― byakuya 白夜黎明 reimei ―


 

 

 いつだって自分は何かに怯えていた。
 いつか置いていかれるだろうと、いつか見捨てられるだろうと、いつか呆れられるだろうと。
 考えただけで身体が震えてどうしようもなかった。捨てないで、傍にいさせて、何でもするからと―――縋り付きたいのは誰だったろう。己の中で縋りつく相手はいつも自分より大きな誰かであり、親しい身内であり、まだ見たこともない信頼すべき相手であった。
 だから、自分は、いつだって。
 もしかしたら―――。
 自分も、誰かに頼られているのではないかと。
 思いたかったのに信じてなどいなかった。向けられる思いや寄せられる期待にいつだって無関心でいたかった。
 最後まで応えられる自信がないから目をつぶって、最期の瞬間までそれと分からず、失って初めて気がついて―――そうと気付いたが最後、身の内に存在する良心がひたひたと攻め寄ってきて己を責めるから。
 嗚呼、お前は。
 卑怯者なんだと。




 天井裏の戸板を外し、そっと中を見下ろす。ほのかな明かりが揺れているだけで人影は見受けられない。じっと耳を澄ませて傍に誰もいないことを確認する。用心深く足を下ろし、自らが拵えた天井の抜け穴を直し、柱伝いに着地した。僅かに響いた足音に冷や汗が流れたが、取り合えず誰にも気付かれなかったようだ。
 辺りを見回せば、向こうに見える出入り口からこちらまで壁沿いにずっと蝋燭が灯されていた。規則正しく並べられたそれは息苦しさと重苦しさを感じさせる。まるで、何かを閉じ込めているかのようだ。
 自分の想像に身震いしてジリジリと日吉は後ろを振り向いた。
 背筋に覚える緊張は黙って侵入したことに対する引け目だけじゃない。
「―――ひっ」
 極力、音を立てないようにしていた日吉が堪えきれずに小さな悲鳴を上げる。慌てて両手で口元を塞いだ。全てを覆いつくすように、被さるように、黒く長い影が伸びている。影は蝋燭の光に煽られて揺らめきながら無機質な面を彩っていた。
 青銅と金箔で覆われた体躯、両の手に構えた懐剣、見開いた目と喉元まで裂けた口。
 額に埋め込まれた紅玉が鈍い光を放っている。
 詳しい名前は知らない。仏陀や羅漢や十二神将、四大天の区別などいまの日吉にはつけようもなかったから。それでも造りの見事さや華麗さ、備えられた供物や花々の数からしてこれが本尊であろうことが想像できる。
「金剛………夜叉?」
 不思議そうに首を傾げた。
 ここは仏門の寺だ、飾られているのが大日如来や菩薩なら分かるのだけれど―――どうして、こんな荒々しい象が一番奥にあるのだろう。
 足元に目を移して眉を潜める。金剛像が座す蓮華座の下に細かな文様が描かれている。指でなぞってみればそれは八卦図のようでもあり、太極図のようでもあり、曼荼羅のようでもあった。幾重にも円が連なって、重なる箇所に梵字が描かれている。読み取ることの叶わない複雑な呪と卦、間違っても風などで飛んだりしないようにと釘で打ち付けられた符が不吉さを増す。
 夢うつつに聞いた会話を思い出した。

