暗き道をたどりゆかば 果て無き闇の先に人家の灯火見えたり

 

駆けつけて見れば 竈に火はあれども人はなく 樹花咲き乱れども影はなく

 

頼りなき導に迷いし者は 来る定めを背負いし者なり

 

古来よりこれを迷ひ家と言ふ

 

 

 


― まよひが <壱> ―


 

「何ぃ? 妖怪が出るだと?」
 いつもどおり雑務に追われていた信長は手を休めて背後を振り返った。その先で小姓のひとり、犬千代がいささか所在なげに控えている。更にその隣ではたまたま仕事の報告に来ていた藤吉郎がやはり同様に畳の上に座っている。立ち去ろうと思っていたのにタイミングを逸して立ち去り損ねたという感じだ。
 信長はニ、三回手にした筆を揺らして考え込んだが、筆を置くときちんと向き直って腕を組んだ。顎の先だけで「話を続けろ」と促す。
 意を汲み取った犬千代は溜息混じりに話を続けた。
「そもそも、以前から噂のあったところなんですが―――」
 尾張の城下町をそれて街道に至る脇道は幾つもある。戦国時代で関所の取締りが厳しいとは言え商人の流通を全て止めてしまっては経済が成り立たない。信長が楽市楽座の制度を取り入れようと働きかけていることもあって尾張での人々の往来は他国と比べて盛んであった。
 言うまでもないが商人が関所を通り抜けて城下までやってくるには当然田舎道を歩いてこなければならない。城は歩いて来てくれないのだから当然である。罪人の取締りも厳しく道も整備されているので他の国々より安全とは言え、中には昼間でも暗く視界の狭い曰く有り気な道筋も多く残っている。
 そしてそこで―――。

「―――『出た』のか」

 面白そうに信長が笑う。あくまで徹底した合理主義の彼が「妖怪」と聞いただけで信じるはずがない。柳の下の幽霊のために頭を悩ましている暇も余裕もない。父親が亡くなった今、他に考えるべきことやするべきことは幾らでもあった。
「証人でもいるのか?」
「いると言えばいるし、いないと言えばいませんね。何せ跡形もなく消えちまってるんで―――!」
 犬千代は「参った」とでも言うように両手を挙げた。大した問題でなければ上に届けるまでもない。下で処理できることは可能な限り処理し、重要なことや国の利益に関わりそうな問題が起きた時だけ信長に報告する。上に対して不敬を働いているわけではなく些細なことで煩わせたくないだけだ。今回のことも出来るだけ自分で解決しようと犬千代は犬千代なりに骨を砕いていた。
 しかし、どうも今回はひとりで処理できる問題ではなさそうだった。
 ことが判明したのは数週間前にひとりの商人が関所で忘れ物をしたためである。今なら追いつける範囲にいるだろうがまさか関所の役人がそんなことのために持ち場を離れるわけにもいかない。対応に困っていると、偶々そこに居合わせた別の商人が
「どうせ行先は一緒。その内追いつくでしょう」
 と気軽に請け負って同じ道を辿り―――。
 ………結局、誰にも会わずに城下まで着いてしまった。
 それだけなら単なる行き違いですんだのだが何処か怪しいと感じた役人が調べてみたところ似たような例が山と出てきたのである。
 確かに関所を通過したのに何処の宿屋にも泊まっていない商人。立ち寄ると言っていた寺に現れない僧侶。また逆に「尾張を出て何処其処へ行く」と言っていたのに関所に現れていない商人、職人、町人、農民―――。注目すべき点は消えてしまった人間全てが同じ道を通っていたらしいということだった。その数、ざっと数えただけでも五十人。
 流石にここまで来ると噂も出回る。あの道は黄泉へ通じていたのだとか凶暴な獣があの辺りを根城にしていたんだとか妖怪が全てとり殺してしまったのだとか神隠しにあったに違いないとか、確かめようもない噂ばかりがひとり歩きしてとんでもない事態になりつつあった。死体のひとつも発見されないことが尚更に不気味さを煽った。おかげで今やその道は人っ子ひとり通らない裏街道となっている。
 ならばそれでよし、と道を封鎖して放っておけばよいのだがそうもいかない事情があった。
「場所が場所なんすよ。何せ蜂須賀村の近くですから―――『隣で物騒な噂が立って迷惑してる』って申告されちゃいましてね」
「フン、小六の野郎。自分で調査すればいいってのによ―――!」
 むすったれた顔をして信長は悪態をついた。
 聞いた限りでは「ただの失踪」として片付けてもよさそうな問題だ。だが蜂須賀村がかんでくるとコトは急にややこしくなる。美濃との同盟は上手く行っているとは言え未だ根強い反発もある。美濃の重鎮が関所付近で行方不明になったと騒ぎ立て、「これは織田方の陰謀だ」と難癖つける奴が出ないとも限らない。逆もまた然りだ。僅かなものであろうと不安要素は摘んでおくに限る。
 パン! と信長はひとつ膝を叩いた。
「よし、わかった。数日中に本格的な調査を行う。それでいいな?」
「はい。では先方にもそう伝えておきます」
 軽く一礼して犬千代が立ち上がる。何となく抜け出す機会を逸していた藤吉郎も釣られて腰を上げた。
 ―――と。
「おい、サル。今度吉乃ん所に行くからな。覚えておけよ」
「? は、はい………」
 訳がわからないままとり合えず頷いておく。何かもう少し言葉が続くかとしばらく突っ立ったまま待ってみたがそうでもなく、信長は仕事に戻ってしまっている。
 藤吉郎は首を傾げて部屋を出てから閃いた。一瞬浮かんだ嫌な予感を慌てて振り払おうと何回か頭を振る。しかしそれでも嫌な予感は去らなかったのか、全くもってついていないと言うように深い溜息をついてから彼は城の外へ向かって駆け出した。
「間に合うかな」と軽く呟いて。




