城内の木の枝から辺りを見渡す。吹き抜ける風と差し込む日の光が心地よく、いつの間にか寝入っていたようだ。これではまたあの癇癪もちの父親や躾に厳しい母親に怒られてしまう。またあいつに迷惑かけることになるのかな、と、年齢に似つかわしくない深い笑みを彼は浮かべた。

「じゃあまた、城で」
「ああ」

 足元から聞こえてきた声にそっと視線を下ろす。梢の陰でよく見えないが、一方は家中では珍しく自分を厭わない兄であり、もう一方は腰に大小を構えた青年だった。こざっぱりとした衣装が出自の良さを伺わせるけれど、それ以上に特徴的なのは紅葉もかくやとばかりに染め上げられた髪の毛で。鏡を通して見る半身の薄闇色の瞳とどちらがより奇麗だろうかと考えた。
 青年を見送った後で兄が頭上を眺めて苦笑する。
「こら、そんなところで何をしている」
「気付いてた?」
 木の上から飛び降りた小さすぎる体を兄は受け止めた。
「ねぇ、いまの人は誰?」
「ん? 私の友人でな、十兵衛という」
 抱き上げていた身体を上手く回転させて背中の方に向けると、意を解した子供は喜んで肩車の体勢になる。無邪気な行動に笑みをもらしながらも長兄の心配は尽きない。
「全く………父上や母上に見つかったら大目玉だぞ。また寺社を引きずりまわされたいか」
「きつねだもの。部屋の中じゃ狭すぎる」
「おふたりはきつねが苦手なのだ。祓われたくないのならじっとしておいで」
 よいしょ、と子供が真横から顔を覗かせた。しっかりと両手で兄の頭を抱え込み、前が見えないだろうとの苦情も受け付けぬ。
「でも、兄上は、きつねも苦手じゃない」
「当たり前だろう」
 子供を安心させるように殊更強く彼は言い切った。

「きつねであろうとなかろうと、お前は私の弟だよ。―――重治」

 


春のまろうど ― 前編 ―


 

「とにかく、またしても兄さんの機嫌が悪いんです」
 墨俣城の一角で、木下家の諸事全般を管理する立場にある小一郎はため息をついた。手にした竹簡や巻物を取りまとめる手つきもどことなく気だるい。必要書類の片づけを手伝う半兵衛は微笑を浮かべた。
「そうですか………して、小一郎殿はその理由をなんと心得ます」
「まずは春先。この時期に兄さんが荒れるのはいつものことですから。でもこの間お忍びで出かけて………しばらくは機嫌が良かったから悪癖も消え去ったとばかり思ってたのに」
「なるほど」
「次なる理由。過日、明智光秀が信長様のもとに参られた。確かにその伝手で朝廷と繋がりがとれるのですが、こちらにしてみれば競争相手が増えただけです」
「如何にも」
「そして何より」
 落ち着いた低音で話す小一郎は兄に似ず背が高く、肉付きとて悪い方ではない。共通する点はどこかひょうきんそうな顔立ちと身軽な動きぐらいだろうか。書物の山に押し込められている体を無理矢理こちらへ捻じ曲げた。
「―――接待役に先生を名指しされたことですよ」
 思い切り指差されて笑ってしまった。
 必要はないと何度か告げたにも関わらず彼は半兵衛を『先生』と呼ぶ。年上の小六がそう呼ばわるのに倣ったのだろうが、実は小一郎の方が半兵衛より年長である。
 室内に埃がたまってきたかと障子を開け放ち尋ね返した。
「然りと申し上げるには聊か曖昧な。それぐらいで秀吉殿が怒るとも思えませぬな」
 ―――明智十兵衛光秀。
 もとは美濃・斎藤家に仕えていたが道三が子の義龍に破れるに際し流浪の身の上となった。その後、何処でどうしていたか詳細はわからぬまでもいつしか彼は朝倉に身を寄せ―――正確には、朝倉の世話になっていた足利義昭のもとで働いて。幾度急かしても重い腰をあげぬ朝倉に苛立つ義昭と入京を目指す織田との仲を取り持ったのは彼である。いわば此度の同盟の立役者。
 光秀は現在、信長の居城・岐阜にて同盟の詰めに入っていた。
 ………のに、何故か急遽予定を変更して墨俣に来たいなどと言い出したから大変だ。断るわけにもいくまいが、さりとて諸手を挙げて歓迎したい相手でもない。木下一派としては実に複雑な心境であった。
「それぐらいと申しますが先生。まあその………なんというか、先生を迎えるために兄さんはさんざ苦労したんですよ? なのに後から来てホイホイと気楽に物見遊山のような形で面談を望むというのは実に、えぇと、実に………その」
「実に調子の良い、と」
「それ! それです!」
 小一郎が巻物で膝を叩いた途端、埃が舞い上がった。
「まあ、そう思えなくもないのですが………」
 彼とて自らの立場を理解してはいる。織田に仕えるに当たって幾人もの武将が「軍師として迎えたい」と申し出ていたことも、「織田の客人」という少々特殊な立場にあるということも。つまり光秀は客のくせして客を選ぶという随分不遜な態度を表明したことになる。更に砕けた言い方で他将の気持ちを代弁すれば「ぽっと出の新人のくせにいきなりナニ要求してんだよ。接待役指名できるような偉い立場にあると思ってんのか、この野郎」となるだろうか。
「光秀公は決して愚かな方ではない。織田の所有する城の中で殊更に墨俣を、一介の軍師を指名したのはあの方なりの気遣いなのですよ」
「どの辺りが?」
「さて、それは」
 手にした本の表紙を改めながら瞳を和ませた。
「それは貴殿への題目と致しましょうか。然程考えずとも理由は見出せるはずですよ」
「先生ぇー」
 会話の端々で回答を示すことなく次へ流してしまう半兵衛に小一郎は情けない声を上げた。書や兵法の指南役を務めている年下の軍師殿はこうやって難題を突きつけてくれるから堪らない。しかも、数日考えて出した結論に肯定や否定の意見を返してはくれるのに、滅多に己の考えを示してはくれないのだ。
「正解がひとつとは限りません。私の答えが正しいとも限りません。あらゆる側面から物事を考える………私から小一郎殿に伝えたいことがあるとすれば、それのみです」
 かつての問いの際にそう告げられたとはいえ、『生徒』としては物足りなくもなるのだった。もっとも、半兵衛が偉そうに自論をぶちまけるような人間だったら初めから教えを乞おうなどと露にも思わなかっただろうが。
 書物の整理を続けるふたりのもとに近習が駆けつけた。床に額を擦り付けるようにして平伏する。
「申し上げます。竹中半兵衛重治殿、至急、奥の間に参られよと殿よりの仰せででございます」
「秀吉殿が? ………わかりました。すぐ参りましょう」
 深々と一礼を返して立ち去る近習を目端に捕らえ、半兵衛は小一郎に笑いかけた。
「噂をするとなんとやら、ですかね。此処の片付けはお願いいたします。………後でまた顔を出しましょうぞ」
 お気になさらずと礼を返す小一郎に謝罪の言葉を今一度発してから部屋を後にした。
 陽射しもうららかな春の昼下がり、俯きがちな視線を外へと向ければ薄紅の花びらがゆっくりと舞い落ちていく。早くに咲きだした梅花は常よりは長くもったとはいえ、さすがにこのところの風の強さに剥き出しの枝をさらし始めていた。青い空へ楕円の欠片が舞い上がる。
 風流な………と眺めおく暇もあらばこそ、苦笑した口元を隠すようにしてその場を立ち去った。
 薫風遠からざる卯月―――。
 あの琵琶湖の一件から約二月が経過しようとしていた。




