花は舞い落ちる、ひらひらと。移ろう風に流されてあてどもなく宙に浮かび上がり、やがては全てが地にひれ伏す。梅も散り桜も散ったいま、眼前で揺らめいているのは小ぶりな桃花である。手にした扇を懐にしまい込んで顎の下に手を添える。心和む風景がすぐ側で展開されていようとも心まで健やかになるわけにはいかない。脳裏を巡るのはひたすら打算と計算に埋め尽くされた薄汚い政治の世界の出来事ばかりだ。
(やはり、俺が行くしかないか………)
眉根を寄せる。導き出された結論はあまり進んで行いたい類のものではない。だが現在課せられた任務は責任が重く、しくじれば一族郎党の首が飛んでもおかしくはないものだけに自らが買ってでなければならないのだとも分かっている。だから、それに関しての抵抗感ではないのだ。
ならばなにが気になるかというと、城を空けたときの対処方法である。ここ墨俣の城は砦に近い出来とはいえ信長から託された初めての要所でもある。短期間で仕上げた城に愛着もあれば執着もあった。ろくでもない人間に後を任せてこれまでの努力を無に帰されたくはないと誰でも思うだろう。
さいわい、木下組は人材に恵まれているのでむざむざ宝を敵将にくれてやるような馬鹿げたことにだけはならないと確信している。
確信しているのだが………。
先刻から己の思考が堂々巡りをしているのに気づいていた。 ―――任務を受けるべき人物は己しかいない。それは分かっている。
―――後に残す人間は優秀でなければならない。それも宛がある。
なのに愚図愚図と判断を先送りしている理由のひとつとして―――認めたくないのだが、どうやら「置いていきたくない」と思っている自分自身の願望が一番厄介なものらしい。いままでだって離れている時間の方が長かったのだから気に留める必要もないだろうに、今回ばかり気が引けて仕方が無いのはやはり過日に彼が負った手傷故だろうか。直接手を下したのは敵の忍びだったとはいえ、自身もその原因に多少は関わっていたものだから。情報伝達の不手際を信長に怒られたのは記憶に新しい。
だから結局はこうして当事者に意見を聞いてみようなどという情けない事態になっている。
むすくれた顔になる秀吉の耳に微かに廊下の軋む音が届いた。どんなに早足であっても極力音を立てない様はまるで影に生きる人間のようだ。同じ武士連中が荒っぽく乱雑な足音を響かせまくっているのに彼だけは別世界に属しているかのようにささやかな音色しか奏でない。
(………体重、軽すぎるんじゃねぇの)
若干、的を外れた嫌味をいったところで悪いことのあろうはずがない。秀吉はそう考えた。
廊下の角を曲がった人影がこちらを見てやんわりと微笑む。軽やかに進み行く足元は揺らぎなく、とてもその両の足が引き裂かれているのだとは思えない。醜い傷を隠す裾をまくりさえすれば目にも痛い包帯の白さが焼きついて、僅かばかり残された後悔の念を再認識させてくれるのだ。
突然の呼び出しに不服な色も見せず相手はゆっくりとその場に腰を下ろした。
「竹中半兵衛、ただいま参りましてございます。―――何か用でもございますでしょうか」
「用っていえば用なんだけどよ」
三つ指ついて深々と一礼、そんな態度がこのところ妙に気に障る。だからとっとと面を上げろと手にした扇で指し示し、相手と異なって己は不満げな表情を隠す理由も余裕もない。どこから話したものかと多少迷いはすれど、どうせ彼は全てを承知しているのだ。いま自分たちが立たされている状況ぐらい軍師ならとうに把握している。これから口にしようとしている内容とて既に耳に入っていることだろう。
余計な弁明や説明は必要ない。
「出迎えの役―――俺が任された」
「はい」
「そりゃ、直接対面するのは俺じゃないけどよ。迎えるに当たって………細々とした扱いは全部俺が取り仕切れるよう権限だって与えられる。手元に人員はなくとも上手く差配してみせるさ」