『なればこそ………寺が結界の内にあるものを儀式にて呼び出し、我が身に宿らせるもひとつの手かと思うのだ』

 もしかして、これが、本当に。
 結界の内にある『もの』なのだろうか? 慈愛よりも憎悪を、幸福よりも不安を、慈悲よりも威圧感を与えるような、この像が? そう思えばそう思えないこともない。足元に刻み込まれた印の数々が封印の証のようにも思えてくるから。
(でも………そうと決まったわけじゃないし)
 この像が何なのか尋ねたところで寺の連中は答えてくれやしないだろう。仲間に聞いても誰も知らないだろうし、単なる飾りの金剛像という可能性も少しはある。幾ら自身の直感が不吉を告げるとて、それだけで特定するには早すぎると日吉の理性が告げていた。
 これからどうしたらいいんだろうかと今更のように悩む。
 ひさぎのために何かしたくて忍び込んでみたけれど、明確に何をどうしようという目的があった訳ではない。単に彼の元気がなかったから、彼がまた笑顔を取り戻してくれればいいと、それだけを思って。自分にも何か出来るはずだと行動に移してはみたものの、さて、それが果たして何の役に立つのかと問われれば答えようもない。
(金剛像を見かけたって伝えて―――それで)
 それで、どうしたかったのだろう。自分は。
 秘密の一端を探り出したのだからどうか自分も最後まで連れて行ってくれと―――頼みたかったのだろうか。………もしかして。
 しかし、日吉の物思いは長くは続かなかった。
 廊下の向こうから話し声が聞こえてくる。小さかった足音が徐々に大きくなってきて、どうやら此処が目的地らしい、と慌てる。辺りを見回しても隠れられるような台や机もない。天井に上がるには時間が足りなかった。
 此処で見つかったら一巻の終わりだ。仲間に迷惑がかかるし、ひさぎにも要らぬ心配をさせる羽目になる。
 慌てふためいた日吉は咄嗟に金剛像の背後に回りこんだ。蓮華座の下に潜り込んで、「頼むからいまだけ見逃してください!」とひたすらに祈る。日吉の足が蓮華座の影に入るのと、出入り口の戸が開かれたのはほぼ同時だった。
 ふたつの足音が金剛像の手前まで来て止まる。
「―――物音がしたと思ったが」
「気のせいだったか………」
 聞こえてきたのは馴染みの深い仁王と、仁王といつも連れ立っている僧侶のものだった。こんなところで見つかったらそれこそ何をされるか分からないと、より一層身を小さくして影に縮こまる。頼むから後ろを覗き込んでくれるなと、周囲に置かれた灯明が己の影を床に映し出さないようにと、切に祈る。
 とっとと立ち去ればいいものを何故か連中は立ち話を続けている。生きた心地がしない。
「そういえば仁王、あの話を聞いたか?」
「何をだ」
「―――ひさぎ殿。ついに法名を受けるらしいぞ」
「本当か?」
 ピクリ、と日吉は身体を固めた。
「そうか………ならば、いよいよあの方は跡目相続から外れるということだな」
「それが我らにとって吉と出るか凶と出るか、だ。皇族の後ろ盾なくして如何にこの寺を守り抜いて行けようか」
「ご子息の御身を守るべくと申せば向こうもそう居丈高には出来まいよ。―――むしろ、皇族の影がなくなるというならば………なあ? 我らが遠慮する必要もなくなるというものだ」
「滅多なことを申すな」
 仁王を嗜める声が響いた。
「俗世との関わりを断ったとて落胤たることは事実。迂闊に手を出そうものならそれこそ神仏の罰が下る。それに、な。あの方が法名を得る方法は流石に通常とは異なるのだ」
「と、なると?」
「系譜を遡るなら身の内に宿す霊格も上位のものに相違なく、故に宿されるは相応の神仏となろうよ」
「―――受けるに怠れば足りぬ器は砕け散る、か」
「生きるか死ぬかは五分の勝負。死すれば死したでまた出ようもあろうが、生き残りし後は………我らも勝てぬわ」
 彼らが話していることの半分も理解できなかったが、それがひさぎに関することで、あまりいい話ではないということは分かった。
 何より、ひさぎが法名を得るなんて初めて聞いた。現在、彼は僧侶へも民間出の者へも中立しているのだが―――むしろ、日吉たちの味方でいてくれるのだが、もしかしたら今後は、僧侶たちの側についてしまうのだろうか。
 ………そんなのは、イヤだ。
 自分たちの身の安全がどうこうという話じゃない。ひさぎが『向こう側』に行ってしまうのはイヤだ。絶対にイヤだ。
 強く服の裾を握り締めた。
 ふたりの声が徐々に遠ざかっていく。
 戸が閉められる音が響くのももどかしく、像の下から這い出した。とりあえずは匿ってくれたんだね、と軽く像に一礼をし、後は慌しく梁を伝って天井板を押し上げる。ガタガタと響く音に再び仁王たちがやって来るかもしれなかったが最早構っていられなかった。急ぎ天井裏を這いずって元来た場所まで戻る。
 すぐさま外に飛び出した日吉は空を見渡した。未だ空は青、夕闇が迫る気配はないけれど、もう少しすれば黄昏の気配が辺りを占める。冬の陽の短さは身に染みていた。
(でも………いまなら、なんとか………!)
 やってやれないことはないだろう。
 相変わらずひさぎの姿は見えなくて、寺にいるかどうかも定かでない彼を捜すよりも、心当たりの人物に問い掛けるが良しと判断した。あるいは、本人に面と向かって尋ねるのが怖かったのかもしれない。
 ―――だって。
 それで、そうと肯定されてしまったら。
 もう………繋がりも何もなくなってしまうではないか?
 幾度か辿ったことのある道をひた走る。落ち葉に足を絡め取られ、木の根に躓き、遠くで泣き叫ぶ鳥の声までが己の行く手を阻むようだけど、歯を食いしばって駆け巡る。枯れ果てた細く黒い林が空をまばらに埋め尽くして圧迫感ばかりを伝えてくる。息が切れるほど全力で走っているのに妙に指先や足先はかじかんでいた。
 どれほどそうして孤独な道を辿ったろうか―――やがて行く先に見慣れた小屋が覗き、軒先で薬草を煎じている老人の姿を見かけた時、冗談ではなく日吉は泣きそうになった。
 不意の来訪者に驚いた老人が薬草を選り分ける手を休めて、急いで日吉を火鉢の傍へと連れて行ってくれる。
「一体、どうしたんじゃ日吉。おお、こんなにかじかんで………かわいそうに」
 ぽんぽんと軽く頭を撫でられて、あたたかな白湯を出されて、啜り泣きながら日吉はそのぬくもりにしがみ付く。やたら寂しかった。未だ幼い身の上の彼にはどう表現すればいいのかも分からなかったけれど、とにかく、ひどく悲しくて、ひどく寂しくて、つらかった。寺で聞いた会話や、目の当たりにした金剛像の存在がこころに暗い影を落とす。
 困ったように五柳が火鉢の傍で頬をかく。
「やれやれ………どうしたんじゃ、今日は。ひさぎも一緒ではないようだし―――何か、あったかの?」
「ん………」
 何処から話し始めるべきなのかが分からない。ただ、思い浮かぶままに最近の徒然なること―――ひさぎの様子がおかしいこと、寺の奥に忍び込んだこと、そこで見つけた金剛像のこと、盗み聞いてしまったことなどをポツポツと話す。
 老人は時々相槌を打ちながら先を促してくれる。だから日吉もどうにか最後まで話し終えることが出来た。既に外の夕闇はかなり迫っており、戻れば折檻が待っているのは確実だったが、いまはそんなことに構っていられなかった。
「そうか………うむ。かしこい子じゃ。もうほとんどのところを知っておったのだな………」
 ならば不安にもなるだろう。除け者にしているようですまんかったの、と。
 ゆっくりとあたまを撫でられればまたぞろ涙腺が緩んでくる。グ、と拳でそれを食い止めて真っ直ぐに老人を見詰め返した。
 老人は自分の分の白湯を啜り、どこか遠い眼差しを浮かべながら口を開く。

