啼かずの鳥 ― 肆 ―


 

 もとより誰がまとめていた訳でも忠誠心に厚い団体でもない、はした金と適当な権力に群がる何の意思も展望もない輩。力の差、状況の悪さ、見通しのなさを突きつけられれば恥も外聞もなく尻尾を巻く。
 果たして連中は慌てふためいた悲鳴と御座なりな罵声を繕いながら場を引き始めた。逃げる途中で見知らぬ侍たちが屯していようと知ったことか、己が命が全てである。打ち据えられ気絶していた者たちも目覚めるや否や状況の不利だけは機敏に察して走り去る。それはいっそ鮮やかにすぎるほどの。
 しばしの間を置けば境内に残されたのはかつての部下とかつての上司、一組だけだった。未だ組み敷いている相手に何を思うのか、刀を突きつけているとは思えないぐらい穏やかな声音で彼は問う。
「………何故」
 何故―――、と。
 微かに加えられた抑揚に疑問と確認の色合い。
 まさかそれが寺院内の会話から糸を引いているのだとは傍観者たちに理解できるはずもなく、ただ唐突に思える問い掛けの言葉。俯いた半兵衛の横顔は痛みに耐えているようにも見えた。
「何故あの時………私のもとへ来られませなんだか」
 声は極々小さいものだったにも関わらず聞き逃すことなく捉えられた。
 地に押し付けられた体勢のまま唇をかみ締めていた龍興は最初呆気に取られたように瞬き、次いで口元を歪めて濁った笑い声を上げる。
「笑わせる―――お前がそれを聞くか。いま? 此処で!」
「………」
「裏切り者め―――俺が、この俺が天下を望むとて、何故にお前のもとへなど行けようか………!!」
 カッ、と龍興の目が見開かれた。危機を察した半兵衛が素早く身を引く。

 ズッ………!

 もともと手にしていたものと異なるいまひとつの守り刀、密かに己が懐を探っていた龍興が一瞬の隙をついて斬りつけた。はらはらと数本の髪の毛が舞い散る。
「………っ」
 何故か半兵衛は押し黙り護身に使える刀を投げ捨てた。龍興が斬るに任せ、刹那の差で致命傷にならぬよう攻撃を避ける。頬を掠め手を掠め、足先を掠めゆく短刀には暦とした殺意が篭められているというのに、地に転がる幾本もの刀ですら絶対に取ろうとはしなかった。
 ずれた笑い声と共に龍興の嘲りが続く。
「私のもとへ来いだと? よく言える! 俺のもとには居れぬと抜けたはお前が先であろうが!! 城を奪い、そのくせ城内には何の手もつけず、懐柔策にも首を縦に振らず処分を甘んじて受けておきながら!」
 また、ひとつ。
 半兵衛の腕に擦り傷が増えた。刀の風切る音が耳に痛い。
「行けば頷いたか? 誘えば着いてきたか!? 城でさえ事足りぬと示したお前に何の報酬を以って迎えられようか!」
「………っ!?」
 初めて。
 半兵衛の表情に動揺が走った。
 ほんの僅か動きを止めて、襲い来る刀に我に返り慌てて飛び退いて、信じられないものを見るように。
「何も与えられない男にお前が着いてくるものか!!」
 悲鳴に近い絶叫。恨みや憎しみより、悲しみと絶望が領域を増した声。
 色を失くして半兵衛もまた瞳を閉じた。涙を堪え、痛みを堪えて歯を食いしばり―――。

 ドッ………!!

 視界が、朱に染まった。




 流れ落ちる鮮血は先ほどの比ではない。肌を伝い落ちるしずくは途切れず大地へ吸い込まれ黒い染みを広げていく。カタカタと武器を震わせ、歯の根さえ噛み合わないのは被害者でなく。
「な………ぜ………」
 加害者たる龍興は絶望に満ちた表情で己が手元を見つめていた。何故こんな真似をする、手近な武器をもって立ち向かえばこんな短刀一本、いくらでもへし折ることが出来ただろうに。
 防ぎもしなかったかつての部下の手に突き立つ刃。
 貫通した切っ先は手の甲の向こう側で真っ赤に染め上げられている。柄もとまで飲み込むように半兵衛は左手を押し出し、刀ごと龍興のてのひらを包み込んだ。交わった瞳の中に互いのどんな思いを読み取ったのか涼しげな顔の軍師は此処に来てようやく頬を歪め、眉間の皺も明らかに右の拳を振り下ろした。

 ゴッ!!