墨俣の地を離れて遠く越前へ。
これから先の織田の命運を握る者―――。
第十五代将軍足利義昭。
その人を、岐阜へ迎え入れるために。
「名誉なことですね」
微笑みは絶やさずに軍師はのたまう。
「信長公もここが狙い目と踏んだのやもしれません。将軍の護衛という任務―――表向きは他の武将に任せるとはいえ裏で貴殿が役目を勤めたならば木下組の発言力も増す。おそらく十兵衛殿も同行させるのでしょうが」
張り合わず協力する術が吉ですよ。無用の心配でありましょうが。
最後に余計な一言を付け加えて言葉を締めくくる。あっさりと外面だけを撫でさするような内容はこちらの出を窺っているようで癪に障る。自分から切り出さなければ呆気なく全て受け入れてしまうから、結局は渋々と口を開かざるを得なくなるのだ。
だから、こんな状況に、本当にこの頃は、歯がゆいものを感じている。
「行くのは俺だけだ」
本当に腹立たしい。たまには感情も露に問い詰めてみたらどうだというのだ。
怒り狂った半兵衛やすねまくった総兵衛を見たい訳ではないけれど。
「小六も小一郎も置いて行く。あいつらは墨俣の護りに必要だしな。それ以外の奴らじゃこんな重要事項に関わらせる訳にもいかねぇし」
将軍に近づく人間は限定すべきだ。そりゃあ、いまは仲良く暮らしている隣人が翌朝には牙を剥くこともあるかもしれないけれど、それは可能性の問題だ。
だから。
「お前も残れ。―――命令だ」
ひとりで出来ることだから、ひとりでやり遂げるべき任務だから、ひとりで行いたいものだから。
理由なら様々考え付くけれども本心はもっと別のところにあるのだと自分自身でさえ思う。故にその矛盾点を相手に指摘されるかと半ば覚悟もしていた、なのに。
「畏まりました。留守中の城の警護はお任せください」
―――なんて。
拍子抜けするほど簡単に承諾されて肩透かしを食らう。幾度か目をしばたかせて、きっと己はどこか呆然としながら彼を見詰めていたに違いない。行儀よく正座した男は影ひとつない笑顔を更にやわらかく綻ばせてのたもうた。
「出立はいつになるのですか、秀吉殿」
「あ? ああ―――十日後ぐらいを予定してるんだが………」
「左様でございますか。ならばそれまでに受け継ぎの手はずを整えねばなりますまいな。事務方の任務は私と小一郎殿が、武術の鍛錬は小六殿に行って頂きましょう」
言い返す言葉も浮かばない秀吉を差し置いて話はとんとん拍子で進んでゆく。右のものは右、左のものは左と理路整然と物事が仕切られていく様は傍で聴いていて清々しいものだ。城主の不在を敵に悟られてはならないから影武者でも用意すべきだろうかとか、不在がばれた際に何処へ向かったのか悟られないように罠を仕掛けておく必要があるだとか、さり気ない口調で軍事機密にまで踏み込んで適切な処置を取り決める。秀吉は提案された解決策の数々に否か応かと答えるのみで、思考回路は半分閉じている。
「さて、今のところ手の打てるものはこれらのみでございますかな。残りは主要な面子を集めてからの手配と致しましょう」
半兵衛が一礼して立ち去りかけた時とて何処か意識が遠くて、ようやっと口に出来たものといえば情けないぐらいひねりの無い言の葉だった。
「半兵衛」
「はい」
廊下の中途で青年が立ち止まる。曇りない薄闇色の瞳に訳もなくたじろぐ。
「お前………特に文句も難癖もないんだな。ひょっとしたら単独行動を諌められるんじゃないかと覚悟決めてたんだが」
多分本音はもう少しずれた場所にあるのだが、そこまで打ち明ける必要はないと思う。きっと相手だって肝心要の出来事は表情の端にすら滲ませていない。案の定、彼はおだやかに瞳の色を和ませた。
「貴方の命に逆らう筈がないでしょう」
納得がいくようでいかない回答に自然、秀吉の顔つきが苦々しいものに変わる。なんとなく苛立ってなんとなく悔しくてなんとなく悲しくて、いう必要のなかったことまで口元に乗せてしまう。
