あのくたばりかけた物体を啼かせることなどできるものか、それは確信であり思い込みであり、意地でもあった。
 無理難題を突きつけられた少年はそっと檻ににじり寄り、鳥の機嫌を伺うように顔を近づけると、細く白い指で彼の羽根を撫ぜた。眉を顰め憂いを深め、手を遠ざけ指先を口に咥えて。
 ―――細く。甲高い、笛を吹く。
 閉じ込められていた生き物がゆっくりと動き出す。閉ざされていた漆黒の瞳が光を取り戻す。少年の奏でる口笛は未だ続いており、拍子を取り、気遣い、呼びかけるような音色が鳥の生気を甦らせていく。
 少年は檻の蓋を開けた。押し込められていたからだを丁寧に持ち上げて天空へと掲げる。

 ―――二度、三度。
 羽ばたいて。
 鳥は大空へと飛び立った。

 啼かせろと命ぜられたのに逃がしてしまっては元も子もない。ましてや鳥は未だに啼いていない。どうするつもりかと窺えば彼は決して慌てずに、飛び去った方角を見つめて、またひとつ、指先を咥えた。遠ざかりつつあった影が飛来して少年の肩に舞い降りる。
 そして。
 この上もなく美しい声で。

 ―――歌い上げた。

 


啼かずの鳥 ― 弐 ―


 

