― まよひが <肆> ―


 

「………結局全部、幻だったってことか」
 風がおさまった周囲の景色を見渡して、信長はそう呟いた。
 白い霧が消え去った後に残されたものは想像以上に寂れた風景だった。先ほどまで屋敷が建っていたところには朽ちかけた柱が数本突っ立っているのみで、廊下の残骸だと思われるくすんだ板があちこちに点在している。庭を彩っていた花の数々も存在せず、石灯籠の表は元の姿が分からない程に蔦で覆い尽くされ、後はただ無秩序に雑草だけが生い茂っている。唯一変わっていないのは真ん中に聳え立つあの榎だけだ。
 ほんの少しだけ目線を転じれば、さして遠くもない木の影で信長の乗ってきた馬がのんびりと草を食んでいるのが見える。
「………オレたち、大分走ってきたハズでしたよね………?」
「―――知るか」
 体の節々が痛むらしく、心持ち青ざめた顔で突っ立っている藤吉郎の問いを軽くかわした。
 確かに深く閉ざされた霧の中を無我夢中で走ってはいたが、距離感まで狂っていたとは思えない。しかし実際にこうして屋敷跡から馬のいる森の入り口までさして距離がないことを考えると―――無意味に同じ場所を延々と走り回っていた、ということになるのだろう。………なんか、ムカつく。
 落ちていた刀を拾い上げ元通り鞘におさめる。例の白木作りの短刀もオマケのように腰に差したままだ。藤吉郎も少し離れたところでくないを見つけ出して改めて懐に仕舞いこんでいた。
 見上げると青かったはずの空は既に薄い赤に染まりきっている。何だかんだで一日費やしてしまったようだ。本格的な調査は明日にするとしても、取り敢えずの状況だけでも掴んでおきたい。
 検分するつもりで首を巡らせ―――ふと、叢に埋もれかかっている植物に目がいった。これといった特徴のない平凡な葉をした植物だが妙に気にかかる。この辺りに群生しているのか、よくよく見ればそこら中に似たような草が生えている。葉を指で引っ張り、試しに手折ってみようかと思い茎を握る手に力を込める。と、こちらを振り向いた藤吉郎が慌てて駆け寄ってきた。
「殿っ、それ毒草じゃないですかっ? 触っちゃ危ないですよ!」
「毒草?」
「名前までは覚えてませんけど―――多分そうです。神経に作用するやつで服用すると意識が混濁してくるとか何とか………」
「―――ふん、なるほどな」
 意識が混濁する………か。
 すると、自分が一服盛られたのはこの植物だったということか。影響が少なかったのは出された茶に大して口をつけなかったからだろう。あるいは茶ではなく自分が考えたとおり香として使われていたのかもしれない。
 危険なら焼き払うべきかとも思ったがあまりにも数が多すぎる。利用方法を知る者がさしていないなら放っといても害はないはずだ。毒草と薬草は紙一重だし研究してみる価値はある。それにどうせこの辺り一帯は封鎖するつもりだった。
 脇から覗き込んでいる藤吉郎にチラリと視線を落とした。
「サル、お前なんでそんなこと知ってやがる」
「え………? 農民は大抵知ってますけど―――山によく入りますし」
 何でもないことのように告げられた内容に、信長は思い切り不機嫌そうな色を浮かべた。
 無礼を働いたかと僅かに怯んだ藤吉郎の視線を振り切り、再び屋敷の跡に向き直る。
 そういえばコイツは町角で薬を売ってたんだよな―――、と思い出す。そしてそこを犬千代に見られていて、まあ色々とあった挙句あまり目出度いとも言えない再会に繋がったというわけだ。
 実際に農民がどれほど薬草や毒草に関して知識を持っているのかは知らないが、代々培われてきた知恵というものは馬鹿に出来ない。農民出身の藤吉郎が村人たちから所謂『生活の知恵』を受け継いでいたとしても不思議ではない。それは時に刀を振るしか脳のない侍たちよりも余程有益な力となるだろう。
 ………かと言って「よく知っていたな」と素直に誉めてやる気にもならない。
 何だってオレが知らないことをサルの奴が知ってやがるんだ―――。
 信長自身、子供じみた考えとは分かっているのだが面白くないものは面白くない。見てろよこの野郎、オレだって植物の知識ぐらい仕入れてやらあ。と心中で密やかに宣言する。
 内心の意地を悟られまいと普段にも増して荒っぽい動作で信長は屋敷の残骸の上を歩いた。後ろから覚束ない足取りで藤吉郎がついてくる。あの化け物によって何回も地面に叩きつけられたのだ、全身痣だらけになっているに違いない。顔色も悪い。
 別に目の届かない範囲に行ってしまうわけではないのだから体が痛むのなら座り込んで休んでいればいいだろうに―――蹴躓きながらも、刷り込みをされた雛のように藤吉郎はくっついて来た。
 至るところに茂っている雑草の山もさすがに床板の残骸近くには存在していない。屋根は綺麗さっぱり消え失せ柱も殆ど残っていないが床板だけは未だかつての名残をとどめている。廊下の形通りに道を成し、何処に部屋があったのかも分かる。
 記憶をたどり、歩を進める。廊下に足を踏み入れて襖を開いて角を曲がって………。そうして辿り付いたのは自分が最初に通されたあの部屋だった。最初に訪れた時、奥の様子は襖で仕切られていて分からなかったが推測した通り部屋が続いていたようだ。かなりの範囲に渡って朽ちかけた床板が広がっている。
 その広い部屋に一歩、踏み込んで。
「………?」
 妙な感触に足を止めた。一、二度、確認するように足元の板を踏みつける。
 ―――何か、変だ。此処から床の感触が違っている。板の下に広がっているものは地面ではない………ようだ。もっと固くてゴツゴツとしていて、妙な膨らみがある。
「ど、どうしたんすか?」
「―――下がってろ」
 片手で藤吉郎の行く手を遮って後ろに下がらせる。微妙に浮いた床板の端に両手を突っ込んで力任せに持ち上げた。今にも砕けそうな軋んだ音を立てながら徐々に床板が宙に浮きあがる。遅れて藤吉郎も隣から腕を突っ込んで作業を手伝った。最も身長差の分、途中から手が届かなくなって全くの役立たずになってしまったのだが。
 ところどころで繋がった板がある程度浮き上がったところで、力を込めて横にひっくり返す。
 そして。

