※何故か急に『戦国BASARA』で真田主従。

※アニメはザッピング、ゲーム未プレイ、公式ぱら読み、サーチだけ熱心。

※色々とサイト様を巡った結果として佐助は低賃金で働くおちゃらか根暗忍らしいと認識。

※色々とサイト様を巡った結果として旦那はお館さぶああ! と団子のひとらしいと認識。

※それだけの知識で創作ってぶっちゃけ二次創作どころか三次(ry

※予想外にも後半でやや血飛沫バンザイな展開に。苦手な方はご注意願います。

 

 

 

 

 足もとの草を踏みしめて歩く。雪解け水で幾分薄まりながらも踏みにじられた草から僅かな青臭い匂いが立ち昇り、身体に纏いつく気がして苦虫を噛み潰したような表情になる。気にするほどでもないはずのそれが、日常生活を送る中では大した影響もないはずのそれが、妙に神経に触るのはなにゆえか。事はこれに限らず、喩え焚き清められた香であれ流された汗の匂いであれ芳しい花であれ、やはり厭う己が少々不思議でもあるのだが。
 草を選り分ける手にも当然のように匂いは移る。
(後で洗っておこう)
 考えながら摘みたての葉を背負った籠へと投げ入れる。ふ、と一息ついて空を見上げ、梢から差し込む光に日が翳ってきたことを知る。そろそろ戻らねばなるまいと踵を返し、踏み出した足の先、赤く熟れた木の実があるのを自覚ないままに避けた。
 茂みをかきわけ、木々の小枝を軽々と飛び越える身のこなしは只者とも思われない。しかして「只者」でない己が「何者」であるかについて確たる答えがない現状。流石にこのような動きができることを村人たちの前で露にすることはできまい。
 山奥より麓まで一気に駆け下り、村に至る道が見えたところで速度を緩めた。鍬や鋤を携えた男連中がのんびりと帰途に着いている。わざと離れた後方に降り立ち、非常に苦労して山から帰ってきたような顔をして列へと加わった。後ろから穏やかに「おつかれさん」と呼びかければ気のいい返事が返される。
「おお、名無し! お前さんも今帰りかい?」
「まあね。今回はなかなかいい草が手に入ったよ」
 期待しててよ、と応えながら彼は人好きのする笑みを浮かべた。




 村はずれにある崩れかけた廃屋が自らの仮住まいだ。いや、最近では実の住まいとなりつつあるのかもしれない。戸の建て付けは悪く屋根は傾いでいる。春は未だ少し先と思われる時期に其処彼処から隙間風が吹き込む環境はお世辞にも「よい」とは言えない。まあ住めれば問題ないさと、名無しは裏手の縁側に回り摘んできた草を選り分ける。伸びてきた前髪が邪魔だと右手で撫で上げる。日の光に透けた前髪は僅かな赤を含んでいた。此処に来て随分と経ったが、このまま染め続けていればいつかは髪の色も真実黒くなるのだろうかと考えて、いや、そうはなるまいと自嘲した。
 名無しは自らの名を覚えていない。ゆえに『名無し』である。
 村人の話によると名無しは半年ほど前の秋口に、村と山の境目辺りに血塗れで倒れていたらしい。もはや命はなかろうと、されども道端に死骸を放棄しておくのも後味が悪かろうと、恐る恐る手を伸ばした彼らの前で肉塊と思しき『モノ』は僅かな息を吐いた。慌てて手近な家に運び込んでくれたみなのお人好しに感謝すべきか、偶々通りかかった旅医者の薬が効いたことを喜ぶべきか、いずれにせよ全身に深い傷を負っていた男はかろうじて命を取り留めた。
 全身を検めて初めて村人たちは男の髪が珍しい赤銅色を湛えていることに気が付いた。果たしてどのような目に遭ったのか衣はぼろぼろ、手持ちの荷物もなく、更には目を覚ました時に男は村人の質問になにひとつ答えることができなかった。日常生活を営むのに支障はない。だが、名を覚えていない。出身地を覚えていない。何をしていたのかを覚えていない。医者の見立てによれば傷はすべて刀傷、さては近隣を荒らし回る野盗の類に身包み剥がされたかと同情を得るのは容易く、一方で無駄な食い扶持を養ってやれるほどの余裕もなく、思わぬ拾い物に頭を悩ませる村人衆の悩みを余所に、男は手近な草を使って遠目にも明らかな赤毛を黒に染め変えた。
 その気はない。記憶もない。けれども薬草を選り分けてみれば誤ることなく、傷薬や塗り薬の処方さえも知っている。何を覚えていなくとも身体が勝手に動くのだ。これは珍しい、さては旅の薬師であったかと、常より医者の不足に嘆いていた村人たちは僥倖と喜んだ。以来、記憶が戻るまではとの猶予を貰い、名無しは村はずれの家屋を与えられ、必要最低限の食料を恵んでもらえるようになった。代わりに男は薬草を集め、薬を作り、村人たちの治療に当たる。一方的に養われるよりもその方が気楽であった。無償の好意ほど恐ろしいものはないことを何故だか己は知っている気がしたのだ。
 季節は秋を過ぎ、冬を終え、春を迎えつつある。いつまで燻っている心算なのかと自問自答すれども、「もう間もなくだ」と根拠のない自信の如きものが根付いている。今までも身体に意志を従えさせれば上手くことが運んだ。ならば自分は「かつての自分」が身体に命じた記憶を頼りに今少し泳げばよいのだと無意識にも理解しているから然程焦ることもない。
 ただ、時折り。
 記憶の片隅に浮かぶ某かの面影が胸に痛いばかりで。
 選り分け終えた草を更に細かく籠に分け、奥へと運び込む。僅かな食料と薬草と薄っぺらな布団。差し込む日の光から逃れるように隅へ寄り壁に背を預けて目を閉じる。静寂と冷たさが心地よい。かつての己が何をしていたのか記憶は定かでなくとも、漆黒の衣、傷の深さの割りに生き延びる生き意地の悪さ、身体中に残る古傷の数々、僅かに歪んだ手足の骨、薬草の知識―――いずれひとつを取ってみてもまともな人生など送っていなかったことは明白だ。少なくともただの農民であったなら斯様な武器など持ちはすまいよと、検分の前に怪我をしつつも石の下に隠し置き、村人に隠れて取り戻した苦無を握り締めて苦く笑う。幾度も幾度も研ぎ澄まし、薬を塗りこめた武器の切っ先は鈍く黒光りしている。闇の中にますます忍び込むかの如き光。
 嗚呼、今夜も。
 今夜も、あの男は現れるだろうか。
 そう思いながら息を潜めて眠りにまどろむ。やがて意識は埋没し………。

