「なかなかに面白い奴ではあるな。それは認めてやらぁ」

 そう、手綱を操りながら主君は言った。

「昨夜は二人ともいませんでしたが………まさか、あいつが何か?」
「心配すんな、毒にも薬にもならねぇ話をしただけだ。公の場で告げられたならぶった斬りたくなるような内容だったけどなあ」
 口元に手をあてて眼光を鋭くする姿は、笑っているにしても充分に恐ろしさを感じさせる。こちらを見て実に面白そうに告げた。
「イザとなったら俺にすら歯向かうそうだ。この俺にだぞ? 温和な顔して過激なこと言ってくれるぜ」
「………」
 あの、馬鹿。
 胸中でひとり愚痴た。
 平和主義だか好戦的だかわからない、時に強烈な発言をかましてくれる奴。後ろを振り返れば小六とのんべんだらりと話しこんでいる。人の気も知らないで結構なことだ。
「それですぐ切れるほど俺もガキじゃねぇ―――挑発には乗ってやらねえよ。そう理解した上で更にけしかけてくるから腹が立つけどな」
 聞く限りでは相対していたのが『どちら』なのか判断がつかない。『どちら』でもやりそうなことだと………若干の諦観も含まれてはいるのだが。
「飼いならせれば面白そうなきつねだが、下手すりゃこっちが裏をかかれる―――お前にやれるか?」
「ご命令とあらば」
「なら、もうひとつ命じておいてやろう」
 人の悪そうな笑みを閃かせて彼が笑う。
 本心なのかおふざけなのか判断つきかねるのもいつものこと。

「裏切りそうになったら、その前に殺せ。裏切る素振りを見せただけでも殺せ。躊躇している間に寝首をかかれる………使い切れない道具ならば壊すが吉だ」

 操りきれない切れすぎる刃。扱えぬからといって捨てたとしても、それを他者に拾われてしまえば意味はない。
 使えないならば壊すのみ。
 再度振り向いてみれば話の対象はあどけない笑みを浮かべて空を見上げている。

 ………こんなとき、あいつならどうするのだろう。どう答えるのだろう。

 主君を諌めるか、相手を逃がすのか、素直に頷くのか。
 とうに消え去った半身に呼びかけたところで応えはないと知っている。

 ―――お前なら、どうするんだ? 藤吉郎。 
 何処まで行ってもお前は俺の疑問には答えない。

 そして悩むままに自分はただ首肯する。

「―――わかりました、信長様………」

 


きつねつき ― 後編 ―


 

