己の前では決して啼かなかったものが動きもしなかったものが応えもしなかったものが。
 確かに求めに応じて願いに対して呼びかけに戻って。
 歌う。啼く。奏でる。
 それはいっそ艶やかで鮮やかに過ぎるほどの衝撃。
 父が感嘆の声を漏らすのもどこか遠く聞こえる。少年は悲しそうな笑みを浮かべながら言い切った。

「鳥は―――飛んでこそでございます」

 満足げに頷く父は、少年がこのように答えると予測していたのかもしれない。鳥を啼かせることができると見越していたのかもしれない。実の息子にさえ見せたことのないような親しみと信頼の篭もった瞳で眼前の相手を見つめている。
 少年がすっと腕を掲げて切り出した。
「褒美を、くださると仰られましたな」
「うむ。何が欲しい。金か、地位か、名誉か」
 女でも領地でも望むだけ与えよう、ああ、されど女は不要か。安藤の次女と婚約していたなと挑発し。
 そんな誘いに乗ろうともせず少年は冴えた笑みを閃かせた。
「ならば、この鳥を私にくださいませ」
「なに?」
「この鳥は貴方様のもの。ならば、この鳥を私にお譲りください」
 控えめに過ぎるだろう要求に父は黙って頷き、了承を得た者は朗らかな笑みと共に指先を天に伸ばし。
 早速、とばかりに。
 くだんの鳥を天へ舞い上がらせた。頭上を旋回する姿が徐々に小さくなり、少年は更に促すように口笛を吹く。鳥は一際高く啼くと強く羽ばたいて天空を真横に切り裂いた。点よりも小さくなる姿を見て少年は満足そうに手を下ろす。もう、此処に戻ることもないと呟いて。
「何故、逃がす」
「何故と申されましても」
 主の問いに返すのは引かない瞳と揺るがない意志と。

「鳥は飛んでこそでございます―――義龍さま」

「見事なり、竹中半兵衛」

 父の賞賛が胸に重く響いた。




 ―――ああ。
 美しい声で啼く鳥がいた。だから捕まえなければと思ったのに。
 捕まえても手に入らず、投げ捨てた先で拾われて生き返ったその音色を自身のものにできる筈もなく。
 父に信頼されている者に、鳥を啼かすことのできる彼に、価値あるものをあっさりと捨てられる少年に。
 堪えようもない感情が高ぶって龍興は我知らず唇を噛み締めた。

 お前が悪い、お前が悪い、お前が悪い。
 お前はいつだって俺のものになってくれやしなかった。

 


啼かずの鳥 ― 参 ―


 

