― まよひが <弐> ―


 

 足を踏み入れた信長は改めて家屋の中を眺め回した。肩の上のサスケも同じように首を巡らす。まるで人気のない、手入れの行き届いた廊下と壁。埃ひとつ落ちていないのが怪しいと言えば怪しい。肝心の女は何処に行ってしまったのか影も形もない。案内もせずに失礼な奴だ、と内心憤りつつ適当な方向に歩を進める。
 手当たり次第に襖を開け放ち人影がないか確かめる。だが何処の部屋を覗いてみても誰もいない。軽い苛立ちを感じながら更に先に移動した。ひたすら部屋を突っ切って真っ直ぐ進んでいたら、どうやら正面の裏側―――つまり庭まで突き抜けてしまったようだ。やはりそこにも色とりどりの花が咲き乱れ、白い霧の中で儚げに揺らめいている。その真ん中に王者のように聳え立つ大木にふと目が行った。
 雲を突き抜かんばかりに伸びた枝葉がはるか上方まで伸びていて先が見えない。逆に根の方はしっかりと大地にしがみ付き、まるで固まったら二度と動こうとしない鋼のようだ。果たしてこの木の名前は何だったかと記憶を探った時、耳元で聞きなれた声がした。

「あっ………あれっ!? 何で………!」
「―――!」

 即座に振り返り条件反射で拳が唸る。『殴った』という感触と同時に側まで近づいていた小さな影が吹っ飛ばされて壁にぶち当たった。いきなり殴られた人影が頭を抱えて抗議の叫びを上げる。
「いっ………いきなり何すんですか―――っっ!? 酷いじゃないですかっ!!」
「やかましい! 何てめぇはこんな所で油売ってやがるんだ!!」
 間髪いれず信長は叱り飛ばした。これがもし人違いだったらかなりヤバかったがそんな事はなく、信長がぶん殴った人影は間違いなく藤吉郎であった。腰にさした刀に手をやると藤吉郎は目に見えて青ざめて跪いた。
「すっ………すいません、ええと、あの、これには色々ワケがあって………!」
「言い訳すんな! いつ上げ足取りされるかわからねぇってこの間言ったばかりなのに、まだ分かってねぇのかてめぇは!?」
「で、でもっ………子供が泣いてたんすよっ!? 見捨てるわけには………!」
 必死になって弁解する藤吉郎の姿に少しずつではあるが信長の怒りも収まってきた。
(子供が泣いてた、だぁ? そんな理由でまたコイツは………)
 先刻の女の言葉も合わせて考えてみるとつまり、藤吉郎は泣いてる子供に遭遇してそのまま捨て置くわけにもいかず、わざわざ此処まで送ってきてやったということなのだろう。何故自分には子供の声が聞こえなかったのか疑問ではあるが、おそらく馬蹄の音でかき消されてしまったのだろう。
「………でもって、『礼をする』ってゆー相手の言葉を断りきれずに此処にいるわけだな?」
「………すいません………」
 藤吉郎がますます恐縮したように小さくなる。その怯えきった様子に信長は軽く舌打ちした。別に下っ端風情にどう思われようと痛くも痒くもないのだが、此処まで怯えられるのはやっぱり気に喰わない。
 藤吉郎がよろめきながらも何とか立ち上がる。その足が僅かにびっこを引いていることに信長は気が付いた。
 踵を返して背中を向け、ぶっきらぼうに問い掛ける。
「―――足」
「―――はい?」
「どうかしたのか?」
 恐る恐る藤吉郎が顔を上げたのがわかる。しかしあくまでも視線は合わさず、信長の目は真っ直ぐ庭の中心方向に向けられていた。
「あ、いやその………来る途中で転んじゃって………」
「どんくせぇ奴だな、ったく―――さっさと帰るぞ」
 たどたどしい説明を遮り後ろを振り向いた信長は、藤吉郎の背後に赤い影が立っているのを見て動きを止めた。一体何時の間にやって来たのか―――先程の女が柔らかな微笑みを浮かべて佇んでいた。藤吉郎も信長の目線を追い、初めて女の存在に気付いたようだ。「うわっ」と声を上げて若干後ろに跳び退る。
 女は何故驚かれたのかわからないと言うように首を軽く傾けてみせた。
「お二方とも………こんな所でどうなされたのですか? 奥に座ってお待ちになっていらっしゃればいいのに」
「そいつはどーも。でも悪いがオレ達は帰らせてもらうぜ。こう見えても結構忙しいんでな」
 信長がとてつもなく愛想のない声で答える。
 さっきから何なのだ、この女は。人の返事も聞かずに勝手に奥に引っ込むは出てくる時に物音は立てないは………物音に気付かないほど自分がいきり立っていたというコトかもしれないが、取り合えずそれは置いといて。

 とにかく気に入らない。何か知らんがムショーに気に食わない。

 顔だけで言えば結構好みだが、どうも見ていて落ち着かなくなってくる。この女は何処か変なのだ。ぼけてるとか鈍いとかすっ呆けてるとか、そういう類の『変』さではないのだが………。
 信長の言葉に女は悲しそうに顔をくもらせた。
「………無理には、お止め致しませんが………この霧で外を出歩かれるつもりですか?」
「なに?」
 その言葉に虚を突かれて庭を振り向き、何時の間にか白い霧が周囲を全て覆い尽くしてしまっていたことに呆気に取られる。かろうじて数メートルむこうの大木が見えるくらいだ。確かに屋敷に足を踏み入れた時霧が出ているのを見た気はするが、随分妙ではないか。時間にしても季節にしても場所柄にしても、こんな濃い霧が出るような所ではないハズだ。
 思案する信長に藤吉郎がおずおずと声をかけた。
「あの………、少し様子を見た方がいいんじゃ………?」
 余計な一言に厳しい睨みを返すと、藤吉郎は引きつった笑みを浮かべて後ろにずり下がった。それに今更構うことなくすぐに視線を女へ移す。女の方は感覚が鈍いのか余程度胸が据わっているのか知らないが、信長の視線に尻込みすることもなく静かに微笑んでいる。
 ………もしかすると、結構な『曲者』かもしれない。
 外見で判断すると痛い目に合う。そう感じたが確かにこの霧で外をうろつくのは危険だろう。信長は凄まじく不機嫌な顔をして口を開いた。
「いいだろう。ただし―――霧が引いたらすぐにでも帰らせてもらうからな」




