呼び出し音はほんの数回。
既に何度も連絡したことのある番号の相手は思ったよりも早くコールを受けた。目の前のモニターに受信者の顔が映し出される。
『はい、もしもし………まあ、ジョミー? お久しぶりです』
「元気そうだね、フィシス。夜遅くにごめんね」
画面の向こうの友人にジョミーはにっこりと笑いかけた。
ゆたかな金髪と薄い金茶の瞳をしたたおやかな女性は、ほとんど見えていない瞳をこちらへ真っ直ぐに向けて穏やかに微笑み返す。
『気になさらないでください。でも、確かに時刻が時刻ですね、これでわたしが寝ていたらパジャマ姿のわたしと対面ですよ。そうなったらどうするつもりだったのです?』
「そ、………そうだね」
さり気に黒いことを言われてジョミーは返答に窮した。
『今日はどうなさったのですか? 愚痴なら手短にお願いしますね。またブルーにちょっかいかけたのに気付いてもらえませんでしたか? ブルーをデートに誘えませんでしたか? ブルーが―――』
「フィシス………どうしてブルー関連ばっかなのか訊いてもいいかな」
『あなたは、ブルーに関することでしかウチに電話などしてきません』
にこやかに微笑み返されてやっぱり言葉に詰まる。まさしく今日も、ブルーに関して相談したいことがあったから非礼も承知でフィシスに連絡している訳で。
こほん、と軽く咳払いした後にやっとの思いで用件を切り出した。
「実は明日、ブルーと一緒に初日の出を見に………」
『まあ、デートですね? おめでとうざいます』
「うん、その。めでたいことはめでたいんだけど、さ」
正面きって喜ばれると非常に面映い。自分はデートのつもりでいるが相手もそうとは限らないのが残念なところだ。誘ったら一発OKしてくれたけど、たぶん当人としては「大切ないとし子と一緒に初詣」くらいの心境でいるのだろう。
ちなみに来年度の目標は「今年こそ恋人同士になるんだぞ」。
これだけは譲れない決定事項である。
「全然考えてなかったんだけどさ、せっかく新年に会うんだし―――何かプレゼントした方がいいのかなって」
思いついたはいいものの既にこんな時刻だ。悩んでいる時間はない。
彼女なら自分よりもずっとブルーの趣味に精通していそうだからこうして相談してみたのだけれど。
あら、いい考えですね、とてのひらを胸の前であわせたフィシスは『ジョミーからなら、ブルーはどんなものでも喜ぶと思いますよ』と、意味があるようなないようなコメントをしてくれた。
確かに、喜んでくれるとは思う。
そりゃあもう、喩えプレゼントしたのが本だろうと服だろうとお菓子だろうと呪いのわら人形だろうとネクロノミコンだろうと喜んだ上で面白がってくれる確信がある。
でも、出来る限り純粋に喜んでもらいたいのが素直な心境で。
もう少し助言を求めようと問い掛けるより先に、彼女の背後にあるドアがノックとほぼ同時に開かれるのが見えた。
『入るぞ。すまんが姉さんあてに電話が―――』
そこまで告げたところで三人目はむ、と口を噤んだ。まさかお前と話してるとは思わなかったとゆー感じである。こっちだって、まさかお前が入って来るとは思わなかったよと言い返してやりたい。多少は打ち解けてきたものの未だ馴れ合うには程遠い関係である。
『まあ、キース。キャッチが入ったの?』
『………折り返し連絡するよう伝える』
ちらりと視線でこちらの反応を窺う辺り、彼なりに気を遣ってくれてはいるのだろう。
『ジョミー。どうしましょう?』
「あー………よければこのまま少し待ってるけど」
『そうですか? ありがとうございます。それでは、キース』
立ち上がった彼女はそのまま気軽に傍らの弟の肩を叩く。
『わたしが戻るまで、ジョミーの相手をお願いね』
『―――は?』
『少しだけ失礼しますね、ジョミー』
呆気に取られた男ふたりを置いてスタスタとフィシスは言ってしまう。視力が弱くとも身近な物は見えるためか、住み慣れた我が家だからかは知らないが、まったくもって不安のない足取りである。時々ジョミーは「本当にフィシスって視力よわいの?」と首を捻っている。
まあ、それはともかく。
「………」
『………』
この現状をどうにかせねばなるまい。
いつもいつも傍にはブルーやマツカといった第三者が居たから、純粋にふたりだけで話し合った機会というのは驚くほどに少ない。
故に、彼女が帰って来るまで無言で睨み合う覚悟を決めていたのだが。