「のう、日吉。お主は―――お主にとっての、<神>はいるか?」

 ………神?
 いきなり何を言い出すんだろうと首を傾げた。
「人は誰しも<神>に出会う。<神>と言っても本当に神や仏である必要はない。ただ無心に信じられる何か、無条件に献身したくなる誰か、捨てられても付き従うことしか出来ない何か―――そう、<絶対者>と言い換えてもよいかもしれんが」
 話が難解になってきて困ったように眉をひそめる日吉に苦笑を浮かべながらも彼は続ける。
「それが見えないモノ、触れることのできないモノであったなら、信徒同士の激突になろうとも本来的な害はないのじゃよ。なにせ思われる側には<実体>がない。何処で誰が亡くなろうと、何をしようと、捧げられる側が何かを憂えることもない………ひたすら哀れなのは人間が無条件な崇拝の対象になった時だけじゃわい」
「崇拝?」
「生き神だの、神童だの、御仏の写し身だの、誰かの生まれ変わりだの―――周囲が崇め奉る要素など実は何処にでも溢れておる。血筋などという目に見えぬもの、我は尊い血を継ぐ者と故意に噂を流したならば誰がその真偽を知ろう。いつしか流された噂こそが真実となって事実を駆逐する。それを利用する者はまだよいが―――」
「………?」
「もとから『そう』である者は逃れられん。誰も気付かなければまだしも、既に周囲によって認知された状態が始まりであれば、どうにも手の打ちようがない」
 五柳の言葉は日吉には難しすぎたけれど。
 けれど、おそらく老人の語ることは事実であり、真実の一面であり、何よりもひさぎに関わることだろうとは容易に想像がついた。だから必死に耳を傾けて一言でも多くを覚えておこうと精神を集中する。
 そんな幼い聞き手の様子を見て微かに五柳は笑った。
「崇拝される者に人間味を求めるのは酷か。周囲が『偶像』を押し付けておるからの………それと知りつつ近づく者は打算や計算が透けておる。全てを振り払い野に下るか、全てを受け入れて逆に利用しようとするか、あるいはいずれの道も選べずに萎れるか。ただ、のぅ。―――忘れないでいてほしいのはひとつだけなんじゃ」
 本当に簡単なことなのだ。
 考えるまでもなく当たり前のことなのだ。
 けれど、『尊敬』だの『崇拝』だのと、余計な感情が入り混じってしまうとそれすらも忘れてしまうから。

「神子だ魔王だのと崇拝される者も―――の、感情を持ったただの『人間』なんじゃよ。………日吉」

 何故か。
 ビクリ、と身体が震えた。
 ひとりでいれば寂しいし、友人や家族と気兼ねなく過ごしたいし、人を思いやる気持ちだって、戦いを厭う気持ちだって、無論、個人差はあるにしろ『崇拝される側』だって持っている。いにしえより続く血筋の人間だけは『人ではない』と誰が決めたのだろうか。例えば夏の暑さや冬の寒さを感じるように、怪我をすれば痛いと感じるように、親しい者が傷つけば悲しくなるように。
 感じるのは誰だって同じだ―――同じ、はずだ。
「だから、な。日吉」
 おだやかでいながら切実な色を湛えた瞳で老人が言葉を紡ぐ。

「だから、日吉。―――できるだけ、ひさぎを………ひとりにしないでやってくれ。頼む」

 それは言葉どおりの意味だろうか。
 首を傾げながらも日吉は頷きを返す。少なくとも、自分はひさぎと一緒にいたいと思っているし、万が一離れることがあるならば―――きっと、自分を捨てて行くのは向こうだと感じていた。何の価値もない己だから、何物にも頓着しないひさぎだから、きっと、飽きればすぐに日吉のことなんて忘れてしまうだろうと思っていた。
 ―――ひとりになりたがってるのは、ひさぎの方だよ。
 そう感じる自分が一番、彼を『誤解』しているのだと。
 当時の日吉には知る由もなかった。ただ素直に頷きと言葉を返す。
「うん。わかった。ひとりにしない。俺、ひさぎの傍にいるよ」
 幼子の言葉にどの程度の真実を見い出せたと言うのか。あるいは先までも見越して仕方ないと諦めも含んでいたのか。
 けれどあくまでも日吉の目には明るく、おだやかで、慈愛をたたえた瞳で。
 五柳は笑ってみせた。
 日吉が見た老人の笑顔は、それきりとなった。




 年の暮れも近くなり、日の長さはこれまでよりもずっと短くなっている。先だって老人のもとまで脱走したことはさいわいにして誰に知られることもなかった。それこそ、ひさぎにも。
 何故ならばあの後、ひさぎとはほとんど話す機会がなかったからである。相変わらず月の半分は寺を留守にして、戻ってきても自室に篭もりがちだ。無論、いまでも皆の手助けはしてくれるが………。
「なーんか変だよなー」
 掃除の合間に風太がため息のように呟く。
「寺の連中、みんな様子が変だ。なんてゆうのかな、ええっと………あらしの前のしずけさ、みたいな?」
 言いたいことは分かる、と耳を傾けていた数名が揃って頷く。
 曇天模様の雲行きに合わせて寺の気配も俄かに不気味な色合いを帯びてきていた。
 重たいものを内包し、常に上から何かを押し付けられているような圧迫感があり、眠っている間でさえ妙な予感と不安に胸がざわめく。寺の奥から奇妙な呻き声がするという者まで出始めて、何かをきっかけとして一気に混乱が起きそうな気配を漂わせていた。
 この時ばかりは出自が農民であろうと武士階級であろうと僧であろうと関係ない。みな、一様に顔を見合わせて互いに肩を震わせ合う。
「なぁ日吉、お前、なんにもきいてないのかよ?」
「う………うん」
「ほんとうか?」
 重ねて問われれば多少は迷う。少なくとも自分は寺の奥に忍び込んで金剛像を目の当たりにしているから、奥から響く声がそれに関連しているのではないかと想像もつくし、仁王たちの話も聞いているし、五柳の意味不明な言葉も託された。しかしそれらは全て口にするには憚られる内容であった。
 何より、自分は、ひさぎに何も問い質していない。
「うん。―――なにも聞いてない。俺も、最近、ひさぎに会ってないから………」
「そっかぁ」
 残念そうに風太がため息をついた。休めていた腕を動かして廊下の拭き掃除に専念しつつ零した彼の言葉が胸に響く。
「やっぱ、日吉でも………だめなのかな」
 そんなことはない、と言いたかった。
 けれど、自信を持って言い返すことも出来ず、知らず日吉は己の唇をかみ締めた。
 静かに時は過ぎていく。
 ほんの少しの不穏な空気を孕みながら―――いつか何かが起こると感じながら何も出来ないでいる歯がゆさ。時は近いと感じながら、本当に眼前に突きつけられるまでは自覚すらしない。だから、ある日突然にそれが訪れると。
 対処しきれずに人は戸惑うしかないのだ。




