朝まだき。
届くは鳥の鳴き声、日の光は未だ夏の強さを発揮せず刻むは真白の印象。
戸の隙間から差し込む光もいずれは強さを増すだろう。地面を焦がす陽と陰、いまを盛りと泣き喚く蝉の声が涼風に乗って流される。されど此処ばかりは喧騒からも遠く、人のひしめきあう城内や町とも異なり閑散とした森の中の庵。ましてや彼が座すのは更に奥まった道場、響く声とてか細くなろうというものだ。さして広くはない、森に吹き抜けた屋根さえ備えず板敷きがされた粗雑な壇上。
ひとり森に対峙した青年は床に置いた扇を見つめ微動だにしなかった。しんと張り詰める空気、目を瞑る世界にゆらめく日の光と葉のさわめきが心地よい。
かつて『美濃の麒麟児』と称された者は静かに瞳を開くと眼前の扇を掴み取り、構えた。閉じていたそれを開き、差し出し、ゆうるりと天に押し上げる。
軽く。
足を踏み鳴らす。
こだまする僅かな余韻。
流れる風に任せるように身を翻しながら薄く思うのはこれからの行く先。
主君が足利義昭を迎えに越前に赴いたのが二月程前の出来事。責任の重い仕事だからと独りで発ち、他の者が付き従うのをよしとしなかった。表面上それに大人しく従った彼ではあるが無論手は打ってある。自らの片腕に等しい部下を守りに着かせたからには主の安全は保証されている。
―――問題は、その先。
誰に呼びかけるでもない心中の呟き。聞くは己が半身のみ。
一月程度で帰還すると思われていた主の戻りが遅れたのはひとえに将軍の我侭ゆえであろう。当人はそれを我侭とは思わず風流人の心得、貴族として当然の嗜みと考えているのやも知れぬが所詮は農民や軍人あがりの一般武家に受け入れられるはずもない。
また、ひとつ。
足を踏み鳴らし、扇をかざす先に抜ける青空。
将軍を城に迎えてすぐさま出立するかしないか、機を見るならば来月の初旬辺りが狙い目か。当主たる織田信長が秀吉に同行を命じるのは明らかで、ならば付き従うまでとの点に迷いはなく、ただ気にかかることといえば。
同道する―――のは、何も、織田ばかりではないという………そればかりが。
しかし徐々にその懸念すら舞い続ける動きにまとまらず意識の隅に追いやられる。
裾を払う足裁き、掲げる腕につれて宙を舞う袖、背を流れ落ちる汗。
床板を踏み鳴らし、踏み鳴らし、踏み鳴らして響く音に酔いしれる。鼓膜に跳ね返り反響する音色はまるで自身の内側から轟くようにも思えて眩暈を覚えてふらつく足取りでけれど確かに地を蹴りつけて舞い踊る。この時ばかりはそう、己が何者かと言うことさえ脳裏に浮かばず意識が揺らぐ。
私は、『私』であり。
その名はかつて冠されたいずれにも属さず、ただ『在る』だけの。
常は分かたれた心と意識さえ、いま、この瞬間には溶け合いひとつとなる。
だからこその舞い―――酒に酔うより肉欲に溺れるより知識欲に焦がされるより。
より一層の、満たされた胸中の御霊。
この瞬間ばかりは誰よりも『彼』とひとつになれる。
落ちる影は早朝の鮮烈な光から色合いを変じて長くなる。訪れ始めた『動』の気配が未だ侵食されずにいる道場の静謐に忍び寄る。
頬を伝い落ちる汗、ほどけかかる髪、いつまでもこうしていられないと悟りながら。
だが出来るならば―――いずれはくず折れて疲弊した姿を晒すとも、その直前までは自らが踏み鳴らす足音と扇の起こす風、身を翻した際に絡む裾に、ひたりたく。
忍び難く、耐え難く―――恋しく思えばこそ終わりの到来を予感する。
己でもなく彼でもなく誰でもなく、分け隔てなく感じられていた気持ちがゆるやかに離されて行く。『全』であったものが『個』に戻ることを悲しく感ずれども否定するには至らぬ。互いが互いの存続を望めばこそ、元が分かたれているからこそ一時の『統合』と『共感』がいとおしくなるのだ。
そう、最後の分離はあの足音が運んでくる………。
動きを終息させつつあった彼は本当に僅かな息切れと流れ落ちる汗を気にも留めず道場の出入り口を振り返り、笑った。「いるのだろう、佐助。遠慮せずともよい。入れ」
告げた彼の表情は何のことはない普段どおりの『竹中半兵衛』に戻っており、数瞬前まで覗かせていた別人の如く不可思議な趣などかほども感じさせなかった。
扉付近で立ち止まっていた人物は凍てついた表情の中に珍しく苦笑を滲ませた。相変わらず気配に敏い方だと内心で舌を巻いているのかもしれない。その場にかしずいて頭を垂れる。
「ただいま戻りましてございます、半兵衛様」
「ご苦労だったな。お主の身体に支障はないか」
「はい。………秀吉公は昨夜峠を越えられ、組付きの忍びの警備内に入ったことを確認して参りました」
それでよい。もともと半兵衛が命じたのは墨俣の領域外での秀吉の護衛である。峠を越えたならば即刻帰るように命じていた。でなければ勘の鋭い秀吉のことだ、佐助の不在から事を察して半兵衛が差し出がましい真似をしたと気分を害するかもしれない。
「疲れただろう、とにかく今日は休むとよい。茜―――茜はいるか」
道場から本殿へと戻りながら辺りを見回す。待つまでもなく楚々とした少女が廊下の角に跪いた。
「控えてございます」
「すまないが佐助の分まで朝餉の用意を頼む。これから湯浴みをする故、上がる頃にあわせてな」
「畏まりました」