『―――明日、ブルーと初日の出を見に行くそうだな。もう寝るべき時間ではないのか』
珍しくも向こうから話しかけて来たから少しだけ驚いた。
プラスして、明日の自分とブルーの予定を知っていたことにも驚いた。だが、ブルーと同校の徒ということを考えれば別段おかしくはないのだろう。年末年始はどうしてる? なんて会話ぐらい友人同士ではありふれている。
確認のつもりで情報源を訪ねると予想通りの答えが返された。
『ブルーが嬉しそうに話していた。あと、サムからもな』
「サムからも?」
『貴様、例年はサムやスウェナと一緒にサッカー観戦に出かけていたのだろう? 一緒に行く相手がひとり減ったからとチケットがこっちに回ってきた』
「そうだったんだ………」
『後で何かフォローしておいてやれ。オレが代わりに観戦したところで、サムが本当に一緒に行きたかったのは貴様だろうからな』
学校で正月の予定を伝えた時に謝ったつもりだったのだが、まさか巡り巡ってチケットがキースに流れる羽目になっていようとは。過去の因縁を知る者としては、サムとちゃっかり仲良くなっているらしい事実に微笑ましくなるような心配になるような置いて行かれたような複雑な気分になる。
「わかった。年明けに会ったらあらためてジュースでも奢ることにするよ」
『ジュースとチケット代が等価なのか?』
「うっさいなあ! 気持ちだよ、気持ち!」
いちいち一言多いんだよ! とモニターにデコピン飛ばせば「そうかもしれない」とあっさり頷かれた。妙なところで素直なので時に対応に困る。
再び背後の扉が開いてフィシスが姿を現した。
『ジョミー、お待たせしてごめんなさいね。キースもありがとう』
『別に』
言ったきり、姉に場所を譲ってさっさと弟君は姿を消してしまった。
「よいお年を」等の挨拶もないのはどうかと思えども、初対面時に比べれば雲泥の差の遣り取りだ。なんとはなしに感心した。
「あいつもちゃんと人間なんだなあ………」
『ジョミー。あの子は最初から人間ですよ?』
何気ない呟きにもしっかり御姉様のチェックが入るのだった。
あけて、正月当日。
まだ朝というよりは深夜に近い時間帯。空はどんよりと深く垂れ込めていて、本当に日の出は見れるんだろうかとジョミーは少しだけ心配になった。
待ち合わせ場所に指定された駅前広場は多くのひとで賑わっている。仲睦まじい恋人同士や親子連れの群れ、年始早々の騒ぎっぷりにこの時代の平和を感じずにはいられない。
人波を掻き分けて時計台の下にたどりつくと、既にブルーはそこに居た。
しまった、もっと早く出てくればよかったと息せき切りながら手を振って。
「ブルー!」
「ジョミー」
振り向いたブルーがにっこりと笑う。
遅くなってごめん、と開口一番に詫びれば「時間ピッタリなのに何を謝るんだい」ともう一度微笑まれた。これだけは先に口にしなければと、正面から相手を見つめて照れ笑いを浮かべる。
「あけましておめでとう、ブルー」
「あけましておめでとう、ジョミー。今年もよろしく」
初日の出を見ながら言うべきだったかな、と首を傾げる彼の格好をあらためて見つめる。ぐるぐる眼鏡とぼさぼさの頭はいつも通りなのだが、だぼだぼの白いコートが―――新調されてる気がする。
これかい? と、相手がコートの袖を摘んだ。
「母さんにね、寒いだろうからこっちにしろって言われて。着てみると確かにこっちの方が軽くてあたたかいんだよ。母親は偉大だね」
これも母さんが持たせてくれたんだとポケットから取り出したイヤーウォーマーを着ける。ふわふわの白いうさぎの毛で作られているから完全に同一視することこそなかったけれど、耳を隠した姿はまるで補聴器をつけていた当時の『彼』そのもので、少しばかりの郷愁を抱かせた。
ふ、とブルーが笑みを深くする。
「じゃあ、これも要らないかな」
「え?」
目を瞬かせるジョミーの前であっさりとブルーが眼鏡を外した。
途端、露になった真紅の瞳に周囲の通行人がぎょっとして立ち止まる。最初に伝わる感情は驚愕、畏怖、それからやがて賞賛と陶酔へ。先刻までは誰ひとり注目していなかったはずなのに微かに伝わる囁き声はいつの間にかブルーへの賛辞に切り替わっている。
お人形さんみたいだとか綺麗な子ねだとか、立て板に水の如く移り変わる他者の感情にジョミーは思い切り頬を膨らませた。
目立ちたくないと言ってたのは誰だっけ?
