真昼の幽霊を見たと総兵衛が騒ぐ。
 「だからどうした」と半兵衛が諌める。
 正体を知りたいと総兵衛が喚く。
 「それはそうだが」と半兵衛が頷く。

 ああ、全くどうして本当に。
 本当に自分は厄介事に首を突っ込まずにいられない性質なのだろうか。

 恨むなよ、と総兵衛が笑った。
 お前の想いなんか構わずに引きずって行くよ。
 だから恨むなよ、と。
 その笑い声が嫌いではないので結局は半兵衛も笑って受け入れる。

 いつものとおり、いつもの揉め事。

 今度ばかりは少し―――それだけの範疇ではおさまりそうにないけれど。

 


きつねつき ― 前編 ―


 

 四季の中でいつを最も好ましく感じるのか。
 ―――そう訊かれたなら何と答えるのだろう。
 春夏秋冬、どの季節を支持する人にもそれなりの理由があるだろう。春のあたたかさが好きだとか夏の暑さがいいだとか秋の涼しさが気に入っているとか冬の寒さが素晴らしいとか。
 ………とりあえず一般論として春が嫌いだという人物はあまりいないだろう。いないはずだ。いてもいいけれど。
 城の縁側に腰掛けて竹中半兵衛重治はそう結論付けた。眼前の庭ではこの時期にしては早い梅の花が風に幾つかの花弁を散らしている。手にした扇を広げ、そっと花びらを受け止めて微笑む。
 半兵衛が木下藤吉郎秀吉の下で仕えるようになってまださしたる時も経っていない。「天下取りのために力を貸してくれ」と足しげく通われてついに折れたのがほんの数年前の出来事。
 以来、確かに協力はしてきたもののあまり表立った働きはしてこなかった。半兵衛自身「自分は秀吉殿の部下であって信長公の部下ではない。故に織田家に仕えると見られるのは心外である」という思いがあったのと、単に世に出るのが鬱陶しかったということもある。
 美濃の麒麟児の正体はただの世捨て人―――そう判断されていた方が気楽だった。
 ………のに、結局住まいから引きずり出されて今に至っている。これまでは度々訪れることはあれども適当な都合をつけて山間の庵に戻っていたが、最早見逃してもらえそうにもない。おそらく、あの薄茶色の瞳をした上司は自分が彼の部下になったと正式に発表したいのだろう。
 ―――国取りの布石のために。
(そこまで気を使っている人が………)
 微かな苦笑と共に疑問を抱かざるを得ない。他者への影響を逐一考えている織田家の有力家臣、木下藤吉郎秀吉ともあろうものが自らの城内で噂をばら撒かれるような愚行を放っておくとはどうしたことか。
 曰く。
 墨俣の城主様は春がお嫌いらしい。この時期になるといつも人使いが悪くなり、性格も粗野になる。春になったら主人さまに近付いてはいけない。
 それが巷で広まっている噂である。他愛もないこと、と噂されている当人は気にも止めていないのかもしれないが………。
 人間、どうしても好きになれない季節というのはあるものだ。しかし秀吉にそんな説明が当てはまるとはどうしても思えない。彼は感情よりも理性が先に立つ人種に見えるから、些細な季節の好き嫌い程度で人々に陰口を叩かれるような行いをするはずがないと考えられるのだ。
 それに加えて半兵衛にはもうひとつ新たな疑念がわいてきていた。
 薄闇色の瞳があの時の情景を思い返し遠くを見つめる。

(あれは………何だったんですかね)

 ―――真昼の幽霊。

 そして、それに相対する秀吉の姿。

 外見まではっきりと見取ることは出来なかったものの、背丈が低くて、小柄な子供のように思えた。呆気にとられている間に幽霊の姿は消え失せ、秀吉も何事もなかったようにあっさりと立ち去ってしまった。
 ただの見間違えではないかと我が目を疑ったが―――総兵衛も「確かにいたぞ」と主張するのでその可能性は捨てた。
 真昼の幽霊が実在するのならば、それの正体は一体なんなのだろう。
 何故、真昼でも変わらずに見えるのだろう。
 どうして秀吉は取り乱しもせずに普通に受け止めていたのだろう。
 これらの謎は全て、秀吉が「春」を嫌う原因にも繋がっているのかもしれない―――。
 縁側から離れ梅の木の下まで足を運ぶ。時に舞い降りてくる花びらに何とはなしに目を留め、開かれたままだった扇を音もなく差し出す。花弁は扇をよけて地面へと舞い降りていく。右へ、左へ、幾度か空を横切らせればその度に落ちてくる花びらは異なった動きを見せる。不思議で美しい流れを飽きることなく繰り返す。

 右へ―――ほんの僅か、巻き起こった風によって動きを変える。
 左へ―――けして同じ動きを見せずに音もなく、ただ静かに。

 更に数度、宙を舞わせた後で扇を閉じた。控え目な微笑と共に視線を移せば小姓に呼ばれてきたらしい蜂須賀小六正勝が笑みを浮かべながら立っているのが目に映った。
「その舞いはなんてぇ名前なんだい、半兵衛先生」
「舞いなどではありませんよ」
 笑って答えながら『下がってよい』と軽く小姓に手で合図する。相手も心得たもので軽く一礼を返すとそのまま引き下がっていった。
「ただ、遊んでいただけです」
「遊んでいた?」
「ええ」
 再び扇を開き、軽く風を送って地に落ちかかっていた花びらを掬い上げる。自らの背よりも高く舞い上がったそれを見て半兵衛は目を細めた。
「こうやって風を起こすことによってある程度まで操ることはできます。しかしそれはほんの一時のことにすぎません。すぐに花びらは地に落ちてしまうでしょう。たとえ私が、飽きることなく風を送りつづけていたとしても」
 音もなく花弁が地に触れる。
「花びらが思い通り動いてくれるとも限らない。大抵は偶然の要素によって動かされています。これをこうしたから必ず結果はこうなる、などと決められたわけではないのですよ。おそらく―――運命というものも同じ事柄なのでしょう」
 ぱしん、と扇を閉じる音が静かに響いた。

