初夏の暑さがあたりを席巻しようとしている。春というには日差しが強く夏というには影が薄い、そんな中途半端な状態を、花をまとわりつかせた風が遠くへさらって行く。決して嫌いではないこの時期に動かずに軒先で空を見上げればその青さばかりが目に付いてくる。眼前の庭にいまを盛りと咲き誇る緋色の花。少し揺らめかせば呆気なく落ちてしまうとしても、両の手で包み込めるほどのそれはやはり美しい。
ようやく城として落ち着きを見せてきた墨俣の庭で小休止をとっていた藤吉郎は突如、実兄に命令をくだされた。寝転がっていた体を起こして恐る恐る問い返す。
「―――いま、なんつった?」
「だから、あのふたりを迎えに行けっていったんだ。いますぐ」
告げた当人は両腕を組んでふんぞり返り、とても人にものを頼んでいる態度とは思えない。後ろでは共通の弟である小一郎が深い溜息をついていた。
いきなり休憩時間を邪魔してくれた上に勝手なことを抜かしてくれる相手にむかっ腹が立つ。
「なんで俺がそんな役目引き受けなきゃいけないんだよ!? 秀吉が行けばすむことだろっ」
「暇そーに寝転がってたくせに何ぬかす!! 大人しく迎えに行けっつったら行けばいいんだよ!!」
どちらも道理が通っているようで通っていない。
行儀悪く秀吉が藤吉郎を指差した。
「いいか、よく聞けよ藤吉郎。信長さまはものすごいせっかちなんだ」
「それぐらい知ってるよっ」
どれぐらいせっかちかというと、出陣を渋る武将たちを捨て置いて桶狭間まで一騎駆けをしてしまうぐらいせっかちである。危険極まりないが本人は全く気にしていない。そんな主君の考えに基づいて、木下組でも迅速を旨としている。
ここしばらく会う機会がなかったが珍しく墨俣まで視察に来てくれるという。準備が整いそうもない状況でそんなことゆってくれるなんて、ありがたさと忙しさのあまり失神しそうだ。
「到着は今日の午後っつってたが、はっきりいってそれも危うい。昼には到着してるぞあの人は」
それまでに食事や出し物の手配をしておかなければどうなることか―――と秀吉は青ざめる。その点に関しては藤吉郎も同意を示す。
「確かに信長さまは準備が全部整ってないとすっごく機嫌悪くなるからね………」
「だろ? しかもそれに加えて、木下組の『顔』ともいえる連中が席を外してたら絶対暴れだす。いや、下手したら刀だって振り回すぞ」
角つきあわせて話し合う様はとても深刻そうだ。話している内容を要約してしまうと「乱暴者の主君が来るので困ってます」という、ただそれだけなのだが。
ここで話を振り出しに戻して、秀吉は弟の肩に手を置いた。
「………だからお前が行って来い。いいな?」
「だから、どうして、そうなるんだよっ!? 勝手に決めないでくれよなーっ!!」
「外出したくない理由でもあるのかよっ!!」
「秀吉こそ!!」
つい先刻まで親身に語らっていた相手を捕まえて今度は取っ組み合いの喧嘩に突入しかけている。態度と関係がすぐに変化するので実にややこしい。
傍で見ていた苦労性の弟は間に割ってはいると、手ごろな提案を申し出た。
「藤吉郎兄さんも、秀吉兄さんも落ち着いてくれよ。迎えなら俺が行ってくるからさ」「お前はダメ」
一瞬で却下された。
「秀吉兄さん、その理由は………」
「お前には事務方を手伝ってもらう。到着寸前のいまがまさに追い込みだ。行くことは俺が許さん」
―――俺は行かせるくせに。
と、藤吉郎が呟いたか否か。
大体、藤吉郎だって暇なわけではない。確かにさっきは寝転がっていたけれど、それだって忙しい合間を縫ってようやく手に入れた僅かな時間だったのだ。現在木下組でのんびりしている人間なんて、どこぞに脱出してしまったふたりを除いて他にはない。
自分の都合で小一郎を押しとどめた秀吉は最後通告とばかりに彼を睨みすえた。