 小休止しようかと足を止めた店で茶と団子を注文し、薄暗い店内で揃ってぼんやりと外を眺める。店は日の高い時分にも関わらずなかなかの盛況であった。衝立で仕切られただけの座敷は黒い人影で埋まっている。座椅子の方も結構人が入っているようだ。
「ふぅん………流行ってるんだな、この店」
「そうだろう?」
 応えて半兵衛は団子にかじり付いた。東方の味付けとは多少異なるものの、控えめな甘さときめ細かな粉の舌触りが優れていた。都に来るやいなや目をつけていたというのだから、まったく、総兵衛は鼻が利く男だ。奢りと思えばまた美味く感じるだろうと脳内で相棒は無邪気に笑う。
 友はお茶を啜りながら、これからどうすると問いかけてきた。
「すぐには見つからんだろうしな。宛がある訳でもなし」
「捜すよりも捜してもらった方が早いだろう………公の入京話はとうに鳴り響いているのだからな」
 織田信長の入京は最近の都人の噂の中心であり、その部下たちの名もある程度知られてきていた。木下藤吉郎秀吉という一武将に『美濃の麒麟児』がついたという話も一時期話題にのぼったろうし、彼も半兵衛が此処にいると考えているに違いないが、さすがに屋敷近くにのこのこと出向いてくる訳がない。だからこうして町中に出てきたのだが。
「わざと人目を引こうとしても上手くいかんものだなあ」
「………まさか寺の飛び降りもその関係か?」
 噂の的になれば人目も興味も引ける。無論、迂闊な行動は自身の首を絞めかねないから注意が必要だ。決して信長の、引いては秀吉の評判を落としてはならない。狼藉者と語られれば都において肩身が狭くなるだけでなく今後の行動にも差し支えが出る。
「できればお前がいる内に片付けてしまいたい―――と、思ったのだが」
「焦ることはないさ。イザという時は佐助を呼び戻せ」
「できればこういった事情なしに歩きたかった―――とも、思っている」
 やや視線を横へずらしての半兵衛の言葉に、長政は少しだけ目を瞬かせた。次いで、口元を掠めるのは苦笑。こんな緊張を強いられるような状況でなしに、ただ単純に並んで歩いて地元の名物なんか食べて、くだらないことを話して笑ったり怒ったり。
 そうしたかったのは長政とて同じだ。言葉を返さずとも相手も察してくれているだろう。
 心地よい沈黙が流れたあと、格子の外を眺めていた半兵衛がぽつりと呟いた。
「―――長政」
「ああ。わかっている」
 先ほどから周囲の視線が痛い。敵意や悪意のない単純な好機に満ちた瞳。店内の其処此処から感じられるそれは主に長政よりも半兵衛に注がれていた。当人としては秀吉に仕える身の上がばれたかと気に掛かる。身分を知られたならばそれまで、本日の探索は打ち切るしかない。
 京に残る織田軍の軍師が探す人物―――なんて。
 重要な役割を持っているのだと想像するに難くない。
 あまり心配する必要もない気がするが、とは胸中における長政の呟きである。彼らの視線は真実純粋な興味から生じているようで、決して半兵衛の身上や立場を値踏みしているようなものではなかったからだ。とはいえ、確かに身上に興味はあるのだろう………全く別の意味で。
 湯飲みを机に置いて長政が微笑んだのに同伴者は少しだけ眉をひそめた。彼がこんな風に微笑む時は大抵ろくでもないことを考えているのだ。任せておけと目配せする彼に半兵衛は妙に不安になる。
 長政が背後の人物に呼びかけた。
「―――如何なされましたかな、其処な人」
「えっ!?」
 気づかれていると思ってなかったのか、衝立の向こうから覗き込んでいた男が慌てて頭を引っ込めた―――が、やはり好奇心には勝てなかったのかご丁寧に背後に数名の男女を引き連れた状態でこちらへ身体を覗かせる。衝立の向こうの一組だけでなく、店内全体の意識がこちらへ向けられているようだった。気にしない風を装って長政が微笑むので、ああ、こいつも人を誑かすのが上手いよな、と半兵衛は外を眺めながら思った。
「先ほどからこちらを気にされているようでしたが………何か御用でもございますかな」
「ああ、いえ、用などというものではございませぬよ。お恥ずかしい限りでございます」
 京都訛りの穏やかな言葉で男は照れたように続けた。その彼の後ろに控えている他の面々に肘鉄を食らわせながら。
「ただ―――まぁ………その、ですね。分からなかったものですから」
「ほう。何が」
「他愛もない茶飲み話でございます。ただ、意見が分かれまして。どうしても結論が出ないというのは非常にじれったいものでしてな」
 むしろ貴公の言い回しの方がじれったいのだが、との科白は胸のうちに仕舞っておく半兵衛である。
 言えよ、いい加減言っちまえよ、と店内の俄か野次馬は長政と話している男をせっつく。肝心要の問いかけを照れか恥か維持か言い出せずにいる相手を救うように長政が促した。
「お答えできることならばお答えしましょう。先からそちら様の話題に上っていたのは果たしてどのような疑問でございましょうかな」
「は………その、では、ですね。ご無礼を承知で伺いますが」
 すぅと息を飲み込んで男は意を決したのか姿勢を改める。
 暢気に流れ行く空の雲を眺めていた半兵衛は、
「失礼ながら―――お連れ様は男の方でいらっしゃいますか?」
 続いた科白に危うく湯飲みを取り落としかけた。
 男以外の何に見えるのか! と珍しくも粗雑な言葉が半兵衛の脳裏に鳴り響く。しかしさすがにそこは数多の権謀術数をすり抜けてきた軍師様、表面上は何の変化も訪れず顔色ひとつ変えやしない。内心の動揺を悟られぬようゆったりと振り向いて、とっとと誤解を解かなければと決めた矢先に友人の小憎たらしい笑みが映った。
(―――こいつ)
 絶対とんでもなく下らないことを考えている。慌てて止めに入るよりも友が口火を切る方が早かった。
「よくぞ分かりましたな。男のなりをしていても敏い者には悟られますか」
 笑い出したくなるほど重々しい口調で長政はそう頷いてくれたのである。何かやんごとなき事情が、と息を呑む聴衆の前で深刻そうに項垂れる、その実、背中で舌を出していると読み取れるのはこの場に半兵衛ひとりきり。調子に乗った友人の口車で勝手に性別を変更されてはたまらない。
「なが………!」
「大丈夫だ、お前は何も話す必要はない」
 怒る半兵衛を片手で制して、実に憐れみ深い瞳でこちらを見つめてくれたものだ。
『ってゆーか、面白そうだからお前は口出すなって言いたいんだろが………』
 総兵衛が脳裏で恨みがましげに呟いた。
 口を挟む間を逸してしまった彼は事の成り行きを指をくわえて眺めているしかなかった。最初に話しかけてきた青年が気遣わしげな表情でそっと半兵衛の顔色を伺う。
「それは………お労しい。何か事情でもあるのでしょうか」
「人に追われておいでですか」
「何処かから逃げて参りましたかな」
 最初の遠慮は何処へやら、いつの間にやら皆聴衆はこぞって身を乗り出し矢継ぎ早に問いを発する。落ち着けと長政が腕を掲げると周囲は一様に押し黙った。無関係に外を歩いていく人々の声のみが店内へ届く。
「話せば長くなります故に詳しい顛末は省かせて頂きますが―――実は、こちらにおわすのはさる高貴な家柄のご息女でしてな。私はそれの付き人という立場に過ぎませぬ」
「高貴な家柄………と、申しますと。もしや、あの」
「はい、あの―――です」
 決して『あの』の中身をこちらから明かさないのがコツだ。向こうは勝手に想像逞しくして勝手な血筋を捏造してくれる。果たして彼らの中で貴族の落胤にされたか朝廷ゆかりの者にされたか、もしや皇族に連なる人間にされてやしないかと気が気でない。
『だから、そもそも、ご息女じゃねぇから』
 無駄と知りつつ総兵衛がぼやく。何だか虚しくなってきて半兵衛は完璧に身体を格子窓へと預けた。
「しかして血筋とは関わりなくこれより先は幾分、俗世に塗れた話でございます故、皆々様も口を硬くして頂きたい。他へもれればさる方の名誉を傷つけかねませぬからな」
「それほどまでに………!!」
 青年が目を見開く。後ろの面子も同様だ。
「いまを去ること数年前、親の決めた許婚へと嫁ぐはずが、この嫁ぎ先の男がこれまたどうしようもない人非人。家庭を顧みず、妻をぞんざいに扱い、酒をくらい職を怠け金を湯水のように使う暴君そのもの。周囲も同情いたしましたが彼女は健気にも一生を添い遂げようと決めていたというのに」
 お前の語り口調は昔語りそのものだ、浅井家当主がそこらの弾き語りの真似事をしていいのかと嫌味のひとつも言いたくなる。ここで口を挟んでも相手にしてもらえない―――どころか、いまやすっかり聞き入っている聴衆に同情の眼を向けられてしまうだろうから、ますます半兵衛は顔を背けて縮こまる。
「結局、男は財産全てを使い果たし、借金取りに追われて夜逃げしました。これまで散々苦労をさせた彼女ひとりを残して」
 哀れな、との憐憫の声とひどい男だ、との憤りの言葉が重なる。
「仕方なく彼女は僅かな付き人と共に流浪の旅へと赴き………ああ、私ともその頃に逢うたのですが」
 と、ここだけ口調を和らげるのが話し手の腕の見せ所。
 彼の後ろで半兵衛はどうにかこの場をお暇できないかなぁと抜け道を必死に探している。
「更に現世を流離うこと数年、真に添い遂げるべき相手と出会い、幸福を得、ようやくこれから満ち足りた日々を歩もうとしていた矢先に―――」
「矢先に?」
 ごくり、と野次馬たちが唾を飲み込む。
「運命とは皮肉なもの。またしてもあの能無し男が現れ、今更ながらに復縁を迫ったのです!」
「おお!」
「なんと!!」
「これがいまの主に知られれば余計な心配をかけると彼女はひとり、戦う決意を固めました。故にいま、此処にいるのです」
 ほぉ………と周囲から感嘆の息がもれた。
 清々しく笑う長政の影で連れは必死に寒気を堪えていた。鳥肌たっちゃってもうどうしようもない状態である。捏造具合が素晴らしすぎて泣けばいいのか怒ればいいのか、当事者だけあって誰がどの役を割り振られたか分かってしまう辺りもこの上なく不幸。脳内では『違う―――っ!! 違ってないけど根本的に違うぅぅぅっっ!!』と総兵衛が激しく悶絶していた。
 確かに、関係だけでいえばそう喩えられなくもないのだけれど。
 なんか、もうちょっと、他に。
 最初に声をかけてきた青年が感心しながらも不思議そうに問いを重ねた。
「なら、貴方は協力者という訳ですな?」
「いえ、間男が正しいですかね」
 ―――これ以上話をややこしくするなっっ!!
 額に青筋浮かべた半兵衛の手の中で湯飲みがぴしりと音を立てた。
「ま、間男!? 間男ですか!!」
「旅の宿を提供した際に惚れましてな。その折は迎え入れることも叶わず見送りましたが、さて、いざ準備を整えて迎えに行けば彼女はとうに輿入れ先を決めていた………すれ違うもまた運命かといまは敢えて呼び寄せようとは思いませぬ」
(………あれ?)
 怒りを抑えるのに苦労していた半兵衛は少しだけ首を傾げた。長政とは小谷の城で別れたきりで、彼が自分を迎える準備をしていたなど聞いたことがない。妙なところで正直な長政のことだから、この一連の例え話においても『間男』に関する点だけ面白おかしく捏造するとは思えない。
 と、すると。
 彼が自分を迎えに来たことがあったのか。
 おそらくは………自分が秀吉に仕え始めて間もない頃に。
 己が知らなかったのは佐助の気遣いか長政の思いやりかのどちらかだろう。確かに一度決めたことは覆せない己だから、たとえ長政が呼びに来たとしても織田を離れることは有り得ない。
 けれど、秀吉よりも早く長政が訪れていれば―――どうしたかは分からなかった。
「いまは彼女のしあわせを第一に考えております」
「いやぁ、兄ちゃん、いい男だねぇ」
「惚れ直すよ! 顔がいいだけじゃないんだね」
 長政は巷の人気急上昇中である。やんややんやと喝采を浴びる彼を横目に、訂正したくともできない現状に、半兵衛は深いため息をついた。