「―――っ!」
「ひっ………!?」

 床下にあった『モノ』にふたり揃って息を呑んだ。藤吉郎の頭にサスケがしがみ付く。
「………収納場所だった、ってコトか」
 信長は忌々しげに言葉を零した。
 露にされた床下には、一面、人の骨が敷き詰められていた。衣服を身に着けたままの姿で幾つもの骨が折り重なり絡み合い、森に突き当たるまで延々と横たわっている。もの言わぬ虚ろな暗い眼窩がただ空を見上げ、動かない手足が棒のように突き出て天を目指している。
 はがした床板は一部だけだが、おそらくここいらの床全てにこうした骨が広がっているのだろう。服装は農民のものから商人らしきものまで様々だがどれもさして昔のものだとは思われない。
 間違いなく、ここ最近の犠牲者の遺骨だろう。
 自分がこの食い殺された者たちの死骸の上でのうのうと茶を飲んでいたのかと思うと腹立たしくなる。
 とりあえず、運び出すにも弔ってやるにも人手が足りない。一度出直してきて新たに遺族なり何なりを連れてきて対処するしかないだろう。信長自身は信仰心など欠片も持ち合わせてはいないが―――それでも、信じている者たちにとっては供養してやることが何よりも重要なのだろう。その気持ちが分からないわけではない。
 赤い空に夜の気配が滲み始めている。これ以上此処にいても何もすることはない。そう判断を下すと信長は踵を返した。流した視線の隅に藤吉郎の横顔が映り―――その表情が凍り付いていることに気付く。
 目を大きく見開いて僅かに肩を震わせながら食い入るように前方の骨を見つめている。初めて見る死骸の山に衝撃を受けてるのかと思ったが、それにしては様子がおかしすぎる。
 藤吉郎は意を決したように軽く首をひとつ振ると、口元を固く引き結んで硬い表情のまま足を死骸のただ中に踏み入れた。
「―――おい?」
 驚いて呼び止めたが藤吉郎は振り向きもせずに歩を進め、何を考えたのかしゃがみ込んで無造作に骨の山に手を突っ込んだ。頭蓋骨を手に取り食い入るように眺めては脇に置き、すぐ横の人骨に取り付いてはまた横へ流す。信長が呆気に取られているその前で藤吉郎はただ黙々と作業を続けた。話もせず表情も変えず行う作業は随分と荒っぽい。またひとつ、投げ出された骸骨が他の骨とぶつかって軽く撥ね返った。
 ―――と、急に動きが止まる。取り除けられた骨の下から僧衣をまとった死骸が姿を覗かせていた。無言で藤吉郎はその死骸の頭蓋骨を取り上げ、瞬きもせずただ一心にそれを見つめる。かなり長い間そうやって見入っていた後で、ゆっくりと頭蓋骨を地面に置くと頭を振りながら深いため息をついた。祈るように顔を伏せた姿は落胆したようでもあり安堵したようでもあった。