 美濃攻略の際とは異なり墨俣も一応そこいらの城らしくはなっている。なにせあの時は急場作りもいいところ、掘建て小屋ならぬ家組みだけの城だったのだから。しかし見目が以前よりよくなったからといって周辺地域も一気に開発されたわけではない。繁華街や歓楽街など望むべくもなく、出入りの商人や遊女、絵書きや大工などの職人が住まう場はあれども城下町と呼ぶには抵抗がある。およそ物見遊山には適していない土地柄だ。戦時以外はやたら暇な場所。長逗留の人間がこうなのだから、いきなりの来客をどのようにもてなしたものかと迷う。
 部屋に呼ばれたのも接待に関してのことと予想していたのだが、それは半分当たりで、半分外れだった。
「よぉ、半兵衛。用意は順調に進んでいるか?」
 口調こそ普段と変わらないものの、膨れっ面をして指先で小刻みに膝を叩いている主君は明らかに不機嫌だった。先ずは当り障りなく業務連絡のみとする。
「万事滞りなく運んでおります。明智殿のご到着に合わせ届くよう食材も手配いたしました。宵には田楽師、白拍子の団体が舞いを披露いたします。あちらも華美な対応など望まれぬと聞き及びます故、さして絢爛豪華にする必要もないと考えますれば―――」
 報告の間中、秀吉はそっぽを向いていた。口をへの字に引き結んで空の彼方を見つめている。人の話など全く耳に入っていない風情だが、これで聞くべきことはちゃんと聞いているのだから侮れない。迂闊に「聞いてるんですか?」と問おうものなら「喧しい、黙ってろ!」と毛を逆立てた猫のごとく叫ばれるが落ちである。
「幾日ご滞在になるかとの詳細も伝わらぬ内のご到着となられるでしょうが、不肖、半兵衛。接待役として光秀殿のご意見を頂戴し―――」
「………何でだ」
「はい?」
 顔を上げるとこれ以上はないくらい不貞腐れた秀吉と目があった。
「何で光秀は墨俣なんかに来るんだ、っていったんだよ」
「殊更に墨俣に参られる理由ですか。それはおそらく」
「大体あいつは信長様んところで詰めの交渉に入ってるんじゃなかったのか? 功労者らしく岐阜でいい女でも侍らせてヨロシクやってりゃいいってのに、わざわざうちに来るのは冷やかしか嫌味か顔見せか? 義昭っつー餌ひっさげて現れたんならきっちし最後まで殿に尻尾振ってりゃいいんだよ!」
(………)
 こめかみを指で押さえる。ギリギリと拳を握り締めている秀吉にはきっと半兵衛の姿など映っていない。癇癪を起こした主君は障らぬが吉である。
 けどまあ、呼ばれたのには報告しろという意味と、「愚痴を聞け」という意図も含まれていたのだろうし。
 叫びまくる子供を相手にするのは不得手だがやらねばなるまい。何故か半兵衛は頷いた。
「おいそこ、聞いてるのか!?」
「はい」
「なんだその落ち着き払った態度はっっ。いいか半兵衛、お前にはわかるまい!」
 太陽を背後に格子戸に足をかけていきり立つ。あーあ、枠が壊れたらどうするんですか、修理費も勘定にいれとくかと、やたら冷静な聞き手の側で語り手は怒る一方である。
「いっちゃ何だがこの俺は叩き上げ。草履取りから足軽へ、次いで足軽大将へ! 桶狭間においてもさしたる戦歴を挙げられず、さりとて付かず離れず寄り添いながら信長様にお仕えすること十と五年!(大まか)柴田のくそ野郎にいびり倒されながらも素直に健気に愛らしくやってきたんだ!」
 なんだか突っ込みたい科白もあったがここは流しておく。
「そっ………それを、それをだっ。あんの男はひょこひょこやって来たと思ったらすぐに『よくやった、大儀であったぞ光秀。ゆるりと休むがよい』なーんてお褒めの言葉を頂いてっっ! 俺がこれまでに何回お言葉を賜ったか知ってんのか? しかも武器や知行を賜って! 俺は仮の城持ちになるまで散々苦労したんだぞっ」
 正確な意味では秀吉は『城主』ではなかった。どちらかというと墨俣は『砦』に過ぎない。華美な装飾も天を彩る天守閣も存在しないのだから。名義とて他の有力武将のものになっているはずだ。
「光秀公も浪人として辛酸を舐めてきたと伝え聞いておりますが」
「将軍家に取り入ってのほほんと俳句や和歌なんか詠んでただけだろ? いいよなー、貴族のタシナミを心得てる奴は。畑や田んぼ耕した経験がなくても口先三寸で金が手に入るんだからよ。はっ!」
 ―――駄目だこりゃ。正論を述べただけでは収まるまい。
 世話役はこっそりとため息をついた。
 冷静に考えれば例の琵琶湖行きに光秀も同行したことがあるのだし、折につけ信長と連絡を取っていたのだろうから『ひょこひょこやって来た』という言葉は当てはまらない。「朝廷の犬」と陰口叩く輩もいるが、逆から見ればむしろ彼は「織田の犬」である。板ばさみの立場に耐え兼ねて、しばし何処かで羽根を休めたいと考えたのではあるまいか。その際に知人の顔が思い浮かんだとて誰が責められるだろう。
 秀吉は敏い人間だから全て理解しているはずだ。きっと、いざ光秀が到着したなら満面の笑みと歓迎の言葉でもてなすに違いない。
 ………単に、競争相手の出現に焦っているだけなのだから。
 信長の一番の部下は己なのだと、誰かに主張したくてならないだけなのだから。
 あとは農家と武家という階級の差への劣等感―――か。
 すいません、私も武家の出です、と告げたら更に怒られるのだろうな、と苦笑した。
「落ち着いてください、秀吉殿。勢いだけで喚き散らして後で自己嫌悪に苛まされるのでは割りに合いませんよ? 心配しなくとも必要最低限の応対さえしてくだされば、後はこの半兵衛がとりなします故」
 聞き捨てならぬ科白に地団太を踏んでいた上役の動きが止まる。
「………ちょっと待て。何で俺が光秀を馬鹿にしたら自己嫌悪に陥るんだ?」
「光秀公が単なるお調子者だったりのんびり俳句や和歌を詠んでいるような方ならば、貴公は冷静に対処なさっていたはずです。けれどそうではない―――本当に真面目な方だと知っているからこそ罵倒したくなる。認められる相手を貶めるのはおよしなさい。自分がつらくなります」
 秀吉は幾度か目をしばたかせ、ばつが悪そうに顔をしかめると行儀悪く乗り上げていた足をそっと下におろした。仕切りなおしというように脇息を引き寄せて座り込む。
「………お前、俺を好意的にとらえすぎてないか?」
「これでも控えた方ですよ。なんならもっと申し上げましょうか? 例えば、秀吉殿は実は寂しがり屋で照れ屋でお人好しで健気で」