「人には操れない領域です」

 黙って聞いていた小六はついていけないと言うように軽く自らのヒゲ面をなで上げた。
「………それが『遊び』だってのかい、半兵衛先生。俺にはどうも小難しい理屈のようにしか思えないんだが―――」
「くだらぬ暇つぶしですよ。お気になさらず」
 笑って縁側に腰掛けると小六も首を傾げながら隣に陣取った。
 春のあたたかい日差しが穏やかに縁側に差し込んできている。草履を脱いで座敷に上がり、奥に置いてあった茶道具を持ってくる。この辺り半兵衛にぬかりはなかった。水出し用の葉を選びゆっくりと湯飲みに注ぐ。差し出したそれに軽く小六が一礼を返した。
 半兵衛は小六のことを気さくで話し易い、頼もしい人物だと捕らえていた。それに………彼の『弟』について知っている数少ない人物でもある。
 だからこそ、呼んだ。
「で? 一体なんなんだ、話ってのは」
 出されたお茶をすっかり飲み干してから小六が問い質す。即座に答えることはせず、充分間を置いてから半兵衛は切り出した。
「少々………確かめたい事実がありまして」
「事実?」
「小六殿は―――」
 薄闇色の瞳は手にした湯飲みに注がれたまま動かない。
「小六殿は、秀吉殿のことを随分前から存じ上げていると伺っています。ならばおそらく、私などが迂闊に探りを入れるよりも直接尋ねたほうが手っ取り早いかと思ったもので」
「何を訊きたいんだ?」
「秀吉殿が春を嫌う、その理由についてです」
 半兵衛が湯飲みから視線を外して微かに笑う。逆に小六の方はどこか苦いような笑みを浮かべ、空いてしまった湯飲みに新たに茶を注いだ。片手でそれを持ち、片手で床を軽く叩きつつ天を仰ぐ。
「なんだなんだ、春が嫌いだってとっくに見抜かれちまってんのかい? 秀吉の奴は」
 小六は上司のことをあっさりと呼び捨てにした。公的な場は別として、昔のよしみで彼にはその権利が与えられている。半兵衛も「無礼に当たる」などと口幅ったい事は言わずに聞き流した。ここで話題にしたいのは上司の呼び方についてではない。
「私が見抜いたわけではありませんよ。城内の者たちがことごとくそう噂していただけです」
 参った、というように小六が頬杖をつく。何をどうすればいいのか決めかねているようだ。即座に否定の言葉を吐かなかったということは、取りも直さず彼が何らかの事実を知っているということを意味している。
 無論、知っていてもらわなければ困る―――自分はそれを聞きだそうとしているのだから。
「知ってどうするつもりだ?」
「上に立つ者がよからぬ噂を立てられるなど言語道断。苛立ちや焦りはまともな思考を妨げます。苦手なものは早急に克服しないと後々まで禍根を残すことになるでしょう。故にその原因を探り、明らかにし、対策を練るのが私の役目かと。―――というのは、ただの建前ですけどね」
 握り締めていた椀を静かに床に置き、手を組んで顎の下にそえた。
「単に知りたいのですよ。果たして何があったのかを………下世話な好奇心に過ぎません」
 いささか自嘲気味に呟く姿を見て困ったように小六も腕を組んだ。相手が何をどこまで知っているのか計ろうとする目つきで、じっと青年の横顔を見つめる。
「半兵衛先生。あんたの口調から察するに結構前からこの事態には気付いていたんだろ? なのにどうして急に真実を探ろうと考えたんだ。何か切っ掛けでもあったってのか?」
 何処かぼやけた口調で半兵衛が答える。

「真昼の幽霊を―――見ました」

「………幽霊?」
「そして、それに平然と相対している秀吉殿の姿も。あの方はああいった現象を殊の外嫌っていたはずです。けれども何故かその時は騒ぐことも怒ることもなく、寧ろ穏やかな眼差しで見つめていらした。その反応がどうにも心にかかって仕方がないのです」
 半兵衛の言葉にもしばし小六は無言で押し通した。できることならばこのまま黙って立ち去りたいと考えているような素振りすら感じられる。
 言葉を重ねることも催促することも目で促すこともせずに相手の出方を待つ。何も話さずに沈黙を貫いているのは案外つらい。ひとり山間の庵に住んでいた半兵衛にとっては至極簡単なことだったが。
 深いため息と共に小六が折れる。
「いつも通り見て見ぬふりってのはできないのか? あんたは時々そうやってきたはずだが」
「それが………」
 口元が笑みの形に歪むのを抑えきれない。
 確かに、ことを荒立てるのを嫌う自分の性格なら誰にも何も訊かずに済ませてもおかしくはない。
 しかし、そうもいかない事情がある。
「総兵衛が、見てしまいまして」
「総兵衛が?」
 虚をつかれて小六があんぐりと口を開ける。改めて手を伸ばして意味も無く顎をさする。
「そうか………そいつは………何と言うか、無理だろうな」
「ええ、無理なんですよ。実に困ったことに」
 全然困ってなさそうな口調で返す。
 総兵衛は確かにちょっとばかり無鉄砲で我が強くて手に負えないところもあったが、だからといって嫌いになれるような存在ではない。半兵衛は彼の奔放さを好ましいものと感じていたし、小六とて同じ思いなのだろう。先程よりも幾分緊張の解けた様子で薄く笑う。
「全く困ったもんだな、あんたの『弟』にも」
「ええ、全く。幽霊を見て以来さっさと正体を暴けだの真相をさぐりに行けだの喧しいことこの上ありませんよ。昨日も危うく秀吉殿の所に押しかけるところでした」
 深いため息をつく、と。

『よく言うよ、自分だって知りたくてうずうずしていたくせに―――』

 総兵衛のそんな言葉が脳裏に響いた気がした。
「秀吉殿の説得は総兵衛にまかせます。あの人の扱いに関しては彼の方がお手のものなので。ですから、今の私にできることは唯ひとつ―――情報収集のみです」
 その言葉に観念したのかどうかは分からないが、ため息と共に小六が自らの顔を手で覆った。水洗いするかのように数度、頬をなでさすった後に低い声で呟く。
「あんたなら俺が話さなくても大した支障はないと思うんだが―――やはり、そうもいかんか。現場にいたわけでもないしな」
「現場?」
「半兵衛先生、あんたは信長や秀吉の性格をどう読んでいる?」
 質問の内容に半兵衛はしばし口を噤んだ。有力大名のひとりである織田信長と半兵衛は会ったことがない。しかも大抵は一方的な認識にすぎず、遠目に見かけるぐらいが関の山で到底会話など望むべくもなかった。
 人となりは秀吉からよく聞かされている、しかしそれだけで何か語ろうというのはおこがましいのではあるまいか。
 純粋に、これまで為してきた所業や評判から判断しろと言うのならば。
「信長公は―――随分と情け容赦のない戦いをする方ですね。逆らう者は許さず、逆らおうとする者も許さない。実際、秀吉殿や利家公がお止めしなければ際限なく殺戮を繰り返すような方だと見受けられます。無論、慈悲深い面も持ち合わせておりますが………このまま、自らの行いを省みることなく戦を続けていったならばいつか手痛い報いを受けるのではないかと」
 舞い散る花びらをそれとなく眺めながら慎重に言葉を選ぶ。
 自分は秀吉の部下であって信長の部下ではない。いくら自明の理と思えども周囲にとってはそうではなく。あくまでも竹中半兵衛は織田信長の部下として、一時的に木下藤吉郎に貸し与えられたという立場に過ぎないのだ。発言には微妙な問題が付き纏ってしまう。
「秀吉殿も信長公によく似ていらっしゃる。何から何まで同じというわけではありませんが、いざという時の咄嗟の行動力や決断力、あくまでも現実を見据えてことに当たる姿勢、必要にかられれば味方ですら斬り捨てる非情さは瓜二つ―――と、言ったところでしょうか」
 自らの言葉に僅かに半兵衛は目を伏せた。