 追いかけようと思いついたのはただの気紛れだ。茶店から出て行く影を見かけた時、何故だか着いて行かなければならない気持ちにさせられたのだ。常ならば信長の傍から離れようなどと思いもしないのにこの時ばかりは気になって気になって、気が急いて。迷っている背を押したのは他でもない主自身。
「何やってんだ。とっとと行くぞ」
 てめぇが行かないなら俺ひとりで行くぜ、と、秀吉の困惑など知らぬ顔で歩き出す。背後で支払い中の小一郎たちに一声かけて駆け出した。黒服の男は既に行方が分からなくなっているので殆ど当て勘だ。碁盤の目のように引かれた十字路の数々を運試しの如く右へ左へと切り分けてゆく。外れへとたどり着いた頃にはさすがに間違えたかと落胆しかけたのだが、丁度向こう正面からよぼよぼと近づいてきた弾き語りの老人に、やはり不思議と目が行って。
 知らず主君に追いつき追い越して、自らが先導するような位置に立ちながら老人を呼び止める。
「失礼、ご老人。つかぬことを伺いますが、この辺りで若いふたり連れの侍を見かけませなんだか?」
 問いかけると値踏みするかのような視線を寄越し、首を傾がせて相手は逆に問い返してきた。
「追いかけてどうなさるね?」
「―――会ったんだな」
 知らないとは言わなかった。そこから勝手に判断を下して。
 詳しい場所など聞かぬままこころが急かすまま足を動かした。背後で老人が「どうも今日は妙な連中にばかり会うものよ」と呟くのも聞かぬふりで。
 駆けつけた先、遥か遠くに透かし見える十字路の角で身を潜めるようにしている人物を認めた。こちらも息を殺すようにして近づいて、姿かたちを改めればやはり己が捜していた者たちの片割れに相違なく、しかし、ならば何故と。
 何故に連れの姿が見えないのかと眉をひそめる。不審も露に呼びかけた。
「………何やってんだ? こんな所で」
 角でこそこそと隠れていた人物―――浅井長政は驚きこちらを振り返り、相手を確認するとため息と共に顔を覆った。どうして此処に居るのかと言葉にはされずとも思いを表情から読み取ることは容易かった。だが、こっちだって聞きたい。視察と称して出かけた連中がどうしてこんな都の外れで身を隠して、しかも単独で行動していたりするのか。
 自らが責められる道理はないと秀吉は居直る。
「―――珍しいところでお会いしますね」
 切り出した声は自分でも厭味っぽかったと思う。脱力した長政は再度ため息をついて、私こそ貴方がたが此処にいる理由を伺いたいですよ、とぼやいた。
「視察です」
「そんな大人数で?」
「殿の護衛にはこれでも少なすぎるくらいです」
 事実である。参ったなあと長政は重い腰を上げて後ろを振り向いた。秀吉にとっては正面に当たる方向には、しかし、何も確認することができなかった。どうしたものかと腕を組んで抱え込むのは主君の義弟。
「どこまで話していいものやら迷うのですよ。貴殿らを巻き込んだとあれば後で私が半兵衛に首を絞められる」
「こいつを巻き込んだら、だろ?」