「だーっ!! やめ! やめやめやめ!!」
 顔を真っ赤にして秀吉は両腕をブンブンと振り回した。ちくしょう、からかいやがってと歯軋りする。半兵衛の方は顔色ひとつ変えないのだから、一層、そんな気分が強くなってくる。
「くそっ………やる気なくした」
「はい」
「くだらねぇことしかいわねぇヤツ相手に喚くのなんて虚しいからな。やめてやらぁ。感謝しろよ」
「はい」
 微かな笑いをもらす半兵衛から彼は目をそらした。わめき散らした自分が恥ずかしいのかまだ薄っすらと頬が赤らんでいる。
 部屋の外を通り過ぎる鳥のさえずりがひとしきり場を満たした。
 ようやく先ほどの照れが引いた頃、再度秀吉が問い掛ける。抱え込んでいた脇息を横へのけて半兵衛へにじり寄った。
「で? 結局、光秀は何をしに此処へ来るんだ?」
「休むためでしょう」
「それが納得できねーっつってんだ。いっとくが、いつもみたいに『少し考えればわかるはずですよ』なんて言い逃れは許さねぇからな。それって光秀の立場になって考えてみろってことだろ? あんな奴の思考を追うなんて死んでも御免だね」
 軽い口調でいってはいるがかなり本気なのだろう。考えたくないことは意地でも考えないらしい―――特に、代わりに悩んでくれそうな人間が側にいるときは。親しい者にだけ覗かせる我侭な一面を嬉しく思いもするけれど、もう少し大人になったらどうですか、とため息をつかないでもない。
 半兵衛は苦くない苦笑をもらした。
「………忘れているのではありませんか?」
 静かな問いかけに相手が眉をひそめる。
「私の出身地が、何処だったのかを」
 言葉の内容を反芻したのはほんの数瞬。すぐに意味を解した秀吉は忌々しげに舌打ちした。忘れていた訳ではない………が、いわれるまで気にしていなかったのも真実。とうに半兵衛は己の部下となっており、何処に組みしているかと問われれば即座に「織田」と答えられるような状況だったから。
 案外鈍かった自分の思考回路に恥ずかしさが混じり、ついでに浮かんできた他の可能性に些細な怒りがわいた。
「―――黙ってた、のかよ………あいつと知り合いだったのかよ!?」
 知らないぞ、俺はなんにも聞いてないぞ。そりゃあふたりとももとは美濃に属していたんだから、顔見知りである可能性に気付かなかった自分の落ち度ではあるが………。
 なんだよ、水臭い。馬鹿野郎。
 思いっきり目線でそう語っている秀吉に知らず笑みが零れ落ちた。
(確かに、貴公への隠し事はたくさんありますけどね)
 ―――軍師なんてそんなものです。
 と、非常に冷めた目線を口に出すことだけはやめておいた。
「生憎と直接の面識はありません。光秀殿と親しかったのは私の兄の方ですよ。私自身は、城に訪ねてくる光秀殿を覗き見た経験があるくらいです」
 光秀に至っては半兵衛の顔を見知っているのかどうかも怪しい。
 ふたり同時に斎藤家に仕えていた時間などなきに等しかった。光秀は斎藤道三に味方しており、半兵衛が仕えだしたのは道三を打ち破った義龍の時代になってからだったのだから。入れ替わるように向こうは流浪の旅に出てしまったのだ。
 こうして織田信長の傘下で再会することになるとはどちらも想像だにしていなかっただろう。
「話ぐらいしてみればよかったんじゃないのか。友人の弟なら幾らクソ真面目な光秀だって………」
「外に出るなと―――いわれていました。私が他人と触れ合うのを両親は殊のほか嫌いましたよ」
 いわんとしたことを察して秀吉が口を噤む。気遣わしげな色が彼の瞳に浮かぶのが嫌なので、特に繕った様子も見せずに言葉を重ねた。
「同じ美濃の出身ですし、立場も『織田の客人』という点では共通しています。おそらく光秀殿は光秀殿なりに悩んだでしょう。ですが、ゆっくりと己の立場と先行きを考えるためにはやはり、此処に来るしかないと判断をくだされたに違いありません」
「同郷のお前がいる。それに俺は知り合いだから………か?」
 深く頷きを返す。しばし秀吉はあごに手をあてて考え込んでいたが、やがて舌打ちと共に「仕方ねぇな」と呟いた。
 軽く笑った半兵衛はことのついでとばかりに口を開いた。
「秀吉殿、ひとつ申し上げておきたいことがあるのですが」
「なんだ?」
「実は、美濃から個人的な部下を呼び寄せております。これから色々と人手も入り用になるでしょうし………数日中には到着するはずです。着いたらご紹介しますよ」
 初めて聞かされる内容にいささか不機嫌そうに上司は眉をひそめた。誰を呼んだんだか知らないが、まず最初に上の許可を取れというのだ。私兵を動かすなら下手すると軍法会議ものになりかねない。秀吉に疑うつもりはなくとも周囲が疑う可能性はある。
「どれぐらいの規模で呼ぶ。―――ふたり? まあ、それぐらいなら………」
「何を危惧されているのかは承知しております。けれど彼らの存在は欠かせない。片腕の存在を知らせるのは秀吉殿と、あと数名に限るつもりでいます。彼らの実力は闇にあってこそ発揮される」
 思わず秀吉は首を傾げた。一部の者にしか正体を明かさないなんて、忍びそのものではないか。
「菩提山に篭っていた間、彼らは私の代わりに情報収集をしてくれていました。でなければ、すっかり世間の波に取り残されていたでしょうね」
「ってゆーと何か? 出会ったばかりの頃に墨俣攻めの作戦を指摘できたのは、そいつらが密偵として潜り込んでたからだってのか?」
「彼らは戦力と地理と事の展開を知らせてくれました。そこから先は私の想像です」
 私『たち』の、といいそうになって気づかれないほど微かに下唇を噛む。
 なんにせよ当時の木下軍の近くに潜伏していたのは確かだろう。いつ何処にどれほどの兵を集め、どんな作戦を取ったのか。逐一報告された情報をもとに半兵衛は様々な状況を想定し、言い当てたのだ。
 秀吉としては面白くない事実でもある。出世する前は信長の『草』として各地で諜報活動を行ってきた立場だ、知らぬ間に自分が探られていたと知って誇りが逆撫でされる。
 それらの感情の流れの全てを読みながら半兵衛はなんの弁解も釈明もしなかった。探られる身分まで出世したということでしょう、と慰めたところでこの人物は意固地になるだけだ。
 先ほどの報告だけを念押しのように繰り返して席を立つ。
 深く一礼をして障子を開いた背中を秀吉は苦々しげに眺めやる。そして膝をついて戸を閉める瞬間、そっと声を絞り出した。