 自分が草履取りとして織田家に再就職してしばらく経つ。その間にも色々あったよな、といつも通り馬に乗った信長の後を必死に追いながら藤吉郎は考える。
 今思い出しても自分の不甲斐なさに歯噛みしたくなる、信長の身を心底心配していた政秀公の死。同盟を固め政治的基盤を安定させるための美濃行き。その際には斎藤道三の影武者までやらされたし、帰り着いたら休む間もなく濃姫によって牢屋にぶち込まれたりもした。親子そろって自分に何か恨みでもあるのだろうか。いや、別に主君の正妻と舅に難癖をつけようとしているわけでは決してない。断じてない。その後美濃からの贈り物だというネコそっくりな猿の世話を任されて―――そいつは今、藤吉郎の肩の上にしっかとしがみ付いている。
 それから、それから―――。

「ぶへっ!」

 考え事に浸りきっていた藤吉郎は突如立ち止まった信長の動きについていけず思い切り馬に激突した。痛む鼻を押さえて訝しげな顔で主人を見上げてから、続いてその目線を辿って眼前に広がる鬱蒼とした暗がりを見つめる。昼間だというのに日の光もろくすっぽ差し込まない人通りのない辛気臭い道だ。どんなに察しの悪い人間でもこれだけ「如何にも」な雰囲気が漂っていれば此処が例の道だろうと見当がつく。
 普段はもうちょっと行った先の道を右手に折れるのだが―――。
「あのー、信長様………こっち、生駒の方のところへは行かないんじゃ………?」
「吉乃との約束は明日だ。今日は行かねぇ」
「へっ?」
 瞬時に信長の考えを悟って藤吉郎が青ざめる。
「ダ、ダメですよ信長様っっ! 犬千代様が報告した一件を調査するつもりでしょうけど無茶ですよ!」
「うるせえな、ただ馬で走り抜けてみるだけだ。別に何でもねぇだろうが」
「よくありませんよっっ、万が一本当だったらどーするんですか―――っっ!!?」
 楽しそうに笑っている主に涙ながらに訴える。けれどその訴えが聞き入れられた試しなど未だかつて存在しない。部下の叫びなど何処吹く風で信長は馬の首を左へと巡らせた。
「本当だったら、そうだな………」
 ひとつ、笑みを深くして。

「妖怪をとっ捕まえて連れ帰ってみるか? 面白いじゃねえか」

「おっ………面白くありませんよ―――っっ!! それに殿は馬ですけど、オレ歩きなんすよ!? はぐれたりしたら無茶苦茶ヤバイじゃないすかっっ!」
「はぐれなきゃいいだろうが! 行くぞ!!」
「そっ、そんな―――っっ!!?」
 馬に鞭を入れて走り出した信長に一刹那遅れて慌ててついていく。
 大体、犬千代が報告をしにきた時から悪い予感はしていたのだ。「おやかた様」という身分になってから以前ほど羽目をはずせなくなった信長にとって格好の大騒ぎの種。無論その裏に何があるかきちんと考えを巡らせながらではあるのだが………。
 色々試すのはいいが結局信長の無謀に付き合わされるのは自分なのだ。
(冗談じゃないよ―――っ! ただでさえ妙な噂がある所なのにっっ! 何かあってもオレひとりじゃどうしようもないじゃんかっ! ああもうっ、小六様んところ寄っといて良かったっっ!!)
 思わず懐に入れた紙切れの存在を確かめる。自分が何を持っているのかオカルト嫌いの信長には告げていない。言った途端に馬でひき殺される(?)だろう。第一、藤吉郎自身『それ』の効き目には半信半疑なのだ。けれど実際こうして問題の道に立ってみると噂もあながち出鱈目とは言えない気がしてしまう。必然的に紙切れに頼りたい気分が増した。
 本当に、何も起こらなければいいけど―――。
 息を切らしながら信長の後に何とか付いていく。この主君が振り返ってくれるハズもなく、かといってスピードを緩めてくれるような甘い人間でもなし。一度でも立ち止まったらすぐさま置いてかれそうな距離を保ったまましばし走り続けた。いい加減道も終わるのではないかと思った、その時。

「………!?」

 藤吉郎は何故かその足を止めた。素早く辺りを見回し首を傾げる。
(空耳、かな………?)
 前を見れば信長はもう随分遠くまで行ってしまっている。今ならまだ追いつけそうだと足を早めた。だが再度鼓膜を揺らした確かな震動に今度こそ足を完全に止めてしまう。