「なら………俺がついて来いっつったらついて来てたのかよ」
愚痴をいうような駄々を捏ねるような秀吉の口調に半兵衛の笑みが少しだけ気弱なものに変化した。最終的にその色は苦笑に留められてしまうものの。
迷いも憂いもなく彼は淡々と返事をする。
「―――貴方が望むなら」
再度、深々と礼をして角を曲がる姿を何処か痛ましげに秀吉は見やった。次いで視線を外へ向けて、風がおさまった故に地に這いつくばった桃花の儚さに我知らず胸中でひとり愚痴る。
ああ―――しくじった、と。
どうしてか分からないが心底そう感じたのだった。
太陽は日に日にその強さを増している。木々の葉は濃く色づき、草は来たるべき季節の為に高々と背を伸ばす。十日後の出立としたは良いが片付けねばならない仕事が多すぎて、このところの秀吉はやつれ気味だ。信長のように後先考えず飛び出せるようになるまではまだまだ不安要素が多すぎる。ある日ふと出奔したとしても部下は裏切らないと思えるだけの実力を信長は有しているけれども、残念ながら自分はその境地に達していない。どうしても立ち去った後、なにか不手際があった際の心配をしてしまう。根回しをしておかなければ不安なのだ。
最近はより以上に根回しと手回しの巧みな人物がいるおかげで徐々に秀吉の自制心というのも瓦解しつつあったのだけれど、幸か不幸か自覚した気配はない。
縁側で巻物をまとめながら青空を見上げる。足元に落ちる影も大分黒くなった。
(暑くなりそうだな―――今年も)
軒先に投げ出された草履。きちと揃えておけと口うるさい弟は先刻書物を運びに退室してしまったから、行儀悪くそれらは放り出されたままだ。遥か彼方に霞み見える山にかかった雲が夏の到来を予感させている。
「秀吉殿、失礼いたします」
「ん? ―――ああ」
両腕に山のように巻物を抱えて軍師が突っ立っていた。秀吉の横に崩れぬよう巻物を設置して、その内の一巻を丁寧に開く。
「ご依頼されていた地図をお持ちしました。幾つか見つかりましたので全て運んで参りました。使いやすいものをお選びください」
「そうだな………って、これ虫が食ってるじゃねぇか。もちっと詳しく載ってるやつはないのかよ」
「年代物なのでそればかりは―――最も新しいものならこれですが」
なんら変哲のない言葉を交わしながらもどこか釈然としないものを感じている。数日前の半兵衛の回答に不満があった訳ではない。充分合格点だ、少なくとも内容だけならば。けれど納得がいかない。『彼ら』は確かにそう応えるだろう………けれど、もっと違う反応を自分は期待していたような気もする。例えばあの瞬間に半兵衛が苦言を呈したならば、総兵衛が異を唱えたならば、返って己は満足していたかもしれない。
これから先、どれほどの期間離れることになるかも分からないのに。
なんの未練も執着も見せない―――それだけの、ただそれだけの存在だったのかと。もっと内心を見せて、置いてゆかれたくないと片隅で僅かにでも願っているのならそれを零せばよいのにと。
幼子でも考えないような矛盾した思いを抱え込んでいる。
(………嘘ばっか上手くなるこいつが悪い。全部悪い)
そう、結論付けた。
わざと視線を眼前の地図に縫い付けていたけれど、ついと相手の視線が部屋の外に移されたのを感じ釣られて顔を上げる。
「どうした」
「空が………」
目を細めて遠くを見通す。薄闇の瞳に映る雲が急速に移動し始めていた。一刹那遅れて外を眺めた秀吉の視界に日光に照り付けられた庭の木々が映った。乾き始めた地面が茶色の粉を巻き上げようとしている、その上に。
「―――あ?」
黒点が、生じた。はたはたとささやかで、しかし無視できない程の強さで土の上の染みが増えていく。空には変わらず強い日差し、流れる雲、目に痛い青空。けれども遥か山の背からわきあがる雲は段々と質量を増している。珍しい―――まだ夏になるには早いというのに。輝かしい日の光の中で舞い落ちる水滴に知らず、頬がゆるんだ。