 力任せに左頬を殴られて龍興が吹っ飛ぶ。短刀は半兵衛の左手に刺さったまま取り残された。
「………貴方、はっ………!」
 苦痛。悲哀。諦観。絶望。
 泣きたくても泣けない軍師の頬は怒りのゆえか朱に染まっていた。普段の静けさから一変、まるで、道端に咲いていた可憐な野の花が突如鮮やかな紅蓮の花弁を散らすかのように。地に倒れ伏した龍興が魅入られたかの如く上体を起こし瞬きもせずに見つめている。
「貴方は………本当に、ただの一度も………訪れようとは思わなかったのか? 助力を請うためでなく、憎い私を殺すためにすら貴方は!」
「俺はっ!」
 応える声は震えていた。
「お―――俺には金も土地もない……お前を手に入れる手段がなかった」
 尚更つらそうに半兵衛が歯を食いしばる。
 誰が、いつ、そんなものを。
「誰がいつそんなものを望んだと!? 要らない、何も要らない。貴方が………貴方が居れば―――認めて、くれればっ………っ!」

(―――どれだけ証つづければ信じてもらえるのだろうと、そればかりを考えていた)

「城まで捨ててみせたというのに―――貴方には何も伝わらなかったというのか!」

 ―――慟、哭。

 涙はなくとも慟哭と称するに相応しい叫び。
 突き立てられた刃もそのままに右手で胸元を握り締め天に向けて絶叫する。倒れ伏した男は知らされた事実と逃した過去の衝撃に呼吸すら止めていた。
 は、と短い息を吐き。振り切るようにこめかみを抑えた半兵衛は、ゆっくりと手を伸ばして己が手に突き刺さった短刀を抜き放った。ばたばたと鮮血が地に落ちる。
 完全に色をなくした言葉が響く。答えはないと知りながら。
「………どうして………?」
 夢を語り助力を請い、与えられるものは何もないと最初から宣言した人間もいたというのに。
「秀吉殿は、私に、何の報酬も約束しませんでしたよ………」
「………」
 最早、誰も何も語ろうとはしなかった。
 自らの血で濡れた短刀を真っ直ぐに相手に突きつけた。
「―――去ねい」
 直前までの苦痛や苦悶の色など何処にも見せず、瞳は薄闇色のままたゆたい、面には水のような静けさを湛え。
 叩きつけたのはもはや惑わされることはないという最後通牒。
「貴方を見逃すのは、これで最後だ」
 次に会った時はこんな生ぬるい手段など選びはしない。使えない部下しか引き連れてこないなら悉く叩きのめすまで。いまの主の障害となるなら、邪魔をするなら、立ち塞がるなら、過去の繋がりなど忘却の彼方に追いやって恥じ入りはしない。
「貴方のために流す血も―――これで、最後だ」
 宣告された側はよろめきながらもどうにか立ち上がった。腫れ上がった頬を押さえるでもなくじっとこちらを見つめている。瞳は底の見えない漆黒、何を考えているのか読めない暗闇。
 突きつけていた短刀を再度握り直した。

