白んできた空を眺めながらぼんやりと思う。
 あれからどれほどの時が流れてしまったのだろうかと。
 その間に自分は何をしてきたのだろうかと。
 時の流れは想像以上に早かったのに、成し遂げられた事が少なすぎる。

 ………時間が、ない。

 白昼夢で得られていた満足も手に入れられなくなるかもしれない。
 柱にもたれかかって眠っている青年の姿を見つめる。閉じられた瞳、二つの精神、読めない心。

 ―――もしも。
 もしもこいつが、『あの一族』の血を引いているのならば。

 大丈夫―――、大丈夫だ。まだ最後の機会が残されている。全てが失われてしまう前に再びその姿を記憶に留めておくことができる。
 きっとできる。俺にはできる。あいつと再び会うことができる。
 例えそれが記憶の残骸に過ぎなくとも―――。

「まだ………壊れるわけには、いかないんだ………」

 誰に告げるでもない、切なげな声が密やかに響いた。

 


きつねつき ― 中編 ―


 

 あたたかな春の日差しが辺りを照らし出している。馬の手綱を引きながら半兵衛はのんびりと待ち合わせ場所である街道に辿り着いた。馬上から眺める景色はどこまでも平和そのもので、これが本当に戦乱の世なのかと疑いたくなってしまう。
 肩の荷物を背負い直したところで街道筋に立っている人影が目に入った。菅笠をはずして軽く会釈をする。
「小六殿、貴殿も今回の旅に付き添われるので?」
「まあな。俺ぁ毎回参加だ」
 小六も片腕を挙げて返事をした。ガタイのいい彼が乗る馬は当然、それに見合う分だけ大きい。並んで立つと半兵衛の乗っている馬が小さく思えるほどだ。
「毎回………と言うと、此度のような無茶な旅路は何年も続けてやっていらっしゃるのですか?」
「はは、無茶か。確かにそうだな。だが幾らなんでも毎年はしてねぇぞ。数年に一度、都合のいい時だけ出向くんだ」
 数日前の秀吉と総兵衛の遣り取りは半兵衛も『裏』で聞いていたから知っている。それでも、本当にこうして旅に出ると趣が異なって感じられる。
「………ところで小六殿」
「なんだ?」
「旅の目的地は何処なのですか? うっかりと総兵衛の奴が聞き逃してしまいましてね」
『別に何処だっていいじゃないか―――』
 内心で総兵衛がのん気に喋ったようだったが知らん振りをする。
「近江の琵琶湖だ」
 その答えに半兵衛は瞼を伏せた。墨俣から琵琶湖まで敵の目をかいくぐって―――その間、自らの領地を空けるという愚を冒してまで出かけるとはどういうことなのだろう。瞬時に考えを巡らせる。
「あくまでも琵琶湖が目的地だと? 京への視察ではないと仰るのですね?」
「そうかもしれんし、そうでないかもしれん」
「何があるのかいまは教えてもらえないのでしょうね」
「悪いな、他言は無用と秀吉から釘を刺されてるんでな」
 苦笑いしてから―――半兵衛の表情が晴れないのに疑問を感じたのか。小六は背を屈めて相手の顔を覗き込んだ。
「どうした? 顔色が悪いぞ。風邪でもひいてるのか?」
「いえ、そうではなく………秀吉殿が出された条件の意味がよく分からないもので」
「条件?」
 ひとつ、頷く。
「この旅の間、決して『総兵衛』を出してはいけないと厳命されたのです。妙な話だとは思いませぬか」
「―――そうだな」
 小六も不思議そうに相槌を打つ。
 確かに『総兵衛』の存在はあまり歓迎すべきものではないかもしれない。端から見れば物の怪にでも憑かれたとしか思えない性格の豹変ぶりは半兵衛を迎えるに当たって負の要因にしかなり得ない。
 しかし半兵衛を―――総兵衛を旅に誘ったのは他でもない秀吉である。旅の間に総兵衛の存在を知られたくないと言うのならば、初めから同行させなければいいだけのことだ。
 二人して首を傾げたが馬の嘶きが聞こえてきた為に結論を出すには至らなかった。小六と揃って腕を挙げて笑顔で同行者を出迎え、予期せぬ事態に動きを止める。
 前方の馬を駆っているのは背格好からしても秀吉しかありえないからいいとして、もう一頭に乗っているのは誰なのだろう。深く菅笠を被っていて見分けがつかない。衣装の作りなどが地味に見せかけながらもかなり豪華なので、身分の高い人間だろうとは思うのだが―――。
「小六、半兵衛、遅くなってすまなかったな」
「なぁに、どうせ城を抜け出すのに時間がかかったんだろう?」
 豪快に笑って小六が秀吉の背中を叩く。ずり落ちそうになりながらも秀吉は怒らなかった。その間も半兵衛の意識はずっと謎の同伴者に向けられたままでいる。隠そうとしても隠し切れない威厳と迫力がその人物からは放たれていた。
 謎の同伴者は秀吉を押し退けて前に出で、かなり高圧的な言葉を発した。
「おい、お前が竹中半兵衛重治って奴か?」
「そうですが」
「ふ〜ん………」
 視線の位置を変えながら無遠慮に品定めしてくるのを軽く受け流し、逆に半兵衛もその人物の行動を逐一観察した。
 この態度、この行動、何よりも秀吉と小六の反応の仕方。
(………部下と上司の性格は似ると言いますけどね………)
 できれば自分と秀吉の性格は似ないでもらいたいものだと密かに嘆息する。秀吉にはっぱを掛けるのが総兵衛なのだから、せめて自分だけでも常識を保っておかないと歯止めがきかなくなってしまうではないか。
 男はすっと顔を上げて馬の首を数度はたいた。
「随分優男じゃねぇか。俺が想像してたのとは大分違うな」
「どんな奴を想像してたんですか?」
「てめぇが優秀な軍師だの何だのとそればかり報告してきやがるから、俺ぁてっきり図体のでかい大男かと思ってたんだよっ」
 秀吉と言い争いを初めてしまった人物に興味を持ちながらも、一方でかなり頭の痛くなる思いも抱えていた。
 部下も部下なら上司も上司。いや、あるいはその逆か。
 ため息ひとつ、苦笑を浮かべる。