一瞬、茜の視線が半兵衛を越えて背後の同輩へと突き刺さる。任務は滞りなく終了したのか、何か隠していることはないのか、主君にとって不利な状況を招いてはいまいかと探るような目であった。佐助と茜は同じ組織の出身らしいが過去に何があったのか詳しくは知らない。さわりぐらいは知っているものの、時折り彼らの間に生じる緊張した空気はどうにかならないのかと思わぬでもない。
仲が悪いって訳でもなさそうなのにな、と胸中の片割れが不思議そうに首を傾げた。
途中で手拭いを取り出して洗い場へと促す彼に部下が戸惑った声を投げかける。
「半兵衛様、湯浴みならば先に貴方様が」
「佐助、私は疲れている人間を置いて風呂に入ろうと思うほど鈍感ではないのだ」
「しかし」
「だからな、佐助。私は風呂で汗を流すがお主も旅の疲れを癒すとよい。まぁふたりで入っては足も伸ばせぬだろうが順序に気を遣うより数倍ましだ。それに」
ふと足を止めて人の悪い笑みひとつ。
「怪我の具合が気になるのだろう―――現物を見せつけぬとお主は納得しそうにない」
虚をつかれた忍びは少しだけ目を瞬かせた。驚きが引いた後に残るのは「バレていたのか」というような照れた表情―――と、いっても慣れない者では見分けもつかない些細な変化ではあったが。
旅立つ直前に半兵衛が負った両足の傷を彼はひどく心配していた。もう治ったのだと主張しても簡単に頷く相手ではなく、これから先、延々と心配され続けるよりは完治した証を見せ付けた方が早いと踏んだのだ。
「………先の舞いを見る限り、大丈夫そうではありましたが」
「で、あろう? だが、お主が心配するようでは周囲もまた私に気を遣うのだ。頼むから私の判断基準を揺るがしてくれるなよ」
お前さえ大丈夫だと太鼓判を押してくれれば誰から見ても大丈夫なのだと、過保護な部下に対して漏らさざるを得ない苦笑を口元に刻み込んで。
「その代わりゆっくり入っている暇はないぞ。秀吉殿は昼頃には到着されるだろうからな、それまでにしておかねばならぬことが山のようにある」
言いつつ軍師は風呂場への廊下を静かに渡る。部下の複雑な心境など知らぬままに。
半兵衛の住む離れは墨俣の城から見て西方に位置している。鬱蒼と生い茂った森の奥にあり、余程慣れた者でなければ屋敷の入り口が何処に在るのか皆目見当もつかないだろう。本当に僅かに存在する細かな道の切れ目を辿る以外に行き着く術はなく、周囲に人家もない為に、何も知らぬ旅人が偶々発見した折りにはこれぞ迷い家かと腰を抜かすと思われた。尤も住人がそれに頓着するはずもなく、一風呂浴びてさっぱりした家の主は帰還したばかりの部下を寝かしつけてのんびり城へと向かっていた。佐助は少し休んだだけで後を追ってくると半ばの確信を抱き、馬の手綱を操りながら語るは胸中の人物とのみ。
(どう思う?)
『かなり荒んでそうだよなぁ』
問いに答えるのはあくまで身体を持たぬ『弟』―――あるいは『兄』か。
部下の報告から察せられたのは文化人たる将軍に辟易させられたらしい主君の苦労と明智光秀との関係と織田家の行く末と。城入りの日程すら佐助は探り出してきたけれど、これは秀吉自身の口からきちんと聞き出しておくに越したことはないだろう。
城に着いた半兵衛は馬を厩舎に預けると幾つかの些細な命令を近習に告げてより、朝から元気な小一郎や出仕してきたばかりの小六と何食わぬ挨拶を交わした。小一郎が実に嬉しそうに顔を綻ばせた。
「先生、聞いてください。さっき国境の警備隊から狼煙が上がったんです。兄さんが帰ってきたんです、きっともうすぐ到着します!」
「そうですか」
おだやかに、素知らぬ顔で頷き返す。
「俺も見てきたがな、あの合図は間違いなしだぜ。煙が上がったのが明け方過ぎだったから………ま、到着は昼過ぎってところか?」
「ならば準備を急がなければなりませんね。迎えは」
「早馬なら出した。といっても、そもそも今回の旅は隠密だったからな。大抵の兵にとっちゃ寝耳に水だ。大将の留守すら知らねぇんだしよ」
並んで廊下を歩きながら苦笑をもらすのは小六だ。しかし出迎えはきちんとしなければ秀吉は不満に思うだろうと口を開きかけた間際に。
後ろから追いかけてきた兵の呼び声が彼らの足を止めた。
「お、お待ちくださいっ! 小一郎様、蜂須賀様―――軍師様っ!」
「どうかしたか?」
不思議そうに小一郎が振り返る。その先で息を切らしながらもどうにか平伏した兵のひとりは、途切れがちな言葉をどうにか続けた。
「い、いましがたっ………城主様がお着きになられましたのでっ、皆々様のお出迎えを―――」
三人で交互に顔を見合わせた。確か狼煙が上がったのは明け方過ぎで、まださしたる時間も経っていないというのに。「幾らなんでも早すぎるよなあ、本当に本人か」と小六が首を傾げるのも無理からぬ話だ。
佐助の報告によれば秀吉が峠を越えたのは夜半だったはず、と、なると。
「―――夜通し、か」
休みもろくすっぽ取らずに出立したのだろう。全くもって行動が早いというか短気というか、あるいは将軍に対する愚痴を誰かに打ち明けたくてもう我慢ならなくなっているとか。
『最後の意見に一票なー』
総兵衛が要らん同意を示した。
「無事に到着なさったのなら、それが一番ですよ」
苦笑を浮かべながらも半兵衛はふたりを迎えへといざなった。
