― まよひが <参> ―


 

 風が低い唸り声を上げている。走る時にすぐ側を切り裂いていく風をこんなにも気持ち悪く感じるなんて初めてだ。後ろから自分たちを追い上げるように吹き付けてきて、真っ直ぐ前へ進めと急きたてる。

 呼んでいる―――何のために?
 誘っている―――何のために?

 白い霧の道筋を駆け抜けると屋敷に突き当たった。つい先程訪れた時とはあまりにも違うその印象に戸惑いを隠せない。
 屋敷はそれ自体が生きているかのような威圧感を備え重みを増してふたりと一匹を見下ろしていた。呼吸をしているように壁や柱が時間の経過と共に少しずつ色合いを変えていく。後ろから吹いていた風が急に向きを変え、今度は逆に屋敷の中から生暖かい湿った空気を送り込んでくる。背筋が総毛立つ、そんな感じ。肌に突き刺すような痛みが走る。
 本当にこんなところに入っていくつもりかと、不安げな面持ちで主の背中を眺める。が、引き返す様子など微塵も感じられない。信長が引き返さないのなら自分はそれに従うしかない。ひとりで帰るという選択肢は藤吉郎の頭には浮かんでこなかった。
「ほっ………本当にこれ、あの屋敷ですよね………?」
 確認しようもないセリフだけが口をついて出てしまう。何故だろう―――屋敷の門構えも壁も周囲の草木も、自分たちを手招きしているように見えてくる。
 言葉自体には返事をせずに、信長は少しだけ視線を藤吉郎へと寄越した。

「―――行くぞ」

 それでも尚進むことを躊躇うが信長が中に進んだのを受けて慌てて後を追う。信長は迷いなく真っ直ぐ裏手に回った。色とりどりの花が咲き乱れ至るところに灯篭や木々が据えられ、情緒を醸し出している手入れの行き届いた素晴らしい庭―――。
 でも、今は。
 握り締めた掌に生じた汗を袂で拭い、小走りに信長の後を追う。
 正面の丁度裏手に当たる位置までやってきた。例の大木を中央に望む見晴らしのいい場所だ。大木の前に立って屋敷を見て、藤吉郎は首を傾げた。
 そこには客を持て成すための部屋があったのだが―――自分が来た時には閉じられていた襖が開いて内部を晒している。いや、『開いて』と言えば聞こえはいいが要するに襖そのものがないのだ。それだけではない、室内に付けられていただろう飾り棚や花活けの類も無残に畳の上に散らばっている。
 一体此処で何があったのか―――。
 悩む藤吉郎の隣で信長は刀を抜き、一歩前に踏み出した。
「ぼーっとしてんじゃねぇ―――来るぞ」
「え?」
 意識を現実に引き戻して、慌てて同じ方向に目を凝らす。
『来る』と言ったって、一体何が―――。
 壊された部屋の更にその向こうに控えの間のように部屋が続いている。霧の中ろくに光も差し込まず奥の部屋は闇の中に沈みこんでいた。何が起こるのだろうと疑問に思いながらじっとそこに立ち尽くす。暑くも無いのに汗をかいてしまう。妙に冷たくて気持ちの悪い、汗を。
 暗闇の中に薄紅の色がぼんやりと滲み出る。
 何か重たいものを引きずるような音をたてて―――少しずつ、赤い影が不明瞭だった輪郭を顕にしていく。
 肩の上のサスケが強くしがみ付いてきた。
 赤い影は段々形がはっきりとしてきて、どうやら人間らしいと判断がつくまでになった。鬼が出るか蛇が出るか、と怯えていた藤吉郎はやや緊張を解いた。信長の方は相変わらず刀を構えた姿勢のまま動こうとしない。自分には危機感が足りないのかと不安になったが縁側に佇んだ影を見てそうじゃないだろうと思い直す。
 縁側に立った赤い影―――それは薄紅の着物を羽織った、あの美しい女性だった。少々目が虚ろな気もしなくはないが特に変わった様子もない。腕が増えてるわけでも足が増えてるわけでも、ましてや頭が増えてるなんてこともなく―――。
(―――え?)
 はた、と気付く。食い入るように、女性を見つめる。
 ………確かに、何も増えていない。
 ならば―――ならば、先程の重たいものを引きずるような音は、何だ? 細い体つきをしたこの女性があんな重い足音を立てられるわけがない。
 女性がカクリと首を前に倒し、次いで横にカタリと倒す。

 カタリ。カタリ。カタリ。カタリ。

 首の据わっていない出来そこないの人形のように硬い音を立てて首が回る。瞳は虚ろなままだがよく見れば口元には薄っすらと笑みが刻まれている。首を回すたびに髪の毛が緩くほつれて頬にかかる。背後に隠れて見えなかった髪の毛の束が一房、前に滑り落ちた。
 カタ。と動きを止めて女性がこちらを見た。焦点の定まらない瞳が、それでもしっかりと自分たちを捕らえている。
「………酷いことをするのですね」
 虚ろだった瞳が悲しみの色に染まり、上げた片腕がそっと目元を抑える。恨みがましげな瞳は藤吉郎ではなく主に信長の方に注がれていた。
「私の子を殺してしまうだなんて―――あの子達が何をしたと言うのです」
「『何をした』だぁ? とぼけてんじゃねぇっ! 先に手ぇ出してきたのはそっちだろーがっっ!!」
 信長が怒りも露に刀を前に突き出す。ふたりの会話についていけない藤吉郎はただ狼狽するばかりだ。
 手を出してきたって―――何を、どうやって? あの女性がいきなり武器を構えて切りかかってきたとか、そういうこと? とてもじゃないが想像出来ない。
「あ、あの〜………一体何が―――」
「私の子達は、死んでしまいました」
 質問をし終える前に女性の暗い声に遮られた。それに伴って再び響きだしたカタカタという音に無意識の内に身構える。虚ろだった瞳が明確な殺意と敵意の色に染められていく。
 右腕を前方に真っ直ぐ突き出し………それからゆっくりと横に移動させる。動きにそって黒髪が優雅に宙を舞い、揺れる漆黒の波の中から白い塊が忽然として顔を覗かせる。髪の中から次々と姿を現した白い断片の数々は端に操り糸のように髪の毛を絡ませながらひとつの形を作り上げていく。
 組み上がり、女性の手の下でカタカタと細い声を上げる操り人形。小さいながらもそれはれっきとした人間の姿を象っていた。更に続いて差し出された左腕にも同様に小さな人体模型が作り上げられる。
 憂いを含んだ柔らかい微笑みを浮かべた。
「ほら………もう、骨しか残ってないんですよ」
 両手でそっと頭蓋骨に触れて。反応したように骸骨がカタカタと揺れる―――まるで笑っているみたいだ。
 あの骨は、先程回収されたあの骨なのだろうか―――。確信に近い思いに身を震わせる。