「………あいつは、まだか」

 微妙な身じろぎを寄り添わせて半兵衛の瞳が揺らめく。が、そんな感情の色合いもすぐに奥に押し込めて常と変わらぬ冷めた薄闇色の膜で覆う。
「まだ―――です、ね」
 微笑とも苦笑ともつかぬ笑みを閃かせ。
「安心してください、ちゃんと『生きて』いますから。もっとも、いつ帰ってくるのか予測もつきませんが」
 今度は確実にそれとわかるものを口元にのぼらせる。
「あいつは気まぐれだから―――悩むだけ損ですよ、秀吉殿」
 徐々に遠ざかる足音だけを秀吉はひっそりと耳にしていた。
 ばかなことを聞いた、と思う。つらいことを聞いてしまった、とも。
 奴の不在を一番心細く思っているのは半兵衛だろうに、そんな様子は毛の先ほども見せない。事情を知る自分や小六ばかりが気遣って場を空回りしている。
 特に秀吉には半兵衛を巻き込んでしまったという思いが強い。過去の記憶を手に入れるために、未だ覚醒していないだろう彼の力に期待をかけたのは事実だ。
 結果自分たちは順調に過去への旅路を終えて、『現在』すら垣間見ることができたけれど………。
 せめて半兵衛が恨み言や泣き言のひとつでも漏らしてくれたら楽になれるのに。
 目を閉じて、思いをはせる。

 ―――あいつがいなければ、『あいつ』には会えなかった。
 ―――『あいつ』を求めなければ、あいつを喪うことはなかった。

 そして結局、自分にはどちらも選べないのだ。
「………わかんねぇ」
 悔し紛れの言葉が漏れた。




 日毎あたたかさを増す気温が周囲を取り巻いている。国境付近まで客を迎えに行った小六たちを待ちながら散りゆく花びらを数えてみる。ついでの如く視線を流してみれば隣の秀吉はやはり不服そうな顔をして縁側に腰掛けたまま虚空を睨み付けていた。
 不機嫌にしていたって来るものは来るのだ、諦めてもらおう。それに表面上はどうあれ秀吉だって決して光秀が嫌いなわけではない―――と、思う。間に信長を挟むからややこしくなってしまうだけで。
 まこと、男同士の嫉妬とは恐ろしい。
「いま何かムカつくこと考えなかったか?」
「いいえ、何も」
 にっこり笑って矛先をかわす。疑わしげな目つきで上司が言葉を重ねかけたとき、計ったように侍従が傍に駆けつけた。必要以上にひれ伏して未だ慣れぬいいまわしで伝える。
「明智十兵衛光秀公、蜂須賀小六正勝様、木下小一郎様と共にご到着にございます」
「―――着いたか」
 そうこぼした秀吉は、嫌なことは早く吹っ切ってしまえといわんばかりに勢いよく立ち上がった。素っ気無く背後に呼びかける。
「行くぞ」
「はい」
 単純明快な応えを合図に付き従った。
 あまり豪華でない墨俣の城門が込み合っている。驚いたことに光秀は僅か数名の部下を従えただけで来たようだが、出迎える側はそれなりの人員を揃えていた。辺りが鎧兜と馬のいななきで埋まってしまうのも当然か。
 軽く腕を振って歩くだけで秀吉の前方の道が開けていく。大人しく後を追う半兵衛の目にも来客の姿が映った。口取りをしているのは小一郎だ。こちらに気づいた小六が大きく手を振る。
「よう。いま帰ったぜ」
「道中無事で何より。ふたりとも、ご苦労だったな」
 秀吉も鷹揚に言葉を返した。ついで訪問客へ目線を移し―――大したもので、先ほどまでの機嫌の悪さなど影も見せない。
「よくぞお越しくださいました、光秀殿。何もない処ですがせめて身体だけでも休めて行ってください」
「そんなに畏まる必要はない。お主の方が長く信長様に仕えているのだからな。光秀、で構わん」
「ならば。お言葉に甘えて」
 あでやかな紅葉のような色をした頭髪の持ち主は苦笑まじりに城主の手を握り返した。初めてとはいわないが久方ぶりに見る同郷の人間に半兵衛は目を細める。
 数多くの戦いを切り抜けてきた者だけが持つ眼光の鋭さと自信に満ちた笑みが眩い。が、顔には疲労の色が濃く、目の中には苦痛すら見て取れるようであった。刀を振りつづけたために硬く磨り減った指先でさり気なく柄尻に手をかける。
 哀切の影が揺らめく瞳がこちらと交錯した。
 不安を打ち消すように軽やかに笑い、手を差し伸べる。秀吉も心なしか急かすように半兵衛の背を押した。
「紹介しよう、光秀。―――といっても既に知っているか? 竹中半兵衛重治。俺の軍師だ」
「お目にかかれて光栄です、光秀公。竹中半兵衛重治と申します。以後お見知りおきを」
「貴殿が? 道理で―――」
 驚いたように光秀の目が見開かれた。差し伸べられた手を握り返し、微苦笑を頬に刻む。
「ああ、いやすまない。ご存知ないだろうが、私は貴殿の兄上と友誼を結んでいたのだよ。いい奴だった………よく似ておられる、特に目元の辺りが」
「ありがとうございます。記憶に留めおいてくださったこと、兄も喜んでいるでしょう」
 やはり光秀は城の隅から見ていた己には気づかないでいたらしい。
「こちらでの接待は私が仰せつかっております。不出来の弟ではありますが、公のご意向に適うよう誠心誠意をつくさせて頂きます。機を見て兄の話など聞かせてもらえるならば嬉しく存じます」
「無論」
 安堵した表情で光秀がそっと笑った。




