美しい声で啼く鳥がいた。だから捕まえたいと思った。

 父親に引き合わされた少年がいた。自分とさして年齢の違わぬ、線が細くてひどく華奢で、まるで女みたいな顔をした奴だった。これで城主が務まるのかと内心で嘲笑い、さしたる興味も持たない己は気にも留めなかった。
 思い至らなかった。
 十代半ばに過ぎない者が城に登用され、父の側に置かれている―――その、理由に。
「以後、お見知りおきを」
 父の後ろで深くこうべを垂れた影になど無関心で。

 美しい声で啼く鳥がいた。だから捕まえなければと思った。

 領地内の空を自由に飛ぶその鳥は七色に変わる鮮やかな羽根を備え、土地の者も「あんな珍しい鳥は見たことがない」と感心した。仲間も口々に「あれは奇跡のような鳥だ」と口にする。
 ならば己が捕らえてくれようと考えた。世にふたつとない羽根を持ち、笛よりも鈴よりもかろやかな声で啼く鳥は己の側にこそ在るべきだ。
 水場を調べ、時刻を計り、巧妙な罠を仕掛けた。
 数日して鳥は捕らえられ、最高に気分の良かった己は仲間に鳥を見せびらかし、皆も口々に褒め称えた。閉じ込めた檻の中で羽根の色が衰え体が縮こまろうとも構うものか。この鳥を捕らえた事、側で啼かせる事、それこそが己の価値を高めてくれる。
 しかし。
 鳥は囀ることをやめた。
 宥めすかし、誉めそやし、餌を与えても見向きもせず、羽根を畳んで檻の中で瞳を閉じ動かない。
 死んだのかと思えば微かに身じろぎして存在を主張する。
 腹立たしい。啼かない鳥など何の役にも立たない。
 興味は日に日に薄まっていった。
 だからだろう、父の申し出にも特に反発はしなかった。

「お前にとってこの鳥はもはや用済みか。ならばわしが貰うぞ」
「別にいいぜ。どうせそいつ、もう二度と啼かねぇよ」
「そうか。そこまで言うからにはわしがこの鳥をどう扱おうとも構わんな」
「勝手にしろよ」

 木製の檻を片手に抱えて廊下の奥に戻っていく父親の姿を何となしに見つめていた。
 彼が、鳥をどう扱うのか知らなかったから。

 見かけたのは偶然。
 父のいる奥の間、普段は近寄りもしない其処に偶々居合わせた。珍しく仲間連中と騒ぐのが面倒になって、城の誰もが捜しに来ないようなところへ逃げ込んで、木の上で惰眠を貪っていた。だから誰が呼ばれたのかなど知るはずもなく。
「この鳥を啼かせてみせるがいい」
 やけに通る声に寝入りばなを叩き起こされた。そっと上体を起こして伺ってみれば縁側に佇み檻を脇に置いた父親と、眼前の庭に平伏す少年と。
「この鳥について知っているか」
「………多少は存じ上げております」
 当たり障りのない返事をしながら少年はひたすらに鳥の様子を見つめている。羽根の光沢も失いつつあるそれは押し黙り、嘴を自らの体に付けたまま微動だにしなかった。
 父が冷徹な声で命を下す。どこか楽しみながら。
「この鳥を啼かせてみせよ。さすれば褒美は思いのままだ」
 ただし。

「啼かすことが出来なくば………己が首が代わりに飛ぶと知れ」

 


啼かずの鳥 ― 壱 ―


 

 その年は歴史に刻まれる確かな年だった。様々な出来事の訪れに人々は驚き、しかし同時にこれが変動の始まりなのだとは意識していなかった。常に時代は感知できない領域で蠢いている。
 嗚呼、あの時こそが転換点だったのだと。
 人々が気付くのは遥か後になってからであり、その時には何もかもが終わっている。