「次に会った時は」

 ―――こころいためることなく。

「殺す」

 凛とした声が響き渡った。

 ―――瞬間、龍興の口元に刻まれたものをどう表すべきか秀吉はわからなかった。
 絶望と自嘲と満足と………幾つもの感情が入り乱れておそらく浮かべた当人ですらどんな心境かなど分かっていない。ひどく不吉な『次』を予感させる笑み。
 ザッ! と茂みを揺らして龍興の背が遠ざかる。確実に見えなくなるまでずっと刀の切っ先を向けていた半兵衛は、もう戻ってこないと思われる頃にようやく肩の力をゆるめた。のろのろと腕が腰の位置まで下がり、握力をなくしたてのひらから短刀が零れて大地に転がった。カラカラと境内に物音響く。
 誰もが無言を貫いていたが、意を決したように隣の影が動いた。
 戦いの手助けもせず傍観を決め込んでいた人物は淡々と足を運んで半兵衛の横へ並び立つ。彼も気付いているだろうに近づいてきたことを咎めるでもない。かつての主を見送ったばかりの青年は能面のような顔でじっと宙を見詰めている。怒っている訳でも泣いている訳でもない、胸を鷲づかみされるかの如き只管な静謐。
 人形のように整った唇からもれる呟きは。
「………愚か、だったのは私も同じか」
 抑揚のない声だったりするのでどうにも返しようがない。
「裏切りに等しい行為を働いておきながら召還されることを願い………高望みも過ぎるご都合主義だな」
「理解してもらいたくて必死だっただけだろ? 誰も責められやしないさ」
 さり気ない慰めに半兵衛は否定も肯定もせず、ただ、ぽつぽつと取りこぼす。
「―――理解、してもらえなかったのは………私の至らなさ故か」
 落ち込むのもいい、自省も反省も好きなだけするがいい、けれど、いま一番大切なのはそんなことじゃないだろうと長政は。
 やや首を傾げて相手に届くよう気をつけたため息。
 一歩引いた立ち位置からの呼びかけ。
「………なぁ。つらい時ぐらい泣いたらどうなんだ?」
 誰もが抱いていただろう思い。どれだけ悲痛な声を上げても決して軍師の瞳から零れ落ちることはないしずく。別に泣いたっていいじゃないか、秀吉はやたらよく泣いていた男を知っている。自らの分身がどれだけ信長の前で涙したのかを覚えている。
 こころなしか前屈みになっていた軋む身体を伸ばして半兵衛は長政を仰ぎ見た。相変わらず何の色も浮かんでやしないけれど。凍てついた頬を無理矢理にでも動かして形作る表情。
「泣きはしない―――それは、お前が亡くなった時のためにとっておくさ」
 ちょっとばかり虚を突かれて長政は少しの瞬き。思いもしなかった科白にさて、どう返したものかと考え深そうに指先を顎に当てながら浮かべるのは微笑。
「―――そうか。泣くか。恥も外聞もなくか」
「嗚呼、そうだ。見境なく泣く。一生分の涙を、お前のために流す」
 そして半兵衛はようよう深い色をした瞳をにじませて微笑んだのだった。
 果たしてその表情に安堵すればいいのか腹立たしくなればいいのか、聊か判断に迷いながらも取り敢えずはこれでよかったのだと秀吉は頷く。勝手に蚊帳の外に置かれていたようで腹立たしいこと限りないが、どうやら半兵衛は自分のことを主と認めていたらしいから満足しておこうと思う。
 龍興が来ていたら先に下山していたかも知れず、長政がちょっかい出していたら今頃浅井に居たかも分からない彼の所在。多くは偶然の産物だったとしても半兵衛が秀吉の中に主たる資質を見い出していたというならこれ以上の僥倖はない。

『秀吉殿は、私に、何の報酬も約束しませんでしたよ』

 当時の自分に取れた唯一の手段をまるで至上の出来事のように語られた。
 嗚呼、あんなものしか与えられなかったのに、それで良かったのかと。
 選択を間違えなかった己を誇ると共に価値観の違いすぎる相手に感じるのは微かな胸の痛み。あの言葉が彼の中で重きを置いていると知ったから、素気無くされているのではないかと拗ねるのはもうやめておこうと思う。
(ったく、あいつは………)
 胸中では罵声、口元に浮かぶのは密やかなる笑み。極力、小一郎や小六に気付かれないよう注意しながら秀吉もまた半兵衛のところへ歩み寄る。語り合いも大切だがいい加減見ていて鬱陶しいというのだ。
「―――おい」
 笑みは消した仏頂面のまま呼ばわるとふたりとも不思議そうにこちらを振り返った。特に長政なんていまのいままで秀吉たちの存在を忘れ去っていた顔をしたので実にムカついた。しかし今日の俺はおとな、本当はいつだっておとな、と謎の呪文を内心で唱える秀吉は決して突っかかったりはしない。無愛想な面をさらして自身のたもとを切り裂くと無造作に半兵衛の左手を掴んだ。
 さすがに痛かったのか半兵衛の頬が僅かに歪む。いい気味だ。
「ったく………傷の手当てぐらいしろってーの。いつまでも血なんか流してんじゃねーよ」
 グルグルと執拗に、これ以上ないってくらい厳重に。白い布がどんどん赤く染まっていくのでいっそのこと袖ごと巻き込んでやろうかなんて考えながら、密かに傷跡が残ったらどうしようかと恐れている。
 いまや正真正銘、自分の部下である人間を睨みつけた。
「―――なんとか言ったらどうなんだ?」
「え? あ、―――はい………」
 指先ひとつ動かせない自らの左手。布で全体を覆えばいいってもんじゃないのに、とは小一郎のさり気ないツッコミ。気にするなと小六のぼやき。面白いじゃねぇかと信長。
 どこか間の抜けたゆるい表情で彼はヒラヒラと団子化した左手を振る。
「手当てして頂いてありがとうございます。あ、でも、ちゃんと腱や骨は掠らないよう気をつけましたから、出血が多く見えても然程痛くはないんです」
「見てるこっちが痛いんだよ、馬鹿が」
「はは、それを言われるとつらいですね。………ところで、秀吉殿」
「なんだよ」
 視線を逸らす秀吉の頬は僅かに赤らんでいる。
 実際、この場にいた人間にしてみれば先の半兵衛の科白はなかなかに衝撃的だったので―――。
 城を与えても釣ることのできない男の捕獲に成功したのは地位も身分も確約できない単なる一兵卒。
 もしかしなくてもそれって結構、自慢に思ってもいいことなんじゃないだろうか?
 てな訳で皆がかなり注目していたというのに、ただひとり雰囲気が読めていない『これでも一応軍師様』な男は、動揺してたとしてもそりゃあないだろと傍らの友人に天を仰がせるような言葉をにっこり笑って言い放ってくだすった。