城門の前は僅かばかりの人だかり。主の外出を知らぬ者たちは何故に今頃城主が、しかも何だか疲れ果てた様子で到着するのかと怪しんでいることだろう。裏口から入るぐらいの気遣いを普段の秀吉ならするものを、それすらせぬということは余程疲労が蓄積しているのか自棄になっているのか確信犯か。
『最後の意見に一票なー』
(またか、お前は)
内心で相棒をど突き倒して半兵衛は小六たちの後ろから表を覗き込んだ。馬を下りたばかりの主君が丁度こちらを振り向く。日焼けした肌をさらして人の悪い笑みを浮かべた。
「よう。いま帰ったぞ」
「兄さん!」
「お疲れさん。首尾はどうだ? ―――って、お前がへまする訳ないか」
「まぁな」
小六に肩を叩かれながらも彼はますます笑みを深くする。やけた肌に煤けた衣服、濃くなった髭や乱雑に束ねられただけの髪がこれまでの労苦を忍ばせた。小一郎のように駆け寄るでもなくのんびりしていた半兵衛はかなり遅れて秀吉の側に立った。
「秀吉殿。此度の任務ご苦労様でございました。無事のご帰還、何よりでございます」
「ああ―――久しぶり、だな。城はどうだ」
「特に変わりはございません」
馬を傍らの近習に任せると秀吉は着けていた菅笠を軍師に預けた。その足で城内へ突き進み、草履を脱ぎ散らかして廊下を踏み鳴らす。腰の刀も適当に中空に放り投げるものだからやはり半兵衛が受け止めねばならなかった。さて、これ以上投げ捨てられても受け取れないぞと塞がった両手に迷う。背後からは興味深そうに小六と小一郎も着いてきた。
「国境の守備はどうだ。少しは警戒を強めたんだろうな、報告は」
「増員はしましたがこれといった変化はございません。通商で抜ける者、近隣の村人、いずれも名と住まいを控えてございます。ご要望であれば後程名簿をお持ち致しますが」
「頼む。食料の補給と装備はどうなっている」
言いながら秀吉は身に付けた革鎧や脚絆をあらゆるところに脱ぎ散らかす。まさか廊下に放ったままにもしておけまいと拾いはすれど預ける宛てもなく両手に抱える程になる。すれ違うまかない女たちが驚きに目を見開くのは分かるのだが、一体どうすればよいと言うのだろう。
「近隣の地から通常より割高の値で買い占めてございますからな、少なくとも敵方が当方の補給源を断つことはありますまい。装備は西国の商人より上手く取り寄せることに成功しました。補充品として火縄銃を重視したかったのですが………」
「わかった。詳細はまた後で聞くこととしよう。―――っと、そうだ、半兵衛」
ようやく秀吉は立ち止まると振り向いたが、開きかけた口もそのままで急に固まった。
「秀吉殿?」
促せど答えず、彼の突然のだんまりの元は半兵衛の抱え込んだ汚れ物の数故か、更に後ろに控えている小六たちの存在に今の今まで気付かなかった故なのか。
少しだけばつが悪そうに視線を彷徨わせ、幾度かの躊躇いの後に呟いた。
「あ―――その、風呂に、入りたいんだが………」
「既に沸いておりますよ。どうぞごゆるりと」
「酒も飲みたかったりするんだが―――」
「美濃より取り寄せたる銘酒がございます。冷やと熱燗とどちらになさいますか」
彼の受け答えに驚いたのは何故か後ろの面々だったりした。
「先生、いつの間にお風呂なんてっ!?」
「酒を取り寄せた!? 俺も知らねぇぞ、隠してたのかっ!」
「いえまあ………はい」
言葉を濁す。風呂は出仕と同時に近習に頼んでおいたのが役立っただけであり、酒は前々から頼んでおいたものが折りよく届いたのみである。酒飲みの小六に知られてはなるまいと隠しておいたのは事実なので軽く笑って適当に誤魔化す。
小袖と袴だけのすっかり身軽な衣装になった秀吉が首を回すと鈍い音が響いた。
「まぁ、よく分からんけど沸いてるんなら丁度いい。ついでだ半兵衛、背を流せ」
「―――は?」
聞き間違いではあるまいな、と半兵衛が怪訝そうに問い返す。
「なにゆえ私が。遠慮しておきます」
「ついでだ、ついで。お前こそ何で断る」
「理由を尋ねられましても………どうせなら湯浴み女に背を流してもらった方が嬉しくありませんか? 綺麗どころを用意しておいたんですよ」
別に自身がその役目を負ったとて気にはならないが、あまり広くもない風呂に男ふたりが同時に入るのはどうかと思う。旅の疲れを癒したいならひとりで足を伸ばすに限るし、半兵衛とて秀吉が休んでいる間に色々と片付けておきたい用事があるのだ。
真向かいから睨みあう羽目になったふたりだが、不意に秀吉が手を伸ばして相手の前髪を掴み取った。身長差の分、引っ張られてかなり痛い。この場合に機嫌を悪くするべきは半兵衛であるはずなのに腹立たしげに眉をしかめたのは何故か秀吉だった。
「―――何で濡れてるんだ」
「出仕前に庵で浴びて参りましたので」
「何で」
流石に『部下に怪我の具合を見せるため』などと言う気にはなれなかった。咄嗟に口をつくのはひねりのないどうとでも取れる理由。
「………暑かったので………」
―――夏だしな、と背後の小六が付け足した。
秀吉の機嫌が明らかに悪化する。
無言で踵を返し、どこから調達してきたのか手拭い肩に引っ掛けてやたら偉そうに宣言する。
「湯浴み女はいらない。お前が来い。ついでに酒も持って来い。いいな」
いえ、ちょっと待ってくださいよ。
等と声をかける暇もあらばこそ、呆気に取られた三人を余所に主人はとっとと廊下の角を曲がってしまった。山と抱えた汚れ物に埋もれて半兵衛はため息をついた。慰めるように小六が背を叩く。