 右手に琵琶湖畔を望みながら馬を徒歩で進める。すぎゆく風の中に春の気配はあれども、みなもを伝わる為か未だ涼やかさが先に立った。
 はぐれぬよう最後方から微妙な距離を保ちながら、見えてきた景色に眉をひそめる。琵琶湖の近くにある寺としては比叡山が有名ではあるが、どうやら直接そちらに出向くわけではなさそうだ。湖から身を隠すようにして木立へと分け入り、たどり着いたのは古びた小さな建物だった。寺には違いないが打ち捨てられて久しい、小屋と称した方が正しいぐらいの荒れ寺で、大名が進んで逗留するにはえらく貧相な造りである。手近な宿場町に泊まることさえ厭う、念の入れようは大したものだ。
 何を恐れているのだろう。何を知られたくないというのだろう。
 事ここに至っても未だ自らの招かれた意味さえ把握していない半兵衛には、いささか居心地が悪かった。
 それに何故か―――湖が見えるようになってからこっち、妙に神経が昂ぶっている。いよいよ本番だという意気込み故ではない、内臓が熱く煮えたぎってくるような、力強い風で常に内部を煽られているような、なんともいえない不思議な感覚が体内を駆け巡っている。ここに居る理由もわからないのに肉体だけは『何か』を感じている。
 ………落ち着かない。
 寺の中からこざっぱりとした僧衣を着こんだ男たちが数名、顔を覗かせたので、出迎えぐらいはされるのだなと頷いた。馬を小坊主に預けて、そっと小六の後ろから呼びかける。
「これからどうしようというのですか?」
「………夜まで待たなきゃならん。だから、それまでは仮眠だ」
「仮眠?」
「飯の用意も頼んである。食べたら一眠りしておいた方がいいぞ。―――結構、『くる』からな」
 何が『くる』というのか、口止めされている彼の説明ではわかるものもわからない。通された部屋の床の軋みに興味深く目をきらめかせ、それでも半兵衛の足取りは軽かった。夕刻というにはまだ早い時間帯ながら早々に出された膳を食す。歓待してくれる老いた僧侶に信長が呼びかけた。
「どうだ? 最近は」
「そうですなあ………まあ、何も変わりはしますまい。あなた方が来られてより更に幾年か、うつろうは花の色、木々の葉、ひとのこころ。わしの頬にのみ年月が刻まれましたわい。多くのものが忘れ去られてゆきますが、はて、とどめおくことがしあわせなのか何もかも無かったことにしてしまうが吉なのか………迷うところではありましょうな」
 静かな笑みをもらす僧侶相手に信長は皮肉そうに口元を歪めただけだった。説明してくれる気配など微塵もない大名はこんな感じだし、小六は小六で飯をかっこんでいるし………と首を廻らせて、丁度正面に座している秀吉の顔色の悪さに箸を止めた。出された食材にほとんど手をつけないで、お愛想程度に箸で表面をなぞっている。口にするのは差し出された酒のみだ。それすら舐めるようにするだけで飲み干すなどという真似は死んでもしようとしない。
『気付いてたか? 秀吉殿は朝もあんな感じだった』
(勿論。だが―――理由はわからん)
 まるで精進潔斎しているかのような行動に疑念が募る。箸をおろし、食べるのをやめた。小六が口を挟む。
「………食べておいた方がいいぞ。付き合っていたら身が持たん」
「ありがとうございます」
 正面の二人には聞き取られぬよう細心の注意を払いながら微笑んだ。
「けれど………こうしたいものですから」




 あっさりとした食事を終えた三人はさして広いともいえない次の間で仮眠をとることとなった。しかし時刻は未だ夕暮れにもやや早く、眠れといわれたところで「はい、そうですか」と熟睡できるはずもない。ぼんやり天井のシミでも数えながら身体を休めておけばいいのだろうが、折角遠出してきたというのに時間が勿体ない。信長と小六は慣れたものでとっとと眠る体勢に入ってしまっている。むしろを引いただけの粗末な造りの部屋で眠るなど、お貴族さまにはとてもできない芸当だろう。野武士あがりの小六なんて返ってこちらの方が気楽そうだ。
 半兵衛自身もあばら家暮らしに慣れているので特に不満はないが、食後間もなく姿を消してしまった秀吉のことが気になっている。尋ねてみたが「あいつはあいつの用がある」と実にありがたい返事しか戻ってこなかった。総兵衛が呼びかける。
『なあ半兵衛、とりあえず眠るだけは眠っておけよ。で、その間、身体を貸してくれないか? 何かないか探ってみたいからさ』
(止めはしない………行くがいいさ。だが、他の二人には気取られるなよ)
『応』
 これから起こることについて自分だけ何も知らない。現地に着いてからも部外者扱いとは腹が立つが、問い質すべき相手の姿もない。語らずに済ませようとしているのなら、多少の無理をしてでも真相を究明してやりたくなるのが人間だ。目覚めたときに知らされるであろう幾つかの出来事を前に如何なる判断を下すのか、その際に取るであろう己のこころの軌跡を思い描きながら目を閉じた。