「霧………引きませんね」
「………」
 庭に面した茶室でひっそりと藤吉郎が呟く。が、信長は答えなかった。通された座敷で大人しく腰を落ち着けてはいるが、かなり不本意な状況なのだ。思い通りにいかないコトばかり連続して苛立りが募っている。
 賓客として扱われているらしく、通された部屋の造りは見事だし掛け軸や飾られた花などもそこはかとない気品を放っている。手にした茶碗とてなかなかいい品だ。信長とて、いま京の方で流行っているという茶道とやらに興味がないわけではない。芸術作品を愛でる心だってある。いつもならこの部屋中に飾られた茶器を色々品定めしたりして結構上機嫌になっていたかもしれない。だが今は、とてもじゃないがそんな気持ちになれないのだ。
 不機嫌の大半の原因を占めている女は食べ物を用意してくるとか言って奥に引っ込んでしまった。何故か警戒心を抱かせる女がこの場にいないのはまだ良かったが腹立ちが納まるわけではない。と、なると当然信長の考えとしては

(やっぱりさっさと城へ帰ってりゃ良かった)

 ということになり、怒りの矛先は自然藤吉郎へと向く。相手もそれを感じ取っているのか一定距離以上近づこうとはしない。視線を彷徨わせつつ神妙に茶をすすっている。その飲み方が一応茶道の基本にかなったものだったので何故農民出身の人間が作法を知っているのか意外に思う。もっとも思い出してみればコイツは天下布武の意味を知っていたし読み書きもできるし、わりと教養はあるみたいだから大した問題ではないのかもしれないが。
 霧は一向に引く気配はなくその分苛立ちも増す。いっそのこと霧の最中を突っ切って帰るか、と壁にもたれていた体を起こした瞬間―――軽い眩暈を感じて信長はこめかみを抑えた。
「どっ………どうかしましたか?」
 藤吉郎が心配そうにこちらを窺う。
(何だ………?)
 疲れとか考えすぎからくる眩暈ではなさそうだ。そんなもので眩暈を起こす程ヤワな体ではない。信長は素早く部屋の中を見回した。
「サル………この部屋、何処かで香を焚いてないか?」
「香………ですか? ちょっと待っててください。探してみますっ」
 藤吉郎が立ち上がり、やや片足を引きずりながら部屋のあちこちを調べる。その様子を眺めながら信長はしきりに考えを巡らせた。
 何故そうするのかという理由は一先ず置いといて、眩暈の原因として気付かない内に何らかの香が焚かれているのではないかと思ったのだが―――それだったら藤吉郎にも影響が出ているハズだ。しかし見たところいつもと変わった様子はない。だが図体のでかい自分の方が先に影響を受けるなんてどう考えてもおかしい。体格から言えば一番小さいサスケが最初に何らかの反応を示すハズで―――。
 そこまで考えてからハタと気が付いた。藤吉郎に懐いているハズのサスケが何故か自分の肩に乗ったまま動こうとしないということに。当惑にも似た疑問が湧きあがる。
「………おい」
「はい?」
 棚の上を覗き込んでいた藤吉郎が背伸びをしたままで振り返った。
「………何でコイツは、お前のところに行かないんだろうな?」
 肩の上のサスケを指差すと藤吉郎は困ったような笑いを返した。
「………多分、そっちの方が居心地いいんじゃないすか? オレ、背ぇ低いですし」
 答えになってるのかなってないのかよく分からない返事をして作業に戻ってしまう。部屋の中には幾つも壷や茶器が置かれていて調べるだけでも結構手間がかかる。
 ゆっくり、サスケの様子を見た。やはり何かしら影響が出ているに違いない。信長の肩の上に乗りながらも何処かぼんやりしていて、時折り落ちそうになっては慌ててしがみつき直している。食い込みそうな程に爪を立てて何かを警戒するように耳をピンと張っている。それを見てから再び藤吉郎の後姿にじっと目線を注いだ。

 ………まさか………?

 ―――馬鹿らしい、とその考えを瞬時に捨て去る。しかし捨て去った側から同じような疑念が沸き起こってくる。
 馬鹿らしくて下らなくて、その上何の根拠もない。
 ただ胸の奥底から湧き上がってくる奇妙な疑念だけがその考えの拠り所だ。よくよく考えてみなければならない。確かにこの場は何かがおかしい。藤吉郎はまだ何かゴソゴソと探し物をしているがそれを気にかけている場合ではなさそうだ。
(―――冗談じゃねぇ………)
 こんな考えに悩まされるのなんてゴメンだ。どうして自分がこんな下らない考えに取り付かれなければならないのか。
 迷いを振り切るように素早く立ち上がる。が、立ちくらみに襲われて思わず壁に手をついた。
「どっ………どうしたんですかっ? まだ何も見つかってないんすけどっ………」
「―――」
 駆け寄ろうとした足音を目線で食い止めると固まったように藤吉郎はその場で静止した。戸惑いの表情で頼りなげな目を向けてくるその姿は、確かに自分がよく見知ったものではあるのだが―――。

 微妙な違和感が、ある。それは自覚のない直感のようなものだ。

 思い返してみれば此処で再会した時の自分はかなりいきり立っていて、ぶん殴った相手の印象なんて気にも止めなかった。そう、おそらく奇妙なズレを実感したのはあの時だ。女がこの場に留まれと言った、霧が濃いから危険だと言った、その時に―――。
 コイツは女の肩を持った。それ自体はさして奇妙なことではない。だが気になったのはその時の目つきだ。何処が違うとも言えない、非常に頼りない感覚だけの問題。懐いているハズのサスケが何故か自分の肩に乗ったままでいる、そして明らかに人体に有害な物質が出ているこの場でひとり平然としているという幾つかの事実の積み重ねだけが。
「………おい、サル」
 確かめなければいけない。
「そう言やあ、お前―――あの時オレに何て言ったんだ? よく聞き取れなかったんだがな」
「へ………?」
「信友のヤローをぶっ殺した、あん時の帰り道だ」
 藤吉郎は僅かに動揺を示した。信長は注意深く壁に寄りかかっていた体を起こし、気付かれないように手元を刀の柄にかけ徐々に足場を出入口付近へと移動させていく。頭の痛みはいよいよ酷くなってくるようだ。それを顔には出さず、信長はただ黙って耐えた。いっそ頭の痛み故の単なる錯乱だと思いたい。

 ………でないと、自分は。

(………何考えてんだ、オレは。たかが一介の草履取りだぞ………)
 藤吉郎は幾分迷ったかのように瞳を伏せて、ややもして顔を上げた。そして申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。
「………大した内容じゃないですよ、忘れてください。言ってみただけですから」
 その言い方は聞きなれたものと寸分違うことなく耳に響いてくる。
 やはり自分の勘違いかと揺らぎそうになった考えは、次の言葉で一蹴された。