 此処に至る世の荒れ具合において、いにしえより続く都に誰が将軍を伴って入るのか。
 それこそが戦乱の世における共通した一番の関心事だったと言えるだろう。
 さては甲斐か上杉か、伊達や浅井、朝倉も黙ってはおらぬ。当初の予測は既に大大名として名を馳せている者が殆どであり、まさか戦国の始まりに小国の主に過ぎなかった者が大手を振って出歩くようになるとは流石の都人も想像だにせず。
 しかし十五代将軍は朝倉のもとを離れて織田に身を寄せ、婚姻関係を結んだ浅井が手を貸して、中途を塞ぐ六角の城を攻め落としたとあらば俄然、京の都は騒がしくなる。気性の荒いことで知られる織田家当主が至れば都は荒れる、すさむ、乱される。実しやかに囁かれる噂と共に、いいやあれはなかなか大した男、血気盛んではあるが無益な殺生を好む訳でなく使えるものは生かすの利。ならば受けて立つだけと憶測を込めた希望的観測。
 いずれも東より来たる無骨者。
 この都にて胡乱な振る舞いをしたならば此処へ住み着く歴代の王達が追い出してくれようと。
 少しばかりの優越と気概と大らかさを纏って待ち構えたは僅か一月あまり。京へと到着したくだんの人物は落ち着く間もなく近隣諸国の平定に乗り出し、十日とかからず大和国を制覇した。破竹の勢いに圧される如く立ち向かう敵は即座にこうべを垂れて軍門に下り、あるいは逃げ出し、あるいは滅ぼされ。
 彼の元へ馳せ参じる者は後を絶たず、ある者は名器を携え、由来ある鎧を捧げ、一目でよいからと拝謁を願う者の数知れず。将軍を伴っての戦陣、ただただ圧倒されて見守れば五畿内までもが彼の人の掌中におさまろうかという状況、静観を決め込んでいればすぐ様その波に飲まれるであろう。
 平定したとて六条本圀寺に戻りしは月も半ばを超える頃。
 これまでの戦と比べれば遥かに短い怒涛のような期間。
 どう出てくるものかと周囲が固唾を呑んで見守る中で渦中の人物は矢継ぎ早に命を下した。
 ひとつ。都人を傷つけるべからず。
 ひとつ。盗み、姦淫、暴力を働くべからず。
 ひとつ。将軍及び歴々の公人に礼を失するべからず。
 聞き終えた者たちは一様に胸を撫で下ろし、多少は話を聞く用意があるのかと、将軍を寺に、周辺の屋敷につわもの共を配置され突然に辺りが甲冑で埋め尽くされようとも一通りの理解は示す。
 かくして町には武士とおぼしき者たちが溢れ返り、あるいはきな臭い状況が差し迫るとも当面の危機は回避できているのだからと素知らぬ振りを続け。
 表面上は穏やかな、緊張を含んだ空気に満ちていた。
 永禄十一年、神無月の出来事である。




