「元服を終えたか。………立派になったものだ」
「ありがとうございます」
 障子越しの日の光はやわらかく、開かれた隙間から覗く庭には真紅の花が揺らめいていた。床に伏せた兄の姿を少年は黙って見つめている。
「だが、もめたのだろう。ここまで声が聞こえてきたぞ。―――なにを争っていた?」
「名を―――………」
「名?」
「彼に名を与えてほしいと………申し出たのです。父上はお怒りになられましたが、最後には折れて頂きました。いつまでも己で付けただけの名前では腹立たしい」
 きっぱりと親への不満を表明する弟に彼は笑った。やせ細った手を差し伸べれば静かに少年が握り返す。大人しそうな外見に似合わず、震えを押し込めるほどの強さで握り締められた。
 どのような名を与えられたのだ、と問う青年に相手ははにかんだ笑みを見せる。

「竹中総兵衛元治―――それが彼の名前です」

 青年が破顔する。
「………そうか」
「はい」
「半兵衛、己が半身を愛おしめよ。彼こそがお前を支えるものだ。竹中の家を守るのは―――お前たちだ」
「兄上の頼みなれど―――許してくださいませ。わたくしは家督は継ぎませぬ。一族は守れども家督は継ぎませぬ、兄上。私―――私は………」
 握り締めた手の上に顔を伏せ、感情を抑える少年に向ける眼差しはあくまでもあたたかかった。
 どこまでも自らを異端と決め付け、誰とも関わりのない世界に入っていこうとする弟をこれ以上助けてやれないことを苦しく思う。
 いつか、誰かが彼らの全てを受け入れてくれることを切に願う。
「案ずるな、半兵衛。そして総兵衛。今生の別れが全てではない………輪廻の先に紡がれていればこそ、こうして出会えたのだから」
「兄上………」
「また会おうぞ。お前たちは私の誇りであった」
 徐々に力をなくしていく腕を、色を失っていく瞳を、少年は瞬きひとつせずに見守っていた。

 


春のまろうど ― 中編 ―


 