 すっかり打ち解けた茶店を後にして、話のネタにされていた人物はほっと安堵の息をつく。その横で茶店の人々に手を振りながらも長政は少しだけからかいが過ぎたかと反省していた。
「………何だってあんな作り話を」
 半兵衛が恨みがましげにこちらを見上げた。あまり差はないが若干、長政の方が背が高めである。そのために近くで目線を合わせれば僅かに長政が上回った。
「浮いた話の方が噂は広まりやすいだろう? 相手を捕まえるための手段と思え」
「にしたって調子に乗りすぎだ」
 仏頂面で半兵衛は菅笠を深く被りなおした。話のネタにされたことが腹立たしいというよりも、誤解されたまま終わってしまったのが納得いかないらしい。低く呻いた。
「………何故だ。何故、私が女に見えるのだ」
「いいじゃないか。二十三歳の女ざかり」
「嬉しくない、むしろ不快」
 一言のもとに切り捨てられて、これは本気で腹に据えかねているようだと長政は呟く。
 町人たちが誤解したのも無理からぬ話だと思う。こういっては難だが友は確かに「美人」なのだ。かつては「可愛い」の部類だった顔立ちも年を経たいまは成長して感想を異としている。よく見れば男とわかるがつまりはよく見なければわからないし、思い込みが先行すれば訂正することもままならないし、紋付袴を穿かせたところで誤解する者はするだろう。
 因みに、彼は浅井家に身を寄せた折り諸般の事情から女装を余儀なくされたことがある。仕事や任務ならばと割り切る性格ではあるが、どうやらその時大層『嫌な』目に遭ったらしい。ことが片付いた後で半兵衛は疲れきった様子で「もう二度とこんなのは御免だ」とぼやいていた。「好きでもない男に付き纏われた挙句に男性恐怖症に陥る女性の気持ちもわかる」とも。必要に迫られれば、役に成りきるためならば男だって捨ててみせると豪語している半兵衛ではあるが、進んで『男』を捨てたくなる男も稀だろう。
 ―――と、言うわけで。
 この友人は自らのなりを指摘されるとひどく不機嫌になる。どこが女に見えるのかと怒るから、化粧すれば完璧だと茶化したくもなる。
「不貞腐れるなよ。団子は奢ってやっただろう」
「それとこれとは話が別だ」
「この間は特に文句もなく女役をやってたくせに」
「あれは別だ。女のふりをしている時に女に見えなかったら逆に困る」
 大差ないように思えるが彼にとっては重要な違いがあるらしい。ふん、とそっぽを向いた半兵衛は完全に機嫌を損ねている。随分と子供じみた面を見せてくれるものだと我知らず長政は笑みを零した。
 友が別れた頃と同じように、歪まずにいてくれたことを嬉しく思う。楽しそうに笑っていてくれて、理解者を得てくれていて良かったと思う。無論、浅井家に居ても笑ってくれただろうけれど、事を荒立てることを嫌う浅井の中では、彼はその内に退屈してしまっただろうから。おそらく、次から次へと他愛もない騒ぎを巻き起こし、やきもきさせてくれる人間が半兵衛たちの傍には必要なのだ。
 ―――その方が、彼らは彼ら『らしく』生きていける。
「いまはもう女のふりをしなくとも女に見える訳だけどな」
 何の気なしに呟いて、それからはっと気がついた。
 ―――しまった。いまのは言い過ぎたかもしれない。
 恐る恐る振り向けば隣の友人はにこやかに微笑んでいる。菅笠の向こう側に覗く瞳の穏やかさが、嗚呼、恐ろしい。
「………長政」
 神か仏のように慈悲深き笑みをはりつかせ、一方で片手は強くこぶしに握られている。刀を持ち出されないだけマシというべきか。
 瞬時、視線を鋭いものに変えて低く宣告がなされた。
「―――ぶっ飛ばす」
「え? うぉ、ちょっと待て! 悪い、口が滑った!」
 鋭い一撃をかいくぐり、慌てて長政は町外れへと逃げ出した。
「喧しい! 人間、言っていいことといけないことがあるのだ!」
「本音が出ただけだ!」
「なお悪いわぁぁ――――――っっ!!」
 待て、戦わぬとは卑怯なり! いざ尋常に勝負! と叫びつつ怒りに頬を染めた友が凄まじい勢いで追いかけてくるのを必死にかわす。本当に自分の方が足が速いのか、追いつかれたらどうしよう捕まったら絶対に死ぬなぁ、と。
 聊か暢気なことも考えつつ町中を全力疾走する彼らを物珍しげに眺めやる人の群れ。