 差し込む秋の陽光はあくまでも穏やかだ。できれば午睡でも楽しみたいような気分だが目にする景色が見事に過ぎる。色づき始めた木々の葉や折りにつけ響く鐘の音や道行く人々の立ち居振る舞い。表通りを歩く彼らは確かに『都』に相応しい容姿をしているなと頷く。
『どんな都も裏に回れば芥で埋もれるけどな』
 それこそ世の常人の常かと胸中の相棒が呟いた。
 確りと頷きを返しつつ呼びかけるのは真横の青年に対して。
「さて、何処から見ようか」
「お前が決めればいいことだ」
 揃いで被った菅笠を斜に掲げて笑う長政に同じく半兵衛も笑い返した。
 入京してよりしばらくは忙しくて寝る暇もないぐらいだったが最近になって漸く余裕が出てきた。やはりこれぐらいの忙しさが丁度良い、忙しなく走り回っているのも一興だがなと言えば「働きまくって喜ぶのはお前ぐらいだ」と友人に肩を叩かれた。
 長い髪をうなじ辺りでゆるく結わえて微笑むのは竹中半兵衛。腰の大小が不釣合いなほどの華奢な体躯に印象的な薄闇色の瞳をしている。
 黒髪を丁寧にまとめて目鼻立ちもくっきりとした男は浅井長政。一見して好青年、伸びた背筋が生来の気立ての良さを窺わせる。
 ふたりとも菅笠を深めに被り表情はそれと分からぬまでも、滲み出る空気や僅かに覗く口元から育ちや顔立ちの良さを覗かせていた。おかげで道行く娘たちが度々振り返るのだが、生憎、どちらもその手のことには取り合わぬ性質だった。
 妻はひとりだけと言う点でも彼らは共通していた。恋情を注ぎ、受け止めてくれる相手は彼女だけでよい。他など要らない。彼女でなければならない。
 堅物とも頑固とも融通が利かないとも言わば言え、気に留めぬ。
 ゆっくりと顔を上へと向けて気持ち良さそうに半兵衛は目を細めた。
「―――いい風だ」
「ああ」
「………やはり、これぐらいが丁度良い」
 友の呟きに長政が答えを返すことはなかった。つい先日までは血生臭い戦場、凋落も何もない力と力のぶつかりあい、智謀知略の働かせようはずもなく下手に立ち回れば「怖気づいたか」と余所の不興を買うばかり。
 数日前の酒宴においてやたら彼が気落ちして見えたのもその所為だろうと長政は踏んでいる。勝利の影で半兵衛ひとりが遣る瀬無い思いをしていることを、いま、この場にいる人間で知ることができるのは己ひとりだけということも知っていた。
 並んで歩く耳に届くのは人々の喧騒。
 戦いなど何処の世界の出来事かと言うような空気がいとおしくも寂しい。
「―――長政」
 急に相手の声色が変わった。
 まさか、と振り向くまでもなくこちらに向けられるは濃紺の瞳。にやりとあまり品の良くない笑みひとつ。
「あそこに寺が見えるぞ。先についた方が茶を奢るというのでどうだ」
「って、お前―――いつの間に」
 入れ替わりの早さにも程がある。
 半兵衛が外の空気を相方にも吸わせたくなったのだとしても、一言ぐらい告げたらどうなのか。
「大体なぁお前、普通は遅れた方が奢るものと相場は決まって」
「先に行くぞ!」
「待て! おい、こら………総兵衛!!」
 上辺だけの焦燥に滲ませる本音の苦笑。人の波を縫って遠ざかろうとする背中に追いついた。道行く人々が何事かと振り返るのすら、共に駆けるのが彼であればなんと爽快なことか。横並びに視線を交わし、負けてなるものかと足を早める。
 突き当たりの寺院の壁に激突したのはほぼ同時だった。いい歳した大人ふたりが無言で疾走してくる様はさぞやおかしかっただろう。壁に手をついて笑い出すふたりを周囲は遠巻きに見守っている。
「ははっ―――やはり、お前は足が速いな、総兵衛」
「だが競争はお前の勝ちだ。約束どおり奢ってもらうぞ、長政」
「誰がいつそんなことを約した? この根性悪が」
 笑みを浮かべたまま素知らぬ顔で総兵衛は踵を返すと、すぐ側の階段に足をかけた。付いてくるかの確認も、付いてこいとの誘いもなしに、後ろも振り返らずに歩むのみ。その友は相手の振る舞いに驚いた様子も見せず少しだけ遅れて後に続いた。
 寺の境内に人影は少なくてどこか閑散としている。ここへ務める坊主たちが胡散臭げに見やっているが気にせずに眼前を素通りしていく。別にこちらに害意はない。咎められたなら弁解もするし必要とあらば逃げもしよう。
「―――見ろ」
 都全体が見渡せるぞ。
 友の声に長政も周囲を眺めやる。高台に位置する寺からは京の都が一望できて気持ちがいい。
 何を思ったのか総兵衛が突然、欄干の上に足をかけた。右足を軸に、左足を軽く宙に浮かせたまま器用に平衡を保っている。ゆっくりとすり足でさして太くもない渡しの上を進む。
「総兵衛。後ろの坊主が青ざめてるぞ」
「落ちないから大丈夫だ」
 彼の身体能力を知っているものからすればどうってことない所業ではある、が、通行人や坊主たちにしてみれば危険極まりない行動であり、迂闊に声をかけたならば途端に足を絡ませてしまうのではないかと思うと注意の言葉すらかけられない。
 唯一声をかけられる人物はさして気にすることもなくのんびりと隣を歩いている。
「焦ることはない。向こうもお前を捜してるんだからな………嫌でも会える」
「単独行動は許されないだろう? お前が去ったならば抜け出せる機会も少なくなる」
「理由を話せばいい」
「話したくない」
 我侭な奴だと長政がため息をついた。
 半兵衛も総兵衛も肝心なことを隠す傾向がある。無論、軍事上の機密や作戦上の問題もあるだろうがそれ以外で口にしない物事は大抵、隠されていた側にしてみれば「水臭い」といえる内容だ。かといって問い詰めたところで彼らは謝るばかりで決して口を割ろうとはしないだろう。相手を思いやっての行動と理解してはいても時々そんな気遣いを寂しく感じる。
 お節介と知りつつ長政が口を開きかけた時だった。
「―――あ」
 一声あげて、総兵衛が。
 欄干の向こう側、都の上空へと。
 ………落ちた。
「総兵衛!?」
 慌てて欄干に駆け寄ってがばと下を覗き込む。木の枝にでも引っかかっていてくれればと願うも虚しく、思うも馬鹿らしく。確認した相手の様子に取り乱した己があほらしくなってきた。
「はは。驚いたか?」
「………お前なぁ」
 数尺下の世界では友人が無傷のまま笑っている。石垣から突き出した岩を足がかりに友は無事に着地していた。全く、周囲の目も気にせずに振舞ってくれたものだ。目立つことこの上ない。先ほどまで背後で青ざめていた人々が欄干に駆け寄ってきてちょっとした取り巻きができてしまっている。落下したとしか思えなかった人物が暢気に眼下で鼻歌なんぞ口ずさんでいるのを見て人々は呆れるやら驚くやら感心するやら。
 あいつは本当に、と呟きひとつ、次いで彼自身の身体も宙に舞った。
 わぁっと背後で歓声が上がるが気にせず友と同じ軌跡を辿る。一部だけ出っ張った石を滑り止め代わりに難なく地面に着地する。着いた先では楽しそうに笑う友と、突然降ってきた人間に驚愕する野次馬たちが出迎えてくれた。
 不満そうに告げてやる。
「目立つ真似をするな」
「言えた義理か?」
 総兵衛がまた嬉しそうに笑うから、長政も堪えきれずに笑みをこぼした。
 並んで歩き出したふたりを周囲は奇異の目で見送る。傍からどう思われているか気にかけもしない面々はのんびりと川沿いを進んでいく。そういえば、と長政が切り出した。
「少し意外だったな」
「何が」
「いや、な。秀吉殿がお前の外出を許すとは思わなかった。忙しいのにどうしてだ、ってな」
 帰京したばかりの忙しくて猫の手も借りたい時に、中枢に位置する人間がふたりも抜け出そうというのだ、なるほど、物覚えはよくない。更にいえば『竹中半兵衛』が『浅井長政』と出かけることを『木下藤吉郎秀吉』は好まないだろうと思う―――深い理由はない、けれど。
 旧友がこんなにも気遣っているのに当の本人はあっけらかんとしていた。
「少しは嫌味を言われたかな。でも結構あっさり承諾してくれたよなぁ、そういえば」
 意外といえば意外だったんだと。
 総兵衛はその時の状況を話し出した。