 ………一体なんだというのか。全く持ってワケが分からない。

 信長は荒々しく死骸の中に分け入ると、座り込んだ藤吉郎の頭を容赦なく蹴倒した。派手な音を立てて地面に突っ伏した藤吉郎が鼻先をおさえて抗議の視線を送る。
「いっ………いきなり何するんですか―――っ!? 理由もなく蹴らないで下さいよっっ!!」
「うるさい! いきなりワケ分からん行動取ったのはてめぇだろうがよ!?」
 胸倉を掴んで引き上げると慌てふためいて手をバタつかせた。
「ににしたって殴らなくても声とか掛けていただければっ………!」
「喧しい!!」
 ギリギリと首を締め上げられて藤吉郎が情けない悲鳴を上げた。小柄な体は完全に宙に浮いてしまっている。一応、藤吉郎は怪我人のはずなのだが(ついでに言えば命の恩人かもしれないのだが)信長の行動にあまり遠慮は感じられない。どころか、普段の行動と何ら変化は見られない。
 叫ぶ前に意味不明な行動の理由を説明しろ、理由を!
 と言わんばかりに信長が睨みつけるとようやっとその意図を察したのか、藤吉郎が視線を彷徨わせた。
「い、いえだからそのちょっと気になることがあったんですけどやっぱり気にする必要もなかったんじゃないかと思ったんで従って殿も別に気にする必要は全然なくてつまりだからその」
「てめえが気にしなくてもオレは気になるんだよっ! オレがこの世で一番ムカつくのはてめーみたいなすっとぼけ野郎だっっ!!」
「なんかそれ以前言ってたことと違いませんか―――!? って、ひぃ―――っっ!!?」
「人の顔見て悲鳴上げてんじゃねぇっっ!!!」
 信長が襟首の締め付けをきつくすると冗談抜きで藤吉郎の顔が蒼白になってきた。さすがにヤバかったかと若干力を緩めると、藤吉郎はふらふらと手を上げた。顔面蒼白になった理由は呼吸困難だけではなかったらしい。まさしく息も絶え絶えになりながらやっとの思いで被害者は言葉を喉の奥底から搾り出した。
「そっ………そうじゃなくて、後ろ………っっ」
「ああ?」
 その手が自分の背後を指し示し―――ついでに言えば藤吉郎の肩にしがみ付いたままのサスケも同様に目を丸くして指差しているので、何かあるのかと思い信長は後ろを振り返った。
 最初はそこにいるモノが何なのか判然としなかったが………少しずつ正体がそれと知れて、信長は藤吉郎を掴んでいた手を放した。

 やや距離を置いた、木立の影に。
 薄紅の衣を着た、あの女が立っていた―――。

 両脇にはまだ幼い、五、六歳と思しき子供がしっかと抱きついている。三人の姿は後ろの景色が見て取れるほどに透き通り、意識を集中していないと見て取る事も出来ない。
 咄嗟に化け物が甦ったのかと思い刀を抜きかけた。―――が、藤吉郎が僅かに早く柄尻を抑えてその動きを抑える。見下ろすと、やや怯えながらも退こうとはしない、強い意志をこめた瞳で見つめ返された。
「………多分、大丈夫ですよ―――何となく………です、けど」
「―――」
 不承不承ではあるがその言い分を認めて、刀にかけていた手を外した。
 ふたりのやり取りを見つめて草陰に佇む女はほんの少しだけ微笑んだようだった。それすらも陽炎のように揺れてぼやけてしまっていたのだが。
 白い手を、静かに重ね合わせて。
 黒髪も流れるままに深く、深く頭を下げる。両脇の子供たちも表情を緩ませてにこやかに笑う。