 吹き抜ける風が心地よい。城内にこもったきりでは感じられるはずのない木々の葉ずれを耳にしながら流れゆく雲を目に映す。山中を走り続けることしばらく、狩りに最適な開けた草原が眼前に広がっていた。鷹も手になく追うべき獲物を求めるでもなく、ただ並んで馬を徒歩で進ませる。
 此処に来てより既に数刻が経過しても交わされる言葉はごく僅かだった。光秀は時折り風に乱される髪をかきあげては深く溜め息をついている。傍らの半兵衛は彼の様子を目の隅に留めつつ、そっと意識の奥底の糸を手繰り寄せていた。糸はか細く、少しでも気を抜けばすぐに途切れてしまう。が、あの琵琶湖の一件以来、日に何度かはこうするのが癖になってしまった。
 ―――そうすることでしか、『もうひとり』の生存を確認する術がない。
 たどりたどって相手に行き当たる直前で見えない壁に阻まれてしまう。ただ、不可視の壁の向こう側で生きていると思しき鼓動ばかりが伝わってくる。おそらく彼も自分の生き死にを微かな感覚でしか知ることができないでいるのだろう。
「私は………迷っている」
 付近から搾り出された声に半兵衛は顔を上げた。
 馬の手綱を硬く握り締めたまま光秀は前方の虚空を睨みつづけている。一言、一言、苦労して押し出された声は重く響いた。
「織田に組みするか―――足利、引いては将軍家に組みするのか。信長殿は優柔不断な私を責めているのだが」
 お前は、どう思う?
 率直に問い掛けられて静かに目を伏せた。
 主君である秀吉は自分が光秀を凋落するために取り入ったと思っているのだろう。確かにその考えがあったことは否めない。
 同時に、純粋に兄の友人に興味がわいていたということも。
 考えを述べれば彼は動揺するだろう。答えをはぐらかして秀吉の望むように彼を完全に織田に引き込むこともできる。
 けれど―――………。
「貴殿がいずれに組みするかによって、運命が変わるのやもしれませぬ」
 どちらを選択するのか、その権利はあくまで光秀自身が握っているべきだ。たとえ将来においていまの選択を悔やむときが来ようとも、最後まで全責任を自身で背負っていけるように。
「信長公が将軍家の名を利用しようとしていることは明々白々。他の大名と比べても特に朝廷に対して敬意を払っているようには見えませぬ。むしろ、新体制を作り上げようとしている公から見れば将軍など無用の長物………入京を果たすための大義名分として扱い、その後は態度も疎かにあしらうことでしょう」
 瞬間、光秀が傷ついたような色を浮かべたが敢えて無視する。
「将軍家を敬うという点では越後が上回り、軍事力も未だ甲斐に遠く及ばず。いまは将軍も感謝こそすれ、信長公のあの態度ではいずれ軋轢も生じてきましょうな。如何に将軍が他をけしかけようとも結果的には威光の空回り………かくなる展開になったれば、貴殿は足利の命脈を絶つための伝道者になったともいえましょう。室町の幕引きに、貴公が手を貸すのです」
「ならば」
「ですが」
 有無をいわせず先をつづける。とにかく、伝えられることだけは伝えなければ。相手はかなり切羽詰っているようだけれども迂闊な行動はしてほしくない。短慮を起こされては織田全体の―――つまりは、そこに属している秀吉の不利となってしまうのだから。
(それに………貴公とて報われたいと考えておいでのはずだ)
「天の時、地の利、人の運、現時点でこれらに秀でているのが織田であることもまた事実。有利であるはずの浅井・朝倉は豊かな土地に満足し腰を上げようともいたしませぬ。他大名も名乗りをあげるだけの資格はあれど如何せん地が離れすぎている―――東西の要所である美濃を抑えた織田には何より勢いがある。桶狭間の戦よりほぼ常勝無敗、情け容赦のない戦いぶりはそれだけで相手の気勢を殺ぎましょうな」
「………」
 遠く彷徨わせていた瞳をこちらに向けて、光秀は何がいいたいのか、と半兵衛に問い掛けてくる。
 一体この軍師は織田に組みするよう勧めたいのか勧めたくないのか―――立場だけで考えれば紛れもなく前者であるはずなのに。
 一際強い風が舞い上がる、それが収まるのを待ち構えてから半兵衛はおもむろに口を開いた。
「もし、貴公がいまよりの栄誉と功名を求めるのであれば」
 惹かれあうが如く視線がかち合った。
「織田に組みするしか―――道はありませぬぞ」
 光秀の唇が苦しげに歪められた。
 わざと織田へ引きずり込むような真似はしない。………が、もし彼自身がより以上の出世を望むならばこの道を選ぶしかない。
「申し上げては難ですが、所詮貴殿の身分は浪人上がりの一兵卒。美濃の斎藤に仕えていたとしてもそれは既に過去のこと、いまや美濃は織田の傘下にあり稲葉山も岐阜と名を変えてございます。敗者の側に組みしていた人間をどの大名が進んで雇い入れようとするでしょうか」
「………能力があったとしても、か」
「身分や世襲がものをいうのは貴殿もご存知のはず。実力を示せばそれだけで充分とする制度を採用しているところを、残念ながら私は織田以外には知りませぬ」
 言葉に苦さが混じらざるをえない。
 本当に―――何故、光秀ともっとも反りの合わなさそうな信長こそが、もっとも光秀の能力を生かせる体制を整えているのだろうか。家柄も出身も関係ない。実力がありさえすれば這いあがれる、その恩恵に一番預かっているのが秀吉なのだから文句などいえようはずもないけれど。
「そうか………」
 一声、零して光秀は空を見上げた。
 青と白を背景に鳥たちがおおらかに羽根を広げている。大きく弧を描きながら南へとくだり、また北へと昇る………その動きを繰り返しながら叢に隠れる獲物に狙いをつけている。
「半兵衛、お前は一体私にどうせよといいたいのだ?」
「何も」
「―――何も?」
「何も。わたくしの意見など聞き流してくだされば結構。ただ、己の納得がいく道をお選びくださいませ」
 ク、とそこで低い笑い声を含ませた。裏のありそうな声音に光秀が眉をひそめる。
「………お前は秀吉に頼まれて説得にかかっているのかと思っていた」
「それもありました。―――が、それだけではありませぬ」
「ほう?」
「貴公は憎めない方だ。いつか戦うことになるとしても先に延ばしたくなるは当然でしょう」
 今度こそ本当に光秀は呆気に取られてしまう。
 ………軍師が、こんな明け透けに物事を語っていいものだろうか?
 お世辞や冗談なら笑って流すこともできようが、何故か眼前の人物は至極まじめな表情をしているのだ。やわらかく笑みを浮かべた薄闇色の瞳が嘘をついているとは到底思えない。
 だが、たとえそれが本心でも。
 戦いたくないのが本心でも、いざそうなれば迷わずに刀を振り下ろすのだろう。
 遠い目で光秀が上空を見るのに釣られて半兵衛も目線を上げた。
 変わらず優雅に舞う天の鳥がその軌跡を狂うことなく描き出す。幾つかの筋が重なり合い牽制しあい、青空に剥がれ落ちた羽根を舞い散らせる。
 フ………と彼は表情を険しくした。
 辺りに神経を配り、草原の奥に控えている森までも視野に入れた。
 背後には山道、前方には深い森、そしてふたりが位置している見通しのいい草原―――。
(しまった、か?)
 これだけ空気が流れていてはどんな小声でも伝わってしまう。
 未だ空を見上げたままの光秀の腕を引き、目の動きだけで上空の鳥を指し示した。
「鳥は―――自由なものですね。飛ぶ姿ひとつにも規則があり、折り目正しいというのに」
「………?」
「奥州の書物にもかような記述がありましたが………見かけたは出陣間際の兵であったか否か」
 光秀がハッとした表情を押し隠す。丁寧に腕にかけられた手をのけると、はずれかけていた手綱の存在を確かめる。舌で唇の渇きを癒した。
「その列を破る―――というわけだ」
 黙って確信に満ちた頷きだけを返した。近くをすり抜ける風がかきたてる草のすれる音がやたらはっきりと聞こえる。
 さり気なく、何気なく馬の首をもと来た山道へと返す。逸りそうになる心を抑えて一歩一歩、着実に山道へと向かわせる。背後から感じる気配は嫌でも感じられるほどに大きくなっていた。
 機を逃したら揃ってやられてしまう。

「―――走って!!」

 叫びと同時に風切る刃が間近を通過した。雨の如く飛来した矢の数々を刀で振り払い、立ち往生しかけた光秀の馬の尻を一撃する。飛ぶように駆け出した背に半兵衛も必死で追いすがった。並んで山道を駆け下るふたりを狙う矢数は減ったけれど、今度は恐ろしいほどの殺気が立ち上ってきている。こんなに気配を露にするとは、さては二流の暗殺者だなと品定めする。
「半兵衛! 心当たりは!?」
「ありすぎてわかりませんね。光秀殿こそお心当たりがあるのでは!?」
「いってくれる―――が、私たちが目的ではないかもしれんぞ! 突然すぎる!!」
 馬蹄にかき消されぬよう叫びながら光秀は飛来した矢を叩き落とした。
 向こうの森より突然射掛けてきた人数は十に届くか届かないかだろう。矢から刀に持ち替えて追ってきているのか、飛んでくる矢はほとんどなくなった。
(狙いは光秀殿―――もしくは秀吉殿か? 私という可能性も考えられるが………)
 それよりも更に狙われるだろう人物に生憎と心当たりがあった。だとしたら、落とし前は身内がきっちりつけねばなるまい。このまま走りつづけて墨俣の城に侵入させるなどという愚を犯してはならぬ。
「光秀殿! こちらへ!!」
 細い脇道へと誘導する。背後に自分たち以外の馬のいななきが複数、接近した。
 やや遅れていた光秀と馬の首を合わせて告げる。
「この先に分かれ道があります。貴殿は右へ」
「単独行動でいいというのか!?」
「時間から考えてそろそろ秀吉殿が皆と共にこちらへ向かっているはずです。合流した後に迎えを寄越してください」
「お前はどうする!」
「迎え撃ちます―――策がある故にご安心を!」
 あでやかに笑ったその姿に、光秀がいまは亡き兄の面影を重ねたかどうか………。
 それと意識する前に、訪れた分岐点で彼の馬は自然と流れから右の道を選択していた。
 半兵衛は左の急斜面を駆け下りると一気に首を返して再度山道を駆け上がった。木立ごしに光秀が真っ直ぐ走り去っていくのが見える。更に後ろから付き従う影が二、三あったようだが、光秀の実力ならばあの程度の追跡、かわしきれるはずだ。挑発するように飛んできた矢を軽く避ける。
 此処で持ちこたえるべきは―――己!
 残りの刺客が周囲を取り巻いたのを感じつつ腰にさした刀を抜き放った。




