「………生憎の空模様ですね」
縁側に並んで腰掛けながら、あいつがぼんやりと呟いた。
先程までは絶え間なく響いていた涼やかな虫の音色も夜半を過ぎて納まってきたようだ。赤く色づいてきた木々の葉も夜の暗闇の中ではさして意味をなさない。それでも月明かりがあれば結構見れたもの―――に、なるはずだった。しかし折悪しく空は曇り太陽の片割れはその裏側に隠れてしまっている。蝋燭を灯してみたものの互いの姿さえ闇の向こうに霞がちだ。
だが、たまにはこんな夜も悪くない。
「別に月が見たかったわけじゃねえだろ」
「そりゃそうですけど、やっぱ何かこう………明るい方がいいかなーと」
愚痴らしき科白を呟きながらあいつが杯を煽る。と言っても中身は酒ではなく単なる果実水だ。主従揃って下戸ときているから月見酒なんて洒落た真似は出来ない。時に酔うのも悪くはないが、酔えば意識が混濁する。そんな状態でまともな話が出来るはずもない。だから、少なくともこいつが此方に帰って来ている時は酒を飲まなくなった。
―――こいつは今、俺の手元にはいない。
それなりの手柄を幾つか立てたので昇進も兼ねて遠くの領地へと派遣したのは俺だ。帰って来るのはせいぜい数ヶ月に一度、報告の為だけにだ。大した出来事がなければ書面で済ませてしまうことも多い。
会う機会がなくなれば話す機会だってなくなる。こいつが出向いてきたところで報告以外に取り立てて話すこともないのだが―――それでも何故か、帰って来ている時はこうして夜通し話をすることになってしまっていた。向こうで何があったとか此方では何があったとか、誰それに会ったとか面白い出来事があったとか。
他の家臣たちの前ではしないような取り止めのない馬鹿話ばかり。それすらないならば黙って空を見上げるだけ。
それが、ここ何年かの関わり方だった。
こいつが買ってきた砂糖菓子を齧っていると又しても呟きが聞こえた。
「………今度の、戦」
「ああ?」
「今度の戦―――かなり、厳しくなりそうですね」
その言葉に表情を硬くして黙り込む。言われるまでもなく戦況の不利は充分承知している。自国の基盤は固めたが今度は周辺諸国が揃って牙を剥いてきた。出る杭は打たれる―――出そうな杭も打つ、ってか。
ムカツクことに有力大名たちの間で『反信長同盟』らしきものが出来上がっているらしい。一体誰が主催したんだか知らないが、首謀者を見つけたら絶対にぶっ殺してやる。それぞれの国が互いに潰しあうためでなく、協力するための手段として自分を槍玉に上げている。同盟の証として生贄にされるのなんざ真っ平ご免だ。
だが憤ってもそれだけで状況が改善されるわけではない。正面の敵を倒すことに固執していたら背後から別の敵に叩かれかねない。
しかし何も出来ないと手を拱いている内にますます状況は悪化してしまうだろう。
だから、潰す。奴らが完全に手を組み終える前に。
「出兵はまだ先だ。………準備だけは常に怠るなよ」
「わかってます、けど―――」
歯切れの悪い返事に不機嫌そうに顔を向ければ、幾分離れた位置に座り込んだあいつが心配そうな顔をして見つめてきた。
手を伸ばしたところで、届かない距離。
………別に触れたいわけでもない。
「人生五十年って言ってましたけど―――せめて、もう少し生きてくださいよ。五十三年ぐらい」
「………何だ、その微妙な数は」
「年齢差考えたら俺のが三年長生きしなきゃならないじゃないですか。そんなん嫌ですよ」
訴えるような口調に心底呆れ返った。
いちいち何を心配しているのか―――そんな先のことなど誰にも分からないだろうに。未来は切り開くもんだとか運命なんか変えてみせるとか、威勢良く息巻いてたのは何処のどいつだ。
「五十年きっかりで誰もが人生終えるわけじゃねぇだろうが。アホか?」
「『アホ』ってそんな―――ちょっと言ってみただけじゃないですか」
「お前に言われるまでもなく俺は生き抜く。俺の生死に関わらずお前も生き抜く。それでいいだろ」