 ―――間違いなく、子供の声がした。

(どっ………どうしよう………聞き間違いじゃないし、かといってこのままじゃ殿に置いてかれちゃうし………ああっっ、どーしよ―――!?)
「あ゛あ゛あ゛っっ!?」と意味をなさない声を上げながら子供の声と遠ざかる響きに交互に首を振る。一度は信長の後について行こうと歩を進めた。が、数歩進んだところで力なく止まってしまう。
 藤吉郎はがっくりと項垂れた。
「………やっぱダメだ………」
 深い溜息と共に懐から紙切れを一枚取り出しサスケの足首に括り付ける。
「サスケ、信長様を追え」
 すっかり藤吉郎に懐いている猿は頷くような仕草を見せた後、身軽な動きで既に信長が行き去った道を追いかけていった。それを見送ってからもう一度耳をすます。聞こえなければ無視していたが、聞こえてしまった以上は仕方がない。どう聞いても幼い子供の声。
 微かに聞こえてくるすすり泣くような声を注意深くたどる。道の脇の暗がりを覗いた時、目的のものは見つかった。道の脇が結構急な斜面になっている。草木の陰でよく見えないが迂闊に踏み込めば呆気なく転がり落ちてしまうだろう。注意深く草木を頼りにしながら坂道を下りる。
 叢の上に泣き伏している自分よりも小さな影を確認して藤吉郎は安心したような情けないような複雑な表情を浮かべた。
 子供の声を聞きとがめたために信長とはぐれてしまった。しかも「はぐれたらどうするんですか」と自分から言い出しておきながら、である。行った先で待っていてくれるなんてことは絶対にありえないし、戻ってきてくれるなんてことは更に絶望的なほどにありえない。城に帰ればどつかれるのは火を見るよりも明らかだ。何せ職務放棄してしまったのだから………。そこまで考えて何だか悲しくなってきたが、まさか無関係な子供の前でさめざめと泣くわけにもいかない。
 脅かさないようにわざと足音をたてて近づく。音に気が付いた子供がこちらを振り向いた。涙で顔を汚した五、六歳の男の子だ。わりといい生地の服を着ているところを見ると何処か裕福な家庭の子供なのかもしれない。
 かつて自分が母親にそうされていたように子供の目線までしゃがみ込んで瞳を覗き込む。
「………どうしたんだい、こんなところで」
 子供はしばし疑り深そうな目で藤吉郎を見つめた後、躊躇いがちに自分の膝を指差した。道から転げ落ちた時にすりむいたのか小さな膝小僧に出来た傷跡が痛々しい。藤吉郎は自分のあまり上等とは言えない服の端を破りその足に巻きつけた。
「この程度の傷ならすぐ治るよ。立てるかい?」
 子供はとても驚いたような顔をしていたが藤吉郎の言葉に慌てて頷いた。急いで立ち上がろうとして失敗し、へたり込んでしまう。縋るように見上げてきた瞳に藤吉郎は思わず天を仰いだ。………「毒喰らわば皿まで」―――それとも「乗りかかった船」と言うべきか。諦めにも似た心境で背中を向けると子供は嬉しそうに背中に寄りかかってきた。
(あーあ………オレ、何やってるんだろホントに………)
 自分自身の甘い考えに自嘲気味に笑いをもらす。背におぶった子供がポツリと呟いた。
「………ありがと」
 期待していなかった感謝の言葉に驚いて―――次いで苦笑すると藤吉郎は今降りてきた道を上がり始めた。すると子供が服の襟首を強く引っ張った。
「違う………そっちじゃない」
「え?」
 幼く小さい指先は道とはまるきり正反対の方向を指している。その先には果ての見えない草木に覆われた薄暗い森が続いていた。
「ま………町から来たんじゃないの?」
 冷や汗混じりの問い掛けに子供が軽く首を振る。
(考えてみれば噂の出回ってるようなところに親が子供を近づけるわけないよな………。何処か他所から来たのかな?)
 追求をしたところで子供は答えそうになかった。………あるいは自分でも状況がよくわかっていないのかもしれないが。
 藤吉郎は潔く腹をくくると草木の生い茂る道に足を踏み出した。




 薄暗い闇の中を走りつづけてどれくらい経ったろうか、やがて遠くに確かな日の光が見えたかと思うとあっと言う間に太陽の下に踊り出ていた。手綱を引き辺りを見回す。何か妙なものでも待ち受けているかと思ったが別にこれといって変化のない風景が広がっている。遠方に霞んで見えるのは関所だろう。
「なんだよ………結局何も起きなかったじゃねぇか。興醒めだな」
 軽く舌打ちをして不満げに信長は呟いた。
 以前もこんな経験をしたことがある。沼に巨大な主が住んでいるというから意気込んで行ってみたら何のことはない、その正体は巨大ナマズだった。それはそれで楽しめたし目に見える「成果」もあがったから別に文句はない。しかし今度は成果も何もなかった。
 結局ただの思い過ごし、あるいはただの調査不足だったのだろう。いなくなった人間とて今頃のんきに別の場所で悠々自適に暮らしているかもしれない。
(全部ガセだったんじゃねーだろーな?)
 その可能性も考えてみた。誰かが企んだものだとしたら自分の命が狙われていた可能性が一番高い。不穏な噂を撒き散らして騒ぎを大きくし信長自らが出張るように仕向ける。性分として最小の人数でことに当たるだろうことは自分でもよくわかっている。連中にとっては絶好の機会だ。
 けれど別に闇討ちされたわけでも罠が仕掛けてあったわけでもない。完璧肩透かしをくらわされた気分で信長は後ろを振り返った。
「おいサル、帰る―――」
 ぞ、と言おうとして口を噤んだ。後ろにいてしかるべき人間が何処にも見当たらなかったからだ。隠れているのかとも思ったがそんな事してあいつに何の得があると言うのか。
「………マジではぐれてんのか、あのバカは………!」
 ビキビキビキ、とその額に怒りのあまり血管が浮かび上がる。信長はグズもトロもニブもお節介も口やかましい人間も嫌いだ、しかし。しかし―――だ。
 何かと言うと逆らうわ文句言うわ様々な失態は仕出かすわ更に言えば口はばったくてお節介で侍―――という認識はないかもしれないので、まあとり合えず武士に仕える身の上としてあるまじきほど甘ったれた考えを持っているアイツを―――だ。
 それなりに気の利くところもあるし色々と面白い発想もする。それに何か事が起こるたびに結局最後には隣にいるのに半ば根負けする形でこうしてわざわざ連れ回してやっているというのに―――あくまでもそれは信長の考えで藤吉郎個人の感情は含まれていないのだが―――。