「気にすんな、先生。どう見てもあれぁあいつの我侭だ」
「兄さんも時々訳のわからない要求出しますよね………」
小一郎も苦笑いしながら半兵衛の荷物を受け取ると、通りすがりのまかない女に洗濯を依頼した。両の手は空いたもののこのまま主君の命を無視するには行かなくなってしまった彼である。仕方ないがここは小六たちに骨を折ってもらうことにしよう。
「沖から取り寄せた干物と、先日収穫したばかりの山菜を煮込んでおいてくれませんか。あと、ここ二月の間の決済の書類を、そうですね、奥の間に」
「先生はどうするんだ?」
「行かぬ訳にも参りませんから」
酒を隠し場所から引きずり出して来ますよ、と懐から取り出した紐でたすきがけをする。
「すいません、先生。我侭な兄で………」
「構いませんよ」
兄の代わりに恐縮する弟に微笑みかけた。
「―――今日だけですから」
明日からは泣けど喚けど聞く耳もたぬ。これまで溜まりに溜まった仕事を一気に片付けてもらおうではないか。城主でなければ裁決できぬものとか留守中に変動した近隣諸国の動向とか自軍の装備の確認だとか、秀吉にはしてもらわねばならないことが五万とある。
だからこそ今日はゆっくり休んで明日からの地獄のような扱きに備えて頂こう。
―――半兵衛の思惑が読めたかどうかは知らないが、この時の笑顔が小六たちにはひどく恐ろしく感じられたという。
熱い湯に身をひたすと手足の先がじんと痺れる感じがする。頭を縁に乗せて見上げれば天井との間を白い湯気がたゆたう。格子窓から差し込む日の光が緩やかに縞を作っていた。
(………疲れた………)
風呂に沈み込みそうになるのをどうにか秀吉は持ち直した。全く、今回ほど任務を恨めしく思ったことはない。思い出すだけで頭が痛くなる。肩をもみほぐしながらも表情は自然きついものに変わっていた。
将軍はこれといった特徴のない男に見えた。戦ったことのない身体は締まらず、武士や侍よりは公家や貴族に近い印象を受けた。そも、話し方からしてのろくて婉曲表現が多くて苛立つことが多かったし、それが口調のみに留まっておればまだ我慢はきいたものを将軍は行動までのろかったのだ。
朝倉領土内から出立するまで数日、これから衣服を取り揃えるだの厳しい行軍に備えて精進潔斎せねばならぬだの、こちらが到着するまでに準備ぐらい済ませておけと言いたい。光秀は平然とした顔で命に唯々諾々と従うし、出発すれば出発したで途中の滝、泉、山間の谷、渓流、その他諸々の移ろい行く自然の装いへ駕籠に揺られながら感嘆の声を上げるは言うに及ばず、すぐさま席を離れ懐から取り出したるは筆と紙。荘厳な景色に一筆啓上と―――何を悠長にしているのだ全く。こちとらお前の酔狂に付き合っている暇などないというのに。
しかし立場上文句をつける訳にも行かず、足利義昭の風流に付き合わされること数ヶ月。ああ、本来の織田軍ならば既に三往復は出来ているものを。
―――おかげで入京の予定が大幅にずれ込んだ。これでは間に合わない。
約束していた、京の都の祭りには。
(くそっ………何で俺ばっかり)
手拭いを頭にのせて秀吉は口元まで湯にうずめた。
と、同じく戸の向こうで呼ばわる声がする。素っ気無く「入れ」と命じれば多少がたつく戸をこじ開けて見慣れた青年が姿を現した。
「失礼いたします」
「おう、入れ―――って何だ、総兵衛か」
「何だとは何ですか。来いっていったのは秀吉殿でしょ」
酒の乗った盆を片手に苦笑するのは袖をたすきにした総兵衛。湯を浴びぬよう袴の裾も膝あたりで結わえてある。盆を傍らに置いて戸を閉めると一旦は逃げ出した湯気がまた室内に篭もり始めた。どうぞお飲みください、ただしのぼせない程度にと釘を刺してから盆を湯に浮かべる。
「ありがとな。しかし、お前が来るとは思わなかった」
「早々に総兵衛が挨拶できるとしたら今ぐらいでしょうし。一先ず外で控えてますから必要な時に、」
「何でだ」
「―――狭いでしょうが」
「俺は構わんぞ。其処にいろ」
酒を片手に上機嫌な秀吉とは対照的に部下は天を仰ぐ。確かに風呂好きな秀吉が注文つけただけあって庶民のものよりは広めなのだ。が、それはあくまで比較の問題であって男ふたりが同じ空間にいるとひどく狭い印象を受ける。しっかり勺をさせながら秀吉は内心だけで毒づいた。
(逃げようったってそうは行くかい)
不満そうな部下にはもっともらしい理由を述べておく。
「そんな嫌そうな顔するなよ。軍事機密を話すには廊下よりこっちのがまだ安全だろ?」
「窓に部外者が張り付いてなければの話ですがね。全く、炊き出しがいたらどうしてくれるんです」
格子窓から総兵衛が外を覗き込む。慎重に辺りを見回して、少しだけ口元に笑みを刻んだ。笑みの理由が窓の外に己の部下を見つけた故とは悟らせず、そのまま窓から離れると備え付けの腰掛けを手繰り寄せて座り込む。
運ばれてきた酒は程よく冷えていて喉元を滑り落ちる感覚が心地よい。
「………何か、変わったことは」
「先と同じく、特にありませんよ。そうですねぇ、山の裏手に花が咲いたとか猪が辺りを徘徊してるとか小一郎殿の背がまた伸びたとか小六殿のうわばみが先日の酒宴で再度証明されたとか」
「どんどんどうでもいい内容になってるぞ、おい」
「あとは見えない城主の姿に部下たちが何となく寂しい思いをしたとかしないとか。それぐらいですね」
からかうような笑いが不思議と耳に気持ちよく湯殿に反響する。