俺の言葉に少しだけ笑みを浮かべて、揺れる視界を天へと移す。
上空を流れる風は速い。流された雲は一瞬たりとも留まることなくその姿を変化させていく。そして漸く月明かりが雲の狭間からささやかな光の筋を投げかけてきた。
「そうなんですけどね―――何か、想像出来ないんですよ。信長様のいない世界ってのが」
「いつ、誰が死のうと世界に大した違いなんかねぇよ。………間違っても後追いとかすんなよ。寒気がする」
「はは………言われなくてもしませんよ。俺、結構生きたがりなんで。ただ―――」
最後の言葉に引っ掛かりを感じ、寝かせていた体を起こして天を見上げたままの横顔をまじまじと見詰める。その動きに気付いたのか、あいつは此方を見て『しまった』という表情を浮かべた。
思わず口が滑ってしまったのか………相変わらず肝心なところでボケてる奴だ。
「『ただ』―――何だ?」
足元に下ろした杯の表面に垣間見えた月の姿が反射する。
威嚇するように睨みつけると、慌てふためいていたあいつも負けじとこちらを見つめ返す。
睨み合いで俺に敵うと思っているのか。しゃらくせえ。
尤も、譲らないところでは絶対に譲らない相手だということは経験上よく知っている。最後まで屈服しようとしない存在ってのはかなり腹立たしいが、同時にこういう奴は貴重だとも知っている。
少しだけ譲歩するように目を細め固い口調で問いに応えた。
「ただ―――決めて、いるだけです」
「だから、何をだ」
二度目の問い掛けに応える様子はなく、真っ直ぐ瞳を覗き込んでも物怖じせずに見つめ返してくる。
言おうか言うまいか、自分自身迷っているような微かな揺らぎがその中に感じ取れた。けれど下手な問い掛けや脅しには絶対屈しない。口を滑らせたが最後、結局白状させられると分かっているだろうに無駄な努力を続ける。いつまで経っても。
もしかしたらこいつは俺よりもずっと意地っ張りなのかもしれない。
無言の睨みあいを続けながら、ふと感じた。 遠いな―――、と。
親しくなればその分近くなる、話し合えばその分理解できる。そんな幻想を抱いているわけじゃない。
にしても………何だ?
この―――、距離は。
話せば話すほど分からなくなり、見つめれば見つめるほど見えなくなる。
人の心を読むことは得意だ。こいつの考えてることだって手に取るように分かる。いや―――分かって、いた。
………読み切れなくなったのは、いつからだ?
黙っていることに疲れたのか。固く引き結んでいた口元を緩め、あいつは弱々しく微笑んだ。
「言ったら笑われるから―――言いません」
一体何がどうなったのか―――戦が終わった時、全てを把握している者は存在しなかった。
互いの領地の国境近く、山と川に取り囲まれた平地において。
昼過ぎに始まった戦闘は当初、織田軍が優勢だった。敵の本陣まであと一息というところまで迫り、これまでの戦と同じくまたしても勝利をおさめるのかと思われた。
しかし。
突如、予期せぬ伏兵が現れた。
敵の上層部ですら知らなかっただろう、密やかな他国の援軍が織田の背後に回りこみ奇襲を仕掛けたのだ。攻撃は苛烈を極め戦況は一変、織田軍は撤退を余儀なくされた。逆に敵方は勢いづき追い討ちをかけ、混戦の最中で織田軍の各隊の長は行方知れずとなり何名もの名だたる武将が命を落とした。
何よりも痛かったのは全軍の指揮をとる織田信長が中途から行方不明になってしまったことだった。おそらく敵の攻撃に晒されている間に追い込まれ本陣から遠のいてしまったのだろうが―――。兵の士気は下がり宛てもなく逃げ惑う者で溢れた。生き残っていた武将たちが命令をかけたところで浮き足だった雑兵たちが従うはずもない。
残すは残党狩りの手にかかり死を迎えるのみ―――誰もがそう覚悟を決めた。
―――だが。
彼は、帰ってきた。
深い手傷を負いながらも川を下り、下流に控えていた軍の主力と合流を果たしたのだ。主君自ら敵陣を単身突破してきたことに勇気づけられ兵士たちは活気を取り戻した。
