遠目に覗く篝火が夜の暗さを映し出す。微かに炎のはぜる音と暗闇の中へと伸びていく影だけが辺りに揺らめく。互いが互いを見ずに済むようにと木を背にして密やかな言葉を交わし、敢えて素性を問い質すこともなければこれまでの事情を鑑みる様子もない。
ただ、淡々と。「―――首尾は、どうだ」
「問題ない」
囁かれる会話。腕組みをしたたま幹に背を預けてひとりは苦笑をもらす。
「………と言いたい処だが。目に見えぬ敵は厄介なものだな、何故こうなるのか皆目見当がつかん」
「お家騒動を此処にまで持ってきたのではあるまいな。狙いは明らか。将軍よりは大将の首が望みだ」
根元に座した側はひっそりと闇の中で笑みを浮かべて言葉を刻む。
「―――捕まえるしかないか」
僅かな驚きと共に佇んだままの男が振り返る。相手の姿は夜闇と木に遮られて認めることは叶わずとも切り出された提案が惑いを含むものであったが故に問い返さずにはいられない。自分たちの立場を考えれば協力など出来る訳がない。
断るべきなのかもしれなかった。しかし彼の想いと己の希望と、何よりもふたりの間で暗黙の了解と化している互いへの気遣いが拒否の科白を封じてしまう。
「正気か。主君を欺くことになりかねんぞ」
「今更だ。それともお前は全てを拒絶するのか」
―――嘘をつくことが今更なのか、問い掛け自体が今更なのか、救うことが今更なのか。
彼には判断がつかなかった。
「………一介の浪人としてならば受け入れようか。あくまでも秘すのが目的だろう」
語られぬ内心には感謝と謝罪。人目を避けての逢瀬も咎められてしまえば弁明のしようがない。だから、核心をついた言の葉はたとえ述べることを互いが求めても決して口に出されることはない。
全てを終えたならば、その時にこそ。
「どうするつもりだ」
「時間もあまりない。上に知られる前に決着をつけよう―――奴の、潜伏先を探り出す」
だから少しだけ付き合えと。
幾つかの些細な指示のみを聞き手に任せて、座していた青年は空を見上げる。
―――ああ。
もしかしたらいましばらくは悪い天気が続くかもしれないと。
そんな事を呟いた。
「………どうにも嫌な状態だな、これは」
眼前に置いた暇つぶし用の碁石―――代わり、の小石を睨みつけながら秀吉がぼやいた。地面に棒で引いた格子模様を頼りに小石と小枝の領地合戦だ。相手を務める弟はやっぱこれじゃあ遣りづらいと嘆きながら必至に盤上の駒を数えていた。
「何が嫌なのさ。この勝負?」
「違う。お前だって知ってるだろ、ここ数日の騒ぎ………まぁ、まだ然程大事には至ってないけどよ」
秀吉がため息をつくのもうべなうかな。信長より城周辺の夜警を言い付かってから幾日か、毎夜毎夜繰り返されるちょっとした出来事に管理者としては頭が痛い。
木下組に落ち度がある訳ではないし、将軍に危害が及んだ訳でも、信長の機嫌が急降下した訳でもない。無論このままの状態が続けば確実に信長の雷が落ちてくるだろうが、さいわいにして目下の彼は六角との交渉に忙しい。しばらくは誤魔化しも効くだろう。
小一郎もそろってため息をついた。
「不思議だよね………どうして浅井ばっかりなんだろう?」
そう。
浅井軍だけが何故か夜回りの度に何者かの襲撃を受けていたのだ。
襲撃といっても大挙しての激しいものではなく石を傍から投げられるとか、何処からかくないが投げつけられるとか、多少の手傷を負わされるといった些細と言えば些細な出来事だったけれど。
「放っておいてもいいんだけどよ。一応同盟は同盟だろ? 将軍が不安がって出立を嫌がる事になったら目も当てられねえし」
ひとつ、秀吉が舌打ちをする。