「一体、いつから其処にいらっしゃったんですか?」

 ―――輝かんばかりの極上の笑みに、周囲を凍りつかせた沈黙も僅か数秒。
「………っ!! のっ、大馬鹿野郎ぉぉぉ――――――っっ!!!」
 すっかり肩透かしを食らった第一級被害者が心底から絶叫した。
 まこと、『人情には敏いけど感情には疎い輩』というのは取り扱いに困るシロモノなのであった。




 今日も秋の空は青天白日。見上げる天上に雲ひとつなく吹き抜ける風も心地よい。仰々しい見送りは気が引けるからと派手な出立式は遠慮して、同盟軍にしては控えめな餞の儀をこじんまりと行えばこれもまた浅井の主たる長政の性格を反映しているのだろうと実しやかに囁かれた。
「―――もう、大丈夫なのか」
 出立前のひととき。
 屋敷の片隅で肩を並べる友に長政は気遣わしげに問いかけた。少し離れた場所では信長や秀吉が遠目にこちらを見守っている。一応、旧友の語らいとして水を挟まないようにしてくれているのだが、完全に野放しになった訳でもない。いまは同盟軍とはいえいつ敵方に回るかわからないのが戦国の世の常である。人柄が信頼されていようともそれとこれとは話が別だった。
「それは、まあ………な」
 苦笑して半兵衛は両手を掲げる。呆れ返るほど厳重に包帯が巻かれた手だ。特に左手なんて箸も筆も持てないぐらい指の先端まで覆いつくされて包帯の塊と化している。右手にもやはり無駄に包帯が巻きつけられていたし、よくよく見れば腕にも喉元にも胸元にも白い布を覗かせている。何も知らない人間が見たら「話に聞く埃及(エジプト)の木乃伊のようだ」と感心したことだろう。
「これだけ薬だの包帯だのを使われれば嫌でも治る」
「そっちはな。でも俺が言いたいのは―――」
「大丈夫」
 友の言葉にしっかと半兵衛は頷いた。瞳の端っこに総兵衛の気配も滲ませながら。
「お前のためにしか泣かない。だから大丈夫だ」
「泣きたい時に泣いておけと言いたいんだがな」
 お前の言い方じゃあ全然安心できない、不安が増すだけだとぼやきながらも表情は決して不機嫌なものではない。誰かに何かを捧げられると困り果てるだけなのだが、不思議と半兵衛たちから与えられるものは疎ましくなかった。
「元気でな―――っと、ああ」
 握手をかわそうとして相手には無理な真似だったと気付き、笑いながら半兵衛の背中に手を回す。軽く二度、三度と肩を叩きながらそっと耳元に囁いた。
「つい先日、龍興殿から朝倉に打診があったらしい………もしかしたら身を寄せるやもしれぬとな」
 抱きしめられたままの体勢で僅かに半兵衛の瞳が揺らいだ。
「ただ、いますぐではない。早くても年が明けてからだろう。―――大丈夫か?」
 覗き込んでくる長政は悪巧みを持ちかけるときの顔で笑っていた。
 龍興が何を考えているのかは分からない。一念発起して国取りに動き出そうとしているのか、単なる亡命なのか、わざわざ織田の同盟国である朝倉に身を寄せるとは内乱の種でも作る気なのか。
 少なくともこれまで潜伏していた彼の行動からは大きくかけ離れている。
「………悩んでも仕方ないことだな。だが」
 自分も相手の背に腕を回して抱きしめ返し、ひとの体温はあったかくていいなぁなんて感じながら半兵衛も相好を崩す。なんら自身に利のない情報を無条件に提供したりして、本当にこいつはお人好しだ。
「―――ありがとう」
 何故か知らないけど急に嬉しくなって抱きしめる力を強めればお返しというように相手からもきつく締め付けられた。終いにはゆるむ頬の筋肉を保つことすらできなくなって、互いに馬鹿みたいに笑いあって遠くの秀吉に呆れられた。
 小突き小突かれて何だよ何するんだよとささやかなやり取りを。
 自分と自分の分身を分け隔てせず付き合ってくれる数少ない人間を。
(長政。私は、私達は………)
 目的もなく彷徨っていたあの時期に得ることができた自分たちは本当に幸運だったと思う。離れていた時間の長さに関わらずこうして語り合える存在に出遭えたことを嬉しく思う。
(お前が―――お前が、だから………)