「これでは動こうにも動けません………ですから、貴方たちの肉を分けてやってください」
「………はい?」

 間抜けな声を上げて聞き返してしまう。何………何を分けろって?
 頭蓋骨がスルスルと女性の腕を辿って駆け上り、肩の上で笑っているように、泣いているように歯の根を鳴らす。口元に刻まれた笑みが、酷く恐ろしく見えて。
「肉片が戻ればこの子達は甦りますもの―――よろしいでしょう?」
「………そうやって、何人もの人間を喰い殺してきたってわけか」
 信長が眼光鋭く睨みつけると口元に手をやって女性は軽い笑い声をもらした。
「喰い殺しただなんてそんな―――そんなこと、致しませんわ。ただ」

 笑っている、が。
 その笑いは何処か歪んでいて、ズレていて、間違っている。

「皆さん疲れて眠ってしまわれたから………休むための場所を、提供しただけです」
 あどけない表情から悪意は感じ取れない。その背中で黒髪が揺れて徐々に長さを増していっていることに藤吉郎は気が付いた。ゆっくりと床を埋め尽くしながら、確実に此方へその手を伸ばしてくる。子供たちの骨は髪の中に埋没し、ただ頭蓋骨のみが両の肩の上で変わらず歯の根を鳴らしている。
 女性が一歩、踏み出しただけで床が軋んだ。その目が薄く細められる。

「貴方がたも―――ここでお休みあそばせ」

 目が、赤く光った。

「! 避けろっ!!」
「えっ!!?」
 返事をする間もなく頭を鷲掴みにされ引っ張られる。直後、先程までいた空間の土が吹き飛ばされる。驚いている暇もなく信長に引っ掴まれたまま、大木の裏側に逃げ込む。その脇をまたしても不可視の衝撃波がすり抜け近くの石灯籠が大破した。石が粉になって崩れ落ちる様を藤吉郎は青ざめた顔で見つめた。
 大木の裏側に身を潜めたはいいが、わけの分からない攻撃が収まるわけではない―――幾度も衝撃が幹ごしに伝わり、その度に枝葉が激しく揺れて木の葉が次々と散らばった。
 藤吉郎は攻撃の手が緩むのを見計らって様子を窺い―――息を呑んだ。
 薄紅の衣装を来た女性の姿なんて、もう何処にも見えない。あるのはただ、黒いうねる糸の塊。小山のように盛り上がったそれは至る所に毛先を伸ばしつつゆっくりと庭に這い出そうとしていた。黒い闇の奥で巨大な二つの赤い灯火だけがゆらゆらと揺れている。
 灯火が光を強めた。
 ―――途端、またしても衝撃波に襲われ急いで体を引っ込める。近くの木の上半分が消し飛んだ。
「なっ………ななななんですかあれぇぇぇ―――っっ!!?」
「あの女の正体だろ。ったく、化けやがったもんだぜ」
「ってコトは本当にあの人が妖怪だったんですか―――ぐえっっ!!」
 背中を幹に預けていたら衝撃波の震動をまともに受けてしまった。急いで幹から距離をとる藤吉郎のすぐ側で信長は刀を一度鞘に収めると、口に例の札を咥え腕まくりを始めた。
 何をするつもりなのか―――藤吉郎が見守る中、信長は手馴れた様子で木登りを開始した。ガサガサと木の葉を舞い散らせながら未だ震動に揺れる幹を躊躇なく上っていく。
「とっ………殿?」
「サル、てめぇはそこに隠れてろ! 邪魔だ!」
 遥か上方から声が投げつけられる。『邪魔だ』と思うんなら最初から連れてこなければいいのでは―――という文句はいつもと違い切羽詰った状況の所為か浮かんでこなかった。尤も、そうなったら返って自分は意地になって付いて来ただろうから結局同じ事かもしれない。………しかし、言われた通り隠れていたとしてもはっきり言って無意味なんじゃないだろうか。何処にも逃げ場なんてない。
 そっと覗いた先では例の黒い山が庭に下り切って、嫌になるくらい艶々した髪の毛を閃かせて此方へ向かって来ている。大木の枝には既に髪の毛の先端が幾つか絡みついていた。

 ―――このままではまずい。まだ殿が登っている最中なのに。

 藤吉郎は覚悟を決めるとくないを片手に化け物の前に飛び出した。両手を広げて立ち塞がる。
「オっ………オレが相手だ、化け物っ! やっつけてやるから覚悟しろっ!!」
 声と足が震えてしまうのはどうしようもない。それでも何とか抜けそうになる腰を叱咤して相手を睨みつけた。眼前に迫ったそれは最早見上げても追いつかない程の大きさで、段々質量を増してくる様は凄まじい迫力で圧しかかってくる。でもここまで来てしまうと既に先程の女性の面影は微塵も感じられないので―――それが、僅かな救いといえば救いかもしれない。
 ………と、思っていたのに。
 藤吉郎の考えに応えるように山の中心が突如落ち窪んだ。そこからせり上がって来たモノに暗澹とした思いにかられる。幾度か顔を合わせた美しい女性の顔が黒い髪の合間にまるで切り絵のように浮き出していた。その顔は自分に向かって親しげに話し掛けてくる。
「あら………確か貴方は私の子を助けてくれた方だったわね。―――でもねぇ………仕方ないわよねぇ」
 慈愛に満ちた眼差しはその体さえ視界に入れなければまるで仏のように見えた。それだけに一層不気味さだけが増す。乾いた口内を何度か開閉し、必死に言葉を紡ごうと努力する。とにかく―――時間を稼がなければ。
「あ、あんたは………本当に、此処を訪れた人を、殺してたの、か?」
「いいえ、殺してなどいないわ。ただ眠りたいと仰られたからその場をお貸ししただけ」
 途方もない危機感を感じて肩に乗ったままのサスケを何処かに追いやろうとする。だが、サスケはしがみ付いたまま離れようとしない。
「ただ、その後目を覚ます事がなかったものですから―――いつまでもそこに置いておくわけにもいきませんし、ね?」

 そんな、微笑みかけられても―――。

 藤吉郎は凍りついたようにその場から動けなかった。大分近くまで女性の顔が迫ってきても地に縫いとめられたようにいっかな足が動こうとしない。
 にこやかな笑みを浮かべたままの顔を見上げる。その更に背後に木々の枝と白い霧が重なり―――ふと生じた影を見て藤吉郎の表情が微妙に変化した。女は目敏く気付いて視線をギョロリと上向かす。
 ザッ! と木々の葉が舞い散った。枝の合間を黒い影が飛来する。