 時に………思うことはある。
 あのまま人知れぬ山奥に立て篭もり、ひとり老いて消えていった方がよかったのではないかと。

 秀吉に仕えたこと自体を悔いているわけではない。わけではないが、秀吉の行動も、秀吉の仕える信長の行動も、全てを容認できるわけではなかった。

「おそらく………本来、私や総兵衛の仕えるべき人は他にいたのでしょうな」

 いつもと変わらぬ調子でとんでもない言葉を口にした。
「―――そいつは、聞かなかったことにしておこう」
 小六の低い呟きに半兵衛は軽く笑った。この義理堅い男ならばよほどのことがない限り半兵衛の不利になるようなことは口にはしない。そう分かっているからこそ発した言葉であった。それに、既にこれと似たような科白は散々総兵衛が語ってしまっている。
 少し間を置いて小六は同意を示した。
「まあ、俺も似たような感想を抱いている。幾ら戦乱の世とはいえちっとやりすぎなんじゃないかと思うことは度々な。『仕方ない』と言えなくもないが………奴らとて昔からああだったわけじゃねえ。天下を取ろうと躍起になって必死こいて突っ走ってるだけだ」
 さり気無い口調の変化から話が核心に触れたことを知る。
「大事なもんを一時に三つも失えば誰だって少しはおかしくなる」
「秀吉殿も、信長公も、ですか?」
「ああ」
「戦でもあったと?」
「まあ………戦といえば戦だな」
 いつも豪放磊落な小六にしては珍しく歯切れの悪い言い方をする。主の秘密を暴露している故の迷いというよりは、どうやって説明したらいいのか分からなくて苦心しているように見える。
「ま、総兵衛と年がら年中付き合ってる先生なら大丈夫だと思うんだがな」
 ―――どういう意味だろう。
「かといって全部話したら間違いなく俺が嘘をついていると思われそうだ。それに、秀吉に聞きに行くってんならやっぱり当人から聞いた方がいいと俺は思う」
「ならば全てについて伺おうとは思いませぬが………結局、秀吉殿も信長公も大切なものを一時に失ってしまったがためにあのように我武者羅な人生を送っているというわけですか?」
「そうだな」
「単なるやけくそ―――のように思えなくもないのですが………」
「ある意味ではそうだ」
 重々しく頷く小六を前にして半兵衛は二の句が継げなかった。こう言ってはなんだがただのやけくそで彼らは戦をして殺しをして領地を拡大していたというのだろうか。それでは殺された人間があまりにも哀れではないか。逆に、それだけ大切なものを失ったのだと言えなくもないのだが………。
「それで、その大切なものというのは何だったのです? 物ですか? それとも人―――」
「人だ。不思議な力を持った女と、助けに来て巻き込まれちまった忍びと、優柔不断で理想ばかり追いかけたがるガキと………ああ、あと猿が一匹いたんだが」
 軽く笑いながらも小六はどこか遠い目をしていた。彼自身何か思うところがあるのだろう。秀吉と信長にとって大切な人間だったということは、昔から付き合いのある小六にとっても近しい人間だった可能性が高い。
 ゆっくりと縁側の柱に背中を預けて空を見上げる。

「でもって、そのガキってのが―――秀吉の、まあ………弟だ」

「………」
 半兵衛は組んでいた両手の力を強くした。二人の視線は共に真っ直ぐ空へと向けられるばかりで交わることはない。
「多分それが一番きいたんだろう。秀吉にとっても、信長にとってもな。自覚しちゃあいなかったが、奴らにとってそいつは良心であり守るべきものであり、同時に守ってくれるものでもあったんだ。それが突如としていなくなっちまったんだから途方にも暮れる。………そいつの夢が『織田信長の天下』だったから、形振り構わずに無理もするだろうよ」
「そう………ですか」
 やっとの思いでそう答える。
 秀吉や信長の思いを共有できるはずもないが、分かるような気はする。半兵衛にも弟がいる―――大切な家族だ。幼い頃から共に育ち、影となり日向となり導いてくれた自らの半身だ。それがいきなり根こそぎ奪われてしまったら自分とて混乱するだろう。殺戮に走るまではいかずとも支えをなくした心細さに弱りきってしまうだろう。明日も見えずに。
 小六から聞きだせる話はここまでだと半兵衛は悟った。これだけ分かれば後はもう何も聞く必要はない。秀吉に問い質す必要もなくなったのでは、とも考えたがそれでは総兵衛が納得すまい。弟はあくまでも真昼の幽霊の正体に拘っている。それを知るためにはやはり秀吉に直接当たってみるしかないだろう。
 もう一度だけ空を見上げて、誰にも知られないほど微かなため息をついた。




 軋む階段を上り秀吉の私室へと向かう。土産がわりの酒を持ってゆっくりと上っていく。すれ違った近習の者たちと軽く会釈を交わした。この時期、城主の機嫌が悪くなるという事実が彼らに恐れを抱かせるのだろうか。部屋に近付くほどにすれ違う人間の数は減っていった。
(こんなことで、きちんと警備が行き届いていると言えるんですかね)
 もう少し根性のある小姓たちを捜してこなければなるまいな、と少し考える。
 秀吉の部屋の前ではひとりの侍従が心もとなげに座して警備をしていた。薄暗い蝋燭の灯りだけではそこにいるのが誰なのか詳しい判別はつかない。誰何の声に「私です」と答えると明らかに相手は肩の力を抜いた。
「どうも失礼いたしました。半兵衛先生とは気付かず………」
「いいえ、お気になさる必要はありません。―――秀吉殿は既にお休みになられたのでしょうか?」
「いえ、おそらくまだ起きているかとは思いますが、何分その………」
 さすがに半兵衛に向かって例の噂について喋る事は憚れたのだろう。言いよどむ男を安心させるように笑う。
「申し訳ありませんが、内密の話がありますので下がっていただけますか? 私も多少なりとも腕前に自信はあります故、警護の面に関しては大丈夫かと」
「は、そうですか。で、では、心苦しくはありますが私はこれで―――」
 安堵の表情を浮かべて男が引き下がる。まるで毒蛇の群れに投げ入れられる寸前で助け出された蛙のようにして立ち去って行ったが、あれは幾ら何でも怯えすぎではないかと思う。見慣れた顔でなかった辺りから判断するとおそらく新入りなのだろう。同僚からある事ない事吹き込まれて必要以上に怯えてしまったのかもしれない。
(そんなに恐ろしい人だと思われてるんですかね)
 春以外は普通に優しさを持ち合わせた城主として慕われているのだから、そうではないと思うのだが。実際、秀吉は公平で気前の良い立派な城主だと言われている。とどのつまり一年の内のある時期だけ何故か機嫌が悪くなるから必要以上に取り沙汰されてしまうのだ。
 そんな悪習は治すにこしたことはない。
 手にした酒を確かめて密やかな笑みと共に囁く。

「後は頼んだぞ―――総兵衛」

 ………もし。
 もしその時側で見ている者がいたならば、彼の周囲を覆う気配の変化に目を疑ったに違いない。常は穏やかで静かであった半兵衛の気配が徐々に変質し、清冽で強かなものへと変わっていく。
 薄闇色だった瞳が濃紺に染まり、半兵衛にはできそうもない力強い眼差しをしてにやりと笑う。

