― akatsuki 暁闇 yami ―


 

 前日の予想通り、翌日の空も晴れ渡っていた。青い空が何処までも果てなく広がり、今宵の月も美しかろうと風流を志す者たちの顔を綻ばせる。
 傾き始めた太陽を見上げて日吉は目を細めた。
 三歩、先を行く五右衛門がくるりと振り返る。
「おーい、休んでんなよ。あともうちょいなんだからよ!」
「あ、うん、ごめん」
 小走りに駆け寄って五右衛門の隣に並び立った。もとより身長の所為で歩幅が違うため日吉は遅れがちになるのだが、それでも彼は充分速度を合わせてくれている。いま、遅れてしまったのは偏に己の意識が他へ逸れていたからに過ぎない。
 目的地である尾張まであと少し。織田家の跡目問題が勃発しているところまで、あと少し。
 無論、日吉の願いは信長に付き従うことであり、そうである以上、跡目を継ぐのが誰であろうと仕えるべき人物に変わりはない―――脱走兵が受け入れてもらえるのかは置いといて。
(変な夢………見ちゃったな)
 忙しなく行き来する商人や町人に目を遣りながら日吉はそっとため息をつく。
 眠れないながらに無理矢理に眠ろうとした結果、枕元に訪れたのは後悔してもし切れない過去の記憶。何故逃げたのか、何故理解しようとしなかったのか、いまでも重ねて問い掛けてくる思い出はそのまま「仕えるべき主を変えてはならない」との想いに通じている気もする。あの時の自分は己の弱さを理由に離れることを選んでしまった。だからこそ。
 今度ばかりは―――。
 逃げたくなんて、ないのだ。
 やや顔を俯けた状態で歩を進める日吉を見て、五右衛門もまたこっそりため息をもらす。
 けれど、敢えて気付かないふりをして、ひたすらに前を見て目的地を指差す。
「ほら、そろそろ今日の終着点だぞ」
「え?」
 面を上げて日吉はきょとんと瞬きを繰り返した。
 気のせいか周囲の人波が増えている。小奇麗な衣服の者ばかりではなく、見るからに農民や孤児や浮浪者と思しき者までがふらふらと溢れ出していて、先刻までは影も形もなかったのにと聊か不審に感じる。
 五右衛門は皮肉げに笑みを深める。
「怖いか?」
「え?」
 言われて、目を瞬いて。
 意図を介して苦笑した。つまり、彼は問いたいのだろう。世間的に見て「下位」に属する彼らを、嫌ったり蔑んだり遠ざけたり疎んじたりするのかと―――。
「まさか」
「だよなぁ」
 珍しくも声を上げて笑った。
 彼らと自らの差などないに等しい。
 自分は少しだけ―――ほんの少しだけ、運がよかっただけに過ぎないのだ。
 五右衛門の指し示した先には古びた寺院が控えていた。足が止まりそうになるのを如何にか堪えて歩を進める。門前に構える木の見事さといい、瓦葺の屋根の豪勢さと言い、時の流れには勝てず苔むしてはいるものの、かなりの権力を有する寺であることは確かだった。通常、こういった寺には近隣の住民が貢物をし、住職が説法をたれることで相互扶助が成り立っているのだが。
「………寺院が率先して助けに回ってる感じ?」
「だな。救世を志すだの何だの言うだけはあるってか」
 石造りの階段を上る途中途中で、寺の坊主らしき人物が動くこともままならない人に手を貸したり、傷の手当てをしたり、談笑していたりする。境内に踏み込めばその傾向は一層明らかで、炊き出しに群れる農民とか、小坊主に遊び道具を拵えてもらっている子供たちとか、戦乱の世であることを忘れさせそうなほど長閑な空気がそこには流れていた。
 物珍しげに見渡していたら、石に腰掛けた老人に笑われた。
「この寺は初めてかね」
「は………はあ」
 すいません、と意味も無く謝りながら片手で後頭部をかいた。五右衛門はいつの間にやら何処かへ姿を消してしまっている。
「無理もない。ここまで寺と住民が打ち解けている例は少なかろうて」
「―――そう、ですね」
 あくまでも日吉の中では、寺の坊主たちは農民を見下している権力欲の権化のような存在だった。ごくごく稀に仏道に相応しい精神を兼ね備えた人物もいたけれど、大多数が金銭欲だの暴力だのを容認していて、悪いがあまり信用する気にはなれなかった。
 だが、ここに流れる雰囲気は。
「昔は然程交流もなかったんだがの。瑞祥様がいらしてから随分変わったものよ」
「瑞祥?」
 老人は手にした湯飲みにたっぷりと注がれた白湯を口にしながら、得意げにその名を口にした。恭しい態度、誇らしげな口調、満たされた表情。それは、いつか何処かで誰かが同じような色を浮かべていたと錯覚させるに充分な。
「まだお若くての。旅の途中じゃからと長居はして下さらんようだが―――おかげでわしらの暮らしも随分楽になった」
『瑞祥』という人物は同じ流派の別寺院から派遣された見習い僧らしい。見習いに過ぎない立場で何をどう説得したかは知らないが、民間に医療を広めることの必要性を解き、人民が貧困に窮した折りには食物を分け与え、叶うならば教養も授けるべしと提言したそうで。
 なるほど、それが確かなら近隣住民が『瑞祥』を敬うのも無理からぬと思えるほどに出来た人物で。
 心にかかるものを覚えながらも日吉は老人の言葉に耳を傾けて。
 わしも足を怪我してよう動けんかったところを、瑞祥様のお手当てでお助け頂いたんじゃよと、「おかげで余分に働かねばならなくなったわい」と苦笑しながらも、老人は満更でもなさそうだった。
 もうすぐ家族が呼びに来るからと腰を上げた老人は思い出したように付け足した。
「そうじゃ、もしかしたら瑞祥様がお見えになるかもしれんて。数日おきに直々に参って相談に乗って下さる方じゃからの」
