瞬きひとつ、よみがえった視界の先に広がるのは遠く見渡せる崖の上。ふらつく足元と下方から吹き上げる風に自らの置かれた立場を知る。人影らしきものが眼下へ落下していったようだが、しかと確認することは叶わなかった。
(………何故、此処に?)
記憶に霞がかかっているということだけを半兵衛は理解した。
居場所がわかっても理由がわからない。止まった思考回路が動き始めるまで理由も結果も想像がつかなかった。風に前髪を煽られてようやく先刻までの出来事が脳裏を駆け巡る。作戦のしくじりに苛立った考えなしのおかげで敵もろとも宙に投げ出されたのだ。崖下の出っ張りに引っかかる悪運の強さには自身で呆れてしまう。
こんな状況なら誰かがとどめを刺しに来てもおかしくないものを―――と思えば、左手に握り締めた刀とはりついた血糊、そして先刻視界を掠めた人影に仕出かしたことの大きさを認識させられる。ため息をついて背を崖に寄りかからせた。
―――また、殺したのか。己は。
自嘲の笑みをもらした。
周囲から「生への執着が薄い」といわれるがそうではない、そうではないと思う。やはり無意味に死を選ぶことなど出来なくて、そんな自分だからこそ追い詰められれば躊躇いなく人を殺せる。醜い己を自覚しているからせめて奇麗事だけでも唱えておきたくなるだけだ。気を抜けばあっさり堕ちていくだろう………際限なく。
敵に取り囲まれた経験は幾度でもある。そのたびに斬り捨て切り抜け、後になって悔いるのだ。何故殺さなければ切り抜けられなかったのだろう、と。
話し合いで解決するならばそれが一番よいに決まっている。だから、避けられる戦いはなんとしても避ける。けれどそれが無理ならば―――。
倒すしかない、と。
覚悟してもいるのだ。
戦うことに対する矛盾はいつか己の首を絞めるだろう。
血まみれになったてのひらを眺めていた半兵衛は、ふと首を傾げた。
―――なにかおかしい。
いつも人を殺してしまった後はこころが沈んでいる。斬り捨てた後、曇りきった刀身のきらめきに我に返り悔いることの繰り返し。胸がざわめき感情がささくれ立つ。誰でもいいから自分を壊してくれないかと他力本願になったりもする。殺してもらえるだけの価値もないと承知の上で。下手をすれば数週間は落ち込んでいるのだ。さいわい顔に出ない性質だから身内以外に心配されることは少なかったけれど。
なのに、いまは不思議と満ち足りた気分でいる。大きく空いていた胸の空洞に求めていたものが収められたかのようだ。返り血ではない、己の傷口から流れ出す痛みさえ薄らいで感じられる。
もしかして自分はこういった戦いにすっかり慣れてしまったのだろうか。
考え込んだ彼が眉をひそめたときだった。『そんなことないと思うぜ? ―――お前に限ってな』
………息が。
止まる、かと、思った。
刀を握り締めた腕が震える。
『やっぱあれだな、お前ひとりじゃ危なくて見てられないな。自分から危険に突っ込んでってる。お前ひとりの身体じゃないってのに、刹那的な生き方はよくないぞ』
満たされる思い、埋められる意識、ともされる光。
聞きなれたはずの声と言葉がとても懐かしい。離れていた時期なんてほんの僅かだというのに、まるで幾星霜も時を経たかのような。
想いが口をついて出た。
「………総兵衛?」
『あったりー! なんだぁ、気づくの遅かったな。とりあえずただいま』
「………」
『おい、どうかしたのか? 折角帰ってきたんだから感動の涙ぐらい流してくれてもいいのに』
返事は恐ろしく軽く返された。普段は内心に留めおいていた言葉の数々が一気に溢れ出す。
「ばっ、馬鹿! なにが『ただいま』だ抜け抜けと! 私が―――私達が、一体どれだけ心配したと思って………!」
『そんなに怒るなよ。総兵衛だって少しは悪いと思ってるんだからな。ちょっと時空の狭間………ってぇのかな? うん、多分そう。そうそう。それにはまっちゃってさ』
「生きてるか死んでるかもわからない状態で! 連絡のひとつも寄越さないで! 呼びかけても一度も応えなかっただろう、お前!」
『でも生きてることはわかってただろ? だから総兵衛も安心してた』
互いの命がつづいていることを感じられたから、案ずるに至らなかったのだと。
確かにそれは知っていた。だが、『知っていただけ』でもある。その他の詳しいこと―――居場所や状況や誰と共にいるのか、なにを考えているのかなど、かつては労せずに入手できていた情報がなにひとつ伝わらなくなったのだ。もどかしい思いに駆られて幾度も幾度も、無意味な問いかけを胸中で繰り返していた。感じたことのない不安や焦燥をどうすればよかったというのだろう。