「任されたぞ―――半兵衛」

『総兵衛』は悪戯っ子のような顔をして頷いた。




 自分がどんな存在なのか考えたことはない。
 自分と半兵衛がどういう繋がりなのか悩んだこともない。
 物心ついた時から自分と半兵衛は体を共有していたし、意識も繋がっていた。ただ周囲の人間はそれを面倒くさくて、いつの間にか総理解してくれなかったから、他者に自分たちの関係を説明するのも兵衛は『外』に出る機会が減ってしまっていた。
『彼』がちょくちょく顔を出すようになったのは秀吉と出会ってからである。秀吉も小六も多少驚きはしたものの、わりとすんなり総兵衛の存在を認めてくれた。なんでも自分たちと似たような性質を持ち合わせた女性と知り合いだったらしい。
 ははあ、なるほど道理でね。
 と納得しつつも総兵衛はこの二人の前以外では極力「表」に出てこないように努めた。誰もが自分のような存在を快く受け入れてくれるわけではないと知っている。迂闊な行動を取って半兵衛を困らせるわけにはいかなかった。
 襖を開け、奥にいる人物が寝ているのか起きているのかも確認せずに歩を進める。『お前、無礼だぞ』と内心における半兵衛の説教はきっちり無視する。
 更にもうひとつ襖を開けて、そこにいた人物とばったり視線が合った。上機嫌な笑みを浮かべた総兵衛とは対照的に彼の人は腹立たしげな表情をしている。
「どうも、こんばんは」
「………何しに来た、総兵衛」
「酒でもどうかなーと思いまして」
 返事と共に徳利を掲げた。
 この城の主―――秀吉には半兵衛と総兵衛の違いがすぐに分かるらしい。初めて総兵衛と会った時を除いて、彼が二人を取り違えたことは一度もなかった。
 返事も聞かずに秀吉の側に腰を下ろし勝手に杯に酒を注ぐ。
「あんまり上等な酒とは言えませんけど別に気にしませんよね。酔うだけならどんな酒でも同じことですから」
「何で半兵衛じゃなくてお前が来るんだ」
「半兵衛は下戸ですからね。総兵衛じゃないと酒には付き合えないでしょ?」
 しれっとした顔で答えるとがっくりと項垂れられてしまった。どうやら自分はそれと意識せずに時折りズレた回答をしているらしい。以前、そんなことを半兵衛に言われたような気がするが改めるつもりは全くなかった。自覚できないものをどうやって直せと言うのだ。
 頭をガリガリとかいて苛立ちをおさえている秀吉を面白いと思いこそすれ、恐れる気にも怯える気にもなれない。からかいたい気はしてくるが。
「帰れ。俺はひとりになりたい」
「あー、いえね、困ったことにそれはできないのです。総兵衛は頼まれてしまいましたからね、半兵衛から」
「何をだ」
「半兵衛は心配しています。何だって秀吉殿がこの時期になると荒れるのかと」
「―――お前たちには関係のない話だ」
 威圧するような秀吉の口調にも総兵衛は引かない。
「そうも行かないでしょう、やっぱり主と部下ですから無関係とは参りません。厠の柱と大黒柱ほど似て非なるものだったら無視もしますが。色々と考えを巡らせた挙句これは流行り病の一種なのではないかと心配になりまして。女性には月のものがありますが秀吉殿には年のものがあるのではないかとか何とか」
「誰がそんなことを言った!?」
「言ってませんよ、思っただけです。もしくは杉の花粉による苛立ちか枕の蕎麦殻があたるのか、いやひょっとしたら桃の花とか梅の花とか季節にまつわる花が嫌いであって驚き桃の木山椒の木もしかして秀吉様ったら誰か麗しき女性との切ない恋の思い出が」
「うるさいぞ、黙れ!」
 勢いよく投げつけられた扇をなんなく受け止める。
「危ないじゃないですか。総兵衛は暴力が嫌いだってことよくご存知でしょ? 一方的にふるう暴力は何ら解決策など示さないと延々語り明かしたじゃあないですか。―――それよりもお酒、どうです? 折角持って来たんだから飲んでくださいよ」
 変わらぬ笑みを浮かべて扇を持ち主に返す。受け取った秀吉はカッとなって手を挙げてしまったことを少々悔いているように見えた。
「飲まないんなら総兵衛が全部飲んじゃいますよ? いいんですね?」
 多少大げさな動作をして徳利を持ち上げれば、未だ機嫌の悪そうな顔をしている主君が「やめろ」と命じた。壁にもたせかけたままだった体を起こし既に液体の注がれていた杯を飲み干す。
 その様を眺めてニヤニヤ笑っていると、きつく睨みつけられた。
「何がおかしい」
「飲んじゃったなあ、と思いまして。それの中身、実は自白剤なんですよ。知り合いの医者に頼んで特別に調合してもらったんです」
「………」
「―――というのは勿論冗談ですけどね。そんな事したら総兵衛が飲めなくなってしまうじゃありませんか。つまらない」
 瞬間、マジマジと手元の杯を見つめてしまった秀吉が悔しそうな顔をして総兵衛を見る。軽くそれをかわして自身も笑いながら杯を煽る。
 酒の肴に何か持ってくれば良かった、半兵衛は酒飲みじゃないからそういうところまでは気が回らない。一言いっておけば何か用意してくれただろうに失敗した。天気も曇りで風もあまりないから月見酒は無理ですか、と意味があるのかないのか判断のつかない言葉をただ連ねる。
 目的の見えない無意味とも取れる会話に先に耐えられなくなったのは秀吉の方だった。乱暴な仕草で杯を畳に置く。
「いい加減にしろ総兵衛。お前はそんな話をしに来たのではないはずだ」
「そうでしたっけ? なんだか段々どうでもよくなってきました」
「どうでもいい話なのか!? 半兵衛に頼まれたって科白は何処に行った!!」
 欠伸をかみ殺すふりをしていた総兵衛は、不敵な笑いを浮かべて秀吉を見つめ返す。
 と、同時に秀吉も自らの口走った内容が何を意味しているのかに気付いて息を詰める。
 わざとらしく総兵衛が深く頭を垂れた。
「いやいやいや、秀吉殿はお優しい方です。総兵衛が半兵衛に怒られることを心配してくださるとは。しかも総兵衛が口にした内容まで覚えていらっしゃった。―――ならば、全てを話してくれるもの判断してよろしゅうございますな?」
「………」
 墓穴を掘った。総兵衛が忘れたふりをしていたのだから、それに乗じて水に流してしまえばよかったのだ。なのにわざわざ話を蒸し返して―――「話す気満々」と突っ込まれても言い返す隙がない。
 悔しそうに歯噛みしていた秀吉だったがすぐに総兵衛と同様不敵な笑みを口元に刻んだ。
「全く、てめえの悪巧みには敵わねえな」
「悪巧みとは人聞きの悪い。総兵衛はただ自分の思ったままを口にしているだけにすぎません」
「だから、尚悪い。優男の皮をかぶった詐欺師が」
 突きつけられた厳しい言葉に怯む様子も見せず、逆に総兵衛は笑みを深くした。