「天気雨か………珍しいな」
どこか近くで雨が降り、風に運ばれて水滴がこんな所まで飛来する。もう少ししたら雨雲は墨俣の頭上を通過するのだろう。半兵衛も地図をまとめる手を休めた。
「そうですね。天が、泣いてますね」
「天が泣くのか」
「ええ。天泣。雨は『空』自身の涙とはまた別物ですから」
静かに眺めやる二人の前で天はいよいよ滂沱の涙。青く透き通っていた空さえも灰色の闇に閉ざされて本格的な雨雲が到来する。なまぬるい風が湿った空気を運び大地を黒く染める。葉を叩く雨粒、池に波紋を広げるしずく、地に染み込む水音。
しばし無言で見やっていたらそっと半兵衛が呟いた。
「この分なら、夜には晴れそうですね」
「だな」
「そういえば、天気雨というだなんて。珍しい………度忘れですか?」
問い掛けに秀吉の眉が上がる。告げられた内容に心当たりがない。天気雨は天気雨、別名が天泣だろうとなんだろうと己が知ったことではない。
「なにが度忘れだって」
「大したことじゃないですから気にせずにどうぞ。ああ―――でも、そうか………」
まるで鈴の音のような声で笑う。瞳の奥に悪巧みしてそうな光を忍ばせて、これ以上笑い声がもれないように口元を僅かに手で塞ぐ。先ほどまで広げていた巻物の数々をまとめあげ、中でも秀吉が気に入っていた一本を取り出し手渡すと残りは全て彼が抱え込んでしまった。
また後程、報告に上がります、と。
後方に誰か別の申告者の足音を感じながら半兵衛が立ち上がる。次の相手が廊下を曲がりきる前にそっと屈み込むと秀吉に耳打ちした。
「今晩、空けておいてくださいね。総兵衛を迎えにやらせますから」
驚いて見つめ返してもつかみ所のない笑みにはぐらかされるのみ。本来この夜は木下組で酒を取り交わそうという案が浮上していたけれど、事を公にすることを望まない秀吉自身が遠慮しておいたのだ。だから空いているといえば空いているのだが―――。
一体、何のために?
疑問を解消する前に次の部下がやって来て、その間に半兵衛の姿は廊下の向こうへ消えてしまった。
しばらく留守にするからといって大騒ぎで見送られるのは性に合わない。かといって誰からも惜しまれずに旅立つのも癪だ。
気心の知れた連中と二言三言、当たり障りのない言葉を交わす。普段親しんでいる相手からはそれだけで心配する様子が伝わってくるので満足できるのだ。小六や小一郎、幼少のみぎりに引き取った虎之助などとしばしの別れを惜しんで床に就く。狙ってかどうかは不明だが離れに住んでいる半兵衛だけは挨拶に来なかった。周囲は訝しがったものの「あいつも仕事が忙しいんだろう」と煙に巻く。夜中迎えに来るといっていたことを知られたくはない、そんな気がしたのだ。
しかし、具体的に、何時ごろ迎えに来るというのだろう。
日はとっくに山の端に沈んで月が皓々と輝いている。半分よりも少しだけ欠けたそれは覆うところない大地を余すことなく照らし出す。早めに部屋に篭もったものの、迂闊に眠るわけにもいかない。おおまかな時間だけでも尋ねておけばよかったと悔いても後の祭りだ。気を張り続けることもできず瞼が徐々に下がってゆく。
(―――疲れてんだぞ、俺は)
少しだけ愚痴を零してふて腐れたように目を閉じた。
耳に届くのは微かな葉ずれ。意識が中空を漂い―――あるいは、本当に眠ってしまっていたのかもしれない。だからだろうか、自らの体を揺する存在に気づくのがやや遅れた。
―――秀吉殿、秀吉殿………
押し殺した声で呼ばれる。丁寧に、静かに、労わる音色を含ませて響く。そうだ、どうもこいつは名前の呼び方がいけない。普段は外面眺めながらだから分かりにくいけれど、随分とまた特別扱いしているような声音で囁いてくれるものだ。
―――秀吉殿………眠っちゃったんですか?