「―――信長様」

 ―――刹那、
 閃いた刀が襖を一断した。

 凄まじい速さで繰り出されたそれを藤吉郎は頭を屈め寸前で避けた。床に這いつくばるような形から必死に体勢を立て直す。
「ちょっ………い、いきなり何ですかっ………!?」
「黙れ………このニセモノが………!」
 歯軋りをして刀を強く握りなおす。
「他の奴らならいざ知らず、このオレを騙そうとはいい根性だ。今すぐたたっ斬ってやる。そこに直れ!」
「そ、そう言われて素直に直る奴がいますか―――っ!!」
 再び閃いた刃を藤吉郎は直前でかわす。信長の動きにはいつものキレがない。眩暈と頭痛に襲われている所為もあるが、それ以上に動きを鈍らせている原因は―――。
 きつく、唇を噛み締める。
 何を躊躇っているのか。コイツがニセモノに違いないと言う思いは、もはや確信に近いというのに。
 危害を加えられたわけではないがそうなってからでは遅い。何よりもやり方が気に食わない。だから………斬り捨てる。こんな手段なんか二度と出来ないように。
「落ち着いてくださいよ―――っっ! ホントにどうしたんですかぁぁっっ!!」
 必死になって泣き喚いてるその姿はどう見ても『ホンモノ』のようで。かといって『ニセモノ』だとしたら尚のこと腹立たしい。その正体に関係なく切り捨てたところで自分が気にする必要は何もないけれど。

 けれどやはり―――寝覚めが悪い、というものだ。

 だからといって手加減してやる余裕も遠慮も自分にはこれっぽっちも存在しないのだが。
 部屋の隅に追い詰めて刀を振りかぶると怯えきった瞳が見えた。それに気圧されたかのように信長の動きが僅かに止まる。するとその隙を狙うように、相手が何か鈍い輝きをしたものを懐から取り出し投げ付けた。
「なっ………!?」
 飛来したくないを刀で叩き落す。突然の反撃に元から本調子ではない信長が思わず体勢を崩す。藤吉郎は黙って新たなくないを懐から抜き出し間髪入れず斬りつけてきた。
「キキ―――ッッ!」
 それまで信長の肩の上で振り回されていたサスケが突如藤吉郎に飛び掛かる。顔にしがみ付かれて藤吉郎がうるさそうにサスケを引っぺがした。それでもめげずにサスケは再度飛び掛り、自力で解いたらしい足首の白い紙片を相手の体に貼り付けた。
 直後―――凄まじい絶叫が辺りに響いた。
 触れたところからまるで強力な薬品をかけられたかのように衣服が破け肉が爛れ骨がのぞく。火で焼いたような白い煙が立ち昇り肉が焦げる臭気が鼻を突いて辺りに広がる。
 藤吉郎が激しい憎悪の瞳で睨みつけ、サスケは恐怖に体を震わせて飛びのいた。

「お前………何処でそんなものを―――っ………!?」

 ―――その言葉は。
 最後まで続けられることはなかった。

 彼は何が起こったのかわからないという表情で自らの胸を貫いている鈍い光を見た。徐々にその目線を上へと移し、見出した人物の顔をまじまじと見つめる。手元まで流れてくる赤い液体を拭おうともせず刃を突き立てたまま相手の目を見据え―――刀の主は苦々しげに呟いた。

「………そんな表情………してんじゃねぇよっ………!」
「………あ………?」

 紙片ごと藤吉郎の体を貫いた刃は背中を突き抜けて背後の壁まで達していた。とどめを刺すように深く相手の体を抉る。内臓の繊維が切れる生々しい音と感触が直に伝わり、血と肉片が床に飛び散り染みを作った。刀を引き抜くとその動きに従うように体が崩れ落ちる。
 自らの体から流れ出た赤い血溜まりの中から、藤吉郎は溺れた人間のように手を上げて信長の服の裾を掴んだ。弱々しく開閉が繰り返される口が途切れ途切れの言葉を紡ぐ。耳を塞げばいいものを、何故かそうすることも出来ず信長は瞬きもせずに足元のモノを凝視していた。

「………どう、し、て………」

 喉が激しく上下して器官をすり抜ける空気が寒々しい音を奏でる。大きめの瞳から透明な雫が滴り落ち、その雫はすぐに血の色と混じりあい判別がつかなくなる。

 ―――違う、ニセモノだ。コイツはニセモノだ―――………。

「………どう………し、て………? と―――」
「―――っ」

 強く信長は目を瞑り、最後の一撃を振り下ろした。鈍く重い手応えを最後に裾を掴んでいた感触が消え失せ、同時に言葉も荒い呼吸音も聞こえなくなる。
 信長自身、目を閉じたまま乱れた呼吸を静めようと必死になっていた。

 ―――手が震えている。何故だ?

 天を仰ぎ、心を落ち着かせようと深呼吸をする。足元にあるものに目をやろうともしない。歯を食いしばり痛む頭を抑えようと左手を上げて、それが血まみれなのに気付き愕然となる。左手だけじゃない。右手も、刀も、掴まれた裾も、何より返り血を浴びた体全てが毒々しい赤色に染められている。
 呆然としていた信長は肩にかけられた重みに我に返った。サスケが心配そうな顔をして覗き込んでいる。その瞳に宿る正常な光に心底安心していつも通り強気な笑みを顔に刻んだ。
「―――こんな所に長居は無用だな、行くぞ」
 全てを捨て去るように体を返し―――その先に、マズイ事態が生じていることに気が付いた。
 襖を開け放った奥の部屋で薄紅の衣を纏った女が色をなくして立ち竦んでいる。細かく体が打ち震え目は見開き完全な心神喪失状態に陥っている。