 ―――旗の後ろに広がる空の色は薄い。青とも白ともつかぬ色合いはひどく寒々しく、舞い上がる土埃に目を細め、口元に布を当てた。
 視線の先にはひとりの若武者が立っている。背を向けているために顔は望めぬ。されども確かに『自分』は『彼』を知っていた。赤揃えの衣装に身を包み、両の手を前に槍を携えている。傍から見ても明らかなほどに闘志が漲っており、それに自分は安堵を覚えると共に一抹の不安を抱き、何があろうともこの方だけは守り抜かなければならぬとの意志を固めているのだ。
『もう間も無くだな、―――!』
『そうだね、―――』
 互いの名を呼んでいるのだろうが、いつも、いつでも、聞こえない。背を向けた人物の声は覚えていないはずなのに随分と懐かしい音色だ。
 常ならば茶化す、ふざける、注意でも叱咤激励でもいい、何がしかの言葉を自分は発する。だが何故かこの時ばかりは喉に物が詰まったようになり、相手の背にじっと視線を注いでいた。流石にこちらの態度がおかしいと思うてか、彼が振り返る。
 眼差しは―――わからない。
 表情も―――覚えていない。
 霞がかかったように何も見て取れぬ。嗚呼、もどかしい。
『どうした、―――。気に掛かることでもあるのか』
『そうじゃない。そうじゃないんだけど―――』
 ただ、伝えておきたいことがあるのだと。
 今となっては内容すらも明らかではないくせにかつての己は口を開こうとする。
 しかし、それを遮るように銅鑼が鳴り、戦の始まりを告げる。
 嗚呼そうだ、ここは戦場だ! 己が身に付けた戦装束―――携えた武器―――内に眠る気概―――微妙な興奮と不安―――の、すべてが間も無くの開戦を告げている。愚かにも何を呆けていたのだ、何を忘れていたのだ、ここは陣中、幕内、多くの旗指物がところ狭しと並ぶ場所。軍の先陣きって駆け出す彼を誰が止められるものか。
 誰にも見られぬよう踵を返し、空を見上げて僅かに苦笑。後ろから声のみが追い縋る。
『そのような態度を取るとは珍しいな。気になるぞ、―――。答えよ』
『なーんでもない。なんでもないよ。それより、―――こそあんまり無茶はしないでよね』
 話を逸らしながらも笑う、笑う、笑う。
 ………笑う。

 おそらくは、今度ばかりは助けに行ってやれぬからと。
 内心の密やかなる想いは告げぬままに。

「―――っ!」
 と、突かれたように目を開ける。
 周囲は静寂、薄暗闇、薫る草の匂い。手にした鉄製の武器の重さ。
 一気に現実に立ち返り、今し方まで見ていたものはただの夢に過ぎないことを思い出す。此処へ来てからのち、意識を取り戻してより、繰り返し繰り返し、毎日のように訪れる夢。周囲の状況や相手の衣装から彼の場所が戦場であると察しはつけど、旗印も家紋も記憶になく、耳に残るは声ばかりとなれば身元を探し出す手立てにもならぬ。ただ、こうして握り締めた武器ばかりを頼もしく感じるがゆえに、己もまた敵と斬り結ぶ身であったのだろうと思うばかりだ。さりとて武士であるとは思われず、下々の身分であったにしては大将格の人物とほぼ対等の口を利いていたがために疑問が募る。
 何ひとつ思い出せないもどかしさ。
「本当に………誰なんだろうねえ………」
 ぽつり、とひとりの室内に呟きひとつ。
 襲い来る静けさが身に沁みて、名無しはまた、目を閉じた。




 夜は独りで村の周囲を巡る。怪我がある程度まで直り、自力で動けるようになってからはずっとだ。特に好むは新月の夜。何も見えない真の闇はひどく好ましい。
 夜の内に何をするかと問われれば「鍛錬だ」となるのであろう。武器を研ぎ、記憶の片隅を探って何か印らしきものが結べぬかと試行錯誤し、動きが鈍らぬようにと山々を駆ける。前よりも走る速度が劣ってはならぬ、武器の命中率が下がってはならぬ、他者の気配を読むことに鈍くなってはならぬ。無意識の内に比較している「以前」の己が実力の程度も定かではないというのに、妙な焦燥のままに名無しは夜の山を駆ける。
 そして、時には修行の傍らに。
「ぐあっ!」
 どさり、と。
 鈍い音を立てて顔も知らぬ男が場に転がった。
 名無しが苦無で仕留めたのだ。無闇矢鱈と襲っている訳ではない。村を襲撃する作戦を立てていた者、夜盗と思われる者、いずこかの間者と感じられた者のみに狙いを定めている。密偵であると思しき者に対しては敢えて見過ごすこともあった。その折りには名無しは身を潜め、決して姿を見せようとはしなかった。自分でも何を案じているのか不思議ではあったが、たぶんに己の無意識が為すことに誤りはない。捉えようによっては村の警備にも等しい夜の巡回は己なりの恩返しであるのやもしれぬ。
 だが、それ以上に夜な夜な出歩く理由は。
「………またか」
 村の外れ、幾分山に入り込んだ処にて。
 己以外の、何者かに殺された遺体がひとつ。
 普段ならば自分が気付く前にすべては片付いており、ただ誰かが「殺された」気配を感じるのみだったが、時に己の行動が早かった場合には遺体が放置されていることもあった。と、なれば後始末をするのは自分になる訳で、結構な手間のかかる作業に気付かぬフリをしていればよかったかと聊か不謹慎なことを考える。
 見ず知らずの人間がいつの間にやら殺されている事実に恐れや怒りを抱くことはない。何故ならば、殺されていた者たちはいずれも盗賊であったり落ち武者であったり、先に殺されていなければ己が殺していたであろう者ばかりであったからだ。
 最初は疑っていたが今では確信している。この村に、誰にも気付かれぬ「誰か」が潜んでいることを。
 その誰かはおそらく名無しと同時期に村に訪れ、けれども、名無しのように村人に保護されることはなかったのだろう。傷が軽かっただけなのか、上手く隠れていたために見つからなかったのかまでは不明だが、躊躇の欠片もないとどめの刺し方を見るにつけ、もしも其奴が保護されていたならば今頃村は存在していなかったろうと思うのだ。傷からは、己を見た人間の存在を許さぬような、深く、暗い気質が感じ取れた。
 彼とも彼女ともつかぬ何者かが未だ村に手出しもせず立ち去りもせず留まり続けているのは、畢竟、名無しの扱いを判じかねているからであろう。自身と同時期に保護されたからには無関係とも思われぬ。さりとて関係があるとも断じかねる。訳もなく名無しは「向こうもまた記憶を失っているのだ」と妙な確信を抱き、ゆえにこそ「無関係ではあるまい」と察し、相手も同じ結論に至ったであろうことを察した。仲間も仕えるべき主も居ないのか報告に赴いた隙に名無しが行方を晦ますことを恐れているのか、折りしも季節が冬へと向かっていたことも影響したのだろう、動く気配もない。
 向こうはこちらの姿を見知っているが、こちらは向こうの姿を時に捉える影でしか知らない。不利な立場に置かれていると感じながらも微妙な平衡感覚を保ちながら半年近くが過ぎてしまった。これからどうするか。どうでるか。何かひとつきっかけがあればすぐにでも事は動き出すだろうに、そのきっかけこそがやって来ない。
「難儀だね」
 少しだけぼやいた後に、名無しは眼前の死体を処分すべく手を伸ばした。




