いやるかのように藤吉郎は取りとめもない思考を続けた。
(見てる分にはかわいいんだけどなあ………刺があるどころの話じゃないぞ、全く)
 浮かべた笑みには苦さが混じっていたが、それはそれでしあわせそうに見えるのが不思議であった。
 姫がはしゃぐ度に花びらが舞い散り布団の上に螺旋を描く。あふれ出でる芳香に眩暈がしそうになりながら癒されていく傷のことを思った。

 狭いはずの怪我人の部屋を埋め尽くすのは、
 おさなき姫君の花冠の舞い―――。

 

 


 

ようやく終わりました………単なる日常を描いているだけなのに、なぜこんなにも長いのか(苦笑)

 話としては「桃花の姫」の続き物となっております。
姫のワガママ度4割増し。日吉の平手政秀化も確実に進行☆
胃腸薬が必要になる日もそう遠くはないようです(笑)
つーか、こんな性格の姫ワシだったら間違いなく見捨ててます(断言)
おかしいな………もうちょっとカワイイとこもあるハズだったのに………。

 今回は女の子をいっぱい出せて嬉しかったですv
やはりノーマルはいい………初めてキスシーンも書けたしなっ。ほっぺにだけど(笑)
でも、日吉の頬に口付けたのは結局誰だったんでしょー(← 考えてなかったらしい)

 しかし確実に日吉と姫が両思いへの道を歩んでいるようでちょっと困りモノ。
それじゃ史実とちゃうやんけ(笑)
もっとも、このシリーズ(?)中での日吉はヒナタと仲が良いので結果は同じかと思いますが。
姫だって浅井長政とラブラブになるはずなんだもんねー。

 

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