 おもむろに目を開けて気配を窺う。小六も信長もすっかり眠り込んでいて目覚める様子はなさそうだ。無論、彼らも自分も戦乱の世に生きる者である。他者の気配には敏感だし、暗殺者が近づこうものなら一気に覚醒して返り討ちにする。だが何処かで秀吉が起きたまま見張っていると思う所為か、寺の坊主どもがいると考える所為か、総兵衛が動き出しても誰も目を開けようとはしなかった。
 静かに、慎重に、自らの音も気配も消して歩くのは得意である。そっと小屋から抜け出して空の下に出てから大きく伸びをひとつした。肩のこりをほぐしながら周囲に秀吉が居はしないかとそれとなく捜す。軽く首を回して見える範囲に主君がいないことを確認して、考え深そうに前髪をかきあげた。
(………変、だよなあ)
 仮眠もとらずに何処へやら。食事もしないし、やたら緊張しているようでもある。そもそもこの旅路が真実、彼の望んだものなのか、少しばかり疑問に思っている。ときに見せるつらそうな仕草は何に起因しているのかと好奇心旺盛な総兵衛が興味を抱くのも無理からぬ話であった。常ならば即座に問い質していたところを我慢したのは旅立つ前に秀吉がこぼした弱気な一言故である。

 ―――まだ………壊れるわけにはいかないんだ………。

 確かに彼はそういった。見かけよりずっと精神的にタフで頑丈で強かなあの秀吉が、である。半兵衛が眠っていると思ったのだろう、もらされた言葉には笑い飛ばすには無理なほどの重みが伴われていた。
 卑怯かもしれないが、『総兵衛』が秀吉の側で熟睡したことは一度もない。二つの精神のうち片方が休息をとってさえいれば、残るひとりは不眠不休で行動できる。身体に無理がないわけではないが便利なので幾度となく用いてしまっている。
 片割れが眠りに就いたらもう一方も強制的に―――なんて構造をしていたら常に閉じ込められる立場にある総兵衛は暇で暇で仕方が無い。もとから他人の側で熟睡するというのには抵抗があったこともある。たとえば秀吉しか隣にいない状況で自分まで眠ってしまったら、侵入者があったときに誰が彼と半兵衛を守るのか。
 そんなこんなで結局、そろって責任感が強い『彼ら』は交互に休みをとる形で四六時中あたりに気を配っている。
 だから出発前の二人だけの酒宴で秀吉がもらした一言も………当然のように聞こえていたのだ。が、半兵衛にはいわずに済ませてしまっている。あえて悩ませることもないかと思ったのはこの先の展開を予感していたからかもしれない。おかしいのは秀吉だけじゃなくて、総兵衛もおかしかったのだ。
(………変、なんだよ、な)
 半兵衛も感じていた違和感、おそらく、それ以上のものを感じている。
 身体の奥からわきあがってくる異様な興奮と熱と焦燥。内臓が煮えたぎっているというのは比喩じゃない。寒風吹きすさぶ中に佇んでいても手足が燃えるように熱い。誰かに手招きされているかのように足が勝手に動く。胴体に目に見えぬ太い綱がまかれて遠慮なしに引っ張られているようだ。
 嫌な予感がする―――………何がどうとはいえないけれど。
 いま存在している場所から根こそぎ動かされてしまいそうな不安、誰かと離されてしまいそうな寂寥感、なのにそれを上回る期待と興奮。
 落ち着け、落ち着け、といい聞かせながら湖畔の木々の合間に立った。対岸がはるかにかすんでぼやけている。幾つかの商船がゆったりと櫂を漕いでいるのが見えた。草履がひたりそうなほど近くに寄って、背中を木に預けたまま目を閉じてみる。当面の目標は『ここで何が起きたのか』を探り出すこと………織田信長がああも拘るからには過去、この近辺でそれなりの騒ぎがあったに違いない。想像しているだけでは埒があかないから、一番手っ取り早くて確実なのは。
(知ってそうな奴に訊くことだよな)
 背後に目を向けて、できるだけ『らしく』聞こえるよう口調に注意する。