「とにかく、お前が行って来い。俺は絶対行かねぇ。どーせ後で殴られんのはお前なんだからな」
「なんつーかさぁー、そんなこといっちゃってさぁ、秀吉………」
話している内に相手の考えが読めてしまった藤吉郎は諦めとからかいの入り混じった複雑な笑みを浮かべた。
―――呼びに行きたくないのは、会いたくないから。
嫌いなわけではないけど、苦手で仕方がないから。
だって、会えば必ず、あのふたりに。
「―――からかわれるのがイヤなんだろ?」
空気が張り詰めるかのような刹那の沈黙。
座り込んでいた秀吉は勢いよく立ち上がると素早く踵を返した。
「よし! 仕事に戻るぞ小一郎!!」
足早に立ち去っていく後姿が明らかに『図星です』と白状していた。
溜息混じりに「意地っ張りだよなあ」ともらす弟の言葉に頷いた。秀吉だってあのふたりが嫌いなわけではない―――むしろ気に入っていると思う。だけどそれでもやっぱり、しょっちゅう人のことをからかってくるふたり組みは決して話しやすい相手ではなかったのだ。決めるところではきっちり決める連中なのに、どうして日常生活ではこうもおちゃらけているのだろうと不思議に思う。
「でも、藤吉郎兄さんは大丈夫なのかい? 先生たちの居場所なんて知らないんだろ」
「屋敷に寄って聞いてくるよ。―――事務職を抜けられる絶好の機会だって考えておく」
もし信長さまが先に到着しちゃったら謝っておいて。ついでにお茶でも出しておいてよ。
などと、とてもできそうにないことを頼みおいて藤吉郎は外へ向かう。
彼がいなければ主君は結局、サルを山狩りするために出奔してしまうだろうことをいまいち理解していないようだ。そんな状況を「イヤ」というほど認識している小一郎だけが深い溜息をひとつついた。
馬に乗ることはあまり好きではない―――似合わないから。幼い頃から感じていたのだ、馬を扱う人は背が高くて足が長くて、刀を携えたカッコイイ男に限ると。己の身体を見るにつけことごとく理想からズレまくっていて悲しくなる。だからという訳ではないが、藤吉郎はひっそりと裏口を使って城を後にした。
太陽が白光を投げかけて地面に影を形作る。いまは戦と戦の間の小休止、こうしてひとり出かけることもできるけれど、間もなくそれも叶わなくなってしまうのだろう。これから迎えに行こうとしている木下組つきの軍師は数ヶ月前にこうのたもうた。
「信長公は将軍がつきしだい入京しますよ、それこそ電光石火の速さでね。かくなればまたしても戦の日々です。いうことを聞かない諸大名を蹴散らす大義名分………覚悟を決めておいて損はないでしょう」
でも、とうに覚悟など決まっておいでなのでしょう? あなたの主君のために。
にっこり笑った軍師どのは相変わらず底知れない薄闇色の瞳を輝かせていた。
しかもこの発言が事の判明する遥か前なのだから、彼の先読み能力には恐れ入るばかりだ。だからこそ自分も秀吉も、もしかしたら『彼ら』が『奴ら』の血を引いているのではないかと勘繰ったりもしたけれど。
………別に、どうでもいいことだと思う。
自分たちが彼らを好いているのは本当だし、彼らが自分たちを信頼してくれているのも事実なのだから。
ただ、もしかして将来。たとえば信長の身が危険にさらされるようなことがあって。
それでも例の特殊な能力を求めないのかと聞かれれば―――。
迷う。迷ってしまう。
力なんかいらないんだよ、と。
自信を持って語れるほど誇り高い人間でもないから。
うだうだと考えているうちに目的地へついた。木下組の軍師さまは上司と馴れ合うことをよしとせず、危急の折りには城に泊り込むとはいえ、通常の生活は多少離れた庵で過ごしていた。控えめに木々の陰に建てられた屋敷は持ち主の意図を反映して最小限の設備しか備わっていない。いつでも立ち去れるようにしておきたいのだという無言の意思が垣間見えて胸が痛い。お付きの者をふたり従えただけで密やかに日々の暮らしを営んでいる。