 こいつ、のところに力を込めて信長は笑いながら秀吉の頭をぐりぐりと押さえ込んだ。かなり痛い。
 長政はそれに苦笑で答えて、どうやら事と次第が飲み込めているのは主君たち義兄弟だけらしく、頭に肘鉄くらってる秀吉や、遅れて辿りついた小六や小一郎には全く事情が飲み込めない。主君とふたりして分かり合ってる長政はやっぱり気に食わない奴だと秀吉は内心で歯噛みした。
 ふと笑いを収めて長政が真面目な顔つきに戻る。
「………もう、行かなければなりません」
「何の説明もなしでか」
「ええ。でも、跡を誰がたどってこようとそれは私の感知するところではない」
 つまりは黙ってついて来いということらしい。言いながらも彼はまだ悩んでいるらしく、そっと右手で首の後ろ辺りをかいた。
「正直―――どうしようか、と」
「何がだ」
「あいつの許しもなしに私が勝手にベラベラと内情を喋る訳にもいかんでしょう。手出ししないと約束してくださるなら案内ぐらいは構わない、と、これは個人的判断で思うのですがね」
 そこで彼は信長に向けていた視線を秀吉へと移した。
「知らせておいた方が良いという気もします………裏で何かを企んでいる訳でもなし」
 もったいぶっているとしか思えない科白にまた秀吉の眉間に皺がよった。好き好んでしかめっ面をしているんじゃない、が、どうも長政相手だと眉間が強張る。むかしはもっと簡単におざなりの笑みを浮かべられたのに最近は感情が表に出やすくて困る。
 無言で歩き始めた長政の後ろを大の男が何人も引っ付いていく。傍から見ればかなり奇妙な光景だったことだろう。
 腰掛けるのに丁度良さそうな岩が散らばっている辺りで案内人は不意に屈みこんだ。そこに先刻まで軍師殿が座していたのだと他の面子には知る由もなく、彼はしばし地面に手を這わせると、小さな赤い物体を拾い上げた。指先に挟んで持ち上げたものを秀吉たちに掲げてにっこり笑う。
「道しるべ、です」
「小石が?」
「色をつけてあります。他とは少しだけ違うでしょう?」
 言われてみれば光沢が若干異なるようにも感じられた。しかしそれは些細な違いに過ぎず、教えられなければ気にも留めないただの小石でしかなかった。
「わざと穴をあけた袋にこんな石を幾つも詰めた後で袋を足に巻きつける。そうすれば歩く度に一定間隔で小石が落ちる、という訳です」
「隠密が使いそうな手だな」
 とは、信長の感想である。忍びはさりげなく地面に跡を残したり、五色米を使ったりすることで仲間に道を示すと聞く。だとすれば確かにこれも忍術のひとつと言えなくもなかった。
 今回は仕掛け人こそはっきりしているけれども行く先に何があるのかは長政しか知らない。秀吉はやはり不機嫌な表情のままで口を開いた。
「行った先に、何があるんです?」
「………さぁ」
 彼は困ったように眉を顰める。
「投げ込んだ餌にどんな魚が食いついたかは、釣り人自身にも引き上げてみるまで分からない」
 ため息をつきながら半径数尺以内にあるであろう次の目印を捜していた。