 だから境内がこんなにごった返しているのかと納得しながら、色々と教えてくれた老人にお辞儀をして日吉は別れた。
 さて五右衛門は、と振り向いたところで人垣を掻き分けて来る彼を発見した。手を振ると同時に駆け寄れば、「動かずに待ってたんだな、偉い偉い」とよく分からない褒め言葉を貰った。
「ほれ。とりあえず、ここに来た第一の目的を果たさないとな」
「………ありがとう」
 手渡されたのは、ひび割れた茶碗一杯に盛り付けられた雑穀飯。大部分は稗や粟だが、時には米も混じっている。境内の端にある岩に並んで腰掛けて、飯の熱さに閉口しながらも懸命に貪った。
 先ほど老人から聞かされた話を告げれば、日吉の報告を聞くまでも無く、五右衛門は大方の所を聞き及んでいたらしい。
「このご時世に、真の救世は何かと説いて回る物好きがいるらしいってな。名前は知らなかったけど」
 何にせよ旅人にとってはありがたいことである。
 五右衛門が手早く確認したところでは、いま居る境内の奥に本殿があり、その近くに旅人が素泊まりできる寝屋があるらしい。あばら家より多少ましな程度の佇まいでも、野ざらしで朝を迎えるよりは遥かに居心地が良さそうだ。寺に断らずとも出入りは自由とかで、下手すれば盗賊や夜盗の温床になるのではないかと危惧されたが、場所が場所であるためかそんな不届き者はいないとか。
「普通、こういった溜まり場には怪しげな連中が出入りするもんなんだがな。そーいった手合いのひとつも見当たらないってぇのは、余程坊主どもの日頃の行いが正しいのか、近隣住民がこぞって目を光らせているのか、誰かが陰で操ってるのか………」
 隣に立つ日吉にしか聞こえない声量でぼそぼそと隠密は不吉なことばかり呟いている。確かに、短期間であれどひとり旅の経験がある日吉から見ても此処は少し変だった。このご時世、何処にでも屯していそうな脛に傷持った人間が見当たらないのである。平和でめでたいことじゃないかと喜ぶには、聊か以上の不穏を孕んでいるようにも思われた。
 庭先に沸いている泉で支給品だった茶碗を軽くすすいで、片づけを行っている小坊主に手渡した。「ありがとうございます」と滅多に見られない友好的な笑みと言葉に迎えられて、不思議と抱く感情は安堵ではなく疑惑ばかり。何がおかしいのだろう、と自問したところで答えられる術などないけれど。
 注意深く辺りを見渡していた五右衛門は少しの舌打ちと共に日吉を振り向いた。
 嗚呼、俺としたことが読み違えたかとぼやきながら。
「日吉。飯くったばかりで悪いがいますぐ此処を出―――」
 わぁっ! と。
 歓声で言葉がかき消された。そのまま彼の方を向いていればよかったのに、事もあろうに日吉は騒ぎの中心を振り向いてしまって。
 ―――目を。
 縫いとめられた。
 いつかも見たような気がする。自然と衆目を集めて、期待に満ちた眼差しで見つめられて、当人は静かに佇んでいるだけなのにやたらと様になる。
 あの頃と違う、あるいは、あの時と同じ。
 白い衣の上から纏った紫の袈裟、左手首に回された簡素な数珠、腰から覗く笛と白木作りの短刀が。
 思い出よりも伸びた背丈、後ろで結わえた長髪、されど、面影は色濃く視界を埋める。
(―――見るな)
 こっちを見るんじゃない、と願った。
(見つけるな………!!)
 なのに、こんな時ばかり相手は違わずにこちらを見遣る。
 整った容貌、吸い込まれそうな黒瞳。
 慈愛に満ちた笑みを浮かべていた彼が、日吉を認めることで微かに表情を強張らせた。最初は、意外そうに。次いで、納得したように。にっこりと笑みを深めて真っ直ぐに見つめてくる。
 彼の視線が誰に注がれているのか衆目も気付き始めたのか、ざわめきと共にふたりの周囲には僅かずつ人垣が作り出されて、舌打ちした連れの忍びが日吉の腕を引っ掴んで逃走を図るその前に。
「―――っ!」
「え!? おい、日吉!!」
 耐え切れなくなったのは日吉が先だった。
 人垣を掻き分けて、脇目も振らず、相方の声すら振りほどいて立ち止まることすらせずに。
 逃げなくちゃ、早く逃げなくちゃ、早く………!!
 逃げたところで現実も過去の記憶も追いかけてくる。分かってる、後悔したくなければ止まらなければならない。受け止めなければならない。だけど、だけど、だけど―――。
 もつれる足で階段を駆け下りて、ふ、と息をついた瞬間。
「―――うあっっ!!?」
 背中に強い衝撃を感じて正面から倒れ込んだ。
 目を回している間も背にぎりぎりとかけられる体重、乱雑な扱い方は五右衛門のものじゃないな、と漠然と思い浮かべれば向けられたのは妙に親しげな笑い声だった。
「ひどいなあ、逃げるなんてさ。久しぶりの再会だってのに」
「!」
 びくり、と震えて動きを止める。
 一体何の騒ぎかと取り巻く周囲の声も、寺院の境内から階下を眺め下ろしている者たちの視線も、いまは気にならない。
「お前、全然変わってないな。ひと目みただけで分かったぞ」
 お前には俺が分からなかったかもしれないけど、と含み笑いと共に呟いて。
 そんなことはない、俺だって見た瞬間に分かったんだと振り仰いだところで。
 真っ向から視線が交錯して息を呑む。外見こそ成長したけれど、まるで別れなど存在しなかったかのように何故に彼は微笑んでいるのだろう。もしや昨夜の物思いは予兆だったのかと口が利けずにいれば、表情を苦笑に切り替えた相手に助け起こされる。お前があんまり必死になって逃げるから手加減できなかった、押し潰して悪かったなと。
 あの頃よりも砕けた口調で笑いかける。
 途方に暮れてやや上にある相手の顔を見れば、のんびりと改めて手を差し伸べられた。