 随分とまた懐かしい夢を見たものだ。幼い頃の自分を受け入れてくれた唯一の人。
 寝ても覚めても変わらぬ真の暗闇の中でうっすらと意識を覚醒させる。今日も今日とて精神の糸を追いかけてみればやはり途中で断絶されて、やれやれ困ったことだなと、さして焦りもせずに考えていた。あいつのもとに帰るのは当然すぎて問題になるのはそれにかかる時間だけだった。
 薄暗い闇の中に時折り光が瞬く。ところどころ垣間見える隙間からは時代ごとの風景や人々の営みが流れ込んでくる。時間は過ぎ行くものではなく、ひとつところに留まり眺めることができるものだと知ってからは満たされた知識欲で苛立ちを静めていた。

 だが―――もう、こうしてはいられない。早く帰らなければ。
 でないと、取り返しのつかない事態になってしまう。

 闇の向こう側にうっすらと白い霧のようなものがわき上がった。徐々に輪郭を露にしたそれは、やがて銀髪の少女へと姿を変じた。落ち着いた紫色の瞳でこちらを見つめる。
『どうしたの? なんだか慌てているようだけど』
『ああ。そろそろ帰らなければならぬと思ってな』
 顔色だけでは焦りの色など微塵も窺えぬ。
 両手を組み合わせ、意識を集中させた。上下左右もわからぬ空間ではあるが、少しずつ彼の手元に集められた光が細い線を描き、途切れそうになりながらも闇の果て目指して伸ばされてゆく。
『きっとあいつが危ない目に遭っている―――行かなければ』
『でもあなたはまだこの<狭間>に囚われたままじゃないの。どうやって行くつもり?』
 少女が危惧するのもわかる。
 もともと意識だけ『こちら』に飛ばしていたところを、相方が急に『現実』へ引き戻されてしまったものだから一緒に帰ることができなかった。自分が『こちら』の世界に興味を抱いていた所為もあるのだろうけれど。おかげで精神が双方の<狭間>に落ち込んで浮上できなくなってしまった。どうする宛てもなく浮遊していたところを彼女に発見され、いまに至る。
 <力>の使い方を教えてくれたことには感謝しているし、彼女の連れにもまだまだ興味は尽きない。
 けれどなにを最優先するのかと訊かれれば、やっぱりあいつ以外にはいないから。
 力強く笑って振り返る。
『いまさっき、絡んでいた<糸>をようやく断ち切れた。だから、もう、行くよ』
 告げられた相手は喜ばしいような悲しいような複雑な表情をしていた。此処で別れて、また会えるという保証はなにもない。ただでさえ時空の狭間というありえない地点での邂逅だ。彼がこの道をたどるのをやめれば、彼女が力を失えば、容易く閉ざされてしまう頼りない繋がりだ。
『彼にも挨拶しておいてほしいな。本当に少しの間だったが楽しかったと』
『私を通しての不十分な出会いだったけれどね。止めはしない―――けれど、油断はしないで』
 やわらかく微笑んでいた頬を緊張に包ませて、瞳に冴えた色を煌かせる。
『あなた達は私と同じ<力>に目覚めてしまっている。誰にも………そう、秀吉にでさえそのことを知られてはいけないわ。たとえ彼が察したとしても、望んだとしても、決してその力を解放しては駄目』
 少女はほんの僅かまぶたを閉じた。

『こんな能力―――不幸以外のなにも呼びやしないわ』

 黙って耳を傾けていた青年は手元の光にじっと見入った。紡ぎだした元の世界への道筋は、時空の風に煽られて揺らめきながらも途切れることなく先へ続いている。いつもは中途で閉ざされてしまったこの道も、いまならたどりつくことができるはず。
『呼ぶのが不幸だけとは思えないぞ。この力がなければあいつの片割れになんてなれなかった』
『………』
『貴重な経験もできたし、お前達とも会えた。それだけで充分満足できる結果だろう』
 苦笑を口元に滲ませながら、少女は頷きを返した。
 数ヶ月にも満たぬ出会いの中で、やたら前向きな青年の考え方に救われたこともある。自身の片割れである黒髪の少女も前向きだけれど、青年はもう少し違った意味で前向きだった。あまりに明るすぎて、頓着がなさすぎて、未練や執着すらないようでこちらが不安になるぐらいに。
 てのひらに束ねた光の糸を手繰り寄せ、青年は闇の中を歩き始める。
 最後に大きく振り向いて笑いながら手を振った。