 ―――この事態をどう説明する? 『あれ』がニセモノであった以上、無関係とは思えないが………。

 信長は女に向かって歩を進めた。足が何か粘着性のある液体を踏みつけたようでぬめって転びそうになる。それでも意地のように信長は一定角度以上目線を下に降ろそうとはしなかった。
「おい、女。これは―――」
「………あ、ああ、あああ………っ」
 女は悲鳴とも呻きともつかぬ声を上げると、驚いたことにこちらに向かって素早く駆け寄ってきた。視野に入っていないのか信長の側をあっさりすり抜け足元の肉隗のもとに座り込む。女の動きを目で追ってしまった信長は隅に映った赤い影から無意識の内に目を背けた。
 女は既に事切れているその肉体を抱え上げ愛おしそうに抱きしめ頬を摺り寄せる。
「………ひどい………なんてひどいことを………!」
 薄紅の衣装が赤みを増し黒髪にとめどなく流れる液体が絡み付いていく。自らの頬も髪も手も紅に染め上げるような女の行動を見て、何故か信長は数歩あとずさった。その気配を敏感に感じ取り女が顔を上げる。くっきり見えるようになったその表情に息を呑む。
 顔の作り自体は変化していない。なのに髪が乱れただけで、目が虚ろになっただけで、その顔に血糊がついているだけで。

 ―――これほどまでに、『変わる』ものなのか。

 女が口元を歪めて薄く笑う。最初は低く微かだったその声が徐々に高まり、屋敷全体に響き渡るほどになる。我知らず唾を飲み込み防衛本能から刀を構え直した信長の眼前で女の黒髪が怪しく揺らぎ始めた。
(―――マジ………か!?)
 頭痛も眩暈も何処かにすっ飛んだ。
『髪』自体が蠢いて見えるなど―――どう考えたっておかしい。変だ。あるハズがない。
 胸元に赤く変じた肉塊を抱え、ゆっくりと立ち上がる。

「………殺したねぇぇ………」

 頬に笑みを刻んだまま。

「………殺したんだねぇ………わたしの子ぉ………っっ!」

 その目が赤く閃き―――直後。

 ―――――!!

 甲高い悲鳴のような音をたて室内の陶器全てが砕け散った。咄嗟に覆った耳から手を外し戦慄する。
(………笑ってやがるっ………!)
 掌にこびりついた血と汗を袂で拭う。視線を女から逸らすわけにはいかない。逸らした途端にやられる。だが思考が別の方向に働き始めともすれば集中が途切れそうになる。
 確か、先刻確かにこの女は。
(………『わたしの子』………って言ったのか?)
 刀を構えた姿勢のまま徐々に後退する。あと数歩で庭に出られるというところで再び女の目が赤く輝いた。
「キッッ!?」
「―――やべぇっ!!」
 即座に身を転じ庭に飛び降りる。側の襖と障子が音を立てて吹き飛んだ。その威力に驚いて振り返り、信じられない光景に目を疑う。
 黒くうねった髪が蛇のように絡み、動きあい、長さと量を増して部屋全域を覆い尽くそうとしている。髪の流れに飲み込まれた襖の残骸や茶器の破片が更に細かい塵へと押しつぶされていく。足首に巻きつこうとしたそれを刀で払いのけ―――もはや山にしか見えない髪の洪水の奥に赤い目を見出した時、信長は一も二もなく外に向かって駆け出していた。
(クソったれ………倒す手段がねぇっっ!!)
 人間の形をしていた時ならともかく、あんな毛むくじゃらの小山のようになってしまったモノ相手にどうやって立ち向かえと言うのか。ニセモノを倒した時のような札なんぞ自分は持っていないのだ。
 未だ白い霧に覆われた庭の中どうにか門のところまでたどり着く。左右を数度見回すと勘を頼りに走り出した。
「サスケ―――ホンモノを探せっっ!!」
「キキッ!!」
 霧に踏み出したその奥から、女の甲高い笑い声が追いかけてくるようだった。




「………あれ?」
 何か聞こえたような気がして、藤吉郎は足を止め後ろを振り返った。また何か聞こえるかと少し待ってみるが何もない。首を傾げて前を行く信長の後を追いかける。時節外れの霧が発生しているためちょっとでも遅れるとすぐに離れてしまう。大体、身長が違うということは歩幅が違うということだ。コンパスが小さい分藤吉郎は信長より歩数が多くならざるを得ない。背丈の差ってキツイよな、と愚痴にも似た想いを抱く。
 ………それにしても。
 藤吉郎は信長の後姿をマジマジと見つめた。先刻からやたら自信たっぷりと歩いているが本当に道がわかっているのだろうか? 自分の方からはぐれたという負い目もあって―――それでなくてもこの主の行動に口を挟むのは命がけなので―――控えていたのだが、どうあってもこれは問い質してみなければなるまい。
「あ、あの、殿―――」
「なんだ」
 物凄く不機嫌そうな声に内心びびりながらも、負けてたまるかと気合を入れ直して問い掛ける。
「帰り道―――ちゃんとわかってるんですか?」
「そんなもん知らねぇな」

 間。

「ちょっ………ちょっとぉぉ―――っ!? そのクセして自信たっぷり歩いてたんですかあ―――っっ!?」
「うるさいっ、もとはと言えばてめぇが悪いんだろうがっっ!?」
 顔面に強烈な蹴りを食らって思わずうめく。………確かにそもそもの原因は自分かも知れないが。
「でもその後自信有り気に歩いてたのは殿じゃないですかっっ!! ちゃんと確認してから帰りましょうよっ!」
 ―――とは、心の中だけの叫びである。こんな状況でツッコミを入れたら火に油を注ぐようなものだ。
 何にせよ、この事態はかなりヤバイ。四方八方を霧に取り囲まれ元来た道筋も最早判別がつかない。かといって闇雲に進んだところで何処かにたどりつけるという保証はない。まあ、あまりに帰るのが遅くなれば城から捜索隊が出されるだろうが―――地元の森の中で迷子になるとは何とも情けない事態である。主君の名誉のためにも出来ればそれは避けたい。
 辺りを見回して手頃な木を探す。
「此処でちょっと待っててくださいっ。オレ、道確認してきますからっ」
「どうやって探すつもりだ?」
「木に登れば何か見えるかもしれないし―――とにかく待っててください」
 わりと高さがありそうな木に手をかけてよじ登る。こういう運動神経が要求される仕事は苦手なのだが、まさか主君にやらせるわけにもいくまい。
 どうにかこうにか頂き近くまで這い上がる。グルリと首を回してみたが見えるのは一面霧ばかりだ。これでは道なんか見つけられそうにないと深い溜息をつく。それでも諦めずに目を凝らすと大分離れた位置に何か建物が見えた。おそらく先程立ち寄ったあの屋敷だろう。
「何か見えたか?」
「いえ、何も―――っ?」
 下から聞こえてきた声に返事をしようとした途端、支えが突如消失し体が宙に浮いた。
 マズイ! と思ったが後の祭り。足を踏み外して真っ逆さまに木から滑り落ちた。
「うぎゃっっっ!!」
 地面に思い切り激突して瞬間意識を失いそうになる。木の枝に引っかかりながら落ちたため然程スピードがついてなかったのが不幸中の幸いだ。落ちた地点にも葉がつもっていたので若干衝撃を和らげてくれたようだ。
 ―――が、それでも痛いものは痛い。
「何やってんだお前はっ!?」
「………っつぅ〜………」
 頭を抱え前屈みになったまま返事も出来ずに地面に手をついてどうにか痛みを堪える。痛さに体が傾ぐと懐からくないが滑り落ちて掌を直撃した。走り抜けた鈍痛にまたしても歯を食いしばる羽目となる。
 ………踏んだり蹴ったりもいいところだ。
(ああ………何かオレって、すっごい間抜けっっ………!)
 自分では泣いていないつもりなのだが藤吉郎の目からはしっかり血の涙が流れている。流石にこのザマには信長も同情したらしい。
「………大丈夫か?」
 幾分声のトーンを下げ後ろからやや遠慮がちに問い掛けてきた。
「あ、はい、大丈夫で―――」
 懐に仕舞い込もうとくないを手にした瞬間、藤吉郎はそのままの形で凍りついた。背後に立つ信長が不審そうにそれを見るが気付いた様子もない。
 藤吉郎はそんなもの一切感知せず掌の武器を握り締めたまま痛みも忘れて我が目を疑っていた。
(………って、え? 何で? どうして、こんな―――)
 よく磨きこまれたくないの表面には周囲の景色がうっすらと反射している。色の明暗がわかるぐらいではっきり見て取れるわけではないが、そこには森の木々や草花、そして自分自身の姿が映し出されている。
 ………映し出されているのに。
(………見間違い、だよな?)
 光の加減とか反射の角度とか、あるいは先刻頭を打った衝撃で自分の視力がおかしくなってるとか。
 でも、何度目をこすってみても武器の角度を変えてみても光の加減なのかと試してみても、どうしても映らないのだ。