欲しい時に欲しい言葉を、望む時に望む態度を。
それはこの数ヶ月の間は絶対に手に入れられなかったものだから、出立前より態度が甘くなるのは仕方がないと諦めている。
「―――抜かせ。鬼のいぬ間の何とやらで騒いでただけだろ」
疲れを癒す最良の薬は『笑い』だと、この時ばかりは感じる。
気心の知れた相手と交わすどうでもいいような内容の言葉ばかりがささくれ立っていた神経を鎮める。
「秀吉殿ぉ―――………やっぱ一回引かせてくださいよ。このままじゃ総兵衛のがのぼせますって」
「却下。朝風呂なんかしてるから苦労するんだ、ばーか」
「いつ風呂に入ったっていいじゃないですかー、秀吉殿だって好きな時間に入るくせに、もう………」
ため息つきつつ濡れた壁に肩を預ける仕草。所在なげに足を放り出して、場所を変えれば少しは涼しくなるかと腰掛けごと窓の側まで移動して。
酒を手勺で飲みながらさり気なく秀吉の視線は彼の足元でそよいでいた。
―――白く、細く、日に焼けることなどないだろう肌。
切り裂いていた朱線も爆ぜた肉も醜い傷跡も全く見い出せない素足。
湯気の合間に安堵の息を紛れさせた。
完治―――してる、みたいだな。
初めから気になっていたのはそれだけだ。
廊下で事のついでのように聞いてしまえばよかったのに半兵衛の後ろに小一郎たちがいるのを見たら何故か切り出せなくなって、関係ない事ばかり口をついて、いっそ一対一になれば素直に尋ねられると思えば相手はそれを拒否するし。
………知らないところで、勝手に湯浴みなんかしてるし。
自分でも単なる我侭だと思ったがとにかく今日ばかりは全部思い通りに行かないと嫌なのだ。散々将軍に付き合わされた捌け口を半兵衛たちに求めるのはお門違いだが、自分の考えを一番察してくれるのが彼らなのだから仕方がない。今日ばかりは開き直ろうと決心している秀吉である。
そんなこんなで強引に誘った後も結局怪我のことを切り出せずにいるが、動きを見る限り平気そうなので安心した。
その際のため息が聞こえたかどうか、微かな声で文句を呟いていた総兵衛がふと黙り込み、壁にもたせかけていた背を起こすと自らのてのひらで足をさすった。まさかまだ痛むのかと思ったがそうではないらしく、彼は少しだけ秀吉を盗み見て仕方ないなと言うように笑みを浮かべた。全て見抜かれた気がして咄嗟に手拭いを湯表に叩き付ける。
「―――よし、総兵衛。背中流せ、背中」
「はいはい」
「はいは一度でいい」
わざと難癖つけて遊ぶ。呆れた顔はされても決して芯から嫌われたりしないと分かっている所為か気が楽だ。子供扱いされているのだろうが偶にはそれも悪くない。腰に手拭いを巻きつけて用意された椅子にふんぞり返る。背に触れた手拭いはぬくいのだが、総兵衛自身の手は冷たくて微妙な熱さだった。
「将軍はどんな方でしたか」
「あー………どうってことない。取り合えず和歌でも詠めてりゃしあわせみたいだな」
「だといいんですが。そういう方ほどいざ、権力を手にすると豹変するというではありませんか」
けぶる湯気と隙間を縫うように差し込む日光。背に触れる布の心地よさと気遣われている言の音が深く身に沁みる。足利義昭に対する不満を思う存分ぶちまけようと思っていたのにどうでもよくなってしまった。自分が受けた印象や人となりはきちんと今後のためにも伝えるつもりだが、それ以外の事であんな男の話題をわざわざ会話にのぼらせる必要もない気がする。もっと話したい旅の風景や道中で思い浮かんだ国策や聞きたい事柄が多くあるのだから。
幾つか今後の政策に対する意見や隣国の状況を尋ねたところで総兵衛が立ち上がった。
「秀吉殿、湯をかけますよ。目を瞑ってください」
「あ?」
「ついでですから髪も洗ってしまいましょう。ほら、結い紐をほどいて」
さっき己が「ついでだ」と誘った意趣返しかと思わなくもなかったが素直に紐をとく。人に頭を洗ってもらうのなんて幼い頃に母や姉にやってもらって以来ではなかろうか。おかげでどうもむず痒いというか居た堪れないというか………しかし気持ちいいので黙っておく。こめかみ辺りを強く押されて呻いた。
「―――痛っ、おま、力強すぎないか?」
「まぁまぁ」
笑いながら総兵衛が後頭部を同じように強く押す。一瞬、取り押さえるために相手のてのひらを掴んでみたものの、やはり冷たい指先に驚いて放してしまう。そのまま不満を内に抱え込んで我慢していればなるほど、徐々に心地よくなってくるのだから不思議なものだ。ツボを心得た手つきに感心する。
「お前、いい按摩になれるぜ」
賞賛の如き言葉を贈れば、
「小さい頃城に来ていた方と仲良くなって教えてもらったんです」
相手は淡々と答えた。
例の如く素行疑わしく健康面も不安な半兵衛をどうにかしようと両親は腕の立つ按摩や医師を多く招いていた。その内のひとりと親しくなった『彼ら』は実演込みでコツを教えてもらったのだという。
「まぁ本当は按摩じゃなく修行中の禅僧だったらしくて、名は恵瓊―――だったかな。京に向かう途中だったそうですが偶々うちに立ち寄りまして。自分が心地よく感じるところは他人にとっても心地よい事が多い。人体のツボはある程度限られていますから後はそこを探り出す術と力の入れ具合ということで、結構筋がいいかもしれないと」
「ちょっと待て。………実演込み?」
「そうですが」