門の手前で馬を降りると手近な木に綱を結わえつけた。
足を踏み入れるとすぐに、とうに出迎えの準備をしていたらしい付き人がほうき片手に目礼をした。ただそれだけで挨拶もなく、こちらとしては対処に困ってしまう。
「あ、その………こんにちわ。掃除の邪魔してすいません。………半兵衛、いるかな?」
「半兵衛さまは明け方より出かけておいでです。こちらでお待ちくだされば呼んで参りますが」
青年はやわらかく言葉を紡ぐ。初対面時と比べれば随分、人当たりがよくなったものだと妙なところで感心した。なにしろこの人物、相手を睨みつける眼力は並大抵のものではないし、必要最低限の言葉しか喋ってくれないから交流をはかるには物凄く苦労するのだ。
なんの因果か藤吉郎になついている猿と同じ名をした青年は、この家の主人に忠誠を誓って揺らぐことがない。背は高く、鋭い視線とところどころ跳ねた黒髪に最初は怯んだりもしたものだ。だけど半兵衛に対する親身な態度と絶対の服従と絶大なる信頼から、恐れる必要はなにもないのだと悟るまで時間はかからなかった。
「いいよ、俺が直接迎えに行くから。でも………なんか珍しいな」
「なにがでしょう」
「佐助さんは絶対、半兵衛の護衛についていくと思ってたから」
いつもいつでも主人の傍に控えている青年。
もっともな質問に相手は滅多に零さない笑みを少しだけ閃かせた。
「五右衛門殿が同行しておりますので」
「やっぱり五右衛門も一緒なわけ?」
「おふたりで山へ分け入って行かれました」
つ、と片手で背後の山を指し示す。墨俣を難攻不落たらしめていた一因である山は鬱蒼と木々が生い茂り侵入者を威嚇しているかのようだ。
―――この山を登ってったのか、あのふたりは。
これから自分も同じ道をたどらなければないのかと思うと気が遠くなる。優秀すぎる護衛は淡々と言葉をかけた。
「わたくしが参りましょうか」
「………い、いいよ。ここで引き下がったら後で秀吉にナニいわれるかわかったもんじゃない」
半ば意地のように言葉を返す。
黙って藤吉郎を見つめていた青年は握り締めていたほうきを軽く肩に担ぎ上げた。打って変わって押し殺した低い声で呟く。
「本音をいわせて頂ければ―――何方にもおふたりの邪魔をさせたくありません」
「佐助さん?」
「五右衛門殿は構わない。けれど、許可も得ていない人間の案内など」
「………」
抑揚のない言葉の切っ先に息が止まる。
―――五右衛門は、半兵衛自身が案内していった人間だから構わない。
だけど、藤吉郎を案内していいなんて誰もいっていない。
半兵衛はそんな伝言、残していない。
細められた視線の鋭さにぞっとする。手にしているのがほうき一本とはいえ、彼ならば即座に凶器に変えてしまえるだろう。不器用なほどにまっすぐな彼は主君に命じられたことを一言一句違わずに実行しようとする。半兵衛が一言「死ね」と命令したならば躊躇いなく喉元をかき切るのだろう。未だ読みきれない付き人の思惑に今更ながら危機感を覚えた。
見事なまでに硬直してしまった藤吉郎の姿に哀れを誘われたのか気勢をそがれたのかは知らないが、意外とすぐに青年は視線を緩めた。常に一文字に引き締められた唇の端に本当に僅かな笑みをにじませて。途端、金縛りから解放された藤吉郎がまたたきを繰り返す。
あっさりと青年は背を向ける。
「門前の道を右手にお進みください。一本道ですから迷うこともないでしょう」
告げたきり、ほうきを肩に乗せたまま裏に引っ込んでしまう。呆然と立ち尽くした藤吉郎の脇を風だけが虚しく吹き抜けていく。
………からかわれた、の、か?