 接待役が誰であろうとやることは基本的に変わりはない。食材を整えたり、町を案内したり、客が望むものを取り寄せたりするぐらいだ。もっとも、光秀は派手好みではないので用意するのもかなり楽だったが。そもそも墨俣の場所が場所だから華美なものを取り揃えようとしても無理があるのだ。物見遊山に出かけようにも周囲は岩と山ばかり、狩りのできる草原には遠乗りに等しい距離を駆けねばならない。
 どうにかこうにか秀吉の面目は充分に立つだけの豪華な食事を用意し、白拍子を呼び寄せて舞いを披露した。差し支えない程度に城内も開放した。特別ですよ、と勿体つけて見せた墨俣の見取り図断片に光秀はいたく興味を惹かれたようだった。
「なるほど―――これならば確かに数日間で作れるな」
「天候も味方してくれたのでしょう。川の激流がなければ運搬だけでかなり日数を要したようでしょうからね」
 あんまり余計なことは話すなよ、と秀吉が目だけで釘を刺してくる。
 夕刻より始まった宴席はしとやかに続けられ、夜も更けた頃にはお開きになるはずだった。
 ―――しかし。
 旧友に再会した喜びで酒を煽りまくった小六が傍の部下数名と小一郎まで巻き込んで酒飲み大会に突入し、女癖の悪い侍従がこっそり白拍子を寝所に連れ込もうとして処罰が加えられたり、光秀の泣き上戸の部下が浪人暮らしの苦労を語って周囲の涙を誘ったりと、途中から普段の「木下組」の飲み会となんら違わなくなってしまった。
 どうも秀吉がわざとそうなるようにした向きがある。参ったなあ、と室内を見渡した半兵衛に対して彼は悪戯っ子のような笑みを浮かべてみせたのだから。
(際限なく小六殿に酒を勧めましたね。全く………)
 怒るより先に呆れるばかりだ。折角苦労して『上品そう』な宴会にしてみたというのに。
 ―――でも、おかげで光秀もすっかり緊張がとけたようだし、これでよかったのかもしれない。こちらも笑うしかなかった。
「おい、半兵衛」
「如何かしましたか?」
 少しばかり危うい足取りで秀吉が近寄る。道中立ちふさがっていた酔っ払いの数々は哀れ蹴飛ばされた。ほとんどが意識不明に陥っている大部屋で、それでも用心深く秀吉は耳元で囁いた。
「よくわからんがつい先刻、国境付近の警備連中から連絡が入った。ちょっと話を聞いてくる」
「私も参ります」
「いや、さすがに接待役が抜けるのはまずいだろう。俺のことは気分が悪くなったので眠ってしまったとでもいっておけ」
「城主が抜けるのも充分まずい気がしますけど………」
 ふたりして様子を窺えば光秀は酔いつぶれてしまった部下の介抱をしている。面倒見のいいことだ。
「じゃあ、後は任せたぞ」
 それだけを言い置いて秀吉はあっさりと出て行ってしまった。こちらの意見も聞かずにとっとと行動してしまう彼にただただ溜め息が漏れる。何よりも、そんな上司の性格を決して嫌っていない自分自身に。
 倒れ伏した面子を部屋の隅に寄せて用意しておいた薄布をかけていく。季節は春先、まだまだ夜になれば冷えるだろう。ことの発端になった小六は豪快な鼾をかきながら酒瓶片手に眠っている。取り上げようとしたが頑なに手を離さないので、卓にあった唐辛子を突っ込んでおいた。寝起きに一杯やった場合にどうなるかまで責任は持たない。泡を吹いている小一郎だけは丁寧に下敷きの上に転がした。
 向こうは向こうで部下を寝かしつけていた光秀と視線が合う。互いにもれるのは照れたような笑みばかり。
 散らかった室内から白拍子の一団が持っていた琵琶を探し出し、灯明片手に近寄る。意図を察した光秀がそこいらの食器を重ねて場を開けた。真中に取り出したのは未だ底をついていない徳利と杯がふたつ。
 まずは深々と頭を垂れた。
「光秀殿の手まで煩わせてしまうとは、かたじけのうございます」
「いや、気にする必要はない。それに………楽しかったからな」
 こんな肩肘張らない宴席は久しぶりだった、と笑う相手の表情は昼間よりもずっとやわらいでいる。穏やかな瞳の色が、かつて兄と話していた頃の姿と重なる。
 ビン、と弦を鳴らした。
「昼間、お会いしたとき―――」
 開け放った障子から涼やかな風が流れ込んでくる。先ほどまでの宴席の暑さを振り払うように差し込んでくる月の光は青く冴え渡っていた。
「嘘を、申しました」
「嘘?」
「疾うに貴殿を存じ上げておりました。美濃の、竹中の城にいた頃より」
 本当はその後にも一度だけ朝倉に身を寄せていた光秀と接触しかけたことがある。だがそれはまだ誰にも語るつもりはない。
「兄の―――重行のところに参る姿を垣間見ることがございました。と、申してもあくまで私の一方的な認識。貴殿が知らずとも致し方ないことではございますな」
「話だけは聞いていたぞ。病弱な弟がいると」
(病弱、ね)
 軽く笑う。体が丈夫でなかったのは本当だが、両親が外に出すのを厭うたのは肉体の不安よりも精神面を疑っていたからである。