浅井の内幕に引きずられて織田の進軍が止められてなるものか。原因を究明しろと浅井長政に突っ掛かりたいが立場は向こうが上、殴りこむことも叶わず秀吉はここ数日煩悶している。別に襲撃関連以外でもいいのだ、この際だから何らかの失態をあげつらって一時的にでも浅井を遠ざけられればこちらの害は減るのではないか―――そんな無茶苦茶な考えまで飛び出してくる。
どうも将軍に会ってから短気になってしまったらしい。
気を取り直すように弟が切り出した。
「そういや兄さん、知ってる? 噂じゃあ浅井は夜回りの方法を少し変更するらしいよ」
「あ、それなら俺も聞いた。西から東へ回り込んでたのを逆周りにして、一刻おきの交代制だったのを半刻おきにするんだろ」
邪魔な小石を跳ね除けて次の手を練る。しかしそんな思考回路を断ち切ったのは弟の意外そうな一言だった。違うよ、兄さんと彼は心底不思議そうに首を傾げたのだ。
「東西方向じゃなくて南北方向にするんでしょ。でもって時間を変えるんじゃなくて面子を増やして二刻おきにするんだ」
「はぁ? お前、それ何処で聞いてきた」
「何処でも何も、木下組の皆はそう言ってるよ」
「俺は浅井の近辺で聞いてきた。小耳に挟んだ程度だから俺が絶対合ってるともいえねぇが―――」
にしたって何故これ程までに違うのだ。ふたりは揃って眉をひそめた。野外に座り込んだ彼らの近くをうろつくのは顔馴染みばかりで部外者の入り込む余地はない。とりあえずは指揮官のひとりということで御座なり程度に布で仕切られているが声なんか筒抜けもいいところだ。だから事の真偽を正そうと思えばそこいらで雑魚寝している部下を連れてくるだけでいい。
が、その前に軽く布の端をめくりすっと入り込んできた人物がいた。事務方の仕事を片付けてきた男は兄弟が地面の碁盤を前にしかめ面をしているのをどう捉えたか、静かに微笑む。
「失礼致します。将軍のご機嫌伺いをして参りましたのでご報告に上がりました」
告げる者は竹中半兵衛、木下組付きの軍師である。ここ数日の彼はすっかり足利義昭が苦手になってしまった上司に代わって毎日城内へ参拝していた。信長と話すのではなく、付き人を務めている明智光秀と共に他愛もない風流ごとを空惚けて語ってくるのである。武士の中では珍しく文学に詳しい彼のことを将軍はいたく気に入ったらしく、最初の顔見せ以来毎日のように歩を運ばざるを得なくなっていた。ここ数日、薄曇りの天気が続いて景色もあまり冴えなかった所為もあるかもしれない。
単独で将軍の相手をしている光秀の心労を減らす目的もあって、懲りずに浅井家と神経擦り切れそうな腹の探り合いもしている。ご苦労なことだ。
小休止に訪れた彼は角付き合わせるふたりに小首を傾げた。
「どうかなさったのですか、お二方。難しい顔をして」
「半兵衛、お前、浅井軍の夜回りの手順を聞いたか?」
状況説明なしの突然の問い掛けに多少半兵衛は戸惑いながらも、即座に答えを返した。
「これまで通り西から東へ回り込みながら人数を減らし、時間を四半刻にすると伺っておりますが」
「お前もかよ」
「はい?」
呻いた秀吉の顔を半兵衛が怪訝そうに覗き込む。ため息が殊更大きくならないように来たばかりの相手に抱いている疑問を打ち明けた。
「半兵衛、その情報って将軍の周辺に流れてる噂か」
「然様でございます」
「俺が浅井んとこで聞いたのと、小一郎がこの周辺で聞いたのと、お前が将軍の周りで聞いた噂が全部食い違ってる。これってどういう事だよ」
「単純に考えれば………情報操作、ですけれど」
軍師もその場に座り込んで悩ましげに腕組みをした。
「夜回りの度に浅井は狙われておりますからな。一先ずは数多の噂を流して敵方を混乱させようと考えているのやもしれませぬ」
「逆に俺たちが混乱すらぁ、同盟組んでるってのに迷惑かけられちゃ割りに合わんぜ。くそっ、何か不手際があればすぐ信長様に訴えてやるのにな」