「………外す必要があったんですか?」
「君が喜ぶと思ったんだけど」
くすくすと笑う思い人の右手を掴んで改札へ向かった。これ以上の衆目を集めるのはごめんである。眼鏡をかけていてさえその人柄で密かにモテているというのに、素顔まで露にしていては通りすがりの他人にいきなり愛の告白を受けかねない。
切符を買おうとカバンに伸ばした手を止められる。
「待ってくれ、ジョミー。<メイル>を使う必要はないんだ」
「だって、<メイル>に乗らないとファレトへは―――」
「時計台の下なら待ち合わせがしやすいと思っただけだよ。こっちにおいで。とっておきの抜け道があるんだ」
楽しそうに手を引っ張り返されてジョミーは首を捻った。
この駅前広場を待ち合わせ場所に指定したのはブルーである。<メイル>を使って観光名所である首都まで出かけるのが一般的だったから、場所に関しての疑問はなかった。ただ、日の出に間に合わせるには随分と遅い集合時刻ではあったが。
ブルーは徐々に人気の少ない方へと進んでいく。
角を何度か折れて薄暗い路地裏へ入り込む。幼い子供が迷い込んだなら、あまりの静けさと暗さに泣き出してしまいそうな程の。圧し掛かってくるようなビルの間から狭い空が覗いている。せめて月か星が見えればまだマシだろうに、とジョミーは感じた。
更に幾つか角を折れたところで先導者はぴたりと足を止める。
後ろから覗き込むまでもなく、そこは行き止まりだった。一体ブルーは何をしようとしているのだろうかと握られていた手を強く握り返した。
「ジョミー。君は、瞬間移動はできないんだったっけ?」
「………うん。できなかった」
僅かにジョミーはつらそうに目を伏せた。
自分が瞬間移動を習得してさえいれば、ナスカの惨劇も防げたのではないかといまでも悔やんでいる。
意識してか無意識でかは分からないがブルーはその辺りをさらりと流した。
「大丈夫。できなくても、それで似た能力で補うことはできるよ」
「似た能力………」
「飛ぼうという意志に『方向性』を与える。『力』の流れる道を示す。それだけでも移動は容易くなる」
え、と疑問を露にするより先に。
薄暗かったはずの路地裏がほの青い光で満たされた。
「え………ええ!?」
焦って辺りを見回す。単なるコンクリだったはずの道に描き出されたのは細く薄青い線の数々。何処からか降り注ぐ光に月も星もないだろうにと顔を上げれば、数メートル上空に描かれた10個の円に目が縫い付けられた。
学校で一番初めに教わる内容。
首都と、首都以外の都市と、それらを結ぶ主要幹線道路。人口に比例して大小が変わるサークル。「―――世界地図?」
そうだよ、とブルーは頷いた。
「シャングリラの、僕の部屋に入る時の道筋を覚えているかい? 扉の前まで辿り着いた後に、『転送』する仕掛けが施されていただろう? 瞬間移動そのものは並みのサイオンじゃ行使できないが、ほんの少しの上下動くらいならシャングリラのシステムでも事足りる」
基本的にはすべてサイオンだとしても、と付け足して。
つまり、個々人の能力は低くとも、低い能力を増幅してくれるような、更には増幅した力が暴走しないよう導いてくれるシステムさえあれば、誰でも気軽に他所へ飛べるということなのだろうか。
こちらが言葉にするより先に「ご名答」とブルーがまた笑った。
淡い光に包まれた姿は青の間に居た頃を髣髴とさせる。
「システムを構築したのは僕だ。だから僕が行った場所しか行くことが出来ないし、未だ粗が目立つけれど、君も慣れたら<メイル>じゃなくこちらを使うといいよ。ハーレイやブラウたちも度々使ってるんだ」
「知らなかった………」