「貴公も私が想像していたのとは多少異なるようですね。織田上総介、信長殿」

「………!」
 ぴたりと動きを止めて秀吉とその人物が顔を見合わせる。
「………喋ったのか?」
「喋ってませんよ」
 ゆっくりと男が半兵衛に視線を戻す。心地よい緊張感に身を委ねながら静かに微笑む。取り乱すことも焦ることもなく相対している半兵衛の姿勢が気に入ったのだろう。男は口元を歪めて笑うと菅笠を取り、手を差し出した。
「よく分かったな、俺が織田信長だ。よろしく頼むぜ軍師どの」
「誠心誠意を尽くさせていただきます」
 差し伸べられた手を握り返しながらも、生気溢れる表情とは裏腹に何故か寂しそうな目をした人だと感じた。




 近江への旅路はいたって長閑なものとなった。道ですれ違うものといえば出稼ぎに行くらしい商人と町人、他は野を走る動物くらいのもの。おそらくそういう道を選んで歩いているのだろうが、城勤めの窮屈さから逃れられて日頃見られない程穏やかな表情で秀吉―――おそらく信長も―――馬の背に揺られていた。
 思い出したように途切れ途切れの言葉を交わしながら先に立つ二人の姿を見ながら、半兵衛は努めて明るい声を出そうとした。
「なんというか………随分、おだやかな道行きとなりましたね」
「ああ、そうだな」
 隣で歩を進める小六もゆるやかに流れて行く景色を眺めては目を細めている。
「実際、付き人があんたでよかったと思うぜ。でなきゃこんなのん気な旅にはならねえからな」
「他にも同行した方がいらっしゃるのですか?」
「松平の若旦那とか光秀の奴とか、な。どちらの時もこうはいかなかったよ」
 小六の口から出た名前に少しだけ半兵衛は伏せかけていた瞳を開いた。
(松平………家康殿、か。幼い頃は織田の人質として過ごしていたこともあると聞く。その繋がりか。光秀公とは斎藤家の繋がりで知己となったのだろう)
 先程「京へ向かうのではないか」と聞いたのは光秀の存在を知っていたからだ。彼は朝廷と通じている。もし将軍が京へ向かうとするならば、おそらく織田はそれを足掛かりとして………しかし、それはまだ推測の域を出ていない。
 別の思いからも自嘲気味の笑みを零した。斎藤家―――美濃には苦い思い出がある。家中で「無能」と評されていた半兵衛が度重なる侮辱についに耐え切れなくなり、稲葉山城を乗っ取ったのがほんの数年前の出来事だ。無血開城できたから良かったが、かなり冷や汗ものの作戦だったといまでも思う。城内に人質として捕らわれていた弟に密書を送り仮病をつかわせ、見舞いに来た際に武器を隠し持ち城を乗っ取ったのだ。
 いまではその城に織田信長が住んでいると思うと不思議な心持ちがしてならない。

(あ―――いかん)