 視察に出かけたのは外の空気を吸って気を紛らわすため―――だった、はずである。確か。少なくとも先刻までの目的はそれだった。目的どおり外に出てのんびり歩いて美味そうな団子を食いながら店先で茶をしばく、うん、確かに精神が休まる………はず、なのだ。本来なら。
 しかるに何故。
「おら、サル二号、それ寄越せ」
「嫌ですよ。これは俺の団子です。三郎様は三郎様の団子を食えばいいじゃないですか」
 ―――何故、自分は主君と一緒に団子なんぞ食っているのだろう。
 秀吉は一頻り悩んだ。
 誓って言うが決して団子が悪い訳ではない。巷の評判どおり美味い店だし信長と食事をするのは久しぶりだし嬉しくないはずがない。
 しかし彼が同行するなんて思ってもみなかったから気配りの弟は周囲を警戒して緊張気味だし、おおざっぱな小六はこうなると踏んでいたのか気にせず団子をかっ食らっている。出かける所を主君に見られていたらしいのが運の尽きか、屋敷へ取って返すには遠すぎる距離まで来てからこの主は秀吉の肩を叩いてくれたのだった。咄嗟に逃げ出さなかった己を褒めてやりたい。
 奪われかけた団子を死守して精一杯の文句をたれる。
「三郎様はご自身の立場がわかっておられるのですか? 団子ぐらい幾らでもお土産にしましたよ」
『殿』とも『上様』ともましてや『信長様』とも呼べず、臨時に「三郎」の名前を借りながら注意する。巷で一番の有名人だと信長は自覚しているはずなのに軽装だわ護衛はつけてないわ変装なんぞ何処吹く風だわでこちらの神経が削られるったらありゃしない。
「馬鹿か、お前。こーゆーのは出来立てを食うのが美味いんだよ! おい、女中。もう一皿追加だ」
「あいよー」
 小太りした中年の女性がにこやかに返事をした。ため息交じりに視線を店内に流して、こころなしか中が騒がしいことに気づく。その点は信長も気になったらしい。新たに届けられた団子を女中から受け取りながら口を開く。
「おい。今日は妙に店内が騒がしかねぇか? 何か面白い話でもあったのかよ」
「ああ………面白いっていえば面白いんだけどねぇ。でも口止めされちゃってるからねぇ」
 もったいぶりながらも話したくてならない態度が見え見えだ。どの国でもこういった野次馬根性丸出しな人々は後を絶たないらしい。もっとも、彼らのおかげで情報収集が容易くなると思えばそう無碍にもできない。小一郎が真面目な顔をして頷いた。
「安心してください。決して口外はしませぬから」
 それが彼女の自制心を打ち砕いてくれたらしい。「そぉかい、そうまで言うんなら仕方がないよねぇ」と、晴れやかな顔でしっかり信長の隣に腰掛けた彼女は既に話す気満々だ。わざとらしく周囲に視線を配って、殊更抑えた声で語りだす。
「実はね………ついさっきまである高貴な出の方々が御忍びでいらしててね」
「なんだぁ? 将軍とかか?」
 小六の合いの手に馬鹿だねぇ、そんなことある訳ないだろうと女中は大げさに手を振った。
「別に将軍様だろうと何だろうと構やしないよ。まぁうちの団子の出来にはお天道様にだって文句は言わせないけどね。それよりどっちかってぇと、その男がねぇ………」
「男?」
「そうさ! とってもいい男だったんだよ!」
 頬を赤らめる中年太りの女性はこころだけが若返ったかのようだった。「あたしがあと十年若ければ」とか何とか呟いているが二十年以上若返らないと無理だろうと秀吉は判じた。
「勿論、旦那方もいい男だけど、ちょっと雰囲気が違っててね、貴族様なんて実際に目にしたことは少ないけど本当に気品があるってのはああいう人のことを言うんだろうね! 目元が涼しくって背筋がピンと立って刀を構えた姿なんてどこの殿様かと―――」
 放っておいたら女中の語りは果てなく続きそうである。男にはこれまた綺麗な女の連れがいて、彼がその連れを大切にしているのが見て取れて素敵なんだこれが、と語る。
 くだらん、と口中で貶して秀吉は茶をすすった。
「その娘は訳ありらしくてねぇ、折角綺麗なかんばせしてるのに男装してて可哀想ったらないよ」
 性根がやさしいらしい女性の表情がくもる。いわく、その娘は亭主もちで、だけど前夫が復縁を迫ってきて、亭主に迷惑をかけたくない彼女はひとりで決着をつけに来たのだという。泣かせる女心だよ、鈍い亭主が憎たらしいね、と女中は付け足した。
「じゃあ何なんだその男は。亭主じゃないんだろ?」
「付き人だって言ってたけど誰がどう見たってその娘に惚れてるね。美男美女でお似合いだったし、あたしが彼女だったら亭主なんか放り出してあの男に付いてきたいところだよ」
「ほぉ」
「しかも亭主が何も知らないってのが腹立たしいじゃないか。彼女が細い腕に短刀握り締めてかつての男と戦おうとしてるんだよ? 何もいわずとも察してやるのが男じゃないのかい!?」
「確かにな」
 耳を傾けていた信長は実にたちの悪い笑みを浮かべた。合点がいったというようにあご先を指でなぞる。飲み終わった湯飲みをたたみに置いて、突如彼は呼ばわった。
「―――だとよ、サル二号! 気付かない男が悪いんだとよ!!」
 いきなりのご指名に秀吉は危うく湯飲みを取り落としかけた。
(どっ、どうして俺が呼ばれなきゃならないんだ?)
 心当たりを捜してみるものの、妻の禰々は秀吉以外に付き合った男もいないだろうし、許婚も存在しなかったし、浮気もしていないだろう。この際、夫たる自分がどれだけ旅先で女を引っ掛けたのかは置いといて、である。大体、禰々が己ひとりでケリをつけようなどと殊勝なことを考える玉なものか。
「わたくしの貞操の危機なのですよ? 当然、貴方も助力してくださいますわよね」
 とかいって決闘の現場まで夫を引きずって行った挙句に刀を持ってけしかけるような女である。時折り何だって自分はこんな性格のきつい女と結婚したのかと思わないでもないが、毅然とした態度を取る誇り高い様が好ましくもあるので、別れ話など持ち出したくもない。
 ………などと夫婦の現在にちょっとばかり思いを馳せてしまった彼だったが、不満は率直にそのままを伝えた。
「―――何だって俺に話を振るんですか。関係ないでしょう」
「そうか?」
「確かに気付かない男も悪いかもしれませんけどね、何も話さない女だって悪いんじゃないですか? 言ってくれなきゃ分からないことだってたくさんあるんです」
「なるほどな」
 頷く上司の背後ではそれが男の言い分なのかねぇと女中は不満そうに呟いている。秀吉としては信長の浮かべているやたら嫌味な笑みだけが最後まで気にかかった。どうしてそんなに笑っているのかと口を開きかけた瞬間、背筋をなでた寒気に咄嗟に表情を強張らせる。
 気配のした方を注意深く振り向けば、店内からうっそりとした男が顔を覗かせるところだった。黒く薄汚れた衣服を身にまとい、腰に煤ぼけた刀を下げている野武士あがりのような胡乱な目つき。顔つきはお世辞にもいいとは言えず、強者に媚び諂う人間特有の捻じ曲がった匂いを垂れ流していた。周囲の客にもその雰囲気は伝わるのか、男の半径一尺ほどだけ砦でもあるかのように間が空いている。
 きょろきょろと辺りを見渡してから男は人並みに紛れ込んでいった。
 如何にも怪しいその風体に、秀吉は重ねて女中に問いかけた。
「―――あの男、常連か?」
「さぁねぇ。ここ最近、織田に雇ってもらおうって野武士や落ち武者で溢れ返ってるから誰とも分からないね、まぁ、うちは団子好きなら分け隔てしないけどさ」
「そうか………」
「でもあの男は別だよ。さっきからあの子たちのことを根掘り葉掘り聞くからさ、無視してやったよ」
 もしかしたら件の前夫の関係者ではないかと思い、まともに取り合わなかったのだという。何処へ向かったとか何人組みだったとかどんな武器を持っていたかとか逐一聞いてくるものだから、幾ら噂好きな女中といえども嫌気がさしたのだ。
「ああ、嫌だ嫌だ。確かにあたしは軽く見えるかもしれないけど、これでも話す相手は選ぶんだよ―――っと、だからね、あんた達は大丈夫だよ。きれいな目をしてるものね」
「そいつぁどうも」
 珍しくも信長が会釈を返した。自分が誰に向かって物を言っているのかを知ったらこの女は卒倒するに違いあるまい。
 秀吉は相変わらず男の立ち去った方角を睨み続けていた。