 ―――付いてくることさえ出来ないのか、あのバカは!

「………置き去りにして城に帰るか」
 すぐに結論を出して信長は手綱を引いた。その時、振り向いた先の薄暗い道の遠くから何か白い物体が飛び跳ねて来るのが見えた。「キーキー」とわめきながら一直線にこちらに向かってくる。
「あれは………」
 その物体は大急ぎで信長のところまで駆け寄るとあっという間に馬の首を駆け上り、まるで懇願するようにお辞儀を何度も繰り返した。言うまでもなくそれはサスケだったのだが―――コイツが何故ひとり(一匹)でやって来るのか見当がつかない。藤吉郎と一緒にいたのではなかったか。
 疑問に思いつつ、足に巻かれた紙片をとって読もうとするとサスケはピシピシと小さな手で叩いて拒絶した。
「何だよ、文じゃねぇってのか?」
 不満げに睨みつけたところで動物相手ではあまり意味がない。その間もサスケは必死に身振り手振りで何か伝えようとしている。言いたいことが分からないでもないがボディランゲージでは限界もあるというものだ。オレはあいつみたいにてめぇとシンクロなんて出来ねぇんだぞ、と苛立つ。
「………サルが怪我でもしたってのか?」
 試しに言ってみてからあまりのバカらしさに憮然となる。いくら薄暗かったとは言え見通しのいいあの道で怪我する間抜けがいるものか。そこらの草に足をとられてけつまづいたのだとしても、そんなスッ転んで出来た傷ぐらいで付いて来れなくなるようなヤワな奴のことなど考える気にもならない。
 怪我じゃなくて迷子だったとしたら尚更だ。
「ったく………くだらねぇ、行くぞ!」
 肩口のサスケの鳴き声を無視して信長は馬に鞭を入れた。




 薄暗い森の中を進みながら藤吉郎は段々不安になってきていた。まだ昼間だというのに生い茂った木々の所為で周囲はまるで夕刻のように暗い。子供に言われた通りに進んでいるのだが当然道標も何もなく、どういう根拠で選んでいるのかわからない道筋に「本当に帰り道わかってるのか?」と突っ込みたくなる。心細くなって後ろを振り返ったところで前と同じ薄い暗がりが口を開けているだけだ。元の道にとって返すという手段も此処まで来てしまっては使えない。かくなる上は子供の家まで行ってそこから城への道を聞くしかないだろう。
 藤吉郎は本日何度目かの深い溜息をついた。行先も気になるが信長の機嫌を損ねているだろう事もかなり気になっている。最悪首にされるかも―――などと考えただけで偏頭痛に襲われてその場にへたり込みそうになる。大体この子供も子供で、道を指示する以外何も喋ろうとしないのはどういう了見なのか。「何処から来たんだ?」とか「名前は?」とか「噂について知らなかったのか?」とか色々聞いてはみたのだが………。全てケンもホロロ、ナシの礫だ。
 どうにもこうにもこの子供は警戒心が強い。
(ま、別に信頼しろとも言えないけどさ―――)
 信じれば裏切られる。頼れば騙される。油断すれば殺される。
 それが今の世のどうしようもない現実で、実際藤吉郎も何度かそういう経験はしている。そうでなくとも一応戦国大名に仕えている身なのだから、より一層人の親切心だとか人情だとかを疑ってかからなければならないのだが………。
 どうも、矛先が鈍りがちになるのは。
(オレの認識が甘いのかな)
 五右衛門にもさんざっぱら説教されたっけ、と苦笑する。
「あーあ………って、痛っ!?」
 溜息の途中で急に髪を捕まれて抗議の声を上げる。子供はその声に何ら関心も示さず涼しい顔で左手の方を指し示した。不満を収めた藤吉郎も釣られてそちらを見つめ思わず息を呑む。薄闇に紛れて判然としなかったが頑強な作りの立派な家屋がそこに建っていたのである。