生還を果たした後の彼の行動は素早かった。敵に自らの生存を気付かれる前に手早く軍をまとめ直すと川の上流に柵を作らせ、偵察を放って敵陣の様子を探らせた。
もはや織田軍、恐るるに足らず―――。
織田信長の首こそ逃したものの一度崩れた軍隊を立て直すにはかなりの時間を費やすだろう。その隙に領地内に侵入し征服すればいい。
そう、勝利の確信に奢った敵方の油断を見逃すほど織田信長は愚鈍ではなかった。
敵軍が帰国の際に通れる道は限られている。帰途を急ぐならば馬を連れ大軍を率いて、突き刺すような痛みをもたらす冬の川を横切るしかない。人馬の動きも鈍るし体力の消耗も激しい。普通ならばどんな凡人であろうともそんな愚行を侵すことはない。
しかしこの時は勝利の確信に酔い、大損害を受けた織田の軍勢は当然逃げ帰ったものと彼らは信じ込んでいた。まさか半分以下に減った軍勢を再び編成し、密やかに攻撃の準備をしているなどと誰も思いはしなかったのだ。
敵の主力が渡河の体勢に入ったとの偵察からの連絡に合わせ一気に堤防が破壊された。
突如押し寄せた洪水に成す術もなく人も馬も押し流され武器が川底に沈む。彼らにしてみれば降って湧いた『天災』によってほぼ壊滅に近い状態に追い込まれた。更に生き残った織田軍が特攻をかけ、さしたる手傷も負わずに敵方の武将数名を捕らえる事に成功した。
絶体絶命の状態から起死回生の策で逆転し、交渉次第で五分と五分―――もしくはそれ以上有利にことを運べるまでに若き織田の当主は戦況を変えてしまった。
これ以降、織田信長の戦い方が劇的な変化を見せることになるのだが―――。
まだ、この時点でそれに気付いた者はひとりもいなかった。
馬から下りて大地を踏みしめる。
数日前、敵に追われながら逃げた道を同じように辿る。
あん時は敵に矢を射掛けられ、馬に乗った奴らに追いまわされ、斬りつけられた傷口を気にする余裕もなくズルズルと地を這いながら必死になって走り続けていた。
幾人かついていた護衛の者は全て死に絶え、唯ひとり………あいつだけが残った。
思えば不思議なことではある。剣術や体術に秀でているわけでもない、体力や運動神経が飛び抜けているわけでもない。なのに最後まで付いて来れたのはあいつだけだった。
「この先の小屋に舟があったはずです。そこまで行けば―――」
何故確証の持てないその言葉に従ってしまったのか分からない。それだけ切羽詰っていたということか。
疲労が蓄積し足がもう走れないと悲鳴を上げ、そんな感覚すら徐々に薄れていく程の限界に達して。
生きるだの死ぬだの余計な思考は働かず、ただ心臓の鼓動だけが強く鳴り響いていた。
今は―――あの時とは違う。
追いすがる者も追いかける者もなく悠然と辺りを見回すことが出来る。敵の姿もなく背後には数名の部下が控えている。付いてくるなと言ったのが―――仕方ない、だろう。九死に一生を得て逆転勝利をおさめたというのにこんな所で敵の残党に殺されたりしたら笑おうにも笑えなくなる。
道を辿りやや急な斜面を登りつめていくと、やがてあからさまな血臭が辺りを覆い始めた。
ひとつ、ふたつと目に見えて死体の数が増えてくる。敵味方入り乱れているが、若干敵の数の方が多い。
「………随分、追っ手がいたのですね」
「まぁな」
だが、こんなもんじゃねぇんだよ一益。あの時俺たちに追いついてきてた敵の数は―――。
死体に導かれるように例の小屋の間近に到着すると眼前に広がる光景に後ろの連中が息を飲んだ。
そこで待ち受けていたものは全て想像の範疇だったから俺はあまり驚かない。寧ろ当然だ、という気すらしている。
そんじょそこらの戦場じゃ見られない程、地面を埋め尽くすように犇いている死体の数々。
………こんなもんじゃ、なかったからな。俺の首をとって出世しようと企んでた連中は。
幾度か掠められた切っ先が首に幾つもの跡を残していた。既に包帯で覆われた傷の上をそっと撫でる。首を切られて痛いってのは―――生きてるんなら当然、なんだが。