「大っぴらに語るような内容でもないからね。―――僕たちはこれを<アストラーペ>と呼んでいる」
す、とブルーが頭上の地図を指し示し、真ん中から上へと人差し指で直線を描く。
「―――<イエッツァー>から<ファレト>へ」
イエッツァーを表す円とファレトを表す円が直線で結ばれる。
途端、身体が浮き上がるような感覚がして。
無重力空間に放り出されたような頼りない浮遊感の後に、両足はしっかと地面を踏みしめた。
は、と息を吐くジョミーを彼が振り向いて。
「ついたよ」
「え………?」
新年早々驚いてばっかりだ、と思いながらあらためて周囲を検分する。
路地裏はすっかり様相を変えており、先刻まではなかったはずの階段の踊り場付近に自分たちは立っていた。どやどやとうるさく音が響く角からひょっこり頭だけ覗かせれば、出迎えてくれたのは一様に初日の出を見ようと山へ登るヒトの群れ。
視線の先には確かに―――ファレトの名所パルディシュモニム山の姿がそびえていた。
「ブ、ルー………これって………!」
「瞬間移動だって言ったろう?」
ジョミーの反応がおかしくてならないのか、口元を抑えてブルーが笑う。
少しだけ明るさを取り戻しつつある空の下で彼はこっそり耳打ちした。
―――これはね、転移装置であると同時に、仲間を見つけるための手段でもあるんだ。他の誰が路地裏に紛れ込もうともミュウでなければあのシステムは反応しない。反応したら、その地区の担当者に自動的に連絡が行く。そうやって僕たちはかつてアタラクシアに潜伏していた時のように仲間を探しているんだ。と。
語られた内容はなかなかに規模が大きいものでジョミーを感服させた。
知らなかった。
ブルーたちがそんなにも努力して仲間を探していたなんて知らなかった。
力になれなかったことを悔やんで俯きそうになると励ますように肩を叩かれる。
「誰にも得手不得手がある。細かな制御を必要とする<アストラーペ>を管理するのは君の役目ではなかった。それだけのことだよ」
「でも」
む、と少しだけ目を眇めて相手を睨みやる。
「体調は? さっきの地図、10都市全域が写ってたじゃないか。そんな広範囲に神経張り巡らせてブルーは大丈夫なの?」
難しい理屈や理論は分からずとも感覚的なところは分かる。
ブルーは「自分の行ったことがある場所」と言った。即ち、青白い地図の中に描かれていた軌跡は全て彼本人が辿った道であり、現在も維持している『回廊』となるのではあるまいか。
少し驚いたように目を見開いたブルーは、次いで、破顔一笑した。
「確かに根幹は僕が創り上げたし、システムの維持のために能力を裂いてもいる。『転移』しようと思ったら動力源は自らのサイオンだし、見知らぬ誰かが使ったならば確認に赴かなければならない。………でも、全部、ハーレイたちと分担してのことだ。幸いにして僕たちの仲間は10都市全域に点在してるし」
「本当?」
「ひとりで何でもやろうだなんて思わないよ。いまは、君がいるしね」
だからあまり心配しないでくれと頭を撫ぜられる。同い年なのに未だ子供扱いされているようで非常に不満だ。今年度の目標に「ブルーから頼りにされる存在になるんだぞ」も付け加えねばなるまい。
行こうと促す手に引きずられるように歩き出す。
薄ぼんやりと辺りが明るくなってきている。黒と、青と、僅かな白で構成された世界だ。すべてが同じ色調を帯びている様は荘厳でもあり、不気味でもあった。
先刻も言ったけれど、と。
何故かやたら用心深く、ブルーは繋いだてのひら越しにサイオンで意志を伝えてきた。
(<アストラーペ>を使う理由はね―――行き先を、管理されたくないからなんだ)