「お久しぶりです………斉藤、龍興殿」
 薄暗い荒れ寺の中、正直な喜びをのせて呼びかけたものの相手には何の感銘も与えなかったらしい。逆に周囲の方がこの状況でなんと暢気なと呆れ、次いで告げられた名がどこかで聞いた気がすると首を傾げている。相手が答えないので半兵衛もしばし黙り込む。かつての主の姿を前にして我知らず表情が沈んだものとなった。
(随分と………変わられた………)
 もとより龍興は大柄な人間ではない。がっしりとした体格だった義龍と比べれば息子は幾分控えめな体をしている。それでも鍛えられた肉体は筋骨隆々という表現に値するものだったし、よく言えば快活で大雑把な性格は底抜けするような笑みによく似合っていた。確かに彼は半兵衛のことを青瓢箪だの女顔だの腰抜けだのと罵ってはくれたが、決して半兵衛自身は彼を嫌いぬいてはいなかったのである。
 だが、いまの彼には美濃の城主だった頃の面影は微塵も感じられない。
 頬が削げ落ち眼光は暗く鋭く、髪は乱れ、煤汚れた衣服にかつての豪奢さは見る影もない。大小を腰の辺りにかろうじて武士の名残として留めているが、正直、これをかつての『斉藤龍興』と同一視するのは昔馴染みでも難しい。よく見ればわかるがすれ違ったくらいでは『鋭い目つきをした野武士』としか思えない。ある意味で朗らかだった表情は消えうせ、代わりに捻じ曲がり卑屈に押し込められた、悪い側面ばかりが全体に押し出されてきたようだった。
「お元気そうで何よりです」
 改めて言葉を搾り出して。
 ………耳を傾けてくれる可能性は限りなく低いと気付いた。決して彼を貶めたい訳ではないのに、あの頃とほとんど変わらない半兵衛の外見は彼にとって厭味でしかないだろう。眼前の人物は虚ろな暗い瞳でじっとこちらを睨みつけている。奥底にゆらめくは恨みか憎しみ、少なくとも好意的な色ではなかった。
「―――よく、言う」
 久方ぶりに聞いたかつての主の声はすっかりしわがれてしまっていた。横柄だの我侭だの乱暴者だと言われながらも通りの良かった声音もいまは衰えて、さては信長に追い立てられた際に喉でも痛めたかと僅かに瞳を伏せた。
「相変わらずだと俺を揶揄するのか? ―――てめぇが仕出かしたことを何だと思っている」
「………そうですね。確かに褒められた所業ではないでしょう」
 あっさりと半兵衛は頷き返した。
 数年前、己は稲葉山城を僅かな手勢で乗っ取ってみせた。建前としては主に美濃の窮状を理解してもらうためだったが実を言えば理由はそれだけではない。後で思い返してみれば出奔の理由や不甲斐なき夫を持ったと謗られ続ける妻への恩返しにも転用したし、計画の始まりは忠誠心でも国を憂うためでもなく、これだけのことをしても駄目ならばという賭けに近い覚悟だった。結果、己は追放されたまま危急の際も呼び戻されることなく賭けに負けたのだが―――でも、思いついた時の自分は、確かに。
 ―――どれだけ証つづければ信じてもらえるのだろうと、そればかりを考えていた。
『建て直しはできたはずだしな………』
 総兵衛の言うとおりである。
 自分は稲葉山城を乗っ取りはしたが領地の支配まではしなかった。城の財宝には手をつけず、内装も荒らさなかったから使うに支障はなかったはずだ。おまけにその後の半兵衛は謹慎を兼ねて越前へ出奔していたのだから、城内の勢力を取りまとめて体制を整えるに問題はなかったと思う。
 なのに手を拱いて。急ぎ領土内の収集を図るでもなく、再び無意味に時間を浪費して。
 内外に美濃の窮状を曝け出した。そこで彼が指導力を発揮すれば以前にもまして美濃の結束は強まるはずだったのに、右往左往している間に部下たちは龍興を見放した。半兵衛の思惑とは全く逆方向に事態は動いてしまったといえよう。
(本当に、この方とは相性が悪い)
 苦笑する他はない。
「何を笑ってやがる」
 しっかり見咎められて更に笑みを深くした。
 本当に………。
 ―――相性が、悪い。
「確かに………私も少しやりすぎたか、と思ったのですが」
 両脇の男たちは展開が読めずにしきりと首を傾げている。金に敏いのが浪人という人種であるが全ての情報を知って行動している訳ではない。彼らにしてみれば滅んでない国とこれから滅ぶ国と滅びそうにない国の見分け方が重要で、稼げそうな場所なら其処が戦場であろうと町であろうと何処であろうと。
 龍興が己の身分を隠して彼らを雇ったならば展開が飲み込めずとも仕方あるまい。半兵衛の名前すら彼らは知らされていなかったのだから。
「貴方こそ何をやっているのです」
 低くなった声音に龍興の眉が跳ね上がる。咄嗟に手が腰の刀に伸びていた。
 身体を縄で拘束されたままの状態で、しかし半兵衛は慌てない。
「こんな場所でこんな連中に貴重な資金を使うなど愚の骨頂。どうせ雇うならもっとまともな人間を選ぶべきです。都でたむろし弱者を甚振るしか脳のない輩を引き連れて何とします」
「なっ………!」
 気色ばんだのは半兵衛を拘束している男たちだ。さすがに馬鹿にされたことは分かるのか、掴んだ縄に更に力を込めた。
「ふざけやがって、こいつっ!!」
 力任せに縄が引き絞られる。そんなものなど何処吹く風、と半兵衛の視線は前にのみ向けられていた。龍興の目はいまや漆黒に染め上げられている。ただでさえ薄暗い寺の中、一層濃い衣と瞳をもって男は言葉を吐き出した。勢いはない、けれど、地に沈みそうなほど重たい声。
「―――なに、言ってやがる」
 はっとなって男たちが縄を掴む手を緩めた。恐れているらしい………浪人たちをまとめている龍興の実力に嘘はないということか。まだ救いはあるようだな、と総兵衛は内心で一言こぼす。
「なに言ってやがるんだ………あぁ!?」