 ―――その夜は、雨が降っていた。
 音もなく降り注ぐ霧雨だった。月を隠す群雲が静々と大地を濡らし、木々の葉を濡らし、遠くの景色までも霞ませる。宵のうちより降りだしたそれは明け方近くに勢いを弱めはしたけれど、青みを帯びた世界の中で未だに地面を濡らし続けていた。
(………まだ、降ってる………)
 明け方に目を覚ました日吉はそっと寝床を抜け出し、外を眺めてぼんやりと思った。こんな時間に起きているのはどうやら己ぐらいらしい。寺の何処からも人の立てる物音ひとつ聞こえてこない。
 外に接した縁側の板敷きはしっとりと水気を含んでいる。既に太陽が山際に控えているのだろう、開く視界はかなり白んでいて清浄な朝の気配を滲ませていた。それでもまだ世界は白と青を基調としてしとしとと木々の葉から零れ落ちる雨露や軒下から滴る水滴ばかりが音の発生源となっている。
 今日は一日、こんな天気なのかもしれない。
 起き抜けの身体が外気に小刻みに震える。はぁ、と自らのてのひらに息を吹きかけた彼は、かすみ見えた門前にうっすらと佇む影を見つけて眉をひそめた。
 こんな時間に誰がという思いと、あまりにも影が薄いから見間違いかもしれないという思いと、両方を抱えながら足音を殺して廊下を歩く。じっと目を凝らせばやはりそこに白い影がいるのに違いはなく、影はやがてふらふらと揺らめきながらゆっくり境内に侵入してきた。
 ―――誰?
 けれど、きっとあれは………。
 妙な不安に胸をかき回されながら草履を引っ掴み、縁側から境内へまろび出た。

「―――ひさぎっ」

 みんなを起こしてしまうかもしれないとチラッと考えたが気にしているような場合でもない。
 白い影は覚束ない足取りのまま奥へ進み、取り付けられた戸を開き、割り当てられた部屋へ消えていく。急ぎ駆け寄った日吉は一度開かれた戸が自重で閉じられるより先に敷地内へ踏み込んだ。それは丁度、目と鼻の先で障子が閉じられる瞬間で、ぎりぎりのところで遮られた世界は、まるで―――。
 草履を脱ぎ散らかし縁側に上がりこんで、いざ障子を開く段になって躊躇う。
 伸ばした手が戸に力を篭める直前で停止する。重く、冷たい気が辺りに立ち込めている。吐く息が白くなるほどの寒さのためでなく、かじかんだてのひらの所為でなく、妙な緊張に背筋が強張って身動きが取れない。
(―――俺は)
 何度も唾を飲み込んで、深呼吸して。
(俺は………そばにいるって、決めたんだから)
 頭を振って片手で服の裾を握り締めて。
「ひさぎ………。はいる、よ」
 ようやく意を決した日吉は恐る恐る障子を横に引いた。ほんのりと明るい外界の光が暗い室内に一筋の線となって現れる。浮かび上がる影は自分のものと思えないほど大きく畳に映し出された。
 白い衣が部屋の奥にぽつんと浮かんでいる。答えるでなく、拒否するでなく、この部屋の主―――ひさぎは、ぼんやりと宙を見つめていた。澄み切った瞳とあどけない表情は、出会った頃と同じく、よく出来た彫刻を思わせた。
 室内のあまりの暗さに障子を閉めることが躊躇われて、寒さを纏わせたまま足を踏み入れる。みしり、と自身が畳を踏む音さえ大きく響いた。
「………ひさぎ」
 再度、呼びかけてみる。
 けれど、返事はない。
 相手が何処を見ているのかも、何を聞いているのかも、何を考えているのかも分からなくて、一歩だけ踏み込んだ状態で足を止めてしまう。所在無く視線を辺りに彷徨わせ―――でも、話しかけるべき相手は彼ひとりなのだから、結局は視線を一点に戻して。
 戸はそのままにひさぎの斜め後ろに座り込んだ。ぼんやりとした彼の横顔も此処からなら多少は判別がつく。奥の壁を見つめたまま動こうとしない。誰も何も話しかけるな、と、彼の態度が語っていた。
 所在なげに手を組み合わせていたけれど、やがて、光の加減から相手の服が少し汚れていることに気付いた。単なる陰影と思っていたそれが、見つめる内に明確な『染み』とわかって混乱する。いつもひさぎは綺麗に整えられた衣服を着用していたのに。おずおずと手を伸ばし、服の裾にこびりついた染みがとれないかと擦ってみる。
 ―――とれない。
 意地のように裾についた染みを落とせないかと爪先でこそいでみる。ほんの少しだけ削れたが、やたら固くて妙な粘り気のあるそれに嫌な汗が背筋を伝い落ちていった。未だ暗くてよく見えない。そぎ落とされたものからは匂いも何も望めやしないけれど―――。
「ひさぎ」
 先ほどより強く呼びかけた。
 けれど、応えは返らず、堪らずに相手の肩をきつく掴んだ。
「………ひさぎ! ねぇ、どうしたのさ? 応えてよ………っ。これ、何だよ!」
 透明に澄み切っただけで何も映していない瞳がじっと日吉を見つめ返す。気圧されそうになりながらも必死に言い募った。
「これ―――これ、血じゃないの? ひさぎのじゃないよね? けがしてるんじゃないよね!?」
「―――血、だ」
 ようやくひさぎが口を開いた。
 久方ぶりに耳にした友の声はひどく色を無くした単調なものに響いた。
「………俺の、じゃない。でも、俺が―――やった………」
「―――ひさぎ?」
「俺が―――………ったんだ………」
 そっと開閉した己がてのひらを食い入るようにひさぎは見つめている。大きく開いたままの両手に顔を埋めようとして、同じくこびりついた血痕に直前で思いとどまった彼は両腕を身体に回す。それはまるで狭い世界に自ら閉じこもっていくようで日吉の不安を増大させた。
 相手の様子に改めて目を移した日吉は、ひさぎを構成する要素が足りないことに、また眉をひそめる。笛はいつもどおり腰元に挟んであった。でも、もうひとつが、ない。
 守り刀としていつも大切に身に着けていた―――刀が、見つからない。
「………!」
 喉が、震えた。
 背筋が泡だって身体が震えた。
 胸が激しく高鳴って鼓動が耳の奥で響いている。ひさぎを見て、表を見て、己が身の震えを見て、迷いに迷いながらも日吉は外へ駆け出した。あの状態のひさぎから離れるのは危険だとちらりと考えたが、それよりも「確かめたい」との想いが強かった。
 ほのかに明るい薄霧が漂う朝の気配の中を駆け抜けていく。何処か遠くで鳥が鳴いている。霧に混じって降り注ぐ細かな雨が視界を塞ぎ、身体を冷やし、足をもつれさせる。それでも日吉は走り続けた。つい先日、同じような思いで駆け続けた時のように。
 もっと早く、もっと速く、と願うのに木々の根に絡めとられた足は思うように動かず、妙な緊張から手足の先は冷え切っている。
 何故か泣き出したくてたまらなかった。
 頼むから、誰かにどうにかしてほしかった。