 音に聞こえた都といえども華やかさばかりが全てではない。戦乱の世において荒廃した歴史を持たぬ地はなく、餓えた人々や見捨てられた者たちを知らぬ都もない。外れへゆけばゆくほど町並みは寂れ、笑顔は消え、打ち崩れた寺院の中で草の根を煮詰めながらかろうじて彼らは命を繋ぐ。生き残るために物乞いし、騙し、盗み、殺し―――せめて見せる芸を持つ者はさいわいかもしれなかった。春を売る女、身を粉にする男、売りに出される子と比べれば未だ救われる可能性が残されている。無気力に膝を抱えているよりはと尊厳を求めた者たちでもある。
 芸を見せるとなれば場所がいる。場所にも良いところと悪いところがある。人目につけばそれだけ儲けられる可能性があり、見目形が気に入られれば気紛れな貴族や武士に『買い上げて』もらえることもある。そこまで行かずともやはり、己の技量に自信を持つに至ったならば良き舞台での披露を望むのは人として当然のことである。
 故に、ろくな芸も見せぬ者に良き場を占有されていれば腹立たしい。領地争いは動物どものそれよりも傲慢で陰湿だ。
 だから若者ばかりが十数人も寄ってたかってひとりの老人を取り囲むのも決して珍しい光景ではなかった。常との違いといえば脅されているはずの老人が自らの場に陣取ったまま、梃子でも動こうとしないことぐらいか。しっかと座禅を組んで琵琶を片手に構えた彼は雨が降ろうと槍が降ろうと引かぬ構えである。自信に満ちたその姿は他を圧していた。
「―――どいてくれないか、爺さん」
 同じく琵琶を抱えた若者が不満も露に呼びかける。
「あんたは此処に居たって何一つ奏でようとしないじゃないか。だったら俺たちに明け渡してくれたっていいだろう。こんだけ通りの近くに面したところで演奏できりゃあ食い扶持に困るこたぁないんだ」
 ふん、と老人は鼻で笑った。
「奏でるだけがすべてなものか。つまらんことばかり言う奴じゃの。わしはわしの音を理解する者がおらなんだこの場所で奏でる気力がわかんだけじゃわ」
「だったら尚更どいてくれ」
「駄目じゃな。ここはわしの生まれた場、捨てられた場、育った場、天韻を得た場、主らのような青二才に明け渡せるほど愛着のない場所ではないからの」
 あからさまな罵倒に若人の面が歪む。周囲の面々も口々に不平を並べ立てた。
「我侭いってんじゃねぇぞ、こっちが大人しくしてるからって付け上がりやがって」
「天韻? 誰も聞いたことねぇぞ、本当に天上の楽を知るってんならいますぐ演じてみりゃ済む話じゃないか。それを何だ、聞き手が悪いのなんのと文句ばかり」
「どこぞに知り合いがいるとかいってただろ。とっととそっちへ島を変えやがれ!」
「出て行け!」
「出て行け!!」
 一部の者は既に手近な棒や石を手にしている。力任せは望ましくないというには世知辛い、生を繋ぐためには我武者羅にならねばならぬ時世。かといってこの歳まで生き抜いてきた老人が引くはずもなく、場が一触即発の空気を帯びてきた時だった。
「………何だぁ、あれ」
 端っこに立っていた男が素っ頓狂な声を上げた。あまりにもそぐわない言葉に瞬間、誰もが顔を見合わせて、次いで指し示された方角に首を向ける。都の大通りから続く一本道をふたりの若侍が駆けてくるのが見えた。何者かに追われているのかと思えばそうでもないらしい。黙って通り過ぎるかと眺めやれば一向に速さを緩めずに群集に突っ込んでくる。
「ええっ!? ちょ、ちょっと待………!!」
「うわぁ!!」
 先を行く影が後ろの人物に突き飛ばされ、見事に場の中心に突っ込んだ。はずみで周囲の二、三人が巻き込まれ倒れこむ。逃げ惑う人々を尻目に追う側は、立ち上がりかけた人間の胸倉に膝をついて呻き声を上げさせた。歓声と共に被っていた菅笠を脱ぎ捨てる。
「―――討ち取ったりぃ!!」
 まるでどこかの捕り物劇だ。押さえ込まれた人間は降参とでも言うように両手を挙げて、頼むから早くどいてくれと情けない声を出す。急所に蹴りを食らわせて清々したらしい人物は未だ笑ったままどこうとしない。丁度間に割り込まれる形になった面々は黙して事の顛末を見るしかなかった。
 しかしまあ何があったか知らないが、大の男を蹴り倒すとは威勢のいい人間もいたものだ。珍しくも男装した女、いや、女にしては凛々しすぎるのでこれは男か、でも男にしては線が細すぎるのでやはり女、と一瞬どうでもいい考えが観衆の脳裏をよぎる。
「………ひどいことをする。お前に容赦という言葉はないのか」
 押し潰された男が菅笠を取り低く呻いた。現れたその顔は言葉ほどに責めているようには見えず、苦笑を浮かべているのみだった。整った頬についた土を指先で拭い取る。上にのしかかっていた身体をどけると加害者は笑って相手を助け起こした。
「容赦ならしている。ほら、刀はまだ使っていないだろう?」
「馬鹿。使われたらそれこそ洒落にならん」
 子犬がじゃれ合っているような雰囲気で並び立ったふたりは、そこで同時にはっと目を見開いた。慌てて被害者は左手を、加害者は右手を振り返る。どうやら事ここに至ってようやく現状を把握したらしい。片側はくたびれた布をまとう老人で片側は武器を手に手に取った若者の集団だ。何が行われていたのかなんて想像力を働かせるまでもない。
 彼らは互いに目を合わせてしばし沈黙すると、やがて意を決したのか女らしい男がこちらにやわらかく微笑みかけた。瞬きひとつ、先ほどまで薄闇に見えていた瞳が濃紺へと移り変わるのが見事だった。
「失礼。お取り込み中のところに押し入ってしまったようで申し訳ございません。しかし、見れば多勢に無勢で直談判に及んでいらっしゃるご様子。如何なる事情でかようなことになったのか、宜しければお教え願えませんでしょうか?」
 口調はこの上なく丁寧極まりないが、妙な威圧感を覚えるのは何故だろう。
 渋々と青年は老人を取り囲んでいた理由を掻い摘んで話し出した。この場所は通りに面していて、仲間内での一等地であること、老人が楽を奏でるのは稀であること、そのくせして場所を明け渡さないことなどを説明すると、相手はひとつ、頷きを返した。
「つまりはご老人が天韻を奏でてみせれば良いのでしょう? 事実、その音が優れたものであれば」
「だから、そいつが弾き語りをすることなんて全くといっていい程にないんだ。聴かされた音もない状態で優れた弾き手と判断してやるほど俺たちは甘くない」
 発言しているのはひとりだけだがその他大勢も同じ心境だろう。耳を傾けていた相手は笑いながら隣人を見やった。
「面白そうだな、『天韻』とは………天上に近しき音色ということだろう? 是非一度耳にしてみたい」
「余計なことに首を突っ込んでる暇があるのか?」
「余計なこと、かもな。だが寄り道とて大切なことだろうよ」
 友人が窘めるのにも耳を貸さず、彼は色素の薄い髪を翻して老人の前に膝をついた。ずっとそっぽを向いて部外者を装っていた老人の視線が来訪者のそれと交錯する。
「失礼、ご老人。お休みのところ失礼いたします。少々伺っても宜しいですかな」
 膝を抱え込むことで目の高さを同じにして語りかける。親が、子供に対する時のように。子供の目線に立たされた側は不服な顔をするでもなく素っ気無く応えた。
「何が訊きたい」
「貴方に足りないものを」
 後ろでは彼の友人が腕組みをして事態を見守っている。
「足りないものは聴衆ですか」
「この場では、な。だが此処から離れれば聞き手は溢れておる。―――とことん付き合いにくい奴らではあるがな」
「弾き手は」
「己以外に要らぬ」
「歌い手は」
「己の声で吟ずるのみ」
「―――ならば」
 にぃ、と唇を歪ませて。瞳に浮かべるのはひどく楽しげな色。
「踊り手は」
 問いに対する応えはなかった。奇しくもそれが問いへの答えを示している。すべてが己のみで事足りると、聞き手もこの場に限らなければ居るのだと告げていた老人が何も返せずに黙るもの。それこそが彼にとって『足りないもの』だと判じて何の問題があろうか。
「………その気にさせる対象が居れば幾らでも音色は奏でられるか」
 呟きは低すぎて傍らの友人と老人を除いては誰の耳にも届いていなかっただろう。
 ただ、彼はまた、笑みを深くして。
 さっと腰から扇を抜き放ち老人の眼前に突きつけた。
「ならば、舞い手はこちらが引き受けようか」
「総兵衛」
 友の咎めるような言葉にも注視せず、正面を見据えた姿もそのままに立ち上がる。
 足りないものはこちらで補おう。だからその手を晒すがいい。もし我らの舞いが求めるに足らぬと判を下したならば幾らでも後から罵るがいい。たとえ謗られ貶され笑われるとも、音を得る機など幾度もないから踏み込むのに異存はない。