「何か御用ですか―――そこの御仁」

 途端、木陰で誰かが慌てたような声を上げた。急いで立ち去ろうとする影に呼びかける。
「別に逃げなくとも―――咎めだてはしませんよ?」
 大きくはないが凛と響き渡った声に引かれるように相手が足を止める。恐る恐る近づいてきたのは年の頃、十四、五歳ぐらいだろう見習いの小坊主であった。そういえば先程、食事の用意をしてくれた僧の中にいた覚えがある。微笑んでその旨を告げると彼は大層驚いた。
「お………覚えていてくださったのですか?」
「一応。それにしても、どうなされたのです。寺からずっと付いてきていましたが、何方かに頼まれでもしたのですか?」
 もしかしたら信長か小六に命じられて後をつけてきたのかと勘繰ったのだが、あっさりと少年の首は横に振られた。単に総兵衛が出かけるのを見て追いかけてきたらしい。すぐに声をかけるわけでもなく、こっそり陰からこちらを窺っていた訳はすぐにそれと知れた。話をしている間中ずっと、少年の目は総兵衛の腰に下げられたものに注がれていたから。仏門に仕える身とはいえ、寺院は兵力ならば並みの城より備えている。そんな世界で暮らしていれば多少なりとも少年の興味というものは『力』に傾いていくものである。
 腰の大刀を抜き出して掲げた。
「持ってみますか? ―――興味があるのでしょう」
 少年が絶句する。
「あ、あの………でも、刀は武士の魂だと聞きました。わたしなどが触れてしまってよいのでしょうか」
「『わたし』の魂は此処にはありませんので。気を遣わずとも、さあ」
 手を伸ばして差し出された刀を受け取る。重く、静かな重量に僅かながら少年の姿勢が改まった。手にした刀と、のんびり佇んでいる総兵衛とを見比べて疑い深い声を出す。
「………お侍さまは、無用心だと思います。もしわたしが武術の達人で、あなたにいきなり斬りつけたとしたらどうするのです」
「斬りますか?」
 笑いながら両腕を広げる姿はあまりにも無防備で、確かに、少年がその気になって斬りつけたら庇う暇もなく総兵衛は地に倒れ伏すかと感じられた。だが彼は顔面蒼白になって首を激しく横に振ると慌しく刀を押し返した。笑顔の裏に不気味なものを察知したかのように。「申し訳ありませんでした」と平伏さんばかりに頭を下げる少年の様子など何処吹く風、総兵衛の視線は遠く山の中腹へと向けられていた。湖畔から吹きつける風が胸をざわめかせる。
 気を取り直すように呼びかけた。
「あなたは………何故、彼らが此処に来るのか存じていますか」
「何故、此処に………って、お侍さまは何も知らされていらっしゃらないのですか?」
 意外そうな声を上げられる。連れが何も知らないなんて、いわれてみればかなり変な話だ。教えてくれない秀吉殿が全部悪いんだ、と内心で悪態をついておきながら表面上は涼しげな顔を取り繕う。
「ええ、生憎と。ですから少しだけでも教えて頂ければありがたいのですが―――」
「そうですか………あの、でも、わたしも詳しくは知らなくて」
 未だ剃髪されていない髪をかきあげながら少年はすまなそうに呟いた。その腕で近場のやや開けた地点を指し示す。
「ただ、わたしが御山に来る前に………いえ、あるいはわたしがまだ生まれていないほどの昔だったかもしれませんが、御山が乗っ取られる事件があったそうなのです」
「叡山が?」
 初耳だ。宗教の総本山たる比叡山が乗っ取られていたのなら、たとえそれが何年前の出来事であれかなりの噂になっていていいはずである。なのに誰もいいふらさないということは、余程念入りに情報が闇から闇へと葬られたか、政権争いなどで内部がもめていただけか、どちらかであろう。どちらにせよ内に属しているこの見習いにとっては周知の事実であるはずだ。
「その際、御山の奪回に手を貸してくださったのがあの方たちなのだと聞きました。寺に向かったのは総勢五百か六百か………時期は同じく花冷えする春先に、争いは夜も半ばに行われ、ふもとであるこの辺りでさえ戦う者たちの血で溢れ返ったと伝えられています」
「この辺りも………」
 瞼を閉じて総兵衛は木の幹に手をかけた。いまは穏やかな空と風が慈しんでいる大地も、かつては真紅の血に染め上げられていたのだ。おそらくはこの木も、湖も、先史より変わらぬ血で血を洗う闘争を見つめつづけてきたのだろう。目を閉じ自らの精神を闇に没すれば、いまにも戦いの息吹が聞こえてくるようである。
 そう。まるで、本当にそのときに居合わせているかのように―――。

(………え?)