「………お前が被験者?」
「そうですが」
「………」
閉じていた目を開ければ全然わかっていない相手と視線が合った。どうかしたんですか、と問い掛けられても答えようがなくて滅入る。
幼い頃だからいいのだろうか、いや幼いからこそ逆にまずくはないのか、その男の歳や魂胆によっては身の危険を感じたりはしなかったのか、身の危険てのは例えば城主の息子であるが故の誘拐や暗殺の可能性も含んでいるけれど、それよりも何と言うのかそもそも按摩の伝えるコツなんて要するに教える方も教えられる方も相手の身体に触れなければならない訳で―――。
「―――あほか俺は」
「は?」
「何でもない」
そして秀吉はまた目を閉じた。総兵衛は少し首を傾げて、一体この主は何を聞きたかったんだろうかと胸中の片割れと議論しているようであった。秀吉の頭に湯をかけて流し終える。終わりましたよ、と声をかけられた彼はのぼせかかったまま立ち上がった。ふ、と足元が揺らいで壁に手をつく。
「おっと」
「大丈夫ですか」
「ああ。ちょっと揺らいだだけだ、気にすんな」
右手で身体を支え左手で軽く眼前の湯気を払い除けて、桶を傾けたままの総兵衛と目がかち合う。
―――瞬間。気付きたくないのにしっかり気付いてしまった。
布を巻いていたはずの腰がどうにも心許ないということに。
「………っっ!!」
途端、青ざめた直後に顔を沸騰させた秀吉はけたたましい大音響を立てて湯に潜り込んだ。跳ね上がる飛沫を受けて総兵衛が戸惑いも露に呼びかけた。
「どうかしたんですか?」
頭の天辺まで湯に沈んだ秀吉は上がってこない。一体何を気にしているのかと総兵衛は首をひねるばかりで足元に落ちていた手拭いを縁に乗せる。
「秀吉殿ー? のぼせかけてる人間が湯に沈んじゃ駄目ですよ」
やたら音の反響する水中からようやく顔を覗かせると秀吉は恨みがましい瞳で相手をねめつけた。
「―――見たな」
「………何を」
いよいよもって総兵衛が首を傾げる。全く気付いていないのか気付いていながら頓着していないのか、どちらにしろとんでもなく腹の立つ出来事で―――予期して見られるのと予想外に見られるのは別物で、風呂場に招いておきながら考えの及ばなかった自分もアレといえばアレだが、とにかく総兵衛も悪い。悪いに違いない。
「出てけっ、いますぐ出てけお前っ!」
「はい?」
「うるさ―――いっ!! 早く行けっつったら行け―――っ!!」
最早脳裏に浮かぶのは「逃げ出したい」という言葉ばかり。自分が此処から動けないのなら相手に退いてもらうしかないのだから、拒否の色を全面に押し出して秀吉は何回も湯の表をはたいた。剣幕に驚いた総兵衛が慌てて戸の向こう側に消える。が、まだ居るであろうことが気配で察せられる。
秀吉がひとつため息をついた頃を見計らい、遠慮がちに戸が叩かれた。
「………どうか、したんですか」
「別にどうもしないっ」
口調がひねている。
「どうもしないからとっとと行けっ」
「ならば、せめて徳利と盆だけでも持ち帰らせてくださいませんか? そうしたら先に奥の間で書の用意でもしておきますから」
「………」
敢えて言葉は返さなかったものの、拒否されないのを「諾」と受け取ったのだろう、音もなく戸が開かれて総兵衛が上半身だけを覗かせた。隅に押しやられていた徳利を抱え込んで傍らに控える。僅かばかりの苦笑を唇に乗せて機嫌の上下動が激しい主に声をかけた。
「総兵衛は引きますけど、湯当たりしないよう気をつけてくださいよ」
「―――おう」
そっぽ向いて素っ気無い返事。それに少しばかり気分を害したのかからかいたくなったのか、戸の隙間が一寸ばかりになったところで総兵衛がさり気なく呟いた。
「気にせずとも………中の上」
「っっ!!」
勢いつけて振り向けど既に相手は戸の向こう側。折りよく閉じられた扉と遠ざかる足音を聞きながら彼は細かく肩を震わせた。
わかっていない振りをしながら、気付いていない態度をしながら、やっぱりしっかりちゃっかり全部見えてたんじゃないかっ………! 男同士だからとか上司と部下だとか自信のあるなしはこの際関係ない。とにかく見た相手が『総兵衛』、つまりは『半兵衛』だということが一番の問題なのだ。
「忘れ去れぇぇぇ――――――っっ!!」
悲痛な秀吉の命令が相手に届いているはずもなく。
ちなみに、彼が総兵衛に何を見られてしまったのかは―――敢えて記すまでもないだろう。
「全く―――何をやっているんですか、貴方は」
「うるせ〜………」
秀吉は力ない返事をした。奥の間の障子を開いて風を受け、額には濡れ手拭い、更には火照った身体を冷やす為に半兵衛にまで扇を煽がせながら。
結局秀吉はあのまま見事に湯当たりしたのであった。
遠くから蝉の鳴き声が響き、縁側に差し込む光は明らかにきついが、そよいでくる風が頬を撫でる感触と額にのせた布の冷たさに秀吉はぼんやりと眠りの淵に招かれつつあった。このまま寝てしまってもいいだろうか。多分今日ばかりは半兵衛も文句は言わないだろう。そんな気がする。微かに相手が諦めのため息をついた声がしたけれど敢えて無視しておいた。
「そういえば、言い忘れていましたけど―――」
寝入りばなに呼びかけられて無視を決め込んだその時。
「明日、禰々様がこちらにいらっしゃいますから」
―――とんでもない科白に一気に目が冴えた。
「何だとぉ―――っっ!?」