「本当に久しぶりだな。―――日吉」

 そうしてひさぎは、あの頃と変わらぬ笑みを頬に刻んだ。




 全く、嫌な予感ばかり的中してくれると来たもんだ。
 なのに直前までその勘が働かなかった己に密かに五右衛門は傷ついていた。
 単なる敬愛とは思えない熱狂を秘めた群れから抜け出さなければと思った―――此処は、何かおかしかった。無防備な信頼、絶対の信用、恐れ敬い付き従う人の群れ。まるで、素晴らしき神仏を得た信者の如く。
 かくして境内に現れた人物はひとめで『只者じゃない』印象を与える輩で、振り向けば連れは一目散に逃げ出す頃合で、相変わらず逃げ足は速いとか俺は置いてけ堀かと不義理を嘆くより先に、錯乱したらしい奴の態度こそが気になった。
 ため息まじりに追いかけようとした、その脇を。
 風のように駆け抜けた法衣姿。
 彼は境内を過ぎり、階段を飛び降り、遠ざかりつつあった背に激突して停止した。呆気に取られて見下ろせば何やら日吉と―――激突した相手と話しこんでいる様が見えて。呆然とした日吉は動きもしなかったが、知り合いらしいことは明らかだった。
 日吉の手を捕まえて、少年が笑う。
 綺麗な顔立ちしてるじゃないかと思ったのは意識の端っこ。外見がどうであれ腹黒い人物がたくさんいることを嫌というほど知っている。先ずは、知り合いにも関わらず逃走を図った日吉の態度の原因こそ探るべきであろう。
 などと考えている間にも日吉は連れ戻されて、目敏くこちらを発見した法衣の―――少年、と青年の間の年齢―――に連れられて、寺院内の部屋に通されていまに至る、という訳だ。
 通された奥座敷は日当たりもよく居心地はよかったけれど、心理的に落ち着けない時点で全部帳消し。開け放った障子の向こうに覗く庭の景色はなかなか風流と呼べたが、差し込む太陽の傾き具合にいよいよもって五右衛門は眉を顰めた。
 ため息、ひとつ。
 少し、怯えたように正面に座り込んだ相手が身を震わせた。
「………知り合いか?」
「え?」
「あの剃髪もしてない坊さんだよ。知り合いでもなきゃ寺院の中になんて招き入れてくれないだろ」
「………うん」
 物凄く、困ったように。往生際悪く聞き取りにくい声でぼそぼそと呟いた。
「俺、以前、寺にいたことがあるんだ―――そこの、仲間」
「ふぅん」
「俺ってどんくさいだろ? 上役の僧侶とかによく苛められてたんだけど、ひさぎが………えと、ひさぎってあいつの名前なんだけど」
 じっと見つめるのは語り手の真偽を測るためだ。
 彷徨う視線は狼狽と不安、ゆるめた頬は安堵と親愛、全体的な印象は怯えと罪悪感。
「よく、助けてもらったんだ。薬草の見分け方とか、文字の読み書きとか、色々教わったよ。―――楽しかったし、嬉しかったな」
「聞く限りじゃ随分できたオトモダチみたいじゃん?」
 でも、それなら逃げ出す必要なんてないよな。と揶揄すれば。
 ごめん、五右衛門のこと置いてって。身体が自然と動いちゃったんだとの謝罪の後に、途切れ途切れの言葉を紡いだ。
「本当にいい奴なんだ。でも―――その………」
 少しずつ日吉の視線は下降する。胡坐をかいた膝の上、両の拳を握り締めて。
「俺があいつに応えられなかったっていうか―――ほんと、色々あって。寺を追い出された後になってから思ったんだ。俺は、傍にいるべきだったんじゃないのかって、でも」
 もう、遅かったんだ。
 呟く彼の横顔を西日が照らしている。詳しい話を聞くのは此処を出てからでもよかったかと思いつつ、しかし今更退出を願い出たところで日吉曰くの「ひさぎ」殿が許してくれないだろうなと察してもいた。
「俺、何もしようとしてなかった。なのにまた、条件反射みたいに逃げちゃって………情けないよな」
「じゃあさ、日吉」
 真っ向から見つめれば少し困惑気味の彼と視線が噛み合う。