 ―――きつね、きつね、名もないきつね。
 きつねは外に出たがった。

「親には随分と心配をかけました。ですが、いまはもう大丈夫です」
 途切れ途切れに奏でられる琵琶の音色が陰々と闇夜に透き通っていく。光秀は目を閉じて聴き入った。
「―――その昔、大陸より『玄象』、『牧馬』なる琵琶が渡来したとか。光秀殿はご覧になられましたか」
「確かに朝廷にはあろう………が、足利殿には未だ遠い高嶺の花。芯より名高き音色に聞き惚れたいと願うならば入京して宝物庫を探らねばならぬ」
「羅生門にて取り返したとの話もございます」
「件の門がかつての戦で崩れ落ちたことを知っておるわ」
 光秀は杯を傾けた。ぼんやりした目で眺める戸の向こう、冴えた月光に魅入るかのようだったが、フと態度を改めた。素人にしてはなかなか優れた引き手である接待役が何を演じているのか思い至ったらしい。半兵衛はゆるく笑んで歌詞をたどる。
「京の五条の橋の上、大の男の弁慶が、長い長刀振り上げて、牛若めがけて斬りかかる………」
「―――さんざ朝倉の館で聞きなれた音色だな。気づかなかった私も鈍いか」
 記憶を遡るように指先で濡れた口元をなぞり、音には逆らわぬよう気を配りつつ、全く異なった言葉を口にする。
「吉野山、峯の白雪ふみわけて、入りにし人のあとぞ悲しき。しづやしづしづのをだまきくりかえし、昔を今になすよしもが―――」
「軍記よりは華の人生に興味がおありか」
「法師の奏でる『平家』は暗記するほど聞かされた。岐阜でも似たような感じで………暗誦を望まれもしたぞ。かといって儚き白拍子の詠んだ歌を信長殿の前で口にするにはいささか刺があろう」
「足利公は良しと仰せられるのですね」
 かつて、この国を支配した武家の移り変わり。戦にまつわる人々の生き方は歌や舞いとして多く残されていた。特に義昭の心を射止めたのは名高き武将に惚れた白拍子の物語なのだという。
「美しくも強く、そして悲しい女よ。夫のために仇なす舞いを義兄の前で踊るとは、愚かしくも潔く我が胸を打つ―――と、語られてしまってはな。覚えざるをえん」
「その向きでいえば『伊勢』もお好みだったのでは?」
「然り」
 しかめっ面の光秀と目が合い、いかめしい顔をした半兵衛がもっともらしく頷く。間を置かずに互いの口から忍び笑いがこぼれた。頼むから足利公には秘密にしておいてくれと泣き笑いでせがまれる。
「確かに私は朝倉でさんざ貴族の文化というものに触れたからな、いささかかぶれているのかもしれん。それでもやはり武士以外の何者にもなりえんよ」
「はっきりと口になさればよいのです。さすれば諍いを減らすことも可能でしょうに」
「公に恩義があることは変わらん」
 あまりに苦い笑みをにじませて光秀は震えるほど杯を握り締めた。




 宴席から離れてひとり、自室へ向かう途中の廊下で報告を待ち受ける。『草』として活用している兵士のひとりが眼前の庭で跪いていた。
「何があった。詳しく話せ」
 自らも縁側に腰掛けて秀吉は尊大に問い掛ける。
「申し上げます。数刻前に東の国境を越えて何者かが侵入いたしました。その数およそ十、目的は不明」
「味方の被害は?」
「警備に当たっていた五名全てが殺されました。唯一、息のあった者も前述の内容を伝えた後に事切れてございます」
「そうか………」
 腕を組み、手をあごの下にあてて考え込む。夜風が酒で高まっていた熱を冷ましてゆく。
 一体、何者が? 普通に考えれば墨俣の攻略、もしくは秀吉の命を狙っての行動だ。だがこうして警備の者に見つかっているような連中だ、実力的には劣ると考えていいだろう。本来の目的とは違う関係でこの付近に入り込み偶々発見されてしまったのだとしても、一級忍者でないだろうことは確かだ。
(墨俣に忍びを派遣して得するような国があるか?)
 武田や上杉は諜報部を活用してはいるものの、現在の状況を鑑みれば朝倉や京に手を裂きたいはずだ。もしくは岐阜に兵を派遣して義昭との面談を邪魔しようと企むか。実質的仲介役である光秀を狙っての行動とも考えられるが―――。
(それなら道中でとどめを刺せばいい。随分お粗末な護衛だったんだからな)
 警備と調査の続行を言い渡して兵を下がらせた。
 時刻の変化をつげる月の位置に目をやりながら秀吉はもう一度宴席へ歩を向けた。「眠ったといっておけ」と命じたものの、少し飲み足りない気もしている。そこいらに放られたままになっていた部下たちも気になる。面倒見のいい光秀と半兵衛のことだから抜かりはないだろうけれど。
 静まり返った廊下を音もなく歩いていた彼は前方から聞こえてきた音色に立ち止まった。目を凝らせば宴席の真中辺りにか細い灯明が置かれ、青年ふたりがそれを取り囲んでいるのがわかる。ときに響く哀切な音は片割れの抱え込んだ琵琶が生じさせているものだ。薄闇色の瞳と燃えるような頭髪を突きつけてなごやかに談笑している。
 何故か近寄るのも憚られ、気づかれないようにしながら声の聞き取れる範囲まで近づいた。どちらとも区別のつかない声が細々と届く。

「思いきや、身を浮雲となし果てて、嵐の風にまかすべしとは………」
「同じ上皇の句でもそちらを持ち寄るとは趣味が広うございますな。埋もれ木の、花咲く事も無かりしに、身のなるはてぞ悲しかりける、と応えれば如何」
「そも、武士にしては悲しき歌よ。―――こんな歌もあったな。旅ごろも、夜な夜な袖をかたしきて、おもへばわれは遠く行きなむ―――」