 昼日中は静かに過ごし、薬草を求めて山に入り時に鍛錬し、余所者が居れば身を潜めて更に過ごすことしばらく。日の光にも春の気配を感じ取れるようになり、村の外れで見かける梅の花に思わず目を細める。かそけき香りに好感は抱けども傍に寄りたいとは思わない。相変わらず名無しは自らに匂いや香りが移ることを嫌っていた。
 頼まれて呼ばれた先の家屋で村人の手当てをする。商売に行った帰りに足を挫いたという。無茶をするものだと苦笑を浮かべながら名無しは壮年の男の右足首に布を巻いた。
「はい。添え木を当てて軟膏も塗っておいたよ。でも今日だけはお湯であっためたりしないよう気をつけてね」
「寒いのになあ。ほんのちょっとだけでも駄目なのかい」
「患部を濡らさなければ別にいいよ。まあ、かなり苦しい体勢になると思うけどね」
 足を上げながらの湯浴みはさぞかし苦労するだろうねえと気楽に笑えば相手もまた笑った。暢気な亭主の態度に呆れたように、白湯を手にした女房が奥からひょっこりと顔を覗かせる。
「やれやれ、このひとと来たら本当に………帰り道で夜盗にでも襲われたらどうするってんだい」
「ミチさんの言う通りだよ。しばらくは安静にしておいた方がいい」
 尤も、自分がいる限り夜盗なんぞにこの村の敷居は跨がせないのだが―――との思いはさておいて。名無しとしてはできれば彼の土産話も聞いてみたい。山向こうへ布を売りに行く度に傷をこさえては戻ってくる亭主が、いつも傷の手当てをしてもらっている御礼をしたいと言い出して、さりとて余分な金や物もなしと悩み、ならば噂話の類でも聞かせて欲しいと願ったのはいつだったか。男が仕入れてくるのは根拠のない噂ばかりだ。されども幾許かの真実は含まれているのだろうと考え、あるいは願い、名無しは彼の言葉に耳を傾ける。
 女房が淹れてくれた白湯を片手に男は話す。大店の主の失敗談、片目の鬼、子供の悪戯、六本爪の竜、呪われた姫君、恋を語るかぶき者、嘘とも真実ともつかぬ話をぽつぽつと。合間合間に彼が語る町の様子は事細かく、目を閉じれば情景まで目の前に浮かんでくるかのようだった。あるいは名無しも実際に同じ道を歩いたことがあるのかも知れぬが―――確かめようのない戯れ混じりの思考だ。
 男の足取りに沿った話も終わりに差し掛かり、とうとう女房への土産物を買う買わないの段となる。
「何か買おうとは思ったんだがどうも値が張るものばっかりでなあ。稼ぎを全部潰してまで買っちまったんじゃ元の木阿弥じゃねえかと」
「なに言ってんだい。最初から買ってくる気なんかなかったくせに。そのくせあんたは峠の茶屋で美味い飯でも食ってきたんだろ? やんなっちまうよ」
「おいおい、拗ねるなって」
 夫婦の喧嘩など日常茶飯事だ。密かに甘味が好きでつまみ食いばかりしてしまうらしい夫と、それに呆れながらも受け入れている妻の遣り取りは軽妙で実に面白い。途中の茶屋で舌鼓を打ったのがばれているなら最早隠す意味もあるまいと開き直った男は店の様子を語り始める。本店は男の赴いた町より更にふたつ、みっつの山を越えたところにあるのだが、暖簾わけをした次男が越してきたのだと言う。本店は頑固一徹の親父が取り仕切り、いずれは長男が跡を継ぐことになっている、自分の腕は父親には及ばぬがいずれは追い抜いてみせようと語る若い店主の意気込みは実によいものだったそうな。
「できれば本店にも顔出してみてえよなあ。店の名前は笹屋っつーんだがよ」
「へえ、そうなんだ」
 名無しもまたのんびりと手元の湯飲みを揺らす。白湯はもうほとんど残っていない。湯飲みの中で揺れる水の面を見詰め、やはり何の気もなしに言葉が滑り出す。
「きっと本店はもっと美味しいよ。笹屋って言えば団子で有名だもの」
「………そうなのか?」
 ふ、と言葉に乗った疑問の色合いに、遅ればせながら名無しも我に返る。今の発言はなんだろう。笹屋と呼ばれる店が有名であることも、売っている品が団子であることも、旅の話としては上がらなかったものを。何故だか夫婦と視線を合わせる気になれず、心なしか急いた様子で白湯を飲み干すと湯飲みを手近な床の上へと置いた。
 動揺は笑みの裏に隠してにっこりと微笑む。
「さて、と。俺はこれで失礼するね。実はもう一軒よらないといけないとこがあるんだ」
「そうか。引き止めて悪かったなあ」
「どういたしまして。ミチさんもご馳走様でした」
 またいらしてくださいなと笑う女房に気にした陰は見られない。本当にお人好しが多い村だと呆れると共に微妙な疼きを覚える。草鞋を履き直す名無しを余所に夫婦はまたしても噂話に戻っている。
「そういや、ミチ。風の噂だが、この村になんだか有名な武士様がいらっしゃるそうだぞ」
「なんでまたこんな辺鄙なところに来るんだい。まだ雪も積もってるし、戦や徴収には早いだろ」
「おえらいさんの考えなどわかりゃしめえよ。けどなあ、なんか慌てた感じで布令が出てたんでなあ。うちに来るなら明日か明後日には………」
 話を聞くともなしに聞きながら名無しは立ち上がり、草鞋の結び目を確認するとあらためて「お暇します」と軽く礼をした。