「それはまあ―――きつね、ですからね」

 秀吉が目を逸らし開け放した襖から空を見上げる。雲の後ろ側に月が隠れているのだろう、微妙な明るさが真夜中の雲をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「よく………分かんねえ奴だよ、お前は」
「そうですか?」
「ああ―――出会った時からな」
 穏やかに呟いて、秀吉はここ最近では一番の明るい笑みを浮かべた。




『総兵衛』と秀吉が初めて会ったのは数年前の冬、織田側が必死になって竹中半兵衛を味方に引き込もうと画策している頃だった。
 先立つ事一年前、僅かな手勢で見事稲葉山城を乗っ取った彼の才覚は広く全国に知れ渡っていた。斎藤龍興を追い出して一時的に城主となった半兵衛のもとには多くの国から密書が届けられた。織田信長とて例外ではない。
 しかし半兵衛はどんなに色のいい条件を出されても首を縦に振ることはなく、追い出したはずの主君を呼び戻すと何の未練もなく俗世間から身を引いてしまった。各国の大名が肩透かしをくらったのは言うまでもない。
 それから間もなく秀吉は半兵衛の庵にやって来た。かつて織田からの使者として稲葉山城で交渉した相手だった為、半兵衛の警戒心も比較的少なかった。その辺りも鑑みて織田側は使者を選んだのだろう。秀吉は常に手土産を携えて、織田信長の目指す天下の素晴らしさと理想と目標と、自らの夢を語って聞かせた。
 半兵衛が話を聞いているその内で総兵衛もまた話を聞いていた。故に総兵衛はかなり前から秀吉のことを知っていたのだが………秀吉が総兵衛に気付いてなかったとしても仕方がないだろう。
 その日は朝から降り続いた雪で世界は一面、白に染め上げられていた。きっちりと服を着込む半兵衛とは違い、着流しに上掛けを数枚重ねただけの状態で総兵衛はぼんやりと外を眺めていた。
 ………今日もあの男は来るのだろうか。
 半兵衛が楽しそうに話していたから今までズルズルと返事を引き延ばしてしまったが、いい加減何らかの答えを示してやらねばなるまい。おそらく向こうは「秀吉殿の与力になります」との答え以外は受け入れはしないだろうが―――。
 果たして待ち人はやって来た。
 菅笠に白い雪を高く積もらせ、腕には土産の魚を重たそうに抱え、不思議そうにこちらを見つめている。それはそうだろう、彼は今まで一度として「縁側で着流しのままぼんやりと佇んでいる『竹中半兵衛』」なんて見たことがなかったのだから。
「………半兵衛先生?」
 戸惑った風の秀吉に柔らかく微笑みかけて家の中に招き入れる。
「またいらしたのですね。そんな気はしていましたが―――どうぞ中にお入りください。風邪をひいてしまいますよ」
「………」
 疑心暗鬼、といった感じで慎重に秀吉が家屋に足を踏み入れる。いつもと違う「半兵衛先生」の様子に警戒心を抱いているのだろう。草履を脱いで普段と同じく座敷に入ったものかどうか敷居の前で躊躇している。一方の総兵衛は実にのんき、実に気楽、声を掛けたきり座布団を頭の下にあてがって寝転んでしまった。
 覚悟を決めたのか秀吉が座敷にあがってくる。着物の其処此処に白雪をまとわせたまま疑い深そうにこちらを眺める。
「………障子、閉めないんですか? 雪が入ってきて寒いんじゃ―――」
「冬は寒いものですよ」
 全く取り合わず総兵衛はひらひらと軽く手を振った。
「もし寒いのならば奥に火鉢がありますからご自由にどうぞ。土間に酒も置いてありますから適当に燗でもつけて飲んでください」
「………」
 ますます不可解そうな顔をしながら秀吉が奥へと引き下がっていく。何か重たいものを動かす音がして火鉢が部屋の中に運び込まれた。勝手知ったる他人の家、秀吉は迷うことなく炭を見つけ出し火をつけ、ついで土間から酒を探し出してあたためはじめた。先程からしきりと首を捻っているのはおそらく半兵衛が下戸だということを知っているからだろう。これまで彼が持って来た様々な土産物の中に酒だけは入っていなかった。
(さて、どうしたものか)
 内心だけで楽しげに呟いて身を起こすと、総兵衛は目一杯開かれていた障子を少し狭めた。つと起き上がって部屋の隅から古ぼけた将棋盤を持ち出す。半兵衛と秀吉がよく使っていたものだ。火鉢の横に据えて秀吉を人好きのする笑みで見つめた。
「酒も丁度できあがったようですし、一局どうですか?」
「………そりゃあまあ、いいですが」
 しきりに首を捻る訪問者を余所に、総兵衛は適度に温まった酒を杯についで上機嫌に飲み干した。いよいよ秀吉が「信じられない」というような顔つきになる。
「半兵衛先生は下戸だとお聞きしていましたが―――」
「ええ、下戸ですよ」
 嬉しそうに頷く。
「一杯飲んだだけでもう駄目ですね。よほどのことが起こらない限り朝まで目を覚ましませんよ。戦国に生きる者としては多少、頼りない性質かもしれませんね」
 男にしては細く、整った指先で将棋の駒を盤上に並べていく。秀吉が向かい側の席につくのを待って総兵衛は駒を進めた。
 どちらも無言で駒を操る。聞こえてくるのは外で降りしきる雪の音だけといった、静かな時間が流れていく。時折り、駒を指す硬く小さな音だけが僅かに木魂する。
 数手、進めたところで秀吉が探るような目を総兵衛に注いだ。
「先生は―――いや、そうじゃなくて………」
 自信がなさそうに少しだけ眉根を曇らせて、しかし次の瞬間には決然たる意志を込めて断言する。