 ―――自分でどうにかしようなんて。
 ほんの少しも考えたりしなかった。

 たどり着くのにはいつもの倍ぐらいの時間がかかっていただろう。冷たい雨が降りしきる中、ようやっと老人の庵に到着すると、安堵の息をつく暇もなく日吉は室内に飛び込んだ。
「おじいさん!」
 叫ぶ。辺りに注意を配る。
 でも、物音ひとつしない。それどころか―――人がいる気配もない。ただ自分の奏でる荒い吐息ばかりがほの暗い室内に響いていた。
 少しずつ呼吸が落ち着いてくると外界から流れ込んでくる雨音ばかりが耳について。
 ―――不安が減るどころか増えるばかりだ。脱げかけた草履を放り出し、塵ひとつない廊下へよじ登る。握り締めたてのひらから、着物の裾から、前髪から、滴り落ちた雫がぽたぽたと廊下に水たまりを作っていく。
 いつも老人が寝所として使っていた部屋の前で足が止まった。
 ―――あれは、いつだったか。
 ひさぎと老人が不思議な会話をしていた。白雪の死に落ち込んで寝入ってしまった日吉をおいて意味の分からない、難解な話に興じていた。
 思えばあの頃から既にひさぎは何かの覚悟を決めていた。老人も何かを思い詰めていた。自分だけが何も気付かずに何の準備もしていなかった。今更ながらに危機感の足りなさを憂いたところで時間を取り戻せるはずもない。
 障子に手をかける。カタカタと震えるのは戸の立て付けの悪さか、自身の惧れが生じさせる不安か。
 は、と息を大きく吐き出して―――戸を、開いた。
 暗かった室内に外界の光が取り込まれる。先ほど、ひさぎの部屋を訪れた時と同じように、徐々に全てが光の下に晒されてゆく。途端、鼻をついた錆びた鉄の匂い。視界に飛び込む黒い水たまり。床に落ちた煌くひとかけの白刃。
「………お、じ、い―――」
 一歩。一歩。一歩ずつ、踏み込む。
 囲炉裏の縁に伏せた身体に、見覚えのある横顔に、安らかにすら見える表情に、励まされているのか責められているのか、それすらももう、分からなくて。
 ゆっくりと伸ばした指先は床に伏せた老人の頬に触れた。それは固く、張りがなく、雨に濡れてきた日吉の指よりも尚、冷え切っていた。
 息が出来ない。苦しい。金魚のように口を開閉させながら、否定したくて首を左右に振った。

「―――そ、だ」

 自分はこんな光景を見たことがある。
 餓えに苦しんだ村で、疫病が流行った隣村で、最近では、ひとりさみしく地に帰って行った白雪を。

「うそだ………!!」

 流れ落ちる雫が異様に熱い。両ひざついて、拳を床に叩きつける。幾度も、幾度も、血が滲むのも構わずに叩き続けた。流す涙は痛みの所為だ―――そう、思い込むために。けれど、幾らそうして眼前の光景を否定したところで何よりも変えがたい『現実』が厳然と其処に存在している。
 ―――どうして? 助けて欲しかったのに。
 自分を―――ひさぎを。
 助けてくれるはずだったのに………!

「うそだ、あっ………」

 泣き崩れた。
 五柳はもう、動かない。もう、話さない、もう、語らない、もう、ぬくまることはない。理解した現実がこの時ほど重く感じられたことはない。
 床に押し付けられた自らの両手を見据えていた日吉の脳裏に、ふっと、他の映像が重なって。

『………俺の、じゃない。でも、俺が―――やった………』

 白い衣服と白い両のてのひらにこびりついたどす黒いもの。
 この部屋に満たされた鉄錆と同種のもの。

 ―――部屋に飛び込んだ時に見えた白刃は何だった?