 ―――その日の夜は、ひどく寝苦しかった。
 暑い訳ではない。寒い訳でもない。妙に神経がささくれ立ち、神経が張り詰め、今ならば遠くに落とされた針の音でさえも聞き分けられるのではないかと思うほど過敏になっていた。けれども鼓動は逸らず、血は冷たく、呼吸は平常を刻む。この反応は「一般人」としてはおかしいと名無しは自覚していた。ならばやはり己は「只人」ではなく、「人」以下の―――。
「………」
 家から這い出て木々の合間を音も無く渡る。
 静かな夜だ。
 物音ひとつしない。
 不意に、視線を転じた先に。
「―――」
 同じように木々の合間を疾走する影を見つけた。
 これまでにも何回か見かけたことのある『誰か』。同時期に村に現れ、記憶もなく、互いの出方を窺いながら半年近くの時が流れた。月光の下を飛ぶは草としては愚策。けれども今宵ばかりは互いに禁を破って漆黒の夜を有りのままに疾駆している。
 頭が痛い。耳鳴りがする。冷や汗が流れる。
 常人と比較すれば些細な変化に過ぎずとも、もとより「只人」と呼ぶには憚られる己にしてみれば随分と大層な変化であった。
 村一番の大きな木に身を寄せたところで動きを止め、遠ざかり行く今ひとつの影を見詰める。
 なるほど、もう間もなくらしい、と。
 またしても無意識の内に名無しはすべてを察し、手元の苦無を今一度握り締めた。




 どれほどに迷っていようとも願っていようとも時は流れて陽は昇る。
 然程の睡眠もとらぬままに名無しは朝日を出迎えていた。確かな予感を胸に抱き、まとめる程でもない荷物を取りまとめ、煎じ終えた薬草は村人の取り分として遺し、村長は文字を読めただろうかと案じつつも使い方を記した書を添えておく。服装を正し、髪の色が未だ漆黒であることを陽の光に透かして確認し、密かに鍛え上げてきた武器の数々が袂や懐に潜んでいることを意識する。
 ―――あの、苦無は。
 僅かばかりの危険を承知で、己が腹部の近くへと。
 傍目には随分と身軽な格好で、必要最低限の物が詰まった小さな風呂敷だけを抱えてのんびりと村の中央へと歩を向ける。冴え渡る耳は既に遠くから響く馬の嘶きと足音を聞きつけていた。
 道端には野良仕事に出かける前の一服とばかりに見慣れた面々が屯している。こちらを見つけた何人かが陽気に手を振って、されどもその表情はすぐに反対側の―――山へと続く道から聞こえてきた音により驚愕の色へと塗り替えられる。
 鋤や鍬を手に佇む者たちの背後へ歩を進めつつも見据えるは来たるべき人物ばかりだ。馬の嘶きも明らかに、何事かと異変を察した周囲の者どもや家内で他の仕事に精を出していた女子供までもがひょっこりと顔を覗かせる。
 遠くより来たりしは馬と、その背に乗る見事な佇まいの若武者。
 紅の布を額に巻き、紅が基調の衣を身に纏い、髪を首元でひとくくりに結わえている。ひどく真っ直ぐな視線のもと胸に下げた六文銭が涼やかな音を響かせた。足元は融けかけた雪と土の泥まじり、旗印はなく、衣服に紋所もなく、携えた武器が二振りの槍という異形を感ずれども、某かの名の知れた武将であろうことは誰の目にも明らかであった。
 故意ではなく、悪意もなく。
 命令することを知る人間の目が辺りを睥睨した。
「某の名は真田源ニ郎幸村! この村に我が一の部下が保護されていると聞き、参上した次第! 誰ぞ我が部下を存じ上げぬか!」
 朗々とした語り、揺るがぬ瞳。
 この若者は誰の名を語ったか。真田とは山ふたつほど超えたところの大名士、武田の部下として先駆け・殿を務めるほどの信を得ていると方々に伝え語られたるのが虎の若子。紅蓮にも喩えらるる若者の衣装は赤揃えに己が武器としてニ槍を使いこなすと専らの噂。
 眼前の若者は少なくとも噂通りの形を成しており、ならばなにゆえに訪れたるか、一の部下とは誰のことか、もとよりこの村に住まうは武士でも忍でも一揆衆でもなく野を耕すことが生業の農民ばかり。
 誰かを捜すように周囲を見渡していた若者の目がひたりと一箇所で止まり。
 同時、村人たちの意識と視線もぽつねんと佇むただひとりだけに向けられ。
 何も語らず、何も答えぬまま名無しは一歩前に踏み出すと泥まじりの地面に膝をつき頭を垂れた。伝うることはただひとつ。信じ込むに足る、一言を。
「これに」
「うむ」
 若武者は満足げに頷くと、早く面を上げろと急きたてた。
 人好きのする快活な笑みを浮かべて、告げる。