 流す涙のすべてをお前に捧げよう。
 返品不可、拒否も聞き入れない、こちらの勝手な思い込みだけれども。
 普段傍にいることのないお前に捧げられる『身体』の一部としてこの涙を。

 肩に押し付けた頬に感じる体温、背中に回した腕で感じる身体、微かに感じられるひなたの匂い。それら全ての、長政を構成している全ての要素を、しっかり記憶に刻み込んでおこうと半兵衛は思った。相手も同じ思いで抱きしめてくれていることを疑いもせずに感じながら。




 兵達の前で当主同士の挨拶、固く手を握り合いねぎらいの言葉と道中の無事を祈る科白。この時ばかりは信長の言葉にも嘘はない。先だっての騒動に関する抗議も咎める言葉も事情を説明しろとの要求もなく浅井家当主は密やかに胸を撫で下ろした。裏に何事かはあるかもしれないと気を引き締めながら義兄の顔色を見、探るだけ無駄かと踵を返した。
 遠ざかる隊列を手を振るでもなくただ見送る。これで京に駐留しているのは織田の軍勢のみとなった。現在、信長が本拠地としている岐阜を長く空けている訳にもゆくまいから数日の内に京都見廻りの役目が数名の武将に与えられることとなるだろう。その面子に秀吉が選ばれることを半兵衛は確信していた。
「―――おい」
 噂をすれば何とやら。そっと後ろから近づいた上司が視線を合わせないまま隣に並び立つ。どういった態度を取ればいいのか決めかねて彼はそっぽを向いている。
「一緒に行かなくてよかったのか?」
「はい?」
「長政とだよ」
 舌打ちで返されたけれども、どこをどうしたらそういった考えが出てくるのかとしばし半兵衛は考え込む。友達なら傍にいたいはずだと配慮してくれたのだろうけど。
「織田の同盟の証として行けない訳じゃない。いまから後を追って………どうにか」
「確かに、行けない訳ではないですけど」
 微苦笑を浮かべて主に応える。
「あいつと一緒に行きたいとは思わないんですよ。確かに傍に居れば楽しく思いますが、武士にとってそれが全てではないでしょうし―――仕えたい人物、とも違いますから」
「ふーん」
 そんなもんかねぇと秀吉は首を傾げた。
 半兵衛にとって長政は友人であるが傍らで仕えたい人物ではない。無論、傍に居られればそれはそれで嬉しいけれど、長政はしっかりした人間なので別に自分がいなくてもやっていけると思うのだ。彼はひとりで立てるから自分が支えなくても大丈夫。それは揺るぎようもない信頼。長政だって、半兵衛たちならどんな騒動に巻き込まれたって生き抜いていけると信じているはずだ。求められれば力も貸そう、知恵も出そう、けれどそれは、誰かに捧げる忠誠とは違う。
「いま私が仕えたいと思うのは貴方ひとりですから」
 見ていて気が抜けない、無条件で手を貸したい、夢を達成する手助けになりたいと願うのはただひとり。
 彼の夢を遮る者がいたならば己が手を汚してでもその芽を潰してやろうと考えている自分が居る。彼が信長に仕えるほどに純粋で熱心で盲目的な敬愛ではないけれど、したたかに密やかに絶えることなく抱き続ける想い。夢の途中で破れ、この命果てるとも後悔しないと思えるのはひとりだけ。