 ―――後ろに佇んでいるハズの、信長の姿だけが。

 理解した途端、急に寒気に襲われた。周囲の気温が一気に下がったような気がする。
「………どうした、頭でも打ったか?」
 確かに打っている。いっそのコトそのせいで自分がおかしくなったんだと思いたいほどだ。耳に届く相手の声は別に普段と何ら変わりはない。
 けれど、よくよく考え直してみれば。
 ―――何か、おかしくはなかったか? いるハズのサスケがいなかったり信長らしくもなく後先考えずに森の中に分け入ったり、自分に八つ当たりする―――のは、いつも通りだけど………。
(大体、オレを迎えに来るって辺りからして変じゃないかっ!?)
 外気温だけでなく自分の体温まで下がったような気がする。足音が近づき、それから逃れるように跳ね起きてやや後方に下がった。信長が実に不思議そうな顔をしてこっちを見ている。早まる鼓動に気付かれないよう注意深く言葉を選ぶ。
「と………殿、あの、殿は―――ホンモノですよね?」
「あぁ? 何言ってんだ、お前」
 言葉を選んだつもりが思い切りそのまんま尋ねてしまった。やはり人間、混乱するとまともな思考は働かない。信長が苛立ったように表情を変える。もしこれで全部勘違いだったりしたら自分の命はない。いや、でも確かに何かが変なんだと自分自身を叱咤激励する。
「い、いえその、あの、だから―――ホントに大したことじゃないんですが………すいません、オレの隣に並んで立っていただけますか?」
 そう言いながら前方にくないを差し出す藤吉郎の様子に信長が眉をひそめる。常識的に考えれば脈絡のない意味不明の行動としか思えない。隣に並んで立ったらどうだと言うのか。単に藤吉郎としてはくないにきちんと姿が映るか確かめたいだけなのだが―――差し出した刃のさして明瞭でもない風景の中、自分ひとりが不安げな面持ちで立ち尽くしている。
 信長は軽く鼻で笑ったようだった。足元の草を踏みつけて藤吉郎の隣に並ぶ。
 何ら揺ぎ無いその態度にやはり自分の思い違いだったのだろうかと緊張が緩む。それでもまだ震える手元に目をやり―――激しく後悔した。
 現実に信長は横に立っているというのに、映し出された虚像の中にはやはり自分以外には誰も………。

 ―――いなかったのだ。

 途端、電流のような殺気を感じ本能的にしゃがみ込む。逃げ遅れた数本の髪の毛が音もなく宙に舞った。更に横薙ぎできらめいた光を避けるため前方に転がると左腕に痛みが走った。
 ―――斬られたっ!?
 右手にくないを握り締めたまますぐさま振り返る。見つめる先で信長が刀を構え不敵に笑っていた。その切っ先に微かではあるが赤い血がこびりついている。
 何が起こったのか考えがまとまらず、みっともなくへたり込みながら後ろに下がっていくしかない。
「なっ………えっ? ど、どうしてっ………」
 頭の中身がグルグルと回り何が何だかわけがわからない。
 つまり、結局のところその姿は映し出されなくて。そしたら、いきなり斬りつけてきて。要するにそれの意味するところは正体がバレたから殺そうという考えであって。
 ―――ということはやはりこの目の前にいる人間は。

(のっ………信長様じゃない………っ!?)

 食い入るように目の前に立つ人物を見る。―――どう見たって本人としか思えない。双子といえどもこうは似ないだろう。振り下ろされた一刀をどうにか紙一重で避ける。
 冗談ではない。確かに自分は信長のためなら死んでもいいと考えていたし、その手で殺されるならそれも仕方ないかと思っていた。けれどよりにもよって瓜二つの『別人』に殺されるなど真っ平御免である。
(よ、よく分からないけど………こんなそっくりな奴、町に出てったりしたらとんでもないことになるっ………!)
 結構付き合いの長い自分とて気付かずにホイホイと付いて歩いていたのだ。他にも正体を見抜けない奴はゴマンと出てくるだろう。どんな騒ぎになるか想像もつかない。平和的解決策として影武者になってくれるほど大人しい相手でもなさそうだし。
 藤吉郎はくないを握り締め相手を睨みつけた。
 向こうは相変わらず余裕の笑みを浮かべたままこちらを見ている。

 ………倒さないと。

 そう思っても背中を冷たい汗が流れて止まりそうにない。緊張のせいかその他の理由かわからないが鼓動が早まり、耳を打つその音がやたら大きく聞こえて喧しい。

 ………殺さないと………っ。

 思う先から決意が揺らぐ。今ここでやらないと大変なことになる、それは分っているのだ………が。
「………っ!」
 藤吉郎は一度きつく唇を噛むと唯一の武器であるくないを懐にしまい込んだ。相手がその行動に呆気にとられた隙に背中を向けて走り始める。体の奥底から搾り出したような声が辺りに響いた。