「よくぞ無事であったな、佐助! それでこそお主よ!」

 ―――佐助。
 嗚呼、それが己が名であったかと。
 零れ始めた記憶に促されるように名無し―――佐助、は、伏せた面の下で密やかな笑みを刻んだ。




 村を出てしばらくは道なりに進む。
 迎えに来た者は馬上に、迎えに来られた者は地上に。
 ただ黙って共に道を歩む。
 名無しは息さえも堪えるようにしながらじっと先を行く人物を見詰めていた。身に纏う赤が印象的な彼に「佐助」と呼ばれはしたが、未だそれが己の名であるとは思われない。只管に違和感が募る理由を不思議な感慨と共に理解しつつある。確かに、その姿形に懐かしい心持ちがしない訳でもない。相手が自分を部下と呼ばわった、ならば相手は自分の上司か雇い主であるのだろう。関係性に対する疑問は然程存在しないものの某かの齟齬が常に付き纏う。
 胸中に蠢く予感にとうとう名無しは歩を止めた。向こうもまた馬の歩みを止める。周囲はだだっ広い平原。人影はなく、人家もなく、出てきた村からは大分離れ、次の村までは今少しの距離がある。抱えていた手荷物を地に下ろして足で脇へと退けた。両腕はだらりと垂らしたままではあるが油断する心算は毛頭ない。
「………ここまで来れば、もういいんじゃない?」
「―――」
「何を恐れてンのか知らないけどさ。村人の目は誤魔化せた訳だし、遠慮することないじゃん」
 問い掛けには答えぬままに、黙って若者は馬から降りた。手に携えた槍の柄で馬の尻を叩けば嘶きと共に獣は走り去る。よく訓練された馬であったから、あのまま駆けていてもいずれは飼い主のもとへ戻るだろう。してみると彼はわざわざ馬を何処かで調達して来たということか。ご苦労なことだ。
「何が、目的?」
 ゆっくりと距離を測りながら、足先を地に叩き付けて具合を確かめる。裸足でも走れぬことはない、が、この幾らかの防御ですらも斬られた折りの明暗を分ける。『あの時』の自分はどうであったか。手も、胸も、足も、手甲や鎖かたびらや脚半で幾重にも防護していたはずだ。
 徐々に甦ってくる戦の記憶、知識、想い。低く、薄く、戦意を高揚させる思い出の中の「匂い」に引き摺られたかの如く、先刻から湧き上がってくる彼へと向けた感情が何であるかを漸く認識して名無しは笑った。嗚呼、これは。

 嫌悪と怒り、―――だ。

 直後。
「!!」
 飛来した手裏剣を隠し持った小刀で弾き飛ばした。最初から「武士」らしくない得物を使うとは、最早隠し立てる気もないらしい。
 ならば、と名無しが一歩踏み出せば相手は槍で振り払う。刀と槍では間合いが違い過ぎる。踏み込めば己が有利、距離が開いたならば己が不利。本調子の自分ならばこの程度の距離など無きに等しいはずだと歯痒く思い、印を結ぼうにも未だ曖昧な知識ゆえに扱うこともできぬ。ましてや、こんなにも苛立ちと嫌悪を抱いている状態では甚大な集中力を必要とする術など制御できぬ。無理をすれば己までもが巻き込まれる。冗談ではない。冗談ではないのだ、こんなくだらない者を相手に。
 キンッッ!!
 甲高い音を立てて名無しの放った苦無が弾き飛ばされる。腹に隠したものではない。他の、小競り合い用の苦無だ。
 迫り来る長い槍の柄を交わしつつ相手の隙を窺う。「本来」の武器ではないにも関わらず腕前はかなりのもの。攻撃を避け様に地面に両手をつき、両の爪先から隠し武器を覗かせた。腕よりは脚の威力が勝る。勢いよく振り切った足先の刃を掠め、長物の柄に皹が入る。伊達に何度も同じ箇所に衝撃を与えてきた訳ではない。後は相手が振り回しているだけで勝手に自重で折れる。あの武器は、違う。『彼』が持つ真の武器とは違う。だから容易く折れる。ニセモノだ。
「いい加減っ………!」
 折れかけた槍を捨て、一本のみでこちらの動きを捉えようとする敵に舌打ちする。心中に沸きあがる嫌悪感は最早堪え難いほどだ。やめろ。やめろ。やめろ。何を騙る心算だ、騙せると思っていたのか、騙せずとも村から連れ出せば充分と考えていたのか、喩えそうであるとしても撒き餌としてその「姿」を成したことは既に罪だ。

「―――変化の術を解け! 根腐れが!!」

 瞬間。
 本当に瞬間のみ。
 相手は未だ幼い表情を微妙な驚きに染め、「驚愕」という感情は「演じている者」にしか在り得ないものと気付いたか否か、すぐに色を消す。炎を印象付ける衣装と裏腹の冷めた黒瞳。らしくもない苛立ちと共に名無しは吐き捨てた。