にしては目が本気だったけど―――自分なら案内してもいいと考える根拠でもあったのだろうか。
付き人の許可を得たといえば得たのだが、どうも納得がいかない。時間が限られているから詮索することもできないし。
ひたすら首を傾げながら藤吉郎は馬の手綱を引いた。
『険しく切り立った』と表現するほどではないが山道はそれなりに苦しかった。実際に歩くのは馬なのだが乗り手の未熟さが現れて岩を飛び越える度にいちいち蹴躓く。最初から徒歩で来た方が早かったんじゃないかと思えるぐらい難所を乗り越えた藤吉郎は疲弊していた。
「やっぱ駄目だ………俺に馬は合わない」
そりゃあ戦のときとかは馬に乗ってる方が有利なんだろうけど。
槍に狙われる可能性も減るし、踏み潰されることもないし、突撃かけるのに便利だし。
―――置いていかれる心配も………ちょっとはなくなるし?
すっと視線を上げて前方の道を眺める。
まっすぐ進めばよいと教えられはしたものの道はどんどん先細り、足元の草や頭上の木ばかりが色を濃くしていく。本当にこれであっているのかと不安になりかけたとき、聞きなれた音が耳に届いた。弱々しかった音色が歩を進めるごとに確かな強さへと変化し、地面を叩きつける激しさが通り抜ける風の中にしぶきを混ぜる。僅かに開いた空の隙間から迸り落ちる透明な線が目に入った。
「―――滝?」
こんなところにこんなものがあるなんて全く知らなかった。墨俣の築城の際に水流を利用したけれど、その水源をたどることはしなかった彼である。実際に木々の切り出しに向かった小六たちは知っていたかもしれないが。
手近な枝に馬をくくりつけて自らの身長よりも大きな岩をよじ登った。視界を塞いでいた木々がそれ、流れ落ちる滝まで開けた道を提供している。薄暗い森の中から滝つぼを見下ろせる断崖絶壁の間際まで。唯一日の光が差し込む岩場の上に求める人々を見出した藤吉郎は、本日何度目かの溜息をつかずにはいられなかった。
「………なにをやってるんだ、一体」
向こうも気づいて手を振り返す。にこやかな笑みを浮かべているのはよしとしよう。
―――が、座り込んだ周囲に散らかされた花の数々と大量の酒壺はなんなのか。彼らの少しばかり赤らんだ頬が全ての回答を示していた。
相も変らぬ黒装束、黒い髪。とうに三十路に突入しているだろうにいつまで経っても無邪気な笑顔をしている男は諸手をあげて藤吉郎を歓迎した。
「とーきちろーっ! こっちだ、こっち! 一緒に飲もうぜぇ♪」
「五右衛門………昼間っから酒を飲んでいいと………」
「んー? なにいってんの、こんなうっっっすい酒、飲んだ内に入んないでしょ?」
邪気なく告げてこっちへ来いと手招きする。
お前も止めろよな、ともうひとりに文句をつけようとした藤吉郎は、相席しているのが『彼』ではないことに気がついた。
常ならば高く結い上げている髪もいまはうなじの辺りでまとめられているだけ。なにより、濃紺の印象的な瞳と口元に浮かぶしたたかな笑みが、同じ顔をしながらも全くの『別人』であることを伝えていた。