「あんたは、半兵衛先生じゃない………一体誰だ? 事と次第によっちゃあ只じゃおかない」

 今まで穏やかだった口調が打って変わった剣呑さを含んでいる。話し方も改まったものではなく砕けた物言いだ。激しく睨んでくる瞳に、ただただ総兵衛は静かな微笑みを返す。
「よく分かりましたね」
「最初は―――分からなかった、けどな」
 やや語調を和らげて手元の駒へと秀吉が目を移す。ひとつ、先へ進めた。―――飛車取りだ。
「俺は何回か半兵衛先生と将棋を指したことがある。先生の指し方は理路整然としていて筋が通っていて、ある意味対策の立てやすい駒運びだ。過去の戦法、応用、更にその応用。頭脳合戦を楽しんでるって感じだ。なのに―――」
 今度は逆に秀吉が飛車を取られた。彼は少しだけ苛立たしげに将棋盤を人差し指で数度、叩く。
「あんたの指し方は滅茶苦茶だ。理論も作戦もあったもんじゃない―――本能で勝負してるみたいだ、全く」
「何も考えずに指してますからね」
 あくまでもにこやかな笑みは絶やさぬまま総兵衛は駒を進めた。正方形の世界の上で戦況が一変する。苦々しげに秀吉が舌打ちして起死回生の策を打ち出した。将棋盤の中で今度は総兵衛の立場が苦しくなる。
「それに、な。半兵衛先生の目は薄い闇の色をしているのに―――あんたの目は深い湖の底みたいに濃い青をしている。よく見ればすぐに分かるさ」
「おや………そんな違いがあるんですか」
 如何にも驚いた風な声を上げた総兵衛に、「わざとらしい奴」と秀吉が苛立ちを含んだ視線を送る。しかし驚いたのは事実である。今まで自分と半兵衛の目の色など見比べた事がなかったのだ。
「どうも貴重なご意見ありがとうございます。今後の参考にさせていただきましょうか―――ね、と」
 陣地に乗り込んできた秀吉の手駒を難なく総兵衛は切り捨てた。
「………って、あれ?」
「王手」
 すっと指を伸ばして相手の陣地にあった王将を摘み上げ、眼前で掲げる。呆気に取られている秀吉がおかしくて総兵衛はまた笑った。
「秀吉殿の負けですね。………もう一局やりますか?」
「………」
 やらいでか、と顔をしかめて総兵衛の手から王将を奪い返し、秀吉は乱雑に駒を並べ始める。目からはみ出してしまった駒を正しく並べ替えてやりながら、総兵衛は片手で再び酒を飲み干した。
 それを横目に見ながら秀吉が物凄く愛想のない声でぼやく。
「大体、酒を飲めるって時点で変だと思ってたんだ………結局、あんたは誰なんだ?」
「竹中総兵衛元治―――と、半兵衛は呼んでいますね。双子の弟みたいなものだと思ってくださって結構です」
「じゃあ肝心の半兵衛先生は何処に行ったんだ?」
「目の前にいますよ」
「………は?」
 駒を並べていた手を静止させて秀吉が食い入るような視線を投げかける。物の道理の分からぬ幼な児に言い聞かすかの如き口調で、ゆっくりと総兵衛は繰り返した。
「竹中半兵衛重治は、あなたの目の前にいる人物ですよ」
「………だって、さっき、あんたは―――」
「ええ、自分は、竹中総兵衛元治ですよ」
 クツクツと軽い笑いを総兵衛がもらす。
 自分たちの関係を知った時の秀吉の反応が見ものだ。驚くのはいいとして、その後どうするか。信じるか拒否するか、受け入れるか跳ね除けるか―――。
 目の前に在るものの存在すら否定するような人物では器量が小さい。そんな人間に大切な半身を託すわけにはいかないのだ。
「今、竹中『半兵衛』重治は竹中『総兵衛』元治の中で眠っているのだと思っていただければ理解し易いでしょうね。総兵衛たちは同じ体に宿る別の人格なのです」
「………」
 開いていた障子から冷たい隙間風が雪を伴って舞い込む。
 秀吉が完全に動きを停止させた。石か鉄のごとく凍りつき、いっかな動こうとしない。僅かに見開かれた目は総兵衛の額中央に据えられたまま逸らされることはない。
 途切れ途切れながらに言葉が紡がれたのはどれほどの時が経過してからだろうか。
「二重………人格、ってわけじゃ―――なく?」
「それとは違いますね。総兵衛と半兵衛は明らかに別の性質を持った個々の人間です。世の兄弟と比べて異なっている点と言えば、体がひとつしかないということぐらいですよ」
 ―――『ということぐらい』で済ませていい問題なのかどうか―――。
 秀吉は半ば浮いていた腰をどうにか床に下ろし、幾度か確かめるように自らの頬を軽く叩いて、無遠慮な視線を真向かいの人間に注いで、次いで視線を障子の外へと向けてからようやっとため息をついて緊張を解いた。
「ああ………そうか………そういう事か………」
 何やらとりとめのない言葉を呟きながら顔を俯かせている。そして顔を上げたときにはやたらすっきりした顔で力強く頷いてみせた。
「ようやく合点がいったぜ。酒を飲めたわけも将棋の戦法が違うのも瞳の色が違うのも、な。別人だったら仕方がないよな」
 それは意外と言えば意外な反応だったので、今度は総兵衛の方が少し―――本当に少しだけ―――驚いた。幼い頃の経験から言うともっと取り乱されてもおかしくはないところなのだが。
「随分あっさりと総兵衛の存在を受け入れてくださるのですね。それだけ度量が大きいと判断してよろしいのでしょうか?」
「いや、そういうわけじゃねぇんだ。ただ―――俺の知り合いにも似たような奴らがいてな」
 少しだけ秀吉が陰のある笑みを浮かべる。
「そいつの場合は人格が入れ替わった時の区別がもっと明確で―――目の色どころか髪の色まで変わってたんだが、あんたの場合はさしたる変化も見られないな」
 全ての駒を並べ終えた秀吉は一足先に歩を進めた。どうやら秀吉が先攻ということに勝手に決められてしまったらしい。総兵衛はまたしても何の作戦も立てずに駒を適当な箇所に置いた。
「何にせよ、冷静に受け止めていただけて嬉しいですよ。幼い頃は周囲の理解を得られず困っていましたからね」
「そうなのか?」
「いっそ、秀吉殿のお知り合いのように明確な区別がついていれば良かったのでしょう。ところが見ての通り総兵衛と半兵衛の違いなど微々たるもの―――入れ替わってみたところで」
「同じ人間が突如おかしくなった………ようにしか見られないってわけか?」
 頷く。
 物心ついた時から自分は半兵衛と共に在った。だがそれを知っているのは半兵衛しかいない。幾ら「自分たちは別の人間だ」と主張してみたところで、幼い子供の言葉などろくに聞き入れてはもらえない。
「昔は大変でしたよ。気まぐれに総兵衛が顔を出すたびにやれ御祓いだ、やれお参りだと辺りを引きずり回され―――祟りだ呪いだ『きつねつき』だと、よく分からないまじないも散々やらされましたしね。終いにはそれが嫌になって、総兵衛は半兵衛の中に閉じこもることを固く決心してしまいました」
「そのワリにはこうやって出てきているようだが………」
「時と場合によります。性格は別のものですが肉体はひとつですからね。片割れが死ねば当然残りのひとりも死ぬのです。生死に関わるような重要事項はやはり揃って知恵を絞らなければ」
 躊躇することなく駒を進める総兵衛の手の動きは優雅そのものだったが、濃紺の瞳の方はかなり物騒な光を湛え始めていた。
 もとより、総兵衛が出てきたのはのんびりと秀吉と将棋を指すためなどではない。今まで自分は半兵衛の裏側に隠れて気付かれないように観察を続けていた。半兵衛が横を向いても総兵衛は変わらず鋭い視線を注いでいたから、時に秀吉は誰かの気配を感じ取ることがあったかもしれない。
 散々考えた末に下した結論。