「―――我らは汝が天韻を求めたり」

 声高に言い放たれた言葉に老人の目が眇められた。




 いずこの国のものとも知れぬ天上の楽のような音が聴こえた。聴こえた先は都の中心から外れるばかりで、耳を澄まして辿り行けば随分と寂れた場所に行き当たった。ああ、ここは何の場所だったか覚えている。確か、くたばりかけた爺と威勢だけはいい若人衆がせせこましい領地争いをしていたところ。別に通りに面していようといなかろうと都人は落ちぶれた人間に興味など持ちやしないのに、奴らにとっては違うらしい。常にそこから響いてくるのは罵詈雑言と怨嗟の声と響きの悪い歌や楽、見るに耐えない乱れた踊り。
 だから、覗いた光景に思わず足が止まった。
 本来の己の仕事はそれではないと知っている。鐚一文で何故に都中を走り回らなければならないのかと悪態もついたが、美味い話かもしれぬいまは黙って従うだけの命令。人を捜せと命ぜられ、それらしき人物の影を寺院の境内や茶店で捕らえるども掴むには至らず、あたりをつけて歩き始めて間もなく。
 耳に届く天上の音色。その方面に疎い人間でもすぐにそれと察せられるような。
 己の外見は自覚している。おそらく、溝鼠が至上の世界に飛びつこうとしているのと同じくらい浅ましい動きに見えただろう。黒く薄汚れた服をまとい、壁伝いに音の出所へと向かう。邪魔な人ごみの後ろからやっとの思いで覗き込む。周囲の人垣はまるで凍りついたかのように静止しており、一体何にそんなに驚いているのかと目を凝らし、やはり自分も息を止めることとなった。
 場の中央で舞うは、ひとりの若者。
 白い指先に捕らえる扇。風に舞う髪はゆるく、瞳は光の加減で薄い闇色にも濃い青色にも見えた。

『―――人と思うな』

 雇い主の言葉を思い出す。

『なりは男であれど舞いを舞わせたならば途端に判別がつかなくなる。色素の薄い髪と瞳に―――』

 語る表情は苦しさの裏に懐かしさを滲ませていて、憎しみと同程度、いやそれ以上に別の感情を潜ませているようにも感じられた。
 もしや個人的に執着する謂れがあったのではないかと下種な勘繰りもしたくなるほどに。

『見定めようとすればするほどわからなくなる。人を誑かすのが上手いきつねだが<見>ればわかる。俺が誰を捜していたのかぐらい、誰の目にも』

 聞けば雇い主本人も会わなくなって久しいという。なのにやたらと確信めいた口調。

『色白で、髪は長く、瞳は薄闇から濃紺まで色合いを変える。そんな不可思議な生き物がふたつといてたまるか』

 ―――捜せ。
 捜してこい。この、京の都を隈なく。向こうとてこちらを捜しているのなら尚更に。
 だから程なく己にも合点がいった。
 ―――ああ、雇い主が捜していたのはこの<存在>だと。確信に揺ぎ無く、真実みればわかった、話に聞くしかなくとも、こんな風に舞う人間が幾人もいてなるものか。
 慌てて後ろへ下がったため、片腕が板壁に突き当たったのも気付かなかった。

 ギシリ………

 不吉な音に後悔してももう遅い。ただでさえ老朽化していた板は最後の一押しで安定を失い、キシキシと乾いた音を立てながら崩れ行く。細かな木屑を散らしながら揺らいだそれは派手な音と共に粉々に砕け壊れた。残されたのは辺りに舞い散る木屑と倒れた時の残響と。
 我に返った時には手の施しようもなく、気付けばつい先刻まで鳴り響いていた天上の楽の音もなく、己が背中に突き刺さる痛いほどの視線を感じていた。どうにかして顔を仰け反らせ、振り向いたことを悔いた。突然の騒音で楽を遮られてしまった聴衆の敵意よりも、邪魔された割りには気にしていないような老人の態度よりも、刀を携えて不思議そうに佇む侍よりも、ただ、静かに。
 黙ってこちらを見つめている薄闇色の瞳にどうにも居た堪れなくなった。
 俺の所為ではない、故意ではない、舞いを止めたかった訳ではない、弁明と弁解と自己弁護の言葉が脳内を巡り、そう、まるでこれではどぶ泥に塗れて生き抜き、どんな汚いことにも手を貸した己が恥じ入っているかのような―――それこそ後悔とか、懺悔とか? ………まさか。
 まさか!!
 弁解の声を上げるでもなく一目散に逃げ出した。後ろから罵声と怒号が追いかけてくるが知ったことじゃない。とにかく、見つけるものは見つけたのだから早く報告するに越したことはない。ああそれよりも、近場にいるだろう仲間に声をかけていますぐあの男を雇い主のもとへ。
 無意味な言葉が巡る脳裏に意識を取られつつ。
 足元で奏でられる砂利を蹴る音と、自らの心音がやたら五月蝿かった。