 京に戻ってより数日、各武将の屋敷への配置も大体すんだ。祝勝会も行ったし、いよいよこれから行政に取り掛かろうという時分の申し出は愚かとしかいいようのないものだった。
「長政とふたりで京の町を視察させて頂けませんか」
 忙しさのあまり言葉を交わすことも少なかったここ最近、ようやっと会話らしきものが成立したかと思えばこれだ。秀吉が渋面を作ったのは言うまでもない。人気のない縁側に腰掛けた上司は庭の真ん中に突っ立ったきりの部下をねめつける。
「………理由は?」
「思い出話に花を咲かせてみたいので」
「この屋敷でもできるはずだ」
「評判の茶店があるそうなので」
 お前は本当に成人男子か、と秀吉が俯きながら毒づく。我侭極まった科白はとても高名な軍師様が口にする内容とも思えない。こんな時は下手に理由を取り繕うよりも明け透けな真実を語った方が手っ取り早いのだ………特に、妙なところで情に厚い秀吉を相手とするのなら。
 理路整然とした正論を並べ立てられれば幾らでも反対できるものを、感情を前面に押し出されてしまえばぐうの音も出なくなる。家族や友人や恋人をネタに強請られると驚くほど弱い人間だ。
 それでも流石に今回は無理に過ぎたかと内心で半兵衛が次の算段を始めたのを見計らったように秀吉のため息が重なった。腕を組み、そっぽを向いた上司はすぐ隣の柱に寄りかかる。
「―――いいぜ」
「………いいんですか」
「うるさい」
 素で問い返したら一刀両断された。柱に右頬をぺったりとつけている相手は年甲斐もなく拗ねているように見える。
「許してやる。ありがたく思え」
「ありがとうございます」
 深々とこうべを垂れる彼の頭上に長ったらしい上司の言葉が続く。
「一緒にいたいってんならその仲を守るのにも吝かでないって決めたのは俺なんだから今更この程度で怒るほどガキじゃねぇし行きたいなら行けばいいじゃねぇかって感じだし別に拗ねてねぇしイジケてねぇし文句もねぇし」
「あの………全然許してないような気が………」
「黙れこの馬鹿」
 あるいは思っていることが外に漏れ出しているだけなのか。
 フ、とこちらを見上げた秀吉は縁側の淵で立ち上がると半兵衛を手招きした。隣に行けばいいのかと縁側と庭の中間に位置する飛び石に足をかければ途端に嫌な顔をされた。
「下がれ」
「はい?」
「上がるな。でなきゃお前の目線のが俺より上に来る」
「はい」
 身長の差は如何ともし難い。半兵衛が飛び石の隣に並べばどうにか秀吉の目線は部下と同じ高さになった。さて、これは更に一歩下がるべきかと動けば今度は「手が届かないだろうが」と舌打ちされる。
 向かい合う位置関係、首を傾げる半兵衛を余所に秀吉はひどく真剣な顔をして何をするかと思えば。
 ―――腕を、伸ばして。
 半兵衛の頭に手を伸ばして、かなり容赦ない力でその髪をかき混ぜた。
「よし!」
 要は『半兵衛の頭を撫でました』というそれだけなのだが、ご満悦な秀吉はにっこり笑って手を離した。全く訳が分からない。
「秀吉殿………?」
「さっさと出かけろよ半兵衛。俺の気が変わらない内にな」
 知らぬ間に満足したらしい相手はとっとと廊下の角を曲がる。消え去る姿を見送りながら、ひたすら半兵衛だけが事情を飲み込めずに首を捻っていた。
 その後すぐに彼は長政を誘って町の散策に繰り出した。
 以上がここに至るまでの経緯である。




 話し終えた総兵衛はあの時の半兵衛と同じくひたすら首を傾げている。
「いま思ってもやっぱり秀吉殿の態度がおかしかったよなぁ。不機嫌そうに見えたのに総兵衛の頭を撫でるだけで引っ込んじゃうし」
「………」
「わざわざ立ち位置を変えなくたって、言われたら頭ぐらい貸したぞ? 何がしたかったんだろう」
 そりゃあ勿論、頭を撫でたかったに決まっている。しかしそこに至るまでの思考回路がどうしても読み取れないのだ。
 一方の友人ははぁ、とため息をついて項垂れた。
 思い当たることがひとつだけある―――半兵衛や総兵衛が覚えていないほどに当然すぎる無意識の行動だったのかもしれない。だがもしあれを秀吉が何処かから見ていたのなら妙な対抗意識を燃やしてもおかしくないだろう。当事者のひとりたる長政としては苦笑せざるを得ない。
 敏くて鈍い部下を持つと上司は苦労するものだ。
「総兵衛、いや、半兵衛もだが」
「うん」
「お前らって………人情には敏いけど感情には疎いのな」
「うん?」
 友人の不可解な科白に総兵衛はまたひとつ首をひねらせた。