(………)
 ―――何を話してるんだ、こいつらは?
 秀吉にはチンプンカンプンだ。かろうじて何処ぞのお堅い本からとってきただろう俳句や和歌の類だとわかっても、作者や成立年代については見当もつかない。農民上がりにしては知識が多い彼とはいえ、中身は専ら軍事方面に偏りがちであった。季節の節目ごとに茶会を催したり和歌を披露したりするお貴族様とは生まれも育ちも違うのだ。
 それを引け目に思ったことはないけれど―――。
(………楽しそうにしてんじゃん、あいつ)
 ここ最近、翳りの見られた薄闇色の瞳が楽しげに輝いている。思い返せばあいつとて武家階級の出身。自分などよりもずっと貴族文化に触れる機会は多かったはずだ。まして幼い頃は室内に閉じ込められていたのだから必然的に読書量も増したことだろう。そうやって得た知識の数々を、どちらかといえば野武士あがりが多い「木下組」の前では封印していたに違いない。
 だが光秀の前では隠す必要もない。思う存分、文学や芸術に関しての話題ができるのだ。満たされなかった探究心が鎌首をもたげてきたところで責められるはずがない。
 そう………己は何もいえやしないのだ。
 沈黙の内にきびすを返した。

「露と消えた女、儚く消えた女、ならばその名を問いしときに応えてやるべきだったと………」
「夢のない話を申せば光秀殿、件の女子は鬼にさらわれたのではなく連れ戻されたとの説がございます。其は如何に」
「事実を芸術に昇華したと考えてはいけぬだろうか。やはり物語の中には夢のみで語られる部分があってもよかろうよ」
「然り。夢に惑わされ実利を失わぬ限りはそこに生きるもまた一興でしょうな」

 背後から漣のように響いてくる声に送られて廊下をたどる。何故か悪態つきかけた自分に気づいて惑う。
(―――別に、ほんの数日間だけだ)
 腹が立つような寂しいような悔しいような気になっているのは、奴らが『高尚』な話題をしているからだ。
 決して決して、それ以外の理由なんてない。あるはずがない。
 自分自身を納得させるような言葉を繰り返しながらも足が止まる。しばしそのままの体勢で凍り付いてしまった秀吉の動きを再開させたのは、予期せぬ一言であった。

「―――何してるんですか、こんな処で」
「うわっ!?」

 咄嗟に口を塞ぐ。狼狽気味に後ろを見やれば先ほどまで来客と談笑していたはずの青年がやや呆れ顔で佇んでいた。何処に置いてきたのか琵琶も持っていない。意味もなく手のひらを袂で強くこすり、脇へ逸らしていた目線を元に戻して開き直る。
「お前こそどうした。光秀の接待をしていたんじゃなかったのか?」
「もう夜も更けたから引き上げましたよ。ちゃんと寝所の方には案内しておきましたからご安心を」
「いいのか? あんな盛り上がってたくせに」
 いってからしまった、と臍をかんだ。これでは自分から立ち聞きしていたとバラしたようなものではないか。
 なのに相手は興味も示さず「続きは明朝にまわしましたよ」と返す。
「明日は市にでも寄りますかと提案しましが、城内に留まって話をするだけで良いらしいので、せめて明後日は遠乗りでも」
「随分とまた安上がりな来客だな」
「話したかっただけなのでしょう。色々とつらい立場に立たされておられる………味方も少なく、同情せざるを得ません」
 常にないほど親身な言葉に秀吉の方が驚く。
(こいつ、そんなに光秀と話があったのか?)
 そうだとしても不思議はないけれど―――でも。
 でも、だ。
 悩む秀吉など素知らぬ振りで半兵衛が廊下の先を促した。先んじる形で自室への道をたどりながら、何故か背後の人物の内心を知りたく思いに駆られていた。




 翌日、秀吉はほとんど光秀と言葉も交わさなかった。というより、光秀と半兵衛ばかりが話していて割り込める隙がなかったのだ。朝も早くからご機嫌伺いに客間を訪れてみれば既に半兵衛が控えており、早速『万葉集』談義に華を咲かせていた。
 主人であるはずの自分だけが蚊帳の外になったまま朝食に突入し、庭に移動したふたりの跡を追ってみれば、やはりそこでも俳句に登場する花がどーの季節の木々がどーのと議論している。時折り半兵衛が気を利かせてこちらに話題を振ってくれるのだが如何せん、もともとの知識量が違いすぎる。すぐに置いてけ堀にされてしまうのでさっさと退散してやった。
 少し離れた窓辺より彼らを眺めてみれば大分目立つ取り合わせなのだなと気づく。
 色素の薄い半兵衛と燃えるような髪をした光秀。
 景色に溶け込みそうなほど控えめな軍師と、嫌でも目に付く大小を携えた武士。
 それでいてどちらの動きも優雅に洗練されていて、武士や侍というよりは『貴族』といった方がしっくりきそうなのだ。まとめての印象はチグハグでありながら噛みあっている微妙な歯車だ。
(………ふん)
 城主としてやるべきことは沢山ある。大抵は面倒くさくてややこしくて人を苛立たせてくれるような難題ばかりだ。それでも普段は疲れたときに半兵衛を呼んで手伝わせたり、場合によっては意見を聞いたり押し付けたりできたのでまだ楽だった。来客優先の原則に則って文句はいわずに済ませているものの、何か納得できない。
「無理せずに先生に来てもらったら? 兄さん」
「誰も無理なんかしてないだろ」
 助手代わりの小一郎に返す言葉も白々しかった。
 大人気ないとわかっていてもどうしようもない。かといって素直に苛立ってると認めるのもお断りだ。
 ともあれ秀吉の中で光秀に対する印象が悪くなったのは確かである。もうちょっと遠慮したらどうだあの馬鹿、友達いないのはテメェ自身の所為だろうがこん畜生、である。
 そんな訳で二日目の気分は最低だったが、三日目はマシになるだろうと考えていた。彼らが遠乗りに出かけるため、城内では目に入らざるを得ない連れ立つ姿が見えなくて済むからである。
 ―――なんて強気に構えていたのに、いざ明け方に出かけるふたりを見送ってからはやはり、何をしているか気になって仕方ないのだった。
 自分がこんなせせこましい部屋の中で執務に追われているというのに、あいつらはのんべんだらりと空を眺めながら馬に草でも食ませているのだろうか。でもって川の流れや雲の移り変わり、散りゆく花を見つめながら歌でも詠んでいるのだろうか。
(………別に怒ってるわけでもない、けど、ムカつく―――なんてコトあるはずないしな。どーせ光秀はすぐ帰っちまうんだ。いまだけだ、いまだけ。うん)
 とか考えている秀吉の横顔はやっぱり不機嫌そのものなのであった。
 傍で逐一眺めていた小一郎は「お手上げ」というように両腕を掲げた。




