闇が、濃い。
空に浮かぶのはかろうじて光をとどめた二十三夜月。星のみが儚い光を地上に投げかける。 キン………ッ!
漆黒の森を迷走する光がひとつ、ふたつ―――時にぶつかり火花を散らしながら。
草を掻き分ける音、木々を揺らすさざめき、張り詰めた空気に辺りが静まり返る。時に響く息継ぎ、舌打ち、戸惑いと焦りの気配。
闇を駆け抜ける影はひとつきりではなかった。
行くは二対。
影が付かず離れず、折りに付け交錯し互いを庇い、気遣い、共に逃げる。
追うは孤影。
無駄のない動き、直線と曲線を動きに取り混ぜながら確実に距離を詰めていく。
「―――っ」
明らかに響いた苦悶の声。
硬質な音色を奏でて。
また、ひとつ。
飛来したくないを追う者は片手で跳ね除ける。いずれもが黒装束に身を包み、顔を覆い、年齢も性別も定かではない状況で、けれど追っ手だけは然程歳を重ねてはいないのだろうと―――何故か、知ることが出来た。
鈍い音をたてて逃げていた影の片方が木に叩きつけられる。疲労ゆえ、とも思えたそれは、足に巻きつけられた細い糸によって故意のものと知れた。連れが来ないことに気付いた者が焦り、振り返る。
「大丈夫か!」
「―――構うな!」
返すのは短い叱責。
「早く………五代目に、このことを!」
しかし。
幼く高音な声に否とも諾とも応えさせず、即座に距離をつめた影は左手に糸を巻き取り、右手で印を切り、赤熱の目を煌かせた。
夜目にも鮮やかな炎が辺りを覆いつくす。
熱風に煽られた者は、丁度、木に縫いとめられた仲間と対照の位置に叩きつけられた。地面に這い蹲った体勢から起きようとしたところを降り注いだ銀の刃の数々に射抜かれ、阻止された。
くぐもった呻き声が響き渡る。
倒れ伏した近くの草花にどす黒い液体が降りかかる。炭と化した木々がどうと倒れる。
鼻をつく嫌な匂いに、闇夜であるにも関わらず鳥が鳴いた。音もなく舞い降りた追っ手は感情のない瞳で捕らえた獲物を交互に見やる。
捕らわれた者たちは悔しさと覚悟ゆえに唇を血が滲むほどにかみ締める。このままやられてなるものかとの決意を込めて。だが、細い糸を掛けられた側は動けない己が身に、地に落ちたものは自らの砕けた体の骨に、それすらも叶わぬと思い知るのだ。
ひたすらに―――眼前の追っ手から感じられる威圧感が恐ろしい。
息ひとつ切らしていない………あれだけの距離を走ってきたというのに。
それが、ただ、恐ろしい。
彼の左手が木に括りつけた相手の首を締め上げる。右手の先に鈍く光る短刀。それが紛うことなく、木に囚われた者の心臓を狙っていると気付き、地を這う者は忍びにあるまじき態度で叫んでいた。
「待て………っ!!」
青褪めた叫びの何に引っかかったのだろう。
胸に刃先が食い込む寸前で動きは止められた。手近な草を頼りに這い寄ろうと努力しながら、少しずつ身体を前に進めながら、尚も逃亡者は言い募る。
「頼む―――そいつはまだ子供なんだ、見逃してやってくれ………」
「………」
「大蛇丸の情報を持っているのは私だけだ。もとより、情報を持ち帰られたところでお前らは痛痒を感じないのだろう? ならば、これも戯れと見逃してくれ」
里に知られれば即座に処分されそうな言葉の数々。
だが、不思議なことに刀を構えた者はピクリとも動こうとしない。のろのろと指を上げ―――口元を覆っていた布を外すと整った少年の顔立ちが露になった。間近で目撃した者が、思わず息を呑むほどに。
少年は興味なさそうにふたりの額当てに目をやって、なるほど、あの「木の葉」ならかようなことも言い出すかと僅かな嘲りを刻んだ。
首をしめつけていた力が緩み―――もしや本当に、と微かな望みを抱いたのも束の間。
吹き付けた風が瞬間的に葉を揺らし、木に括りつけられた、泥だらけになった人間の姿を描き出す。
月が、辺りを照らし出す。
何気なく流した視線の先に互いの姿を認め、真紅に染め上げられた瞳を彼は唐突に揺らめかせた。
無言のまま。
少年は、抑えつけた相手の面を覆う布を剥ぐ。
「………っ!」
苛立ちも露に睨み返すのは未だ幼い少女の視線。
だが、彼は、相手がくのいちだったことに驚いた様子ではなく―――ひたすらに。
気にかけていたのは。
「―――だ」
「………?」
呟きは小さい。
鍛錬をつんだものでも聞き取れるかどうかというか細い音色で声は響いた。
「―――の色だ………」
少女の青い瞳が驚愕に見開かれる。
少年の赤い瞳が、殊更に、深みを増したように見えたから。
差し込む僅かな月光が静かに燃え尽きた草木と大地を照らし、返す光が色素の薄い彼女の髪を金とも銀ともつかぬ色合いに染め上げている。
「………っ」
少年が、声を上げて、笑った。
腹を抱えこんで、おかしくて、おかしくて、たまらないと言う様に。
無邪気ともいえる表情に呆気にとられていたのも束の間。薄い笑みを浮かべた少年が何気ない仕草で腕を下ろす。