 ダン!!

 腰から抜いた刀を鞘ごと床に叩きつける。半目に憎悪、まるで仁王の如き形相。
「誰の所為でこんな目に遭ってると思ってんだ、えぇ!? このきつねつきが! 金も! 女も! 地位も! 栄誉も! てめぇが奪いつくしておきながら今更ナニ抜かしやがるっっ!!」
「美濃を取ったのは織田信長ですよ」
 私の如き人間が起こした仮初の反乱が美濃の趨勢になんの影響を与えましょうぞ。
 涼しげな顔で応えれば相手はギリと歯をかみ締める。唇に浮かべる嘲笑は歪んだ色を滲ませていた。
「白々しい………俺がどんな苦渋を味わったか分かってねぇな。従者どもは俺を侮り! 部下どもは俺を嘲り! 領民は俺を愚か者よと罵った! 兵は俺の命を聞くよりはと他国へ走った!!」
「取り返せないほどの失態ではありませんでした」
「黙れ! 虫唾が走る!!」

 バギッ!

 床板が悲鳴を上げて突きぬかれた。
 荒い息をつくかつての主君を冷静に見つめながら半兵衛は問いを発した。
「―――それで、復讐ですか?」
 龍興が面を上げる。
「逆恨みした挙句の報復ですか。私などを捕らえて何とします」
 その言葉に僅かながら落ち着きを取り戻したらしい相手は刀を床から引き上げた。強く唇を引き結び、これ以上ないくらいのしかめっ面で、ギラギラと両の眼を憎しみで濁らせながら。
 激しく棘のある口調で言い放った。

「………俺のもとで働け」

「これはまた―――」
 数瞬の沈黙ののちに半兵衛の口から漏れたのは失笑。言うに事欠いて、とはまさにこの事である。
「私が素直に膝を折ると思うのですか」
「はっ! 誰が『てめぇ自身』を望むか! 俺が欲しいのは名前だけだ!!」
 ―――ふぅん。
 そういうことか、と半兵衛は目を細めた。
 現在の自分は織田信長の客人として木下藤吉郎秀吉のもとに仕えており、本人は紛うことなく秀吉の部下のつもりでいるが、不本意極まりないことに世間から見ればやはり半兵衛は織田信長の配下なのである。『美濃を奪った織田信長』に仕える軍師・竹中半兵衛が『美濃を奪われた斉藤龍興』に河岸を変えたとなれば、なるほど、彼の胸はすくだろう。
 龍興は半兵衛の手腕や能力に期待している訳ではない。ただ連れ回すことができれば―――結果、世間が彼の望むような評価を下したならば。
 それだけで彼の誇りは幾分回復される。
 高い志がある訳ではない。仕えるのが『この』半兵衛である必要もない。そっと目を閉じた。
「私が戻ったからといって、過去まで戻る訳ではありませんよ」
「―――」
「私を連れて………それで? それで、どうすると。何かするつもりですか。美濃奪回のふれでも出しますか。他国に協力を要請しますか。織田への反乱軍に手を貸すのですか」
 返されない言葉にため息すらつく気力もなく、ぽつりと呟いた。
「―――何も考えてらっしゃらないのですね。何の未来も、展望も、夢も、野望も、目的も………」
 京に潜伏していたくらいだ、何もしていなかった訳ではないだろう。
『だが、それを総兵衛たちに話して聞かせるつもりはない。語ることで説得しようとは思わない』
 そう―――だから、それが問題だ。
 己が度々主を変える人間に見えるのか、黙って付き従うと思っていたのか、まるで、かつての美濃でそうだったように。
(―――嗚呼、本当に)
 何故、いまになって。
 呟きは誰の耳にも届かなかった。代わりにしっかと発せられたのは「下らない」という貶し言葉。龍興の顔がまた醜く歪められた。
「下らない。愚かしいにも程がある」
「あぁ!?」
「この手勢にしたって、ね」
 口元に浮かぶ冷笑、あるいは嘲笑。半兵衛の表情としてはひどく珍しい、それ。
 手勢、というところで両脇の男たちをあご先で指し示す。
「有象無象のどうにもならない類だ。どうも貴方は、信用できない百の雑兵よりも信頼に足るひとりの兵士を雇えと教えたことを覚えてらっしゃらないようですね」
 龍興の顔が憤怒と羞恥に赤く染まる。
 こんな連中の前ですら虚勢を張りたがるのか、痛いところを突かれると怒り喚き散らす癖は相変わらずかと評価を下しつつ。
「教えてあげましょうか」
 ため息まじりの科白。伝わるはずもないと理解しつつ口をついて出るのはこころ砕いた言の葉の数々。いままで一度だって相手が素直に読み取ってくれたことはないのに。
 さすがに繰り返されるだけで解決の糸口も見い出せない関係に諦観と寂寥、皮肉そうな笑みは己自身に向けたものだ。
「私を雇った時の秀吉殿の手勢だって褒められたものではなかった。ようやっと数百の雑兵、足りない武器、日々血反吐を吐きながら―――でも」
 周囲の視線や圧力を物ともしない強い意志と行動力。信頼しあえる部下や家族、彼を主と慕う武家の子や墨俣で笑みと共に語られる彼の名前。
 たとえいまは小さくとも、いずれは全てを巻き上げて頂きへと登りつめる炎のように。
 微笑んだ。
 眼前の人物ではなく、思い描く主のために。

「貴方ではあの方の足元にも及ばない」

 ―――ゴッ!!