「よぉ、どうした? 珍しいな、お前が昼間に此処にくるなんてよ」
 蜂須賀村の自宅の縁側で寛いで茶を飲んでいた小六は物陰から音もなく姿を現した人物にそう呼びかけた。
「小休止だ、小休止。あんたこそ珍しいじゃねぇか」
 そう答えた人物―――五右衛門は小六の隣に腰掛けるとちゃっかりお茶請けを頂戴する。相変わらず遠慮のない奴だと思う。今更それを咎めたところで改善されるハズもないので既に諦めてはいるが。
「まあ、オレもそろそろ出かけるがな」
「ふーん、仕事熱心なことだねぇ」
 適当な会話を交わしながらのんびりと日の光を受ける。戦乱の世とはとても思いがたい穏やかな時間がそこには流れていた。実際は、とてものんびりしているいられる状況ではなかったのだが。小六には悩みの種が存在している。
「………信長と藤吉郎の奴は、上手くやってくれるんだろうな………」
 そう呟いて数日前の出来事を思い出す。調査に来た犬千代が「信長様に報告します」といって去っていったその日の午後、何故か息せき切らせて藤吉郎が駆け込んできたのだ。全速力で走ってきたためほとんど物も言えない状況の藤吉郎に水を飲ませてやってどうにか落ち着かせる。
「お前なー………何そんなに焦ってんだよ?」
「い、いやその………」
 偶々居合わせた五右衛門の問いに藤吉郎はやっとの思いで答えている。仕事の途中にこっそり抜け出して来たらしい。「用さえ済めばすぐに帰ります」と彼は荒い息をつきながら答えた。立ち話もなんだろうと通された蜂須賀屋敷の一室でようやっと呼吸を整えてから、少し言いづらそうに話を切り出した。
「実はその、ここ最近流れてる噂についてなんですけど―――」
「ああ、オレが頼んだ一件についてか? 早いな、もう解決の目処がたったのか」
 考えを巡らせた小六が喜ばしげに頷く。だが藤吉郎は慌てて手を振りそれを否定した。
「い、いえ、そうじゃないんです。確かにそれ関係だけどそうじゃないんです。まだ報告がされただけで………。一応数日中に本格的に調査するとは言ってました。ただ………信長様のことだからきっと単独で先に調査を行うと思うんです。だからその前にちょっと―――」
「ちょっと何だ?」
「いえ、その、あの………」
 決心がつきかねるように俯いてから思い切ったように顔を上げる。

「―――魔除けの類があったら、分けていただきたいんですが」
「………は………?」

 訳がわからず小六が聞き返す。一拍間を置いて、それまで黙っていた五右衛門が笑い声を上げた。
「お前、あの噂信じてるのか? 妖怪が出るとかなんとか………」
 下らないこと信じてるよなー、あんな根拠のない噂なんて放っとけよ。
 そう言って笑う五右衛門に藤吉郎はムキになって言い返した。
「別にオレだって信じてるわけじゃない。でも万一本当だったらどうすんだよ! 責任取れんのか?」
「オレに責任はないからなー」
 低い笑い声を漏らす忍者に藤吉郎は不機嫌そうな顔のままそっぽを向いた。正直、小六も今の話には苦笑するしかない。―――まあ、気持ちはわからなくもないが。「備えあれば憂いなし」と言うように万全の体制を整えておくに越したことはないだろう。杞憂に終わればそれはそれで良かったということになる。
 しかしこの蜂須賀村に魔除けの類などあっただろうか? まさか太刀や鏡を持っていくわけにもいくまい。そんな目立つものを持っていったら一発で信長にばれて門前払いを喰わされるに決まっている。何か薄くて軽くて、出来るだけ邪魔にならないもの―――。
 そこまで考えて小六は役立ちそうなものがあったことを思い出した。まだ言い争いを続けているふたりをその場に残して奥に引っ込む。再び戻ってきた時は小さな箱を手にしていた。
 藤吉郎と五右衛門が興味深げに見守る前で箱を開け中から三枚の札を取り出した。札の表には何やら読めも書けもしないような複雑な文字、もしくは模様がびっしりと描かれている。
 全て受け取りはしたものの藤吉郎は困惑した表情で小六を見上げた。
「あの………これ、何ですか?」
「魔除けの札だ」
 あっさり返事を返すと、茶を一杯飲んで更に続けた。
「つい最近若い坊主がここいらを通りかかってな。一晩泊めてやったら礼だと言ってこれを置いていきやがった。悪いが効き目に関しては何の保証もない。何せ剃髪もしてない生臭坊主の書いたシロモノだからな」
 それを耳にした藤吉郎の顔色がさっと変わる。
「あとオマケだとか言って笛を一曲奏でてったがな。そう言や問題のあの道を通るとか言ってたが―――」
「こっ………小六さん!」
 藤吉郎が体を乗り出して小六に詰め寄る。その剣幕に押されるように小六は若干身を引いた。
「そいつの………その若い坊主の名前なんて言うんですかっ?」
「? い、いや………結局聞かず終いだったが………」
「………そう、ですか………」
 小六の服の襟元を掴み今にも揺すりだそうとしていた藤吉郎はその言葉に腕の力を揺るめる。
 訳がわからず見つめてくる小六に藤吉郎は力ない笑みを返し、静かに右手で札を掲げて見せた。
「………ありがとうございました。お礼は、その内必ずします」
 釈然としない印象を残したまま深い一礼と共に藤吉郎は蜂須賀村を去っていった。