あるいは、このむかつくほど暢気な片割れも多少は孤独を感じていたのだろうか。
『なあ半兵衛、向こうでは面白いことがあったんだ。面白い奴らにも会ったんだ。とても楽しかったけど、やっぱりこっちが恋しくなったから戻ってきたんだ。それでもお前は―――喜んでくれないのか?』
「………」
『帰ったらたくさん話をしよう。きっと一晩じゃ語りつくせない。総兵衛がいない間にお前がなにをしていたのか、こっちでなにがあったのか全て知りたい―――教えてくれるだろ?』
答えようがなくて半兵衛は口を噤んだ。
しばしの沈黙の後で総兵衛が妙に真面目な声を発する。
『―――半兵衛』
表情まで脳裏に思い浮かぶ。自分と同じでありながら、似ても似つかない安堵の微笑みが。
『生きてて………よかった』
口元をかすかに緩めて両腕で顔を覆った。
本当に、自分の周りは馬鹿ばっかりだ。片割れからしてこれなのだからもう笑うしかない。己の代わりに彼が敵を倒したのか、傷の割に少ない痛みは彼が受け持っているからか、泣きたいほど嬉しくなってしまうのは、彼が―――。
指の合間から透かし見える空は徐々に茜色を帯びてきている。落ち着かせるために深呼吸をひとつ、ようやく半兵衛は本当に伝えたかった言葉を唇に乗せた。
「………おかえり、総兵衛」
『ただいま』
まぶたの裏の青年が嬉しそうに笑った。
突然、穏やかな空気を遮る諍いの音が轟いた。振り仰いだ先、崖の上で誰かが争っている。細かな土の粒子がすぐ傍まで舞い落ちてくる。薄闇色の瞳でじっと見つめていた半兵衛の目に、崖から吹き飛ばされた男の姿が映った。かろうじて忍びとわかる黒装束、凍てついた表情、飛び散る赤い液体。どれほどの苦痛を与えられたのかと想像するのも躊躇われるほど無残な傷跡。
自身の前を通過して森へと吸い込まれていく首領の姿をなんの感情も乗せずに見つめていた。
誰にやられたのかも何故あれほど傷つけられたのかも、想像の範疇ではなく現実に『熟知』している。歓迎も非難もできるわけがない。目の前にあるものだけが事実だ。
程なくして傍に垂らされた縄と覗き込んだ顔に静かに微笑み返した。
「………やはり、お前だったか」
そう、呟いて。
爆発地点の見当をつけたはよいけれど、肝心の探し人が見つからない。案内役の光秀とて正確な位置を把握しているわけではないのだ。先に逃がしてもらった後で半兵衛が何処をどう移動したのか、調べる術などないのだから。いざとなったら徒歩で山中を駆け巡るような奴である。だが、なにも手がかりがない訳でもなかった。
「まだ、あたたかいな」
眼前の遺骸を見て信長が結論づけた。目を剥き舌をこぼし、巨体から赤黒く変色した血液を流し続ける馬の死骸。傷口をたどって秀吉は唇をかみしめる。
(この切り口―――あいつ、忍び相手に戦ってやがるのか?)
いまは静まり返った森がむしろ不気味だ。一体だけ転がった馬の死骸もそうではあるが、おかしなことは他にもあった。
「おい、この木を見ろよ。血がベッタリ貼りついてやがるぜ」
「こちらもだ。かなり派手な斬り方をせんとこんな状態にはならんぞ」
小六と光秀がそれぞれ別の場所で血に染め上げられた木を発見して訝しがる。下から上へと舐めるようにぶちまけられた血液は下草と幹を全て覆いつくしている。だが、それの出所となるべき死体は見当たらない。これだけの手傷を負った仲間を忍び連中が連れ帰ったりするだろうか。証拠隠滅が目的にしては徹底されていない。余程急いで遺体を移動させたのだろうか。
第一、何故それほどに死体の始末を急ぐのか。自分たちの訪れを察したとしても死体から割り出せる情報などたかが知れている。証拠になりそうな箇所だけを切り取って後は捨て置けばよいのだ。なんとも不思議な消滅の仕方であった。
「とにかく、もうちょい奥まで行ってみるぞ」
検分を終えた信長が立ち上がる。頷き返した三人が後に従おうとした瞬間だった。
少し離れたところから聞こえた葉ずれの音に誰もが動きを止める。それぞれが刀の柄に手をかけ、知らず緊張を帯びる。涼やかな風が周囲を駆け抜けた。
真っ直ぐに伸びた細く長い道に音の主が現れる。影はふたつの塊に分かれていた。ひとつは肩を組んでいるため歩き方が頼りなく、もうひとつは大きな荷物を背負っているのかやはり不安定だ。