「他人の揚げ足取りなどおやめなさい。らしくもない」
あくまでも冗談と知っているため半兵衛の言葉は苦笑の内に留められている。しかし、ひょっとしたら半分ぐらいは本気かもしれないと胸中で様々な計算を働かせてもいるのだろう。
織田信長に気に入られたいという秀吉の願いは強力なもので、その為に浅井とか明智とか、邪魔と思われるものを排除したがる方向性もかなりのもので。
機会さえあればすぐに他者を追い落としに掛からずにはいられない性癖を周囲の僅かな人間は理解していた。
だが、秀吉は同時に不必要な粗探しを好まない。明確な証拠を手に入れるまでは決して訴えには出ない。小一郎や小六、そして半兵衛たちは秀吉のそういった『陽』の性質をこそ補助していきたいと思っているのだろう。
「行動を起こすとしても浅井軍の見舞いぐらいでしょう」
たしなめるように半兵衛が口にした案に秀吉が乗って、明日にでも浅井の出方を窺おうと話すのみでその場は収まった。
だが、事件はそれでは納まらなかったのである。
夜深い森の中で黒い影が蠢く。揺れる火が作り出した陰にすら心なしか怯えながら皆は見回りを続けていた。出兵したはいいけれどこんな目に遭うなど考えてもみなかった。戦場で勇ましく戦うならともかく、誰とも知れぬ者に闇に紛れて攻撃されるなど御免である。三名の組で陽気な歌を歌い、わざとらしい大声で騒ぐのは互いの不安を打ち消そうとしているからだ。こうして声を上げることがつまり、侵入者に自らの居場所を伝える羽目になっているのだとの思いが脳裏をかすめても無言で歩くには闇が暗すぎる。
同僚が若干おさえた声で切り出した。
「―――見回りの順番も随分変わったよなぁ。長政様は何を考えていらっしゃるのだろう」
「さぁな。上の考えることはよく分からんよ」
「何か理由があるのだろうな」
「そう思いたい」
小気味良く会話を続けながらも顔色は冴えない。近くの梢から飛び立った梟の羽ばたきにさえ瞬間的に身構える始末で、まったく情けない事態に陥ったものだと苦笑をどうにかもらしてみせる。
夜回りを受け持ってからこっち、狙われるのは何故か浅井軍ばかりだ。暗い夜道で旗指物も家紋もなしに歩兵の姿を見分けるのは難しいだろうに敵は確実に狙いを定めてくる。一時的にでも見回りから外してもらえれば本当に敵は浅井だけを狙っているかどうかが分かると思うのだが、鬼と呼ばれる織田信長にそんな相談を持ち掛けられようはずもない。主の苦渋を末端の兵士でさえ察していた。
安眠妨害かもしれないとの思いがかすめてもやはり声を止められず、郷里の歌や思い出話に花を咲かせながら夜道を歩く。
担当区分を半周ばかりした頃だったろうか、仲間内のひとりがふと立ち止まった。「どうかしたのか」と問い掛けても答えがない。幾らか逡巡した後で彼は眼前に広がる小道に不安げな視線を注いだ。
「いや………すまない。何となく進みたくない気がしただけだ」
そういえばこいつは昔から妙に勘が良かったのだと残りの面子まで不安が伝染したかのように眉をひそめる。しかし不吉に感じられるからといって夜回りをやめる訳にも、道順を違える訳にもいかなかった。自分たちが忌避した所為で上役に支障があったならばそれこそ切腹物の大事態である。
ひとりが刀をしっかと握り締めた。
「こ、こうして皆でいつでも敵に斬りかかれるようにしておけばよい。なぁに歩けばすぐにでも終わる距離ぞ」
「そ、そうだな」
「うむ」
互いに曖昧な笑みをかわして武器を片手に更なる闇の中に足を踏み入れた。夜営の光はますます遠く、揺らめきは儚く、囁きは小さく、自分たちで掲げ持った松明だけを唯一の光源として辿る道は想像以上につらいものだった。自然と口数が減り、懐かしい歌を口ずさむ余裕すらなくなってしまう。しっかりしろ、戦に幾度も出た猛者だろうがと自らを叱咤してみても見えぬ恐怖には足がすくむ。戦場では―――少なくとも、切り結ぶ相手の姿は見えているものだから。