『また会おう、ヒカゲ。いつかどこか―――時空の果てで!』
『ええ………また会いましょう。総兵衛』

 手を振り返す少女の前から少しずつ青年の影が遠ざかり、やがて完全な闇に呑まれた。




 森は不気味な静寂に包まれていた。昼日中、小鳥が歌を歌い、風のざわめきが心地よく木々の葉を揺らしてもおかしくはない時節。だのに生い茂った木々は暗い影ばかりを地面に落としこみ、生けるものは全て己が縄張りの奥深くに逃げ込んでしまったかのようだった。細く長く、人為的につくられた道のみが異彩を放つ。
 道の真ん中に鎮座した物体が行く手を塞いでいる。こげ茶色の丸まった背をさらし、数刻前まで動いていたそいつには矢が幾本も無残に突き刺さり、傷口と虚ろなまなこに蝿をたからせ、口からは泡と舌をあふれさせていた。僅かずつ滲み出す錆びた液体が赤とも黒ともつかない染みを地面に広げてゆく。死肉をあさりにくるであろう野犬や狼の類もいまはまだ見られなかった。
 主人をかばって死んだ馬の遺骸などそっちのけで黒装束の男は周囲の気配に耳を澄ましていた。
(―――どういうことだ?)
 苛立ちは隠せず握り締めた小柄に力がこもる。
 仕留めたはずだった。
 あの獲物は、完璧に仕留めたはずだったのだ。
 標的を探して侵入した国境で暢気に空を眺めているふたり組みを発見した。身に着けた衣装の豪華さや腰に下げた太刀から名のある武士なのだろうとすぐに知れた。こいつらの首を土産に持っていけば主君も喜ぶだろう。そんな感じで乗り出した気楽な『人狩り』。だが、予想外の展開が自分たちを待ち構えていた。
 かなり遠くから様子を窺っていたというのに、男たちはすぐに馬首を巡らすと一目散に逃げ出したのだ。
 存在に気づかれたのでは今後の仕事に支障がでる。もしあいつらが城に仕えている侍ならば、警護が厳しくなり目的も果たしにくくなってしまう。
 ―――裏切り者は罰されなければならないというのに。
 矢を射かけて足を止めるはずが、侍どもはかなりの手練れらしくことごとく空中で叩き落とされた。そればかりか、ひとりを先に行かせた上で片方は引き返してきたのである。殺人を生業とする自分たちに歯向かうとは愚かそのもの。瞬殺してすぐに逃げた一名の後を追うはずだった。
 だが―――予定は狂った。
 長い髪をなびかせた青年は恐れる風もなく矢を叩き落すと、手近な草叢に飛び込んだ。目にも止まらぬ速さで木をかけのぼり、上で待機していた仲間の後頭部を強打した。そのまま落下した相手の鳩尾にとどめの一撃。低く呻いた仲間が昏倒する。
 油断ならぬ相手と数人で囲めば危機を見てとった馬が舞い戻り、投げつけた武器を全て防いだ。その間に男はまたしても姿を眩ます。考え方といい身のこなしといい、どうにも自分たちと似通いすぎている。
 たかが武士が何故、自分たちと同じ『忍び』の術を身につけているのか。疑問に感じても追求している暇はない。一対多数とは思えぬほど戦力は拮抗していた。
 辺りに散らばった仲間の気配は闇に溶け込んでいる。自分たちの敷いた陣形から敵が逃れられるはずはない。こらした目のすぐ脇を汗が伝い落ちていった。
 足元の草を踏みしめた。

 ―――!!

 途端、襲い掛かってきた凄まじい殺気に武器を取り落としかける。普段は狼狽しないはずの己が手足を震わせて動けずにいる。尋常ではない気に飲み込まれそうになりながらも殺気のもとへ顔を向けた。
 しかし。
「………?」
 振り向いた先にはなにもなく、誰かが立ち去った後とも思えない。全ては己の気の迷いだったかと持ち場に戻りかけた首筋に、なにか冷たいものが触れた。
 それが短刀の切っ先であると認識するのにやたら時間がかかった。

「動くな。声も出すな」

 背後から響いた声は低く抑え付けられている。急所に突きつけられた刃を信じられない思いで彼は見つめていた。囁かれる声はこのような状況に似つかわしくないほど落ち着いていて穏やかだ。
「お前たちの目的はなんだ。なにを考えている」
「―――」
「答えるはずもない、か」
 問いかけは通過儀礼に過ぎないと割り切っているらしく、落胆の色は感じられなかった。触れる刃に傷つけられぬ際どい線で背後の闇に目をこらすと微かに視線がかみあった。
 素人らしからぬ冷静な薄闇色の瞳と、異国の血でも流れているかのごとく色素の薄い髪。整った顔立ちが余計にこちらの屈辱を煽る。如何にこいつが忍びまがいの体術を身につけていようとも、『本物』である自分たちに敵うはずがない。上役に仕えて美味い汁吸ってるだけの連中と同等であってなるものか。
 既に仲間の幾人かが打ち倒されているというのに、彼は未だそんな些細な点に拘っていた。
 それこそが忍びにあるまじき感情の動き、それこそが相手の動きを読みきれなかった言い訳になるのだろうか。なぜか悔いるように閉じられた薄闇色の瞳を見届ける間もなく、握り締めた武器を背後へ叩きつけようとした。
 そして。
 ―――地に這った。
 訳もわからずに視界が回転し、あまりに近い大地の色に自分が倒れこんだのだと理解する。足首から伝わるしびれが傷の深さを物語る。
 動けないように、追ってこれないように、手出しできないように。
 どんな目に遭わせてもよいから誰かを捕らえて来いと命じられた自分たちがよく取る手段。まさかそれが自らの身に降りかかってくるとは。
「仲間の助けがくるまで、ここで気絶していることだな」
 平然と両足の腱を切り裂いてくれた男は眉ひとつ動かさず、こぶしを急所めがけて打ち下ろした。腹に叩き込まれた衝撃は堪えようもなく、この世界で働きだしてから初めて彼は意識を手放した。