「だからお前は、信長のもとに帰るのか?」

 同じ過ちを、繰り返さないために。
 留まる努力を示すために、自らが出来る何かを探すために、役に立てても立てなくても傍に、居続けるために。
 僅かに日吉は目を見開いて、視線をやや横へ逸らすと。
「そう………なの、かな?」
 逆に疑問で問い返してきた。そんなこと訊かれたって五右衛門に分かるはずもない。
「ただ、俺は―――」
「待て」
 言い募ろうとした日吉の口に手を当てて五右衛門が待ったをかけた。
 何故遮るのかと訝しげにする彼に、静かに、と目だけで訴える。ゆっくりと腕を放した五右衛門がやや離れた場所に腰を落ち着けるのと同じくして、カタカタと廊下を軋ませて誰かがやって来る気配がした。第三者が来るからかと日吉は納得したように頷いたが、実のところ五右衛門が彼の言葉を止めたのはそれだけではない。
(聞き耳たてるたぁ趣味が悪い)
 自らの職業は棚に上げて五右衛門は口角を上げた。
 十中八九、こちらへ向かっているのは日吉の旧友であろう。極端に小さな足音、薄い気配、忍びである己がかろうじて感じ取れるほどに。
 それだけではない、部屋へ案内される最中に観察していたが、足捌きも佇まいも立ち居振る舞いも、『ただの僧侶』とは到底思われない。何処かで厳しい訓練でも受けたのだろうと推察される。本職ならば裏家業についていることを悟られまいとするものだけれど、彼は隠す気すらなかったのか。
(大体、不殺生を則とするはずの僧侶が何だって短刀を持ってるんだ?)
 予想、ではあるが。
 彼もこちらの正体を察している。だからこそ隠すことに意味はないと踏んだのだろう。
 やがて障子の隅から顔を出したのは想像通りの人物で、腹の探り合いはあまり得意じゃないんだけどなぁと五右衛門も相手に倣って笑いかけた。
「悪い、遅くなったっ。夕飯もって来てやったぞ」
 ひさぎの両手にはふたり分の膳が抱えられていた。
 日吉が引き攣った笑みを浮かべているのに気付かぬフリで彼は膳を並べる。乗せられたのは玄米飯に菜っ葉の味噌汁に豆腐に魚の煮付け、餓えて倒れる輩も多い世でかなり豪華なもてなしである。
「坊主って生臭禁止だと思ってたんだけどな?」
 魚の煮つけを指差して問い掛ければ、相手は軽く肩を竦めてみせた。
「客人用だって。それに正直なとこ、偶には坊主だって生臭くわなきゃやってらんないって」
 気さくな語り口、気安い態度、穏やかな視線と態度。予め疑惑のひとつも抱いていなければあっさり騙されてしまいそうなほど見事な擬態。
「あんたのことは何て呼べばいい?」
「法名は瑞祥、俗名はひさぎ。好きに呼べばいい」
 どう呼ばれたところで大差ないのだと言わんばかりに。
「で、あんたは?」
「桑畑三十郎」
「へぇ? もっと違う名前だと思ってたよ―――なんとなく」
 涼やかな笑い声を零したところで彼の視線はいまひとりへと向けられる。
「そういえば、日吉」
「えっ! な、ななな何?」
「………そこまで緊張する必要ないだろ。久しぶりだけど、元気そうで良かった」
 動揺も露な日吉にひさぎが微苦笑をもらす。日吉は彼に対してかなりのわだかまりがあるようだったが、こうして見ている分にはひさぎがそれに頓着した様子は見られない。日吉が過去に対して敏感すぎるのか、ひさぎが淡白にすぎるのか、判断に苦しむところではある。
「覚えてるか? 風太って奴のこと」
「う、うん」
「あいつも『恵風』って法名を得て此処に来てる。いまは近くの村に出向してるから会えないけどな」
「そ、っか。あいつは―――寺に、残ってたんだ」
 俯いた彼の唇が『俺とは違って』と声なく動くのを五右衛門は黙って見つめていた。
「他の皆は?」
「んー、光明寺でも色々あったからなぁ。寺を移ったり、病に倒れたり、戦に駆り出されちまった奴も結構いる。全部なんて把握しきれねぇや」
 残った面々は幾人かの組に分かれて行動しているとひさぎは説明した。光明寺を拠点とし、今回はひさぎと風太が行動を共にしているけれど、場合によっては相方が変わることもあるのだと。
「何でそんな頻繁に他の寺と行き来してるんだ?」
「お題目としては救世の思想を広めるため、ってか。でもまあ本音は大名に抗すべく寺同士の結びつきを強めとこーって。理想を謳うだけじゃやってられないし? ―――と、これは」
 ふ、とひさぎが目を細めて五右衛門を見遣る。
「桑畑さんには言わずもがなの情報だったかな?」
「………安心しろ。いまは別に何処とも契約してねぇから」
 俺が忍びであることへの当てこすりかと、薄っすらと笑みを吐きながら内心で舌打ちした。
「日吉は」
「え?」
 ひさぎからの急な問いに伏せがちだった面を日吉が上げる。
「いま何してるんだ? 旅の途中か? 家族はどうした。村は出たのか」
「え、と、村………は、出て。商売やろうとしたんだけど、あんま上手く行かなかったってゆーか、戦にも参加したけど―――俺の腕っ節じゃなんの役にも立てないから」
 うろうろと彷徨った視線は結局、畳の上に固定されて動こうとしない。
「勤めたいとこは、あるんだ。でも、雇ってもらえるかまだわかんないし。だからその、いまは素浪人みたいなもの、で」
「ふぅん」
 たどたどしい説明に何を思ったか、ひさぎはつまらなそうに眉を顰めた。整った顔立ちは有利なのか不利なのか、ただそれだけの仕草でもこちらに落ち度があったのではないかと根拠の無い動揺を抱かせてくれる。
 片膝たてて両腕で抱え込んで、視線は真っ直ぐに相手に向けて。
「―――相変わらずだな」
 浮かべられた笑みは『慈愛に満ちた』と表現するに足る穏やかさを湛えていたけれど、日吉は、まるで縫いとめられたように動かなくなった。
「ひさぎ………その、俺、は」
「変わらないのを美点とする奴も多いから、いいんじゃないか」
 第一、俺は言える立場にないもんな? と、冷徹とも怜悧とも取れる笑みの端にほんの一欠けの親しみを滲ませながら、ひさぎが腰を上げる。
 ゆっくりと部屋の外へ向かった彼は、障子に手をかけた状態で立ち止まる。
「飯、あったかいうちに食べろよ。今日はもう遅いから泊まってけ」
「ちょ、待―――ひさぎっ」
 呼びかけにほんの少しだけこちらを振り向いた彼の表情は、日の光の影となって捉えることが叶わなかった。

「―――躊躇ばっかしてんなよ。それっくらいのことで」

 耳に微かな笑いを響かせてひさぎは姿を消した。部屋全体に差し込む茜色の陽光を受け止めながら五右衛門は静かに隣の気配を探った。
 静止していた日吉はやがて、おずおずと開いたてのひらで、左目の前を覆って。
 呟く。
 彼の言わんとしたこと、親しいような見捨てたような態度、笑いながら浮かべる冷たい瞳。
「もう、何とも思っちゃいないんだな―――ひさぎ」
 あの日自分が見捨てたことなんてもう彼にとって取るに足らない過去になってしまったのかと、彼の人生に自分が関わることはもうないのかと、彼がどんな人生を送ったかなんて知りようもないけれど、本当に『他人』になってしまったのかと。
 五右衛門自身は聊か異なる感想を抱いていたが、当人がそうと思いこんでいるなら正しようもなく、仲を取り持ってやるほど出来た人間でもなく。
 彼は黙って外の景色を眺めていた。
 暮れ掛けた夕日がどっぷりと辺りを真紅に染め上げた後に漆黒の闇をまとい降りてくる時刻まで。




 暗い室内に寝転がり、天井を見つめたまま深いため息をついた。
 ―――眠れない。
 傍らで布団を被った五右衛門の安眠妨害になってしまうかと案じたが、彼なら既に気付いているだろうと甘えたことを考えて日吉は気遣いを放棄した。
 ものすごく気分が沈んでいた。
 言うまでも無い………原因は、ひさぎとの再会だ。
 咄嗟に逃げてしまった自分を追いかけてきてくれて、部屋に案内されるまで握られていた手のあたたかさとか気の置けない優しさとかに救われたのは事実だ。
 でも、話す内に理解した。
 彼はこちらを見つめてはいるけれど、見つめる以上のことはしていないのだと。
 何より、かつてよりも打ち解けた態度が、よく笑うようになったことが、砕けた口調でいることが、より一層の隔たりを感じさせる。
 過ごした時間としても―――精神的なものとしても。
 己は未だ彼に対して思うところがあるけれど、彼は完全に過去を昇華してしまっている。「確かにそんなことがあった。だから、何?」と笑いながら首を傾げて、日吉が係わり合いになることを拒んでいる。
 自分は、あの瞳が、怖かった。
 いつか再会した折りに、非難されるのではないかと思うと怖くてならなかった。
 けれど、現実には。
『其処にいる』と認識される以上の感情は存在しなかった。
 本来ならそれで満足すべきなのに―――それ以外の何の感情も滲んでいないことが哀しくてならなかった。蔑まれる以上に、嫌われる以上に、大したことじゃないと切り捨てられるのがこんなにもつらいなんて思いもしなかった。
 それと共に湧き上がる不安、不吉、不信。
 彼の態度がそう感じさせるのだろうか。あるいは、この場の雰囲気が。
(………逃げたのを、反省したばっかりだけど―――)
 何か、駄目だ。
 このままではいけない気がする。
「ねぇ、五右衛―――!」
 意を決してガバリと起き上がったところで。
 こちらを見つめていた漆黒の瞳にばったり出くわした。
「やっぱり、起きてたな」
 悪戯っ子の笑みで五右衛門がそっと囁く。
 丁度よかったと上体を起こした彼は枕もとの荷物を手繰り寄せて手招きする。何をするつもりかと思えば、布団の中に手近な座布団を詰め込んで偽装している。
「―――そこまでする必要ある?」
「いいから、いいから。よし、梁まで昇るぞ」
「は!?」
「きちっと支えててやるからさ、ほら、早く早く」
 せかされるままに天井の梁まで押し上げられて、不安定な体勢のまま必死で柱に縋りつく。是非とも理由と状況を説明して頂きたい、と眉根を寄せている日吉の眼下で。
 音も無く障子が開かれた。
「………!!」
 闇に忍び込んできたのはふたりの男。出で立ちからして、おそらく僧侶だ。
 彼らは日吉と五右衛門が眠っていた布団の脇にそれぞれ突っ立つと、手にした長刀を引き抜いた。