「ちっっ………くしょぉ―――っ! 出来るワケないじゃないかぁぁ―――っっ!!」

 後ろから自分と同様草花を踏みつけながら走る音が聞こえてくる。何度か刀の鋭い切っ先が体をかすめ、肝を冷やしながらも藤吉郎は速度を緩めようとはしなかった。
 こちらが手を出せなくとも向こうにはそんなの関係ない。むしろ反撃してこないのだから好都合というものだ。捕まったらあっさりぶった斬られてしまうだろう。そんなことになったらあいつの正体を知る者が誰ひとりいなくなってしまう。あのニセモノが何をするつもりか知らないが、とにかくロクなことにはなるまい。
 だからこそ死んでたまるか! と思ってもあの外見相手に刀を振るうことなど自分には出来ない。情けないと罵られようと忠誠心が足りないと責められようと、どうしたって出来ないのだ。
(とりあえず、あの屋敷まで逃げてっ………!)
 巻き込むことになるあの女性と子供に悪い気がしたが一番近くにある人家があそこなのだ。姿を晦ますための場としてだけでもいい、この状況から逃れられればその後は何とか―――。
 そこまで考えても最終的にどうすればいいのか結論が出てこない。今はただ逃げる、それしか方法がないように思えた。
 勢いよく目の前の高い茂みを飛び越える。
 ―――と、何かの影にぶつかって藤吉郎は激しくひっくり返り尻餅をついた。さして固くなかったところから判断すると木とか塀とかではなさそうだが………。
 何だ何だ、とぶつけた鼻を抑えながら慌てて上体を起こす。向こうも同様に衝突の反動で地面に座り込んでいるようだ。人間か、と内心安堵の息をついたが起き上がった相手の顔を見てまたしても藤吉郎は静止した。

(………とっ………殿………!?)

 ―――そう。激突した影もまた、『織田信長』だったのだ。

 言葉もなくふたりとも申し合わせたかのようにその場に凍りつく。同じように地面に座り込んだ体勢のまま、まるで点対称のようにゆっくり互いの手が上がり相手を指差して………。
 しばし、沈黙。
 何度か口を意味なく開閉して、言葉が出たのはまたしてもふたり同時だった。

「………おい、お前は―――」
「もっ………もももももうひとり出たぁぁぁ―――っっ!!?」
「! 誰がもうひとりだぁ―――っ!!」

 スバらしい勢いで容赦ない蹴りが腹を直撃する。藤吉郎は「ぐえっ」とうめいて腹を抱えこんだ。いきなり強烈な蹴りをくらって地面に突っ伏した彼のもとに木陰から飛び出した小さな白い影が駆け寄る。腹を抑えて痛みを堪えつつ、その白い影をしっかと受け止めた。
「サっ………サスケ………!?」
「キキッ!!」
 サスケが実に嬉しそうな鳴き声を上げて藤吉郎にしがみ付く。それはいいとして………何故、今ここにサスケが現れるのか。混乱の極地に陥った藤吉郎は何度も視線をサスケと信長の間で往復させた。
「あ、あれ………? サスケがいるってコトは、本当に信長様………?」
「何が『本当に』だっ、ふざけてんじゃねぇ! オレはオレ! この世にたったひとりしかいない織田信長という人間だ! てめぇだってそうだろうが!?」
「はっ………はい、そうですっ!」
 叱り飛ばされて思わず背筋をピンと伸ばす。逡巡していた藤吉郎にとってその声と言葉は何よりも確かな『証拠』だった。理性より感覚に働きかけるような絶対的圧倒的な力でもって。
 そうだよ………そうだよな、と説明しがたい感情に襲われて知らず知らず目頭が熱くなってくる。どうして此処にホンモノがいるのか分からないが、とにかく再会できたのだ。顔を俯けて腕の中のサスケをきつく抱きしめる。サスケは苦しいだろうに抗議もせず大人しく腕の中に納まっていた。
 しかめっ面で横を向いていた信長だったがふと藤吉郎の左腕に目を留め怪訝な顔をした。
「………怪我、してんのか?」
「あ、これは………っ!?」
 セリフの途中で背後に妙な気配を感じ取り、藤吉郎はハッと立ち上がると信長に向かって走った。
「殿っ、伏せてくださいっっ!!」
「あぁ!?」
 返事もきかずに信長に体当たりをかます。ふたりしてもんどりうって倒れたその上の空間を刃が鮮やかな軌道を残して切り裂いた。草陰から飛び出した新たな人物に信長が驚愕の声を上げる。

「オ………オレ!?」

 だが、もうひとりの信長はそんなのに頓着した様子はない。すぐさま斬りつけてきた刃を信長は上に圧し掛かっていた藤吉郎を跳ね除け受け止めた。当然藤吉郎は地面と抱擁する羽目になるが当事者たちにとってはそれどころではない。一合、二合と打ち合って距離を置き、再び詰め寄って切り結ぶ。ふたりの腕前は互角らしく刃をすり合わせたままどちらも退こうとしない。
 信長と信長が激しく斬り合っているその側で立ち上がった藤吉郎もまた激しく悩んでいた。勿論彼としてはホンモノに加勢したいのである。しかしまだまだ経験が足りないと言うか不可抗力と言うか何と言うか………助力しようにもどちらが『ホンモノ』かわからなくなってしまったのだ。―――よく聞く話ではある。
 刀が空を斬る度に息を呑み、霧の中に鮮やかな火花が浮かぶ度に立ち往生してふたりの争いを見つめるばかりだ。思考回路は働いているのだがあまり役立ちそうにない。試しにその中身を抜き出してみるとこうなってしまう。
(あ、あああ………どうしようオレも早く加勢しないとっ。殿が、殿が危ないってゆーのにオレはぁぁ―――っ!! 考えろ、考えるんだ、ニセモノとホンモノを見分ける方法を! 例えばホンモノしか知らないような質問をするとかっ! 夫婦の会話なんてどうだ? 「あなたご飯にする? それとも先にお風呂かしら?」―――って濃姫様がこんなこと聞くわけないよな。却下だ却下。えーと、じゃあ生駒の方を口説いた時のセリフとかっっ! ああダメだ、そんなんオレにも正解がわからないぃぃっ!!)
 ―――と、このように果てなく彼の頭は無意味な回転を続けていたのである。この状況下で暢気と言うか何と言うか………。それ以前の問題として「果たして真剣に斬りあってる人間に質問に答える暇があるのか」という考えさえ浮かばないようなのだ。相当に混乱していると言えよう。
 それでも必死に頭を抱えて打開策を練る。
(お、落ち着け。落ち着くんだっ。焦ってばかりじゃ何も浮かばない! こんな時は落ち着いて―――)