 ―――そして。
 緩やかに吹きぬけた風に流されたかのように、三人の姿は闇に紛れて完全に消え失せた。

 言う言葉もみつからずしばらくの間ただ呆然とその場に突っ立つ。藤吉郎がひとつ首を傾げた。
「………お礼、言いたかった―――ってことですか………ね?」
 戸惑い気味の声を発しながら影が消えた場所に歩み寄る。三人が佇んでいた木の根元にしゃがみ込み、軽く地面を掘り返す。信長も近付いて作業を見守った。
 さして掘らない内に何かを探り当てたらしく、藤吉郎は腕を引き上げた。出てきたのはすっかりボロボロになった着物だった。かなりの年代物らしく色も煤けているが、昔は美しい薄紅色をしていたのだろうと思われた。僅かな力を込めただけで千切れてしまいそうなその布の全てを、注意深く地中から取り出す。更に幾らか周囲の土を掘り返して藤吉郎は溜息をついた。
「遺骨は………ないみたいですね」

 何処か別の場所に埋まってるんでしょうか―――。

 その問いに信長は応えなかった。




 少し開けたところの地面を掘り下げ、薄紅の衣を納める。そっと土をかけて適当な大きさの石を乗せ、それだけではあまりにも寂しいので目に付いた草花を取りまとめて墓前に添えた。『墓』と呼ぼうにも呼べないような墓だが、あのまま木の下に埋めておくよりは遥かにマシな措置だろう。
 花を捧げるために座り込んだままの体勢で藤吉郎がぼんやりと呟く。
「結局………寂しかったんですかね」
 今更知りようがない、知ったところでどうしようもない繰言。
「最初会った時、『主人の帰りを待ってる』って言ってたんです。あれって本当のことだったんじゃないですかね」
「―――過去なんて、関係ねえよ」
 後ろに突っ立ったまま信長は素っ気無く応えた。
 例えあの化け物の正体がどんなもので、とりつかれていた女がどんな人生を歩んできていたのだとしても自分たちの命が危険にさらされた事実に変わりは無い。同情してやるにはあの化け物は人を殺しすぎた。依り代として使われていたあの女にも罪があると言うのは酷かも知れないが、寂しさのあまり自ら化け物を引き寄せたというのならそれは充分罪となり得る。

 ………孤独を感じない人間などいるものか。

 化け物を倒すにはあの肉体を滅ぼすしかないと言うのなら、自分は迷わずにその道を選ぶ。
 そして、実際に選んだ。
 泣いて同情したり憐れんだり、理解を示して折り合いをつけようとすることだけが救いの道ではないだろう。
「こっちに害をもたらすものは容赦なくぶっ倒す。黙ってやられるのなんて性に合わねえからな」
 そこまで言ってからふと、思い出した。未だ背中を丸めてぼんやりと墓石を見つめたままの姿を睨む。
「おい、そういやサル。お前オレのニセモンから走って逃げてただろ?」
「―――え?」
 藤吉郎が俯いたままだった顔を上げた。瞬間的に何が言われたのか理解できなかったようだ。困ったような表情を浮かべて問いたげに信長のことを見上げる。全然分かってないその顔つきに無性に腹が立って、それでもどうにか感情を抑えながら辛抱強く信長は言い募った。
「てめぇだって武器のひとつぐらい持ってたんだろうが? 逃げ回ってばっかいないで歯向かおうとは思わなかったのか?」

 オレに会わなきゃお前は殺されてたかもしれないんだぞ。
 ―――との言葉をかろうじて飲み込む。

 信長の言葉に藤吉郎は「………すいません」と小さな苦笑を浮かべ、再び顔を墓石の方へと向けた。
「最初は………戦おうかと思ったんすけどね。ニセモノだってことは分かってましたし。でも何か―――信長様と同じ姿をした奴に………武器は、向けられなくて」
「何だそりゃ?」
 腕を組み直して信長は不満そうに口元を歪める。
 自分はコイツと同じ姿をしたニセモノをあっさりと殺した。その行為が間違っていたとは思わない。思うのだがしかるにコイツは―――何だって全然逆の道を選んでいるのか。
「ニセモンだって分かってたんなら躊躇わずに戦えばいいだろうが。情けないこと言ってんじゃねえよ」
「そうなんですけど―――殿と同じ姿してる奴は殺せませんよ」
「また別のニセモンが現れたらどうするつもりだ。逃げてばかりじゃ殺されるぞ」
「でも………殺せません」
「………」