心なしか急ぎ足で殊更に細い小道をすり抜ける。揺れる鎧と具足の音色が粗雑に闇にこだまする。
変化は、突然に起きた。
「っ?」
最初は、微かな痛み。ひとりが左腕に違和感を覚えて顧みる。手の甲を覆う布にひとつの線が走っているようで、何かと確認するより先に今度は右腕が激しい痛みに見舞われる。細く鋭く深く、開かれた切り口。
「うわぁっ………!?」
痛みよりもむしろ目を射る真紅の液体といつの間にやられたのかという驚愕の方が大きくて。
振り向く仲間が目を見開く。ひとりの額が割れ、ひとりの足が血飛沫を上げる。
「ひっ!」
「お、おい、大丈夫かっ」
動転する耳に響くのは夜道を切り裂いて近づく確かな銀色の刃の滑空音。握り締めていたはずの刀も取り落とし、慌てふためいて後ずさる。手当たり次第闇雲に松明の光を翳しても求める姿は得られない。困惑の色のみを濃くして彼らは寄り添い自身の傷口を押さえ込む。
吹く風に飛び散る火の粉。
ひとりが明らかな悲鳴を上げた。
「出たぁっ………!!」
近づく黒い影ひとつ、闇に鮮やかな刃の残光、舞い散るのは悲鳴と苦悶と鮮血と。
それでも何故か獲物にとどめを刺すことはなく、痛めつけるだけ痛めつけ嬲りきった影は後発の見回りが追いつくより先に森へと舞い戻った。帰りの遅い前の組を心配した仲間が見つけたとき、切り刻まれた面子は傷の深さよりも精神的打撃から苦痛に呻いていた。
臨時に取られた策は全く功を奏さずにまたしても犠牲者だけが増えた。
現時点では―――ただ、それだけに思えた。
「―――本当にどうにかならんのか、あれは」
「さぁ………此処で騒いでも仕方ないですからね」
苛立つ言葉に返されるのは気のない返事。軽く覆った陣の中で軽く琵琶をつま弾く青年と落ち着かなく辺りをうろつく上役ひとり。
秀吉は腰に手を当てて部下へと振り向いた。
「状況が変わるかと思って待ってみたけどよ、結局浅井の奴らは相変わらず夜襲を受けてる。死人はいねぇけど犯人が捕まらないんじゃ意味ねぇだろ」
木下組周辺と浅井軍と将軍の近辺で異なる噂が流れていると判明したのはつい先日。偽の情報を流して敵を誘き出しているのかとも考えたが相も変わらず翌日になれば負傷者が増えるばかり。おかげで浅井の士気は目に見えて下がる一方だ。本番の戦を前にして精神的消耗を強いられるのはあまりよろしくない。他の軍にも影響を与えるだけに事は重大である。
「お前や小一郎は止めるかもしんねーが、明日んなって何も進んでなかったら俺ぁ信長様に直談判するからな」
「浅井を同盟から一時的に外せと進言なさるのですか?」
将軍に所望された歌謡の練習の手を止めて半兵衛は面を上げた。あまりに直截といえば直截な言葉にさすがの秀吉も歩を止め、別にそこまで求めはしないけれど、と前置きしつつ。
「でも三日前に浅井長政んところに行ったじゃないか。そうしたら三日だけ待ってくれって向こうは言ったんだ。今夜がその期限でもあるんだぞ?」
―――三日前。
あちこちで囁かれる噂の真偽も確かめぬ間にまたしても謎の黒衣の人物が辻斬りの如く兵を斬って立ち去った。見舞いと称して浅井の陣中を訪れてみれば、驚いたことに当主自らが兵のもとに出向いて手当てを施していた。
「お騒がせして申し訳ない」
青年は涼やかな笑みに僅かばかりの苦味を滲ませていた。秀吉が本当に単なる好意だけで見舞いに来たのではないと察しているのだろう。ねぎらいの言葉と怪我をした兵への労わりの科白と取り交わすおざなりな会話。