 手で口元を抑えて半兵衛は菅笠の下の眉をひそめた。
 ―――駄目だ、『総兵衛』の記憶を掘り起こしては―――。
「特に光秀と一緒の時はかなりつらかったな。信長と始終対立するものだから、俺も秀吉も対応に追われて休む暇もなかったくらいだ」
「それは………そう、でしょうね」
 伝え聞く明智光秀の人格は「真面目な好青年」であり「秩序を重んじるかなりの石頭」である。実際の面識はなかったが目の前を歩いている織田信長と到底反りが合うとは思えない。道中はさぞや二人の周囲を冷たい風が取り巻いていたことだろう。
『明智光秀って奴の存在は、その内に織田信長の足枷になるかもしれんな。なあ、半兵衛』
「―――」
 唇を噛み締めて頭の痛みに耐える。鳴り響く声に引きずられるようにして体温が急速に低下していくのが分かった。
 かなり、まずい。
「とかくあの二人ときたら張り合うために生まれてきたんじゃないかってぐらいの様子で―――………半兵衛先生?」
「は、い?」
「顔色が悪いぞ。やっぱ具合が悪いんじゃねぇか?」
「………」
「おい、本当に大丈夫か? どうしたってんだ」
 もはや返事をする事もままならず半兵衛は口元を抑えて顔を俯けた。体内に重い鉛が詰め込まれていくような体全体が冷水に浸されていくような感覚が自らを襲う。体中を汗が伝い落ちていくのに芯は冷えきっている。
(いかん、このままでは―――)
 指先の感覚など疾うにない。それでも気丈な笑みを見せてか細い声で呟いた。
「総兵衛が………起きてしまいました」
「なに?」
「お互い納得して眠りに就いていたはずなのですが、さすがに信長公の登場には驚いてしまいましてね。どうも………私の制御をはずれそうでまずい状況です」
 言葉を発する合間にも半兵衛の顔色はどんどん悪くなっていく。どうやら冗談事ではないらしいと小六も慌てた。
「しかし―――あんたと奴とは一蓮托生じゃないか。たかが入れ替わりの際の齟齬で何だってそんなに苦しまなけりゃならないんだ」
 尤もと言えば尤もなその疑問に半兵衛は努めて冷静に答える。浮かべた微笑みは何故だかひどく寂しそうなものだった。
「私よりも総兵衛の方が精神力が強いのですよ―――小六殿」
 堪えきれなくなり馬上で体を折り曲げる。手綱に縋りついた手は蒼白になり爪も色をなくしている。さすがに前を行く二人も気付いたのか、馬首を巡らしてこちらにやって来るのがおぼろげながらも分かった。半兵衛としては来ないでくれた方が有り難いのだがそんなの向こうには関係ない。
「小六、どうしたんだ?」
「急に腹ぁ抱えて蹲っちまって、俺にもワケが分からん」
「サル二号、てめぇ病人をムリヤリ引きずってきたのか?」
「まさか、俺だってそこまで鬼じゃありませんよ。おい、半兵衛。どうしたんだよ、おい―――」
 頼むから、ひとりにしておいてください………!
 と、叫びたかったができるはずもない。消えそうになる意識をどうにか現実に繋ぎとめておくだけで精一杯だった。
(やはり、一度入れ替わらなければ無理か………)
 相手が望んだならば自分は否応なしに強制送還されてしまう。体中の感覚が鈍り、世界からは色が失われて画像がぼやけ、なのに心に触れる「冷たさ」だけは実感できる―――。
 こういう状況に陥った時ばかりは肉体が二つ欲しいものだと心底願ってしまう。
 青ざめた顔にどうにか笑顔を浮かべ、最後の気力を振り絞って半兵衛は面を上げた。
「どうも、すいません―――ご迷惑をおかけするわけには参りませんので、どうか先にお進みください。私は小六殿と後から………」
「馬鹿を言うな、置いていけるわけがないだろう」
 そう言ったのは意外にも秀吉ではなく面識のあまり深くない信長の方だった。極力彼と目を合わせないようにしながら揺れる体をどうにか支え、足を地面に下ろす。両腕で馬の鞍にしがみ付く形をとって顔を伏せた。
 いま―――自分の瞳の色が変化していたらまずい。織田信長は勘が鋭いと聞いているから、きっとすぐに『総兵衛』の存在に気付いてしまうだろう。それでは駄目だ、秀吉との約定を違えてしまう―――。
 苦しそうに俯いている半兵衛の様子をしばし黙って秀吉は見つめていたが、不意に顔を上げるときっぱりと宣言した。
「信長様、小六と二人で先に行っていてください。こいつを連れてきたのは俺の一存です。体調が悪いようなら帰還させるなり何なり手を打ちますので。その方がこいつの神経も休まります」
「ああ!?」
 突然の提案に信長が苛立った声を上げた。
「もともと少数精鋭で来ているのを更に二分割するってのか!? 無駄もいいところじゃねえか」
「分かっています。けれど現状はこれが最良の策かと思われます………すぐに追いつきますよ。半兵衛はもともとあまり丈夫じゃないんで、注意してなかった俺の不手際です」
 あまりに理路整然と説明されるそれらの言葉に明らかに信長は不審を抱いたようだった。が、つめよろうとしたところを後ろから強く小六に一叩きされてよろめいてしまう。何ら変わりはないかのように小六は豪快に笑って幾度となく信長の肩を叩いた。
「まあいいじゃねぇか、秀吉がこう言ってんだ。病人の世話は任せて俺らはちょっと先の茶屋でのんびり飯でも食ってようぜ」
「んだとぉ、小六っ! てめぇ俺に命令するつもりか!?」
「提案だよ。なあ秀吉?」
「ああ、そうだな」
 小六と秀吉が視線を交わして含み笑いを漏らす。二人してかってに分かり合っているその様子に信長の苛立ちは最高潮寸前だ。
 その後繰り広げられた顛末はなかなかに見ものだったのだが―――生憎と半兵衛は怒鳴る信長も言い逃れする秀吉も宥める小六も観察している暇はなく、覚束ない足取りで街道脇の木に手をつくと根元に力なく倒れ伏してしまった。
 体が重い。冷たい。動かない。
 駄目だ、意識を保っていられない―――。
 秀吉と小六は信長を遠ざけるのに成功したのだろうか? せめてそれぐらいは確認してから消えたいけれど、既に視界は闇に閉ざされて感覚もぼやけてしまっている。

『すまない、半兵衛、すまない―――』

 と。
 耳元で総兵衛が苦しそうに謝った気がするがそれすらも何処か遠くへ流されてゆき。
 何ひとつ知覚することもできないままに『半兵衛』の意識は暗闇へと飲み込まれて消えた。




 どうにかこうにか信長を遠ざけることができて秀吉はひとつため息をついた。見るからに怪しげな素振りで遠ざけてしまったのだ、これは
(………後が怖いな)
 そうは思っても背に腹は替えられない。怒りまくる信長とそれを苦労して宥めている小六の姿が確実に見えなくなるまで待ってから後ろを振り向く。半兵衛は木に寄り掛かったまま身動きもしない。
 体調が悪いとは思えなかった。体が丈夫な方でないとは知っている。しかし調子を崩すのは大抵寒さの厳しくなる頃であって、こんな穏やかな季節、更に言えばこんなのんべんだらりとした旅で急病も何もあるまい。近付いて顔を覆ったままの菅笠に手を伸ばす。
「おい、半兵衛―――」
 瞬間。
 硬い音が響き秀吉の手は振り払われた。
「………」
 叩かれた箇所を抑えもせず呆気に取られて相手を見つめる。跳ね除けた時の衝撃で外れた笠の下から濃紺の瞳が覗いている。
 何だ総兵衛か、確かに半兵衛ならこんな真似はしないだろうと。
 納得しつつも心のどこかにしこりが残る。未だかつて見たことがないほど研ぎ澄まされた、刀の切っ先のような視線は―――。

「………何のつもりだ」

 ―――怒っている?