 ガバリと身を起こして手探りでそれを捜す。極力、五柳の身体を見ないようにしながらも、後ろに回り込めば自然とパックリと割れた背中の傷が目に飛び込んできた。決して大きくはないが内臓ばかりか骨まで露呈するような傷跡が明らかな老人の死因を語っていて、しばし日吉は身を硬直させる。
 こんな怪我を負わせた下手人が此処に潜んでいたら―――?
 不安を振り切って、泣きそうになりながら白刃を探す。普段ならば日も昇りきった時間帯なのにどうしてこの部屋はこんなにも暗く感じるのだろう。
 どうにか例の煌きに指先を触れさせた直後、額を床に押し付けた。吐きそうだ。頭が痛い。目も痛い。冷え切った手足も痛い。何より、張り裂けんばかりに胸が痛い。
 手繰り寄せたてのひらの中、抜き身で放り出されていた刀身を辿っていよいよ日吉はくず折れる。震える指で血の跡を辿り、汚れた刃先を確認し、元は柄が取り付けられていた部分に刻まれた聞き覚えのある文字列に………耐え切れなくて。

 ―――『自ら喩みて志に適うか 周なることを知らざるなり』

 記憶を探るまでもない。確かに、これは、ひさぎが守り刀としていた<神薙>だ。
 刀身の長さも見事な白刃も間違いようがない。ただ、それがこうして現場に残されていることが………そして、ひさぎが呟いていた言葉が、どうしてもひとつの出来事を連想させてしまう。『お前が此処で砦になるのか?』とひさぎは言っていた―――。
「………そ、だっ………! ン、なの―――だ………っっ!!」
 頼むから否定してほしい。
 そんなことはないんだと言って欲しい。
 誰か、誰か、これ以上ないぐらい強く、頷かざるを得ないほど確かな言葉で自分を納得させて欲しい。
 でも。
 いつも助けてくれるひさぎは遠くへ行ってしまって、友人たちは相談すら乗れなくて、最後の砦だった老人は隣で物言わぬ骸と化している。
 うそだ、うそだ、うそだ、と繰り返し日吉は呟いた。
 こんなのは自分の妄想が生み出した馬鹿げた幻想に過ぎない。きっと、もう一度眠って目覚めれば、もう少し落ち着いて眺めれば、何もかも元通りになっている。手の中の白刃は消えて、老人はただ居眠りしていただけだと笑うだろう。
 一方では現実を受け止めながら必死になって日吉は幻想に取りすがろうとした。
 どう足掻いても受け入れざるを得なくなるまで。
「―――ひさぎが、おじいさんを………なんて………、ないよ」
 唇をかみ締めて面を上げた頃には疾うにぼんやりとした光が室内を満遍なく照らし出していた。雨が上がったのか、鳥の鳴き声も、木々の葉ずれの音もかろやかである。そんな中でただひとり、もの言わず俯いている血まみれの五柳の姿はかなり異質で、哀れで、何処か滑稽にすら思えた。
 手中の白刃はそのままにフラフラと日吉は立ち上がる。
「―――うそ」
 障子を開け放ち、差し込む白光に目を細めた。
「うそ。うそだよ。全部、うそ」
 草履を履くのもそこそこに脱兎の如く駆け出した。
 背後に捨て置いてきた遺体を振り切ろうとするかのように。




 長時間留まっていたつもりはなかったが、それでもかなりの時間が経過していたらしい。仰ぎ見る天は曇り空ながらも奇妙な白さを湛えていて、背後には晴天を従えていると思わせた。時折り降りかかってくる雫が歩みを遅くし、ただでさえ迷いがちな森の中を殊更に分かりにくくする。
 日吉は、幾度か足を止めた。
 その度に、手の中の白刃を見つめた。
 自分の考えには何の根拠も証拠もないと打ち消す一方で、かつて漏れ聞いたひさぎと老人の会話や、今朝方の彼の言葉を思い出すと、あながち外れとも言えない気がしてきて絶望する。一番いい方法は当事者に否定してもらうことなのに、その当事者が日吉に真実を応えてくれる可能性は限りなく低くて。
(―――うたがう、なんて………)
 ひさぎと五柳の信頼関係を知っているのに。
 それでも尚、疑いを捨てきれないのは、あの老人宅へ訪れる人物を自分たち以外に知らなかったからだ。誰も訪れない庵―――いつだって、自分とひさぎしか訪れることのない庵。誰でもいい、いつでもいい、他に誰かが訪れている形跡さえあったならば日吉は他所を疑うことしかしなかったろうに。
 木々の合間から寺が覗く。戻るのはひどく躊躇われた。
 ひさぎと顔をあわせるのが………躊躇われた。
 そっと門前の榎に身を寄せて中を覗き込んだ彼は、いつもとは違う光景に訝しげに眉をひそめた。
 常ならば掃き掃除だの食事の用意だので忙しそうにみなが立ち働いている境内に大勢が集まっている。出身に関係なく取り揃えられた子供達と、指導者たる僧たちが整然と並んでいる様は異様ですらあった。
 何故なら、それだけの人間がいるにも関わらず境内は恐ろしいまでの静寂に包まれていたからである。一番奥―――集合している者たちにとっての正面―――に、僧正が佇んでいるのが確認できた。脇に控えているのは仁王と、それから………。
(―――ひさぎ?)
 間違えるはずもない。それは、確かに、ひさぎだった。
 明け方の汚れた着物は既に真白い衣装に取り替えられている。血の気を失った顔とぴくりとも変化しない表情がますます彼を彫刻めいたものに見せていた。
 傍らの僧がひさぎの肩を支えるようにしながら言い放つ。
「―――よって、ひさぎ殿は<召喚の儀>を受けられる。これにより正式に戒名を授かることになろう」
(………!?)
 幹に身体を隠したまま日吉は硬直した。先だっての仁王たちの立ち話も考慮すると、いよいよひさぎが正式に僧籍に入るということだろうか? と、なると、彼は完全に『あちら』側の人間になってしまうのだろうか? だが、それにしては周囲の子供たちからの反発も少ない。
 日吉の疑問はすぐに解明されることになった。何故なら、そのまま僧が
「お主らも―――貧富の差、身分の差に関わらず戒名を授かることになる。これは我が寺の本尊様のお達しである。皆、こうべを垂れ慈悲を請うがよい」
 ―――と、続けたからである。
 すぐさま子供たちがひざを折り、その場に平伏する。朝礼などでよく見かける光景ではあるが、今日はやたら不気味に感じられた。読経もない、不満の声も聞かれない、おとなしく付き従う人々が異常なものとして日吉の目には映ったのだ。
(なにか―――なにか、おかしいよ………!)
 ひさぎだけじゃない。
 ひさぎの傍に控える僧正も、仁王も、他の僧たちも、何かがおかしい。みながひとつの意志に支配されているかの如く一糸乱れぬ動きをする。日吉の脳裏に浮かぶのは過日の金剛像ばかり。あれが全ての根源とするならば、もしかしなくても、<召喚の儀>というのは―――。