「―――くたばれっっ!」

 大木の上から飛び降りた信長が刀を逆手に構え突っ込んだ。狙いは違うことなく相手の脳天を示している。
 切っ先が相手の身体に突き刺さる、それよりも女の目が赤く光る方が早かった。空中に放たれた衝撃波が落下の速度を弱め目標をずらす。
 刀は相手に突き刺さらず掠めただけに終わる。切られた箇所から白い煙が上がり、女―――いや、化け物は絶叫した。信長も衝撃波にやられはしなかったが体勢が崩れたため着地が上手くいかず、若干よろめきながら忌々しげに言い放った。
「くそっ………外したか!」
 刀にはあの札が刺してある。地上から見上げる形ではどうしても相手の急所まで手が届かない、故に木の天辺から特攻をかけるというある意味無謀な策に出たのだが―――。
 ………詰めが甘かった、か?
 白煙を纏い目の前でのたくり回る黒い巨体から慌てて藤吉郎は遠ざかった。
 全身髪の毛ってのは戦いづらくて仕方がない。回転する丸い毛玉の何処が中心で何処が急所なのか、あの白い顔が小山の中に埋もれてしまえば判断材料は何もなくなってしまう。目が光るのが攻撃の合図だと分かっても―――それがくる方向も直前まで分からない。
 掠めただけではやはり致命傷には至らなかったのか、生じた白い煙は勢いを弱めつつあった。ボタボタと髪の毛が黒い液体となって地面に零れ落ちる。肉が焦げる嫌な匂いがした。かなり下部の方に怒りに燃える瞳が僅かに垣間見え―――瞬間。

「! 殿っっ!!」

 直感に従い今日だけで何度目か分からない突撃を信長に仕掛ける。体当たりで信長を跳ね飛ばした直後、骨を全て叩き折るような激しい力に強打された。体は止まらず地面の上を転がり、木に激突してやっと停止する。
 跳ね飛ばされた先で起き上がった信長が苛立たしげに叫んだ。

「アホか―――っっ!! てめぇが庇ってどーすんだよ!!?」

 ………そりゃないっすよ、殿。
 と、普段なら考えるのだろうが流石に全身打ち砕かれたような痛みに何も考えられない。前屈みに蹲り視界は狭まり、呼吸すらままならない。それでも咄嗟に胸元に隠したサスケが元気そうな声を上げるのを確認して少しだけ安心したりした。
 化け物が細く、高く、その形態を変える。嘲笑う声が木々に跳ね返って木魂した。
「どんなに頑張っても駄目、駄目よ。ふたりとも死んで頂戴。そして私と子供たちに身体を提供して頂戴」
「するか、バケモンっっ!!」
 へたり込んでいた藤吉郎の首根っこを掴んで無理矢理立ち上がらせ、信長は威勢のいい啖呵を切った。
 女の嘲り笑いが耳につく。
「私は此処にいるのよ。今までもそうしてきたしこれからだってそうするわ。生き物は全て私の糧。所詮食べられ利用されるだけの弱い浅はかな分際で何が出来ると言うの。何が出来るつもりでいるの、無駄、無駄よ。私のことは誰にも邪魔はさせないの。誰に―――」

 ―――何故か。

 前触れなく口上が途中で途絶える。ちらりと顔を見合わせて訝しむ信長と藤吉郎の前で、化け物は言葉どころか動きまで石像のように停止させた。
「………?」
 黒い体が小刻みに痙攣する。やがてそれは大きな波となり身体全体が激しく震え始めた。
 何が起こっているのか―――。
 食い入るように状況を見つめる中、突如黒い小山の中央がパクリと爆ぜた。数本の髪の毛が断ち切られバラバラと辺りに散乱する。そして深く暗い闇の底から細く、白い腕が助けを求めるように弱々しく突き出され………続いて先程と同じ白い女性の顔がゆっきりと涌き出す。違うのはその瞳が未だ固く閉じられているという点だろうか。黒髪を掻き分けるように両の腕が差し出され、ゆっくりと瞳が開かれる。瞳は黒く涙に濡れて光り、先程までとは異なる深い悲しみの色を称えていた。
 口が開閉しているのに声は聞こえない、それでもその声は確かに脳裏に響いた。

“………です。……………さ、い”

 うっかりしていると聞き逃してしまいそうなか細い声。縋るように腕が伸びて、瞳からは透明な雫が止まることなく流れては落ちる。音声が言葉となり、意味を成す。

“お願い………です。私を、殺してくだ、さい………!”

 絶望に満ちた声が切々と響き渡った。
「黙れぇっっ!!」
 女性の口から咆哮が上がる。後ろの黒髪がザワザワと激しく揺れ、倒れていた木を一気に跳ね飛ばす。けれどその眼は相変わらず涙に濡れていて。

“お願い………で、す。私はもう………誰、も、殺したく―――ない”
「黙れ黙れ黙れ! 私に逆らうつもりか!? いい加減諦めるがいい!!」
“私はこのようなモノに体、を………乗っ取られ、薬、を使い、人々を―――”
「黙れ!!」

 黒髪が白い腕を引き千切る。女性の顔が苦痛に歪むが―――血が飛び散る前に黒髪が傷口を埋め、あっという間に肌に同化すると何事もなかったように腕が再生した。腹いせなのか地面に髪の毛が叩きつけられる。
 ―――状況が判断出来ない。一体これはどういうことなのか。
 化け物ではない………と、いうことか? いや、そうではなくて、おそらく。
 一致しない言動、一致しない行動、一致しない感情。

 きっとこの女性は―――まだ、その中で。

“子供たち、まで―――でも、あの方は仰られました。次に来る者たちこそ、きっと、きっと私を―――”
 震える手の先が榎の大木を指し示す。哀願するように果てなく涙が零れ落ちていく。
“だか、ら私―――は、あの方を逃がし………ああ、どうか、どうか”
「お前は黙ってただ私に仮宿を捧げていれば良いのだ! 寂しいといって私を呼んだのは誰だ!? 世を儚んでいたのは誰だ!? 今更もとに戻ったところで疾うにお前の身体は朽ち果てているのだぞ!?」
“非力………さ、を………お許しくだ、さ、い………もう、私には―――”
「懺悔しようと後悔しようと罪は消えぬ! 償いなど諦めて私に飲み込まれるがいい、愚か者が!!」

 瞳は、人間のもの。口は、化け物のもの。

 白い腕が地面を彷徨い、打ち砕かれた木々の枝を両手に掲げた。
 寂しげな瞳をしたまま、それでも尚彼女は美しい笑みを見せた。例え口元が彼女自身に罵声を浴びせかけていたとしてもその表情は―――可憐であった。
“………眼は、私が封じます。だからどうか―――私を殺して下さい”
 腕に力が込められて。

 ―――両の目が、貫かれた。

“――――――!!!”
 表現し難い叫びが辺りに響き渡る。人間の声ではなく、かといって獣の咆哮でもなく、思考全体を麻痺させる勢いで突風が身体を突き抜けた。転倒しそうになるのをかろうじて堪えて敵を見据える。両腕は再び内側に吸い込まれ見ることは叶わず、ただ白い顔から奇妙な二本の杭を突き出したまま黒い身体を苦痛にうめかせている。動くたびに両の眼窩から赤い液体が滝のように滴り落ちる。髪の毛が数本撒きついて顔面に突き刺さった枝をズルズルと引きずり出した。

“おのれ………おのれぇぇ………!”