「俺があのひとを見間違えるとでも思ったか!!」

 舐めてんじゃねえ!!
『忍』とも思えぬ激昂、苛立ち、怒りも露に、力任せに残る一本の槍を蹴り砕いた。
 地に転がる槍から手を離し、相手が宙で翻る。一瞬のちには赤い衣の代わりに漆黒の衣が姿を現す。言わずと知れた忍装束。やはり幻術を用いていたかと冷笑。相手はこちらと違い全身を防具で包み、顔まで覆っているがために面さえも窺えない。それが普通、それが本来、正しき忍の在り様である。
 苦無片手に踏み込めば同じ苦無で受け止められる。残戟も激しく斬り結べば僅かずつ零れてくるのは無くしたはずの記憶の数々だ。
 覚えている。こいつを覚えている。同じ里で育ち同じ術を習い同じ釜の飯を食った仲だ。成長すれば雇い先も変わる、自身で主を選ぶ変わり者も出てくる、どれほどに親しくとも仲睦まじくとも敵となったならば躊躇することなく殺しあうのが己らだ。恨みも憎しみも何もあるものか。
 キィンッ!!
 忍び刀で右手の苦無を弾き飛ばされ一歩下がる。追い縋る相手を誘うように、こちらが嵌められているやも知れぬと思いながら足先の隠し武器で敵の顔付近を蹴り上げる。掠りすらしなかったそれに舌打ちすることもない。もとよりこの程度で仕留められると考えてはおらぬ。
 今は己が上か相手が上か、別れてより再会するまでの時が開けば互いの実力をはかることすらも危うくなる。忍は影に潜む存在であるがゆえ尚更に。己の場合は、直属の上司が戦場で忍の名前を連呼するという規格外のことをしてくれたお蔭で無駄に有名になってしまったが、最近では己が死せし後も影武者を立て易いからと受け入れている。この考えを主に伝えたならば物凄い勢いで反論される予感があったため、未だ同じ武田に属する忍隊にしか話したことはない。
 両手を眼前で交錯させて鋼の糸を引き出す。まだだ。まだ、最後の一撃を食らわすには早い。足裏の隠し武器は相手の一撃で砕かれた。斬りかかってきた刀を糸で絡め、引き止める。刹那に近付いた敵の表情、口元が僅かに動くのを見て取って即座に身を引いた。忍の最大、最後の武器は即ち己が血と肉だ。吐き出された毒霧が直前まで居た一帯を腐らせる。が、そこまで強くない。遠く逃げ去らねばならぬほどのものではない。
 武田。武田、だ。自らが契約した主家の名を漸う脳裏に閃かせ戦闘中であるにも関わらず安堵した。一方の敵が仕えた先は知らぬが、いずれにせよ『あの日』の戦場に主の敵として現れ、その実力が己と近しいことを察したために己はひどく案じたのだ。忍隊は他の任についているがゆえに数で勝負することはできず、もとより数で挑んだところで無駄な犠牲を増やすだけであろう。相打ちならばよい。相打ちならば。されど、もし万が一にでも、己が仕損じたならば何とする。この男は冷静に、冷徹に、『あのひと』の―――真田源ニ郎幸村の首を獲りに行く。
 許せるものか。
 何者であっても許せるものか。
 だから『あの日』、仕留め切れぬと判じた己は最後の最後で術をかけたのだ。
 自らの記憶と、相手の記憶を、等しく封じる術を。
 果たして術は今日まで利き続け、男は記憶がないままに名無しの動向を気にし、他を訪れることもなく奇妙な連帯感を持った半年を過ごすに至った―――。
 記憶を取り戻すきっかけは先だっての噂話か。ならば先に真田幸村の首を獲りに行けばよかったものを、名無しを残して行かなかったのは半年前にとどめを刺し損ねた己が矜持を取り戻すためか、他の某かに依るものか。いずれにせよ己らは忍らしくもなく何かに執着ばかりしているようだと低い自嘲。
 ぬかるんだ地面に足をとられた、と見せかけての誘い。分かってか分からずか、相手は深く踏み込み刃を閃かせる。
 胸部に激痛を覚えた。
 血を吐きそうになるのを堪え、唇を引き結び腹部に隠し持っていた黒い苦無を引き抜いた。相手の脇腹、服と服の継ぎ目に突き立てる。己が手首までもが血の色に染まった。
 ど、と揃って地面に倒れこむ。叩きつけられた拍子に刃がめり込んで名無しは今度こそ血を吐いた。伸ばした左腕で敵の身体を絡め取り、離してなるものかとしがみ付き、右腕に力を篭めて傷を抉る。こちらの傷は致命傷ではない。相手の傷も致命傷ではない。だが。
 ごふり。と、相手が明らかな黒い血を吐いた。至近距離で睨み合った眼差しが確かな動揺に染まるのを見て笑う。
「はっ………忘れ、たのか、よ………互いの血が毒であれ………」
 半年前、自分は彼に倒された。
 だが、死ぬこともなかった。幾ら村人に介抱されたとは言え、医者が居たとは言え、忍の毒を解毒できる訳もない。助かった理由はただひとつ。
「俺の毒の方が―――強い………!!」
 更には半年の間に前回の毒への耐性までをも身に付けた。彼とて策は施していただろう、新たな毒を作り出してはいただろう。
 だが、喩えそうであっても。
 元々名無しの毒の方が強いのであれば、同じ分だけ強さを増したとて上回るのはこちらだ。怪我が治ってから毎日、自分と『同じ』何者かの気配を嗅ぎ取ってからは殊更に、誰にも見つからぬよう崩れかけた家屋の中で苦無に毒を塗りこんだ。ほんの僅か掠めただけでも一撃で敵を屠れるほどに。未だ相手が息をしているのは―――勝手知ったる忍であるからだ。
 手首まで腹に埋め込んで、焦点の合わなくなってきた相手の瞳を見詰める。共に呼吸が荒い。幾ら自分の方が毒に耐性があるとは言え、このまま行けばまずい。分かっていても突き放すことなく、いっそ抱き締めるかの如くますます左腕に力を篭めた。記憶を奪っていた術は解けた。徐々にすべてを取り戻す。今はまだ埋まらぬ日常の記憶の中、この男に関するものを拾い集めて名無しは笑った。幼い日々、つらい修行の傍らに確かに存在していたもの。忍に感情など不要と説かれてきたのに、武田に仕えてからは疾うに無くしたはずのものを取り戻さざるを得なかった。おそらくは仲間と呼べた。友と呼べた。幼馴染と呼べた。自分が村を出る折りに口笛を吹けば相手も応えた。いずれは浮かんできた他の記憶の波に消し去られるであろう他愛も無い思い出。
 震える左腕を伸ばして面を覆う布を外す。
 ああ。確かに。
 こいつは、こんな顔だった―――。
「………悪いな」
 謝る必要などないことだ。
 裏切りも殺し合いも日常茶飯事だ。
 己もいつかは同じように戦場に屍を晒すだろうが、ならばそれまでは記憶の片隅に留め置いてやると、どうせすぐに忘れるだろう仮初の戯言を口にした。
 お前のことを覚えておいてやるよ。
 すぐに後を追うかもしれないけれど。

「―――鴉………」

 相手の瞳孔が開ききり、呼吸が止まり、覆い被さった身体が重みを増す。つられて己が胸元に食い込んだ刃も深みを増して、流れ出る血の量と傷の深さに本気で洒落にならないと笑った。心中する気はなくとも傍から見れば立派な相打ち。全身傷だらけの上に血塗れの状態ではいずれ獣の餌となる。
 血を流し過ぎて遠のきつつある視力と聴力に舌打ちしつつ、冷たくなり始めた指先を動かそうとする内に、地面から背中へと伝わる振動を感じ取った。逃げ去ったはずの馬が戻って来たのか。痛みに硬直し始めた首を動かして確認しようにも視界の大半は敵の死骸で埋もれている。