何事かと思い身体を硬くした四人だったが、影の判別がついて拍子抜けした表情になった。
あれは―――探していた当人ではないか。
男に肩を支えられて歩いている半兵衛を見て一先ず秀吉は安堵のため息をついた。すぐ傍で「ちっ、つまんねぇ」と信長が呟いたのは気のせいだろう。多分。
珍しい男共の団体に気づいた半兵衛がゆっくりと手を上げた。馬を繋ぎとめたかどうかの確認もそこそこに彼の傍に駆け寄る。身体全体を染め抜いた血の色に表情を険しくした。
「半兵衛、お前………」
「よかった秀吉殿。いらしてくださったんですね」
相手はゆったりと微笑んだ。
別れるときに貴方が迎えに来るはずだと光秀殿に大見得きってしまった、当たっていてよかった、と。
自身の格好が相手にどう取られるか考えもしないのだろう。右半身と両足が真紅に塗り潰された様は見ていて気分がよいものではない。秀吉の不満など素知らぬ顔で他の面子を見渡した彼は信長の存在にも驚かず、静かに会釈をしてみせた。
背後に暗雲をたくわえた光秀が罪人のように進み出るが、裁判官は至って暢気だ。
「すまない………お主ばかりを危険な目に遭わせてしまった」
「なにを仰います。光秀殿は織田にとって誰よりも大切な客人、怪我がなくてなによりです」
笑い返す半兵衛は、心なしかいつもよりも少しだけ―――本当に少しだけ、嬉しそうに感じられた。秀吉の眉がひくつく。
なにを喜んでるんだこの野郎。誰を心配させたかわかってんのか。
「―――おい、半兵衛」
「はい」
ほっとした際の穏やかな表情はどこへやら、またしても秀吉の眉間にはしわが刻まれていた。
「なんだその格好は。全身真っ赤に染め上げやがって―――それがてめぇの趣味か?」
「ああ……敵の返り血です。なにを考えたのか奴らが爆薬を使って。私は偶々敵の影に位置していたから助かりましたけれど」
ついでに崖から落ちてしまったので地上に這い上がってくるまでかなり時間がかかったのだという。そうして現場に戻ってみれば、何故か敵は跡形もなく消えていた。
「じゃあ、あれはテメェの仕業じゃねぇってことだな?」
「あれ………とは」
疑問に信長が親指で背後の木を指し示す。どこまでが本来の幹かもわからぬほどに広げられた血の跡に半兵衛も表情を曇らせた。
「敵を斬るには斬りましたが、あれほどの出血を誘うような手傷など負わせておりません。何人か気絶させて草陰に転がしておきましたが、それもないと?」
「いねぇな。俺たちが見つけたのは馬の死骸とこの血糊だけだ」
半兵衛は不可解そうに片手を顎の下にそえた。しかし、消えた死体の行方について此処で考えていても埒はあかない。もとより消えた死体はひとつやふたつではないのだ。仲間割れを起こしたのか、それ以外の原因があるのか―――気になるがまずは怪我の手当てが先決だろう。
ようやく半兵衛から視線を外した秀吉は見慣れぬふたり組みに意識を向けた。商人らしい装束で、怪我人に肩を貸していた男は予期せぬ事態にせわしなく小刻みに震え、荷物を預かる女は女で不安そうに眼を動かしていた。どちらも平凡な顔立ちをした一般市民だ。
「お前たちは、どうして此処に?」
「おっ………おら、おらぁ」
秀吉の問いかけに商人は情けないほどうろたえて見せた。
「おら、こっちさ来れば城でなんか商売できると思っでぇ。んでもって山越えてきたらなんがすっげぇ音したもんだがら………つい、なにが起きでるのか興味さわいぢまって。妹と一緒に行ってみだらこん人が倒れてたんだぁ」
と、半兵衛を顎で指し示す。
「最初は驚いて逃げよとしたけんども、なんか城まで送ってくれだら礼してくれるつーもんだから。上手くすりゃ商売できっかもと思て―――あ、いや、とんでもねぇ! おら、別にお侍さんたち相手に逆らおうだなんて思ってねぇだよ!?」
「別に疑ってなんかいないさ。………ご苦労だったな」
青ざめたり怯えたり赤らんだりと落ち着かない奴だ。女は男の後ろに隠れたまま小刻みに肩を震わせている。彼らにしてみれば、自分たちは腰の刀でいつ斬りつけてくるかわからない危険な存在なのだろう。
「秀吉殿、彼らを城に招いてもよろしいでしょうか? 助けてもらった礼をしたいのです」
「そうだな………あまり奥まで入れないならいいぜ。好きにしろ」
不承不承、答えてやれば上機嫌の笑みを覗かせる。本当に珍しく感情表現が素直だ。後ろを振り向いて「城までの道筋はわかりますね?」と朗らかに尋ねている。