―――『竹中半兵衛』ではなく、その中に眠るもうひとりの『半兵衛』。
名を総兵衛という。
このふたりで騒いでたんじゃあ、そりゃあ止まるものも止まらないよな。
諦めきった表情で藤吉郎もその場に座り込んだ。部下に語りかける。
「珍しくない? 昼間っから『表』に出てくるなんて」
「そうですね。約一月ぶりといったところでしょうか」
かかる水しぶきに気持ちよさそうに手を伸ばしながら総兵衛はのたもうた。絶壁の傍に座り込み、酒壺片手に下を覗き込んでいる姿はちょっと突付けば落下してしまいそうなほどに不安定だ。
いつも通りの能天気な表情ではあるがほんの少しだけ大人しい気がして。
どこか気遣うような風情でそっと問いを重ねてみる。
「で? 朝っぱらからふたりしてこんなところでなにしてたワケ?」
「飲み会です」
「いや………だからそうじゃなくってさ、なに話してたのかなって。そういうこと」
藤吉郎が肩を落とす。この青年はなにを問われても正直に答えるが、大抵その内容は本題からずれている。故意なのか天然なのか悩むところだ。
ただでさえはぐらかすのが得意な奴を相手にしているというのに今日はオマケまでついている。風で吹き散らかされた花をひとつにまとめた五右衛門がいたずら小僧のように口元を歪める。
「鈍いなぁ、藤吉郎。男がふたりそろって話すことっつったらひとつに決まってんじゃん?」
「へ?」
「―――猥談」
音を立てて藤吉郎が凍りつく。みるみるうちに顔を赤らめると、五右衛門の手のひらを軽く叩いた。
「ばっ………馬鹿にすんな!! そんな話題のハズないだろっ!」
「なんでー? 偶にはヨッキューフマンについて話し合うのも大切な人間関係だぜぇ?」
「五右衛門はそうかもしれないけどっ、少なくとも半兵衛たちはそんな話しない! 絶対にしない!」
「あのね………」
あんまりといえばあんまりな言葉に五右衛門が絶句する。そうして真横であはは、と気の抜ける笑い声をたてていた総兵衛を小突き倒した。「お前もなんか弁護しろよ」といったところか。
確かに、と藤吉郎は内心だけで呟いた。
可能性としてはありえない話ではない。五右衛門だって総兵衛だって血気盛んなお年頃―――かどうかはともかく、れっきとした成人男子なのだからその手のネタが話題に上っても変ではない。
だけど猥談を喜んでする総兵衛なんて考えもつかないし、想像もしたくない。彼の片割れにしたってそんな『生々しい』話題なんて口にすらしないだろう。
知識として持っていることと実際に口に出すことは別なのだ。
「藤吉郎殿、そこまでいっては失礼でしょう。総兵衛だってきちんと猥談ぐらいはするのです」
「『きちんと』ゆうなっ!」
「勿論主な役割は聞き手ですよ。こぉーんなに経験豊かな忍者さま相手ではどんな色魔も顔面蒼白ですってv」
総兵衛、それってもしかしなくても俺に失礼? なんて五右衛門に茶々いれられながら。
(お前―――奥さんに操たててるんじゃなかったのかっ!?)