 天高く馬肥ゆる秋―――空は青く澄み切り風の冷たさは冬の到来を思わせる。徐々に弱まる陽光が大地を照らし木々の葉が色を濃くしてゆく。
 将軍の座する寺の周囲、宛がわれた屋敷の縁側で寝転がったまま秀吉はぼんやりと空を見上げていた。部屋では弟と部下と友人が他愛もない話に興じている。傾けるともなしに耳を傾けていれば話題は様々に流れて転び、果たして話の取っ掛かりは何だったのだろうかと思いたくなる。
 興味のなさそうな兄に弟が呼びかけた。
「兄さん。いい加減そんなところで拗ねてないでさあ、一緒にお茶でも飲まない?」
「え? 拗ねてるのか、あいつ。何かあったのか?」
 茶を啜りながら意外そうに問いかけたのは幼名を犬千代、いまは利家と名乗る前田家の当主である。しかしいまもって信長には「犬よ」と呼ばれたりしているので仲間内では昔のままの幼名で呼ばれることが多い。一人前扱いされていないようだと時に彼はぼやいているが特に訂正する気も起きないらしい。
 一体何があったんだと尋ねる彼に含み笑いで小六が応じる。
「なぁに。半兵衛先生が視察に行っちまったからな、暇なんだろうよ」
「一緒に行けばよかったじゃないか」
「駄目ですよ。だって先生は長政様とご一緒してますからね」
 だから拗ねてるんですよ、と小一郎は苦笑した。
「うるさいぞ、お前ら」
 軽く首をひねって後ろをひと睨み。わざとらしく三人とも目を逸らして素知らぬふりをする。この辺りの連携はまったくもって見事という他はなく、当り散らせる相手を捕らえられずに少しだけ頬を膨らませた秀吉は再度表へ顔を向けた。
(別に、拗ねてる訳じゃないさ)
 退屈はしてるかもしれないが。
 しれないが―――自分から半兵衛の背を押した以上、表に出して訴えるのも何となく憚られる。というより意地でもそんなこと悟られたくない。実際には悟られているとしても。
 目の前に右手を持ってきてじっと見つめる。てのひらには既に何の感触も残っていない。かろうじて手の届く範囲にあった対象をこの手で抑えたのはつい先刻だというのに、もうそれを思わせるものは何処にもないのだ。おまけに。
(あの野郎………全然わかってなかったな)
 室内の三人には気取られぬ位置で秀吉が不機嫌そうに眉をしかめる。
 思い出すのは頭を撫ぜられた直後の、「訳が分からない」といった感じの部下の表情で、おそらく何一つ理解していないあいつは理解していないままにあの出来事を記憶の内に埋没させて行くのだろう。「秀吉殿ったら時々わからないことするよなぁ」とか考えながら。
 一方の自分はといえば、先日に見かけた光景を忘れないまま引きずられて、らしくもない行動に走ったりひとり悦に入ったり、情けないったらありゃしない。
(………見たくて見た訳じゃないんだ)
 間が悪かったのだ。
 数日前の、あの、酒宴の席で。