 確実に相手を気絶させてから半兵衛はその場を離れた。刃についた血を拭い去っている時間はない。次の標的を探して彷徨う視界の隅に、先ほどまでは生きて動いていた馬の姿が映った。僅かに目を伏せる。
(すまない)
 同じ『人間』に手傷を負わせることよりも、見知った『動物』の死にこころが痛む。
 共食いなど、どんな獣ですら採らぬ手段だというのに、人間は平気な顔して殺しあうのだから始末に終えない。武士とはその最たる職業だ。足音も立てずに血の匂いのこもり始めた現場から遠ざかる。
 あとふたり―――いや、三人か?
 なんとしても城内に侵入される前に食い止めなければならない。彼らのいでたちからして出身は東国、おそらく武田の下級忍者。思い当たる節のありすぎる相手だ。場合によっては秀吉にまで難が及ぶかもしれないこの事態を招いたのは自分なのだと思うと、多少の無理をしてでも此処で食い止めなければならないとの思いが強くなった。
 一対一の闘いに持ち込んで仕留めてはいるが、とどめを刺さない生温い手段ではその内手痛いしっぺ返しをくらうかもしれない。動けないよう足の腱を切り骨をへし折っておいたところで、手の打ちようがない訳ではない。自滅覚悟で技を仕掛けられないとも限らない。どちらにせよ、『素人』の半兵衛相手に怪我を負った『忍び』を待つ運命は死しかないのだから。今後の仕事に支障をきたすような傷ならば、その時点で手当てもされずに捨て置かれるだろう。とどめを刺さないのはある意味、残酷なのだともいえた。
 それでも―――。
 殺さずに………死なずにすむのなら、それが一番よいではないか。
 殺すことを躊躇う己の代わりに、いずれ誰かの手が血で汚れることになるのだとしても。
(ただの逃げ―――か?)
 自嘲気味の笑みを頬に刻み込んだ。
 移動のときに影が地面に映らぬよう配慮しながら位置を確かめる。これだけ仲間が倒されたのだ、向こうとて警戒を強めているに違いない。取り囲まれた際に見た限りでは、二流忍者の中にひとりだけ一流が紛れ込んでいるようだった。おそらくあの男が首領だ。たやすく手がかりは掴ませない。倒されていく部下の姿には目もくれず、半兵衛の手の内を読もうとしているのだろう。迂闊に動くのは危険だった。
 とはいえ、さらすほど数多の手法を心得ているわけでもない。隙を見て相手を襲い、仕留めるという最も一般的手段しか習得していない。師匠代わりとした男は半兵衛が忍びの技を身につけることをよしとしなかったので。
 あなたの武器はその頭脳のはず、相手を殺せば終わるなんて簡単な方法に興味を持つ必要はない、あなたも、あなたの大切な人々も、全て私が護るからそれでよいではありませんか―――と。断固とした口調で語られてしまっては引き下がるしかなかったのだ。
 注意深く周囲に気を配り、ふと足を止めた。
(………いた)
 草叢に意識と体を同化させた男が眼前の開けた場所に目を凝らしている。正面の開けた土地に影が過ぎらないか集中しているのだろう。これまで倒した四名の内、ひとりが開けた場所を点検して残りの三人は同じく草陰に潜んでいた。森の内と外、両方から見張っているようだ。単純に戦力を二手に分けたと想定すれば、内側の見張りは眼前の男で最後ということになる。
 袴の裾を絡まぬよう足首にまとめあげる。息を殺し、気配を絶つ。頭の中は真っ白に染まりなにひとつ浮かんでこなくなる。相手を狙う瞬間に細かな思考や作戦はあまり関係ない。意味を成すのはそれまでに身体に叩き込まれた技術と本能、そして運だけだ。如何に己の被害を少なくし敵を仕留めるのか、最小の被害で最大の利益を上げられるのか。盤上の戦略など現場ではなんの役にも立たなかった。
 握り締めた刀は体型に見合ってやや小ぶり。威力はなくとも動かしやすい点が気に入っている。
 踏み出す一歩、敵が振り向く。
「貴様!?」
 朱色の線が宙を舞った。男が開けた場所に飛び出し、弾き飛ばした小石が近くの崖から転がり落ちていく。一撃で気絶させられなかったことに半兵衛は舌打ちした。
 刀を鞘に仕舞い込み、倒れこんだ男の腕をひねり上げる。両腕を後ろに回して上へ持ち上げれば大抵の者は根を上げる。拷問する際はこうして縛り上げた両腕を梁から吊るすのだ。やがて腕は自重に耐えかねてひび割れる。無論、野外ではそんな真似できようもないから僅かに力を込めておくにとどまっている。動きを封じられれば問題はなかった。
 肩口から血を流しながら男が呪詛の声を漏らす。しきりに暴れまわるのを後頭部への打撃で黙らせた。脳震盪を起こした首が重く傾き、体重のほとんどがこちらにのしかかってくる。それでも男は意識を失わずに反撃を試みている。
「動くな。足にくるぞ」
 忠告したところで相手には受け入れてもらえないだろう。この状況、どこからどう見ても己の方が悪役だなと我知らずため息をもらした。
 彼らには首領を仕留める間に眠っていてもらいたいだけなのだ。けれど頭部への衝撃を受けて尚、動こうとするこの男を止めておくためには、頚椎の神経を断ち切って自由を奪うしかないだろう。しかしそれでは再起不能に陥る可能性がある。こんな田舎の、彼らにしてみれば些細な任務で今後の人生を棒に振らせることに若干の迷いが生じた。
 けれど。
 決まって脳裏に描かれるのは、どうしてもしあわせになってもらいたい人たちの笑顔ばかりで。
 表情も変えずに半兵衛は敵の頚椎に指先を伸ばした。
 瞬間。
 空気を切り裂く鋭い音が鳴り響いた。
 突如飛来したくないに作業が中断される。足元に落ちていた敵の短刀を利用して叩き落とし、武器の飛んできた方角に盾代わりとして男の体を前面に押し出した。対抗する森の中に目を凝らせば、ゆっくりとした足取りでふたり組みの男が出てくるところだった。
 明らかに―――これまでの奴らとは、迫力が、違う。
 大将格らしき男がうっそりとした声で呟いた。