「最期まで御供仕りますよ、我が殿」

 半兵衛たちにとっては至極当たり前すぎる言葉だったので相手の返事がないのも特に疑問に感じなかった。そういえば伝え忘れていたことがあったなと思考は呆気なく切り替わり。
「秀吉殿、この間面白いご老人と知り合ったんですよ。今度暇な時にでも会いに参りませんか?」
 間もなく佐助と茜も京に戻るだろう。そうしたらちょっと息抜きがてらに町を散策し、伽藍老の言っていた宗易なる人物と面談するのも一興かもしれない。
 考えに没頭していた為か反応が遅れた。
「いま、なんつった」
「はい?」
「だから、いま、なんつったんだよ」
 不機嫌そうに口をへの字に曲げた秀吉の態度に戸惑う。自分は何か失言をしただろうか。
「―――面白い老人に会ったので今度暇な時にでも会いにまい」
「違う! それよりも前だっ!」
 本気でボケてるんじゃなかったら今頃引っ叩いてるぞ、と意味不明の唸り声。
 さてさて自分はこの主君を怒らせるような科白を吐いただろうか、と記憶を辿れば自らの一言一句までが思い出されて己の記憶力を恨みたくなる。あれが気に触ったのかと思っても口にしてしまったものは最早どうしようもなく謝るしかあるまいと腹を括る。
「あー………」
「思い出したか」
「ああ、はい。思い出しました。大丈夫です」
「なら、もっぺん言ってみろ」
 う、と半兵衛は言葉に詰まる。これはかなり不機嫌な証ではなかろうか。こう見えて寛大な秀吉は軽い悪口雑言なら見逃してくれるのだけれども、ただ、信長に対する批判や自身の尊厳に関わるような言葉に対してはかなり厳しかった。
『そんなに怒らなくても―――なぁ?』
 ちょっと本音が漏れただけなのに、と胸中では総兵衛が愚痴る。
「無理ですよ。もう言えません」
「言えないのか?」
「ええ、もう二度と言いません、反省してます。申し訳ございませんでした」
 踵を返して門前から屋敷の方角へ、秋の紅葉美しい木々の下を歩きながらどうやって切り抜けたものかなんて考えばかり、仰ぐ空が綺麗だなとここでも現実逃避をひとつ。足音荒く秀吉が後ろから付いて来るのが分かった。
「おいこら、ちょっと待て! 本当にもう言わないつもりか!?」
「しつこ―――じゃなかった、意地が悪いですよ、秀吉殿」
「俺は悪くない! 逃げるお前が悪い!」
 いつになく秀吉は食い下がる。
 ちょっとした失言をそこまで追及しなくてもいいじゃないですか、とぼやいて歩く速度を上げる。だがそれで振り切られる主でもなく、結果、ふたりして屋敷の周りを意味もなくグルグルと巡る。これじゃキリがないと先に音を上げたのは半兵衛だった。足を止めて振り向いて、降参したと手を挙げて。
「ああ、もう。分かりました、分かりましたよ。私が悪かったです。もう二度とあんなこと口にしませんから」
 主君は誰のものでもない。思い込んだり入れ込んだりするのは個々人の勝手だとしても、「自分のものだ」と宣言しているかのような所有格は行き過ぎだろう。一介の部下に「俺のもの」呼ばわりされたら普通は怒る。意外だろうが秀吉だって「俺の信長様」とまで言い切ったことは一度もないのだ。
「違う!」
 だからてっきりそのことを咎めていると思ったのに、彼の答えは予想していたものと違っていた。
「また言ってもらわなきゃ困るんだよ」
 完全に歩を止めて半兵衛は不思議そうに目を瞬かせる。予想外のことを言われた、と分かる表情に秀吉はにんまりと笑みを深くした。

「お前の主が俺ひとりに絞られたってことだろ? だったら、何度でも宣言してもらわなきゃ困るんだよ」

「―――そ」
 そんなの、ずっと前からですよ。
 答えようとしてハタと気付いた。自分はいつも彼を名前で呼んでいて、決して主君を表す単語で………おまけの所有格までつけて呼んだことなんてもしかして今までなかったんじゃなかろうかと。
 しかし気付いてしまえば一層のこと口にするのが憚られる。嘘偽りを語る訳でなし、恥じ入る必要はどこにもないはずなのに妙に照れくさいというか恥ずかしいといか別にいいんだけれども此処で「私は貴方のものですよ」みたいに告白するぐらいいつもなら鼻歌まじりに何度だって言えるだろうにどうも今日は勝手が違うと感じるのはもしかしなくても自覚してない言葉だったから?
 眼前ではすっかりふてぶてしくなった主が腕を組んでふんぞり返っている。
「どうした、言ってみろ―――まさか言えないなんて言わないよなぁ?」
「………随分と逞しい性格になられましたね、秀吉殿」
 こんなところで信長に似ないでほしいと切実に思う。
 でも、再度のため息の後に見た秀吉の表情が思いのほか真剣だったから、こんな言葉でも彼が喜ぶなら何度でも口にしていいんじゃないかと思えた。本音なんだから何度告げたところで色褪せたりしない。普段は感じない照れくささを一度咳払いすることで追いやって主君へ向き直る。
 ひたと視線がまじわった。
「―――最期まで御供仕りますよ。我が―――」
 その時。