血の匂いは麓よりも一層濃くなっていたが、散らばる死体の数々には盗賊連中に荒らされた形跡も動物に喰い散らかされた跡も認められない。冬場というのが幸いしてかあれから数日経つというのに腐乱も始まっていなかった。でなきゃ、むせ返るような臭気に襲われてこの場にいることすら出来なかったはずだ。
「本当にこれだけの数を、あいつひとりで………?」
信じられないという風に犬千代が呆然と呟いた。
確かに信じられない光景だが―――目の前に広がっている以上、認めるしかないだろう。
全部、あいつが殺したのだと。
注意深く視線を彷徨わせながら無造作に死体の只中に足を踏み入れる。流石に怖気ついたのか他の連中はついて来ない。ついて来させる気も、ない。
他の奴らに先に見つけられてたまるものか―――。
死体の流れを遡り更に奥へと歩を進める。血の匂いが、強くなる。
………そしてそれは、何の前触れもなく俺の前に現れた。
二度と動かない。
あいつの―――肉体が。
回答を拒否するような言葉に苛立って杯を床に叩きつけた。
距離を詰め、真正面からあいつの顔を見据える。
「笑われるから言わないだと? そう言われると返って気になるんだよ………とっとと白状しろ」
「あー………いや、その………。笑われないかもしれないけど、怒られたり呆れられたりするかも知れないんでやっぱり遠慮しとこうかと」
苦笑いしながらあくまでも誤魔化そうと軽い言葉を紡ぐ。小賢しい手段はお手のもの、か。言い逃れの言葉を重ねて相手が諦めるのを待っているのか。見え透いた下らない手法に唇の端を歪めて、笑う。
―――なら、次はどうする?
ゆっくりと手を伸ばすとあいつが少しだけ眉を顰めた。視界を覆うように掌をかざすと本能的な恐怖にかられてか、僅かに身じろぎをした。鼻先と口元を掠め、差し出した腕をそのまま喉元へと下ろしていく。
首を締め付けるような形で寸止めにし、指先だけ肌に触れさせる。
小さな一点からあいつの熱が伝わる。草木の陰から伝わる風が辺りを冷やしている中、その熱さだけがやたら鮮明だ。凍てついた指の触れた先から焦がされそうなぐらい―――その下に、確かな息吹を感じ取る。
冷え切った俺の手と違い熱を孕んだその体は、何処となくあいつに相応しい気がした。
今にも首を掌で締め付けて、軽く手折ってしまいそうな姿勢―――勿論、こんなのは脅しに過ぎない。『単なる脅し』だとは向こうだって百も承知だ。
承知しているからこそ………こいつは俺に従う。
「言え」
「………」
それでもまだ命令に従いたくないのだと、人よりも茶色がかった瞳が宙を彷徨う。が、ここまで追い込んじまえば殆ど白状させたも同然だ。あいつもいい加減懲りているはずなのに相も変わらず往生際が悪い。
更にしばしの逡巡を見せた後、観念したらしく深い溜息をついた。
「―――決めて、るんです」
伏せていた瞳を真っ直ぐ上げて。
「信長様より、後には死なないって―――」
………。
確かに―――呆れるような、内容だ。
灼けつくような痛みを伴ってきていた指先を離す。あいつは俺が今まで触れていた箇所に恐る恐る手を触れて、次いで傷口を庇うかの如く掌でそっと包み込んだ。
「勿論俺は信長様の作った未来が見たいですから無駄に死ぬつもりはありません。でも………後に残っても、多分意味なんてないですから」
「後追いと殆ど同じじゃねぇか」
「それはそう………かもしれません、けど」
苦笑を浮かべてもう片方の手で軽く頭をかく。困った時に見せる、あいつ自身気付いてない癖。
「もし信長様が先に逝ってしまわれたら、その後、どうやって生きていくことになるのか―――分かんなくて。きっと叶えられなかった夢を引き継ごうと躍起になって、他のことなんか見もしないし気にも止めなくなって―――。そんなの何か………なんて言うのか………誰も、望んでませんし。だから生きながら死んでいるよりは、生きている内に死にたいんです―――俺」
やけにきっぱりとあいつは言い切った。
………何だ?