「………け!!」

 声が、聞こえた。
 ―――心が震える。
 そんな筈はない、そんな筈は。けれども自分が聞き間違えるはずもない、と。
 馬の嘶きと足音は至近距離で止まり、呆然としている内に眼前の死体が勢いよく押し退けられた。不意に軽くなった身体と開けた視界に僅かに目を細め、相手の脇腹に突き刺さったままの苦無に右腕を引き摺られて眉を顰めた。ぱしぱしと誰かが頬を容赦ない力で叩いてくる。なんだよ。うるさいな。起きてるし、生きてるっつーの。
「佐助! 目を開けるのだ佐助! しっかりしろ、俺だ! 幸村だ!!」
「………」
 くたりと横たわった身体には力が入らない。なんだかよく分からないけれど叫ぶ暇があるなら止血してくれよという思いを余所に、表情筋は少しも動かない。薄く目を開けて声の出所を見遣れば、泣きそうな顔をした懐かしい人物がすぐ傍にいた。赤い鉢巻などない。身に纏う衣も赤ではない。槍も持っていないし軍を率いる武将に相応しい威厳など何処にもない。
 それでも、懐かしい。声も、表情も、頬を叩いてくる手の熱さも何もかもが。
「………た………」
「佐助、気がついたか!? 待っていろ、今すぐ手当てを―――」
「………た、まさ、か………」
「なんだ、どうした!」
 慌てながらも漸う彼は佐助が握り締めたままだった苦無を引き剥がしにかかる。強張った右手に絡まる主の手に、ほんと、どうしてこのひとはこうなんだと色んな意味で呆れた。今にも閉じそうになる目を瀬戸際で食い止めながら彼を見詰めれば、きらきらと輝く純粋な瞳に出迎えられて。
 まったくもって、本当に。
「………ひとりで、来た、とか………言わないよね………」
「―――」
「護衛………つけてない、つったら………怒るよ………っ!」
「お、―――お前っっ!」
 ぽかんとしていた幸村が頬を染める。
「いきなりなんだその言い草は! 俺はお前の居場所が分かったと聞いて飛び出して来たのだぞ! 元を糺せばお前が半年も!!」
「うるさい」
「―――」
 ぴしゃり、と言い置いて主を黙らせる。
 そうして今度こそ深い溜息と共に目を閉じた。まあ、よい。ひとりで出歩くなど無用心極まりないが、部下が居場所を教えたのであれば誰かがその足で幸村の護衛についたであろう。ならば間もなく手当てをしてもらえることも明らかで、包帯も何も持っていない割には傷口付近を確りと抑えることで止血の役割を果たしてくれている主の手のぬくもりに苦笑したくなった。
「さ、佐助? どうした。傷が痛むのか? もう間もなく皆が到着するゆえ―――………!」
 戸惑いと焦りと寂しさと安堵が入り混じった主の声に、嗚呼そうか、もう自分は「名無し」ではないのだなと心底から感じて。
 半年振りで抱いた安らぎに「佐助」はゆっくりと意識を手放した。




 再び気付いた時に居た処は、見覚えがあると言えば見覚えがある場所だった。なんのことはない。結局はあのお人好しの村まで戻って来ていたのだ。しかし、宛がわれたのは与えられていた仮の家屋ではなく村長の家だった。幸村も居るとなれば村人に他に選択肢はなかったのだろう。二度も同じ村に血塗れで運び込まれるとはなんとも居た堪れない。
 目を覚ましてすぐに言葉を交わしたのは才蔵で、曰く、自分が倒れてから既に二日が経過しているとのことであった。この半年、お前が居なくとも万事滞りなく進んでいた、大きな戦もなかった、忍隊の任務も順調だった、幸村様も見違えるほどに成長して城主らしくなられた、後はお前が治るだけだと告げられたのはよくよく考えなくとも遠回しな嫌味だろう。つまるところ、それだけ様々な苦労を強いられたということだ。佐助は、己が忍隊の中のひとつの歯車でしかないことを知っている。けれども歯車にも適材適所というものがあって、前触れもなく居なくなられるとそれなりに困るのだ。だからこれは才蔵のさり気ない無事を祝う言葉でもあるのだろうと考えて、お互い感情を持たぬ草であるのに何とも武田の―――真田の空気に毒されているものだと痛む胸を抑えて笑いたくなった。
 いずれにせよ今少し経てば問題なく動けるようにはなる。むしろ問題なのは動けるようになった後のことだ。この身体は以前と同じように意のままに動いてくれるだろうか。忍働きをできぬことこそ佐助は恐れねばならなかった。
 先行きを考えている間に幸村が見舞いに訪れた。再会できた以上はとっとと城へ戻ればいいものを、「数日ぐらい問題あるまい」と此処に留まっているらしい。萎縮してしまう村人のことを考えろとか、たかが忍ひとりのために何やってんだとか、色々と言いたいことは山のように溢れていたのだが、結局これが幸村という人間なのだと半分以上は諦めの境地に達していた。
 枕元で彼はひどく上機嫌に笑っている。
「………なに笑ってんの」
「嬉しいからだ!」
「俺は怒ってんだけど」
「そうか。だが、俺は嬉しい。お前が戻ってきたのだからな!」
 上田にも春は芽吹いておるぞ、傷が治ったら遠駆けに付き合え、そうそう、この村にも何かしらの謝礼をせねばならぬなと無駄に上機嫌な主を見て、最初に話すべきはそこじゃねえよと思って、溜息と共に横たわったままだった身体を無理矢理に起こした。傷口が痛んで瞬間的に眉を顰める。慌てた幸村が背を支えるべく両腕を伸ばす。
「何をしているのだ! 無理せず横になっていろ」
「いいから」
 主君の前で横たわったままでいるなどもとより許されるはずもないのだ。支えてくれようとした主の腕を遠ざけて、布団からずりずりと這い出すと正面から向かい合う形できちんと正座をした。ともすればこれまでの倣いか条件反射か、相手まで背筋を伸ばすのだから何とも微笑ましい。説教をするのは主に自分の方だった。けれど、今回はそうではない。深く、深く、佐助は額を畳に擦りつけんばかりに平伏した。
「猿飛佐助、只今戻りました」
「うむ」
「このたびは手前勝手な事情に寄り隊を離れ、誠に申し訳ございませんでした。半年もの間、行方を晦ましていたことに対するお咎めは如何様にでも―――」
「何故だ?」
「何故、って」
 折角改まった口調で話していたのに、相手があまりにもきょとんとしているから釣られてもとに戻ってしまった。ややうんざりした表情で面を上げれば結局は同じ高さで視線が交錯することとなる。
「俺があんたにも忍隊の連中にも何の説明もなしに姿を消したことは事実じゃん。きちっと処分してくれないと周囲への示しがつかないでしょ」
「だが、お前が俺のもとを離れたのは敵を遠ざけておくための策だったのであろう?」
 傍に転がっていた死体を見た。あやつを上田から遠ざけておくために、俺への刺客とならぬように、半年ものあいだ見張ってくれていたのではないか―――少なくとも俺はそう思うし、思うからには処罰を与える必要性も感じぬ。
「半年もの長きに渡り、敵の目を誤魔化していたとあらばむしろそれは褒められるべきことだ。他へ何の相談もなかったことは確かに咎められるべきやも知れぬが、忍はもとより影に潜む者―――これまでにもお前自身が何ヶ月にも渡る長期任務に就くこととてあったではないか。ならば同じことよ」
 呆気羅漢と告げる言葉に裏は見られない。堂々と胡坐をかき、腕を組み、真っ直ぐに向けてくる視線にはありとあらゆる意味で白旗を揚げるしかなかった。悔し紛れに「旦那もおとなになったねえ」と茶化せば、妙に真面目な顔で「佐助がおらぬから悪いのだ」と言い返された。なんだそれ。
 がっくりと肩を落としていると、ふと、思い出したように主に尋ねられた。
「なあ、佐助」
「ん?」
「お前、結局―――先の戦の時に何を言おうとしていたのだ。妙に歯切れが悪かったではないか」
「あー………あれ、ね」
 彼が何を指して言っているのかは理解できた。記憶を失っている間にも繰り返し、繰り返し見た夢の中での会話のことだろう。今となればそれは半年前の戦において、別れる直前に交わした言葉であるとの察しはつくものの、忘れっぽい傾向のある幸村がよく覚えていたものだ。ここ数日でほとんどの記憶は戻り、幸村はもとより自分や部下たちのことも思い出した佐助ではあるが、未だに思い出せていないこととて幾つかある。それはいつか思い出すかもしれなかったし、他愛も無い出来事として忘却の彼方に追い遣られるものかもしれなかった。夢に見るぐらいだから自分も気にしていたことは確かだ。一番最後に見た幸村の姿だったから殊更に記憶に焼きついていたことも確かだ。けれども正直に言えば。
「………ごめん、覚えてないや。でもまあ今の状況を考えるとね、しばらく留守にするけど気にしないでほしいとか、面倒な敵が居るから困るんだよねとか、そこら辺のことでも言おうとしてたんじゃない?」
「―――本当か」
「こんなことで嘘ついてどーすんのさ」
 正面から見詰めてくる幸村に不貞腐れたように言い返した。しばし無言で睨み合い、やがて引いたのは主の方だった。理屈は分からないが、この主は忍の嘘をよく見抜く。何を偽っているのかまでは分からずとも「嘘をついている」ことを察するのだ。残念そうにしながらも素直に引き下がったのは、佐助が真実「覚えていない」のだと理解したからであろう。嘘をついていると気付いたならばどうあっても聞き出そうと彼は躍起になり、最終的には折れざるを得なかっただろう自分を思い、本当の本当に覚えていなかったことに佐助はちょっとだけ感謝した。流石に、覚えていないものを語れとまではねだられぬ。
「………残念だな。この半年、お前が何を考えていたのか知りたくて堪らなかったのだが」
 仕方あるまい、戻ってきてくれただけで充分だと急におとなびた表情で笑うから、この時ばかりは忍も素直に「ごめんね」と謝った。すれば主も機嫌を直して「早く怪我を治して鍛錬に付き合え。戦があればお前もまた共に戦わねばならんのだからな!」とのたまうた。
 なんだ、立派になったって聞いたのに俺はまだあんたの背中を守らなきゃなんないのかと笑えば、勿論だ馬鹿者、と返されて、むず痒い感情に忍は頬を緩めた。