ほてった顔面を冷やそうと努力しつつ、胸中でそれだけを主張する。けど、『男』に対して『操』というのも妙だから言葉にするのはかろうじて抑えていた。
こころを落ち着けるようと滝の流れに目を映す。景色の最中にくれないの花びらが数多ひろがっていた。自然に咲いたものではない、彼らが持ち込んだと思しき花の群れ。美しい野草を束ねたものもあったけれど、やはり目に付くのは色鮮やかな緋牡丹だ。大輪の花ひらかせたそれは木から取り外された状態でうずたかく積み上げられていた。
「………これだけの牡丹、どこから集めてきたんだ? 山にあったわけじゃないだろう」
「どこって―――なぁ?」
五右衛門がそっと相手を盗み見れば、青年はこくりと頷き返す。
「城の庭」
「堂々と盗ってくるんじゃないっっ!!」
藤吉郎がこぶしを大地に叩きつけたところで聞く耳持たず。どちらも揃いの人のよさそうな笑みを閃かせ軽く手を振ってはぐらかす。
「いえね、本当は自生してる草花でいいかなーって思ったんですよ、総兵衛も」
「でもそれだけじゃあ寂しいだろ。そしたら丁度いい牡丹が咲いてるじゃないの♪ だから貰っちまったんだよな〜。なんかマズかった?」
「マズくはないけど―――折角、綺麗に咲かせておいたのに………」
恨みがましい口調になってしまうのは仕方がない。今日、到着する信長を喜ばせようと密かに手入れしていた花だったのだから。
多く植えられた木から数個ずつ持ち去ったのか、今朝見た限りでは牡丹に変化など見られなかった。さすがにその辺りは彼らも考えたらしい。
転がっていた花をてのひらに乗せて見つめる。
―――赤い。
「………なんで、こんなに花を?」
「あげたかったんです」
「誰に?」
崖の向こうを流れ落ちる滝に総兵衛は微笑みを向けた。周囲の岩に当たって舞い散る水滴がこちら側まで冷たさを伝える。
振り向いた顔はこっちが困るぐらい飄々としていた。
「今日は、命日なので」
風が、吹いたようだった。
花を手にしたままの己はさぞや間抜けな面をさらしていたことだろう。
口にできる言葉もなくただ幾度かそれを開閉させると、小さいながらもはっきりした声で「ごめん」と呟いた。
なんで謝るんですか? なんて。
いわれてしまうからますます恥ずかしさが募る。ようやっと搾り出した声は途切れ途切れだった。
「え、と………その―――家族の?」
「兄の、です」
総兵衛は立ち上がると五右衛門から両腕に抱えるほどの牡丹を受け取った。崩れ落ちそうな岩の直近に立ち、下を覗き込むでもなく手を離す。風に吹かれたくれないの花びらがひとつひとつほぐれながら滝の中へ吸い込まれてゆく。
ときに岩にかかり、ときに水流に煽られながら、水面に浮かび上がる赤い花々。
手を額にかざして総兵衛は天を仰ぎ見た。
「菩提山にもこれと似たような場所があるんです。奥深い森を抜けると急に開けた場所があって、切り立った崖の上で、真正面に滝を臨んで」
初めて此処を見つけたときはとても驚いたという。
幼い頃に兄と見た光景が、そっくりそのまま再現されていたから。
酒壺を傾けて中身を滝へと注ぎ込む。
花も酒も、いまは亡き人物の好みに沿って。
足元から吹き上げる風に髪をなびかせながら彼は背を向けている。藤吉郎は手に握り締めていた牡丹の花を伸ばすように指でしごいた。
「………美濃では、こんな風に弔う風習でもあるの?」
「いいえ、別に。ただ、兄はこの景色が好きだったなぁと思って」
「―――本当に好きなんだな、お兄さんのこと」
自明の理をあえて口にする。すぐに返事が戻ってくるかと思ったのに、不思議とそこで間が空いた。背を向けたままの青年はちょっと困ったように腕を組み替えて、上司と知人の視線を受け止めている。
「最初の………理解者ですから。でも」
顔色は窺えないけれど、きっといつもどおり淡々とした表情をしているのだろう。
滝の流れが響く中でも彼の声は常に明瞭だ。珍しい戸惑いの後に続いたのは抑揚のない言葉。
「もう―――いないんですよね」
微妙に震えた語尾に瞬間の対応を迷ったのも事実。
しかし。
世の中にはあっさりと躊躇や惑いを無視してしまう人物もいるわけで―――。
「ばーか。一遍沈んでこい」
「うわっ!?」
いうより早くその背を蹴飛ばす黒装束と短い悲鳴。
視界から消えうせる青年と続く水音。