「―――南無」

 おざなりな念仏のもと、刀が振り下ろされて。
 ザクッ! と、小気味よい音と共に宙に舞ったのは代わりに詰め込まれていた座布団の切れ端。この展開は想定外だったのか、うろたえたふたり組みが密やかに声を交わす。
「いないぞ………部屋が違ったか?」
「ひさぎ様は確かにこの部屋にいると仰られていたのだぞ」
「そうだな。だが、あの方の過去を知る他者は須らく葬りさらねばならん。捜すぞ!」
「そいつぁ、無理だね」
 ―――と。
 さり気なく会話に割り込んだのは、梁からやわらかく畳に着地した五右衛門の声で。
 彼らが驚くより先に当て身を食らわせて気絶に追い込む。一方の日吉はその間動くことも出来ず、不恰好にも梁に引っ付いているばかりだった。
 漸う柱を伝って降り立てば、目の前には忍びの手で素早く縄で縛られた僧侶が転がっている。
「………………なんだ、これ」
「一般的には刺客ってゆーんだろうな、多分」
「俺たちみたいな行きずりの者に?」
 悩みながらも思い出される先の会話。
 ひさぎの過去を知る者の抹消。
 ならば狙われたのは己なのか、命を下したのはひさぎなのか、あるいは他の誰かなのか。
 考え込んでいる暇はないと取り急ぎ互いに荷物を担ぎ上げ、庭先に駆け下りた。
 今日は―――新月だ。
 下草をざわめかせながら明かりに乏しい地を駆ければ、先行する五右衛門がぴたりと歩を止めた。
「五右衛門?」
「―――誰か来る」
 揃って草むらに身を潜める。しばらくの間、日吉の耳にはやたら鳴り響く自身の鼓動しか響いていなかったが、ややもして遠くからひたひたと押し寄せてくる波のような足音を感じた。いつも思うのだが、忍びとか一流の兵士といったものは何処でこういった気配を感じ取っているのだろう。
 身を寄せ合った状態で目配せして、ひたすらに身を縮める。
 波のように押し寄せてくる無言の圧力は旅客に解放された建物からだった。草を踏み分ける微かな音と、ほんの僅かな衣擦れと共に、漆黒の闇の中からぼんやりと『それ』が輪郭を現した。
 ひとつ、また、ひとつと。
 ふらふらと何かに導かれるように彷徨いだした影はいで立ちも様々に、ぞろぞろと途切れることなく無言の列を連ねる。
 個々人に見覚えはなくとも、おそらく彼らは。
「旅人用の寝屋にいた―――」
「ああ。………奥に向かってるみたいだな」
 列が行き過ぎるのを待って草むらから這い出した。疑惑の表情を浮かべたまま顔を見合わせて、共に首を傾げる。
「何しに行くんだろ?」
「正気を失ってるように見えたな」
「あの人たちと同じ部屋に通されてたら………俺たちも、ああなってたのかな」
「さあな。で、どうする」
「どう、って」
 不思議そうに目を瞬かせれば、振り仰げば闇に溶け込みそうな服を纏った友人が親指で人々の立ち去った方角を指し示した。
「追うかどうか、ってことさ」
 深追いしないに越したことはない。何せこちらはふたり、真っ当に戦えるのは五右衛門ひとりで、あの人数で取り囲まれでもしたら逃げようが無い。
 その上でこちらに選択権を与えてくれる彼はやはり何処かお人好しなのではないかと思う。自分の決意なんて、その度ごとに流される危ういものでしかないのに。
 僅かに視線を鋭くすると、短く言い放った。
「―――行こう」
 此処は尾張に程近い。僅かな変異でも見逃してはならない。此処で起きたことがやがて尾張に、引いては信長に何らかの影響を与えないとも限らないのだから。
 頷いた五右衛門は嫌な顔ひとつせずにそっと手招きした。
「なるたけ目立たない道をたどってくぞ」
「うん」
 彼ひとりであれば探索も容易いだろうに、とことんまで付き合ってくれる黒衣の忍びに何と礼を尽くせばいいのかと、一頻り頭を捻った。