「………大した男だ。たかが武士と侮っていたことを詫びよう」

 さて、どうするか。敵を前にして考えを巡らす。
 日の光のもとに姿をさらしてしまっている自分は圧倒的に不利だ。奇襲攻撃が有効だったのは互いの影も捕らえきれない闇の中にいればこそ。こうして視認できる距離にいたのでは素人と玄人の実力には天と地ほどの差が生じてしまう。いますぐ武器を捨てて森に逃げ込む暇さえ与えてくれそうにない。
 敵方がわざわざ出てきたのは最低限の敬意を表してのことなのだろうか。
 顔の半分を覆面で覆い、男はつまらなそうに懐に手を突っ込んだ。
「だが、これで終わりにしよう。さらばだ」
「!?」
 放り出された物体に目を見張る。

 ―――爆薬!?
 馬鹿な、そんなことをしたら人質も巻き添えに………!!

 一流の忍びならその程度やって退けると頭では理解していても、やはり瞬時の行動に迷いが出た。
 耳をつんざく轟音と視力を奪い去る閃光の嵐。
 身体に襲い掛かる衝撃がどれほどの威力なのか推し量れぬままに、搾取された五感に神経の糸を焼き取られた。




 未開の地を行くというのは苦労の連続であると同時に愉快でもある。普段、狭いところに押し込められている人間は殊更にそれを感じるのだろう。四方八方、どこを見ても壁など存在しない。
 どこへ行ってもいい。なにをしてもいい。
 誰にも気兼ねなく行動できることこそがなによりの贅沢なのだと………気づいたのはいつだったか。視線を上向ければ数羽の鳥が飛び去っていくのが見えて。
 ああ、いいなあ、と。
 なんとなく秀吉は呟いていた。
『空中や水面下における鳥の努力は凄まじいものですけどね。それでも『自由』の代名詞として使うのですか?』
 なんて、見知った奴のいらん言葉まで思い起こしながら。
 先頭を行く信長があまりに自信たっぷりなので、「ちゃんと道わかってんだろーか」という不安に駆られながら。
 上機嫌の上司は破顔一笑、腕を伸ばす。
「なかなかいいところじゃねーか。今度、狩りでもしてみっかぁ?」
 都合さえよけりゃいまからでもするつもりだろうに、と呆れつつ後ろを振り向けばしっかりと弓矢を担がされた小六。肩をすくめて諦めの風情だ。
 半兵衛たちを迎えに行っている間に食事の準備を終えておけと言い捨てて、小一郎は城に置いてきた。事務方の仕事が得意な弟ではあるが、あまりに突発的な事態に死にかけていることだろう。
「光秀様用に準備した食材じゃあ駄目なのかな………」
 木下組の財政事情を慮って弟はまた涙するのだろう。こんなときばかりはちょっぴり弟にすまないと思わないでもない。
「で? キンカン頭どもが向かったところってのはまだ遠いのか?」
「そろそろ到着するはずです。そんなに遠出するはずありませんし、この辺りで開けた土地なんて限られてますからね」
「フン。逃げた先でなに考えてんだか知んねぇが、今日こそとっちめてやる!」
「あんたはいつもとっちめてるでしょーが」
 ―――なんて突っ込みは恐ろしすぎて出来ない。
 なんの気なしに見た前方の道に、なにやら細かな影が映った。馬に乗っているらしく、徐々に近づいてくる影の後ろに激しい土ぼこりが舞っている。
「なんだありゃあ?」
「半兵衛たちじゃないですかね。意外と早く会えたな」
 おそらく向こうもかなりの時間が経過していることに気づいて戻って来たのだろう。まさか帰り道で自分たちにぶつかるなど夢にも思っていないはず。出会ったときの顔が見物だ。もしかしたらあいつの裏をかけるんじゃないかと浮かれそうになった心に小六の冷静な言葉が水を差した。
「―――ちょっと待った」
「なんだよ?」
「馬が三頭いるなんて、おかしかねぇか?」
 訝しげな小六に引きずられて秀吉もまた遠方に目をこらした。半兵衛たちが何人で出かけているか知りようもなかった信長は別として―――そうだ、確かにおかしい。奴らはふたりで出発したはずなのに、余分な一頭は一体誰だというのだ。
「小六、てめぇの弓矢を貸せ! 走るぞサル二号!」
「はい!」
 異変を察した信長の行動は素早かった。小六から弓矢を奪い去るとすぐに馬影に向かって走りだす。小さくてはっきりしなかった影が明確な形を結びだす。先頭を行くのは間違いようもない燃える髪の色をした男。追いかけてくる面子には全く見覚えがない。
 弓を引き絞る音が間近で聞こえたかと思うと、勢いよく飛び出した矢が後続の馬の手前に突き立った。浮き足立った馬を見て、逃げていた男が振り返る。斬りつけた第一刀は交わされたものの次いで腕に刺さった矢に相手が怯む。その隙を逃さず彼は相手にとどめを刺した。
 仲間がやられたと知った見知らぬ一方は慌てて馬首を巡らせた。しかし。
「逃がすわけねーだろーがっ!! 勝負しやがれ、てめぇっ!!」
 素早く回りこんだ信長の激しい一閃。たまらず相手はもんどりうって馬から転げ落ちた。逃げ出せぬように秀吉と小六が馬で取り囲む。斬りつけた相手が絶命していると確認した光秀もそこに加わった。手にした弓矢を投げ捨てて、信長が男の首を締め上げる。
「人様の領地でなにやってやがんだぁ? 洗いざらい吐いてもらおーじゃねぇか!」
 尋問する信長は、まるで般若か地獄の鬼のように恐ろしい形相をしている。この迫力だけで大抵の罪人はこうべを垂れる。
「………って、あっ!?」
「どうしたんですか?」
 信長に遅れて三人が馬から下りたとき、彼は締め上げていた男の首を離して舌打ちをした。
「………自害しやがった」
 まだ相手からなにも聞きだしていない、それが不満なのか。
 即座に死を選ばれてしまった、その後味が悪いのか。
 どちらともつかぬ信長の表情はひたすら不機嫌だ。秀吉もため息をついた。
「―――脅しすぎたんじゃないですか、信長様」
「ぬかせ。首を締め上げただけで怯えるんなら密偵なんか勤まらねぇだろ」
 息絶えた相手を見下ろして腕を組む。さして考え込むでもなく、すぐに彼は当事者の方に顔を向けた。
「光秀。これは一体どういうことだ。てめーら、遠乗りに行ってただけじゃなかったのか」
「………私にもわかりかねます」
 額から流れ落ちる汗を拭い、光秀は戸惑い気味に答えた。何故こんなところに信長がいるのかとの疑問も鉄だって説明はやや覚束なかった。遠乗りをしている最中にふたりは突然、奇襲を受けた。矢を射掛けてきた連中には全く心当たりがないという。東国の出身と思しき衣装に身を包み、黒が主体の覆面は裏家業の人間を髣髴とさせる。
 だが、そんなことはどうでもいい。
 無関係の人間に襲い掛かられようと、その相手を殺してしまって事情が聞けなかろうと、そんなことはどうでもいいのだ。
「それより、おい」
 自分にはもっと気になることがある。秀吉は一歩、足を踏み出した。
「―――あいつは、どうした」
 押し殺した声と鋭い視線を受けて光秀がたじろぐ。それだけで秀吉は事態を察した。足元の死体を押し退け飛び寄り、身長差のある相手の胸倉を手荒く掴む。
「てめっ………見捨てて来たのか!? なんでだよ!!」
「見捨ててなどいない!」
 すぐに否定されたが声に勢いはない。光秀自身に負い目があるのか、続く言葉は弱々しい。
「………策があると、いわれた」
「なにもなくてもあいつはそうゆうんだよっ!!」
 そのまま光秀を絞め殺してしまいそうな秀吉を、強く信長が抑え付けた。
「落ち着け、馬鹿が。一方的に問い詰めても状況は変わんねーだろ」
 こぶしで脳天を潰されて秀吉が唇をかみ締める。
 確かに、騒いでいる場合ではない。ふたりが襲われたのは事実で、未だ現場にひとり取り残されているのもまた事実。怒りは後にとっておけばいい。冷静さを失くすことは全てを失くすことに通じるのだ。
「キンカン頭、てめーには心当たりが全くないんだな? サル二号! ここ数日でなんか怪しい報告とかはなかったのか」
「数日前に………妙な連中に国境線を突破されたとの報告がありました。思い当たる節があるとすればそれぐらいです」
「で?」
「そいつらの目的がただ領土内を通過するだけだったのか、城内に侵入することにあったのかはわかりません。経過日数から考えて後者の線は薄いですけど」
 国境から城まで然程の時間も要さない。本人たちがその気ならとっくのとうに城へ入り込んで目的を遂げているはずだ。見取り図を要するほど広い城でも、警戒が厳重な城でもなかった。あくまでも『砦』扱いの地帯なのだから。
(あいつ………ひとりで残るなんて無茶しやがって………)
 苛立たしげに髪をかきあげた。
 どうもあれは自らの命を軽く考えすぎる傾向がある。木下の、引いては織田の軍師である男が現場で刀を振るってどうする。あいつは奥まった陣地で指揮をとっていさえすればよいのだ。生き物のように目まぐるしく変化する戦況を一歩引いた場所から眺め、将棋の駒でも指すように指示すればそれでいいのに。たとえ流れる他人の血に負い目を感じようとも、それが軍師たる者の勤めというものだ。
「まあ、秀吉も落ち着けよ。もしかしたら先生には本当に策があったのかもしれないだろ? 得体の知れない人物ではあるしな」
 焦る秀吉と悔いる光秀の間に入って、やんわりとたしなめるように小六が口を挟む。
「侵入者があったのに遠出するのをよしとしてんだ。先生なら考えあっての行動だろうぜ」
 いわれるまでもなく、奴は謎めいた男ではある。頷きかけた秀吉は妙な予感に動きを止めた。
 なんだろう。
 なにか―――なにか、大切なことを、忘れているような―――。
 ………気が、する。
「おい、どうした?」
 首を傾げる信長のまん前でみるみる内に秀吉の表情は青ざめていった。