置き去りにしてしまった相手が無事だったことで緊張がほぐれたのか、愁眉をといた光秀が半兵衛に歩み寄る。
「その格好で歩くのは辛かろう? 私の馬を使ってくれ」
「いえ。光秀殿の馬を使わせて頂くなど恐れ多い」
「徒歩で行くわけにもゆくまい。遠慮はいらぬ」
本音と建前のどちらが邪魔しているのかは知らないが、やはり客人の馬を横取りすることに若干、半兵衛は抵抗を抱いているようだった。こう見えて意固地な面もある彼は下手したら商人らと共にのんびり歩いていくと言い出しかねない。先ほどから動かぬ仏頂面で秀吉は宣告してやった。
「俺の後ろに乗れ、半兵衛」
「秀吉殿?」
「光秀のを借りるのは気が引けるんだろ? だったら、俺と一緒に使うのが最も馬の負担が少なくてすむ」
「ですが」
「あー、もう! うるせぇんだよ! 乗れっつったら乗れ!!」
苛立ちも露に足を踏み鳴らせばようやく相手は黙り込んだ。随分と子供じみた態度を見せてしまったと、後ろでニヤついている信長の気配からも察せるのだが仕方がない。遠慮の塊のような男にいうことを聞かせるにはこれしかないのだから。
踵を返して先に馬に乗り込む。かなりの躊躇いの時間を挟んでから部下は上司の背中に手を伸ばした。
本当に城を訪れるかどうかもわからない商人の兄妹を差し置いて墨俣へ帰還した。小一郎は「まだ出迎えの準備が完了していないのに」と嘆き、「なんですかその格好は!」と半兵衛を見て激昂し、木下組専属の軍師を問答無用で風呂場へ叩き込んだ。小六は共にもてなしの用意に借り出され、事の発端である光秀は観念して信長に連行されていった。
「とりあえずどっかの一室借りるぜ。この野郎を締め上げなきゃなんねぇからな」
浮かんだ主君の笑みの凶悪さにつくづく光秀に同情した。今頃は城内の一室で根掘り葉掘り事情を聞かれ、褌しめて織田について来いと脅迫されているのだろう。しかし見たところではあのクソ真面目な男もこちら側につく決心を固めたようだったし、程なく話はまとまるはずだ。秀吉も現場にいたいと願ったが、「てめぇは軍師とゆっくり茶でも飲んでろ」と暗に情報交換のしくじりを責められた。いわれるまでもなく己自身の失態だったのでその点に関して異論はない。
―――しかし。
これは果たして自分だけの所為だったのだろうか。と、思う。
なにしろ必要事項以外は決して口を割ってくれない軍師さまが相手である。しかもこの男、機密事項や戦略だけではなく彼自身の状態についても頑なに口を開かないときたものだ。いつまで経っても水臭い相手に腹が立つのは間違った感情ではないと思う。
「言い訳は?」
「ございません」
板の間で笑顔の軍師と睨みあったまま約半刻。秀吉は最高に不機嫌だった。
半兵衛が身支度を整えるまで自室で待っていたのだが、戻ってきた相手はどこか動きがぎこちない。問い詰めても素知らぬ風を吹かすのが気に食わなくて、ふらついている足を蹴飛ばした。そうしたら予想以上に派手にひっくり返って―――少し、慌てたが。
それよりも深々と裂けた両足の傷口がこの眼を射た。
「なにが返り血だ大嘘つきめ。両足の出血は全部自前だったんじゃねぇか」
「でも大して痛くありませんでしたし、光秀殿の前で告白してはまたあの方を傷つけてしまうかと」
「そんなんどーでもいい。要は、てめぇが俺に嘘をついてたってことだ。この馬鹿ぎつね」
ともすれば斬りかかってもおかしくないほどの殺気をはらませた秀吉を前にして男はただ微笑んでいるばかりだ。なにをいっても崩れない余裕の態度を前にしていると頭に血が昇りそうになる。冷静になれ、怒ったら相手の思うつぼ、そう考えれば考えるほど胡坐をかいた裾の合間から見える包帯の白さがこころをささくれ立たせてくれるのだ。
醜い傷跡が残ったらどうするつもりだ。
そんな―――………勿体無い。
「―――治るんだな?」
折角心配してやったというのに、当の本人は「治るでしょう」とあくまで安請け合い。
「むしろ足だけですんだのは幸運でした。敵の影にいなければ今頃はこの身体、跡形もなく消し飛ばされていたかと」
「淡々と恐ろしい想像をするなっ!!」
「幸運でしたが―――やはり、貴方にご心配をかけたことに変わりはありませぬな」
ふと眼を閉じて顔をうつむけると、青年はそのまま両手を畳について土下座した。包帯に血の赤が滲み出ても意に介さない。
「申し訳ございませんでした。秀吉殿」