 ―――それが数日前の出来事である。

「今考えてもあいつの様子はおかしかったな。その坊主が知り合いだったとしか思えんが………五右衛門、お前はどう思う?」
「オレが知るわけねぇだろ」
 五右衛門が無愛想に言い放つ。いきなり発せられた厳しい語調に呆気にとられていると、相手は素早く身支度を整えて外へ向かって歩き出した。
「おい、五右衛門?」
「………仕事に戻る。じゃな」
 それだけ言って走り出すとあっという間にその姿は木立の影に見えなくなってしまう。突然と言えば突然な態度の変化に首をひねる。
 ―――そう言えば、藤吉郎が坊主の名前について問い質していた時あの忍者は黙って不機嫌そうにしていたような気がする。
「―――なんか悪いことでも聞いちまったか?」
 そこまでは考えついても、本当の理由など小六にわかるはずもなかった。




 家屋の側まで近づいてその大きさに改めて藤吉郎は感心の声を上げる。重そうな木々が門構えをしっかりと支え、屋根には茅や藁でなく由来のありそうな瓦が使われている。おそるおそる門をくぐると中は更に目を見張る光景が広がっていた。名は知らないが季節ごとの美しい花々が目に留まるように、それでいて自己主張しすぎることなく植えられている。木々の並び方ひとつとってみてもこの家の主には風雅の心得があるのだと思われた。
(なんか………すごいところだな)
 感嘆の溜息を尽きつつ奥へと進む。どうすればいいのだろう。このまま子供を置き去りにするのも難だし、どうにか家の人に気付いてもらわなければならないのだが。戸を叩けばいいのだろうか。あるいは声を出して呼ぶとか―――。
 最近は城仕えをしているから大きな建物には慣れているとは言えもとは農民出身の彼のこと、なまじの庄屋よりもでかい家の造りに少々気圧され気味だった。
 背中に背負った子供は口を閉ざしたまま開こうとしない。うろちょろと辺りをさ迷い歩き、正面の反対側まで回った時突如として声をかけられた。

「―――太郎?」
「―――っっっ!!?」

 驚いて反射的に飛びのく。凄まじい速さで打つ鼓動を抑えつつ声のした方を見ると軒先に若い女性が佇んでいた。長い黒髪が薄紅の衣装に映えて実に美しい。不法侵入したことを咎められるかと思ったが女性の目は真っ直ぐ子供の方に注がれている。足が汚れるのを厭うでもなく彼女は庭に下りてふたりに近寄った。背中の子供が暴れだしたので下ろしてやると、少々びっこを引きながらも駆け寄って女性に飛びつく。
「―――母さん」
「お前、一体何処へ行っていたの? 心配したのよ………」
 女性が柔らかく抱きしめると子供は幸せそうに笑った。取り残された形になった藤吉郎だったが幸せそうな親子の姿に口を挟めるハズもなく、黙ってそこに突っ立っていた。女性―――母親が子供の足に巻かれた布に気付く。目で尋ねると子供は小さな手で藤吉郎を指差した。
「………連れて来てもらった」
 その言葉に女性の視線が真っ直ぐ藤吉郎へと向けられる。あまりに真摯な表情で見つめられたので焦ってしまう。
「あ、いや別にオレは」
「どうもありがとうございました。うちの子がご迷惑をおかけしてしまって………」
「え、いえ、そんな事ないですよっっ」
 しどろもどろに言い返すと女性は何処か陰のある悲しげな笑みを浮かべた。
「何かお礼を差し上げるべきなのでしょうけど………今、主人がいないものですから。せめてお茶だけでも如何ですか?」
「あ、いや、ありがたいですけど………オレ、もう帰らなきゃならないんで」
 薄暗い道を歩いてきたので定かではないが大分時間が経ってしまっているはずだ。一刻も早く城に帰って信長に言い訳―――もとい命乞い―――をしなければならなかった。だが。
「なら、せめてお庭を一回りなさっては如何? 主人が趣をこらしたもので色々珍しい花も咲いているんですよ」
 是非とも、という顔をして微笑まれてしまうとそれ以上押し切ることもできない。藤吉郎は喉にものが詰まったような言い方で「じゃ、じゃあ一回りだけ………」と頷いた。
(ああっ、オレの馬鹿オレの馬鹿―――っっ!!)
 内心で叫びつつどうにか親子の前では笑顔を保つ。………かなり引きつってはいたが………。
 押し切られた形で見ることになった庭の景色だったが確かにそれは素晴らしかった。紅や紫、白、薄黄色、名は知らないながらも清楚で気品ある花々が軒を連ねている。花だけではない、木もそれとわかる程に手入れが行き届き石灯籠は僅かばかり苔むして風情を感じさせる。そういった一連のことがきちんと理解出来るほど彼は教養を受けていないが、それでも素直に綺麗だと感じられた。
 子供を先に部屋へ戻して自ら案内を買って出てくれた女性の後からゆっくりとついて歩く。綺麗ではあるが寂しげな印象を受ける後姿にやや気後れしながらも気になっていたことを聞いてみることにした。
「あ、あの………」
「はい?」
 眼差しを注がれると言葉に詰まりそうになる。何とか気を持ち直して言葉を紡いだ。
「この辺りの噂、知らないんですか? 此処にこのままいるのって危険なんじゃ………せめて噂のもとがわかるまで何処かに引っ越すとか………。あ、その、とてもいい所だとは思うんですけどっ………」
 失礼なことを言ってしまったかと急いで訂正する藤吉郎に女性は静かに微笑んで見せた。
「此処は私の主人の家です。主人がいない間家を護るのは私の務めですから………子供だけは親戚に預けようと思ったのですが、どうしても言うことを聞かなくて」