 妙な感覚に目を開けた。内臓が煮え繰り返るような熱が奥底から湧き上がりつづけていく。異常な程の熱さに動転すべきところを、更に意外な光景によって打ち消されてしまった。

(―――此処は………何処だ)

 幹の固さは現実だ。だが空は暗く、視界は狭く、眼前の闇では幾つもの影が蠢いている。
 少年は何処へ行ってしまったのか。頭をかちわるように響く鼓動と共に音声が地の底から這い出してきた。鬨の声。闇夜に散る火花。鍔迫り合い。揺れる松明。喚声。罵声と怒声が飛び交い宙を埋め尽くす。木陰に佇む総兵衛の存在に誰も気づいていないのか、影たちは揺らめきながら勝手な争いを進めている。誰もが黒装束に身を包み、妙な面をつけた僧兵たちと切り結んでいる。忍びらしき人間も若干、紛れ込んでいるような………。跳ねた血が鈍い音を立てて張り付いた。
(なんだ………これは………!?)
 声は音にならず喉の奥底でくぐもり息絶える。喧騒が聴覚を圧倒する。身動きひとつできない総兵衛の真ん前で少年が槍を振るっていた。暗闇の為か表情は判然としない―――そもそもからして繰り広げられる光景はどれもこれも霞がかかったようにぼやけている。遠くなり、近くなり、思い出したように盛り返す音に眩暈がしそうだ。
 少年は明らかに押されていた。相手は妙な面をつけた男で、槍の方もかなりの腕前だ。追い詰められて目を瞑る。だがその直後、倒れたのは男の方だった。後ろから敵を突き殺したのは同年代の少年らしく、顔を合わせると不本意そうな呟きがもれた。

 ―――………だ、おまえか!?
 ―――………し………!
 ―――言っとくが………じゃねーぞ。………だ!

 声は聞き取りづらく周囲の喚声に飲まれている。無言で睨みあっていた彼らだが、突如、全く同時に背後を振り仰いだ。視線を追えば先に叡山が控えているのが分かる。顔色変えて駆け出そうとした少年を、助けた方の人間が押し留めた。戦場なのにも関わらず悠長に口喧嘩をしているらしい。

 ―――………が行く! お前は………の………を………!
 ―――でも………
 ―――うるせぇっ!!

 槍の柄で叩かれて助けられた少年が激しく転倒した。その隙にもうひとりは意気揚々と山に駆けていく。随分とまた乱暴なことを、なんて感想を抱いたすぐ脇を小柄な影がすり抜けていく。その一瞬に洩らされた言葉だけが鮮明に総兵衛の鼓膜を打った。

 ―――抜け駆けして覚えめでたくなるチャンス!!

 ………ま………さま………。
 頭が痛い。耳鳴りがする。背中を冷や汗が伝う。いまのは何だ。一体、何だというのだ。
 ………さま………!
 闇が遠のく。音が消えていく。妙に動かしづらかった五体に感覚が戻る。だがそんなのは問題ではなく、より重要で大切なものは。

 ―――自身が、あの声に聞き覚えがあるということではないのか………?