何の色も浮かべていなかった表情をゆるゆると苦笑に切り換えると、ブルーは「ごめんね」、と肉声で伝えた。
「いずれ君にも話すけれど………やっぱり今日はやめておこう。新年だもの」
「別に、今日だって」
「勝手だけど僕の話す気が失せてしまったんだよ。ほら、もう、空が随分と明るい」
嬉しそうに微笑んでブルーは身軽に坂道を上がる。
こうなっては何度問い掛けたところで応えてはくれないだろう。いずれ話すとの彼の言葉を信じて待つべきか、断固抗議していますぐ聞き出すべきか、瞬間的にジョミーは悩んだ。
だが、無理矢理に聞きだそうとしたらブルーが悲しむだろうことが目に見えていたので今はグッと我慢する。
大丈夫。
彼と再会して以降、自分の忍耐力は否が応にも鍛えられている。
坂道は大勢のヒトでごった返していて、これでは日の出を見に来たのかヒトを見に来たのかわかりゃしない。首都のやや外れに位置するパルディシュモニムは然程の標高はないが、海に接する側が断崖絶壁になっていて、そこから臨む景色は絶景だと以前から評判が高かった。
これほどの混雑ではご来光の一部でも拝めれば御の字だろう。イザとなったら隙を見てちょっとばかり宙に浮いてみようかと考えてると、隣でブルーがこっそり「その時はステルスモードも発動だよ」と囁いたから、何だか楽しくなってしまう。
繋いだ手はそのままに小走りに人波を避けて行く。道はいつの間にか石畳から小石の転がる荒れ道へと様相を変えている。砂利を踏みしめ、ところどころに生えている雑草を出来る限り踏まないよう気をつけながら足の回転を速めて。
「ブルー、こっち」
人々の行く方角を見定めて空いていそうな方へと歩を向ける。
ちょっとした急勾配。でも、自分たちなら手を繋ぎながらでもそんなに苦労はない。バランスを崩さないようこっそりサイオンを使うことは、ひょっとしたらブルーの主義に反していたかもしれないけれど。
遠くに見えるであろう日の出を望む人々の頭の上、の更に一段高いところから眼下を一望する。
薄蒼い世界に僅かな明暗を残す建物の影、空を行く船、まだらな模様を残す空。雲海。端の方から白み始めた光は遥か遠方の山々の稜線を微かに照らし始めていた。
流石に此処まで上がってくる人間もそうはいない。本当に断崖の際で見たいならば数メートル下の開けた場所がベストポイントではあったが、人々の隙間から辛うじてご来光を拝むくらいなら一歩ひいた方がマシに決まっている。離れた場所に居た方がよく見える場合だってあるのだ。
ふと、握ったままの手をどうしようかなと思った。目的地に着いたなら外しても問題はないが―――。
(少しぐらい、いいよね)
ちらりと隣の綺麗な横顔を見遣ったが、特に気にした風でもないからそう考えておくことにした。
ざわざわと周囲の人声が大きくなる。
山際の光が強さを増し、中央の一点から徐々に周囲に染み渡るようにして光の筋が描かれていく。
「う、わあ………」
誰も真似することの出来ない、人為的に創り上げることの出来ない、自然の織り成す芸術。
灰色と青に染められていた世界がやわらかな黄金色と僅かな朱色に塗り替えられていく。目を細めて正面を見詰める人々の姿も、同様に照らされて地面に黒い影が焼きつく。
知らず、ブルーのてのひらを強く握り締めていた。
太陽が顔を覗かせる。
山々を照らし、町並みを照らし、何処に何があるのか分からない曖昧だった世界を確かなものへ作り変えていく。ゆっくりと吹き付ける風も気のせいかいまは冷たさよりもあたたかさを、厳しさよりもやわらかさを伝えているようで。
神聖な光景に胸が締め付けられる。
思い出の光景が重なる。