 ―――そして、その夜。

 主は別室へと引き上げて、部下たちが周辺の見張りに当たっている。なんの心配もなしに眠れる環境において急に佐助はがばりと跳ね起きた。お蔭で傷口が開いてのた打ち回ることとなったが、一先ず、それは問題ではない。慌てて辺りに誰も居ないことを確認し、天井裏の忍仲間にも疑われぬよう、急ぎ布団を深く被り直した。
 なんてことだなんてことだなんてことだ。どうしてこんな時にこんなことを。
(う、わあ………)
 顔が熱い。鼓動が早鐘を打つ。傷が痛むのも頓着せず己が両腕で両膝を抱えて布団の中で縮こまる。恥ずかしくてならない。なんだって今更―――思い出したりするのだ!

『いや、そうじゃない。そうじゃないんだ。ただ―――』

 先の戦の別れ際、繰り返し夢に見た場面。
 本当に己が告げたかった言葉。

『俺、ちょっとの間だけ居なくなるかもしんないけどさ』
『必ず』
『必ず戻ってくるよ。だからさ』




 あんたの背中を守る役目。
 他に譲らないでおいてくれないか―――………。




(うわあああああ!! なにを話そうとしてたんだ俺は―――っっ!!)
 拳を握り締めて歯を食い縛り、熱くなってきた頬を必死に寝具に押し付ける。
 ああ、まったく。
 なんてことだ。
 思い上がりも甚だしいと我侭も大概にしろと言いたくなる様な言葉だと辛うじて踏み止まった半年前の己に感謝する。幸村からの問い掛けを先に受けていたことにも胸を撫で下ろした。一度問うたことを繰り返し問うことはまずあるまい。彼の中では佐助は何も覚えていないことになっているのだ、頼むからそのままでいてくれ、もう二度と掘り返したりしないでくれと切に願う。なにせ次に尋ねられたなら己は隠し切れない。嘘をつけない。思い出したことを看破されて、あんな、愚かしい感情を抱いていたことを打ち明けざるを得なくなるのだ。
 誰も居ない部屋でひとり恥ずかしさに悶えていたら幸村が「勿論だ」と応えてくれたことまで思い出してしまい、常に無いぬくもりを伝える心臓に深い吐息を零した。
 喩えそれ以外の何が叶わずとも、叶えられずとも。

 


030.おのがさいわい<裏>


 


―――想う相手のせなを守れる己は幸いである。

 

※WEB拍手再録


 

ふつー半年間も音信不通にしてたら問答無用で首になってるか追っ手をかけられる

と思うんですが、そこはご都合主義でドンマイ☆

とりあえずこのふたりは主従以上親友未満でいーんじゃないかなー。

 

ちなみに、タイトルに<裏>とあるのは<表>があるからです。

まだ書けてないけどさ(駄目じゃん)

 

 

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