「お侍さま!!」

 至近距離でかけられた声にはっと我に返る。凍てついていた身体をほぐすように下を見れば、不安そうにこちらを窺っている少年と目がかち合った。
「あ、あの………どうかなさいましたか? 急にぼんやりとして、動かなくなってしまわれて………あっ。そ、その、もし何か考え事でもしていらしたのなら集中の邪魔をして申し訳なく」
「いや、それは」
 縮こまってしまった相手の肩に手をかけて上向かせた。
「こちらこそ心配をかけて………少しぼうっとしてしまっただけです。大丈夫ですよ」
 安心させるように微笑みかけながらも、その実、己の方が不安でならなかった。不安、という程の恐れはないが戸惑っているのは本当だ。空を見ても大地を見ても、先刻の映像を彷彿とさせるようなものは何処にもない。鳴り響いていた鍔迫り合いの音も行き交う人の影も何もなく、ただ、位置を変えずに木々と湖とが存在しているだけである。
(幻視、か? そこまでズレた感覚をしていると思いたくはないが………)
 幻と断じてしまうにはあまりにも現実味を伴っていた光景に、知らず総兵衛の目が細められた。側の少年に問い掛けそうになったが口をついて出たのは別の言葉だった。
「結局、争いは何処で終結したのですか?」
「よく………わからないのですが、湖に逃げた敵を追いかけて幾つもの船がみなもを走り」
 まだ戸惑いの深い瞳で総兵衛のことをみつめながらも質問には的確に答えていく。栄養のあまり行き届いていない細い指先が湖の中心辺りを指し示した。
「あの辺りで決着がついたそうです。敵の船は沈んで、多くの武器や道具、それからその………敵の持っていたという宝も、全部が水泡に帰したそうです」
 船は巨大なものでした。それがどうやら、鋼鉄でできた船だったそうですよ。幾ら何でもこれは嘘だと思いますが………だって、あんなに重たい鉄が水に浮くはずありませんもの。
 照れくさそうに説明される言葉に頷きを返しながらも別の考えをしていた。
 鉄が水に浮かない? いや………浮くだろう。重量のある丸太でつくった筏が水に浮くように、設計に気を配れば鉄とて浮力を得ることができるはずである。誰もができるはずがないと諦めているだけだ。浮きそうもない物体を水に浮かせるなど、それこそあの破天荒で知られる織田信長がやりそうなことではないか。最終的には周囲の人間ばかりが振り回されて終わるのだ。総兵衛の口元に微笑が刻まれる。
「ありがとう―――色々と参考になりました」
「あっ………あのっ………!」
 深く一礼をして立ち去ろうとした総兵衛を少年は呼び止めた。両のてのひらを組み合わせ、まるで哀願するように問い掛ける。
「できれば、お名前でも伺わせてもらえませんか? わたしは晶英と申します」
「名前? 名前―――名前は―――………」
 理由も無く視線が宙を泳ぎ、珍しくしばしの逡巡を見せた上でようやく唇にその名が乗せられた。
「………総兵衛です」