 こんなんじゃ捗る仕事も捗らない、と仏頂面した弟に部屋から叩き出された。半ば強制的に退去させられたわけだが、仕事をサボっていいといわれたも同然なので享受しておく。
 気晴らしに城内の庭を回っていると裏門辺りで何やら衛兵が騒いでいるのが見えた。割と背の高い、黒衣をまとった虚無僧と押し問答している。訪問者は堂々と城に入ろうとしたようだが当然衛兵は止めようとする。しかし「非戦闘員には武力を振るうな」との厳命が城内にくだっているために力ずくで追い払うわけにもいかない。ほとほと困り果てていた衛兵たちは秀吉を見つけてほっと安堵の息をついた。
「秀吉様!」
「何を騒いでいる。来客中だぞ、控えんか」
「はっ! ですがその、この僧がどうしても秀吉様に目通りさせろといって引かないものですから………」
 ―――引かない?
 嫌な予感と共に注意深く虚無僧を観察する。そして、

「―――っっ!」

 結論をくだしたのはすぐだった。どうかしたのですか、と訝しげに問い掛ける部下に「なんでもない」と返した後、わざとらしく咳払いをひとつした。
「あ〜………その、この僧は俺の知り合いだ。お通しいたせ」
「は? ですが、身分も明らかでない者を通すなと常日頃から」
「身分は俺が保証する。いいからっ、早く、通すんだ!」
 ―――この人がブチ切れない内に!!
 衛兵と虚無僧の間に割り込むようにして互いの視線を遮断する。予期せぬときに予期せぬ事態が起きてしまったようだ。しかもこーいった面倒事を押し付けるべき相手は暢気に客と遠乗りの最中である。虚無僧の背をどんどん中に押し込みながら衛兵に念押しする。
「いいか、これは内輪の来客だ。けっっっっして! 他所には! もらすなよ! いいな!?」
「? はあ………」
「よし!!」
 衛兵の疑念が深まっていくのがわかるけれど説明している暇はない。否、説明できるはずがない。後は振り返りもせずに虚無僧の腕を握り締めて大急ぎで城内へと飛び込んだ。
 人通りの少ない裏手の廊下を伝って手近な部屋に駆け込む。勢いよく障子を閉めてから誰にも見つかってなかっただろうなと慌てて辺りを見回す。連れて来られた方はといえばゆったりと腕組みをして面白そうに秀吉の様子を見やっている。顔を隠していた深編み笠を取り去った。

「なかなか部下の躾が優秀じゃねぇか。大したもんだ」
「………なんでこんな処にいるんですか、信長様っ………!!」

 振り向いた秀吉の顔は引きつっていた。もとよりこの主君が周囲の迷惑も顧みず行動する性質だと知ってはいるが、にしたって岐阜から墨俣まで単独で来るのは如何なものか。今ごろ向こうは天地をひっくり返したような大騒ぎになっているに違いない。
「一体なんの用で墨俣に? いま、そちらは将軍を迎える準備でてんやわんやじゃないんですか?」
「だから来たんだろーが。キンカン頭を連れ戻しによ」
 口元をひん曲げた主君の表情はこれ以上はないくらい意地悪く感じられた。どっかとその場に座り込み、悠然と柱にもたれかかる。諦め半分、抗議半分の溜め息をついて秀吉は通りすがりの近習を呼びつけた。内は見せないよう注意しながら小六と小一郎を連れてくるよう命じる。
 信長の前に正座して膝を寄せた。
「連れ戻すだけなら連絡をくださればよかったんです。そうすれば槍でも鉄砲でも使って追い出しましたよ」
「俺自身が来た方が逃げ道なくなっていいだろ? あんにゃろー、未だに織田と足利の間で揺れてやがる。岐阜で微に入り細に入り問い詰めてやったら逃げ出しやがった」
 どんな風に問い詰めたんですか、とは恐ろしくてとても聞けない。意に反して光秀に同情してしまいそうだから。
「どちらにつくか最初から決めておいた方が楽に決まってんだ。現在の状況を見てみろ、将軍家に肩入れする理由が何処にある」
「………恩義を感じているんでしょう、浪人状態だった自分を拾ってくれた足利に。礼儀正しいのは悪いことじゃないと思いますけどね」
 なんだって自分は光秀を庇うような発言をしているのか戸惑いを覚える。案の定眼前の主君の機嫌は下降してしまった。紛らわすように言葉を継ぎ足す。
「俺だってあいつのじれったさには辟易してます。でも優秀なことは確かですから、手駒として捕らえたいなら強要せずに―――。………あ゛」
「? どうした」
 突如言葉をつまらせた相手に信長が眉根を寄せる。すいません、ちょっと待ってください、というように片手を前方に突き出して押し留める。
(もしかして、あいつ最初っからそのつもりで………)
 秀吉の視線が鋭さを増した。
 ―――もし、半兵衛が最初からそのことに気づいていたのなら。
 数日前にきちんと口にしていたではないか、「光秀は己の立場と行き先を考えるために此処に来た」、と。
 決して朝廷に付かせぬよう親切顔で近づいて、同情している素振りを見せつつ光秀の心を織田側に傾けさせることだって可能なはずだ、あいつなら。
 ―――凋落を得意とする、『竹中半兵衛重治』ならば。
 そうすれば主への対応を疎かにしてまで客人にかまっていたことの説明がつく。
「おい。黙り込んでどうかしたのか?」
「―――信長様。多分、光秀に関しては問題ありませんよ」
「何故だ」
「半兵衛が説得に当たっていますから。帰ってきたらもう織田に仕える気になってるでしょうよ」
 奇妙に口元を歪めて秀吉は笑った。その裏を射抜くような信長の目線が突き刺さって我知らず顔を僅かに俯ける。
 廊下の先から聞こえてくる足音と人声に小六たちがやってきたことを知った。一足先に立ち上がって気の早い主君の行動を予測する。
「丁度あいつらは遠乗りに行ってますが―――なんなら迎えに行きますか? いま、すぐ」
 信長が不敵な笑みで応じたのはいうまでもない。

 

→ 中編


 

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