「兄さ―――ん! 先生ぇ―――っっ! そんなところで何やってるの―――?」

 ガサガサと落ち葉を踏み散らしながら悪意のない闖入者は笑顔でふたりのもとへ駆け寄った。
「よかった、見つかった! もうすぐ信長様が今後の任務を割り振りするからって………あれ? 兄さん、どうかした?」
 実の兄は足元でガックリと膝をついてわなわなと肩を震わせていた。あれだけ緊張していた幕切れがこれでは同情するに余りある。起立した彼は憤懣やる方ない様子で叫んだ。
「うあ―――っ!! もう! 何なんだよ小一郎、お前は何なんだよ!? 折角もーすこしでこのいけ好かねぇ可愛げのねぇ素直じゃねぇきつねつきの鼻っ柱をへし折ってやれたものをぉぉ―――っ!!」
「へ?」
「千載一遇の好機だったんだぞっ!? 今後こいつがウカウカと口を割る機会があると思ってんのか、このボケェッ!!」
「なんかよく分からないけど、兄さん………取り敢えず、ご免?」
「謝ってすむことかいっ! しかも疑問系!?」
 罪のない乱入者、例えて言うなら「馬に蹴られて地獄行き」なみのことを仕出かしたと知らない人物は半兵衛を見て「この兄は何をそんなに激昂してるんですか」と首を傾げている。緊張の糸をぷっつり断ち切られて脱力したのはこちらも同じだが、計ったような偶然の割り込み具合にもう笑うしかないではないか。
 唇が刻む笑いを隠そうともしないで軽く秀吉の肩を叩いた。
「まぁまぁ、秀吉殿。つまりはそういうことで」
「何がだ!?」
「安心してください。こころの中では何万回でも唱えてますから」
「それじゃ意味がねーんだよっっ!!」
 笑いながら彼の背を押しやってさぁ仕事でもしましょうと促せば、俺はもう今日は働かない、お前が全部やれとやっぱりご機嫌斜めのご主人様。宥める弟と部下に挟まれて秀吉は不平不満を述べながら、それでも敬愛する主君のもとへとこころなしか足を速めて、途中で合流した小六に片手をあげて答えながら。
 過ぎていく日常はこの風景かと、ただただ零れ落ちるは喜びや愛しさやぬくもりといったものばかりで、此処にこうして在るもの全てが大切に感じられてならない。一度のぼった太陽は沈み、満ち足りた月はいつか欠けると知りながら、この先どのような道が待ち受けていようとも切り抜けていけると強く信じた。
 吹き抜ける風に煽られて枝についていた葉が一枚、舞い上がった後に地に落ちた。




 頬切る風には僅かながら冬の気配。やや後ろから馬を走らせながら目線で追うのは主君の姿。
 小高い丘に来たところで先頭の馬は歩をゆるめ、隣に並び立つよう主は手で招いた。視界の先に見えるのは広大なる大地、正面の山腹に覗くのは稲葉山城。現在の城主がこんなところで僅かひとりの護衛のみで遠乗りしていると知られれば大変なことになるだろう。
「如何にする」
 前触れもない問い掛けはいつものことだ。
「わしが、稲葉山城をお主に与えるとしたら如何にする」
「興味がございません」
 この主君に取り繕った世辞や遠慮は必要ないと知っている。言葉の端に誤魔化しを少しでも覗かせたならば即座に自分の首は宙を舞うだろう。素直すぎるが無欲にもすぎる言葉にただ男は笑った。
「美濃は交通の要所ぞ。此処を支配すれば東西の交流において重きを成せるというのに興味がないとは策士たる者の言葉とも思えぬ」
「要としての山城に興味はございます。されど、いま貴方様が仰られたような意味での興味ならば微塵もございませぬ」
「ほう?」
「城を支配するに意欲は湧きませぬ」
 そうか、と男は少年の声に興味深そうに顎を撫ぜ更に先を促した。
 促されるままに彼は言葉を紡ぐ。
「城を得たならばそれに執着しそれに留まりそれに命をも左右される。ひとは違うと申しましょうが私にはまるで城に縛られ城に仕えることのように思えてなりませぬ」
「其は、如何に」

「―――私は、城に仕えるよりも人に仕えたいのでございます。義龍様」

 ふ、と主は笑い、年若い部下の言葉に満足したのかそのままの表情で改めて眼前の光景を眺めた。
「なるほど。しかしその思い、龍興に通じるかな?」
「………」
「あれはひとに欲があると信じて疑わぬ性分よ、なればこそ主とは反りが合わぬであろうな」
「私にも欲はございます」
「俗世に向けた欲ではないであろうが。精神や生き様といった目に見えぬものに価値を見い出せるほどアレの考えは成熟せぬであろう」
 我が子に下す評価としては冷たいと言っていいのかもしれなかった。だが時は乱世、下克上。子が親を殺すことですら珍しくないこの時代、我が子とて敵になる可能性があるからと用心せねばならぬことは奇しくも義龍自身が証明していた。
 真っ向から睨みつけても物怖じしない少年を彼は気に入っていた。
 だからこそ、いずれ我が子と彼が分かり合えずに終わるであろうことも見越していた。息子でさえ怯えて顔を逸らす義龍の眼光を、少年は真正面から受け止めて逃げるということをしなかった。その時点でどちらの器が優れているのかなど彼の目には明らかだったのだ。
「自身の価値観、自身の信念、自身の望み。その生き様―――何処まで貫けるかな?」
 問い掛けに少年も今度は笑みで返した。天に捧げる指先ひとつ。