目を使わずに耳だけで相手の心情を推し量れば結構わかるものもある。悪意ある呼び声は棘があるし聞いていて不快になる。しかるにその逆ならば………。
夢の世界へ未練を残しながらようやく秀吉は己が瞼をこじ開けた。
僅かに押し開かれた障子と暗い夜空を背景に青年がひとり、こちらを覗きこんでいる。目が合うと嬉しそうに微笑んだ。
「よかった、起きてくれて。熟睡してたらどうしようかと思いましたよ」
「―――眠ってねぇ」
説得力のない言葉だ。もう少し休んでいたいと悲鳴を上げる体を無理矢理たきつけて布団の上に胡坐をかく。
「大体、何時に迎えに来るともいってなかったお前が悪い」
「そうですね」
総兵衛はあっさりと非を認めた。これでは追求することもできない。
改めて相手を見た秀吉は、その格好が普段と多少異なっていることに気づいた。いつもは高く結い上げている髪をゆるくうなじでまとめあげて流れるままにしている。服装も随分とまた簡素で飾り気がなく、脚絆で両の足は厳重に保護されている。これで色が黒ならば忍び装束となんら変わりはない。対する秀吉も彼が呼びに来るのを待っていたため寝巻きではなく軽い小袖と袴のみを身に付けていた。
「さあ、行きましょう。あと少しで見回りの者が来てしまいますから」
いいながら秀吉を布団から追い出し、手近な書物等を布団に詰め込んで身代わりとする。「秀吉殿って体積少ないから擬装が楽ですねー」というたわけた科白には張り手を食らわせる。
誰に見つかるかわからない廊下をすり抜け、隠しておいた草履で庭に這い出るのは心が躍った。幼い頃の闇夜の探検を追体験しているかのようで。主従そろって外壁を飛び越える―――総兵衛は助走もなしで一っ飛び、自身は刀の柄を利用して、というのが若干気に入らないけれど。すぐ近くの草叢には馬が用意してあった。無言で促されて総兵衛の背後に陣取る。こちらが体勢を整えるのを見計らって総兵衛は鞭を入れた。
深夜の遠駆けというのはあまり行ったことはない。闇夜の行軍の経験はあるが、そもそも夜をかけての進軍などそうある機会ではないのだ。第一、軍事行動が目的のときは周囲に赤々と松明がともされていた。近隣の住民に触れを出してあかりや食事を用意させるので兵士は夜を徹して走り続けることができる。
更に後年、秀吉は『中国大返し』という三日三晩の強制進軍をやらかすのだが、それはまた別の話である。
邪魔にならない程度にしがみつきながら驚いたのは、総兵衛の手綱さばきに全く迷いが見られないことだった。薄暗い夜道、幾ら月が辺りを照らし出すとはいえ地上の影は殊更に多い。見過ごしそうなくぼみや岩陰の草さえも軽々とかわしていく。
(見えてんのか?)
そんな筈はないと思うのだけれど。夜目が利くにも程があるだろう。なにひとつ動くもののない月光のもとで単調な馬のひづめだけが小刻みな音色を響き渡らせる。
向かう方角から大体の予測はつけていた。これは、総兵衛の住まう離れへ向かう道筋であろう。人目を気にしてか常よりも裏街道を選んでいるようだが間違いない。事実迫り来る山の片隅に『彼ら』の庵が見え始めているのだ。
―――が、予想に反して総兵衛はあっさりと自宅前を通り過ぎると更に奥まった山へ馬を走らせた。
「おいっ………総兵衛!」
「あんまり喋ると舌をかみますよ」
「何処向かってるんだよ、てめぇの屋敷じゃなかったのか?」
「もう少し先です」
振り返りもせずそう告げる。前方の道はますます色濃い闇の落ちる森の中、さすがに総兵衛にも馬の操縦が難くなってきたのやもしれない。それでも農家出身の秀吉が及ばないぐらいの巧みさで岩をよけ、木を避け、穴を飛び越える。だがこうした細々な作業にも限界はあるというものだ。
中腹まで達した辺りで手綱をゆるめると秀吉に下馬するよう促した。ここからは徒歩で行くらしい。まだ行かなければならないのかと内心でため息をついたが、ここまで付き合っておきながら肝心の目的を達しないというのも業腹だと半ば自棄のように歩を進める。