花と違い風に支えられることもなく垂直落下した人物が水面に直撃した音は、長く山中にこだました。
「ごっ………ごごご五右衛門〜〜〜〜っっ!!?」
「や、悪い」
「悪いじゃないっ! なにいきなり蹴落としてんだよ、危ないだろーっ!!?」
涙ながらに胸元引っつかんでゆすっても相手はへらへら笑うだけ。逆に「まあ聞けよ」というように軽く肩に手をかけられた。
「はいはい、落ち着きなさいって藤吉郎。あいつカナヅチってわけじゃないからすぐに浮かんでくるって」
「だからって急に蹴落とすなよ、心臓に悪いっ!! 総兵衛が怪我でもしたらどうするんだ?」
「そりゃー困る」
「だったらっ」
「困るけど、俺ってば短気だから」
笑い方はなんら変わりないけれど、若干、瞳の奥の色は真剣だった。
「落ち込んでるあいつなんて見てらんねぇの。―――らしくねーじゃん?」
反論できなくて口を噤んでしまう。
落ち込んでいる総兵衛なんてらしくない。らしくなくて見てられない。
でも―――だからといって突如滝つぼに蹴落とすのは如何なものか。
「………偶には落ち込ませてあげりゃいいじゃん。命日なんだし」
「う〜ん、でもねぇ。あんなんじゃ張り合いなくて俺がつまんないんだよねー」
結局はお前の都合かいっ!
急降下する相手の機嫌も素知らぬ顔で、五右衛門は岩に腹ばいになって滝つぼを覗き込む。遠い水面には赤い花ばかりが滝に打たれて踊っていた。
しばし、沈黙。
自然と五右衛門を見る藤吉郎の目と話し方がきつくなる。
「ちょっと………すぐに浮かんでくるんじゃなかったの?」
「あっれー? おかしいなぁ」
並んで真下を眺めながら会話する。全ての原因である加害者はさして困った様子もなしにただ片手で頭をかいた。
やがて「しっかたねーなー」の一言と共に立ち上がるとおざなり程度の柔軟運動を始めた。
「どっか引っかかってるのかもしんないな。藤吉郎、お前は此処で待ってろよ!」
「えっ? ちょっ、ごえも………」
とめる暇もあらばこそ。
黒衣の影は一瞬のちには滝つぼめがけて飛び降りていた。
高く響いた水音に慌てて下を覗き込む。そこには、ひとひとり落下した際の美しい波紋だけが周囲の岩に跳ね返っていた。
(待ってろ、っていったって―――)
すぐ近くまで行ける道はないだろうかと首を巡らす。だが、生い茂った木々と草花が目に入るばかりでとても下に至る道があるとは思えない。一番確実、かつ短距離なのは岩壁を這い降りていくことだろうが、運動能力に自信のない藤吉郎がそんな真似をするのははっきりいって自殺行為だ。
所在なげに真下を見下ろしたまま待つこと更に幾許か。平穏と静寂を取り戻しているみなもばかりが不安を誘う。
遠くで響く鳥の鳴き声。
吹き抜ける風が木々の葉を揺らす。
ただ静かにみなもを彩る朱の花。
そして。
「―――総兵衛! 五右衛門!!」
刹那の迷いを吹き飛ばして藤吉郎もまた地を蹴った。
上下逆さまの景色が凄まじい速さで眼前を通過したと認識する間もなく、頭頂部に衝撃を感じ、直後に水に飲まれた。
薫風かおる季節とはいえ未だ冷たい水に心臓が痛む。絡んだ着物に惑わされてどちらが水面なのか見当もつかない。必死に手足を動かしていると、誰かの手で左右別々に引き上げられた。
「………がはっ! はっ………はっ………は?」
咳き込み、口に入り込んでいた水を全て吐き出す。急激に酸素を取り込んでいた肺が、映る景色に一時停止する。
両脇から覗き込んでいた、見慣れた面々に。
「あ………れ? 総兵衛―――に、五右衛門? ふたりとも無事で………」
どちらも濡れ鼠ではあるものの外傷など負ったようには見えず、とことん元気な姿をさらしていた。口をまっすぐ引き結び、前髪から滴り落ちるしずくが自らの頬を叩いている。
はじけるような笑い声が辺りに響いたのはその直後。
「―――え? え? ………えぇっ!!?」
ついていけない藤吉郎ひとりが慌てふためいて左右を見渡している。総兵衛も五右衛門も此処が地面であれば腹を抱えてのた打ち回っていたところだろう。
「う………わ、本当に―――信じらんない。さすが藤吉郎殿っ………!」
「だろーっ? 期待どおりで嬉しくなっちまうぜっ。やっぱこうでなくっちゃなー」
呆然としていた彼だったが、事情を飲み込んで怒りから顔を真っ赤に染めた。
つまり―――つまり、最悪なことにこのふたりは………!!