………何か、ムカつくぞ俺は。
自分の人生を何だと思ってるんだ? 俺に捧げておけばそれでいいと思っているのか?
こいつが生き残ることをこそ願っている奴とているだろうに―――なに、勝手なことぬかしてやがる。
後に残された者が何を思うのか。
普段は嫌になるくらい気が回るくせに、どうして一番大事なところで何ひとつ理解してねぇんだよ………。
俺の怒りに気付いたのか取り繕うように慌てて言葉を重ねる。
「い、いえ、だからその、俺だって未練がないわけじゃないんですよ? 戦から帰ってきて皆に再会するとホント生きてて良かったって思いますし。命あっての物種って体験は嫌というほどしてますし。だからきっとこれは―――多分、俺が………弱い、んです。………信長様の死に直面して冷静でいられる自信が―――ないんです。考え方とか性格とか、自覚なしに変化しちゃいそうで………だから、俺」
語調を弱めて顔を俯かせる。
首筋に触れたままの手は蝋燭の灯りに煽られ、震えているようにも見えた。
「………怖い、んです。すいません………」
最後の方は耳をすまして漸く聞き取れるほどのか細い声になっていた。
項垂れたあいつに一発蹴りを入れるほど俺も心情を解さないわけじゃない。その方が多分こいつは安心するんだろう、が。………してやんねぇよ。
言っておきたいことがあるのはどちらも同じなんだろう。
「………誰が死のうと、お前はお前だろ」
出会う前は普通に生きてたんだ。何の因果か出会っちまったから喪った後は多少、落ち込みも絶望もするだろうさ。
だがな―――誰かひとりいなくなったぐらいで崩れる自我なんて存在しねぇんだ。
不安になる必要も無い。お前は、壊れちまうほどヤワじゃねえ。
「そう、なれたらいいとは………思ってます。例えば―――」
少しだけ顔を覗かせていた月は再び雲の合間に姿を隠してしまった。明るさに慣れていた目が突如暗がりに連れ込まれ不可視の世界が訪れる。
視界の閉ざされた暗闇の中、静かな声だけがよく響いた。
「俺が死んでも―――殿が、殿であるように」
瞬間。
何故か―――息が詰まった。
闇の向こうの姿を捕らえようと目を凝らす。ゆっくりと蝋燭の明かりが月光の代わりに相手の輪郭を形作っていく。けれども表情の隅々まで窺えるほど確かな光になるには程遠い。
「………お前が死んでも―――俺は俺、か」
「はい」
自分の口であいつの言葉を繰り返してみると、何か不思議な感覚に襲われた。
俺はあいつに、俺が死んでもお前は変わらないと告げた。
それと同じことを言い返されただけなのに―――。
何だ? この、痛みは。
じゃなくて、何処が痛いんだ? 何処か痛むのか?