 本当に困った子。 

 囁くように言われては問いを重ねることも出来ない。「旦那さんは何処へ何しに行ったんですか?」とも聞きたかったがさすがに失礼だと思われた。
(でも………もしかするとこの人のご主人は、あの道で………)
 浮かんできた不吉な想像を慌てて打ち消す。何もそうと決まったわけではない。
 更に歩を進めると立派な一本の木が見えてきた。見上げるほど高く育ったその木は堂々とまるでこの家の守護者であるかのようにずっしりとした重みを伴って鎮座している。
 藤吉郎は少しだけ目を細めてその大木を見つめた。
「これ―――榎ですね?」
「ええ、私がこの家で生まれた時からあったんです。見事でしょう?」
「………そうですね………」
 節くれだった根が大地に幾重にも連なり突き刺さり、方々に伸びた枝は天に届かんばかりの勢いで伸びている。藤吉郎に語りかけるというわけでもなく女性は淡々と言葉を綴った。
「此処を訪れた方々は、何方もこの木をとてもよく誉めてくださいます。つい先日も若い僧侶の方が此処へ見えられて、情に打たれたと笛を奏でてくださって………」
「………」
「それは素晴らしい音色でした………」
 女性は陶然と瞳を閉じた。それに習うように藤吉郎もしばし瞳を閉じ思いを馳せる。
 ―――けれど瞳を開けた後は何かを振り切るかのように踵を返し一気に木の前を通り過ぎた。女性が訝しげな顔をして藤吉郎の後を追いかける。何故藤吉郎の態度が急に変わったのか彼女には見当もつかなかった。
 その後は景色に目を留めることもなく庭の真ん中を突っ切るようにして戸口のところまで戻ってきた。そこまで来るとようやく藤吉郎は後ろを振り返り、若干申し訳なさそうに笑った。
「すいません、時間が気になってしまったもので。………どうもありがとうございました。庭、素晴らしかったです」
「いいえ、何のお構いもせずに申し訳ありませんでしたわ」
 わざとらしかったかな、と密かに反省しながら藤吉郎は女性に別れの挨拶をする。どうにもこうにもあの木は苦手だ。未だ拘っていることに自分でも呆れてしまう。あれから何年経っていると思うのか。
 女性に聞いてみたところ、此処から城下までは大して離れていないらしい。何とか日が暮れる前には城へたどり着けるだろう。深く一礼をしてから藤吉郎は屋敷を辞去した。少し歩いてから振り向いてみたが既にその姿は見えず、薄い暗がりの中ひっそりと大きな門が突っ立っているのだけがわかった。
(………あそこでずっとご主人のこと待ち続けるのかな………)
 何処かやり切れないものを感じるがそうしたところで何かしてやれるわけでもない。今、自分は自分の面倒を見るだけで精一杯なのだ。沈み込みそうになる心をどうにか横にそらして藤吉郎は足を速めた。
 少しでも早く城に帰って、そして―――。
 考えに没頭したまま生い茂る草木の中に踏み入った。

 ―――途端。

 さして固くないものに突き当たり藤吉郎は尻餅をついた。思い切りぶつけた鼻先を抑えてフと前を見ると何処かで見たような服装が眼前を塞いでいる。
「………へ………?」
 物凄く嫌な予感に恐る恐る顔を上げる、と。

「………てめぇ………こんな所でなに油売ってやがる………!」

 ―――腹の底から響くような声を上げてその人物は腕組みをしたまま突っ立っていた。染み付いた悲しい習性で慌てて後ろにずり下がりあたふたと立ち上がる。予期していなかった人物の登場に混乱気味だ。

 ―――何だってこの人がこんなところに!?

「のっ………信長様っっ!? 何で此処に―――っっ!?」
「やかましい! 付いてくることも出来ねぇのか、このサルっっ!!」

 バキッッ!!

 刀の鞘で思い切り殴られ藤吉郎は頭を抱え込んで呻いた。いくら殴られ慣れているとはいってもやはり痛いものは痛い。「ケッ」と悪態を付いて信長はすぐ藤吉郎に背中を向けた。
「てめえのせいで余計な時間を費やした………とっとと帰るぞ」
「え? あ、は、はい………」
 歩き出した信長の後ろに痛む頭を抑えて続く。ちゃんと来た道を覚えているのか信長の足取りに迷いはない。
 藤吉郎はその背中を見ながらやや呆けた面をしていた。
 まさか追ってきてくれるとは………はぐれた以上は自分の責任なのだから城に帰り着くまで放っておかれると踏んでいたのに。―――少しは、心配してくれていたということだろうか?
 まじまじとその背中を見つめてしまう。もしかして前日の夜に悪いものでも食べたんじゃなかろうか。あるいは自分と離れた後に落馬して頭を打ったとか魂が入れ替わったとか、もしくは変な妖怪にとりつかれたとか―――。
 そこまで考えてからようやっと藤吉郎はあることに気がついた。これ以上機嫌を損ねないように注意深く控え目に問い掛けてみる。
「あの〜………信長様、サスケは………?」
「あぁ?」
 面倒くさそうに信長が振り返る。ややその視線にびくついたが、すぐ目線が逸らされたので胸をなでおろす。
「知らねぇな。お前と一緒にいたんじゃねえのか?」
「―――? い、いえ、確かにそうですけど………」
「はぐれたにしても帰巣本能ぐらいあるだろーよ、少なくともてめぇよりはな」
 しっかり嫌味を言われて「うっ」と言葉に詰まる。足元の雑草を踏みつけながら藤吉郎はしきりと首を傾げた。
(サスケの奴、どうしちゃったんだ? はぐれるような道じゃなかったよな…………?)
 結局追いつけないで諦めて城へ帰ってしまったのだろうか。信長の言葉じゃないがサスケの帰巣本能は確かなので心配はしていないが―――。
(………なんか………変だな)
 いるハズのサスケがいないことに藤吉郎は一抹の不安を感じた。