 低い問い掛けに総兵衛は何も語ろうとはしない。地に落ちた菅笠を取り上げて胸に抱え込む。痛みを感じているのかほんの少しだけその腕に力が込められた。思案しながら秀吉は総兵衛の正面に屈みこむ。
「一体、どうしたというんだ」
「ほっといてください」
 告げられた言葉はひどく素っ気無く、常の彼からは想像もできぬぐらい敵意に満ちていた。何の説明もなしにこんな対応をされては秀吉とて腹が立つ。俯いたままの総兵衛の胸倉をひっつかんで無理矢理上向かせた。
「一体、どうしたのかと訊いているんだ!」
 脅しや恫喝に怯えるような相手でもない。常に蒼さを失わないその瞳はいっそ抉り出したくなるほどの憎しみを心中に掻き立てさせた。そんな思いを知ってか知らずか、総兵衛は秀吉の手首を掴んで力任せに引き剥がした。
「勝手に触れないでいただきたい」
「なんだと?」
「側に来てほしくもなかったし話し掛けられたくもなかった。心配など虫唾が走ります。思い上がりも甚だしい。この身体に触れないでいただきたい」
 これ以上はないくらいの拒絶の言葉と瞳に苛立ちが増す。長いとはいえないが短いともいえない付き合いの中でも総兵衛のこんな態度は初めて見るものだった。黙って見つめているとふとその視線が和らぎ、悲しげに地面に落とされた。細く、消え入りそうな言葉が紡がれる。
「頼むから………ほうっておいてはくれませぬか。神経がささくれ立って死にそうになる―――」
「ダメだ」
 漸く漏らされた本音らしきものを無碍に否定してやる。意趣返し、というわけではなく。
「冗談でも『死ぬ』というのはやめろ。そんなことを言う限り何処までも邪魔してやるからな」
 口調はどこまでも素っ気無く冷たかったが、何かを感じ取ったのだろう。俯けていた視線を上げて漸く総兵衛は笑みを見せた。いつものよりも遥かに弱くて痛々しいそれを。
 抱きしめるようにしていた菅笠を外し、視線を逸らして呟く。
「何故………」
 抑揚のない声と感情のこもらない言葉、『総兵衛』にはあまりにも似つかわしくない口調。
「何故、信長公が同行することを黙っていらしたのですか?」
「何故って、それは」
 やや拍子抜けした感じで秀吉が答える。何かもっと深刻なことを言われるかと思っていたのに。
「殿が同行するということは本当に秘中の秘だったからな。―――信用していなかったわけじゃない」
「ならば、いまひとつの問いにも明確な答えを頂きたい」
 取り繕ったような言葉に総兵衛が深刻そうな面持ちをする。こいつでもこんな表情ができたのかと場違いな感想を心に抱いた。互いに探るような視線を送りながら脳裏で必死に考えを巡らす。
 木にもたせかけていた背を僅かに起こし総兵衛がゆっくりと口を開いた。

「何故に信長公の前で総兵衛の存在を消したがるのか―――その、理由を」

「存在を………消す?」
 穏やかならざる言葉に秀吉の目つきが険しくなる。
『誰』が『誰』を消そうと思っていると言うのか。冗談にもほどがある。
「そんなこと企んではいない。お前の思い違い―――」
「貴殿はご存知のはずですな。総兵衛と半兵衛の関係を」
 秀吉の言葉を打ち消して半兵衛が強く言い放つ。顔色が悪いのは確かに体調が優れない故もあるだろうが、それ以外の原因もあるように感じられた。
「知っている。お前たちは二人でひとりだと、だから」
「だから普段は半兵衛がこの身体を使い、総兵衛は奥に篭もっている―――特に理由がない限り出てこようとも思いませぬ。それが半兵衛の身の危険に及ぶことならば、尚更」
 物憂げな表情を少しばかり横へと流す。その先には青く連なる山並みが連綿と続いている。
「人が生きていく為には、『欲』が欠かせないのでしょうが―――」
 語りだした言葉は突拍子もないものに感じられて、秀吉は少々戸惑った。それ以前に内容自体があまりにもこの人物に似つかわしくない気がして不思議になる。
 普段から飄々としていて捕らえどころがなくて、世間一般の欲望や渇望から程遠いところにいそうなコイツが何だって………。
「総兵衛は『内』に篭もるに当たって殆ど全ての感覚を捨てました。自らの意志のみで動くことができないのに煩わしい思いを抱いていても邪魔なだけですから。総兵衛にとっては地位や名誉や名声、引いては食欲や性欲さえくだらぬもの。ただ―――心中で物事を考えうる知識との繋がりがありさえすれば」
 濃紺の瞳がほんの一瞬、暗い輝きを帯びる。

「そして、その知識欲ひとつだけで半兵衛を『殺せる』」

「………何だって?」
「強く願えばそれだけで総兵衛は半兵衛の意識を『消せる』のです。意識の反復、強い好奇心、精神的な衝撃などを胸に抱いただけで互いの意志に関わりなく強制的に『交代』してしまうのですよ。此度もその例に漏れはしません」
「………」
「………秀吉殿」
 総兵衛はひどく言いにくそうな顔をしながら若干居住まいを正した。
「今更そんなことを言うな、と叱らないで下さいよ。語るまでもないことかと黙していたのはこちらですから、咎められても詮方なきこととは承知の上ですが―――」
 それでも、とやや言葉を区切った後で続ける。
「出来る限りのことは半兵衛に話してくださいませ。全てとまでは申しません。知りたくもないですし―――けれど、こんな取るに足らぬ下らない事情で軍師を喪ってしまっては馬鹿らしいにも程があるでしょう」
 普段とは違い総兵衛の面には苦渋の色が濃い。彼自身にとってもつらい話なのだろう。何が悲しくて自分の知識欲のために―――それだけが自分に許された唯一の思いであろうとも―――血どころか肉まで分け合った兄弟を『殺す』羽目に陥らなければならないのか。
「確かに………な」
 ひっそりと答えて秀吉は押し黙った。
 静かな時が二人の間を横切っていく。風が幾度かすり抜けた後、やや体調が復活したのか、改めて総兵衛が問い掛けた。
「ところで、まだ回答を聞いていない気がするのですが」
「あ?」
「何故、総兵衛は信長公の前に出てはいけないのですか? 進んで出たいとも思いませんが、わざわざ念を押される理由が分からない」
 ぴっ、と軽く指を秀吉に突きつけられ、濃紺の瞳で真っ直ぐ正面から見据えられる。
 どう返事をしたものか迷う。何故と聞かれて、それに対する答えは確かに存在している。けれどそれはひどく自分勝手な願いで、あるいは主君すらも裏切るものかもしれず何よりも―――何よりも、眼前の人物を傷つけることにもなるだろう。かといって誤魔化すこともできそうにない。
 仕方ないので当たらずとも遠からずな答えを返しておいた。
「………道具扱いされることも、誰かの面影を重ねられることも嫌だろう?」
「………はい?」
 総兵衛が怪訝な表情を浮かべる。
 これからコイツを騙さなければならないのかと思うと、やや心が痛んだ。
 些細な嘘だ、すぐにコイツはそれを見破る。多少怒りはしても、最終的には何でもないことのように受け入れて笑うのだろう。
 それでも、いつか。