 もと来た道を引き返す際に、信長の来訪に関して叡山の意見が二つに分かれているのだと聞かされた。いつまで彼らを迎え入れなければならないのかと不満を申し立てる者たちが年々増えているのだという。仕方のない話だろう。ただでさえ信長の宗教嫌いは有名なのに加えて、琵琶湖まで来る理由とて定かではない。付近でこそこそとうろついている連中に対して、十何年前の恩義ひとつで見逃してくれというのは少々虫が良すぎる。
 かくて提供されたのはあの手入れのなっていない荒れ寺となったわけだが、あれが叡山の示せる最大限の誠意だったのだろう。
 山に登って雑用を片付けてこなければならないという晶英と辻で別れた。そのまま帰るのもつまらない気がしたので道から外れて木立の中を突き進む。風にざわめく木々、鳥のさえずり。常と何ら変わりはないが、何故か彼らもこれから起こる『何か』を予感して騒いでいるように思われてならなかった。
(湖に沈んだ―――宝?)
 知らず視線をきつくして右掌を腹部にあてがう。間違いない。気づきたくはなかったが、こればっかりは間違いようがない。
 ………自分たちの体調不良の原因はあの湖に沈んでいる。
 中央を指し示された瞬間、ぶり返した熱に吐くかと思った。すぐに収まったからよかったようなものの、あれがもう一、二度繰り返されていたら危なかった。十年以上も前に沈没したという船や宝との関連性は定かではないが、とにかく、湖に眠っている何かに総兵衛たちの体調は著しく狂わされている。夜になったら船で中心部に近づくのだろう。真っ暗闇の中で引き上げ作業も何もあるまい、目的が宝であるはずはなかろう。彼らの望みはもっと別にあって、きっとそれは、あの―――………。
 見上げた視界に茜色に染まりかけた空が映った。
 更に森の深部へ分け入るように歩を進めていたが、思ってもみなかった人物に出くわして動きを止めた。なるほど、盲点といえば盲点だ………丁度、小屋の裏手に当たり、ひっそりと隠れるように建てられたささやかな庵。その縁側にあぐらをかいて腰掛けているのは紛れもなく秀吉であった。瞳を閉じて沈思黙考、精神を集中しているのは嫌でもわかる。手を組み合わせ耐えるように頭を垂れている様は苦行僧を思わせた。結跏趺坐に精進潔斎、取ってつけたような禊の数々は己の力を極限まで引き出す為の苦肉の策なのだろう。
 段々と事のからくりが読めてきた総兵衛は淡い微笑を湛えたまま静かに近寄ると、音も立てずに秀吉の横に腰掛けた。同じようにあぐらを組み、手を組み、瞳を閉じる。秀吉が気だるげな言葉を投げて寄越した。
「―――何をやっている。とっとと部屋に戻って仮眠でもとれ」
「こうしていたいだけです」
「食事もろくすっぽとってなかっただろうが。俺に付き合う必要なんて………ないんだぞ」
 最後の方の言葉はか細くて聞き取ることができなかった。
 案外、さみしがり屋で照れ屋で意地っ張り。優秀なくせに抜けてるところもあって、仕えようと決めた主君には全てを投げ出して付いていく。そんな純粋さは自分たちには持ちようもないものだから素直に憧れる。
 大きく息を吸い込むと馥郁たる香りが胸に満ちた。
「―――好きです、よね。秀吉殿」
「何がだ?」
「抜け駆け」
 軽く笑い声を洩らしながらあどけなく呟く。相手は前後関係の読めない言葉に困惑しているようだった。布のこすれる音から体勢を崩しただろうと察せられる。
「何をいってる」
「別に。何も。でも………総兵衛も好きですよ、抜け駆けすることも、抜け駆けする人も」
「………」
「だからずるいとか水臭いとか小賢しいとかいわれても、勝手にやってみたくなるんです」
 いよいよもって首を傾げているらしい秀吉の反応はあえて無視して、何気なく言葉を差し出した。

「―――最後ですか」

 発せられた意味を読み取りきれず秀吉が怪訝そうに眉をひそめる。こいつは何を何処まで知っているのかと探るような目を向けられているのは頬に突き刺さる痛みから感じていたが尚も姿勢は変えず、素知らぬ振りを装った。やがて諦めたのか、深いため息を零した後に元通りひざを組みなおす。
「………最後、だ」
「最後―――に、なるといいですね」
 薄っすらと開いた目に薄紅の空を流れ去る雲が焼きついていく。もしもこれがこの世界で見る最後の光景だとしたら残念だなと、予感とも確信ともつかない考えをたどりながら、総兵衛はひたすらに全てを見つめ続けていた。