 赤い光を灯していた眼は、いまや別の意味で真紅に染められていた。―――ぞっとする。
 闇雲に伸ばされてきた髪の毛の束を信長は刀を一閃させて振り払う。斬った先から白煙が上がり又しても聞くに堪えない絶叫が周囲に木魂する。
「へっ………もうこれであの妙な技は使えないってわけだ」
 信長が不敵な笑いを浮かべた。確かに状況はこちらに有利になったと言える。
 だが何故だろう………まだ何か嫌な予感がする。

“―――なめるな!!”

 咆哮と共に黒い影が蠕動を開始した。顔が埋もれ表面の毛の波だけが細かく脈打つ。ゴボリ、と嫌な音を立てて化け物の身体の表面に白い破片が出現した。
 子供たちの骨か? それとも―――。
 骨が凄まじい速さで一点に集中し、綺麗な円を描く。どういう仕組みになっているのか―――そもそも化け物に人間と同じ構造を求めるのが間違ってるのかもしれないが―――組み合わさった骨と骨が円形に並び、中央の窪みが深くなる。その闇が更に深くなると獲物を追い求める長い舌が生え出した。骨が歯の如くガチガチと打ち合わされる。
“貴様らなど喰ろうてくれる!!”
 子供なら上半身ごと噛み砕けそうな巨大な口が突っ込んでくる。藤吉郎が寸でのところでかわすと代わりに背後の灯篭が粉々に打ち砕かれた。化け物は飲み込んだ石の塊を吐き出しもせず鈍い音を立てて咀嚼し―――すると口の周りに生えた歯、もしくは骨が復たその切っ先を鋭くするのである。
「まっ………まずいっすよ―――!! なんか返って凶暴化してませんかぁぁ―――っっ!!?」
「オレに聞くな、馬鹿者!!」
 眼を塞いだことで確かにあの衝撃波は来なくなった。しかし代わりに全身飲み込まれそうな程巨大な口が出現した。………どっちがマシだったのか分からない。裏を返せば敵方に余裕がなくなってきたと言う事なのだろうが―――そんなの、この状況では何の慰めにもならない。
 それでも敵の目が塞がれているため攻撃を避ける事は容易かった。化け物の憤りを表すように髪の毛の細い一本一本が周囲の木々に絡みつき蜘蛛の巣のように伸びていく。―――レーダーの代わりを務めさせるつもりか?
「囲まれたら終わりだ! 走れ!」
「はいっ!」
 急いで遠ざかろうとするが如何せん相手の伸びの方が早い。避けたり潜ったりしているのでは間に合わなくなってくる。行く手を遮る張り巡らされた糸を信長は刀で断ち切った。こうしなければ進めない―――が、それは自分たちの位置をバラすことにも繋がってしまう。
「八方塞がりじゃねぇか、畜生っ!」
 思わず信長は毒づいた。一歩進むごとに前方に髪の束が現れる。これではきりがない。ほんの数秒、背後の本体よりも前方の網目に気を取られた。
 その隙を相手は逃さずに唸りを上げて突っ込んできた。顔面スレスレのところでどうにか避ける。―――しかし、
「っ! しまっ………!」
 札を刺したままの刀が跳ね飛ばされて宙に舞い上がる。落下してくる前に空中で髪の毛がその柄を受け止めた。何を考えているのか札がついたままの切っ先に向けて全ての髪の毛が総攻撃をかける。
「な………何で………っ!?」
 藤吉郎の疑問は至極当然と言えた。札の効力は絶大である。あんな風に自ら撒きついていったら身体が融けるに決まっているではないか。向こうもそれは知っているハズだ。なのに何故こんな自殺行為に等しいことを………。
 髪の毛が札に触れる先から白い煙が濛々と上がり、黒い液体と化して地に降り注ぐ。悲鳴を上げ痛みに体を捻りながらも刀に向かう事をやめようとしない。それどころか化け物の手足は更に巻きつく速度を速めていくようだった。

 ―――まさか!?

 敵の考えを読み取って藤吉郎が青ざめる。理解した瞬間、彼はサスケを適当な場所に放り出すと刀目掛けて突っ込んでいった。
「サル!?」
「早く取り返さないとっ………札が、札が消えちゃいますよ!!」
 そう、確かに効果は絶大だが―――同時にあの札は自らの力も消耗していくのだ。信長のニセモノを倒した時、全ての呪力を放ち終えた札は脆く崩れ去った。化け物はあの状態を故意に起こそうとしているに違いない。自らの命が尽きるのが先か、札の呪力が尽きるのが先か―――危険な賭けだが化け物の方が遥かに有利だ。既に札は刀にこびり付くだけの紙片と成り下がっている。
 網目を逆に辿り高く掲げられた刀に手が届くようにと、相手の髪の毛を利用して駆け上る。信長が叫んだ。

「馬鹿野郎っ! 髪の毛に触れるんじゃねぇ―――っっ!!」
「―――え!?」

 眼は見えなくとも、触れたものなら捕まえられる………。思い至ったがもう遅い。触れた掌に髪の毛が絡みつき、体が宙へ持ち上げられる。
「うっ、うわっっ!!」
 凄まじい力で引っ張られ上空高くに投げ出される。小柄な身体が宙を舞い―――髪の毛が足首に絡みつく。投げ縄の要領で振り回され視界が激しく上下した。どちらが空か地上か分からない程景色が入り乱れ、足首が千切れそうな程引き伸ばされる。
 充分遠心力がついたところで大木目掛けて打ち捨てられた。受身の体勢もとれずまともに背中から激突する。後頭部から足先まで、体内から空気を残さず叩き出されたような衝撃が走る。
 息につまり、視界が揺らぎ―――痛みを感じる事もなく藤吉郎の意識はプツリと途絶えた。