「―――お前は………似ていなくもないからな、あいつと」

 この時の選択を―――後悔する日が来るのだろうか?
 数回、総兵衛が目をしばたかせた。『誰』との明確な名指しのない回答に少しだけ首を捻って、漸く思い当たる節があったのかこめかみに手を添えつつ呟く。
「………似て、るんですか?」
「いや、全然」
 即、返ってきた答えに総兵衛が項垂れた。
「あのですねぇ」
「あいつがお前ほど賢かったら、苦労はなかったんだよ」
 いつもと違い、総兵衛を手玉にとれたことが嬉しくて我知らず秀吉の頬が緩む。
「お前の方が背も高いし家柄もいいし、文武両道だしな。説明しにくいが、それでもお前はどこか少しだけでも―――」
 誰も傷つかずにすめばいいとか最小限の被害ですむようにしたいとか、敵は殺さず仲間に引き込むべしとの持論とか。
「考えが変にかすってるだけでも嫌なんだよ。きっと………殿もな、そう、思うだろう」
 探るような目線からツと顔を逸らした。
 遠くの山々を眺めながらコイツの考えを逸らす事ができただろうかと思う。語ったことは紛れもない本心だが―――そうでなければすぐに見破られる―――それで全てというワケではない。
 本当は、もっとずっと、ひどいことを考えている。誰よりもひどいことを望んでいる。
 自分がされて嫌だったことを、コイツに押し付けようとしている。

(それでも望むのか―――俺は)

 コイツを。
 道具として、代わりとして、扱うのか?

「………のですか」
 しばしの沈黙の後でそっと総兵衛が囁いた。あまりに小さなその言葉が聞き取れず、秀吉は姿勢をもとに戻した。相手の眼光を正面から受け止めることに多少の気まずさを感じながら。
「あなたも、そうなのですか」
 ゆっくり、確認するように総兵衛が繰り返した。
 微妙な問い掛けに僅かながら秀吉の眉が動く。
「あなたも、そうなのですか」

『あなたも』―――総兵衛と半兵衛に居もしない人物の面影を重ねているのか。
『あなたも』―――「誰か」によって面影を重ねられていたのか。

 問い掛けはどちらの意図で紡ぎ出されたものなのだろう。
 答えられずにただ秀吉は口を噤んだ。すると総兵衛が表情を緩めて、仕方ないというような、許しを与えるかのような微妙な笑みと共に視線を横にそらした。
 そして、『答え』をもズラす。
「ひとつだけ―――言っておこうかと、思いまして」
 コイツは。
(………妙なところで甘い、よな)
 明らかに逸らされた内容に安堵するのを感じながら、そんなことをチラリと思った。
 最後の最後で逃げ道を残しておく。その態度は優しさ故なのか、精神的余裕なのか、あるいは。
 問い詰めるまでもない相手だと―――。
 真剣に語らう相手ではないと思われているのか。
「いまでもなく、後でもなく―――『いつ』という時間の特定はなしに、もし貴殿が総兵衛かあるいは半兵衛に」
 濃紺の瞳が空を映して僅かに薄くなっている。
「何方かの影を重ねることがあれば―――あなたのもとを離れます」
「………何?」
 横にそれがちだった思考が現実に向き合い、目の前の人物を直視する。相手は恐れ気もなく自分を見つめ返し、あっさりと言ってのけた。

「総兵衛たちはいつでもあなたのもとを去る用意がある、と申し上げたのです」

 今日はいい天気ですね。
 ―――なんて、のん気な話でもしているような口調で告げる。
 そっと掌を組み合わせ、そろえた人差し指で軽く秀吉を指し示す。表情は変わらず平然としていて何の色も窺えない。
「怒らないでくださいよ? 確かに半兵衛はあなたの部下ですし、力を尽くすとも約束しました。けれどもそんな拘束、『総兵衛』には何の意味もない。総兵衛は秀吉殿に協力するだけの義理はあれども義務など感じていないのですから」
 無邪気に浮かべた笑みは率直過ぎて………怒鳴り返そうにもきっかけが掴めない。
 自分は道具として扱われるとも、目指す道が同じである限り主と共にいようと思った。たとえそこに、此処にはいない誰かの面影を求められているとしても。
 けれどこいつは………願う願わない以前にあっさりと。
「あなたが誰かの影を重ねるというのなら、それは半兵衛でなくてもよいこと。いる意味がない処に居続けようとは思いませぬ。総兵衛も半兵衛も、本当は何処かに旅立ちたくてたまらないのですから」

 立ち去る―――のか。
 ひどく傲慢に潔く、輝かしくも妬ましいほどの強さで。

「―――何が言いたい?」
「忘れないでいてほしいだけです」
 深い深い紺の色をした瞳が、薄茶色の瞳と交錯して僅かに揺らぐ。
「総兵衛たちがあなたのもとを去っても、それがいつであっても、どんな状況下であっても、何ら不思議なことではないのだと―――」
 淡々と紡がれる言葉は、あの預言者の声を彷彿とさせる。
 未来を、先の展開を全て知っていたが故に静かな悲しみを湛えていた―――こころの奥底を見抜いていたような、あの、女性の声を。
 彼女とは異なる色をした瞳が秀吉を見つめている。