 道を迂回して木立に身を隠しつつ足早に移動する。呼吸が乱れない最低限の力量で距離を詰めながら様子を窺う。
 人々の列は寝屋からだけでなく、近隣の村からも続いているようだった。境内で一旦合流した彼らは示し合わせたように歩を転じ、ゆらゆらと揺れながら奥を目指していく。列に加わるのは老若男女関係なく、いずれも眠りに落ちているかの如く瞳を閉じ、顔を俯けて。
「どんだけ手の込んだ集団催眠でも此処まで揃った行動をさせんのは難しいだろうよ」
 五右衛門の呟きが事の異常さを何よりも雄弁に物語っていた。
 ふと気付けば、人々が道から逸れぬように僧侶たちが見張りについていた。彼らにはきちんと意識があるのか、辺りに目を配る様は通常の城の衛兵と何ら変わりはない。
 可能な限り足音を忍ばせながらも日吉は鼓動が早まるのを抑え切れなかった。
 ―――よく似た光景を知っている。
 整然と並んだ人々、静寂、彼はあれを何と呼んでいたか。
 月明かりのない闇夜の向こうに控えるのは僅かな灯りがともされたこの寺の本殿。幾人もの僧が見回り、無言のまま並べられた人の列が、少しずつ本殿へと吸い込まれていく。ほんの僅かな音も聞き取れない、だが、彼ならばと横の草むらに屈み込んだ人物へ目を向けた。
 こちらの意図を察しているだろう相手はやや不服そうに片眉を上げ、呟いた。
「聞こえるのはなんかの読経だけだ………流石に宗派とか文言の中身まではわかんねぇ」
「そ、っか」
 唇を軽く噛み締めて。
 あれは<召喚の儀>。されどこの寺に光明寺と同様の明王像があるとも思えず、ならば此度の『御仏』は誰なのかとある意味では見え透いた答えの先を引き伸ばす。
 じりじりと場を移動して、できる限り本殿の近くに寄れるようにと。
 細心の注意を払いながら息の詰まるような匍匐全身。
 しかし、どれほど近づいたところで人のしわぶきひとつ響いておらず、無音に等しい世界に知らず背中を汗が伝った。本殿に吸い込まれていく虚ろな人々の列、だが、それが。
 ふと―――止まった。
 警護の僧たちが本殿を振り向き、集まりつつあった人々は動きを止める。
 暗い戸の影から、紫の法衣を纏った僧侶が姿を現した。
 長い髪を後ろに結わえたのみで、腰に備えた白木作りの短刀ばかりがやたら映える。
 ごくり、と喉が鳴ったのは。
 恐れか、絶望か、あるいは何か。
 呼ぶ名は、かつて慣れ親しんだただひとつ。
 地面の上で握り締めた拳が震えた。あの時と同じだ、あの時と同じなのだ、『此処』は。朝焼けの中に立ち並んでいた無音の人々の顔、顔、顔、命令に唯々諾々と従う様、冷え切った空気、誰も立ち入ることが出来ないような。
 だが、彼の思考はそこで遮られた。

「誰だ! そこにいるのは!!」

 静寂を破り捨てたのはあまりにも不躾な一声。
 振り向いた先、草陰の向こうから爛々と輝く瞳でこちらを見据える若い僧侶がひとり。ざわめきが広がるより先に発見者が高々と腕を掲げた。
「捕らえよ!! 我らの大儀を邪魔立てする輩が此処にいる!!」
 途端、驚くほどの速さで高まる怒気と殺気。
 先ほどまで無気力に見えた者たちが各々腕に石や岩を抱え、僧侶から刀を譲り受け、一斉に向かってくる。
「なっ」
 最早隠れていても意味はない、咄嗟に立ち上がった真横を不意打ちを狙っていたらしい刃が通り過ぎて肝を冷やす。幹に突き立った切っ先に冷や汗を流しながら下手人に目を転じ、日吉は更に悲痛な声をあげた。
「おじいさん………!?」
 それは紛れも無く、この寺に訪れた折に色々と教えてくれた老人に相違なかった。
 年齢に不釣合いな大鎌を振り上げた彼はまたぞろ日吉の頭部目掛けて振り下ろす。慌てて避けたすぐ間近を、また別の白刃が通り過ぎて。
 振り仰いで、見なければ良かったと瞬間的な後悔。
 本殿から此処までかなりの距離があると言うのに、足の速さは伊達じゃない。道すがら受け取ったらしい長刀を閃かせ、日吉の代わりに切り裂かれた舞い散る木の葉に顔をしかめて。
「―――ひさぎ!」
 呻き声をあげたなら。
 紫の法衣を翻した人物に。
「逃げんなよ」
 見惚れるほど鮮やかに、微笑まれた。
 次の一手が繰り出されるより早く五右衛門の舌打ちが聞こえた直後、身体が宙に浮いた。
 梢を掻き分ける音。目に入る木々の葉と腰に巻きつけられた友人の腕から、己が抱えあげられていることを知った。
「引くぞ!」
「う、うんっ」
 枝から枝へ飛び移る度に胃が締め付けられて苦しかったが、着実に跡を追ってくる松明と駆り立てる声への恐怖がそれに勝った。
 かなり本殿から離れた位置へ五右衛門が飛び降りる。息をつく間もなく、すぐに両脇から松明と怒声が押し寄せる。声を上げるのは指示を出す僧侶ばかりで、実際に狩りに来る者たちは無言を貫いているだけに一層不気味さが増した。
 影が迫る度に彼は飛んで逃げるが、すぐさま追っ手が迫ってくる。
「ったく、どんだけ此処に潜んでるってんだ!?」
「もしかして、近隣の住民全部―――」
「怖いことゆーなよっ。流石にそんだけと戦える自信はないぜ!?」
 たぶん、五右衛門ひとりであれば逃げるぐらい造作もない。けれど、そうと察して身を引きかける日吉の気勢を削ぐように木々を駆け上がる毎に腰に回される腕は決して緩む様子を見せなかった。
 漸くすぐには喧騒が届かない場所まで逃げ延びて、日吉を地面に下ろした五右衛門が軽く息をつく。幾ら彼が優れた忍びでも、これほどに宛てもなく逃げ回れば疲労は溜まる。なまぬるい風が辺りを吹き抜けて木々の葉を揺らす。天上は暗く、未だ夜明けは遠かった。
 落ち着き無く辺りに目を配りながら、日吉はそっと五右衛門に耳打ちした。
「………五右衛門、少し休めるならいまの内に―――」
「駄目だ」
 鋭く吐き捨てた相手の眼光は見えない奥を見透かしている。
 懐から取り出したくないが鈍くきらめき、直後。

 キィン………!

 闇を切り裂いた閃光が甲高い音と共に弾き飛ばされる。日吉を庇うように前に出た五右衛門がわざと軽い口調で嘯いた。
「………そこにいるお客さんを、どうにかしてからでないと休めねーって」
 日吉に向けるのは微笑、相手に向けるのは冷笑。
 友の背に匿われながら遠い森を見遣った日吉が緊張に身体を硬くする。
 長刀はいずこかに捨て置いて、まるでそれが礼儀とても言うように、代わりの錫杖をシャン、とひと鳴らし。深く染め抜かれた紫の法衣を纏い、対照的に身に着けた護身用の短刀は白く目立ち。
 笑みを浮かべたまま、ひさぎがふたりの前に立ち塞がった。
「あ、―――の、………ひさ、」
 当惑しつつも日吉が口を開こうとしたが。
 素早く、ひさぎが左手の指を折り曲げる。途端、左側の巨木がめりめりと音を立てて揺らめき、こちら目掛けて倒れ来る。
「あぶねぇっっ!」
 五右衛門が日吉の首根っこ掴んで飛び退るや否や、大木が深い震動を響かせて地に倒れ伏す。舞い散る木々の葉に視界を覆われながら五右衛門がくないを握り締めた。
「―――んなろっ!」
 シャン! と、錫杖が鳴った。途端、くないは何かに弾かれたかの如くあらぬ方向へ飛んでいく。
 更に間髪いれず彼が左手の指を再度、逆方向へ折り曲げれば、果たして今度は右手の巨木が鈍い軋みを上げながら襲い来る。梢に叩きつけられ、葉に視界を塞がれ、舞い上がる土煙に目も開けていられない。押し潰されればただでは済まない太さの木々が次々と倒れ込んで来る。物音を聞きつけた他の面々が呼び合う声が聞こえる。
(ひさぎ………!)
 ただでさえ周囲は闇、物事の判別はつかない。
 霞み見た視界の向こう側でひっそりと佇む影に日吉は泣きたくなった。
(そんなに―――そんなに、お前は………!)
 己の領域に断りなく踏み込むのであれば、例え相手が旧友であれ、何であれ。