さり気なく秀吉が随所でばら撒かれている噂は何処が出所なのだろうと問い掛ければ悪びれもせず彼は「全て我が軍が出所なり」と即答する。敵を誘き出す為の策であり、故に同盟軍であろうとどの情報が真実なのかを打ち明ける訳にはいかないのだと。夜回りを二手に分けて担当している木下組を混乱させているとは知っている、だが、いましばらくの時間を与えてはくれまいか。秀吉だけではなく、背後の半兵衛や小一郎、小六らひとりひとりに目を合わせた上で彼は深く頭を下げた。
「どうか三日の猶予を頂きたい。その後に何の改善も見られぬならば私自身から信長様に申し開きを致しましょう」
立場が上の長政にこうも下手に出られては文句や嫌味を言うことも出来ない。あまりお気になさらず、必ずや犯人は見つかるでしょうと外面乗り気な、内心だらけた気持ちで励ましを口にすれば相手はそれでも大層喜んでみせた。どこまでが本音なのか知れたものではない。
その場は引き下がった秀吉だったが、本当に三日経っても変わらなかったならば何かしてくれようと心に誓ったのだ。
「浅井の問題とは分かりきったことなのですがね」
半兵衛があごに手をあてて考え込む。
「織田傘下の軍や将軍には手出しをせず殊更浅井だけを付け狙う―――しかも兵を殺すのではなく意欲を殺ぐやり方で。この手法で苛立ちを覚えるのは何よりも当主たる浅井長政。彼が部下を思いやる人間ならば尚更です」
それは彼が直々に兵を見舞っていた点からも明らかである。
「下手人の目的は浅井長政ひとりと断定してほぼ間違いないでしょう。浅井、朝倉のお家事情が関係しているのでしょうね」
「だから、そんな事情をこっちに持ち込むなっつってんだよ」
「内部に問題を抱えぬ武家などありませぬよ」
織田とて身内をまとめあげるのに随分苦労したではないかと指摘されて秀吉は黙り込んだ。言われるまでもなく分かっていることだが―――他家の揚げ足取りはしたくなるものである。
「浅井長政は自身の父親との仲はある程度良好ですが、同盟している朝倉との仲となればいささか疑念が生じます。親の世代は絆が深くとも新勢力として打って出るだけの力を持つ若武者は血縁の不甲斐なさをどう捉えるのでしょうな。それすらも引き止められて小谷で一生を終えるならば親子の縁を断ち切れぬ彼自身の弱さとも申せましょう」
感情の読めぬ笑みを浮かべて半兵衛は弦を軽くはねさせた。ひどく素直に笑っている―――ような、気がする。
「どちらにせよ気に病むことではございません。所詮、織田にしてみれば『かつての敵』と『いまの敵』、そして『これからの敵』の違いに過ぎませぬからな」
佇んで耳を傾けていた秀吉は内心で冷や汗を禁じえなかった。こちらの勝手な思い込みかもしれないが、心なしか………軍師の言葉に棘がこもっているような。半兵衛とて浅井はただの同盟相手であり、ただの同盟相手であるからにはこの先の保証なぞ何もないと悟っているだろうに、何故に咎めだてするような言葉を告げるのだろう。
まるで、秀吉に「そうなるな」と告げるかのように。
戒めるならばその対象は己ではないと思う秀吉である。
「………辛辣だな」
「然様でございますか」
穏やかな笑みに毒を隠す。裏で何を企んでいるのか読めない雰囲気に、無意識の内に上司は菩提山に篭もっていた頃の部下の態度を思い出していた。
やわらかな陽の光のもと、暮れ始めた夕日のもと、降りしきる雪のもと。
誰かを待つように、孤独に引き篭もるように、寂れた庵に座していた彼のことを。
少し上空を見て時間をはかった半兵衛はゆっくりと立ち上がった。ここからはすっかりいつも通りの苦笑を滲ませて、片手の琵琶を掲げてみせる。
「さて、そろそろ行かなければ。将軍の気が晴れるまでの付き合いですからもしかしたら今宵は陣には戻れぬやもしれません。警護は―――」
「ん? ああ、それは気にするな。どっちにしろお前は勤務外だ」