 途端、刀の柄で顔を殴られてよろめいた。倒れこむなんて情けない真似はするはずもないけれど。
『動けない相手を殴るか………武士の風上にも置けないな』
 捕虜に非道を働くのは忌むべきことと自分は考える。戦時においても丁重に扱うのが良し。事実、秀吉のもとで捕らえられた捕虜達は破格の待遇を受けている。飯を与え、傷の手当てをし、居心地のいい部屋を用意する。だからこそ後の秀吉の説得も意味を成す。
(殴らせてやるのは餞別がわりだ)
 そういうことにしておこう。
「馬鹿にするのも大概にしておけ………っ!!」
 いまや龍興の目は血走り、握り締めた刀はガタガタと震えていた。食いしばった唇の端から血が滲み、悪鬼もかくやとばかりの顔つきに控えの男たちが恐れも露に数歩引き下がった。
「信長のもとで這い蹲ってるだけの奴に俺が劣るだと!? 女にうつつを抜かし、上司に媚びへつらうだけで大した武勲もないサルじゃねぇか! 俺を捨ててまで仕えるほどの価値があるとでも言うのか!!」
「確かに、浮いた噂の多い方ではあります。武力に秀でた訳でもありません」
「幻想を抱いてるだけだ! 理想の主君など居るはずがない!!」
「たとえ幻想でも」
 巷に広まる噂だけが全てではない。身内を大切にし、主君に付き従う一途さを秘め、人の長所を受け入れるだけの度量もある。
 斉藤龍興が世間で言われるほど愚かではなかったのと同じことだ。
「主の資質も部下の能力も自身の立場も、いまの貴方とは比べるべくもない」
「美濃の麒麟児がついているからとでも言いたいのか!?」
「いいえ。けれど、あの方のもとでなら私も実力以上の働きを見せましょう。ひとりの人間が百の兵に勝ることを証明いたしましょう」
「証せるというのか、いまのお前に?」
 囚われて身動きすることすら叶わないいまのお前に。
 龍興が一層笑みを濃くした瞬間だった。

 ―――ガッッ!!

 鈍い音をたてて両脇の男が壁際まで吹っ飛んだ。慌てて立ち上がった連中のひとりを右手で、ひとりを左手で掴めば掛け声ひとつ、投げ捨て扉をぶち破った。境内に投げ出された男たちと、突然降ってきた仲間に驚いた野武士たちのどよめきが伝わる。
 驚愕に目を見開いたまま口も聞けない龍興に静かな視線を一瞬だけ注ぐと、半兵衛はすぐまた外へ目をやった。いつの間に解いたのか足元には先ほどまで身体を拘束していたはずの縄が蟠っている。僅かに赤い痣を残した両の手首をひと撫でし、大の男ふたりを投げ飛ばしておきながら息を乱すでもなく、龍興に背を向けたままの姿で。
「一騎当千―――」
 それが問いに対する答えなのか。
 得意ではない。でも、証明せよと言うのならば行うのに吝かではない。これで思い直してくれれば話は簡単なのだ。
(………そうはならないだろうが)
 また少し、瞳を伏せて口元に刻む苦笑。
「証を立てられるか否か。貴方が判断を下せばよい」
 広くもない扉の前に怒り狂った野武士たちが立ち塞がる。刀も持たぬ、女のような顔をした青二才に投げ飛ばされたことがなけなしの自尊心をいたく傷つけたのだろうか。もはや一対一などと温い話をする余裕はないらしく、誰もが手に武器を握り締めて半兵衛を睨みつけ、仮の主たる龍興の意向を伺う様子はどこにもない。
「―――下がって」
 利き腕を前に、左手を脇の傍に、素手のまま。
 無形の位で野武士たちと対峙する、その様はまるで主を守護するようでもあった。