「だっ、騙したんだな! ふたりして俺のことを!!」
「いやー、だって水底にもぐってみたら総兵衛がおもしろそーに笑ってんだもん。お前も巻き込んでやらにゃ勿体無いでしょ?」
「ひどい! あんまりだ! 心配したのに!!」
藤吉郎の瞳がうるみだすに至って、さすがにやり過ぎたと気づいたのかふたりは笑うことをやめた。それでも微笑を顔に刻ませたまま総兵衛が上司の頭をなでる。
「からかうような真似をして申し訳ありませんでした。でも………藤吉郎殿ならこうすると思ってましたよ」
本当に飛び込んでくれたから―――嬉しかったのだと。
語る声はやはり常よりも寂しそうではあった。
………もしかしたら彼が幼い頃に、似たようなことがあったのかもしれない。
誤って滝つぼに落ちた弟を助けるために、飛び込んだ兄がいたのかもしれない。
あまり意味はないけれど藤吉郎は濡れそぼった袖で流れ落ちる涙を拭った。
二度と試すような真似はするなよと釘を刺して。
泣き止んだ藤吉郎に安心したのか、悪がきふたりはすぐにもとの調子で言葉をかわし始める。
「ねぇねぇ、藤吉郎殿は飛び込んでくれたわけですけど、秀吉殿ならどうしますかねぇ?」
興味津々といった体、五右衛門もとことん嬉しそうに含み笑い。
「そーだな、あいつは飛び込まないだろ。冷静だもんなぁ」
同じような状況つくって実験してみたくもあるけれど、今しがた禁じられたばかりだから叶わない。だから全ては想像の域。
秀吉ならばたとえ総兵衛が落ちたって、追いかけた五右衛門が戻ってこなくたって。
「清々するぜ、とかいって棺おけぐらい放り込んできそうですね」
「そーだな♪」
「でも、苦虫噛み潰したような顔してそうですね」
「そーかな?」
無邪気とも残酷とも取れる言葉をかわすふたりに囲まれて、藤吉郎は溜息と共に目を閉じた。
本当に人の悪い連中だと思う。
頭いいのにこっちを試してくるし、試してくるけど結果に対して淡白だし、淡白だけど妙なところで人情家だし。
なんでこんな奴らと友人関係結んでるんだろうとフと疑問に感じても。
その手を弾き飛ばして遠ざけてしまおうとは思えない。だって、濡れた衣服に絡めとられて沈みそうな自分を支えてくれているのもまた、彼らなのだから。
「………趣味の悪い想像はやめてくれよ、ふたりとも」
口調は不服そうだけど、藤吉郎は決して怒っていなかったのだった。
―――そして。
結局しびれを切らした秀吉が迎えに来るまで、三人とも水に浸かったままだったので。
帰還した彼らが秀吉と小一郎にこってり絞られたのはいうまでもない。
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