「―――っ!」
滴り落ちた鮮血が大地に染み渡った。
肩に食い込んだ切っ先を信じられない思いで少女は眺める。やめろ! という相方の叫びさえも、もはや彼女の耳には遠かった。
幻術はかけない、と抑揚のない低い少年の声。ただ、刻ませてくれと言い募る。
その腕を。その足を。その胸を。
その首を。その顔を。その髪を。
その、瞳を。
肩口から腹部まで縦に裂き、腹部から胸部まで斜めに切り上げ、そこから左の腕を辿り指先まで。
堪えきれず響き渡った鮮血と悲鳴が心地よい。
浴びる返り血の生ぬるさが丁度よい。
耳をつんざく悲鳴、ああ、ならばいつかは『彼』もこのように叫ぶのかと。
しかし眼前の『これ』は『彼』ではないから、幾ら引き裂いても『本物』はかほども傷つかないから、それがもどかしいと同時に無性におかしくてならない。
かの者の瞳は青、髪は金。
ならばそれを乾いた血の色で塗り潰そう。
「―――っ」
肩を襲った衝撃にゆっくりと振り返る。
気付けば、倒れ伏したままだったはずの男が血走った目でくないを投げつけたところだった。痛みは感じるがそれだけに過ぎない攻撃を軽くあざ笑い、そういえばこの男も『そう』だったのだと気付いた。
嗚呼、そうだ。よく似ている。
いつだって『彼』の傍にいた人物に。『彼』に慕われていた人物に。
なまっちょろい理想や命乞いをしてくる辺りも瓜二つではないか。
少女は喉からか細い吐息を漏らし、虚ろな瞳が中空を彷徨っている。このくのいちの意識がある内に、その眼前で、この男の血を浴びたならばさぞや気持ちがよいだろうと思えた。
乾いた唇に張り付いた、乾きかけた返り血を舌先で舐めとりながら。
―――嗚呼。
どうにも。
血が、騒ぐ。
ぼうっと空を見上げていたら怒られた。
窓を全開にして桟に腰掛けてたから、寒いと文句を言いたいのかと思ったら違ってた。明日も早いんだからとっとと寝ろと言う。そりゃあ、今日も一日、修行と称してしごかれまくったのだから疲れているのは確かなんだけど。
「………だって、月が綺麗なんだってばよ」
言うとひどく真剣に睨みつけられた。
伝説の三忍なんて言葉ばっかりだと思うけど、こうして時々感じる迫力には気圧される。
「早く寝ろ」
「何だよ、ケチだなー。エロ仙人」
「エロではない! ………とにかくとっとと寝ろ。こういう日はいかんのだ」
「何が?」
首を傾げて問い掛ければ、一応師匠役の男はすっと目を細めて鋭く空を見つめた。
「―――月が赤い。こういう日は憑かれたまま帰って来れなくなる奴が多く出る。とり殺されたくなければ早く寝ることだ」
「………?」
―――何が赤いって?
「普通に綺麗な黄色いお月様だってばよ?」
そんな疑問に答えることなく、ひらひらと手を振って彼は先に布団の中へと戻ってしまう。
仕方ないから「エロ仙人のケチ」と悪態つくも、窓をカラカラと閉めて渋々隣の布団に納まった。理由は分からなくてもこの人物の言うことは―――八割がたは嘘だけど―――残り二割は、たぶんに真実なのだから。
最後にもう一度だけ空を見上げた。
皓々と光る、不気味なほどに冴え渡った月と視線がかち合った、気が、して。
追いやられるように瞳を閉じながら、ふと思った。
―――彼もまた、何処かで。
この月を見ているのだろうかと。
ぼんやりと空を見上げる。
あれからどれだけの時間が経ったのか分からない。最近は常に意識が半分どこかへ飛んでいる。次の段階へ至るためには―――力を、手に入れるためには仕方のないことだと告げられたけど。
足元に転がる、出所も不明な肉の塊。
木に吊るされたナマス状の物体。
全身を染め上げた赤いぬるぬるとした液体と、染み付いて離れない鉄の錆びたような匂い。
これら全てが強くなるために通らねばならない関門なのだとしたら、なんて気楽なものなんだろう。
何を刻んでも自身の何が痛む訳でもない。
切り刻む者も相応でなければもはや精神は揺らぐ素振りすら見せない。
手にした髪の切れ端はよく見れば金とは異なる薄茶色に過ぎず、べっとりと血にまみれて色褪せたそれに途端に興味が失せてしまった。こんなにも簡単に色彩を喪うのなら念入りに頭皮ごと削ぎとったりするのではなかった。
―――きっと。
あいつのなら、簡単に色を失うことはない。
どれだけ塗り潰しても、貶めても、最後にはもとの輝きを取り戻す。
いつかあの輝きを自身で黒く染め上げる時が来ると思えばそれだけで心底笑いたくなって。
血臭と人体がばら撒かれた薄暗い現場に似つかわしくないほど穏やかな笑みを刻み。
呟きはひとつ。
「―――………ト」
呟く名はひとつ。
改めて見上げた天空、滾る血もそのままに視線を注いだ。
―――嗚呼。
揺らがずに。
其処に在る、孤高なる残月。
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