それでもその痛みをあえて無視して鼻先で軽く笑った。
「随分はっきり言うじゃねえか。何か根拠でもあんのか?」
「根拠と言うか―――別にそんなんじゃないですけど」
吹きぬけた強風に追いやられ、月が雲の間から完全に姿を覗かせた。取り払われた雲は遠くに飛び去り青白い輝きが周囲に降り注ぐ。
再び眩い月明かりに照らされて、はっきり視認できるようになった相手の姿を。
やはり何故か―――
遠い、と感じた。
「だって殿は―――天下人に、なるんですから」
やたら無邪気に笑ったその顔を、はっ倒したいと思ったのは何故だったのか。
「………の――――殿!」
至近距離から呼びかける声にハッと我に返り、強張っていた体の緊張を解いた。傍から心配そうに一益が顔を覗き込んできている。後ろには見知った連中もゾロゾロ付いてきていた。
あんまり遅いので様子を見にやって来た、ってとこか。
「大丈夫………ですか」
「当たり前だ」
すげなく言い返して目の前の物体をもう一度眺める。
全身、ズタボロになった小さな肉隗。
切り刻まれた体にはどす黒く変色した血がこびりつき鎧の色も判別がつかない。右手には俺から勝手に借りてった大刀を握りしめている。大事そうに抱え込んでたりするが―――柄尻まで血で染まって刃はガタガタだ。もう使い物にならねえな。
木に寄り掛かるように座り込んだまま。
事切れている………なんてのは日を見るよりも明らかで、驚きもしない。そうだろうと、思っていた。
主君の首筋ぶっ叩いて昏倒させたってのは、まあ―――大目に見てやらんでもない。俺が助かったのは事実だしな。本来なら手柄を称えて何か死後の栄誉でも与えてやるべきなんだろう。だが。
―――ムカついてならないのは。
その死に顔が満足そうな笑みを浮かべてるってことだ。
………何が可笑しいってんだ、胸糞悪い。
組んでいた腕を解いて死体の傍に寄る。確認するまでもなく、どう見てもやっぱり微笑ってやがる。
―――そうかよ。
結局………そうなんだな。
唇を噛み締めて低い声で呟いた。
「―――塩」
「はい?」
「塩は、あるな」
「敵方の首を保存しておくための塩甕ならありますが、それが何か―――」
「よし」
返事もろくすっぽ聞かずにあいつが固く握り締めていた大刀を無理矢理もぎ取る。もう使えねえから………これが『最期』の役目だ。
血糊でべたつく柄を握り締め固く凍てついた体を見下ろす。
―――この怒りを、何処にぶつけたらいい?
分かってんだろうな? 敵なんかどうでもいい、俺がむかついてんのはお前に対してだ。
勝手に自己完結して逝っちまいやがって――――。
苦悶の表情を浮かべてるならまだしも、笑ってるだと?
―――満足してるのか。望みどおりに死ねて。恐怖から逃れられて。
全ての………しがらみから解き放たれて。
出会った時から最期まで、結局好き勝手やって自由に生き抜いたのはお前だったってわけだ。
それに気付かないでいた俺も馬鹿だが、もう遠慮はしねぇ。
好き勝手やらせてもらうさ―――思う存分にな。
物言わぬ死体の髪の毛を引っ掴み、冷たく凍てついた細い喉元に刃を突き立てる。後ろの連中が動揺するのが分かった。
「とっ、殿―――何を!」
「うるせぇ、黙ってろ!」
ぎりぎりと刃を食い込ませ肉を断ち切っていく。死後大分経過しているから頚動脈を切ったところで血が吹き出るようなことはない。
でもな、畜生―――わかってんのかよ。首を切り取るのは結構力がいるんだぜ? おまけに何だよこの刀! こんなになるまでボロボロにしやがって! 切れねえじゃねえか!!