「オレには―――殺せません」

 両膝を抱え込んだままやけにきっぱりと言い切るその背中をしげしげと眺める。
 発言の内容自体は馬鹿と言うかアホと言うか―――。下らない、とすら言える。「主君になら文句も言わずに黙って斬られる」というのが部下の心構えではあるが、コイツは主君に瓜二つな人間にだったら黙って斬られると言うのか。だとしたら本当にアホで頓馬で間抜けで救いようがない大馬鹿者だ。
 ニセモノだと分かっていたのなら抗戦したところで何ら自分に恥じることはない。堂々と胸を張って主君の真似なんぞをしていた不逞な輩を打ち倒せばいいのだ。そうすればその武勲を称えられこそすれ軟弱者と謗られることはないだろうに。
(………わかんねーな)
 確かに自分もコイツのニセモノを倒した時、僅かに動揺したような気はする。だが、ただそれだけのことだ。ホンモノを斬ったわけじゃないのだから焦る理由もない。………じゃなくて、例えホンモノを斬り捨てたとしても焦る理由はない。
 ………自分が「お前のニセモノを躊躇いなく斬り捨てた」と告げたら藤吉郎はどんな反応を示すのだろうか。多分驚いて、次いで泣きながら愚痴って、終には苦笑を浮かべて

「まあ………仕方ないですよね」

 と悟りきった口調で言うのだろう。
 そこまで考えて信長は何故か苛ついた。何に苛ついているのかもよく分からないが。
 自分のニセモノがコイツを殺そうとしていた、それと同じくらいの強さでムカついている。かと言ってしっかり抗戦してたらそれはそれで腹が立つ。自分のニセモノにコイツが歯向かっていても歯向かっていなくてもやっぱりムカつく。
 結局何をどうしていれば自分は納得するのだろう。
「………でもって、てめえは向けられた刀を避けもせず笑って死んでいくってワケか?」
「―――はい?」
 藤吉郎が眉をひそめて振り返った。言われた内容が不服だったらしく微妙に目の色を険しくする。
「何だって殺されかかってる時に笑わなくちゃならないんすか―――それに幾ら何でもオレだって避けることぐらいしますよ」
「笑ってたじゃねえか」
「………?」
「つい、先刻」
 重ねられた言葉にただひたすら藤吉郎は首を傾げる。終いには腕を組んで唸り始めた。どうやら何ひとつ思い当たる節がないようだ。無自覚に浮かんでいた笑みだったのならばそれも仕方ないことだろうが。『先刻』というのがいつの事を指しているのか、おそらくそれくらいは分かっている。更にしばし考え込んだ後で藤吉郎は恐る恐る目線を上げた。

「………笑って、ました?」
「―――自分の表情に責任も持てねぇのか、てめぇは」
「………」

 信長の言葉に酷く恐縮した色を浮かべて藤吉郎は顔を伏せた。幾度か視線を上下に移動させた後で、少しだけ口を開閉させたものの結局何も言わないまま黙って墓石の前に座り込んだ。
 自分でも分からないから応えられないのか、分かっているが応えたくないから背を向けるのか。
 どちらにしろ主君に向かってこんな態度をとるなんぞもっての外だ。あからさまに自分を無視している。
(―――ムカつくっ)
 理由もろくすっぽ説明せずに黙って座り込んでいる藤吉郎の背中がまるで見知らぬ者のように感じられた。
 ………ので、さりげなく手加減をしながらも取り合えず感情の赴くままに

 ―――蹴った。

 再度藤吉郎が地面に突っ伏す。墓石に激突しなかっただけマシと言うべきか。
「なっ………何するんですかいきなりぃぃ―――っっ!?」
「うるせぇよ、オレが知るかっ!!」
 自分でもよく分からない感情を振り切るかのように、信長は腰に差していた短刀を取り出して放り投げた。藤吉郎は取り落とす寸前でそれを受け止め、驚いた顔をして信長を見た。
 素晴らしくむすったれた顔をしたまま無愛想に告げる。
「お前が見つけて来たんだから、それはお前のものだ―――捨てるなり持ち帰るなり売り捌くなり、好きにしろ。柄にはオレの血がついちまってるが、それが嫌だったら作り直してもらえ」
「え………? あ、はい―――ありがとうございます」
 藤吉郎はしどろもどろに返事をして手元の短刀に目をやった。不機嫌そうに口元をひん曲げたまま信長も同じように短刀に視線を落とす。
 ―――本当は。
 どうして短刀の在り処を知っていたのかもかなり気になっている。戦わずに逃げた理由も、笑っていたことに対する説明も、到底満足できるものではない。
 首根っこひっ捕まえて問い質そうと思っていた。本人が意識せずにやっていたことだとしても、こっちが納得できるまで説明させようと考えていた。
 ―――だが。
 何故そんなにムキになっているのかと考えたら何もかも馬鹿らしくなってしまった。
 コイツが何を考えていようが何を知っていようが何を決めていようが。
 それを自分が聞いて納得したところで何か変わると言うのか―――何も変わりはしない。
 いや、それよりも何よりもどうして自分がわざわざ問い質してやらなければならないのか。「話したくありません」と口を噤んでいるのを無理矢理こじ開ける労苦を何だって自分がしてやらなければいけないのか。