「………だめだっ!」

 たまらず日吉は物陰から飛び出し、人垣の中央を突っ切った。が、疲れきった足がもつれて思い切り地面に激突してしまう。
 痛みを堪えて顔を上げれば周囲の視線が突き刺さる。たくさんの見慣れた者たち、未だ名前すら知らなかった者たち、それら全てが嫌悪も同情もない只管に無感動で無機質な目をこちらへ向けている。いっそのこと其処に嘲笑や侮蔑が含まれていたならばどれほどマシだったろう。
 居た堪れずに正面を見つめれば、同じく何の色もないひさぎが黙ってこちらを見据えていた。
「―――あ、………」
 声もない日吉を他所にひさぎがこちらに歩を進める。彼が歩くに従って人垣が自然と避けていく。日吉の傍までたどり着いた頃には、ふたりを取り囲むように完全な円陣が組まれていた。
 すっと屈み込んだひさぎは青白い空気より尚白い手を伸ばし、傷ついた相手の頬や衣類に構うでもなく、地に置かれた日吉の指先を引っ掴んだ。戸惑うより早く手中のものを取り上げられて、黙って遠ざかっていく友にかける言葉も見つからない。
 摘み上げたものを裏返したり、中空に掲げたりしていたが、やがてひさぎはふ………と淡い笑みを浮かべた。
「―――持って、帰って、来てしまったんだな………」
 瞳を閉じて唇の端に刻まれるのは読み取るのが難しいほどに儚い微笑みだ。
 彼の手に握られるのは血に汚れた白刃。<神薙>の抜き身の部分。晒された柄に刻まれた文字すらいまは判別が難しい。
 再び瞳を見開いた彼は日吉に視線を送ることなく踵を返す。事務的な声だけが正面から響いた。
「日吉が<神薙>を持ち帰った。これで儀式に支障はない」
「は。然様でございますな。それだけが唯一の懸念でございました故に」
 僧正が深くこうべを垂れる。
「<神薙>を持ち帰りし功により日吉を特赦する。………しかし<洗礼の儀>はこの朝、この時にしか成し得なかったもの。余分にひとりを加えることも疾うに叶わぬ」
「ならば、血を採り、供物と致しますか」
「それにも及ばぬ。遅れてたどり着きし贄などにどの神仏が目をかけられようか」
 漏れ聞こえる冷笑に日吉は細かく身体を震わせた。
 わからない―――わからない、けれど。
 何かとてつもなく間違ったことが、日常とはかけ離れた出来事が、此処では起きてしまっている。幸か不幸か朝に不在だった己は巻き込まれずに―――だが、もう、他の者たちは誰も抜け出せない。友も、仲間も、僧も、他の者たちも、みんな。
「ひ、さ、ぎ―――」
 最後の救いを求めるようにか細い声を紡ぎだしてみる。
 遠ざかりつつある背中に届けばいいと願いながら。
「だめ、だ………だめ、だよ―――おじいさんだってこんなこと望んでたわけじゃ………」
「五柳の、望んだこと?」
 ここしばらく聞いていなかった、まともな受け答えの言葉。けれど見えない顔の正面で刻まれているのは皮肉な笑みなのだろう。振り返ることもせずにひさぎは単調な声と言葉で先を綴った。

「奴の望みは―――俺が此処に留まること。死して砦と化すこと。他にはない」

「ま………っ」
 待って、と駆け寄ろうとした日吉の手は周囲に阻まれた。暴れたところで多勢に無勢、引きずられた身体はどんどんひさぎから遠ざけられていく。物理的な距離以上に関係性が薄れていく感じが日吉を怯えさせた。
 こんな―――こんな結末を迎えるために戻ってきたんじゃない。
「いやだ! ひさぎ!」
「木にでも括りつけておけ。洗礼を受けていない者を寺の中へ入れるな」
「畏まりました」
 傍らの僧がひさぎに平伏する。そのまま有象無象に引きずられて、問答無用で門前の榎に括りつけられる。嗚呼、そういえば、いつかもこうして自分は罰を受けたのだった。その時、自分を助けてくれたひさぎが、いまは自分を害する側に回っている。
「いやだ………ひさぎ―――こんなのは、いやだ………! いやだ、いやだ、いやだ………っ!」
 戻ってきてほしかった。冗談だと笑ってほしかった。
 悪ふざけが過ぎたといつもどおり笑って、頭を撫ぜて、何事もなかったように。
 そんな淡い願いを打ち砕くように振り向きもしないひさぎは本殿へと消えて、後から僧正と上位僧と子供たちの列が続く。残されたのはひどく味気なく、物音ひとつしない境内だけだ。
 泣けてきてならなかった。
 何も出来ない自分が情けなかった。何をしたかったのかも思い出せなかった。
 ただ只管に、己が不幸で、恵まれなくて、何からも見放されたように感じていた。救いなんてもう二度とやって来ない―――やさしかった友は、一番の理解者は、もう取り戻せないぐらい遠くに連れ去られてしまった………。
 悲しくて、悔しくて、遣る瀬無くて。
 それが、括りつけられた身体よりも縛られた手足よりも日吉を追い詰めた。




 どれほど泣いたのか―――。
 少しずつ影の位置が変わっていたからそれなりに時間が経過しているとは想像がつくけれど。
 時折り聞こえてくる寺院からの読経とか、やたら静かに鳴く鳥の声とか、梢のさざめきばかりが耳を掠めて時間感覚を奪っていく。縛られた手足からは痛覚も消え失せて痺れた印象しか持たない。
 相も変わらず白一色の世界だ。まるで、霧が辺りを覆いつくしているかのように。
 一瞬だけ青白さが混じる世界だ。思い出したように降り注ぐ小雨のおかげで。
「………っ!」
 突如、手足が解放され、地面に叩きつけられて日吉は呻いた。ぼんやりと開いた目の先に誰かの足が覗いている。もどかしい仕草で仰ぎ見た其処に、いま一番会いたくて、一番会いたくなかった人物を見つけた。
 かつて見慣れたそれと異なり、ひどく無機質で、作り物のような笑みを浮かべた人物を。