「………本当に此処なんだろうな?」
「キキッ!」
 確信に満ちた答え方を受けて信長は仏頂面のまま正面の建物を振り仰いだ。年代を経た由緒ありそうな家屋が目の前にそびえている。こんな所にこんな家があるとは今まで知りもしなかった。大分道筋から離れているから無理もない話だが。
(に、してもだ)
 どうしてサルの跡を追ってきたのにこんな場所につかなければならないのか。言っちゃなんだがあいつに金持ちの知り合いがいるとは思えない。そう考える信長自身「金持ち」の部類なのだが自分のことはしっかり棚に上げている。
「ちっ、面倒くせぇな………無視して城に帰ってりゃよかったぜ」
 叢の中じゃ走れない、とわざわざ馬を街道脇の木立に結んでまでやって来るとは………。
 後悔してももう遅い。来てしまった以上手ぶらで帰るのも何だか癪に障る。とっととサルを探し出して一発ぶちのめしてから引きずって帰るのが最良の策と思われた。
 気後れもせずに堂々と敷地内に足を踏み入れる。信長は辺りを見回して見事な光景に感嘆の声をもらした。何処の酔狂な風流人が作った家かは知らないが、なかなかに雅やかな造りをしている。ゆっくり首を巡らせて景色を逐一眺めていると視界の隅を何か赤いものがよぎった。

「―――誰だ!?」

 瞬時に刀の柄に手をやる。縁側の奥の柱から見える赤い影はそれに怯えたように揺れ、柱の後ろから少しだけ顔を覗かせた。
 薄紅の衣装に身を包んだ、美しい黒髪の女。
 女は警戒するように声を震わせた。
「………どちら様ですか? なにか、御用でも………」
「―――女か」
 気勢を削がれた感じで構えをとく。肩の上のサスケが若干緊張の度合いを増した気がしたので、少しだけそっちを見てから改めて相手の様子を観察する。
 かなり上流の出らしく日焼けしていない肌に、細い首筋。夢を見ている人間のように瞳が頼りなく揺れている。ずっとこの家に閉じこもっていて、もしかしたら世間のことなど何ひとつ知らないのではないか―――そんな印象を抱かせた。
「悪いな、別に脅かすつもりじゃなかったんだが。此処にオレの知り合いが来てるハズだ。何処にいる?」
 歯切れの悪い信長の言葉に少しだけ女は緊張を解き、しばし考え込んでからようやっと答えを返した。
「………先程、私の子を連れて来てくれた方がいますけど? 背の小さい、小柄な―――」
「そいつだ。何処にいる?」
 最後まで聞かずに判断を下す。こんな侘しいところに来る人間などそうはいまい。女はようやく納得がいったように安らいだような表情をすると、次いで柔らかい微笑みを見せた。
「その方なら今、お礼をしようと思ってお持て成しをしている最中です………お知り合いだと言うのならご一緒に如何ですか?」
「持て成しだと!? あんのバカザル、何をこんなところで油売って………!」
 我知らず声を荒げる。
 わざわざ主君たる自分が足を運んでやったというのにその間向こうはのんびり茶の湯を楽しんでいたというのか。それでは文句を垂れつつも真っ直ぐ此処にやってきた自分がただの間抜けではないか。おまけに相手はこんな美人ときている。美人だったらどうと言うワケではないが、信長は無性に腹が立ってきた。
「今すぐ呼んで来い!」
 と、相手構わず命令しようとしたが既に女はいなくなっていた。一瞬唖然とするが何の事はない、すぐ後ろの部屋に引っ込んだのだろう。障子が薄く隙間を開けている。
(あの女、言いたいことだけ言って引っ込みやがって………)
 自分は持て成しに付き合うつもりなんぞ全くないというのに。全くないが、あの女がサルを連れて帰ってくる可能性は限りなくゼロに近い気がした。じゃあさっさと見限って来た道を引き返すかと言うと何の収穫もなく帰るのは対象が何であれやはり腹立たしい。
 すると、奥にいるだろう優柔不断なあの大馬鹿者が話を終えるまで自分は此処に突っ立って待っていなければならないことになる。
 ―――冗談じゃない、それでは普段と立場が逆だ。
 信長の眉間に皺が寄りこめかみにうっすらと血管が浮き出る。

「よぉ〜し、行ってやろうじゃねぇか………サルの野郎、とっちめてやる!」

 藤吉郎にとってこの上もなく不吉なセリフを吐いて信長は縁側に上がった。
 その際にフと何かを感じたように後ろを振り返る。だが別に何もかわったものは見えない。怪訝そうに眉をひそめてから信長は部屋へ足を踏み入れた。
 障子を閉める間際、庭が時節外れの霧に閉ざされていくのが見えた。

 

→ 弐


 

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