「あなたを守るための刃が、あなたを傷つけることもあるのだと―――それだけは………忘れないでください。秀吉殿………」

 ともすれば消えそうな程にささやかな声で囁いて、微笑みながら目を閉じた。




 ―――何があったのだろう。
 それが半兵衛の正直な感想である。昼間、秀吉との約束にこだわる意志と、好奇心を抑えきれずに顔を出そうとする総兵衛の意思との争いに敗れて、半兵衛はいまのいままで気絶していたのである。その間、身体の方は総兵衛が上手く取り繕っていたらしくバレたような様子はない。俯いて口数が少なくとも、気分が悪いのだと思われていれば然程支障はない。
 気になるのは自分が意識を失っていた間、秀吉とどんな会話を交わしていたのかということである。
 半兵衛が『目覚めた』時、何処となく秀吉の様子がおかしかった。時折り何か言いたそうにこちらを見つめていたから、多分自分たちに関することだろうとは思うのだが。
 普段と違い半ば強制的に精神の交代が行われた場合、その間の半兵衛の記憶はない。一般人が気絶している間のことを覚えていないのと同じである。半兵衛が起きていて総兵衛が気絶していた場合も同様だ。
 街道沿いの宿場町に身を寄せて皆が寝入った頃ひそかに半兵衛は起きだした。何があったのか総兵衛を問い質すために。
 ―――が。
 先程から総兵衛はのらりくらりと言い逃れをしているばかりで全然答えようとしない。もしかしてまた不敬を働いたんじゃなかろうなと余計な心配ばかりが募ってしまう。
(本当に何もなかったんだろうな?)
『だからそう言ってるだろ。別に喧嘩したとかそんなワケじゃないんだ。もっと「自分」を信用しろよ』
(出来ない)
『あのな………』
 縁側から見上げる空は朧月夜。歩けば少しばかり軋んだ音を立てる、立て付けの悪い安宿だ。こんな所に戦国大名がとまっていると知れたら大変なことになるだろう。
(お前、その手で何度私を騙したと思ってるんだ?)
『総兵衛が半兵衛の不利になるようなことをすると思ってるのか? 横暴だっ、偏見だっ、引きこもるぞ!』
(普通に答えればいいんだ、普通に。やたら言い逃れしようとするから疑惑が深まるんだろうが)
『―――もういい、答える気なくした。総兵衛はもう寝るからな。明日の朝まで起こすなよ?』
(最初から答える気がなかったくせに何を言っている)
『うるさい………じゃあ、またな』
 半兵衛の呆れたような声を残して、総兵衛はとっとと『奥』に引っ込んでしまった。この分では明日の朝まで何があろうとも出てこないつもりだろう。
 ため息をひとつこぼして、廊下に滲む自らの影に視線を落とした。
 こうして多少の争いを繰り返しながらも決して半兵衛と総兵衛の仲が壊れることはない。離れて存在することができないという必然的理由も当然介在しているだろう。けれどそれだけではなく―――先の言葉にもあったように『互いの不利になることはしない』と分かっているからだ。互いの立場も状況も『自分』だからこそよく分かっている。事実、総兵衛が内側に篭っているのは半兵衛の体裁を考えてのことであるし、逆に秀吉や小六などの前では総兵衛を優先的に出しているのも半兵衛の心遣いである。
 互いが大切なのはいい。けれど、それが相手の望むものなのかというと難しくなってくる。
 望む方向に向かっていても、片割れから見ればそれは破滅への道と思えるかもしれない。その場合はおそらく相方の意思も顧みず、その命を守ろうと行動するだろう。その感情が保身から出たものではなく、純粋に相手を心配してのことであるという辺りが何ともやりきれなくてややこしい。
(何故なのだろう)
『同じ』と判断しても差し支えないほど自分達の間の齟齬は少ないのに―――すれ違うこともある。
(………どうしてだろう)
 自分達がひとつの肉体しか持っていないのは。
 個別に行動する事が出来たなら、まだ何かしらの選択が存在しえただろうに。
(私は………何を求めている?)

 自らの片割れの思考すら読みきれないというのに、胸の奥底で何かを切望している。
 その思いの名前は知らないが―――どう行動したいのかは分かっている。

 頼りない足取りのままに半兵衛は廊下の柱に手をかけた。そこを基点として音もなく屋根に飛び上がる。初春の真夜中の寒さが薄絹一枚の身を貫いたが、それすらも気にせずに屋根の一番高いところまで歩を進めた。
 見渡せば途切れながらも繋がりを保っている家屋の数々が鈍い月明かりの下で静まり返っていた。
 寝転がり、屋根瓦の身を切るような冷たさを直に感じる。
(総兵衛が不敬を働いたのではないかと心配したが………私も同じだからな)
 責められたものではない。
 稲葉山城を落とした罪で美濃を離れ、あてもなく彷徨っていたとき。
 浅井長政の居城で軍師になるよう勧められながらも、それを断って菩提山に蟄居していたとき。
 誰にも縛られず、煩わされることもなく、自らの思考は自由だった。
 いまは違う。織田の勝利を、秀吉の出世を、小六やその他の仲間の身を考えて行動しなければならない。
 地位を捨て、一族を捨て、名を捨てて………終には己という存在の意味すらも忘れて。
 何も望まず何も求めず、何も考える事もなく彷徨っていたあの頃に戻りたい衝動が思い出したようにこの身を襲う。
 今更そんなことを思うのは秀吉に対する裏切りにも等しいだろう。何しろ自分は彼に仕えると確かに誓ったのだから。

 ―――その主と、いつの日か袂を分かつかもしれないと?