 慎重に道をたどり周囲を窺い、誰にも跡をつけられていないことを確認しながらの行程。油断なく目を光らせながら歩く様は人目を引いただろうが、さいわい誰からも見咎められることなく、いつしか都の外れまでやって来ていた。ところどころで覗ける辻の向こう側では気力の失せた野武士や飢え死にしかかっている子供たちが居たりしてあまり気持ちのいい場所ではない。こんな場所で妙な輩に因縁つけられたりしたら後始末に苦労しそうだ、と秀吉はまたため息をひとつ吐いた。
 目印がわりの小石は未だ点々と落ちていたが、その助けを借りずとも目的地は大体見当がついた。前方に待ち構えている荒れ寺。目ぼしい建物といったらあれぐらいしか見当たらない、となれば人が集まる場所も自ずと限られようというものだ。
(一体どうするつもりだ)
 押し黙ったまま前を行く人物をねめつける。親友が囚われているというのに浅井長政は全く慌てるということがなかった。視線を脇に転じたり、足元の花に目をやったりしてわざわざ時間を稼いでいる印象さえ受ける。たとえ半兵衛に手出し無用と言われていたとしても悠長に過ぎやしないのかと一言二言、問い詰めてやりたい。
 ふと彼は立ち止まり、秀吉たちを振り返るとしぃっと唇に人差し指を当てた。目的地に到着したかと緊張する面々を手招きし、壊れかかった門柱の脇へ身を寄せる。主の後ろから覗き込んでみれば寺の境内に野武士たちが何人も屯しているのが見えた。濁酒片手に昼間から酔いのうち、語る卑猥な言葉と取り留めのない話題。刀を差してはいても『あれ』を同じ武士のひとりと思われたらひどく心外な。
 さっと周囲に目を走らせて件の人物が見当たらないことに気付く。境内にいないならばいまは奥の院かと、崩れかかった寺へと意識は移る。硬く閉ざされた扉は開きそうにない。踏み込むべきか否かと逡巡する眼前に長政の腕が突き出された。
 こちらを見て静かに、けれど言い返すことが出来ないような迫力で。
「―――此処で」
 待っていろと言いたいのだろうか。だがそれでは此処までやってきた甲斐もないのではないか。何事かを秀吉が問いかけようとした時、境内で動きがあった。
 急ぎ振り返れば奇しくも男ふたりが寺の中から放り出される瞬間にかち合った。あの巨体を軽々と投げ飛ばすとは、室内にはかなりの怪力がいるに違いない。茶をしばいていたところに思わぬ騒動、野武士たちは色めき立ち慌てて腰の刀に手を添える。投げ出された連中は殴打した箇所を抱え込み、呻き声をあげながら恨めしげに寺院を睨みつけ、そこに当事者がいるのだと明らかに指し示す。
 二言、三言。
 周囲に何事かを焚きつけると俄然、男達はやる気を出して扉の前に集合した。既に刀を抜き放っている者までいる。そんな大人数で斬りかかる必要もあるまいに大層なことを、と鼻で笑っていられたのも僅かの間。ゆっくりと現れた影に危うく秀吉は声を上げるところだった。
 扉の前に立つのは紛れもない木下組の軍師。
 丸腰のままで眼前の野武士たちと対峙する。
 胴回りも兜も刀も、脛あても手甲もない無防備そのものといった出で立ちで、刀を持った連中の前に立ち塞がるのは愚の骨頂といえた。
「あ………あいつっ、誰か庇ってんのか!? あんな―――あんな馬鹿な真似………っ!」
 踏み出しかけた身体は軍師の友人によって遮られた。礼節も立場も体面も忘れて声を荒げる。
「何故、止める!」
「あいつは、強い」
 語る長政の視線も決して半兵衛から逸らされることはない。しかし己に注がれる四対の瞳に応えねばならないと思ったのか、落ち着いた微笑を口元に刻んで言葉を紡いだ。
「心配無用。あんな連中にやられるような奴ではない」
「でも、でも先生にもしものことがあったら………」
 不安そうに眉根を寄せる小一郎に微笑みかけながら、こればかりは個人の感情で申し訳ないのだがと少しの詫び。
「失礼。どうも私はあいつの戦う様を見たくて仕方がないらしい」
「何ゆえに」
「そう―――かつて、予ねてより感じていたことなのですが」
 目を細めた先で思い出すのはいつの出会いか記憶か残像か。
 久方ぶりに見る姿に過去を重ね懐かしんでいるのだとしても、やはり見逃すには惜しすぎる。
「あいつの戦い方は、まるで―――」
 何故か後の言葉が続けられることはなく、『だから』止めるよりは見惚れたくなるのだとのみ答え。
 そうは思いませぬか? と同意を求めたそのままに。
 動きを停止した長政に習うかのように秀吉も視線を眼前の戦いへと固定した。瞬きのひとつもなくまるで魅入られたかの如く。