 酒宴が開かれたのは京に戻って間もない頃だった。戦闘中はさすがに不謹慎かと朝廷や将軍に対して珍しく信長が遠慮していたのだが、帰京して屋敷も落ち着けば昔からの騒がしい気質が目を覚ます。有力武将や気の置けない者たちだけを集めての宴だ。話も興じて酒も回りほろ酔い気分でみな騒ぐ。
「さあ、今日ばかりは無礼講だぞ!」
 主催者たる信長の許可が下りれば咎めだてする者はいない。いまや天下人への道を着実に歩み始めた彼に対してかつてほど気安く声をかける人間はいなくなったというものの、幼馴染の利家や旧友の小六であれば頓着しない。ましてや堅苦しい面子は抜きにしての身内だけの騒ぎである。広間に二、三十人もが芋洗いのように並び転がってそれぞれの話題に花を咲かせている。
「殿、おめでとうございます」
「ああ」
 秀吉は徳利を捧げもち、信長の杯に注いだ。多少酒の回った主は行儀悪く胡坐をかきながら気持ち良さそうに周囲を見渡している。
「ここまでは概ね計算どおりだな。だが勝負はここからだ」
「朝廷の要職にでも就くつもりですか」
「そう思うか?」
 不適な笑みに秀吉も口角を引き上げた。そんなものを信長が望むはずもない―――彼はもっと実用的で利のある要求を突きつける。その要求を通しやすくするための戦だったといっても過言ではない。無論京都周辺の敵対勢力の勢いを削いでおくという目的もあったが。
「まあ黙って見てろ………面白くなるぜ、これからどんどんとな」
 信長がまたひとつ杯を呷った。
 更に注ごうとして秀吉は手にした徳利が空になっているのに気がついた。付近を見ても空の徳利が転がるばかりだ。原因はおそらくあれだ、少し離れたところで小六が酒を馬鹿飲みしている。大半の酒は彼の腹の中に消えたに違いない。
「すいません、ちょっと酒を調達してきます」
「別に要らんぞ。肴は欲しいがな」
 酒がないならばおちょくり易い人間でも酒の肴としておこうかと狙いを定め、さり気なくさり気なく部屋の隅に控えていた光秀を信長がひっとらえる。偶には勺でもしたらどうなんだと主君に絡まれた部下はバツの悪そうな顔になる。隅に隠れるだけでなく余所の会話に加わるとかして矛先を交わしておけばよいものを、どうも光秀はこの辺りの立ち回りが上手くない。
(あれ? そういえば………)
 困っている人間を見ればしゃしゃり出て来るお節介な木下組みの接待係が見当たらない。墨俣であれほど意気投合していたのだ、半兵衛の性格からしてこんな時は光秀を庇うためにそれとなく話に割り込んできそうなものなのに。
 ざっと見渡しても求める姿は見つからない。いつからいなかったのだろう。記憶にない。
 ―――それに。
(長政もいねぇ………)
 我知らず表情が不機嫌なものに変わった。
 確かに奴らが友人であるとは認めたが、それは宴席をふたり揃ってとんずらこくのを容認するのと同義ではない。空の徳利を投げ捨てると秀吉はそっと障子を開け閉めし、会場から遠のいた。




 僅かに離れただけで喧騒はひどく遠い。夜空には月が煌々と照り輝き、整えられた庭先を映し出している。
 月の白い光が暗いはずの大地を輝かせ木々の陰だけは色濃く落ち込んでいた。ざわざわと時折り耳元を掠める風のざわめきが地上の影をも揺らめかせる。
 なるほど―――京は雅なる都。
 風の通り道、影の落ちる方向、立ち並ぶ木々から垣間見える月の光………。
 すべてが計算された外観だとすれば見事なものだ。
 声を出すことも憚られて秀吉は無言のまま廊下を伝った。酒宴の席が別世界の出来事のように静まり返った夜の道、ひたひたと自らの立てる足音ばかりが耳につく。廊下の突き当りを曲がったところで歩を止めた。
(―――いた)
 求める姿の一方を見出して静止する。
 そこで彼は戸惑いも露に首を傾げない訳には行かなかった。何故ならば、そこにあったのは決して思い浮かべていたような光景ではなかったから。影はふたりではなく、ひとりしかおらず、騒いでもおらず、孤独に無言で静寂の中。
 半兵衛がひとり縁側に腰掛けているだけだったからだ。
 縁側に座して所在なさそうに両の足を庭へ投げ出し、柱に右半身を寄り掛からせて目を閉じている。

 カツ………ン

 常ならば聞き零しているだろう密やかな音が響いた。
 見れば音は庭の敷石から続いている。幾度か硬質な音を響かせて、発生源を少しずつ転じながらも一定の間隔で。
 不思議に思い目を細める、その先で。
 小さな黒い物体が放物線を描き、敷石に跳ね返って転がり落ちた。
 飛礫―――だ。
 その小石を握り締め、握り締めた左手から何を思うでもなく適当に放っているのが半兵衛なのだ。瞳を瞑った読めない表情のまま彼はひたすらに小石を放る。白い手に乗せたものを厳かに月へ掲げるようにして。

 カッ………カツ………ン………

 握り締めた小石を軽く爪で弾き飛ばしてしじまに響き渡る音色に耳を澄ませている。
 瞑想しているような、黙祷しているような、静まり返った表情からは喜怒哀楽のどの色も窺えない。本当にささやかな動きで示されている音がなければ死んでいるかのように―――青白い月光の中に座する様は作り物のようだ。触れれば指先が凍り、爪をたてれば硬質な音を立てて滑り落ちるだろう。
 声をかけることはおろか、近づくことさえも躊躇われて秀吉の足は柱の後ろで止まる。
 自分などが踏み込んではならない領域のような気がした。
 己の息さえも殺して眼前の光景を眺める。少しでも気を抜けば消えうせてしまいそうな夢現がそこに在るようで。
 動くに動けずにいた秀吉は、ふと、半兵衛が座するところより更に奥側の廊下にいまひとつの影があることに気がついた。その影は自分と異なり躊躇うことも足を止めることもなく、無音で月明かりのもとへ姿を現した。
 一体いまのいままで何処に潜んで居たというのか―――浅井長政が音もなく床板を滑ると半兵衛のすぐ隣に並び立った。
 相手に断るでもなく真横に並んで腰掛ける。視線は半兵衛の左手に留めながら。
 硬くささやかな音色はいまもって続けられている。