呆気に取られた秀吉が言葉を失う。相手は深々と頭を下げたまま抑揚のない声で続ける。
「この命、貴方様に預けましたものを―――二度とかような振る舞いは致しませぬ。されど、わたくしが手傷を負ったならばそれは全て我が身の至らなさからくるもの。どうか貴方様は決して気になどかけぬよう伏して願い奉りまする」
「お、おい………俺は別に、そんな改まって誓ってほしいわけじゃなくて」
顔を上げろ、と命じるために上げたはずの腕が中途半端に右往左往。真っ向勝負を挑まれると、とことん弱い秀吉である。普段、我が道を行っているような奴に頭を下げられてしまえば尚更だ。更に限定すればこの男の土下座に弱いのだと思う。こんな調子ではいつかいいように操られてしまうのではないかと余計な危惧まで浮かんでくる始末だ。
「―――と申しますか、そもそも無理だったんですけどね」
混乱しかけた耳にやたら能天気な声が響いた。顔を下に伏せたまま半兵衛がなにやら呟いている。
「無理をしないでくれと頼んでも暴走するし、怪我はするなと命じても山のようにこさえてくるし、揉め事に進んで頭を突っ込んでくし。もう危なっかしくて危なっかしくて、とてもじゃないけど独りにしておけないですよ」
「………?」
「自身の傷なんてどうだっていいらしいんです。お互い様とはいえ、やはり片割れが傷つくのは我慢がなりませぬ。それ以上に嫌なのは秀吉殿が傷つくことですから優先順位など考えるまでもないのですが」
「おい………」
嫌な予感。
もしくは、儚い期待。慌てふためき宙に彷徨っていた手も下がり、秀吉はらしからぬ予感と緊張に鼓動が早まるのを感じた。
だって―――あまりにも、突然ではないか。
今朝までは影も形もなかった人物だというのに。
「行くも帰るも己が望み故、貴方のために生きるとは申しませぬ。ですが、いまの主君は貴方のみ―――どうか、この『ふたり』の命などお気になさらぬようお願い致します」
そして、男は顔を上げた。
見慣れている、それでいて懐かしいと感じる濃紺の瞳がおだやかに笑顔を彩っていた。
秀吉の目は見開かれ、しばし時が止まったかの如く身体が固まった。「これは間違いないだろう」という期待と「手間のかかった芝居かもしれない」という疑いが錯綜して収拾がつかない。ぬか喜びしてはならないと思うのだ。「秀吉殿?」と目の前でひらひらと手を振られても反応できずに静止する。
―――が。そんな奥ゆかしい秀吉の考えも知らずに目の前の青年は相好を崩すと、腹を抱えて笑い始めた。心底嬉しそうに顔をほころばせながら。
「ははっ、やっぱり驚きました? 半兵衛に隠しておいてもらって正解でしたね、貴方の驚く顔が見たかったんです。久しぶりなのに全然変わってませんもん、さすが秀吉殿!」
内心、ちょっとは心配してたんですよー。お前なんか知らないぞって拒否されたらって。
暢気に笑って足を組みかえる。上司の前で堂々とあぐらをかいた青年は固まったままの秀吉の顔をちょいと覗き込んだ。
「秀吉殿、どうしたんです。意識あります? 総兵衛でーすよーっと」
「………総兵衛」
「はい」
―――この野郎。
現在、秀吉の胸中を表現するのに相応しいのはこの一言だけだった。
己でもわからぬ鬱憤を晴らすのに眼前の男を利用してなにか悪いことがあるだろうか。いや、あるまい。そもそも全ての元凶はこやつなのだからして。
「ちょっと、両手を挙げろ」
「こうですか?」
不思議そうに相手が両腕を挙げたところをすかさず狙い撃ち、すばらしい勢いで右拳が鳩尾に直撃した。急所を攻撃された青年がたまらず仰け反る。ぐぇっ、と瞬間うめいたが気にしてなどやるものか。
「ちょっ………ひどいじゃないですかぁっ! 一応総兵衛たちは怪我人なんですよ!?」
「喧しい! 自業自得のくせになにいってやがる。それに俺はなぁ!」
仁王立ちになった秀吉は自信満々に宣言した。
「半兵衛は殴れなくても貴様なら殴れる!!」
「………秀吉殿、それって自慢にならない………」
青年は身体をうつ伏せた。ちゃっかりした彼のこと、急所に入ったとみせかけて防御はきちんとしていたはずだ。打って変わった横柄な態度で秀吉はその場にふんぞり返る。
「帰った早々軍規破りとはいい度胸だ。帰還の挨拶もなしってか?」
「じゃあ、『ただいま戻りました』と」
「遅いんだよっ! いいか、てめぇには聞きたいことが山のようにあるんだ。文句もな。大体お前、いつ帰ってきたんだ?」