「秀吉殿―――あなたは恐ろしいお方だ」
「………へぇ?」

「恐ろしい上に冷徹で理知的、しかも夢想家であらせられる。出世の機会を得るために他の者がしくじるのを待っているのでしょう? 例えば、いま織田が取り組んでいる墨俣攻めにしたところで―――」
 秀吉が険しい表情をするのを無視して言葉を続ける。
 今現在、織田は美濃を攻める足がかりとして墨俣に城を築こうとしているはずだ。けれども名のある武将たちにやらせても全く上手くいかない。築城を諦めてはどんな作戦を立てたところで美濃攻めは成功しない。そろそろ名だたる武将以外の大抜擢をしてもいい頃だろうと踏んでいた。
「いきなり何の戦功もない人間に指揮をとらせては他から不満も出ましょう。しかしこれだけ失敗が続けば秀吉殿が出て行ったところで誰も文句は言いますまい。成功すれば晴れて有力家臣の仲間入りができるというもの―――見たところ、川を利用して木材を一気に運ぼうとしていると読みましたが如何ですかな?」
 垣間見せた険しい顔つきは既になりを潜めて、秀吉は変わらぬ笑みを浮かべている。しかし目は笑っていない。それはこちらとて同じことだった。
 否定の言葉を口にしないということは総兵衛の読みが大方の筋で当たっていたのだろう。駒をいじりながら少しだけ寂しそうに瞼を伏せた。
「―――残念です」
 立ち上がり、手を伸ばして障子を大きく開け放つ。雪は小ぶりになっていたが相変わらず冷たい礫が中に入り込み、火鉢の熱で温まり始めていた室内の温度を下げていく。
「実に………残念です」
 繰り返し呟き外をぼんやりと眺める。庭先に広がっていたはずの木々も草花もこじんまりとした池も雪に包まれて何もかも判別がつかない。
 振り向くと秀吉は黙って座したまま真っ直ぐ総兵衛のことを見つめていた。それは紛れもないこの人の本質ではあるのだろうけれど、と密やかに苦笑する。
「秀吉殿が半兵衛の前で語ってくれた甘い理想や夢、それら全てがあなたの本心から出たものであればどれほど嬉しかったことか。この戦乱の世において、できるだけ人の血を流さずにすむ方法を考えて苦しんでいる方がいたのならば一も二もなく駆けつけて従者となったでしょうに」

 語られた言葉は偽りではないが真実でもない。
 告げられた思いも嘘ではないが本心ではない。

「然るに、貴殿の本質はそれではない。確かに夢や理想も抱いておりましょう。しかし、それは叶わぬ絵空事だと既に何処かで諦めていらっしゃる。伝え聞いた限りですがおそらく信長公も同様の考えをお持ちなのでしょう。それではいけない、総兵衛たちの理想の君主たりえない………」
 吹き込んだ雪が熱で融かされて畳の上にくすんだ染みを広げていく。将棋盤の上に手を添えた姿勢で聞いていた秀吉も、まるで雪のように冷たく冴えた双眸をしていた。
 彼が望んだ答えは肯定のみ。もし断られたとしても懲りずに足を運びつづけ、決して諦めはしなかったろう。最終的には「落とせる」との自信も抱いていただろう。
 ―――この瞬間までは。
 口調は穏やかだがその中に揺るぎない意志を感じ取って、秀吉は交渉が決裂したと判断したのだろうか。片方の手が腰にさした刀に触れる。
「………織田に組みする事はできない、と?」
 秀吉にしてみればそれは最後通告だったに違いない。彼は―――「竹中総兵衛元治」は多くのことを知り過ぎている。山奥に居ながらにして世間のことを見通している。完全に俗世間から隔離された庵に閉じ篭っていると判断しているのなら、それは全くの思い違いだ。
 知り過ぎた人間は、殺す。
 相手が刀を握る手に力を込めるのを見ながら。
「―――いいえ」
 全て見越した上で尚、総兵衛は柔らかく微笑んだ。
「半兵衛を部下になさいませ、秀吉殿。きっと半兵衛の知恵は貴方様のお役に立ちましょうぞ」




 後ろ手に障子を閉めて座へ戻る。刀に手を置いたまま逡巡しているらしい秀吉に「貴方の番ですよ」と促すと、やっとのことで両の手を膝上へ移動させた。
 またしても言葉も無く駒のみが取り交わされる。が、秀吉は気もそぞろなのだろう。先程から指してくる手に普段の精彩が感じられない。それでも必死に考えを巡らせているのか総兵衛の駒を隅に追い詰めて疑わしげな視線を送る。
「………何故だ」
「何故とはまた、何のことですか」
「俺のことも殿のことも進んで仕えるに値しないと言い切りながら、何故『半兵衛を部下にしろ』などと言うのだ。俺には………分からん」
 どこかいじけたような、すねたような口調は秀吉を実際の年齢よりも随分と幼く感じさせる。確かこの人は自分よりも十近く年上なのではなかったか、と意識の隅に上らせながら総兵衛は将棋盤の角を叩いた。
「俺が刀を触ったのを見て意見を変えたわけではないだろう。確かに、協力してもらえないならば殺すのもひとつの手かと考えていた。けれどあんたは―――あんたと半兵衛先生は、己が命よりも意志と自由を尊重する人間のはずだ。なのに、どうして」
「そんなに難しく考えなくていいと思いますよ」
 数回爪の先で盤の角を引っかくようにして、空いていた手で軽く自らの顎に触れる。盤上で追い詰められた自分の軍勢を総兵衛はぼんやりと眺めた。戦法を考えているわけではなく、単に感覚的に何処がいいかを判断しているだけなのだが。
 決心を固めたのか潔く駒を動かす。
「確かに秀吉殿の考えも信長公の考えも完全に同意できるものではありません。しかし………面白そうではあります、他のろくでもない大名連中と比べたならば。それに何も今すぐ貴殿の部下になるとは申しておりませんよ」
 言葉に釣られて一刹那、秀吉が目を逸らした隙を狙って敵陣の囲みを突破する。今度はこちらが優位になった。
「まずは墨俣に城を築かれるがよいでしょう。そして織田家の中で確たる信頼を勝ち得ることを目標となされませ。貴殿の寄騎として働く事に異存はありませんが、せめてそれぐらいの身分と名声を手に入れて頂かねば、わざわざ半兵衛が馳せ参じる意味はありませぬ故」
「ふてぶてしい奴だな。城持ちにしか仕える気はないと言うのか?」
「それくらいの相手でなければ『箔』がつきませんからね。総兵衛は半兵衛の能力を安売りはしませんよ。………最も」
 ふ、と軽い笑みと共に語りかける。