 小柄な身体が勢いよく地面に向かって投げ出され、大木の幹にぶち当たってズリ落ちる。根元まで落下した時少しだけ腕を上げたが―――力なく横たわりそれきり動かなくなる。
「あの………バカがっ!」
 信長は低く呻いた。
 札なんかに固執するからあんな目に合う。敵の手に刀が渡った時点で他の方法を考えるべきだったのだ。だが、他に何か名案があるワケでもなく―――。そもそも刀を奪われたのは自分の失態だから一層苛立ちが募る。生死だけでも確認したかったが敵の身体が邪魔で近付こうにも近付けない。札の呪力を消費させ終えた化け物が体液を滴らせながら刀を地に落とす。数度、回転して動きを止めた刀には最早札など欠片も残っていなかった。
 足元の網目は更に間隔を細かく刻み、絶え間なく攻撃を仕掛けて終に信長の腕を捕らえた。
「―――っっ!」
 引きずりこまれそうになるのを木の枝を掴む事で何とか堪える。枝を握る右手から血が流れ出した。
「キキッ!!」
 鳴き声を上げて、先程藤吉郎に放り投げられたサスケが叢から飛び出すと髪の毛に懸命に噛み付いた。しかしすぐに黒髪が小さな体を取り込んでしまう。抗議の鳴き声にも構わずに蓑虫のようにグルグル撒きにして、上空高くに吊り下げる。声はしているから生きてはいるのだろうが―――助けようにも文字通り手が届かない。
 掴まれた左の手首が捻り切られそうだ。化け物は余裕を取り戻したのか、札でも融かされなかった本体を要に散らばった髪の毛が集束し始める。当初よりは若干目減りしたものの未だその身体は見上げる程に大きい。
 カタカタと歯を鳴らすでかい口の上にポッカリと白い空洞が生じた。そこに女の顔がのっそりと現れる―――ただ、上下が逆だ。眼が見えなくなって平衡感覚まで失ったのか美しい顔立ちが微妙に歪んでいる。そして何より感情を訴えていた瞳の在り処には、今や赤い二つの大きな穴しか存在していない。

“うふふ………つーかーまーえーたーぁ”

 化け物が嬉しそうに嘲笑う。
「へっ………それが、どうしたってんだよっ………!」
 身体を半分に引き裂かれそうな痛みに耐えながら信長は笑い返してやった。
“あらーぁ………怒ってる? 怒ってるのかしら? どうして? 痛かったから? 傷つけられたから? 私が多くの人の命を奪ったから?”
「此処はオレの国だ………好き勝手に荒らすんじゃねーよ。てめぇにそんな権利なんぞないんだっ………!」
“勝手、勝手、勝手ね、貴方。とても自分勝手だわ。貴方に権利なんか与えてもらわなくったって私は生きていけるのよ。貴方がいなくたって皆生きていけるのよ”
 甲高い笑い声が辺りに反響する。とことん癪に障る女、いや、化け物だ。赤い空洞と化した眼窩から再び鮮血が溢れ出す。しかし痛みを全く感じないのか笑うことをやめようとしない。
“怒ってくれて嬉しいわ………もっと怒って頂戴、怒りで何も考えられなくなるぐらい。悲しんでくれたらもっといいわ。私はそれを糧にして傷を癒すことにするから”
「―――んだとぉ!?」
“恐怖してくれるのが一番いいんだけど、でもね、怒ってくれるのもなかなかいいわ。悔しさが満ち溢れてて………そういう人を食い殺す時、とても幸せな気分になれるの”
「………っ」
 悪趣味な内容に歯軋りをする。
 つまり、怖がっても怒っても悲しんでも結局こいつの思い通りというわけか。しかし実際化け物を目の前にしてそれ以外の感情を抱ける奴なんているのだろうか。悟りを得た人間のように全てを受け入れる? 宗教に染まりきった人間のように化け物に説教でもくらわす? どちらにも自分には出来ないことだし、やりたいとも思わない。

 怒りを感じずに―――その他のどんな感情で相対せよと言うのだ。

 ギリギリと撒きつく力が強まり腕の感覚が徐々に消え失せてくる。化け物が再び楽しげに笑った。
“貴方のお話って面白いわね。自分勝手な人間の聞くに堪えない世迷言って大好きよ。もう少しお話を続けたいところだけれど―――ごめんなさい、私、疲れてしまったの。少しだけ待ってて下さる?”
 そう言って少しだけ上空のサスケをブラブラと揺らす。不満そうなぼやきが漏れた。
“駄目ね、動物は。感情の色がやはり人間に比べると物足りないわ”
 ゆっくりと首が周囲を見回し―――木の根元に崩れ落ちている影に眼を止める。眼が見えていないのにそう形容するのはおかしいかも知れないが―――もしかしたら視力が回復しつつあるのだろうか。化け物の生態なんぞ知ったこっちゃないから治癒力だって推測するしかない。もしそうだとしたらますます状況は絶望的だ。誰も動けないし助けも呼べない。
 腕の力も既に限界に近かった。

“そうね………気絶してるから無理かしら。でもきっと最期の瞬間には意識を取り戻してくれるわよね”

「………あ?」
 その言葉に眉を顰める。言われたことの意味が………分かったのだが分かりたくない。
 要するに………こいつは疲れていて、人間の怒りとか悲しみが回復に役立って、サスケみたいな動物じゃ物足りなくて、自分のことは後回しにすると―――。
 ………消去法で行けば狙いはひとつしか残らない。
“断末魔の悲鳴って気持ちいいものよ。どんなに取り澄ました人間でも最期には壊れてしまうの。普段達観しているような人間ほど惨めで愚かしい無様な声を上げるの。貴方も聞いたことぐらいあるでしょう?”
「………さぁ、な」
 戦に出て人を殺したことぐらいザラにあるが、悲鳴を気に止めたことなんて一度もない。そんな事気にしてたら戦なんぞやっていけない。
 心底楽しそうに黒い髪が波打つ。
“ねぇ、もしあの子が死んだら貴方怒ってくれる? そうしたら、私とても嬉しいわ”
「………誰が怒るかよ。てめぇの思い通りにはならねぇ………!」
 ―――ムカつく。何なんだこの状況は。これだけムカつく奴を相手に、何故反撃も出来ずに必死になって堪えていなきゃならない? 何故こんな下らない話に付き合わなきゃならない。オマケに。

「部下のひとりが死んだくらいでオレが気にするようなタマに見えるか? 大体、あいつが死んだって自業自得なんだよ………!」

 ―――要らんセリフまで言わされて。

 あんな奴死んだって構わない。一度は死んだと思い込んでいた相手だし何時消えたところで驚きもしない。逃げ出す機会は幾らでもあったのにそうしなかった以上、覚悟を決めて仕えていたはずだ。ならば何処でどんな死に方をしても文句は言わせない。見捨てるとか切り捨てるとか、そもそもそんな関係でもない。いてもいなくても大した違いはない。今、自分が怒っているのは身動きならないこの状況に対してだけだ。それ以外の理由なんて何ひとつ存在していない。
“そうね、そうかもしれないわ。でもどちらにしろ私はあの子を殺すから気にしないでいいのよ”
 おちょくるような軽い口調で化け物が笑う。至近距離まで迫っていた巨大な口が方向を転じ、藤吉郎の方へと向かっていく。
 倒れ伏したままの人影はピクリとも動かない。このままでは本当の本当に殺されてしまう。

 ………何やってんだ、あのバカは―――!!