「つい先ほどですよ。半兵衛が爆発に巻き込まれるのが分かったから急遽舞い戻ってきたんです。それまでは時空間の狭間で揺らめいていたのですが」
腹をさすりながら青年が座り直す。秀吉も並んで膝を寄せた。
「じくーかん? なんだそりゃ」
「時間と空間の同時認識です。そこにはまり込んだのは偶然でしたが、興味深い現象ばかりが起こってまして。想像できます? 時空間の特異点において全ての事象系列は意味を成さなくなるんです。『現在』にいながらにして『過去』と『未来』を認識できる―――我々は普段、原因は知っていても結果はわからない。ですが場合によっては結果を知った上で原因を『起こすために』動く可能性も出てきます」
「あ?」
「そこでは時間の流れというものは存在しない。過去と未来、場所の違いはあれども大した問題ではなくなる。全てを俯瞰して見たいものを選び出せるようになる。時間の選別が得意なもの、空間の取得が得意なもの、分かれていますけれど根は同じ。この両方の力を兼ね備えた者こそが時空移動を可能にし、いずこともつかぬ旅路に出られるのでしょう。おそらくかつてこの地において―――」
「ちょ、ちょっと待て! ちょっと待て」
立て板に水のごとく流れる言葉を急いで遮った。突如もたらされた情報の群れに付いて行けなくなってしまうではないか。
ジクウカンがどうだとか同時認識がどうだとか、単語の理解には至らぬまでもそれがなにか大変な出来事だというのだけはかろうじて感じられる。並々ならぬ知識欲を持つ総兵衛が瞳を輝かせていることからもそれは明らかだ。だがしかし、それをいま自分が聞いたところでなにか得があるのだろうか。聞き手に回ったところで芸のない相槌をひたすら打つに終始するに違いあるまい。
少し聞いただけでも幾つも気になる単語があった。
―――『かつてこの地において』? どうしたというのだ。
―――『両方の力を兼ね備えた者』が? どうするというのだ。
肝心な箇所を勢いに流されて聞き損じてしまった気がする。こいつが饒舌でいるのはほんの僅か、明日になれば素知らぬ顔で嘘を突き通すに違いあるまい。だから、情報収集をするならいましかない。秀吉はこの点に関しては総兵衛の性格をよく見抜いていた。
身振り手振りをまじえて嬉しそうに顔をほころばせている青年。その調子に便乗して個人情報を聞き出してやろうとしたのだが―――あえなく挫折した。突如、総兵衛が語りをやめると片手で秀吉の口を覆い隠したのである。
「おい―――」
抗議の声すらてのひらに包み込んで。総兵衛は目配せをひとつすると速やかに瞳を閉じた。みるみる内に周囲の気配が『動』から『静』へと変化を遂げる。やがて開かれたのは穏やかな強さを湛えた薄闇の瞳。ほんのり色づいた唇を笑みの形に刻んで、ゆっくりと秀吉の口に当てていた手を離した。裾をはらって居住まいを正し黙り込む。
秀吉の耳に何者かの足音が捕らえられたのはふた呼吸ほど置いた後だった。軽く床を蹴る音が響き、次いで襖の直前でひれ伏す気配がする。
「失礼いたします。東国の商人と申す兄妹が面会を求めておりますが、如何いたしましょう」
「お通ししてください。私の恩人です」
涼やかな声で半兵衛が言葉を返す。畏まる返答が続き、人の気配が一時遠のいた。秀吉はこっそりと口を寄せる。
「………いつ気づいた」
「話している最中、ずっと注意しておりましたから。総兵衛が戻ってくると気が抜けないので」
口調は面倒くさそうでありながらも表情はやわらかい。総兵衛の存在を隠すため気配に敏くなる必要があった彼である。いっそのこと『弟』の存在を公にしてしまいたいというのが真情だろうが、それではこれまでの苦労を無に帰してしまう。互いの立場を思いやるが故のやるせないやり取りであった。
(………聞き、そびれた、な)
同時に秀吉も間の悪さを嘆く。
機嫌のよさにまかせて打ち明けられていた彼らの声はもう閉ざされてしまった。一度奥に引っ込んでしまった以上、再び表に出てくる可能性は限りなく低い。こうしてまた自分は彼らの内面を知るための機会を逸したのだ。声高に明かさぬ事実を責めたところで謝罪しか返されはすまい。まるで計ったかのような客の訪れにいらぬ疑心もわきそうだった。
商人なんてある程度の報酬を与えれば門前払いですませられるというのに、何故に半兵衛は律儀にも城まで招いているのか。迂闊に関わりを持てば商魂たくましい彼らのこと、どこまですねかじりをされるかわからない。痛くない腹をさぐられるのすら嫌悪感を催すのだから自覚ある黒い腹など尚更だ。