「―――大丈夫か」
「………」

 かけられる言葉は以前と変わりないのに受ける印象の何と違うことか。
 どうにか自力で上体を起こした日吉は、カラカラに乾いた唇からやっとの思いで声を絞り出す。
「―――ひ、さぎ………」
「あまり無理をするな。長いこと縛られていたんだから」
 命じた本人があんまりなことを告げてくれる。強く睨み返した彼は改めて相手の衣装を確認し、また、新たな涙を溢れさせる。

 其処にいたのはもう、ひさぎであって、ひさぎじゃなかった。

 笑みを刻んでもやさしい言葉を紡いでも変わることのない能面のような表情と、白い衣服を打ち消すように纏った黒い袈裟と、左手に回された数珠とが、彼の立場が何処にあるかを明確に主張していた。変わらないのは腰元に覗く笛と白木作りの短刀ばかり。
 どれほど親切そうな声をかけられてもこんなにも余所余所しい。
 それが自分と彼の間に生じた距離なのだと―――自覚するのは、つらかった。
「儀式は完了したよ。お前が、<神薙>を持ってきたおかげで」
「………っ」
「五柳の死体も片付けた。あの庵も、もう、燃やす予定だ。何も気にかけることはない」
「―――ひさぎ!」
 両手をついて懸命に身を起こす。
 そんな簡単に告げないでほしかった。老人の死も、庵の後処理も、何もかもを。
 儀式がそんなにも大切なのか。自分が<神薙>を持ってこなければよかったのか。全てを自身とは無関係だと斬り捨てて単なる戯言のように扱ってほしくなんかなかった。共に過ごして共に様々な物事を見聞きして、感じてきた時間までも否定されるようで―――耐え難い。
 微かに彼は唇の端を寂しげに曲げる。おそらくそれは、残された感情の最後のひとかけらだった。
 なぁ、どうしてなんだ、と。

「なぁ―――どうして、戻ってきてしまったんだ」
「………え」
「戻ってこなければ―――何も持っていなければ………なぁ、日吉」

 瞳に僅かに映し出されたのが悲しみなのか絶望なのかは知らない。それでも、必死に見つめる日吉にとっては微かなる残光に頼るしか術はなく、戸惑いも新たに唇をかみ締めて。
 嗚呼―――では、やはり。
 自分は、何かを―――間違えてしまったのだろうか………。
 しかし、言い募ろうとした日吉の言葉を遮るように、ひさぎは。殊更にやわらかく笑ったのだ。

「―――だから、もう、お前とはお別れだ」

 ―――何もかも。
 無関係だと、斬り捨ててほしくなんか。

 ………なかった、のに。

「お前の荷物はまとめておいた。村にも通達はしておいた。だから、もう、帰れ」
 動くことも出来ない日吉にひさぎはあっさりと背を向ける。最後にこちらを向いたのはどこまでも澄み切った見とれるぐらい綺麗な微笑みだった。
「さよならだ。―――お前なんて、もう」

 ―――イラナイ、ヨ。




 ………その後に語ることはあまり多くない。
 誰もいなくなった部屋に残された自分の荷物を抱えて日吉は寺を後にした。
 途中まで報せを受けた母が迎えに来てくれていた。だから日吉は取り合えず母に縋り、理由は説明できないままに、泣きながら山を降りたのだ。何も話さない息子に母は戸惑いながらも深く追求はしなかった。少なくとも日吉は読み書きを覚えてきたからそれだけでも寺に行った価値はあったのだと、無学ながらもやさしい母親は考えたのだ。
 村に戻ればやはり他の子たちからいじめられ、義父には罵倒されたけれど―――ある意味では日常の生活の中に日吉は戻って行った。
 あの寺での生活を一時の幻のように思いながら………。

(―――違う)

 闇の中で誰かが叫ぶ。

(違う―――違うんだ)

(寺から去ったのは他に誰もいなかったからだ。本当に誰もいないもぬけの殻と化していたからだ)
(ひさぎの跡をつければどうにかなったけど、「要らない」とまで言われてついて行けるほど自分は傲慢じゃなかった)
(嗚呼、でも、違う―――そうじゃない)

(俺は―――怖かった、だけだ)

(みんな何処かに行ってしまった。何処に行ったのかも分からなかった。行く先が分からなかったからついて行きたくなかった。それだけなんだ)
(頼まれたのに何一つ理解してなかった。当の本人から「要らない」と告げられたって―――ついて行くべきだったんだ)
(『ひとりにしないでほしい』ってのは………そういう意味だったんだ)

(でも、俺は―――)
(ただ一度の拒絶で挫けた。つけられた傷跡に泣いた。これ以上傷つけられるのが怖かった)
(だから、追うなんて考えもしなかった。最初からその選択肢を捨てていた)

 握り締めた拳に雫が落ちる。
 いつだって、やり直しの利かない過去にばかり自分は囚われている。

(きっと、本当に少しだけど―――頼りにされてた。助けてくれと、合図も出されてた)
(でも、俺は)
(彼が俺と同じ『人間』だってことすら―――忘れてて。だから、頼まれたことも真剣に考えなくて)

(逃げ出したんだ)
(―――その気になれば留まることも出来たのに。追い縋ることも出来たのに)
(あっさり、言われたことを真に受けて、努力する素振りすら見せずに)

 だからいつだってこの心は自らを責め立てる。
 自分は幼くて、無力で、無知で、そして何よりも弱虫だった。だから逃げてもいいのだと―――勝手に思っていた。
 今なら分かる。自らの弱さもずるさも汚さも、理解しようとしなかった頑なな心も。

 だからこそこの胸は疼くのだろうか。
 取り返しのつかないことをしてしまったと今更のように悔いているのだろうか。
 何らかの形で償いをしない限り胸の痛みは消えることはないのだろうか。

 ―――『卑怯者』。

 そう罵る、自らの声も。

 

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