 嗚呼―――お前は。
 俺を殺すことすら、厭わないのかと。

「日吉、早く!!」
「え?」
 腕を引っ掴まれて走り続けていた真横、五右衛門が会心の笑みを浮かべた。
「こんだけ木が倒れてればあいつらも近づけねぇ! 一気に抜けるぞ!!」
「え? え? ―――うわっっ!!?」
 途端、宙を飛ぶ感覚。
 跳躍。
 広がる眼下に舞い上がる土煙と疎らに近づく灯火、そして。
 見えるはずも無いほど離れた距離に―――佇む幼馴染が、ひとり。
 実際に声にしていたかは分からない、届いていたかも分からない。ただ、急ぎ離脱する動きに揺れる視界に惑いながらも、首を捻って無理矢理に振り向いた先の人物の名を日吉は呼んでいた。
 もう二度と呼ぶことはないかもしれない。
 かつての、友人の名を。




 数多の松明が辺りを照らす。互いを呼ばわる声が響けども、闇に紛れ込んだ敵を見つけ出すことは容易ではない。執念深く周囲をねめつけながら年若い僧侶は舌打ちした。
 地方での任務に手間取って戻るのが遅れてみれば、この様だ。自分が侵入者どもを発見しなければ如何なっていたことか、やはり己でなければ『あの方』の側近は勤まらないと他の部下どもに腹立たしさが募る。
 いま少し付近を探れと部下に指示をして踵を返した。
 薙ぎ倒された木々が目に入る。大のおとなが数人がかりで鉈を振るったとて、倒すまで数日は要するだろう巨木を指先ひとつで吹き払う。
 相変わらずの法力よと感嘆すると同時にほんの僅かな疑念がこころを過ぎった。大木の倒れ方が―――まるで侵入者の退路を守るべく、ことごとく追跡者の行く手を遮っているように見えたから。
 しかしそれもほんの偶然だと呆気なく考えを捨て去って彼は尊敬する人物の前に膝をつく。
「ひさぎ様、ご報告にあがりました」
「ああ、ご苦労」
 倒木のひとつに腰掛けていた人物が感情のない瞳を向ける。
 いつ、何処で目にしても、その容貌は衰えぬと心酔しながら殊更低くこうべを垂れた。
「畏れながら、未だ侵入者どもを捕らえること叶わず………お許し頂ければ街道沿いの同胞に伝手を出しますれば」
「必要ない」
 そよ風がすり抜けるほどの囁きを持って主が否定する。
 夜明けも近いし、いい加減みなを休ませろ、奴らの行き先なら見当がついていると語る傍らで、宙に差し伸べた指先に白い鳥がとまった。ほのかな燐光を放つ儚げな鳥は、ひさぎの指先で毛繕いした後にふぅと空に溶け込むように消えて。
「奴らは尾張に向かった。潰そうと思えばいつでも潰せる。昼間の会話といい、織田信長の知己である可能性が高い以上、泳がせていた方が得策だ」
「畏まりました」
 肯定の意を込めて更に深くこうべを垂れた後に、騒動で後回しにされてしまった報告を行わなければと思い出した。
「ひさぎ様」
「どうした」
「京の都でございますが、やはり天回衆なるものが根を張っている様子にございます。このままであれば我らと反目しあう日も近いかと」
『天回衆』なる宗派が僧侶たちの間で囁かれるようになったのは最近のことだ。十数年前から存在していたようではあるが、他と比べれば宗教基盤も規模も殊更に小さく、新興宗教であることを感じさせた。
 その新派の動向がおかしいようだと調査を行えば、叡山に拠点を置く侵蝕ぶり。いずれの衝突は必至と思われた。
 相変わらず眉を顰めるでも表情を険しくするでもない法衣の少年は静かに夜空を見上げて。
「詳しい話は明日にでも聞こう。今日はお前も休め。―――京には、いずれ、俺が行く」
「はい」
 一礼し、立ち去りかけたところで、
「恵風―――いや、風太」
 呼び止められた。いまはもう使われなくなった懐かしい名で。
 訝しげに振り向けば問い掛けた者も視線を天空に彷徨わせたままで。
「儀式の場への侵入者を発見したのはお前だったな。気付かなかったのか?」
「気付く、と申しますと?」
「………心当たりが無いならいい。ちょっと思いついただけだ」
 木の上から地に降り立った彼はすぐに歩き出してしまう。
 珍しい態度に首を傾げながらも、部下たちをまとめるために風太もまたその場を立ち去るのだった。




 少しずつ空の端が白みだす。朝が近づいているのだと冴え渡る青い空気の中で深く息をついた。漸うたどりついた川辺に並んで寝転がる。流石に日吉を抱えながらの逃避行は身に堪えたのか、五右衛門は先ほどか一言も喋ろうとはしないし、身動きひとつしやしない。
 逃げ切れたのか、の安堵と共に日吉の内に押し寄せるのは暗く冷たい衝動だ。
 突然の再会とか、見覚えのある光景とか、最後に見たひさぎの冷徹な瞳とか。
 何よりも―――殺されかかったのか、と。事実、彼は自分たちを殺そうとしたではないか、との想いが胸を掠めるたびに身体が震えてならない。
「………………ごめん」
 夜明けの静寂に響く言葉は謝罪の形式を帯びていた。
「ごめん。俺―――巻き込んでばっかだ」
 返事はない。
 でも、聞こえているはずだ。
「同じ間違いは繰り返さないって決めた先から、これだもんな。お前が呆れても仕方ないや………」
 頬に浮かべた苦い笑い。
「何かしてやれたら、してやりたいけど、金も力もないもんな」
「―――お前が差し出せるものってそんだけか?」
 突如。
 じゃり、と川辺の小石を鳴らして五右衛門が上体を引き起こした。未だ薄青い世界の中で、彼の表情はよく分からない。
「なら、何が欲しいんだ。………あげられるものなんて本当にないんだ」
「………じゃ、とりあえず。尾張までの護衛代とは別に請求させてもらおうか」
 特別手当ってことかと納得しつつ、果たして残りの資金だけで彼の要求を満たすことが出来るだろうかと不安に駆られた。結構金にガメついこの忍びが、いざとなれば高額の報酬を請求することは知られている。
 ス、と五右衛門が人差し指を天に向け。
 一両? 十両? まさか千両? と狼狽する日吉を余所に、呆気なく。