(………別に、関係ねぇしな)

 ………取り合えず、事件のカタはついたし。
 カタはついたが事後処理は山ほど残っているし、苛ついて当り散らしてる暇なんかない。
 膝を抱えて黙り込んでいる小さな影から目を逸らして、何かを見出そうとするかのように薄い紅から闇色を帯びた藍へと色を変えつつある空を眺めた。




 手にした白木造りの短刀を静かに見つめる。柄には血がこびり付いて部分部分が赤く染まり、鞘と刀身に書かれていた文字は掠れて消えかかっている。藤吉郎は暗く変色した鈍い赤の跡を指でたどった。
 ………血をつけたままで平気なのだろうか。木の繊維にしっかり染み込んでしまった血の跡は水で洗ったところで取れそうにもないが―――どうにか出来ないものか。こんな縁起の悪い刀に血糊なんかつけていたら主君が祟られてしまいそうな気がする。当人はそれを「馬鹿げている」と一笑に伏すのだろうが、自分は笑い飛ばせないだけの理由を………この刀の正体を、知っているから。

 世にあらざるものを斬る―――血塗られた歴史を自ら作り上げてきた名刀。
 ―――銘は、<神薙>。

 柄の下、隠れた刀身に刻まれた文字を今でも覚えている。冬の月が凍りついたように滑らかな刀身に記された固く細い文字。

『自ら喩みて志に適うか 周なることを知らざるなり』

 綴られた文章の一部を心中で繰り返す。一体、この刀を作った人間は何を考えていたのだろうかと思う。何の為にこの文章を刻んだのだろうかと考える。自分たちのこの生すらも幻かもしれないと説き、故に幻すらも真実かもしれないと説く文章を刻むことで何を伝えようとしていたのか。
 親兄弟の殺し合い、親友同士の殺し合い、恋人同士の殺し合いを全てこの刀が引き起こした―――の、かは定かではないが。少なくともそう言われても仕方ないほどの歴史をこの刀は辿ってきている。
 そしていま、本来の所有者の手から離れて<神薙>は此処に在る。

 ………どうする?

 蹲った体勢のまま藤吉郎は唇を噛み締めた。
 幾ばくかの後ろめたさを抱きながらそれとなく背後に佇む主君の影を探る。

 ―――気付かれて、いた。
 自分が笑みを浮かべていたことに。

 ―――気付かれて、いなかった。
 この戦いは全て………仕組まれたものだったのかもしれない、ということに。

 必要なものは全て与えた、後はお前たち次第だ―――そうやって悠長に傍観していた奴がいる。
 そう言い切れるだけの、信長が気付きようもない幾つかの事実を藤吉郎は掴んでいる。蜂須賀村に訪れたという坊主の話、丁度化け物と同じ数だけ残された三枚の札。女性が語ってくれた笛を奏でたという僧侶の話、残された<神薙>。

 ………そして、何よりも。

 藤吉郎は右手の指先で額を軽く抑えた。
 ―――あんなに都合よく、狙い済ましたように枝が落ちてくるはずがない。奇跡でも偶然でもない。あれは故意に引き起こされたものだ。
 すっと目を閉じてあの時のことを思い返す。
 信長に刀を託したところで力尽きて、再び沈みそうになる意識を何とか繋ぎとめてやっとの思いで顔を上げた。誰かと誰かが言い争っている声がして、すぐに閉じようとする瞼を必死になってこじ開けた。そうして見えたのは笑いながら此方に突っ込んでくる化け物の姿だった。
 逃げようにも逃げられないし時間も体力もない。………なのに何故か不思議と自分は落ち着いていた。いや、不思議なことではない………ちゃんと、理由はあった。途切れ途切れの意識に呼びかけてくる声があったからだ。

“大丈夫だ、下がれ”