勢いよく飛び起きて、しかし頭を激痛が襲って、結局元通り枕の上に滑り落ちて。
自らで弾き飛ばしてしまった布を手繰り寄せて呻く。
「聞いてねぇっ、そんなの………っ」
「告げておりませんから」
半兵衛は悪びれるでもなく断言した。
「秀吉殿が帰還したならばすぐに連絡を寄越すようにときつく仰せつかっておりましたもので………そうそう、伝言を預かっておりました。『大目に見てあげるのは今日だけよ。羽目を外すならば今夜の内にしておきなさいな』とのことです」
「今日は絶対、遊んでる暇なんてないんだが………」
「だから綺麗どころを用意しておいたのではないですか」
なのにすげなく断るから、と素っ気無く答える半兵衛こそ秀吉を夜遊びに行かせるつもりは全くないのだろう。あるいは見逃してくれたとしてもその分、明日のしごきが厳しくなるだけのことだ。
妻の禰々は墨俣にいたり親元にいたり信長の城で働いたりととかく落ち着かない。秀吉の今回の出張はどれほどの期間になるかも不明とのことで親元と城を行き来していた彼女が何故こんなに早く秀吉の戻りを察することが出来たのか―――は、考えるまでもなく軍師の差し金であろう。
ちなみに秀吉は決して妻が苦手ではないどころかかなり気に入っているし夫婦間の夜の営みだって好きなのだが、やはり偶には他の女とも戯れてみたいと思うのが正常な一般男子の健全な反応だと考えている。
美人が好きで何が悪い。妻に操をたてるなどとゆー謎の行動を取るのは半兵衛だけで充分だ。
「………女遊びがしたかったっ………!!」
「ははは、すいません。どちらかというと私は禰々様の味方なのです」
呆気なく言われてしまっては呪いの言葉さえ後が続かない。黙り込んだまま手近な卓に手を伸ばせば好物の干物と山菜の料理が整えられていたりするので無意味に絆されそうになるではないか。更に後ろに控えている書類の山が恐怖を抱かせてくれるものの。
風を送り続ける部下の向こうに広がる青空に目を向けて、沸き立つ白雲に強まる暑さを予感しつつ口を開いた。寝転がった自らのすぐ横に見えるささくれ立った畳の毛羽。
「―――義昭は岐阜の立政寺に入った。間もなく近江へ向かうだろう」
「集いは」
「佐和山城。遅くとも来月の初旬までには着きたいと信長様はお考えだ」
ただでさえ遅れがちの予定である。季節も秋を過ぎ、冬が到来すれば戦には向かない季節となる。敵方とて同じ条件になりはするが今のうちに叩ける敵は叩いておきたいというのが正直なところ。早くするに越したことはない。
「俺は信長様に随行する。小六や小一郎も連れて行くが―――半兵衛、お前もだ」
「はい」
「光秀も来る。あとはまあ、同盟の証として浅井からも誰か来るだろうな」
会見に使われる佐和山城は浅井の領土内。交通と経済の要だ。
ましてや北近江の浅井長政は信長とは縁戚関係にある。『四方の方様』として周囲の憧れを一心に受けていた信長の妹、お市の方を妻とした実に幸運な男。秀吉も密かに彼女に憧れを抱いていただけに実際に会ったこともない長政のことを意味もなく嫌っていたが、同時にこうした政略結婚によって信長の領地や権力が保証されるならばそれはそれで目出度いこととも思える。
「証とするならば………浅井長政が来るやもしれませぬな」
「だな。信長様への挨拶も兼ねて」
(………あれ?)
ふと微妙な違和感を覚えて瞼にかぶせていた布の端を秀吉はそっと持ち上げた。そうして部下を盗み見るが、彼は変わらず穏やかな表情で扇を揺らめかしている。
―――気のせい、か。
秀吉は深いため息と同時に目を閉じた。
「今度ばかりは戦になるぞ。一応信長様も直前に最後通牒はするらしいがな、それでいうこと聞くような相手なら苦労はしない」
「六角承禎との戦―――となりますか」
「また『凋落させてください』とか言うなよ。叩きのめしてこそ意味のある戦だ」
言い切る秀吉に少しだけ半兵衛は悲しげな笑みを刻んだようでもあった。けれどそれはすぐに常の穏やかな表情の中に紛れ込んで見えなくなる。
逆らうものを叩きのめせば確かに無駄な根回しや交渉は必要なくなるだろう。だがその分、味方の被害も大きくなるし、敵であれ失うには惜しい逸材を逃がすことにもなる。後のことを考えるならばできる限りこちらの味方につけておいた方がよい。
だがこれだけ時期がずれこんでしまっては交渉の余地すら信長は与えてはくれまい。ましてこちらには『将軍の入京』という大義名分がついているのだから。
ぬるくなった布を外してそこいらに放る。気分は良くなってきていた。
互いに無言のまま障子の向こう側に広がる空へと目を移す。入道雲が山ぎわから顔を覗かせてこちらへと近づく。何となく襲ってくる思考。
―――どんなに急いだとて、この時期では、もう………。
秀吉は僅かに顔をしかめた。出掛けに半兵衛と交わしていた些細な約定を思い出して嫌な気分になったのだ。本当に他愛もない事柄で、おそらく拘っていたのは己ばかりで、それが証拠に半兵衛も総兵衛も特に口にする素振りはない。自らの過ちや半兵衛の体調如何で果たせなくなったならば諦めもつくが今回は将軍の行動の遅さ故という外的要因が大きすぎる。あの男さえもう少しどうにかしていれば、と考えれば考えるほど苛立ちが募る。
してみると自分は先の約束を内心かなり心待ちにしていたらしい。愚かな話だが。