「―――永楽銭、一枚」

「………………は?」
「だから、永楽銭。持ってんだろ? ちゃんと鎧から剥がしといてやったんだし」
「そりゃあ持ってるけど―――って、え? 一枚? ほんとに一枚?」
「しつこいなー。あんまり言うと全部貰ってくぞ」
 全財産巻き上げられてはたまらないと、慌てて日吉が袋から永楽銭を一枚取り出せば、奪い去ったそれを五右衛門が指先でくるくると回す。僅かに明るくなってきた視界で人の悪そうな笑みを浮かべて告げたことと言えば。
「でもって、もうひとつ」
「………なに?」
 諦め気味のため息をつきながら先を促せば、予想外に真面目な顔で見つめ返された。
 拳の上に、永楽銭を置いて。
 いまからこれを弾き飛ばすから、そうして落ちてきた絵柄が『表』であったなら。

「―――言うことをひとつ、聞いてもらおうか」

「………俺が裏に賭けることは決定事項?」
「異議申し立てしたいんなら一考するぞ」
 からかいを含んだ声音にもういいとガックリ項垂れて。たとえ賭けに負けて物凄く非道な命令をされたとしても、かなり打ちひしがれているいまの状態なら素直に従ってしまう自信があった。
 弾かれた硬貨が、昇り始めた朝日を受けてほんの一瞬だけ輝きを放つ。
 眩しさに目を細める暇も無く、重力に引きずられて地に落ちかけたところで忍びの手に阻まれる。右手の甲と、左てのひらに挟まれた永楽銭。果たしてどちらを向いているのかとそこそこの興味を持って眺める眼前でそっとてのひらが退けられて。
 ―――考えるまでもなかったのかもしれない。
 何せ、投げたのは賭けを持ちかけた張本人なのだから。

「俺の勝ち、だな?」

 にんまりと笑う五右衛門の右手甲の上、『表』を現す永楽銭が鈍く煌いていた。
 関心がなかったはずなのに少しは気にしていたのか、自分が外れだと分かった瞬間ちょっとだけ面白くなくて視線を逸らした。
 にまにまと笑いながら五右衛門は上機嫌で条件を切り出してくる。
「ひとつだけ言うこと聞いてもらえるんだったな?」
「五右衛門が勝手に決めたのにー」
「反対しなかった時点で同罪だ」
 残念だったな、観念しろと日吉の肩をばしばしと叩いた後で。
 そっと、彼が囁いた。さあ、これが俺の望みだと。

「今度は―――逃げるなよ」

「………」
 閉じかけていた瞳を日吉は見開いた。
 次にまた同じことがあったなら、一目散に逃げるのだけはやめろ。何が待ち受けているとしても立ち向かえ、そして、その奥にある『感情』までも読み取れと。
「感、情………?」
「結果なんて見る立場によって変わるもんだ。本人がどんなつもりでそうしたのかなんて本人に聞くまでわかりゃしねぇ。いいか、日吉」

 想いが読めなくとも、考えが理解できずとも、言葉と態度が陽炎の如く移り気に見えても。
 本当の意味と想いは、必ず何処かにあるはずなのだから、と。

 それを告げるためだけにこんな紛らわしい手法をとったのか、命令の形式で嘆願をするのか、何ひとつ彼の得にならないと言うのに。
 山の端から姿を覗かせた太陽に目を細めながら日吉は笑った。
 彼の好意に応えるためには泣いてばかりではいられないのだな、と。
「………約束する」
 差し出した右手を彼の手に重ねて頷き返す。すると相手は困ったように呆れたように、俺も甘くなったもんだねぇとため息つくのだ。更に日吉が笑い返せば仕返しのように頭を力任せに撫でられて、密やかな心遣いに泣きそうになりながらもこころに決める。
 想いは見えずとも、其処に形はなくとも、移り変わる言葉と態度に揺らぎそうになれども。
 信じる限りは信じるままに。
 己の想いの指し示すままに、共にある者に誇れるだけの歩みを見せようと。

 いつか。
 ―――『卑怯者』、と罵る自らの声にすら。
 胸を張って応えられるように。





 

伍 ←


 

よっ………漸く終わりました………(滝汗)ここまで長かったよ、ママン………!!
タイトルの『鬼見城』は蜃気楼のこと、だったかな? あまり深い意味は無い。 ← おい。

「坊さん」こと「ひさぎ」は、N里さんとの合同誌である『まよひが』で初お目見えしております。
かな〜り性格変わっちゃった気がするんで、見比べてみると面白いかもしれません(苦笑)
本作にある通り彼は密かに日吉の逃亡を手助けしてたりするのですが、当人には誤解されまくってます。
日頃の行いが悪い所為なのかは分かりません☆

 本編で語りきれなかったことについてなのですが。
ひさぎのコンセプトは「貴族に生まれついた信長」、もとい「宗教派閥に組する信長」でした(笑)
故に初期構想時の彼の性格はもっと破天荒。
一応彼は「皇族の落胤」なので、この後は京都に舞台を移して彼の属する派閥と天回衆の対立とか、
日吉との因縁とか、その他戦国大名の動きも絡めつつ原作とリンクさせながら色々書いていく心積もりだったのです。

 ―――原作がもうちょっと続いてたらね(禁句)

この話の続きもちょっとだけ考えてはあるのですが、書くかどうかは分かりません。
なにせ時間が経ちすぎているもので………やっぱり鮮度って大事だよねーと思った次第。

ここまで付き合って下さった方々、本当にありがとうございました〜。
これからもマイペースに精進を重ねて行きたいと思いますので、ヨロシクお願いします♪

 

BACK    TOP

 


女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理