誰の許可を得て城に招いてんだと。
文句をいうのも今更すぎて口の挟みようがなかった。
複数の足音が響いたかと思うと襖の前で立ち止まり、「失礼します」の声と共に開け放たれた。怯えたようにちぢこまる兄妹を置いて従者はとっとと引き下がる。残されたのは秀吉と半兵衛、そして件の商人たちだけだ。顔を伏せた一般庶民は頑なに動こうとしない。
―――どうしたものか。報酬を与えるのは仕方ないとして、どれぐらいの量が適切なのだろう。自分に限っていえば、信長から貰えるものなら反物でも茶碗でも掛け軸でも、最悪そこらの紙切れでも満足できてしまうのだが、さすがに商人相手ではそうもいくまい。織田の、木下の軍師を助けてくれたことに見合うだけの礼を支払わねばならぬ。簡単にすませてしまっては軍師の価値自体が低く思われかねない。
しかし、彼ら自身が戦って救い出したわけでも崖から引き上げたわけでもないというのに、高額な報酬を与えるのも………いま、うちは財政難だし。
(報酬を与えるってのも難しいもんだな)
秀吉が密かな嘆息をもらした。それを見た軍師は含み笑みをもらすと立ち上がり、商人たちの傍らに座りなおしてあでやかに微笑んだ。軽く手を掲げる。
「紹介しましょう、秀吉殿」
「え?」
「お察しの通り。彼らが私の両腕でございます」
―――まばたきを、数回。
腕を組んだ形のまま秀吉の思考回路は止まった。呆然と紡ぎだした声は何処か呆けて聞こえる。
「………両腕?」
「数日前に申し上げておいた通りです。あそこで出会ったのは本当に偶然なのですが」
そういえばそんなことも言われていたかと記憶を掘り起こすのに数十秒。光秀が到着する前に告げられていたけれど今の今まで思い出しもしなかった。
半兵衛が視線を振る先のふたりは変わらず面を伏せたままで、思いも全て闇の中だ。気張るでもなく自慢するでもなく、彼らの主君が淡々と言葉を続けた。
「消えていた死体の数々についてもご心配なく。彼らが始末いたしました」
さすがの秀吉も驚きを露にする。
―――後に判明したことであるが、実はこのとき、半兵衛にも確たる証拠があったわけではないらしい。ただ、出会った際の雰囲気と状況からそう判断したのだという。主君を傷つけられた部下は怒り狂い、敵を一寸刻みにして崖下に叩き落すと、周囲に残っていた死体も全て五体ばらして獣の餌とさせたのだ。森に振りまかれた肉片は跡形残らず処理されたことだろう。
ならばそもそもの敵の目的はなんだったのかと、肝心の問い掛けには半兵衛も知らぬ存ぜぬで受け流す。明らかに怪しい所作に秀吉の疑惑が増したところで嘘が得意な男は意にも介さなかった。
「ふたりとも面を上げて。素顔をさらすことを許します」
主の声に導かれるように男女が面を上げた。やぼったい色をした顔の端に手をかけるとおもむろに引き剥がす。平凡としかいいようのなかった商人の中から眼光鋭い、整った顔立ちを覗かせる。下膨れの頬をしていた女の素顔は鼻筋が通っており、小ぶりな唇と大きな目が際立っていた。瞳の冷たさが全体的な印象を硬いものにしている。
「茜と申します」
睨み付けるような視線をひとつ、再びこうべを低く垂れた。
次いで男も偽りの仮面をそぎ落とす。ところどころ跳ねた黒髪を乱雑に束ね、瞳も底知れぬ深い闇。光を寄せ付けぬ暗さにふと秀吉は此処にいない忍びの知り合いを連想した。能面のように変化のない顔で、もたらされた声は負けず劣らず凍てつくような色をしていた。
「佐助………と申します。以後、お見知りおきを」
「―――『サスケ』?」
思わず反応してしまった。あまりに感情の動きがわかりやすい秀吉に呆れたかどうかは知らないが、男は素っ気無く秀吉を眺めると無言の内にひれ伏した。当然といえば当然だが随分とまた愛想のない連中である。
「ふたりとも、私の使っている離れは知っていますね? 今日はゆっくりと体を休めるといい」
半兵衛が手で下がれと指示をくだす。恭しく畏まった姿勢のままでふたりは下がったが、女の方が控えめに胸元からなにかを取り出した。うっすらと透かしの入ったやわらかい印象を湛える半紙を丁寧に捧げる。その瞬間だけ彼女の瞳は人間らしい感情を零した。
「どうぞ、これを。奥方様よりの文でございます」
「伊予から?」
少しだけ意外そうに目を見開いて封書を受け取った。織り込まれた紙の中に墨が浮かび上がっている。
―――そういやこいつってば確か幼馴染と結婚してるんだよな、仲がよくて羨ましいこって。