星の海を渡り、たどりついた地球。待ち望んでいたその姿を太陽はありのままに映し出した。容赦なく、正直に、厳然とした事実を携えて。
―――真紅の、『地球』。
ブルーは、あんな姿を求めていたワケじゃなかったのに。
「でも………いまは、元の姿を取り戻している」
静かに、囁かれた。
差し込んできた清浄な日の光を受けてブルーは眩しそうに目を細めている。
「あの姿もまた人類の業だ。君だけの責任じゃない」
「………」
「繰り返さなければいいことだ。あの姿を覚えているのも君だけじゃない。―――そうだろう?」
確かに、そうだった。
すぐに感傷に浸りそうになる己を叱咤した。ブルーの傍では気がゆるむのか弱音が表に出やすい。彼を護ると決めたはずなのに随分と頼りない騎士ではないか。
ポケットに突っ込んだもう片方の手が何かに触れて、呼吸を落ち着ける。
未だ嬉しそうに景色に魅入っているブルーの邪魔はしたくなかったけれど―――いま渡しておかないと永遠に渡せなくなりそうな気がした。
「ブルー」
「なんだい?」
「はい、プレゼント」
握っていた手を解いて、あいたばかりの相手のてのひらに小さな箱をポンと乗せた。
不思議そうにブルーが瞬きを繰り返す。
「お年玉がわりかい? 僕の方が年上なのに」
「いまは違うでしょ。それに、そんな洒落たモンじゃないです。思いついたのが昨日だったから………」
照れ隠しにそっぽを向いても彼がほんわかと幸せそうな笑みを浮かべていることは気配で分かる。あけてもいいかな? と前置きしてからブルーは箱を開けた。
出てきたケースを開いて少しだけ意外そうな顔をする。
「懐中時計………」
「安物だけど」
本当は、他にも色々と考えていた。寒い時期だからマフラーとか手袋とかコートの類がいいのだろうかとか、流行のベストセラー小説とか次回のデートを見越した映画のチケットとか美術館の割引券とか、いっそのことフトコロにかなり厳しいだろうヒカリ物とか。
結局のところフィシスの意見は「あなたがくれるものなら何でも喜びますよ」に集約されていて、明確な助言など微塵も得られなかったが、ヒントはあった。
『ブルーにとっては、あなたと過ごすことの出来る、いまという時間こそが何よりも大切なのですよ』
―――と。
ならば時間を『見』れるようにと時計を買いに走った自分は短絡思考なのかもしれない。
目を開いたまま静止しているブルーに不安が募る。ひょっとして気に入らなかったのか。あるいは、既に同じデザインの時計を持っていたとか―――。
「あ、のさ、ブルー。邪魔になるようだったら無理して受け取らなくても………」
つき返されたら正直、凹むとは思うけど。
けれども、何度目かの瞬きの後で苦笑を零した相手はすぐに否定を返してくれた。
「君からのプレゼントを断るほど僕が非情だと思うのかい?」
非情じゃないけど時に無情だと思ってます、なんてのはこの場で口にすべきセリフではないだろう。
「確かに驚きはしたけど………でも、そうだね。驚いたのは君がくれたものよりも僕自身の抱いた感想かな」
「粒子時計が主流の時代になんで今更アナログ時計、とか?」
「そんなことじゃないよ。ただね、このケースを見た時、サイオンで中身を読み取るのはやめておいたんだけど」
「うん」
「この箱のサイズなら中身は指輪かな、なんて期待してたらしい。図に乗りすぎだね僕は」
「!」
カッ、とジョミーの頬が真っ赤に染まる。
ゆ、ゆゆゆゆ指輪って指輪って指輪ですか! 確かにヒカリ物も考えたけどせいぜいがネックレスとかブレスレットとかペンダントとかその辺りでした!!
貧困! 僕の想像力って貧困!!