 ―――そっと。
 彼は、右腕を上げて。
 小石を投げ続ける友の左掌に自らの右手を重ね合わせた。

 ゆるく先まで重ね合わせて指の間に指を挟みこんで張り詰めた氷を己が手で融かそうとするように。
 はらはらと繋ぎ合わされた手と手の合間から小石がこぼれて澄んだ音色を響かせる。落ちていく飛礫に執着しそうになる左手を他者の右手が押し留め、宥めすかすようにゆっくりと握り締めた手に力が込められるに伴い、左掌から力が抜けてゆく。小石を支えるために丸く整えられていたその手は引き伸ばされて平らになった。地面に落ちるべきかけらはもうそこにはない。
 音が途絶える。
 しばしの沈黙のあとで長政の手が半兵衛の指先から離れた。解放されたてのひらは静かに板の上へと落ちる。
 離れた瞬間に軽く握られていた長政の右掌は緩慢な仕草で閉じていた五本の指を天へと伸ばす。落とし損ねたか、わざと取り残したか、先ほどまで半兵衛がつま弾いていた小石のひとつがそこには置かれていた。

 ―――同じように。
 長政が小石を庭へと放る。
 ―――同じように。
 硬く澄んだ音色が夜のしじまに響き渡った。

 視線を注ぐ。隣で先ほどから目を瞑ったままの相手に。
 遠目では判断がつかないほど薄っすらと半兵衛は瞳を開いたようだった。微かに身じろぎして柱に寄ったきりだった身体を友へと向かわせる。
 しかし、それ以上の行動は起こさず。
 慣れた反応だというように長政ひとりが微笑むと何を告げるでもなく縁側から腰を上げた。柱に身を傾けたきりの友の後ろに立ち、ゆったりと伸ばした腕で彼の頭を撫でさする。「わかっている」―――とでも言うように。
 半兵衛は何も言わなかった。
 ただ、黙って、開きつつあったまぶたを再び下ろし。くちびるの端をそれと分からぬほどに微妙な角度でやわらかく上げた。
 のろのろと板の間に放置されていた己の左手を上げて、いま頭を撫でている相手の指先に触れる。その、触れるか否かの間を空けて長政の手は離れた。しばし中空に当て所なく置き去られた左手は来た時と同じくらい鈍い動きで、今度は自らの膝の上へ納まった。
 長政がこちらへ来るのを見て慌てて秀吉は元来た道へと引き返した。宴席をすり抜けて飯場へと向かう。
 そうだ、もともと自分の目的は酒の肴にあったのだ。油を売っていていい訳がない。
 彼に追いつかれぬよう音を立てぬよう急いだ所為だろうか、極度の緊張で心臓が痛んだ。誰もいない暗い飯場で片手を土間について息を整える。ひどく動揺している自分が不思議だった。
 充分落ち着いてから宴席へ戻ってみれば長政はいつもどおりの表情で仲間と酒を飲んで戯れていた。信長に酒の肴を渡して、光秀がおちょくられているのを他人事のように見ているところへ半兵衛が舞い戻る。こちらも何の変哲もない表情、しれっとした態度で同僚と言葉を交わしている。案の定、光秀の窮状に気づいた彼はそれとなくこちらの輪へ加わり、話題を逸らしにかかった。
 視線が交錯する。
「どうかいたしましたか? 秀吉殿」
「ん?」
「ぼうっとしていらっしゃる。お疲れになったのならお休みになられては如何ですか」
「いや―――そうでもない」
 拍子抜けしてしまった。
 <これ>はまるっきりいつもの半兵衛だ。
 長政だって穏やかな好青年の顔のまま宴席を練り歩いているし、まるで先の一幕が嘘のように。
(いや………嘘、ってわけじゃ、ないな)
 おそらく半兵衛たちの本質は<あれ>なのだ。
 静かで、穏やかで、満ち足りていて、孤独だ。
 迂闊に相手に踏み込ませない。
 けれど、慣れた相手であれば何処よりも居心地よく感じるであろう空間。
 あの場に長政は入れる。おそらく佐助や茜や、故郷に残した妻や弟だって入れるのだろう。ひょっとしたら小一郎や小六でも大丈夫かもしれない。
 急に酒を不味く感じて秀吉は頬を歪めた。
 だから、結論は単純にそれだけであるに過ぎない。
 奴らが踏み込める場所に俺は踏み込めない。奴らなら侵入を許す場所へ俺は立ち入りを許されない。