人好きする笑みを刻んで失礼致しますの声と共に幕の向こう側へと部下は身を翻す。
ひとり残された上司は先からの微妙な違和感の正体を掴めずにひたすら首を傾げるのだった。
風になびく旗指物になんとはなしに目線をやりながら浅井長政は深いため息をついた。ここ数日はろくに眠ってもいない―――眠る訳にはいかなかったし、眠りたいとも思わなかった。おかげで顔色は冴えないし身体はふらつく。
(なぁに、あと少しの辛抱だ)
陣内の敷布で舟を漕ぐようにしながらも彼は穏やかな笑みを浮かべていた。間もなくこの状態から解放される、浅井を襲っている輩を捕らえられる、それで終わりだ。作戦が失敗するとは微塵も考えていない。
「大丈夫ですか、長政様」
「心配ない」
側で控えていた遠藤直経に気安く手を掲げた。ここ数日の根の詰めように主君の体調を気遣っていた部下は遠慮がちに近づくと内密の話を求めた。長政が無言でその申し出を受け入れると殊更に潜めた声で、しかしはっきりと告げる。
「殿―――どうかわたくしめに織田信長を討たせてくださいませ。お願いでございまする」
「何を申す」
さすがに長政も表情を険しくした。信長は長政の義兄に当たり、ましていまは京に上ろうという大切な時期なのである。
城に到着した日の夜、彼は長政を陣内に招いて手厚くもてなし天下について熱く語った。
「共に京に上ろう、弟よ。お主のような者が味方についてくれて大層心強く感じているのだ、俺は」
そんな言葉まで信長は告げてくれた。聊かその科白には誇張が含まれていたとしても信長が浅井の手助けをありがたく思っているのに違いはあるまい。何よりも、信長は近習を全て遠ざけた差しの状態で対話してくれたのである。長政が腰に大小を携えているのに対して信長は懐刀一本といういでたちであった。
しかし遠藤は言い募る。
「恐れながら長政様、あれは全て演技でござりまするぞ。いやいや、いまは本心かもしれませぬがいずれ信長は浅井を裏切りまする。奥方様には申し訳ございませぬがいまの内に織田を討たれませ。それこそがお家のためでございます」
「控えろ遠藤、口がすぎるぞ」
「引きませぬ。何と仰られようとわたくしは引きませぬ」
「遠藤」
「わたくしには信長めが信用できませぬ。どうか、どうか御一考を」
長政はため息と共に目を閉じた。
部下のいうことも分からないではない―――信長のあの気性の激しさ、気に入らない者に見せる容赦のなさ、残虐非道ともいえる戦法の数々。相対したものが抱く危惧を理解はできる。
それでも、こちらから織田を裏切ることはできない。無用心とも取れる姿で己と話した信長の姿勢に感動したということもあるし、妻のこともある、そして。
「遠藤………ここで信長殿を討ってどうするのだ」
「と、申しますと」
「信長殿を失えばこの陣は瓦解する。六角は勢いを取り戻し、将軍はどこへ連れ去られるか分からん。主が討たれたとなれば柴田も滝川も木下も一丸になって攻めてくるであろう。いまの我が軍では一晩ともたぬ」
ぐ、と遠藤は言葉に詰まった。それでも尚言い募ろうとしたのを長政は片手で制する。
苦笑を浮かべた。
「それに―――義兄への警告ならば疾うにお市から聞かされておる」
「奥方様から?」
「義兄は信用できぬ、いざとなれば身内でも容赦なく斬り捨てる男だとな。だがそれを見越して敢えて協力すると結論付けたのだ。お主の不安も分かるが信長殿をこの場で討つ気にはなれん」
「そのような甘いことを………」
「かもしれん。だが、こういった行動しか取れん。信義にもとる行いはしたくないのだ―――すまぬ」
遠藤は未だ小声で文句を呟いているが主に進言する気は失せたようだった。この忠実な部下は長政からの許可が下りない限り決して単独で織田を討ちに行くような真似は仕出かさないでくれるだろう。その点は救いだ。