 苛立ちが募る―――無意識の内に言葉が口をついて出た。
「サル―――っっ!! 何やってんだ、アホ!! 殺されたいのか!? 起きないと殺すっっ!!」
 自分の予期せぬ行動に自分で驚いている暇はない。叫ぶのに結構力を要して、手が木から離れそうになるがそんなの構ってられるか。敵はもうすぐそこまで迫っているのだ。
「気絶してる場合か! 起きろ! 起きて逃げろ!! 命令だっっ!!」
 化け物が少しだけ振り返り、嘲笑を浮かべた気がした。『ほーら、やっぱりね』………そう、言いたげに。
 感情を読み取るこの化け物には自分の思いが全てバレているというのか? ―――自覚してないような思いまで。
(………ぜってぇぶっ殺すっっ!!)
 あの化け物しかり、これだけ呼んでも目覚めないバカしかり、だ。主君にこれだけ呼ばれて起きないなんざ無礼にもほどがある。
「起きろ! とっとと起きろ! 何してやがんだ、お前にはっっ………」
 何故叫んでいる、何故怒っている、何故焦っている。
 そんな細かいところまで神経回す余裕なんか、ない。本能の命ずるままやりたいと思うことをやるだけだ。今までもずっと、ずっとそうしてきた―――。
 だからこそ今、喉の奥底から全ての力を振り絞るかのように―――叫ぶ。

 呼んでやる―――目覚めるまで!

「―――オレの声が聞こえねぇのかぁぁ――――――っっっ!!!」




 ………痛い。
 体中が、痛い。
 まるで木に縛り付けられていたかのように体の節々が痛む。痛みに体が痺れて動けそうにない。
 でも、誰かに呼ばれたような気がした。………そんなワケないのに。
 やっとの思いで少しだけ目を開くと薄い灰色に覆われた靄の中、明け方の白い月が空の真ん中に寂しげに浮かんでいた。
 ………何だっけ。自分は、この光景を覚えている。
 忘れたくても忘れられない、何かとても大切な思い出。意識の隅に浮き上がらせただけで泣いてしまいそうな、綺麗で忌まわしくて愛しくて疎ましい思い出。
 ひたひたと遠くから足音が響いて、靄の向こうに子供が独り現れた。上等の着物を着て、腰に竹笛を差して。
 すぐ傍まで来て不思議そうに立ち止り、年齢にしては大人びた声で静かに問い掛ける。

“………何やってるんだ、こんな所で”

 何? 何をやってたんだろう、オレは。確か………とても、大切なことをしていたのに。
 子供がそっと手を差し出した。それに応えるために手を伸ばそうと努力しても、何故か自分の腕は動かない。
 痛みの所為? ―――それだけじゃない。

“―――立てるか?”

 誰だろう、どうしてだろう、何でだろう。自分はこの子供を知っている。確かに何処かで会っている。
 でも名前が思い出せない。もう少しで思い出せそうなのに、何かが自分の意識を邪魔している。
 視界の隅で榎の枝が風に揺れた。

“さあ―――起きるんだ”

 ………そ、の。

 神仏を思わせる慈愛を湛えた微笑みに記憶が重なり、瞬時にして全てが繋がった。
 何を忘れるものか。どうして忘れるものか。お前は、お前はあの時―――。
 掴み取ろうとした腕は現実に触れ合うことはなく相手の身体をすり抜ける。幻と知れた瞬間に記憶の映像は急速に遠のいていった。
 待ってくれ、頼むから待ってくれ。まだ自分は何も、何も伝えていないのに―――!

“………!”

 ようやく思い出した相手の名前は再び記憶の闇に飲まれていった。




「………あうっ!」
 少しだけ上げた頭が結局下に逆戻りして地面に強かに打ちつけられる。後頭部に響く痛みに引きずられて視界が開けてきた。そこは灰色の世界なんかじゃない。どちらかと言えば乳白色の海の中。茶色い大地とくすんだ木々の肌と、それでも緑色をしている葉の数々。
 体中が悲鳴を上げる痛覚と視覚の復活に伴い、今度は聴覚が復活してきた。
 ………誰かが何か叫んでる。鈍った頭に届く声は不思議と心地よくて。

「気絶してる場合か! 起きろ! 起きて逃げろ!! 命令だっっ!!」

 命令? 命令って………何の? あれ? オレって今何してたんだっけ。
 頭の隅に霞がかかっていてイマイチはっきりしない。状況は掴めないし事態は把握出来ないし身体は痛くて動かないし―――ああ、それ以前にこの声の主は誰だっけ。叱り飛ばされてるみたいだし、急いで応えないと非常にマズい相手だという気はするのだが。

「起きろ! とっとと起きろ! 何してやがんだ、お前にはっっ………」

 何でだろう、怒られてるのに安心してる。………変なの。聞き覚えのある声だからかもしれない。
 そう、知ってるんだ、自分は。
 どんな目にあっても絶対聞き違えるハズがない。
 結構いつも真摯、大抵どこか必死、そして何故か優しい。そう、この声は―――。

「―――オレの声が聞こえねぇのかぁぁ―――――っっっ!!!」

 ―――信長様!

 意識が覚醒の淵まで引き摺り下ろされ曖昧だった思考が現在と合致する。
「はいっ!! 聞いてます!!」
 藤吉郎は叫びながら飛び起きて、途端襲ってきた痛みに頭を抱えて呻いた。脊髄を電流のような激痛が走り抜け思わず咳き込む。内臓でもやられたのか咳をするだけで体中が激しく痛んだ。
“あら、起きてしまったの? でもその方がいいかもしれないわね”
「………?」
 上から落ちてくる声に嫌な予感を抱いて顔を上げ、次いで状況を確認しようと急いで周囲に目を走らせる。

 化け物―――ダラダラと両の眼窩から血を滴らせながら正面で笑っている。
 殿―――左手奥で化け物に飲み込まれないよう必死で木の枝に掴まっている。
 サスケ―――右手奥で蓑虫の如くグルグル撒きにされ、宙吊りになっている。
 自分―――痛みで意識は朦朧としてるし、とてもじゃないが動けそうにない。

 状況………最悪。

「何やってるバカ! 起きたんならとっとと逃げろ!!」
「え………あ、うあ………?」
 信長の言葉にも頭の回転が付いていかず、オタオタと辺りを見回す。
 逃げるってそんな………そんなこと、出来るわけないし。手元の武器を探ってみるが振り回されている間に落としたのか見当たらない。信長の刀は遥か前方、化け物の真後ろ辺りに落ちている。
 どうすれば―――どうすればいい? 歯向かう手段が何も残ってない。
 巨大な口が歯の根を鳴らして嘲笑う。
“みぃーんな死ん死んで死んで消えて消えて消え消えなさいアハハ私の目を奪ったバ罰ばつツよ罰よ”
 声が重なって聞こえるのは両の口で同時に喋っているからか。器用なことを、と感心している場合ではない。このままでは本当に皆そろって三途の川を渡る羽目になってしまう。
 冗談じゃない―――せめて、せめて殿だけでも助けないと………!
 歯を食いしばってどうにか立ち上がろうと膝に力を入れた。が、フラフラとよろめいて再びその場に座り込んでしまう。自分の軟弱さに泣きたくなってなる。
 でも、泣いている場合じゃない、怒ってる場合じゃない、恐れてる場合じゃない。冷静になって、冷静になって考えなければ。たとえあと数十秒しか考える余裕がないとしても。あの女性が涙を流していたのは何故だ。化け物となってしまった境遇を嘆いて、どうしようもなくて、最終的に誰かに頼るしかなくなった末の苦肉の策ではなかったか。自ら目を貫いたあの覚悟を全て無に帰してしまうのか。それにあの女性は言っていた。次に来る者達がきっと―――そんな、そんな夢みたいな言葉でも………。

(―――夢?)