 ―――まさか。
 もしかしなくても。
 自分は。

 両手で頭を抱え込む。
「しまった―――っっ!! 侵入者の一件、あいつに伝え忘れてたっっっ!!!」
「結局てめぇの所為じゃねぇかっっ!!」
 頭部に強烈な一撃を食らう。思わず秀吉は涙目で加害者を見上げた。上司と部下、長と軍師の間で意思の疎通がなってないなんて、とんでもなく初歩的かつ致命的な間違いだ。
「なんだってそんなくっだらねぇ事になってんだ! ああ!?」
「だっ、だって、あいつが………っ!」
 あいつが―――………。
 口をついて出かけた弁解は子供でもしないような内容で。意地を張って声をかけそびれたのだと白状する勇気はこの最中に出てこなかった。
「じゃあ、あの野郎はまるっきり情報なしってことじゃねぇか! サル二号、てめぇは後で厳重注意だ!!」
「は、はい!」
「おら光秀! それから小六!! ぼさっとしてないでとっとと馬に乗りやがれ!」
 信長の命令がくだるか否かの瞬間だった。
 遠くより爆音が響き、地面が震えた。馬に乗り込んだ面子が顔を見合わせる。誰ともなく、もともと光秀が走ってきた方向を見やれば、天へと舞い上がる黒煙が空の一角を焦がしているのがわかった。
 遅かった、と呟いたのは誰だったか。主君の目が鈍い光を放つ。
「行くぞ、野郎ども!」
 台風のごとき勢いで信長が馬の腹を蹴る。殴られた頭の痛みを抱えながらすぐに秀吉も追いかける。今回ばかりは弁解のしようもなく、また、する気にもなれない。
 つまらないことで軍師を喪っては馬鹿らしいにも程があるでしょう。だからできる限りのことは話してくださいね、と。
 当人に頼まれたのは僅か二月前だというのに。
(ちっ………くしょっ!)
 眩みそうになる視界を堪えながら秀吉は手綱を引き絞った。