中途で腹立たしくなってきたのは、口を噤んだままの総兵衛に対してではない。同じ険しい山道を登りながらも怪我人のはずの総兵衛は軽々と障害物を避けていくのに対し、己は枝に激突したり足を引っ掛けたりとどうも格好がつかぬからである。全身全霊を目に集中していなければすぐに転んでしまうし、目に拘りすぎれば今度は足元が覚束ない。
「秀吉殿」
「なんだ、忙しいんだから声かけるな!」
「そうですか。ただ、丁度その辺りに太い木の枝が」
「っ、早く言え――――――っっ!!」
一事が万事、こんな調子で山道が途切れる頃には秀吉は荒い息をついている始末だった。
―――松明のひとつも準備しておけよ、水先案内人。
とは思うものの夜出かけると伝えられていた以上、自分で備えておいてもよかった義理である。文句はいえない。それにきっと並外れて目のいい総兵衛は松明なんざ無用の長物と心得ているに違いない、ああ、そうだとも。どうせ俺は視力が劣ってるさ、てめぇみたいな大ぼけと一緒にすんなよ、けっ。
途中から単なる愚痴に変わっているのは………まぁ、仕方ないだろう。
湿り気を帯びてきた空気に汗が滲む。一息ついて額のしずくを拭った。そこでふと鼓膜を打つ定期的な音に気づく。はっとして総兵衛を見上げれば彼はにこやかな笑みを浮かべていた。人差し指で行く手を指し示し、先へ行こうと誘う。これが最後とばかりに踏み越えた岩の向こうに夜空が広がる。其は水飛沫、耳に心地よい力強い響き。
「これは………」
墨俣に、こんな場所があるとは―――。
上り詰めた先に天から舞い落ちるかのような壮麗な滝。己が立つ岩を境にして、真下は滝つぼになっているのか全く覗き込むことはできなかった。滝の背には月が浮かび上がり、飛び散るしずくに光が反射して、なんとも見事な自然の演出効果。はるか下方に叩きつけられる水が激しく大気を震わせる。呆然と眼前の景色に見とれる秀吉は、だから、すぐ側に総兵衛が立ったことにも最初は気づかなかった。
「―――偶然、見つけたんですけどね」
ともすれば水流にかき消されそうな声で囁く。
「菩提山にも似たような景色があるから………驚きました」
黙って見つめ返す。
これを、見せたかったのか?
問いかけようとしたけれども、もっと他の出来事が己を待ち受けている予感もした。崖っぷちに総兵衛は腰掛けて左手で軽く岩肌をはたく。促されるまでもなく秀吉も隣に座るつもりでいた。並んで腰掛ければ涼やかな風が頬をかすめてゆく。
水と、葉ずれと、風と。
そのざわめきだけで疲れ果てていた心身が癒されていくかのようであった。
そっと相手を盗み見れば総兵衛はかすかな微笑を浮かべて闇に紛れ込んだ水面を見下ろしている。半兵衛ならいざしらず、総兵衛まで静かになってしまうと秀吉はどうしようもなくなってしまう。知らず気が急いて「何か伝えておかなければ」と思うのに言葉が出てこない。もとより、何を伝えたいのかすらわかっていない。
曖昧模糊としたこの感情をどこかに割り振るのであれば、それは『切ない』という範疇に納まるのかもしれなかった。もっとも、自分がそんな女々しい感情を持っているなど、秀吉は死んでも認めようとはしないのだろう。
相手になんら変化がないので仕方なく同じように眼下の暗い水底を見下ろした。黙り込むこと僅か、月も然程位置を変えぬ間に。
―――それは、現れた。
「ん………?」
見間違いかと思い目を凝らす。遥か下の揺れるみなも、木々をすり抜けて反射する白い月明かり。風のざわめきだけに飽き足らずいま、なにか、ほのかな光が揺らめいたような気がして。
儚くともる―――ぼんやりとした小さな、ささやかな光。
はじめは様子を窺うようにともされた灯りはひとつ、ふたつ。しかし固唾を呑んで見守れば驚くほどの速さで光が数を増していく。ゆらと飛び交い、風に吹かれて空を舞う。たどたどしく流れて互いのともしびに惹かれぶつかり揺らめきあい水の面をしばし漂う。
呆気に取られる秀吉の前で凄まじい勢いで光は増えつつあった。何処に忍んでいたのかと思えるほどに葉ずれから、岩陰から、草叢から、後から後から湧き出してくる。時期が時期とはいえこれほどの群集を己は見たことがあったろうか。広いとはいえない小ぢんまりとした滝つぼがほのかな灯りどもで埋め尽くされ、まるで光の渦のようだ。天の光が地上の灯りに負ける、水面と水飛沫に反射するのはもはや月光ではなく彼ら自身の光だ。