 どうしようもない人間だ、と瞼を閉じたとき。
「―――こんなところで何やってんだ、テメェ?」
 低い声が闇の合間に忍び込んだ。
 少しの驚きと共に視線を足元へと向ける。屋根の端に手をかけて主人の主人が不敵な笑みを覗かせていた。呆気に取られている内に、歳の割りに機敏な動きで屋根の上まで這い上がり、半兵衛の隣に陣取る。内掛け一枚という軽いいでたちではあるが、きちんと帯刀している辺りが己との違いだろうか。
「………そちらこそ、こんな夜更けにどうなされたのですか、信長公」
 相手は口の端を吊り上げて笑った。
「目が覚めたら布団が一組空いてやがった。ちょいと気になったから部屋の外に出てみたら、誰かが屋根の上にのぼる姿が目に入ったってワケだ」
「自らで確かめなくとも秀吉殿や小六殿を起こせばよろしかったのではありませぬか?」
「俺はやりたいようにやる。周囲の意見なんて関係ねぇよ」
 迷いもなく答えられてしまい苦笑せざるを得ない。
(なるほど、これでは秀吉殿が苦労するわけだ)
 確かに、行く先をいちいち部下に告げていく上司などおりはすまい。ただでさえ独断と偏見に満ちていると噂されている信長のことだ、何も言わずに出かけ、前触れもなく帰ってくるのが常なのだろう。
 だからこそこんな忍びの旅も比較的簡単に計画できるのだろうが―――。
 もう少し、自覚というものが。
「おい、てめぇ。いま何かムカつくこと考えてやがっただろ?」
「とんでもございません」
 素知らぬ顔をして空の彼方を見つめる。先程までの強い郷愁を誘うような感覚は消え去っていた。それに安堵しつつも寂しさを覚える。
 互いに無言のまましばしの時が流れる。
 何か思い出したかのように信長が言葉を発した。
「………そういえば」
 返事はせずに、静かに顔だけを相手へと向ける。
「てめぇは、臣下の礼をとらねぇんだな」
 ああ、と納得したように半兵衛は微笑を浮かべた。
 いくら『客人』の体裁をとっているとはいえ、信長が自分の上司であることに変わりはない。本来ならこうして肩を並べることなどあってはならない。よしんばそんな機会があったとしても同じ高さに身を置くなど恐れ多い。自らが一段下にさがるか、ひれ伏してその意向を伺うか。それしかないのである。
 けれど半兵衛は一定の距離を保ったまま座を控えるでもなく敬意を表するでもなく、淡々とそこに存在している。
「とってほしかったのですか?」
 と言うよりも、半兵衛自身が進んで臣下の礼をとらなければならない立場なのだが。
(さて、どうしよう)
 気取られぬように内心だけでほくそ笑む。
「この旅は公式のものではないのでしょう? そしてまた、内密で敵地を探るだとか誰かと密会するなどの謀略に基づいたものでもない………あくまでも私的な旅なのだと」
 信長が眉をひそめ口をきつく引き結んだ。寝転がったままだが先よりも威圧感は増している。
「そうである以上、私と貴殿との関係もまた公的なものではありえますまい。織田に組する際に掲示した条件の通り、私の身分はあくまでも織田の『客分』、木下藤吉郎秀吉殿の家臣としてならば仕えようと。私的な場面にまでそれを応用しようとは思っておりませぬ」
「―――俺の部下じゃねぇ、だから臣下の礼もとらねぇってことか」
「解釈は如何様にも」
 白々しく会釈だけを返して微笑む。信長に不敬を働けば秀吉にまで害が及ぶかもしれないと少しは考えたが、この程度のことで部下に八つ当たりするような主なら、最初から秀吉がついて行くわけがないと知っている。
 読みどおり信長は特に機嫌を損ねた様子も見せず不敵に笑っている。夜の闇に紛れ見えない表情の下で何を企んでいるのかは知れないが、それはこちらとて同じことである。
「………じゃあついでだ、もうひとつ聞いておくぞ」
 伸ばした指先はあてもなく空を指している。
「何故てめぇは折角手に入れた稲葉山城を手放した? それから、俺が次に招聘した時も拒否しやがっただろうが」
 いままでに二度、半兵衛は信長の誘いを断っている。初めは稲葉山城を乗っ取った時、どんな好条件を出されても応とは言わず主に城を返して出奔してしまった。二回目は信長が美濃を滅ぼした時、再度の誘いにも関わらず弟の久作を部下に推すのみで自らは菩提山に蟄居してしまった。
 公的には不問に処されているこれらの件に関して改めて聞いてきたということは、取りも直さず現状が『無礼講』であると信長が認めた証なのだろう。
「別に大した意味はありませぬよ。文にしたためた通り、私が城を奪ったのは龍興殿に現状を理解して頂くため………それさえすめば返すのが道理というもの。そしてその時点で私は美濃と縁をきったのです。ならば美濃が落ちたからといってすぐに従うというのも話が違うでしょう」
「いちいち理屈っぽいな、てめぇは」
 信長が舌打ちした。
「秀吉相手にもそんな口調で相手してるってのか? よく付き合ってられんな、あの野郎は」
「もう少し打ち解けていると思いますよ、秀吉殿に対しては。尤も―――主従の関係である以上、一定の礼儀というのは割り込んできてしまうのでしょうが」
 少しだけ口元を緩めて薄い暗闇の瞳で彼方を見つめた。視界の隅で信長が身を起こしたのがわかった。そういえば、この人は刀を持ってきていたなと思い出す。その気になれば彼は自分を切り捨てることができる………あまりにも無意味だからしないだろうが。
 素直に殺されるのも馬鹿らしかろうな、と不遜な考えを内に秘めて横の人物を眺めた。月光によって克明に浮かび上がった姿は影が強く表情すら判然としない。確かめるために腕を伸ばしたところで触れることは叶わぬだろう。
「………人と人との距離は、難しいものですね」
 若干、体を傾けて置いてあった刀に手を触れる。信長は目つきを鋭くしたが特に何も言わなかった。
「例えば私と貴殿との距離は他人にも等しい。無意識にとった距離には案外真実が現れているもの。本当に親しい者とならば自然と………手の届く範囲にいるのでしょうね。殴ったり蹴ったりできる距離と言ってもよろしいのですが」
(………おや?)
 ふざけ混じりに言い終えた瞬間、半兵衛はかすかな驚きを覚えた。信長が実に「奇妙」な顔をして見せたからだ。驚いたような悲しんでいるような不機嫌なような、どれとも判断のつけようのない、それでいて全てであるような感情の波がその面を掠めたのである。それらはすぐに大波にかき消される漣の如く消えうせてしまったが、そのとき見せた一瞬の戸惑いが記憶の底にわだかまりとなって残った。
「―――てめぇの言い方は回りくどくて腹が立つな」
「ならば、もっと単純な話をいたしましょうか」
 わざと挑発するかのような調子で言葉の端に笑いを含ませる。先ほどの惑いの影を既に隠しおおせている信長に、少しばかり苛ついたということもあったのかもしれない。
「貴公は秀吉殿の上役でいらっしゃる。ですから、私にとっても上役に当たると言うのは先ほども申し上げたとおりです。しかし私的な場では事情が異なってくると、それも申し上げました」
「それがどうした」
「ですから………」
 蒼く降り注ぐ月明かりの下で華やかに笑う。
 ―――かつて、「お前は笑うことで無意識の内に人を誑かしている」と言われたことがある。半兵衛自身はそうかもしれんと頷くのみだったが。あっさり騙される方が悪いのだと言えなくもないのだ。それにいまはそんな柔な精神の持ち主が話し相手でもなかったし、狙って行ったところで意味はない。ただ、そんな猪口才な手で彼に相対したくはないなとの意地は働いていた。
 刀に触れていた手に力をこめて持ち上げる。柄の部分は信長に向けられているから何ということはない。しかし相手にしてみれば随分と不遜で思い上がった行為に映るだろう。
「公的な場で貴公が私を罰しようとするならば甘んじて受けましょう。物事の是非は問いませぬが、自らが絶対的に正しいなどと思い上がる真似もしたくはありませぬゆえ。その場で斬り捨てられても一向に構いませぬ。しかし、それが公的な場ではなく、更に理由すら納得できないとしたならば………」
 手のひらを返し、勢いをつけて回転させた刀の柄を自らが握る。鞘で覆われた鋭い切っ先を闇の中おぼろに浮かぶ相手に突きつける。