 ………と。
 普通なら空耳だと思うだろうほどに微かな声音。けれどその時の自分は確かにその声を聞き取って納得していた。聞き覚えのある懐かしい音色に妙な安堵感を覚えていたのだ。信長が見たと言うのはおそらくその時の表情のことだろう。
 言葉通り僅かに下がって幹に凭れ掛かった。
 本来焦りを感じるべき心が、ただひとつの声を聞いただけで安心してしまったと―――それを自覚するのは酷くつらかった。
 ………何故なのだろう。
 あれだけ絶望的な別れをしたのに自分はまだ何処かで相手に絶対的な信頼を置いている。いい加減振り回されるのはやめようと、全ての思いを遠ざけてずっと生きていたのに、何故。

 何故、今更のように―――。

 木に凭れ掛かった直後、何かが空気を切り裂いたのを覚えている。
 短刀を握り締めたまま藤吉郎は素早く視線を周囲に泳がせた。やがて視点が高い梢の一点に固定される。丁度榎の大木を挟んで対角線上にある木だ。既に沈みかけた太陽の鈍い光の中、葉の陰に隠れて僅かだがきらめく細い影が存在している。
 木に登って確認するまでもない―――あれは、矢だ。
 あれがギリギリで繋がっていた枝の最後の一線を断ち切ったのだ。
 どれほど離れたところから狙っていたのだろう。例え至近距離にいたとしても枝の一部だけを射抜くなんてこと、しかも矢自体は通り抜けさせるなど生半可な腕前では絶対に出来ない。
(でも………)

 あいつなら―――可能だ。

 ………向こうが何を考えているのか分からない。数ヶ月前に再会した時は自分のことを殺そうとした。なのに、今はこうして自分の命を救ってくれる。正体を隠す気もないのかいたるところに自らの足跡を残し、自分の所持品である短刀まで置き去りにしている。
 確かにこの短刀がなかったら今頃自分も信長も、肩の上でのんびり寛いでるサスケも生きていなかっただろう。が、それが何を意味するかちゃんと分かってやっているのか。
 ………巻き込むつもりなのか、それとも単なる暇つぶしなのか。藤吉郎にはいまいち判断がつかなかった。
 それでも最後の選択権はまだこの手に残されている。短刀をこの場に置いて去れば何の繋がりも生じずに無関係な人生を送っていくことが出来る。
 その方が楽に決まってる。何を好き好んでこんな呪われた刀を持たなければならないのか。此処に捨て置いて去ればそれっきり、何にも関わらず―――過去の記憶に拘らないで、生きていける。

 生きていける………けれ、ど。

(オレは―――………)

 迷いはない。

 ―――とは、言い切れないのだけれど。

 捨て去って、置き去りにして、おそらく何処かで様子を窺っている相手に対して「無関係だ」と宣言することは出来るけれど。「お前なんか知らない」と絶縁状を叩きつけることも可能だけれど。

(………逃げたく、ない)

 目を閉じて耳を塞いで、記憶を封じ込めていられる時間は終わってしまった。そもそも数ヶ月前の思いもよらぬ再会が全ての予兆だったのかもしれない。今更ほっといてくれと言ったところで無駄なことだろう。此処で振り切ってもどうせまた、忘れられない記憶が自分に追いついてくる。何処に行っても、いつまで経っても。

「今度は―――逃げるなよ」

 ………五右衛門にも、そう言われた。向き合わなければ結局何ひとつ解決しやしないのだと。
(分かってる―――ちゃんと、向き合って決着をつけるさ)
 緩く持っていただけの短刀を強く握り締めた。
 この決意はもしかしたら多くの無関係な人たちを巻き込み、迷惑をかけることに繋がっているのかもしれない。

 役に立ちたい―――と。
 ………傍にいたい、と。
 ただそれだけの思いで仕えている主君にすら累が及ぶのかもしれないけれど。

 そうはさせない―――その上できっちりとした結論を下す。
 厭わしくて否定することしかしなかった思い出すら自らの一部なのだと、今なら認めることが出来るから。




「サル―――っっっ!!!」
「は、はいっっ!?」
 すっかり考えに没頭していた藤吉郎は信長の声に慌てて顔を上げた。見ると、いつのまにか主君が馬の傍まで移動してしまっている。全然気が付かなかった。
「いつまでもそんなとこで座り込んでんじゃねぇよっ!! とっとと帰るぞ!!」
「は、はいっ! すいませ―――ん!!!」
 反射的に飛び上がると今まで縮こまっていた足の筋肉が動きについていけなくて僅かによろけた。苛立ちながらも待ってくれている信長のところに急いで駆け寄る。草を引っ掴んで斜面を登りきると鮮やかな夕焼けが目に映った。
 太陽の光をまともに受けて少しだけ目を細める。
 滲む視界の中で懐かしい光景と現在がほんの一瞬だけ重なった。
(―――まだ、近くにいるのか………?)
 向き合おうと決心した、でも。

 ―――二度と会えないのかもしれない。この繋がりを最後として。

 信長に仕えるということは常に死と隣り合わせにあるということだ。その思いが短刀を持ち帰るという決意に勢いをつけた事実は否めない。捨て去って、後で後悔したくなかったのだ。
 自分は戦を切り抜けて、向こうは向こうで同じように戦場を生き抜いて。

 ………会える日が来るのだろうか………? 