 爆薬を使うのはすぎた手段だったかもしれない。だが、確実に相手を仕留められる方法ではある。ずぶの素人相手にいいようにやられたのだから、人質になっていた仲間も一緒に吹き飛んでしまったとしても、それは自業自得というものだ。
 裏社会に穏やかな上下関係など存在しない。力のない者、失策を犯した者は容赦なく切り捨てられる。そうすることによって組織は常に新しい血を取り入れ、より高度な技術を獲得していくのだ。名も知れぬ馬の骨にやられるような忍びなど使い捨ての駒にすらならない。
 自分は違う。決して油断などしない。相手が武士であろうと農民であろうと商人であろうと手を抜くことはない。任務成功の秘訣はなによりも慎重になること。己が手腕への過信や状況の取り違いに思い込み、そんなくだらぬ事項で命を落としてなどなるものか。
 真横に立つ首領は腕を組んで目の前の黒煙を眺めていた。それにならって煙の流れる先を見やる。
 刹那の轟音と閃光に視界を多少奪われはしたものの、一部始終を確認していた。ただの武士と侮っていた男―――仲間の多くを再起不能にし、先ほどまで人質をとっていた男―――は、どうなったのか。正面からの衝撃は人質を盾にすることで防いだかもしれないが、無傷ということはありえない。腕でも足でも腹部でも、どこかに手傷を負ったならばその分、こちらの仕事が容易くなる。
 煙が晴れた広場に男の姿はなかった。切り立った崖の傍に判別がつかないほど崩れきった元仲間の死骸があるばかりだ。
「落ちた、か」
 上官の言葉を合図に崖下を覗き込む。かなりの高さがある。此処から落ちたならばまず助かりはしないだろう。下に叩きつけられた体は粉微塵に吹き飛んでやがて野生動物の餌食になるに違いない。女のように綺麗な顔立ちをしていたあの青年が、二目と見られぬ無残な姿に成り果てて動物に食い散らかされる運命を辿るのだと想像すると胸が躍った。
 此処からでも弾けとんだ五体の欠片でも覗けぬものかと期待を込めて見下ろしたが、裏切られた。運のよいことにあの男は中途の僅かに出っ張った部分に引っかかっていたのである。上昇気流に着物の裾がはためいていた。
 指示を仰げば無言で頷きを返される。敵にとどめを刺すべく彼は手近な木の幹に縄をくくりつけた。軽く大地を一蹴りすると足先を岩壁に伝わせながら青年の傍に着地する。細長い足場は安定が悪い。命綱を片手で捕まえたまま敵の様子を観察する。
 爆風に煽られた衣服はところどころに焦げ目がついている。体中にこびりついた赤いものは本人のものなのか粉微塵にされた人質のものなのか判然としない。だが無傷ではないのだろう、大きく切り開かれた傷口からいまも生暖かい血潮が流れ出している。ほっておいても失血死するだろうが、とどめをさしておくに越したことはない。首を持ち帰り、誰だったのかを照らし合わせるのだ。
 意外と、大物かもしれないしな………。
 外見と実力が比例しないご時世である。念には念を入れて一歩引いた場所から注意深く相手の気配を探った。こんな狭い場所で反撃を受けたら落ちてしまうかもしれない。自らの五臓六腑を眼下にさらすなど御免こうむる。
 腕を伸ばして長髪を掴みあげた。吊られて動いた状態に力はなく、完全に失神状態であることを知らせている。縄の先は腰帯に挟んでおいて刀を抜き放った。男にしては細い首をしているから斬るのに然程の手間は取らないだろう。
 念仏のひとつも唱えてやろうかと心にもない言葉を思い描きながら、刀を振り下ろした。
 なにかが断ち切られる、鈍い音が。
 ………響いた。
 銀色の刃の上を驚くほど赤い液体が伝い落ちてゆく。刃を伝い、握り締めた手を伝い、地に染み込んでゆく。飲み込まれなかった雫は宙に舞うと眼下の森の中に吸い込まれる。
 ―――何故? 何故だろう。
 自分は油断なんてしなかった。気配だってきちんと探った。
 だのに、何故。
 衝撃と驚愕から唇がわななく。刃は確かに突き立てられていた。

 獲物ではなく―――己の、腹に。

 着物の合わせ目を狙った見事な一撃。刺し貫かれた腹から出所をたどれば、倒れ付していた人間の左手首に握られていた。
 最初から。
 首を掴まれる以前から用意していなければ到底できない、こんな攻撃。自分が刀を振り上げた一瞬の隙を狙って刀を突き立てるなどと。
 この男に意識がなかったのは確かなのだ。長年の戦闘経験が伝えていた、こいつは失神していると。
 けれどもその予測は裏切られ、いま自分は、気絶していたはずの相手に致命傷をくらってしまった。
 嗚呼、死ぬのか。
 思っていたよりも静かな最期になりそうじゃないか。
 眼下の森に五体を撒き散らすのはこの男ではなく、己だったということか。
 不思議なほど冷静な思考回路。少しずつ暗闇に閉ざされていく視界の中で、うっすらと目を開けた男の濃紺の瞳だけがやたら印象に残った。
 この色を最後に自らの生を終えるというのならば。
 結構―――洒落ているかもしれない。
 あの瞳に映し出された自分は果たして笑えているだろうか。
 つまらないことを考えながら急速に失われてゆく自らの命の鼓動を感じ取っていた。

 

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