 ハッとなって藤吉郎は寄りかかった木を見上げた。衝撃波によって痛めつけられ、今にも落ちそうな枝を何本もぶら下げている………榎の大木。

 ―――『夢』? 『啓示』? 『予言』?

 そんなものに頼りたくはない。頼りたくはないけれど―――ひょっとして………!

「―――!」
 突如藤吉郎は狂ったようにがむしゃらに腕を木の根元に突っ込んだ。中を調べて何もないと分かるとすぐに隣の洞に移り、同じように内部を探る。端から見ているとそれは死を直前にした人間が見苦しく足掻いているとしか思えなかった。
“フフフ、何をやっているのかしら………穴を掘ほってて逃げようようとしした処ろで無駄ムダむムダなことよ往生際悪るイるいわね”
「何やってんだ、逃げろっつってんだろ!!」

 ―――分かってます、ちゃんと聞こえてます、殿………!

 でも、可能性がほんの少しでもあるのならそれに賭けてみたいから。
 あの女性は確かにこの大木を指差していた―――自分はそれにまつわる夢を見た………。そして夢と共に甦ってきた記憶に頼るなら、確かに此処にあるハズだから。信じたくなんてないけれど、もし本当にあいつが此処を訪れていたのなら―――全てお見通しだったのなら、きっと………!
「………つっ!?」
 髪の毛が左足首に絡みついた。握りつぶさんばかりの勢いで締め付け、更にそれ以上の力で根っこから引き離そうと力が加えられる。宙吊りにされないよう片腕で根に腕を巻きつけ、右手だけで必死に作業を続けた。
 間に合ってくれ、頼むから………!
 痛みに霞む視界が暗闇の奥底に白い影を見つけた。上に引っ張られる力に対抗して地中に精一杯腕を伸ばす。
 後少し、後少しだから―――!
“うふふ、バカ馬鹿ばかバカねいい加減あきららめなささいいな!”
 腕が根から外れて体が宙に浮くのと指先がそれを掴んだのはほぼ同時だった。

 ―――届いた!!




 藤吉郎の体が宙に引き上げられたと思った途端、劈くような化け物の悲鳴が上がった。
“―――ぎゃぁぁぁぁっっ!!!”
 化け物が髪の毛を解いて捕らえていた人物を振り落とす。さして高くない位置だったとは言え、またしても根元に叩きつけられて藤吉郎は腹を抱え込んで呻いた。
 一体、何がどうしたと言うのか―――藤吉郎に撒きついていた髪の毛の束が白い煙となって消失していた。まるであの札に触れたかのように。化け物は激しく身体をうねらせくねらせ、地面に余った毛先を叩きつけて息も絶え絶えに苦しみ喘いでいる。
 腕を捕らえていた力が弱まった瞬間、信長は右手を枝から離して思い切り左手首の髪の毛を引き千切った。サスケも器用に黒髪の網から抜け出して手近な木に飛び移る。

「とっ………殿ぉ―――っっ!」
「!」

 木の根元に蹲ったまま藤吉郎が何か白い物体を投げ寄越す。受け止めると纏わりつくように残っていた数本の黒髪が一瞬にして燃え尽きた。効力に驚いてマジマジと手元の物体を見つめる。懐に仕舞えそうな程短い、白木造りの短刀。鞘から柄にかけて何か文字が記されている。

「それを………使ってくださいっっ!!」

 刀身を抜き放つと同じように文字が書いてあるのが見て取れた。
 読み取れないし意味も分からない、けれどこれは確かにあの札と同系統の文字だ………!
“おのれ!!”
 伸びてきた毛の束が刀を薙いだだけで消し飛ぶ。効果がありすぎて怖いくらいだ。
 数回切り裂いただけで足元を埋め尽くしていた網目が霧散する。襲い掛かってきた敵の攻撃を切り裂き、その度に相手の体に修復不可能な傷が刻まれていく。先程までの苦労は一体何だったのか、と思いたくなる程簡単に化け物を屋敷の隅まで追い詰めた。
 長かった髪の束が散り散りになり、前回とは異なり再生する様子も見せない。白い顔を浮き立たせることもなくただ無意味に巨大で不気味な腮だけが荒い息を吐いている。
「形勢逆転―――さっさと殺しておかなかったことが災いしたな」
 攻撃は迅速を旨とする―――倒せる時に倒しておかなかったのなら、後でやられてもそれは自分の責任だ。
 最初と比べると半分ほどの体積にまで縮まった化け物は、それでも刃から逃れようと後ろにズリ下がっていく。
 ガチガチと骨が鳴った。
“死なない………死にたくない………私は、私は死にたくない………”
「てめぇが言えた義理かよっ!?」
 庇うように掲げられた髪の束ごと、鋭い刃が化け物の脳天を切り裂いた。

“―――!! い、やぁぁぁぁぁ―――――っっっ!!!”

 切り口から赤い血が迸り宙を飛び、体に触れる前に白い煙となって霧散する。………何だってこんな化け物でも血は赤いのだろう。苦い思いが抑えきれない。それともこれはこいつが殺した人間たちの―――あるいは依り代にしていたあの女の血なのだろうか。
 どろどろと血が地面に溜まり切り裂かれずに残った口が泡を噴き出す。