―――などと動揺したジョミーが周辺の人々を無意識のサイオンでふっ飛ばさなかったのは、ひとえにさり気なくブルーがシールドを張ってくれていたおかげである。
「ありがとう、ジョミー。嬉しいよ」
掛け値なしの笑みが返される。
君と出会ってからの時間を、これから過ごすための時間を、この時計が刻み続けてくれるのならこれほどに嬉しいことはない。
電池すら内蔵していない精密時計は螺子を回すことで動く。
キリキリとその場で螺子を巻き、動き出した長針と短針を現在時刻に合わせてブルーはこころの底から嬉しそうに微笑んだ。備え付けの銀の鎖をコート下の内ポケットに取り付けて、懐中時計自体も服の内側に仕舞いこむ。
ほとんど全身を現した太陽から視線を逸らしてブルーが含み笑いをする。
「実はね、ジョミー。僕からもプレゼントがあるんだ」
「え! 本当!? ………まさかブルーも時計?」
「残念だけど違う」
互いが互いに時計を贈ったなら面白かったろうにとまた笑う。
「生憎と僕はまったく金銭をかけていないんだ。申し訳ないぐらいだよ」
「ブルーがくれるんなら何でも大切にするよ」
「長い間、大切にできるものでもないだろうなあ」
口元に手を当ててブルーは窺うようにこちらを盗み見る。
なんだろう。
もしかして自分の私物管理体制を問われているのだろうか。言われるまでもなく自分の部屋はごった返していて惨憺たる有り様なのだが。
「ちょっと、目を瞑っていてくれるかな?」
「? いいよ」
言われるままに瞳を閉じる。と、然程間を置かずに。
微かに。
「これからもよろしく、ジョミー」
なにか。
頬に。
やわらかいものが。
「………!!?」
混乱と共に目を見開けば驚くほど近くにブルーの端正な顔があった。まだ目を開けていいとは言ってないよ、と柳眉を顰められてもいまばかりはそんなん気にしちゃいられない。
「ブ、ブルーっ、い、いま、いまなに………っっ!!?」
「なにって―――キスだよ。ほっぺにだけど」
なんの抵抗もなくさらりとブルーはその単語を吐いた。
「実は昨日、フィシスに相談したんだ。ジョミーに何かあげるべきなのかなあって。そうしたら『あなたをあげればいいじゃないですか』って」
「え、えええええ!!?」
フィシス、グッジョブ!!
じゃ、なくて。
ならば、もしかしてもしかしなくても昨晩フィシスが中座した電話の相手は―――。
「―――言われたんだけど流石に君の意見も聞かずにキスなんてしたら嫌われそうな気がしたから、ほっぺたにしておいたんだ」
いやだったらごめんね? とすまなそうに首を傾げられた。
のを、凄まじい速度で首を左右に振って全力で否定する。
や、もう、ブルーからしてくれるならほっぺだろーが額だろーがいっそマウス・トゥ・マウスでも全く問題ナッシング。むしろカム・ヒア。プリーズ・ギブ・ミー。
内心が見えているのか聞こえているのか知ってか知らずか、僅かにブルーは周囲の人目を憚るようにしながら耳元に口を寄せた。
「懐中時計だから、ほっぺたへのお返しだよ」
「………、それって―――!」
さあどうだろう? と彼は微笑むばかり。
プレゼントを受け取った時にブルーが無意識に期待していたらしき物。
真実それが入っていたならば彼は何を返してくれたのか。
頬が熱くなるのを感じながら、もう、見ていられなくて彼のひとの笑顔から無理矢理に視線を正面へと向けた。今日の目的だったはずの初日の出は疾うに姿を現しきっていて、一番の見せ場が終わったことを知る。
手探りで彼の右手を探し当ててゆっくりと指を絡めた。
「………精進します」
「急ぐ必要はないよ。そうだね、10年後ぐらいでいいかな」
「なんでそんな先?」
「10年後なら24歳だよ? いい頃合じゃないか」
1年毎の時は懐中時計が刻んでくれる。
だからその間にゆっくり選べばいい。傍にいるべきか離れるべきか、贈るべきか贈らざるべきか、来た道と行く道と更にその先の未来のことを。
君の行く道を制限したくはないんだよ。君は君の行きたい道へ進めばいい。
「僕が護るから」
再会した時と同じ強さでブルーが告げる。
結局、まだまだ自分はこのひとに叶わないのだと若干の諦観とそれ以上のいとしさを感じながら、堪えきれずにジョミーもはにかんだような笑みを零す。
「―――それは、こっちのセリフです」
「期待してるよ」
「まずは、いまから10年分。きっちり計ってお贈りします」
宣言を受けたブルーは、「こう見えても僕は欲深だからね?」と口元に手を当ててからかうような笑みを頬に刻んだ。
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