 闇が迫る。風がうめく。普段は気にしない月の光も星の輝きも、いまばかりはやたらと強く感じられて、頼りない風情で雲に隠れる姿に表情を翳らせた。凍えかけた両手をすり合わせる。
 総兵衛と意識を交代したのは空が藍色に染め上げられ物の判別もつかなくなる頃。同時期に起きだしたらしい他の面子に総兵衛が絶妙の間で入れ替わったことを知った。
 何を見たのか、何を感じたのか、何を知ったのか。それらを片隅から教えてもらいながら老僧の持つ松明に導かれて列の最後尾を行く。信長も小六も何もいわない。秀吉も目つきを鋭くしている。叩きつけるような神経の張り具合に彼の覚悟の程を感じ取る。
『そういうことだ。だから、わかるだろう? ―――半兵衛』
(その為に此処にいるのなら………躊躇う理由はない。本当に、それが目的で呼ばれたのなら)
『間違いない。だって総兵衛たちは秀吉殿の知り合いの話を聞いたもの』
 何気ない振りを装いながら内心だけで強い頷きを返した。俄かには信じ難い話だとしても、それに足るだけの証拠を集めることが出来たのならば無碍に否定はしない。
 水辺では質素な造りの小船が四人を待ち構えていた。老僧が指し示すままに乗り込む。踏み入れた足先から水の感触が板をすり抜けて伝わってきた。寒さをより身近に感じながら他の三人が腰を落ち着けるのを待つ。かがり火の灯された先頭に信長が、次に秀吉が、半兵衛が、そして最後尾を小六が固めた。櫂を握り締めた小六がゆっくりと船を推し進める。彼は漕ぎ手も兼ねているようだ。
 髪を僅かに揺らめかせすり抜けていく風と軋む櫂の音だけが夜の静寂をひそやかに占めだす。流れ去る景色の向こう側に、町の明かりと思しき光が途切れ途切れにつづいた。深更をへても快楽を求める者たちの喧騒が聞こえてきそうである。
(感じる………)
 奥底からわきあがる燃えるような熱を。激しく脈打つ鼓動を。背を流れ落ちる汗を。
 表は冷たさに悩みながらも内は熱さに苛まされている。耳鳴りも頭痛も通り越して訪れる、盛り上がるような逸るような感覚は何を意味しているのか。
 仮説の証明など―――本当はしたくないのかもしれない。けれど主君が。秀吉が、そう望んでいるのならば。

 ―――何にだってなれる。何だってできる。

 船が揺らぎ、泊まった。小六が櫂を沈め安定させているのがわかる。目を凝らしても周囲に広がるのは闇ばかり。どれほど進んで来たのか対岸との距離も判然としないけれど、内臓を焼き尽くさんばかりにわきあがる熱が鮮明に教えていた。『此処』こそが目的の場所なのだと。湖の―――中心なのだと。裏付けるように信長の声が厳かに響き渡った。
「―――ついたぞ」
 古びた木はくすんだ色を水面に反射させ、かがり火だけがほのかな光を与える。もし自分たちに危害を加えようと企む人物が側にいたならば、さぞや仕事がやりやすかったことだろう。火に向けて矢を射れば狙い撃ちもいいところだ。目立つことも厭わないこの行為が愚かさの代名詞のように思えても、関わる者は皆、真剣な眼差しをしている。それまで伏せていた面を上げて秀吉が告げた。
「先にいっておきます。………此処に残された力も、俺に残された力も、もう残り少ない。ですからこれまでどおりに全てを映し出すことは出来ません。それに―――」
 つらそうな表情を闇の中に紛れ込ませて淡々と。
「これが最後になります。どうしようもありません」
 付いていけない会話に無言で返したのは小六であり、より深くこのことに関わっていそうな織田の当主はかすかに視線を鋭くした。
「わかってる。―――それぐらいの覚悟は決めてある」
 船縁に打ち寄せる波の音だけが響いた。
 やがて意を決したように秀吉は毅然と姿勢を正すと、昼間見せたように両手を組み合わせ虚空を睨みつけた。意識を集中しているのだと知れる仕草に、自然、半兵衛の意識も改まる。体内から沸き起こる熱も悲鳴をあげそうな程の勢いになってきていた。
 近い―――もう手が届きそうなところまで来ている。
 瞬きをする間すら惜しく周囲を凝視すれば、なんの変哲もない水面が漣だってきたような錯覚をおぼえる。
 来ている………。
 もう、すぐそこまで。
 内から沸きあがる熱と水底から押し寄せてくる波がうねりを伴って絡み合う。陶然と半兵衛は目を閉じた。殴られたような痛みを感じつづける心臓を抑え付けながら。

「―――はじめます」

『こちら側』で最後に聞こえたのは、小さくも断定的に響いた秀吉の声だった。

 

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