 板塀の崩れる音に楽の音を止められ、以降、舞いを再開させる訳でもないふたりに周囲も三々五々に散らばった。何事か言いたそうに老人を見るのだが誰もが口中で有耶無耶を呟くばかりで踵を返してしまう。気勢を削がれた、話はまた後日、という雰囲気を滲ませて遠ざかる若人衆だがしかし、もう今後の老人の処遇についてとやかくいう連中はいないだろう。
 組んでいた腕を解いて長政が言う。
「―――当たり、かな?」
「おそらく」
 未だ舞いの余韻覚めやらぬ、しっくりこない視界と思考を、頭を振り払うことで半兵衛は切り替えた。耳にしたいと望んだ天韻はやはり影響が強く、うっかり本気になるところだった。幾ら人目を引くためとはいえ都の外れで精神遊離までしたくはない。
「どうする。こちらから追うか」
「いや、必要ない。向こうから仕掛けてくるだろう………待つだけでいいさ」
 扇を仕舞い、長政に預けていた菅笠を受け取った半兵衛はそっと老人の前に腰をおろした。
「ご老人」
 彼の音を聞きたかったのは真実。しかし、利用してしまったのも事実。天賦の才を自負している彼の自尊心をいたく傷つけてしまっただろうことは想像に難くない。願わくばまたの機会にその音に耳を傾け、望まれれば舞いとて捧げたかったが相手が許してくれるとも思えない。
「申し訳ございません………貴公の腕前を利用することとなってしまいました。二度とは聴けぬかもしれぬ、天韻だと言うのに」
 だが。
「構わん」
 俯く半兵衛にかけられた言葉は予想外に穏やかであった。訝しげに面を上げれば、随分と楽しそうな笑みを浮かべている。
「わしに天韻を奏でさせたお主の舞いは文句なしに賞賛されるべきもの。裏にどのような企みがあったとてわしの感知するところではないわ」
「ですが………」
「それにな、もしかしたら奏でる機があるやもしれぬと待っておったのはわし自身じゃからな」
 笑いながら老人は手にした琵琶を抱え込む。実におかしそうに、嬉しそうに。
「一月ほど前だったかの、男女のふたり連れがやはりわしに向かって『天韻』を奏でてくれぬかと尋ねてきた」
 半兵衛の眼が揺れた。まさか、と思いつつ。
「断りついでに事情を訊けば、事実『天韻』たればその旨を伝えたき相手が居ると言いおる。奴は言うておったわ、もしわしに『天韻』を奏でさせる男がいるならば、それは己の主に他なるまいとな」
「私は………誰の主でもありませんよ」
 否定しながらも口元には笑みが刻まれる。彼らとて名乗りはすまい、外見的特長もあったものではない、が。
 彼らが主の好みを解すること他に類を見ず、興味を持ったならば足を運ぶに例外なく、だからといって『天韻』を奏でさせるのは我が主のみ、とは聊か行き過ぎた評価と思うのだが―――思いもよらぬところで部下たちの消息を知れて嬉しく思う。
 話すことは話し終えたとばかりに老人は座を立つと、最後に少しだけこちらを振り向いた。
「わしの名は伽藍。もしお主がこの都においてある程度の伝手を得たいというのなら、宗易と名乗る男を捜すとよい」
「さすればまた貴方にもお会いできるのですかな。伽藍殿」
「縁あらば、な」
 呵々と笑う。歳の割りにしっかりとした足取りで老人は遥かに見える寺の方角へと去っていった。
 しばらく発言を控えていた長政がほっと息をついた。「面白い人物だったなぁ」との呟きは正直な感想だろう。あの老人について色々と憶測するのも楽しかろうが、いまはまだ早すぎる。眼前に迫った事態を片付けられれば後で嫌というほど語る時間は作れるはずだ。
 腰に挿した大小を両方とも抜いて長政に手渡した。頼む、と一言、相手は少しだけ不安そうな色を浮かべる。
「本当にいいのか? 短刀くらい隠し持てば」
「それでは意味がない………あの方を殺しに行く訳ではないのだからな」
「―――危なくなったら手を貸す。半兵衛。お前が拒否しても」
「わかっている」
 懐から取り出した袋をふくらはぎに巻きつける。中で小石がじゃらじゃらと鳴り、意外とうるさいかもしれぬと気にかかったが今更仕込み直している暇はない。角まで来たところで長政と手を振って別れた。他愛もない世間話の流れから、互いに別行動を取るに至ったという真似をしながら。
(―――かかるか?)
『でなければやり直すしかない』
 心中で語り合う言葉が外にもれぬよう殊更に気を遣いながら更に奥深い道をたどる。菅笠も深く被るには至らず小脇に抱える程度にして、腰の大小がないことに相手が気付くよう祈りつつ、これで気付かぬようならばもうどうにも手の打ちようがないと考えつつ。
 待つことが苦手な訳ではないが、こと「自分を狙え」という時にどういった行動を取れば『獲物らしく』見えるのか―――については未だ改善の余地があるのかもしれなかった。
(無防備に座っていれば引っかかるとは限らない)
『武器を持たぬように見せて何処かに隠し持っているのではないかと少し頭の回る奴には勘繰られる』
(と、なると相手はかからない。わざわざ人気のない方向へ足を運ぶのも罠と考えられるかもしれぬ)
『罠と知りつつ勇み足で出向くか、これさいわいと餌に食いつくか』
(どちらの根拠で動いたかによって手持ちの部下の質がわかる)
『さて―――、奴らはどちらかな』
 胸の中の繰り言を面には出さず、都外れの廃墟の中でひたすらに風を受けながらぼんやりと腰掛けた石の後ろ側、足元の砂利をいらつかせる音がひとつ、ふたつ。さすがに単独で仕掛けてくる間抜けではなかったらしい。長政が去ったのを確認した上で複数の人間を差し向けたか。そこそこ考えのある人間が向こうにも付いていなければ張り合いがないというものだ。
 首筋に当てられた白刃の冷たさをむしろ心地よく感じる。
「………きつねつき、の御仁ですな」
 掛けられた言葉に浮かぶ薄ら笑い。人違いだと払い除けてやるのも面白そうだが、生憎と今日の目的はそれではない。笑いそうになるのを堪えながら首を回せば、薄黒い衣をまとったふたり組みが刀片手に突っ立っていた。うち、ひとりの刃が半兵衛の喉元に突き付けられている。こちらは素手なのだからそこまで警戒する必要もあるまいに、あるいは雇い主からある程度の逸話を聞かされているのだろうか。
「何か御用か」
 暢気に問い返す半兵衛に対し、相手は無表情を崩そうとはしなかった。少しの好奇心は働いていたとしてもこの手の連中は金銭で動く。しかるに、雇い主から報酬を受け取るまでは仕事の対象についてさしたる興味を抱きもしない。
「会いたいという方がいらっしゃるのでね。………ご同行願いたい」
「従わねば」
「その首を斬らせて頂くまで」
 刀で脅す人間の後ろでは引っ立てるための縄を準備している奴がいて、ああ、そこまで定説通りにいかなくてもいいのにと口を挟みたくなる。ついに耐え切れず半兵衛は苦笑すると降参を示すために両手をそろそろと挙げた。相手方にはそれが諦めの表情と映ったかもしれない。
(さて、これで外れだったら何とするかな)
 どこかのんびりとした思考のまま、自らの両腕が縄で括られるのを大人しく見つめていた。