織田信長には気をつけろと妻にも、身内にも、友人にも忠告された。それでも出来ることなら信用していたいと思う己は余程間抜けなのだろうか。少なくとも信長は義弟を嫌ってはいないと夜会で確信できたのだが………。
(まぁ、ここ数日の状態を知られれば確実に信長殿は浅井を役立たずとみなすだろうがな)
自らの頬を軽く手ではたいて、彼は部下に立ち上がるよう命じた。期限が迫っているいまは腹を据えて話している時間がない。部下の言い分は京に向かいながらでも充分聞いてやれるはずだ。
「遠藤、今夜だ。先日話していた策を今夜実行する」
「まことでございますか」
「明日になれば秀吉殿が報告に行ってしまうだろう。際どいところだがやらねばなるまい」
いいながら彼は陣内の隅に置いてあった櫃から薄紅の内掛けを取り出した。かすかに残る持ち主の残り香に安らぎを覚えながらも「使わせてもらうぞ」と内心で謝罪する。幾つかの命を下して遠藤をさがらせ、長政は幾日か続いている灰色の空を見上げた。
―――明日は、晴れるかと呟いて。
懐かしい夢を見た。夢をみている最中にそんなことを考えた。
辺り一面が白い。夢だから―――ではなく、雪が降っている故に。火鉢の側で盤を挟んで、他愛もないことを話しながらゆっくりと将棋を指す。自分は一度も彼に勝った験しがないのでいつも勝負事に熱が入る。偶には手加減しろと唸りつつ、実際に加減されたら本気でやれと自分は怒るのだろう。
眼前。
部下となる以前。
菩提山に篭もる美濃の麒麟児。
盤上を滑る白い指がともすれば雪と混じり消えそうな印象を受ける。
ああ、でも、こんな白い気配を漂わせながらこいつは嘘にまみれている。こうしてすぐ側で笑いながらこいつは幾つの嘘を己についていただろうか。
弟の存在を隠していた。部下がいることを黙っていた。他に幾つ秘密を隠し持っていてもおかしくはない。
『嘘ならば幾らでもつきます―――何回でも貴方を騙します』
夢の中の青年は語る………大嘘つきのくせに。
『真実は話しません―――告げる言葉を信じないでください』
良心も痛まないくせに………自分勝手なくせに。
『でも、裏切りませんから』
それだけは信じてくださいと、事実として嘘つきな人間は誰よりも真っ正直な存在に見える。
ならば己もお前に対しては意地でも本心を語るまいと決心してもすぐ側から志は脆くも崩れ去る。内心を読まれて焦り、気遣われる心地よさに酔い、騙されていることに本気で憤りを感じることはできない。
『ひとつだけ信じてくだされば充分です。主は貴方ひとりだと』
何か答えを返そうとしたところで、外界の喧しさに意識を揺り動かされた。
「………夢、か………?」
闇の中で秀吉は目をこすった。寝ぼけ眼で辺りを見渡し、ここは木下組の陣地だとようやく思い出す。今夜は不寝番をしようと考えていたのに椅子にもたれた姿勢で眠り込んでしまったらしい。そういえば何か夢を見ていた気がするのだが―――どんな内容だったろう。意識が覚醒してくるに連れて無意識が見せた映像は薄れていく。覚えておきたい内容だったかもしれないがあっさりと記憶から零れ落ち、やがて興味も無くしていくのだ。それよりも秀吉の興味は己を起こすきっかけになった陣内を走り回る足音に移っていた。
星の位置から判断つけるまでもなく頃は深夜。こんな時刻に走り回るだなんて何処のどいつだ。随分遠くから響いてくると思っていたら単に出入り口が分からずに彷徨っていただけらしい。陣への入り口を発見したらしい人物は勢いよく幕を跳ね上げた。
「兄さん、起きてる!? 極秘情報を手に入れちゃった! 聞いてくれよ!」
「小一郎、少しは静かにしろ」