“イ………ア゛―――!!”
「―――っっ!?」

 突如化け物の体を中心に熱風が湧き起こった。間一髪のところで飛びのいて直撃をさける。巻き上がった風は周囲に円形の波で伝わり、壊れた灯篭、倒れた木々、そして家屋の中にまで等しく伝わった。熱を孕んだ上昇気流に逆らうかの如く、空から何かがガラガラと降り注いだ。頭を庇って避けながら落ちてきた白い欠片を拾い上げる。
 何なのか初めは見当もつかなかったが―――落ちてくる欠片の形を組み合わせ、そういえばそうだったなと変に納得した。化け物の体の一部として使われていた………人間の、骨。
 二つの頭蓋骨がガタン、と地に落ちることでようやく白い雨が静まる。
 風が収まると化け物の死骸は跡形もなく消え失せていた。かろうじて地面にこびりついた黒い煤だけが風の名残に乗せられて舞い上がる。
 同時に周囲の景色にも変化が生じた。屋敷を取り囲んでいた霧が徐々にその色を薄め、化け物の住処となっていた屋敷がまるで砂の城のように端から霧に紛れて解けていく。屋敷だけではなく灯篭や庭を飾っていた美しい花の数々も上の方から形を崩していく。
 無言でその光景に魅入っていた信長はフと何かを感じて空を見上げた。
 ―――先程宙に舞い上げられた黒い煤が再び結集していく。ザワザワと寄り集まり、固まり、チロチロと頼りない黒い繊毛を取りまとめる。随分小さくなったとはいえ………まだ人間の頭部ほどはありそうな球形になると、再度白い歯がその口先から覗いた。全ての骨を捨て去ったわけではなかったらしい。それともあの歯は―――自前か?
 しぶとく甦った化け物の最後の肉体。

“イ………ヤ………”

 今にも消え去りそうな弱々しい思念が呟く。フラフラと宙を漂って、波間を漂う藻のように上下し彷徨う。
“ヒト、リデ………消エテイクノ、ハ、イヤ………イヤ………”
「………言えた義理じゃねぇっつってんだろ」
“イヤ………寂シイ………………イヤ………”

 ―――泣いている、のか?
 消えていく屋敷の流れに紛れてその輪郭が幾度も頼りなくぼやける。

 ………生への執着は、誰だって持ってるもんだし。
 死のう死のうと思っても、切羽詰ると何故か生き延びようと足掻いちまうし。
 こいつが無意味に他人の命を奪っていたと言っても―――これから先自分が戦を起こせば、それ以上の人間が命を落とすことになるのだ。

(でもな―――見逃してやるワケにはいかねぇんだよ………)
 スッと刀を構えて静かに化け物の最後の思念が下りてくるのを待つ。そのままとどめを刺してやるつもりだった。
 ―――しかし。
 ギシッ! と突如化け物の歯が鋭さを増し、球体の中央に赤いひとつ目が輝いた。

“―――死ナナイ!”

 歯が激しく鳴り響き口が限界ギリギリまでこじ開けられる。その中に覗く、更にもうひとつの目玉。

“私ハ死ナナイ! 死ンダリシナイ! 死ヌノナラ―――オ前モ、道連レダ!!”

「けっ! 見苦しいぞてめぇ!!」
 何故か失望を感じながら一気に斬り捨ててやろうと刀を振りかぶる。が、突っ込んできた化け物は刀の間合い直前で何故か方向転換をした。予想外の行動に反応が遅れる。
「なっ………!?」
 刀の切っ先を交わし化け物が上空を行き過ぎる。赤子なら丸呑み出来そうなぐらいにその口が開かれ牙が飛び出た。
 目的は―――オレじゃない!?
 大木の根元に座り込んだままの藤吉郎がのろのろとこちらに顔を向ける。意識を喪いかけた瞳に意志はなく、眠りに落ちる前の子供のように安らいだ表情を浮かべていた。

“オ前ガ………死ネェェェ―――――ッッ!!”

 爛々と燃える瞳が藤吉郎を視界に捉える。それが分かっているだろうに藤吉郎は逃げようともしない。いや、そうではなく―――分かっているから逃げない、のか。
 冗談じゃねぇっ、何だってオレがあいつのために………!

 別にあんな奴どうなったってかまやしないんだぞ、と内心で叫ぶ。
 それに負けない程の強さで追いついてくれ、と体が急ぐ。

 必死で体を転じて宙を飛ぶ敵に追いすがろうと努力して、逃げようとしない大馬鹿者にひたすら怒りを感じて、一瞬だけ暗い思考が駆け抜ける。

 ―――間に合わないっ………!!

 黒い固まりが笑いながら速度を上げる。藤吉郎は僅かに上体をずらすと幹に軽く寄り掛かり―――其処に、何を見たのだろう。

 軽く………笑った、ようだった。

 鋭い牙が勝利を確信して震える。喉笛に致命的外傷が加えられる寸前。

 ―――何かが空を切り裂いた。




 ………奇跡、だとか。
 ―――偶然、だとか。
 その眼にしてみるまで信じられない出来事は結構あって。救いならば人々はそれを奇跡と呼び、呪いならば人々はそれを絶望と呼ぶ。なら、この場合はどっちだ?

 勿論―――奇跡、だろう?

“…ギ………ア、ガ………”
「……………」
 苦悶の声を漏らす化け物を前にして漸く藤吉郎は我に返ったのか、青ざめて眼前の物体を凝視していた。
 如何なる運命の賜物だろうか―――あるいはそこに必然性があったのか。
 下手すれば藤吉郎自身も巻き添えを食いかねない、そんな際どい位置関係で。

 ―――太い木の枝が化け物を刺し貫いていた。

 化け物が突っ込んでく速度だとか枝自身の落下速度だとか藤吉郎の座り込んでいた位置だとか。
 偶然、とか運が良かった、とか。その程度の言葉じゃ片付けられない程の………悪運。
 痛みがぶり返してきたのか軽く咳き込んでいる藤吉郎の揺れる前髪が、触れるほどの至近距離だというのに。
 枝は彼の体は掠りも傷つけもせず、正確に化け物の体だけを貫いていた。地面に突き立った長い杭は化け物の悶えにも揺らぐ気配はない。
「………」
 ゆっくり、近づくと。
 貫かれた箇所から毒々しい赤い液体を滴らせ、毛の先端を悲しげに蠢かしている化け物に。
 刀を閃かせ今度こそ息の根を止めた。

“――――――”

 少しだけ流れるような意識を残してその体は白い煙となって消え失せた。―――ほんの微量の、煤も残さず。
 緩やかに吹き抜ける風に乗って何処か遠くへ流されて行く。
「と………の………」
 苦しそうに喉元を抑えながら藤吉郎がどうにか言葉を発した。
「すんません、オレ―――う、動けなくって、それでその―――」
「………見ろよ」
「え?」
 信長の言葉に俯かせていた顔を上げる。散開していく白い霧、それに紛れるように消えていく周囲の景色―――。
 何を見ているのだろう、信長の目線は真っ直ぐ上空へと向けられていた。未だ白い粒子の渦しか見えない、けれどその後ろに太陽の光を隠したような透き通った白さ………。
「屋敷が―――消えるぜ」
 化け物の思念の消失と共に屋敷も最後の力を使い果たしたのか。
 崩壊は止まることなくサラサラと涼やかな音色を奏でながら宙に巻き上がり見えなくなっていく。
 微かに地面から吹き上げる風が、全てを空へと持ち上げていく。

 空へ―――。

 ………空へ。

 信長と藤吉郎はしばし何も言わずに、その幻想的な光景を眺めていた。

 

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