 たった、それだけのこと。
 それだけのことなのだ。




 ―――何をグダグダと思い出してんだか、俺は。
 数日前の出来事を思い起こして更に秀吉は不機嫌になった。くだんの長政と半兵衛が腰掛けていたのと同じ縁側でいま、秀吉はだらしなく寝そべっている。床板をカツカツと叩いていた指先の動きを止めて空の遠くの太陽に透かして見せた。
 ………小さい。
 つかまって良いのかと躊躇されてしまいそうな手。
 あの夜の誰かと同じく頭を撫ぜてみせても相手は不思議そうに首を傾げるにとどまった。信頼しきった気持ち良さそうな表情で瞳を閉じてくれるはずもない。こちらも期待していたわけではない。
 それでも尚、一抹の寂しさは拭えなかった。
 眉間の皺もそのままに転がっている彼の背後で関係ない者たちの責任ない会話は続く。
「とにかく兄さんは自覚がないですけど思い切り子供なんですよ、子供。まったく手がかかるったらありゃしない。絶対先生だってそう思ってます」
「相変わらず手厳しいな、小一郎」
「小六さんだってそう思うでしょう? あれだけ気遣われてるのに自覚はないし気遣ってもらいたがってるのにも自覚はないし」
「―――ちょっと待て」
 さすがに話が捏造の域に達し始めたのではないかと慌てて身を起こす。友人ではあるが他人である犬千代の前でそこまで恥をさらされるのは勘弁願いたい。しかも弟の認識には確実な誤解がある。
 いい加減なことを言うな、と小一郎を指差した。
「俺がいつ気遣われたんだよ、気遣ってんのは俺の方だろーが。わざわざ旧友との語らいの場を設けてやったり裏切りに等しい行為を見逃してやったりしてんだぞ、何だその思いっきり半兵衛側に立った解説は」
「ほら、これですから」
 本当にわかってないなあと呟く小一郎は兄を兄と思っていないかのようだ。隣で小六は面白そうに耳を傾け、犬千代はどうしたものかと苦笑いしている。
「気遣ってるんならさあ、兄さん、先生の前で愚図愚図と拗ねるのはやめた方がいいんじゃない?」
「拗ねてないっつってんだろーがっ!」
「傍から見てて丸分かりなくらいに兄さんは先生から破格の扱い受けてるのにさ、全然わかってないんだもん。勿体無いよ」
「どこら辺が破格の扱いなんだよ、むしろないがしろにされてるんじゃねぇのっ!?」
「されてないって」
 苛々と膝の上で指先を動かす秀吉は、その態度こそが拗ねているに等しいのだとは気づかない。そりゃあここ最近に関しては不満がたまっても仕方ないだろうがな、とこっそり小六が犬千代に耳打ちする。突然始まった兄弟喧嘩を前にして呆気に取られた相手はただ頷き返すしかない。
 確かに上京する前と比べれば半兵衛が秀吉と一緒にいる時間は減ったけれど、久々に逢えた友と語り合いたいのは人情だし、後押ししたのは他ならぬ秀吉だし、戦の最中はそんなこと言っている暇はないし、もとからのべつ幕無し一緒にいた訳でもないし。
 つまりは相手が誰であろうと自分が一番に扱われていないと不満を抱くのが秀吉という人間なのだった。自分が嫌っている相手―――例えば光秀や柴田―――が対象でも好敵手として一目置かれたいと思い、敬愛する主君の右腕でありたいと渇望し、部下からは信望と信頼を注がれないと腹が立つ。誰もが己を見ていないと気がすまない。子供じみた我侭なところがいつまで経っても抜け落ちない。
 ましてや、多少なりとも気に入っている者が相手なら。
 これまで半兵衛に師事してきて彼が合間合間に秀吉のことを気にする様子を垣間見ている小一郎としては、「何だってそんなに不安がるんだろう」と言いたいところだ。やっぱり、気づいてないなんて勿体無いよ、と再度ため息をつく弟の向こうで兄は不機嫌そうに腰を上げた。
 小六が呼び止める。
「何処へ行くんだ?」
「視察。気分転換でもしてくらあ、胸糞悪い」
「じゃあ俺も行こう」
「邪魔」
「そうはいかん」
 一瞬文句を言いたそうに口を開いた秀吉だったが、すぐに振り向きかけた体を元に戻すと何やら口中で呟いた。現時点での単独行動は規律違反だと判断するだけの冷静さは残っていたらしい。先ほどまで言い争っていた弟まで外出の準備を始めたのを見て終には諦めたようだ。
 小一郎が手元の茶を片付けながら問いかける。
「犬千代様はどうなさいます? 一緒に参りますか」
「あ―――いや、俺は遠慮しておく」
 至極残念そうに秀吉の友人は苦笑した。
「そろそろ屋敷の方を何とかしておかんとな。でないとお松の鉄拳が飛んでくる」
「犬千代様ってやっぱり………」
「言うな。悲しくなる」
 巷では既に定説となっている『前田利家(幼名:犬千代)恐妻説』をさり気なく肯定する彼は、ちょっぴり遠い眼差しで明後日の方向を見つめていた。
 秀吉はひとり不満そうに鼻をならすと皆を振り切るような足取りで土間へ向かった。外を練り歩いていれば少しは気が晴れるだろうと思いながら。
 そんな彼は、町を歩いていれば半兵衛たちと出くわす可能性があるということには思い至っていなかったし、ましてや予期せぬ同行者ができるなどと露ほどにも考えていなかったのだった。
 まったく、本当に人生は何がどうなるかわからないものである。

 

→ 弐


 

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