「京に着くのは―――長月に入ってからでしょうか」
扇をあおぐ手は止めずに半兵衛が呟く。こちらを見て笑った。
「落ち着いたら月見でもしましょう。京の祭りは年がら年中行っておりますしな」
―――他意はなく。気遣ったわけではなく。世辞でもなく。
いつも本当に絶妙の間でそれとない言葉を投げかけることの出来るこいつは、やはり凋落に向いているなと訳もなく感心してしまって、何となく秀吉は仏頂面になる。実は嬉しいのかもしれないけれど素直に喜んでみせるのも立場上はばかられた。
出立直前にかわした何気ない言葉―――『京の祭りを一緒に見るのだ』と。
それが果たせそうになくて苛立っていたなどと悟られるのは妙に腹立たしいではないか。
だから、呟く。
「………ばーか。んな風流事は将軍にでもさせておけ」
「きつねは月が好きなんですよ」
「兎じゃないのか?」
取り留めのない会話をしながら秀吉はまた目を閉じた。傍らをすり抜ける風が心地よい。
夜が深い。昼間の太陽とは打って変わり静かな銀色の光が地面を照らし出す。落ちる影は闇より尚暗く木々はざわめく。相も変わらず世間から隔絶されたかのような住まいで主従は言葉を交わす。話しかける様子でいえばむしろ主の方こそ気遣わしげな声を出した。
「―――疲れは癒えたか」
「はい」
部下は膝をついたままの体勢で深くこうべを垂れた。あまり畏まるなといわれて縁側までは足を運ぶとも決して奥まで踏み込むことはない。吹き付けるなまぬるい風にのって夜の間も蠢き続ける草花の香りが漂う。
冴えた横顔を見せながら主は言葉を重ねる。
「戻ったばかりですまぬが、行ってもらいたいところがある」
「なんなりと」
「京へ行け。そして堺と大津の動向を探れ。………茜も連れて、な」
彼は僅かに驚いて目を見開いた。背後の気配を探れば、それまで柱の陰で控えていたもうひとりの部下もやはり納得が行かないらしく、いささか慌てた風情で近くへ手をついた。
「何故でございます―――半兵衛様」
「短い期間で多くのものを探り出したいのであれば人手を増やすが一番であろう」
それに佐助は戻ったばかりだ、余計な負担をかけたくはないと、話す主は少しだけ困った笑みを浮かべている。眼前の部下たちが何を心配しているのかよくわかっているはずなのに敢えて彼は異なる命ばかり発する。佐助は殆ど反論もせずにそれらを受け入れるが、不満を訴えられるのは女の特権か茜の忍びとしては未熟な性格故か。
「分かりませぬな」
佐助自身はまた別の点で疑問を抱いていた。
「何故に堺を探れと仰せになるのですか。これから戦を抜けてゆくのならば今少し時間を要するはず。貴方様の護衛をしながらでも果たせる任務ではございませぬか」
「信長公は迅速を好むお方なのだ。さればこそ此度の戦にさしたる時間もかけはすまいよ。遅くともこの秋には京にたどり着いてしまうであろう。それから探りに行ったとて遅すぎるのだよ。―――更には」
何故に堺かと訊いたな、と主は笑う。
「京入りの暁には足利義昭は公に身分を与えようとするであろう、管領か副将軍あたりが適当かとな。されど天下を目指す者にとって重要なのは崩れかけた幕府の権威よりも商業地よ。堺と大津はどちらも豊かな町―――天を制すには経済も手中にせねばならぬ。税を徴収するも銃を入手するもこれほどに良き場所はない。ならば公の強引とも取れる手段に町人から反発が来るのも必至かと思うてな」
未だ笑いながら壁にもたせかけていた背を起こす。手にした扇の先で自らの額を小突く。
「だからこそ、だ。私は京に住まう者たちの力関係が知りたい。武士や朝廷には留まらぬ。商人、町人、文化人―――いにしえの都で力を振るうは何もむくつけき男共とは限るまいよ。あわせて三好衆の動向も探ってもらえれば言うことはない」
「半兵衛様は………」
改めて彼は首を傾げた。主君が何を求めているのかは分かったが、やたら断定的な物言いに気になるところもあったのだ。確かに調べることは多くある、だから出立を早めるというのも理屈では分かるのだが、それほど急がずとも良いのではなかろうか。大体にして予定は狂うものだ。
「織田信長が何の問題もなく入京できるとお考えなのですか」
「時間は掛からぬ。どういった波紋が起きようとも時は要さぬ。いまはまだ織田の勢いも止まるまいよ」
流暢に語られる言葉に佐助はひとつため息をついた。強く断言されてしまえば反論しようと言う気概さえ失せる。何故かは知らないが彼の言葉は必ず果たされるであろう、予測が外れることなど万にひとつもないだろうと確信できてしまうのだから仕方がない。そしてそんな彼の戦略や作戦に自らの収集してきた情報が役立っていると思えば満足も得られると言うものだ。それは傍らに控えた妹分にとっても同じ筈であり、だからこそ自分たちは主の下を離れての行動すら進んで引き受けてしまいたくなる。
全く、性質の悪い主君を持ったものだ。
考えながらもらす不満は決して苦い色は伴わず、振り向いた主のやわらかな視線によって齎されるのは強い使命感と信頼のみ。
「気をつけるがよい、ふたりとも」
それは出立前に必ず繰り返される言葉。
「決して無理をするな。怪我をするな。お前達の至上命令は常に生きて帰ることにあると知れ」
部下は揃って頭を下げた。必ずや、任務を果たしてこの方の元へ戻るのだと。
彼自身の安否を気遣う想いだけは常に筆頭に抱きながら。
|