ほのかに光る―――ほたる。
ひと夏を生き抜く虫たちが此処で精一杯の生命を謳いあげている。
幾匹かは自分たちの元まで風に乗って舞い上がり、周囲を松明がわりに照らしてゆく。
乱舞、群舞。
魅入る己らの周囲でさえ彼らのほのかな灯りで照らし出される。舞い上がりくるのは疎らなほたる、足元には数多のほたる、風に吹かれ水にあおられ夜を返す。
食い入るように見ていた為、どれほどの間そうしていたのか分からない。感嘆のため息と共に真横を窺った時、知らず、相手がこちらを見ていて至極驚いた。言葉も出ない様を観察されていたのかと思うと腹立たしいと同時にひどく照れくさい。すぐに総兵衛は視線を逸らしたので戸惑いは瞬間的なもので済んだのだが。
「綺麗なもの、好きでしょう?」
月も、ほたるも、水飛沫も。
無論、黄金や美人や茶碗や、権力や武力や戦いや諍いも好きなのだろうけれど。
「だから………一緒に見ておこうかと思いまして」
敢えて口にされない多くの言葉。どう応えていいのか分からずに再び視線は眼下の滝つぼへと戻る。ひとつ、ふたつ、はぐれた光が木々の闇にまぎれ消えてゆく。その内の一組がゆらゆらと揺られながら自分たちのところまでのぼってきた。互いにぶつかり、煽るかのように頼るかのように、惑いも露に浮かび上がる。たまたま近くまできたつがいは総兵衛のてのひらの上で静止した。
どうしたもんですかね。
唇の動きだけでそう告げて、微笑う。
光を宿したてのひらを前方の月に差し出しても彼らは飛び立たない。ぼんやりと眺めやりながら他愛もないことを口にする。
「昼間、雨が降ったでしょう? だから少しは心配してました。あまりに雨の跡がすごければ山登りなんて出来やしませんから」
「そういやぁお前―――っていうか、半兵衛だが。あの時なにを笑ってたんだ?」
「笑う?」
「天が泣くとか泣かないとか。度忘れだって馬鹿にしやがったろうか」
思わせぶりな科白でからかってくれたではないか。
ああ、それは。と手のひらのつがいの扱いに戸惑いながら話し相手は笑みを深くする。
だってもっと簡単な言い方があるだろうに、わざと避けたかのような物言いだったから。忘れたのが無意識なのか故意なのかを少しは悩んでみせたんですよ。
のらりくらりと言い逃れそうな雰囲気に機嫌が悪くなる。とっとと核心をついた言葉をいえば良いのに。
「だから、何が」
「―――きつねの嫁入り」
さらりと流されたけれど一瞬身体が硬直してしまったのは何故だろう。ようやく二匹を離して安心したのか彼はてのひらを宙で彷徨わす。
「天気雨を『きつねの嫁入り』っていうじゃないですか。それだけです」
「………で?」
「それだけです」
笑う男のむかしの呼び名はきつね。
―――『きつねつき』。
美濃と墨俣、離れてはいるけれどもひょっとしたら昼間に自分の『親戚』が嫁入り行列でも出していたのかもしれないと。
ひとり考えて笑っていたのだ………彼は。
同調した片割れも脳裏の想像図に微笑み返してみせたのだ。
「でも、ちょっと不思議ですよね、きつねの嫁入りはあるのに『きつねの婿入り』ってないんですかねぇ。総兵衛が結婚したときは確か晴れだったと思うんですけど」
「………迷信だろうが。馬鹿馬鹿しい」
「貴方に仕えると決めたときは雪でしたしね」
話の流れが読めなくて返答に窮する。いや、理解しているのかもしれないが―――だって、告げられる内容がいつもと違い過ぎやしないか? 訳のわからぬ弁明を胸中で繰り返す。
「ばーか。お前はきつねじゃないし、どっかに嫁入りするわけでもねぇ。しかも相手が俺だぞ?」
「嫁入りみたいなもんでしょう。生涯の夢を託して仕えるのならば」
そしてどちらも―――主はひとり。
あまりに淡々とした色気のない口調だから分かりづらいけれど、おそらく己は、とんでもない覚悟のほどを聞かされている。甘ったるい心知れた者の囁きに似た字面でありながらより以上に恐ろしい感情を。