「―――空が見える限り」

 強がりでも愚かさ故でもない返答に彼は満足いくまで笑った。
 腕を伸ばし少年の肩を引き寄せる。眼前の大地に顔を向けさせて言い放った。
「よくぞ申した、竹中半兵衛重治! その生き様―――最期まで貫いてみせるがいい」
 この国のどこかに少年を扱える人材が眠っているに違いない。惜しむらくはそれが自身の息子ではないらしいことだけだが、能力を生かしきれない主のもとでいつまでも羽根を畳んでいるべき存在ではないと思う。考えの甘い彼はおそらく直前まで龍興を見捨てることが出来ずに悩むだろうが、いざとなれば全てをぶち壊してでも出て行くだろう。
 それでいい。
 それが気持ちいい。
 これこそはいずれお前が手にする世界、目にする時代、求め与えられる未来。
 少年は掴まれた肩を振り解くことなく魅入られたように静かな視線を前方へと注いでいた。

 前へ。
 ただ、前へ。

 地平に広がる白い雲の向こう側。

 どこか遠いところで、鳥が一際美しい声で高く啼いた。




 

参 ←


 

気分的にはこれで第一部完(あくまでも「気分的には」)ですv

タイトルの『啼かずの鳥』はそのまんま半兵衛を表しています。
鳥のモデルは特になし。外見は孔雀みたいなのを想像して書いてました。
作中で出てきた長政の例え話ですが、役割分担は
「前夫=龍興」、「妻=半兵衛」、「鈍い夫」=「秀吉」
となってました。ひどい配役だ(笑)伽藍老人のところに訪れたふたり組みは勿論、佐助と茜です。
『天韻』とかはデタラメなんで信用しないでくださいねーっ。

・竹中半兵衛(総兵衛)

意外なる事実発覚! 実は半兵衛と龍興は両思いだった!(語弊あり)

 どーやら彼は龍興を完全に見限ることも出来ず「呼ばれたら行こうかなー」くらいは思っていたようです。
さすがに殺されてやるつもりはなかったでしょうけど。
シリーズ中で秀吉が「半兵衛は菩提山で誰かを待っているようだった」と語るシーンがありましたが、
実は待っていたのは秀吉でも長政でもなく龍興だったというこのオチ☆
しかし待ち人は来たらず、今回の騒動で吹っ切れたので今後の彼は秀吉にベタ甘になる予定です(これまでとおんなじか?)

・木下藤吉郎秀吉

原作ではカッコよかったのにどうして『きつねつき』ではこうなるかな(汗)
作者の都合で振り回されている一番の被害者。
半兵衛が自分についてくると辛うじて信じることが出来たのでかなり自信を取り戻してます。
でも今後も過保護になったり拗ねてみたり、あまり成長しない描写が続くと思われます。
ちなみに次シリーズがはいきなり秀吉の浮気から始まります(待て)

・斉藤龍興

「強欲な人間は無欲な人間を前にすると慌てるしかない」という典型的な例。
何をあげても「要らない」って言われるからどうしたらいいのか分からなくなっちゃうのよネ☆
決して無能ではなかったけれど人を見る目に欠けていたのが敗因か。
相性の問題もあるでしょうし………今回は比較的マトモな性格でしたが、以降の彼は坂を転がるより早く
自我崩壊もどきの道のりへアディオス・アミーゴです(ワケわかんないよ)

・浅井長政

活躍もここまで最期の徒花(え?)
この後は歴史どおり死へ向かって一直線ですから………半兵衛と友達づきあいしてられるのも最後。
幾らイチャついてたって仲良くたってこの後のふたりは○○○○って最初から決めてるから
今更変更はきかないんだもんね。 ← 鬼。

・信長、小六、小一郎、犬千代

「活躍させてあげられなくてゴメンナサイ」組み(苦笑)
特に殿なんてこの後岐阜に引っ込んじゃうしなー。
でも要所要所では出てきますのでお待ちください。ファンの方々、すいませんです。

・伽藍、宗易、山吹

「次回以降へ持ち越しキャラ」。
伽藍は舞踊・音楽関係で、山吹は半兵衛の義妹という設定で出てきます。
でも彼女が登場するのはだいぶ先なんだ………とてもそこまで書き続けられるとは思えん(汗)

 何にせよここまでお付き合いくださった方々、ありがとうございました〜(お辞儀)

 

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