何処のどいつかと思えばそれは他でもない身内だった。頭を抱えたくなる。注意したというのに興奮した弟は顔を赤らめたままで全く意に介しちゃいない。秀吉が起きていたことに喜びつつ背後にこれまた困り顔の小六を引き連れつつすぐ側に座り込んだ。
「ああ、ごめん兄さん。謝るよ。でも面白いこと聞いちゃったもんだから―――先生? 先生はいないのか。残念だな」
「よくわからないが取り合えず落ち着け。何が面白いことなんだ?」
未だ眠りの余韻を引きずる頭を振って覚醒を促す。夏とはいえ深夜の頃合は多少の肌寒さを伝えていた。
ようやく己の慌てぶりに気付いた弟はわざとらしく咳払いをして呼吸を整える。周囲には兄と小六しかいないことを確認して、起き上がろうとしていた他の部下たちは手際よく追い払う。三人で額をつき合わせるようにして小声で報告した。
「悪いかとは思ったんだ、でも、気になったから」
「何が」
「浅井の鎧を拝借して陣地内に潜入してきたんだ。いつばれるかとヒヤヒヤしてたけどバレずに済んだよ。顔を陣笠で覆っちゃえば案外わからないもんなんだね」
無邪気ともいえる弟の申告に秀吉は怒鳴りつけたものか「よくやった」と褒めるものか一瞬迷った。立場からいえば咎めるべきであり、心情からいえば共感できるものであり、結局は一言「危ない真似をするな」と苦言を呈するに留めた。勝手に潜入捜査をしていたとバレたが最後、放逐されるのは浅井でなく木下組になってしまう。
ある意味軽率に過ぎる、慎重な弟には珍しい突飛な行動。それだけ彼もここ数日の状況に歯がゆいものを感じていたのだろうか。
そうまでして聞きつけた事といえば実にささやかな噂だったりした。
「本当に一部だけで言われてたんだけどね、今夜浅井の陣地では宴を開くらしいんだ」
「宴………って、酒飲んだり女呼んだりするって事か?」
そんなはずはない。一応ここは戦場なのだ、飲み食いする食料が城内に蓄えてあるとしても勝手な持ち出しは禁止されているし、浅井が自前で用意するにしても現状で宴を開くことを信長が許しはしないだろう。戦の前に無駄に浮かれている暇などあるはずもなく―――そんな馬鹿騒ぎをしたら秀吉が通告に行くまでもなく浅井は織田の信頼を無くす。
「俺だって耳を疑ったよ。でも確かに幕内に酒とかが運び込まれるのを見たし。何だか綺麗な着物を羽織った人もいたし。ごくごく内輪の集まりって感じではあったけどさ」
小一郎の主張に考え込む。小六が促した。
「で? どうするよ、秀吉」
「そうだな………」
小一郎を信用しない訳ではないが、所詮噂は噂である。それが真実でなかった場合、信じて乗り込んだ側が愚かということになる。まして今夜乗り込まずとも明朝の結果次第ではすぐさま信長に報告に行く心積もりなのだ。だから頼りない情報を元に浅井の様子を見に行くなんて馬鹿な真似はしない方がいい。
そう冷静に考える一方で浅井の陣地へ乗り込みたいと言う衝動も確かにあった。あの青年は嫌いではないが―――信長に気に入られているというのが気に入らないといえば気に入らない。
くだらぬ嫉妬だ。つまらぬ僻みだ。無意味な嫉みだ。
―――だが。
ついに秀吉は口の端をひん曲げて立ち上がった。この場に軍師が居たならば即座に静止をかけただろうに残念ながら歯止め役は存在しない。
「行くぞ、ふたりとも。小一郎! できるだけ目立たない道を教えろよ」
「了解!」
「やれやれ」
嬉しそうに小一郎が先導に立ち、嗜めるような口調の小六でさえ表情は浮かれている。結局は農村出身の武士など身体を動かして意味もなく騒いでいなければ鬱屈してしまう人種である故に。
三人は密やかに身内の陣地から抜け出した。
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