けれど―――この心に浮かぶ想像は。
「うつし世の習いは愛別離苦の会者定離、主従もまたその例にもれず、ってか? 確かに―――先の読めない世ではあるけどな」
普段ほど勢いのない口調だと自分でさえ思った。そっと寝転がれば背中に岩の冷たさが染み渡る。群舞する光もこうすれば殆ど視界には入らない。そうして今度は夜空のともしびが視野を占領する。
総兵衛にとっては男女の契りも主従の誓いも同程度の認識か。不安を抱かせてくれる辺りが苛立たしい。事実この男はいま、二人とない妻を故郷に残して出奔しているも同然だのに。時に零れ落ちる会話の隙間から彼が身内をどれほど恋しく思っているのか察しがついても、それでも彼は、自ら「帰る」と言い出しはしないのだ。
同じ原理でいけばこいつは―――いつかこの地を離れて遠い旅の空の下で秀吉のことを「懐かしい」だなんてほざくのかもしれない。
不当な立場にたたされている気がして強く瞼を閉じた。
………さっきから。
眼前に広がる光景をまた共に見てみたいものだと何度口にしかけたことか。意地のように黙り込んでいた理由の真相は、おそらく、相手に切り出してもらいたかったから。出会ったときから現在に至るまで不透明な未来の約定は行わなかった奴である。それだけにたまに交わされる誓いは必ず果たされていた。
いま、この状況で、それを口にしないのならば―――………。
「秀吉殿が帰ってくる頃には、ほたるもいなくなっているでしょうね」
傍らの人間はむしろ望みとは逆の言葉を紡ぎだす。
「毎年毎年、これだけのものが見られる保証はありませぬしな。それを頼りに生き延びるのも貴殿の思いには副わぬのでしょう?」
「………ああ」
信長に………付き従うのならば。
命なんて惜しんでいられない。主君の願いを叶える為にだけこの命を愛しみはするけれど。
そこまで考えてそうか、と思い出した。自分もまた我侭だったのだと。
己に付き従う多くの部下や友人たちを捨て置いて、ただひとりの主君の為だけに生きていこうとしているのだから。部下が止めようと小一郎が喚こうと禰々が涙を零そうと、ひたすらその思いだけで突っ走る。
だから先のことを口にしない。それは暗黙の了解だ。
了解しつつ規格外のことを望んでいるのだ。求めたときに求める言葉が欲しいのだと、子供みたいに不貞腐れて。
「秀吉殿」
醜く歪みそうになった頬を寸でのところで止められる。うっすらと眼を開けた先に映るのはほのかな光を従えたひとりの男。
彩る光に負けぬほどやさしい笑みを浮かべ彼は右手を少し唇の前で傾けた。
もうこの春や初夏には間に合わずとも。
「今度は送り火でも見ながら飲み明かしましょう………共に」
(………)
思考回路は停止。
動けない。またたきすら出来ない。
頭を五寸ばかり浮かせた状態でいた秀吉は、やがて、ゆっくりと頭を地面に降ろした。乾きかけた唇を舌で湿らせて上空を睨みつける。
いまのこの思いを、どう言おう。
「―――お前」
「はい」
「………馬鹿」
「はい?」
「甘やかしすぎだ―――俺のこと。何だと思ってるんだ、くそっ」
悔しい。
咄嗟に口元をてのひらで覆い隠したけれど、思わず唇の端が上がりかかったのを悟られてはいないだろうか。実にささやかな言の葉でかわされたも同然の約定が胸に痛い。
そう………先の約束はできないように思われても、少なくともこの夏には。
いにしえから続く京の祭りをこいつと共に見るだろう。
自分の態度がどれだけ秀吉を上機嫌にさせたか全く意識していない相手は、「今夜だけで何回馬鹿っていわれたんだろう」とぼやく。だから彼はそんな総兵衛の、吹き付ける風になびく色素の薄い髪を素直に綺麗だと感じた。
舞い散る光、次の年にこれを見ることができずとも。
代わりにもっと異なる様々な景色を共に自分たちは眺めるだろう。
消されがちだった夜の暗さは、やがて訪れる朝の装いに更に色を薄めていった。
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