 物陰に潜み様子を伺う。薄汚れた衣服をまとい、刀は下げていても武士とも侍とも呼べないような輩がふたり、友人に刀を突きつけている。二言三言、何事かを交わした彼らは嬉々として獲物に縄をかけ始めた。相手が無抵抗なのをいいことに後ろ手に縛り上げ、身体に幾重にも縄をかける。
 長政は歯痒くてならなかった。連中の後をつけるのが己の役割と分かってはいても、いまにも飛び出してしまいそうな自身を抑えるのにえらく苦労した。半兵衛が敵に捕らわれずともこの場で連中を締め上げれば早々に根を上げるだろうに、そうするのを友は良しとしない。人質をとって陣地に乗り込めば負け癖と逃げ癖のついた目的の人物は即座に踵を返して何処かへ紛れ込んでしまうだろうから。
 それでは困る―――それでは困るのだ。半兵衛はあくまでも彼自身と話したいのだ。
 出来に満足したらしいふたり組みが意気揚々と半兵衛を引っ立てて行く。罪人を引きずり回す権力者になったようで浮かれているのかもしれない。無意味に縄を引き、背を押し、子供でもやらないような嫌がらせを繰り返す。おかげで足元の仕掛けには全く気付いていないようだがいい加減、腹立たしくて見ていられなくなった。
(弱者をいたぶるしか能のない奴らが………!!)
 ―――作戦なんぞ知ったことか、半兵衛。総兵衛もいますぐそいつらを蹴り倒してやれ!!
 幾ら影からけしかけたところで如何せん当の本人たちは露知らず。悲しいかな、長政の友人は幼少のみぎりより笑われたり貶されたり侮られることに慣れすぎていて、おかげで些細とはいい難い屈辱にさえ大抵は耐え切ってしまう。
 外京へと向かう影を背後から注意深く追う。充分すぎるほどに距離を置き、どれぐらいの時間を置けばいいかと計算する。主従の再会に水を注したくはないが友人に危害が及びかけたならば無遠慮に踏み込ませてもらおう。
 長政が誓いを新たにした瞬間だった。
「………何やってんだ? こんな所で」
 聞き覚えのある声にはっとなって振り返り、あまりの間の悪さに舌打ちしたくなった。
 どうとするのだ、半兵衛。もしやお前はかつての主を引っ掛けるつもりで噂をばら撒き過ぎたのか。
 おまけに、それ以外の面々まで引き連れて。
(―――いまの主君まで呼んでどうするよ)
 思わず頭を抱え込む長政の前で秀吉は不機嫌そうに首を傾げ、更に背後では信長と小一郎と小六が面白そうに事態を静観しているのだった。




 砂利と泥だけの荒れ果てた道をどれぐらい歩いたろうか。天気が悪い訳でもないのに薄暗い空気を湛えた都の外れ、壁が崩れ落ちて蔦が這い、雑草が辺りの瓦や小物、野垂れ死んだ白骨まで覆い尽くしている。華やかな中心部と比べて陰惨に過ぎるこの光景もまた都の側面のひとつだろうと半兵衛は思った。足に括りつけた袋から再度、小石が転げたのを前後の人間に気付かれぬよう脇道に隠す。
 罪人のように引っ立てられながらも前方をまっすぐ見詰めていると、その瞳に大きい荒れ寺が映った。
(あれは………)
 目的地は間違えようもなくその荒れ寺であった。もとは高名な住職がいたと推察される寺はなかなかに立派な門構えをしていた。仏前に至るまでの敷石と墓石が往時を偲ばせる。だが、いまではそこも野武士とも賊ともつかぬ輩で埋め尽くされている。半兵衛を連れてきたふたりは気楽に言葉を交わし、時折りこちらを見ては下卑た笑いを浮かべる。
 屯していた賊のひとりが薄汚れた指を伸ばして半兵衛の髪を引き上げた。つられて頬の肉が引き攣るのでさすがにいい気持ちはしないと不機嫌そうな顔をすれば、それすら相手にとっては嘲りの種になるらしかった。
「へぇ、こいつがね………綺麗な顔してるじゃんか。本当に男か? 間違えて連れてきたんじゃねぇ?」
「そうだなぁ、間違えてたら大変だよなあ。何ならそこの暗がりで確認して見るか」
「よせやい。これでも女にゃ不自由しちゃいねぇ」
 値踏みするような目線も弱者と侮る視線も慣れたものだ。美濃にいた頃は常に注がれていたものでもある―――あれが竹中家の当主かと、生白い青瓢箪ではないかと。その意味で此処はかつての稲葉山城に、よく、似ている。
「俺は男でもいいぜ。旦那の用事が済んだら一回お願いしてぇもんだ」
「物好きだな」
「全くだ―――まぁ、それも分からんでもないが………」
 振り向いた男は実に複雑そうな表情をしている。背格好からして、伽藍の天韻を騒音で遮ってくれた奴に違いないだろう。
『なぁ、とっとと連れてけって急かしたら逆効果かな?』
(逆効果だろ)
 半兵衛が相棒とかわす言葉には緊張の欠片もない。
 それでもようやく彼らは自分達の役目を思い出したのか、半兵衛の身体を引きずり倒すようにして寺の階段を登った。本来は仏が備えられていただろう薄暗がりに呼びかける。
「―――連れて参りやした」
 告げる言葉に薄暗がりの更に奥、漆黒に近い世界の中で黒衣の塊が蠢いた。ギシリと床の板が軋む音。半兵衛の脇に陣取っていたふたり組みが少しだけ後ろへ控えるが、招かれた人間はまっすぐ瞬きもせずに正面の闇を見据える。
 懐かしいといえば懐かしいし、会いたいようで会いたくなかった。向こうとてまさか京の都で半兵衛と顔をあわせることになろうとは考えてもみなかったに違いない。
 だが、彼は、都を去るよりも先に半兵衛に会うことを望んだ。その辺りにまだ救いが見い出せる。
 まだ―――彼は、何もかもを投げ捨ててしまった訳ではないのだと。
 微かな希望であり無意味な感情であり不誠実な行いなのかもしれない、けれど、いまは彼が生きてくれていたことを嬉しく感じるから。
 こころが望むまま素直に喜びをのせて眼前の闇に微笑みかけた。

「お久しぶりです………斉藤、龍興殿」

 たとえ、相手が憎しみを込めた瞳でこちらを睨みつけていようとも。

 

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