「舞うのだっ!!」
「キキ―――ッッ!!」

 舞ってどうする! とばかりにサスケの芸術的な後ろ回し蹴りが藤吉郎の後頭部に炸裂した。実に主人思いのいい猿である。
 ともあれ頭部への衝撃によって藤吉郎は若干冷静さを取り戻したようだった。蹴られた個所をさすりながら注意深く両者を観察する。いくら外見が似通っているとはいえ必ず何処かしら違いがあるハズだ。それを見極めるしかない。間違ってホンモノに攻撃を仕掛けてしまったら取り返しがつかないのだ。
 利き腕は、同じ。服装も背丈も髪型も、当然同じ。動きのくせ―――も何も、普段刀を振るって戦っている様を見たわけではないからどうしようもない。
 はやる心を抑え必死になって藤吉郎はジッとふたりの戦いを見つめた。やがて手にした刀の微妙な違いに気がついた。型とか長さとかは全く同じモノのようだが、尖端の光が僅かに濁っている。何かを斬ったのだろう、その部分だけが他と違い光の反射が少なくなっているのだ。片方の刀の濁りはほんの少しだけだ。そして、もうひとりの刃の濁りは柄の方まで及んでいる。よくよく見ればその手には何かドス黒い液体がこびり付いたような跡が認められた。更に言えば服にも返り血を浴びているように見える。
 そっと斬られた左腕を抑える。………斬られた瞬間、血は出ていただろう。ニセモノの刃には確かに自分の血が付いていたから。けれど柄まで血に浸すような酷い傷ではない。

(あっちが、ニセモノだ―――………!)

 決断を下し駆けつけようとして、また立ち止まる。………どうやって加勢すべきなのか?
 当然戦いながら向こうも移動しているのだ。ニセモノに斬りかかっていったつもりが、突如位置が入れ替わって「ホンモノに斬りつけちゃいました」とかなったら目も当てられない。
 またしても立ち往生しそうになった時サスケがバシバシと藤吉郎の胸元を叩いた。何が言いたいのかと見下ろすと、どうやら懐の中の物を示しているようだ。それだけで藤吉郎はサスケの言わんとするところを理解した。
 なるほど………それなら、どっちがホンモノかなんて悩む必要はない。やればわかることだ。
 その頭をひとつ撫でてやってから懐に手を突っ込み、二枚の紙片を取り出して片方をサスケに握らせる。
 眼前では一進一退の攻防が切れ間なく続けられている。
「サスケ………いいな?」
 その頷きを確かめる暇もあらばこそ、藤吉郎は斬り合いを続ける影に向かって突っ込んだ。

「でぇぇぇぇ―――っっ!!」
「何だぁっっ!?」

 突然の特攻にふたりの動きが一瞬止まる。その機を見逃さず藤吉郎は左側に、サスケは右側の人影に飛びつくとそれぞれ手にした紙片を相手の体に貼り付けた。
「いきなり何なんだ、てめぇはよっっ!!?」
 左側の方はすぐに荒々しく藤吉郎を振り払うと、剥がれ落ちた紙片に疑い深そうな目を落とした。
 ―――そして、右側は。

「う………ああぁ―――っっ!!?」
「キッ!?」

 サスケの貼り付けた紙片は丁度顔面に納まっていた。その部分が急に白い煙を上げ音を立てて崩れ始める。肌がめくれ肉がこそげ落ち、骨が姿を晒した。紙片を取ろうと手を伸ばすが、触れた瞬間その手も同様に解け始め更なる絶叫を上げる。零れ落ちた肉片が地面に薄紅の染みを広げていく。
 苦しげに振り回した腕が肩に引っかかったままのサスケを跳ね飛ばした。
「! 危ないっっ!」
 地面に激突しかかったのを寸でのところで藤吉郎が受け止める。再び顔を上げたが、もはやそれは見るに耐えない光景だった。頬から始まった溶解が全身に勢力を広め際限なく地面に血溜まりを作る。抑えようとした掌でさえ既に原型を留めておらず、覗いた骨が尚、神経を残しているかのように細かく震え虚しく動く。

 音と煙を上げながら、『人間』が解けていく………。

 信長は刀を構え直し相手を強く睨んだ。この状態ならとどめを刺してやる方が親切というものだ。
「………勝手に人のカッコして―――」
 それでも歯向かうように向けられた刀を一撃のもとに叩き伏せる。

「人のモンを―――追っかけてんじゃ、ねぇよっっ!!」

 振り下ろした刃が崩れ落ちる体を真っ二つに切り裂いた。煙と体液が辺りに撒き散る中、何かが抜け出したかのように崩れる体から強い風が巻き起こり、まるで嘘のようにその影は半分以下の大きさに縮んだ。
「………あっ………!?」
 藤吉郎が驚きの声を上げる。その響きに恐怖からきた声ではないことを感じ信長が訝しげに振り返った。切り捨てられた物体は地に伏したまま未だ白い煙を上げ続けている。
 信長とサスケが見る前で藤吉郎はその物体―――死骸に駆け寄って膝をつき、恐る恐るではあるが煙を払いのけると顔に貼りついたままの紙片を取り上げた。すぐに紙片は音もなく崩れ消え去ってしまう。それが貼り付いていたハズの顔もドロドロに解け最早判別がつかない。
「………どうしたってんだ?」
 信長も改めて死骸に目を向けて言葉につまった。確かに斬ったのは自分と同程度の体格の奴だったのに、後に残された死骸はどう見ても子供の大きさだったのだ。我知らず苦虫を噛み潰したような顔になる。
 藤吉郎は呆然と足元の死骸を見つめ震える声で呟いた。