「『ただ』の武将に軍師をつけてくれるほど織田に人材があると言うのなら話は別ですが」

 痛いところをつかれた、というように秀吉が若干顔を歪める。
 確かに―――いくら竹中半兵衛を凋落したのが秀吉の功績だと判断されようとも、普通に考えれば数少ない軍師は別の名のある武将につけられるのが『オチ』だ。
 直接に半兵衛を軍師として迎えたいならば、織田での地位を固めなければならない―――。
「言ってくれたものだ。織田家は名だたる勇将ぞろいだぞ?」
「知将が少ないですからね」
「………そこまで言うのならば、それ相応の働きはちゃんと見せることだな」
 そろって悪戯っ子のように瞳を輝かせて視線を交し合う。既にそこには「共謀」の意志が働いているかのようだった。
 確かにこの瞬間、木下藤吉郎秀吉と『竹中半兵衛』の間で同盟が結ばれたのだった。
 やや機嫌を直した秀吉は、ついでというように気のない調子で呼びかけた。
「それで、お前はどうする」
「お前、とは?」
「お前だ、お前。『竹中総兵衛元治』。お前は誰に仕えるつもりだ? 先刻から半兵衛の話ばかりで、お前自身はどうするのかを聞いていない」
 軽く笑いをもらして、総兵衛は持ち上げた駒の端で盤を掠めた。
「これはこれは―――随分と虫のいい言葉を口になさる。半兵衛だけでは飽きたらず、この総兵衛までも部下にしようという心積もりなのですか?」
「竹中半兵衛重治と竹中総兵衛元治は二人でひとりなのだろう? ならばお前とて俺の部下になってもおかしくはないはずだ」
「生憎ですが、それはできません」
 盤上でしばし駒を彷徨わせ、最終的に一番敵陣に近いところに駒を据える。
「半兵衛ならばお二方の思考に合わせて仕えていくことができるでしょう。あれは素直で真面目で賢くて誠実な男です。けれど総兵衛にはそれができない―――先程も述べたように、心の底から絵空事を追い求めているような愚か者にしか仕えたいとは思わないのですよ。………仕えることができない、と申しておきますか」
「それでもお前は半兵衛と一緒に俺のところに来てしまうだろうが。だとしたら結局、お前は俺の部下ということになる」
「いいえ」
 薄く微笑んで首を振る。盤上の戦いは粗方勝敗が見えてきていた。敵が指し終えるのを待って総兵衛は決めの一手を取り出す。
「忠誠など誓えませぬ故、部下にはなれませぬ。権謀術数や情報操作について相談したいときは軍師竹中半兵衛に相談なされませ。総兵衛は一切口出しはしません………」
 指先で駒を操りながら夢見るような瞳で淡々と言葉を紡ぐ。
 雪が屋根から落ちた音がした。
「ですが、それ以外のものとしてならば―――軍師以外の存在としてならば幾らでも相手をいたしましょう。愚痴でも不満でも色恋沙汰でも、何でも付き合いますよ。その分、総兵衛もかなり我を通させてもらいますがね。その辺の覚悟を決めた上で召抱えてください」
「………どっちが雇い主だかわかりゃしねぇ」
 おそらく、ここに来るようになって初めての心からの笑みを秀吉が浮かべる。しかし折角のそれを無に帰すように総兵衛は冷徹に駒を盤に叩きつけると、自身も満足げな笑みをみせて宣告してやった。
「さて、またしても総兵衛が王手ですよ。―――もう一局やりますか?」
 秀吉が再戦を申し込んだのは言うまでもない。




「………そんなに分かりにくい性格をしてましたかね、総兵衛は」
「少なくともあの時はそう思ったぞ。今は………少しは分かってきたような気もするが、所詮そう感じているというだけだからな」
 あの時とは違い、外に雪はなく代わりに春の花が顔を覗かせている。歓談の場も閑散とした庵ではなく多くの人間が住まう墨俣の城であった。二人が初めて会ったあの日から間もなくして秀吉は前任者たちの失策を受けて仕事を引き継ぎ、見事築城に成功したのだ。
「それよりも、肝心の話はどうなったのですか?」
 たった一言で話を逸らそうとした秀吉の努力を水泡に帰す。ふてくされたように彼の人は空を見上げてつっけんどんに言い放った。
「………昼間、小六と会っているのを見たぞ。もう話ならあいつから聞いたんだろう?」
「聞きました。けれど、それだけではやはり納得のいく説明には至らなかったのですよ」
 総兵衛は軽く腕を組んで気難しげに天井に目をやった。
 そう、結局小六から聞き出せたのは秀吉と織田信長が無理を重ねているという話だけ。いなくなった大切な者の中に秀吉の弟が含まれていたらしいという、ただそれだけ。
 駄目なのだ、そんな説明では。総兵衛が本当に知りたい事は少しも明らかになっていない。
 即ち。

「………真昼の幽霊」

 夜の静寂に声が響き渡る。向けられた視線を意識することなく、総兵衛は濃紺の瞳を閉じて詠うように言を繋ぐ。
「あれは一体………誰だったのでしょうね。よく、見えなかったのですが」
「見て―――いたのか? ………見えた、のか?」
 秀吉が闇の中でもそれと知れる程はっきりと動揺した声を上げた。
「よくは分かりませんでしたがね」
 上向けていた視線を元に戻せば真っ向から見つめてくる秀吉の瞳とかち合った。
 何かを言いたそうに口元は震えても、肝心の言葉が洩れてこない。何かを問いたげに瞳が向けられても、それだけで察するには知っている事実が少なすぎる。
 ゆっくりと、告げた。

「お伺いしてもよろしいですか―――その事について」

 もしもそれが秀吉にとって心の傷となるほど深い出来事ならば、敢えて暴き立てようとは思わない。昔から自分は好奇心が旺盛で、言い出したら聞かなくて、だからこそすぐに狐狸妖怪の類と間違われて苦労してきたのだけれども―――人の心情を解さないほど野暮ではない。
 断られたなら引き下がるのもひとつの手。
 半兵衛に無理を言ってここまでやって来たが、場合によっては全てからあっさりと身を引く事も辞さないつもりでいる。
 秀吉は俯かせていた顔を上げ、掌に握り締めた汗を袂で拭った。
 やがて発せられた言葉は今回の件とは全く関係のない事のように思われた。
「総兵衛―――お前は、もうこの城に留まると決めたんだよな?」
「………ええ、そうですが」
「ならば、付き合え。あと数日の内に内密で旅に出る。共に来い」
「それは―――」
 城の頂点に立つ者がその席を空けるというのか。確かに今すぐ戦が起きるとかいった緊迫した状態ではない。しかしそれでも、長じきじきに出張るとは果たしてどのような出来事なのだろうか。
 胸の奥の好奇心が強く疼いた。
「勿論行きますけれども、城の方は大丈夫なのですか?」
「心配は無用だ。ちゃんと手は打ってある」
 秀吉が口元を歪めて笑う。

「ついて来れば―――『本物』に会えるぞ」

 眉をひそめる。
「………どういう意味ですか?」
「だから、ついて来れば分かるさ」
 身を乗り出してきた総兵衛の問いには応えず秀吉は酒に口をつけた。返事が得られない事に不満そうに口を噤みながら総兵衛も酒を手に取った。すぐに「分からない事は追い追い確かめればいい」と考え直したのか笑顔に戻る。
 酌み交わした杯と共にそれぞれの思惑を含んだ視線が交錯する。
 互いに胸の内を秘めたまま、その夜の酒宴は空の端が白みだすまで続けられた。

 

→ 中編


 

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