「私も刃を抜き斬りつけるでしょう。大人しくやられるのは性にあいませんからね」

 風がとおりぬけ、長い髪を揺らめかす。
 月陰がさやかになるのに引きずられたかのごとく、信長は唇の端を歪めて笑った。
「―――なかなか面白いこというじゃねぇか。それがてめえの本心か?」
 上体を起こし向けられた鞘の切っ先を掴む。取り返そうとする動作を止める理由は半兵衛にはない。信長が刀をもとどおり手元に戻すのを黙って見つめていた。
「可能性のひとつですよ」
 半兵衛も笑う。
「勿論いま、この身は秀吉殿に属していますから―――すぐに立ち去るということはありません。けれどそれは、『決して』立ち去らないことと同義ではない………」
 常に何かが胸をざわめかせる。どこかへ行きたいような、消えてしまいたいような。
 名前さえも時に無意味なものに思える。
 その空虚で満たされた感情が我が身を支配した時どうなるのかは、自分でもわかっていないのだ。
「いつまで残るとも、いつ離れるともいえませぬ。けれど仮初にも私を部下として召抱えているつもりならば忘れないでいただきたいのです」
 これまでと違い、意志が薄れかかっているような半兵衛の言葉に信長は僅かに眉をひそめた。強固な人格を持ち、明確な意思と感情を持って相対していたものの印象が途端に希薄になっていく。姿形はそこにあるというのに集中していなければ闇夜にまぎれこんでしまいそうな錯覚を覚える。
 色のない薄い闇の瞳だけがまっすぐ信長を見据えていた。

「確実なものごと、変わらない出来事など何もない。だからこそ、貴公を守るための刃が貴公を傷つけることもあるのだと―――それだけは。どうか、お心に留めおきください………」

 ともすれば消えそうな程にかすかな声で囁いて、微笑みながら目を閉じた。




 初春を感じさせるおだやかな日差しが木漏れ日となって道の合間をうずめている。吹き抜ける風の中にも、こころなしか花の香がまぎれこんでいるようであった。遠くに飛び去る鳥の姿に目を細めながら、同時に向けた視線の先の人物にばれない程度の笑みを浮かべた。
(………嫌われたかもしれませんね)
 だからといって気にするほどのことでもない、と半兵衛は思う。だが前を行く人物―――信長の横でときおりこちらを伺い見ている秀吉にだけは多少悪いことをしたかと気の迷いを感じなくもないのだ。部下と上司が争わないのならばそれにこしたことはない。たとえ、いざとなれば上司を選ぶことが誰の目にも明らかであろうとも。
 一言、二言と彼らが交わす言葉の間に何があるのかは知らないが、こちらに関することに違いはなさそうだ。秀吉がこちらを振り返るのはおそらく信長から昨夜の会話の内容を聞かされたからであり、かつ、それが望ましい内容でないからなのだ。
『なあ、いったい信長と何を話したんだ?』
(お前とて私に隠し事をしているだろう。だから、言わぬ)
『けちだな、全く』
 お互い様なことを胸中で呟きあって総兵衛は奥に引っ込む。まるで日の光を厭う獣のようだ。
 振り仰いだ空の青さがきつい。まだ本調子ではないようだ。並んで馬を歩かせていた小六が心配そうに笠の中を垣間見てきた。
「どうした? まだ調子でも悪いのか?」
「いえ………大丈夫です」
 軽く笑って答えをかわす。
「それより、そろそろ目的地なのでしょう? 琵琶湖でしたよね」
「当たりだが正解でもねぇな。琵琶湖は琵琶湖でも、延暦寺にほど近い一画だ」
 意外な回答に半兵衛は多少の驚きを禁じ得なかった。織田信長の宗教嫌いは有名だ。だから、その人自らが宗教の総本山に用があるとはさすがに考えていなかったのだ。まさしく盲点である。
「寺に何の用があるというのです?」
「目的は寺自体じゃねぇ。だから、本当の目的地は『琵琶湖』っつってもなんら違いはねぇんだよ」
 小六の言葉を聞きながら半兵衛は指先で笠をやや持ち上げて、前方を透かし見た。
 目的地が琵琶湖であることに間違いはない。延暦寺に近いという点が若干の疑問点として残りはするが、信長が何らかの繋がりを寺との間に所有していると想定すれば別に不思議でもない。
 となると、いよいよ問題として差し迫ってくるのは琵琶湖に何をしにきたのかという根本的問いかけだけになる。そもそも自分は何を目的として、何のために此処までつれてこられたのかわかっていない。秀吉は「本物の真昼の幽霊に会える」と言っていた………その真意もわかる時がくるのだろうか。
(もっとも………私にできることは最初から限られていますが、ね)
 眼前で起こる出来事を受け入れて、受け止める事。それだけが己の役割であろうと。
 ほんの一瞬、胸にわきおこった不吉な雲を払いのけて半兵衛は馬の歩調を速めた。

 

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