「………オレの………助けた子に、似てたんです………」

 その後に言葉を続けることは出来なかった。返事が返されることもない。
 ………似ていたら、何だ。もしそうだとしても………何だ。

 ―――自分たちは殺されかかったのではなかったか。

 声もなく沈み込む藤吉郎からバツが悪そうに信長が視線を逸らす。が、次の瞬間には何かに気付いたように振り向いて藤吉郎の服の襟首を引っ掴んだ。
「下がれっ!」
「―――えっ!?」
 前触れもなく襟元を掴んで後ろにすっ飛ばされた。直後、藤吉郎が座っていた空間を黒い物体が掠める。喉元を締め付けられてかなり苦しいながらも藤吉郎はしっかりとそれを目視した。
 叢の奥から何か黒い絹糸か麻のような物体が顔を覗かせていた。濡れたような色をしたそれが意志を持つ動物の如くうねり、くねり、溶けてしまった肉塊に絡み付いていく。そいつは徐々に死骸への締め付けを強くしていき、自然流れ出た体液を―――。
 ………。

「のっ………のの、の、飲んでる………っ!?」

 どう見ても『繊維』であるこの物体が『飲む』なんて行為できるハズはない。しかし徐々に死骸の体積が減っていき、そのくせして体液も何も残らないという状況はそう形容するしかないではないか。

 あるいはより実際的に―――『喰っている』、か。

 サスケがあらん限りの力で肩にしがみ付いてくる。かなり痛かったが眼前の光景に意識を奪われている藤吉郎は気にも止めなかった。信長も襟首を掴んだまま声もなくその様子を見守っている。
 ―――やがて全ての体液が飲み尽くされたのか小さな白い幾つかの断片だけが残された。流石に骨までは吸収しきれなかったと見える。黒いうねりは骨に緩やかに絡みつくとそれを捧げ持ち、来た時と同じように目にも留まらぬ速さで叢の影に消え去った。
 しばらくの間誰も動こうとはしなかった。数分ばかり経過した頃ようやく襟首が解放され、藤吉郎はその場に力なくへたり込んだ。考えが停止してしまっている。
「なっ………何なんすか、今の………?」
「―――髪の毛だろ、多分な」
 信長が忌々しげに、しかし断定的に言う。藤吉郎は色を無くした顔で主君の方を見上げた。
「かっ………髪って、あれ異常ですよ!? あんなに伸びるもんなんすか!?」
「オレが知るかっ! 人間じゃねぇ奴のことなんて管轄外だ!」
 言いながら信長は先程貼り付けられた紙片に目をやる。次いで藤吉郎自身に視線が移された。少しばかり身を竦ませる。「こんな札なんぞ持ってきてるんじゃねぇ!」と叱り飛ばされるかと防御の体制をとったが、発せられたのは意外な言葉だった。
「おい、この札………あと何枚ある?」
「え? あ………それで最後ですけど―――って、まさか!?」
 止まっていた回路が働き始め嫌な予感に地面から跳ね起きる。へたり込んでいる場合ではなさそうだ。
 信長は取り出した懐紙で刀の血糊を拭うときっぱりと言い放った。
「決まってんだろ………あの女、ぶっ倒す!」
「ぶっ倒すって―――ちょっと待ってくださいよ、あの屋敷の女の人が怪しいって言うんですか!?」
 おそらく信長が言う『女』とは、子供を送っていった先で出会ったあの品の良さそうな女性のことだろう。何故信長があの女性のことを知っているのか不思議だが、それ以前にいきなり話が「女を倒す」という発想になってしまう辺りついていけない。どう見たってあの親子は普通の人間だったように思うのだが。
「確かに今倒した奴はオレが助けた子に似てましたけど、でもそれだけで証拠になるわけじゃ………」
「じゃあ何か? てめぇは目が赤く光ったり髪の毛が突如伸びたり挙句の果ては死骸を吸収するような奴を人間だって言うのか!?」
「い、いえ別にそーゆーワケでは………」
「それに見ろ、この霧を」
 憎々しげに信長が周囲を見渡す。釣られて藤吉郎も辺りを伺い、その霧の濃さに唖然となった。戦っている間はそっちに気を取られていて分からなかったが、何時の間にか先程よりもずっと濃い霧が自分たちの周りを取り囲んでいたのだ。僅かな距離しか見渡すことが出来ず至近距離にいるハズの信長の姿さえ霞みがちだ。
 なのに何故か屋敷に向かう方向だけあからさまな程に霧が薄くなっている。
 ―――どうも、誘っているとしか思えない。
「退くも進むも出来ねぇんなら、倒すしかないだろうが!」
 その勢いに押されつつも藤吉郎は内心密かに首を傾げた。………何だか知らないが、妙に信長が憤っている気がする。言っている内容はもっともだし、この霧では身動きがとれないことも確かだ。更に言えば例の黒い物体は随分遠くまで伸びるようだから逃げたところでどうせ追い詰められてしまうだろうとも思う。
 だが、それ以外の理由で信長は怒っている気がするのだ。………余程ムカツクことでもあったのだろうか。
「でも札は残り一枚ですよ? 失敗したら後がないじゃありませんか。誰か呼んできた方が………」
「しつこいんだよ、災いの根は早めに絶っとくにこしたことはねぇだろうが! 大体あの女はなぁ、このオレにニセモノを見せておまけに結果としてオレはそいつを………」
 こちらを振り返り藤吉郎を指差していた信長の動きがピタリと止まる。言葉も続けず身動きひとつしない。真っ向から見つめられて藤吉郎は焦りを感じた。な、何か自分の顔についているのだろうか。
「そっ………『そいつを』、どうしたんですか? 信長様………」
 その問い掛けにようやく我に返ったらしく、何処か疑い深そうな目で信長が睨みつけきた。

「おい、サル。てめぇ………オレがあのバケモンを切り捨てた時のセリフ覚えてるか?」

「―――へ?」
 ニセモノがどうこうという話から急に先程の戦いのことに話が移ってしまった。………ついていけない。
(切り捨てた時のセリフ………って、聞かれても………)
 確かに何か言っていたような気がする。けれどその前後で人間の体が音を立てて崩れていくと言う実に印象強い映像を見ていたので、はっきり言ってその他のことなんて覚えていない。死骸が解けきった後も知っている顔に似てた気がして取り乱したり、黒い物体がやってきて死骸を吸収したりして落ち着く暇なんてなかった。とてもじゃないがいちいちセリフなんて覚えていられない。
「な………何か言いましたっけ………?」
 もしかしたら重要な内容だったのだろうか………。
 叱られやしないかと冷や汗混じりに答える。しかし意外にも信長は何も言わずあっさり背中を見せて、屋敷の方角へ体を向け直した。
「ならいい、そのまま忘れておけ。………行くぞ!」
「はぁ、そうですか………って、やっぱり行くんですかぁぁ―――っっ!!?」
 藤吉郎は数歩遅れて、走り出した信長の後に慌てて付き従った。

 

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