ご近所さんと結ばれた自分のことは棚に上げて秀吉は考えた。彼らもまた周囲の羨むおしどり夫婦である。たとえ、秀吉の女癖の悪さ故に時折り派手な喧嘩をするとしても。
従者ふたりが襖を閉じるのを見届けて半兵衛は文を懐にしまいかけた。即座に静止の言葉をかける。
「………なにか」
「読みたいんだろう? すぐに読めよ、この場で」
「ですが、まだ話が」
「いいから読め。俺は気にしない」
強く促せば戸惑い気味の表情で懐から文を取り出す。こちらを気にしつつもおだやかな手つきで封を開き、文面をたどる目が途端になごむのを秀吉は見逃さなかった。口元に堪えきれない微笑をたたえ、若干血の巡りが良くなった頬と限りない親愛の情が込められた瞳は、普段望んでも決して得ることの叶わない表情だ。
自覚もなしに食い入るように見つめていたのは僅か数秒。
ふ、と何気なく対象の視線が外へ逸らされた。あどけなく笑う。
「………花が」
「―――あ?」
「花が、散りましたな。先日まではまだ枝に幾つか咲き誇っていたものを」
いわれた通り縁側の外には梅の木が佇んでいて、この間まで風に吹かれて舞い落ちていた花びらもとうに存在しなくなっていた。代わりに青々とした若葉を覗かせて来たる新緑の季節に備えている。
差し込むは斜陽、秀吉は眩しさに目を細めた。
「………裏に行けばまだ桜が残ってる。それが終われば桃だ。この木だって来年になればまた咲き誇る―――枯れたわけじゃねぇよ」
「はい」
嬉しそうな忍び笑いと読み進める紙がこすれあう微かな響き。一度そらした視線を戻せるはずもなく、秀吉は無言で梅の木を見つめていた。自分から読むことを進めた手前、今更やめろともいえない。振り返ることすら出来ないままに彼が読み終えるのをじっと待ち構えるしかないのだ。自分が願ったのはこんな状況ではないというのに。
こいつ、絶対わざとだと―――。
素顔をさらしたくないなら最初から拒否しとけよな、と。
大人気ない文句をこころの内に呟いた。
荒れ果てた大地に咲く花は少ない。立ち木も少ない。夏の間だけ生い茂る草の海も寒さにかまけて未だ成長の目処はついていない。それでも遊牧の民らしく羊を飼い馬を操り、どうにか日々の暮らしを営んでいる。つらい冬の時期を終えて夏の草原が間近に控えている。
「ええっ!? 帰っちゃったのか?」
寝袋を抱えた少年は残念そうに叫んだ。周囲に人影はなく、未だこの場に留まっているのは少年たちだけだ。あの時と比べて多少髪が伸びはしたけれども基本的な顔の造形は全く変わっていない。
寝袋に必要最低限の生活用品を詰め込みながら嘆息する。
「なんだ………挨拶ぐらいしてけばいいのに。俺だって、お別れ言いたかったよ」
「彼の半身が危機にさらされていたらしくって―――止める暇もなかったわ」
困った顔をして申し訳なさそうに少女が微笑む。手近な食料を袋に押し込んだ。
「伝言だけ預かってるの。短い間だったけど本当に楽しかった、また会おう。………ですって」
「―――そっか」
少年は所在なげに片手で前髪をかきあげた。
謎の客人が連れの『中』に現れたのは数ヶ月前。最初は彼女と同様の力を持つ存在に心底驚いたけれど、間接的に伝えられる人柄はとてもあたたかですぐに安心してしまった。旅の中途で何度か助言を授けられたこともある。前向きな姿勢に励まされたこともある。
『―――会えるさ。お前が望んでいるなら絶対に』
屈託なく伝えられる言葉が胸に染みた。探せども探せども果てのない荒野、儘ならない言葉、見つかる宛てのない探し物に挫けそうになっていたけれど。
彼は知っていたのかもしれない―――あの人たちがいま、何処でなにをしているのかも。
けれど確かめることが何故だか躊躇われて、そうしている内に彼は帰還してしまったという訳だ。
できることなら、もう少し話しておきたかった。
「また………会えるよな?」
その言葉に少女が強く頷き返す。
「会えるわよ、絶対に」
至極嬉しそうな笑みをこぼすと少年はまとめあげた荷物を馬の背にくくりつけた。彼が乗り込むのに合わせて少女ももう一頭の背にまたがる。指し示す先は強風の吹き荒れるかさついた大地。負けぬよう、諦めぬよう、ひとつの言葉を繰り返す。
「―――会うんだ、絶対に」
少年の瞳が真っ直ぐに前を貫いた。
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