 眩しさに負けて目の前に手を翳していると、突如襟首が強く引っ張られた。何だ何だ? と驚く暇もなく信長の後ろにストンと降ろされた。馬に乗せてもらったということは明々白々なのだが、何故乗せてもらえたのか事情が飲み込めないので呆然としてしまう。しばらくして我に返った。
 ………どうしたものか。
「あ、あの〜………乗せていただいて、よろしいんでしょうか………?」
 恐る恐る尋ねると物凄く険しい目つきで睨みつけられた。条件反射で体を引いてしまい、落馬しかかった体を慌てて持ち上げる。
「誰かがグズグズしてたおかげでこのままじゃ日没までに帰りつけるかどうかも怪しいんでな。今回だけ特別だ」
 ―――もっともらしい理由だ。でも、多分それは………。
 ちょっとだけ間を置いて藤吉郎は申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「え、いやでもオレの怪我なんて大したこと………」
 ボソボソと紡がれる控え目な物言いに信長がブチ切れる。
「誰がてめえの怪我のことなんて言ったよ!!? 黙って乗ってりゃいーんだ、分かったか!!」
「ひっ………!? すっ、すいませんっっっ!!」
「分かったんだな!!?」
「は、はいっっ!!!」
「―――よし!」

 信長は笑った。

 ………ようだったがその表情は日没の光に反射してよく分からなかった。

 直後、手綱を引かれた馬が凄まじい勢いで走り始める。藤吉郎は振り落とされないように慌てて信長の服の袖を引っ掴んだ。肩の上のサスケもまるで旗のように風になびいてしまっている。
 こ、こんなに飛ばすんだったら走った方がまだ怪我への負担は少なかったかも………!
 と思ったが口には出さない。言ったが最後拳で殴られて馬から叩き落されるだろうし、言おうにも口を開いた途端舌を噛んでしまいそうだった。
 片手だけで控え目に前方の人物の着物を握り、揺れる視界の中どうにか首だけを回して背後を振り返る。
 薄い闇が近付く森の間で、残された屋敷の跡地だけが白く霞む。遠ざかる木々の葉が折り重なり道の連なりが全てを遠くへと運んでいく。
 胸が締め付けられるような妙な感覚に堪えながら、腰に差した短刀をそっと握り締めた。
 形も成さずにすり抜ける緑の木々と耳元を無情に駆け抜ける風の最中に。

 鎮魂の笛の音が―――

 聞こえたような、気が

 ………した。








暗き道は命の流れ 果て無き闇の先は生まれし現世
映し出されしものに真理なし 見出すは汝の思いのみ

確信を得し者は惑い 悩みし者は意を決するか




故もなし―――其を迷ひ我と云ふ







 

参 ←


 

よ………漸く終わりました、無駄に長い作品が(汗)
もはや「この話って本当は前後編のつもりだったんです♪」とか言っても誰も信じないでしょうね。フ、フフフ。

「まよひが」というのは遠野物語に登場する謎の屋敷のことです。
森の中で山菜狩りをしている時とかに突如として迷い込み、
そこから持ち帰った物は富をもたらしてくれると言われています。
けれど捜そうと思っても見つけ出せるものではありません。屋敷の方が人を選ぶとも言います。
日本版・桃源郷といったところでしょうか………そんなところを妖怪の住処にするなよ、自分〈汗)

「迷ひ家」=「迷ひ我」は勿論こじつけ。
本当は「迷いなんか抱きそうにもない殿が迷いを感じる瞬間」と
「迷いまくってるとしか思えない日吉が決意を固める瞬間」を
書くのが当初の目的だったんですが、あれよあれよという間に話が二転三転して
予期せぬセリフもボロボロこぼれて、更に言えば化け物が意外としぶとくて
何時の間にか主題がズレてしまいました。

悪あがきで最後にちょっと挿入しましたが………浮いてるっつーの………。

 

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