細っこい首に刃を立ててグイグイと押し込む。
肉を斬る感触ってのは人でも動物でも大した違いはないもんだ、と思いながら。
頚椎を断ち切った後は簡単だった。既に固化していた血が切断される衝撃に伴い、塊のまま地面に落ちて潰れる。役目を終えた刀を近くの叢に投げ捨てた。
振り返ると全員青ざめた顔をして呆然と突っ立っていた。
なに驚いてんだよ。戦で手柄を立てる折にはしっかりてめえらも敵将の首を切り落としてただろうが。
手にしたものから目線を逸らして素っ気無く告げる。
「死体を全部引きずってくのは無理だからな。首ぐらいなら、持って帰って身内に届けてやれるだろ」
「あ、はい………そうですね」
慌てて取り繕ったような返事をするが、連中の顔には戸惑いの色が隠しきれない。
………何だよ、その目は。俺が間違ってるとでも言うつもりか。
反論は許さねえ。反抗も許さねえ。忠告なんざ聞かねえ。同意なんざ求めねえ。
俺は俺のやりたいように、誰の目も気にせずに生きていく。お前らの態度なんて関係ねえよ。
無言で来た道を引き返す。馬に乗るのに首が邪魔だと気付き、紐を利用して新品の刀に括り付けてから犬千代に尋ねた。
「おい、そういや捕虜は交渉に行くのを了解したんだろうな?」
「え? い、いえ―――まだです。敵からもまだ何の返答もありません」
「………じれってぇな」
文句を言いながらも自分が笑っていると自覚していた。敵が歯向かうのは腹立たしいが、丁度いいかもしれないな。
勢いよく馬に跨ると引っ掛けた首が重く揺れた。
「捕虜の耳を切って敵方に送りつけろ。『平和的解決を望んでいます』って書面付きでな」
「とっ、殿………!?」
「鼻でもまあ、いいだろう。どちらにしろ間抜けな顔になっちまうけどな」
低く笑いを漏らすと怯えたような目を向けられた。
………だから、何だよ?
ちょっとばかり興味が湧いただけだ―――どれだけ人間って奴は苦痛に耐えられるのかと。
何処まで傷つけば人間って奴は死に至るのかと。
手や足を千切ろうが目を刳り貫こうが舌を引っこ抜こうが、その後の処置が正しければ死ぬ筈はないんだ。流石に脳天貫いたり首ぶった斬ったりすりゃ無理だろうがな。
生と死の境界線が何処に存在しているのかと―――試してみたくなっただけだ。
拷問がしたいワケじゃないから何処を切るのかなんて拘ったりはしねえ。
俺の好奇心を満たすのと、見せしめに使えりゃそれでいいんだ。指や耳、鼻なら軽いもんだろ。
「殿………しかし、それは―――」
諌めるような言葉を一瞥することで黙らせる。
「―――そんぐらいで死にゃあしねえよ」
そう言って笑うと絶望的な表情をされた。
どうも分かっちゃくれないようだ―――俺は今、素晴らしく機嫌がいいってのに。
何かから解放されたように清々しい気分だ。大声で笑い出したいぐらい気分が高揚している。
きっと俺はもう何ひとつ迷ったり悩んだりしない。
―――純粋に。
ただ、純粋に。
自らの勝利と夢の頂きを目指して。
馬の首を叩いて走り出す。後ろから何か叫ばれた気がするがそんなもの関係ない。付いてくるも来ないも自由にするがいい。何もなくたって、誰もいなくたって、俺自身には何の変化も生じない。
体の底から冷え込むような風が激しく身を叩く。
“だって殿は―――”
脳裏に何処かで聞いたことあるような声が響いた。
それが誰の言葉だったのか………もう、意識の隅に上ることもない。
思い出せないし思い出そうという気もしない。
ただ静かに、その言葉だけが耳元で繰り返される。
“―――天下人に、なるんですから”
頬を歪め、笑う。
―――なってやるさ、言われるまでもなく。
それはもともと、俺自身の夢。
誰に言われるでもなく、この俺自身が実現しようと望んでいたこと。
多くの屍を踏みつけ自分以外の全てを犠牲にして、全ての者を自らの手駒―――頂きに登るための礎として。
これまで存在した誰よりも、冷静な判断と緻密な戦略を持って。
これから現れる誰よりも、冷酷な裁断と非情な洗礼を用いて。
俺は天下を手に入れる―――かつての願いといまの思いのままに。
たとえ周囲の連中に、鬼と謗られることになろうとも。
人外の者と恐れられることになろうとも。
―――死して尚、
<魔王>、と、呼ばれることになろうとも―――。
これから進むべき道を思い浮かべ、信長は艶やかに微笑んだ。
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