 両側から同時に刀をもって斬りかかられる。右側の攻撃をすり足で避けると共に敵の手首を捕らえ、勢いよく左へ投げ飛ばす。仲間と激突し相手が怯んだ隙に鳩尾に蹴りを叩き込む。これでふたり。
 背後で刀を振り上げられた気配、即座に敵方の間合いに踏み込む。自ら白刃の下に踏み込みながら狙うは刀を握り締めるてのひらのみ。正拳づきで指を砕き、驚いて飛び退く隙に刀を叩き落す。真横から突っ込んできた相手に足払いを食らわせて体勢を崩す。紙一重の差で攻撃を避けながら奪い取った刀で峰打ち。更にふたり。
 たもとを器用にひるがえらせ目暗ましに活用しながらの立ち回り。
「なるほどな」
 黙って半兵衛の戦いぶりを見ていた信長が笑みを深くした。何がなるほどなのか、と見上げる秀吉にも主君は頓着せず前方の戦いに注視している。
「多数相手とはいえ一度に斬りかかれる人数は高が知れてる、せいぜいがふたりか三人だ。個別撃破していけば渡り合えないこともない」
 無論、刀を手にした相手とやり合うには常人以上の手腕が必要なのだが。
 体力だって無駄にはできなかった。一太刀くらえば途端に形勢が逆転してしまう。
「コツはあれだな、こう、突っかかって来た相手の―――」
 信長が腕を動かして敵を捕らえる真似をする。奇しくも眼前では半兵衛が現実に敵の手首を捕まえた瞬間で。
「自分の力でなく相手の動きを使う。こう、手首を返せば………」
 手首を捻られた側は勢いを削がれることなく方角だけを転じ、周囲の仲間まで巻き込みながら自身の力で彼方まですっ飛んで行く。こうして敵の力を利用して投げ飛ばしている限りは己の体力の消耗は最小限で済む。あとは刀を手の甲で跳ね飛ばし、たもとで相手の気を散らし、卑怯だと姑息だと言われようと足は引っ掛けるし敵同士を激突だってさせる。
 倒れ、呻くは対峙する敵ばかり。
「―――言うは易く行なうは難しの典型みてぇな動きだな」
 告げる信長の目は剣呑なひかりを帯びている。それに背筋が冷える思いを感じながら、秀吉はぐっと唇を噛み締めて視線を正面へと向けた。その先では変わらず軍師が孤独な戦いを続けている。親友たる浅井長政は手伝うどころか傍観に徹しているし、お前本当にこいつが友達でいいのかと、聊か場違いな憤りまで胸中に沸き起こる。原因不明の焦燥感。
 衣の裾をひるがえし的確な攻撃を加える姿。
 軽々と武器を奪い去り、奪い去った武器で足を刺し。手心を加えて腕を叩き折り腱を切り、決して命は落とさぬよう。
 風にあわせて波打つ衣となびく髪に、返り血も浴びずに相手を切り裂く身のこなし。

『あいつの戦い方は、まるで―――』

 先刻の長政の言葉を思い出す。
 そう、彼の―――半兵衛の戦い方、は。

 真実。
 舞いを舞うが如く。

 受け流しを基本とした動きから跳ね返しと巻き返し、攻撃までの一連の行動が澱みなく行われ留まることを知らぬ。達人同士の手合わせは息を呑むほど美しいのだと人伝に聞いたことがあるが、さてはこれがそうなのかと納得せざるを得ず。
 敵の技すら自らの攻撃の起点とし、隙あらば叩き落した刀を奪い斬りつける。武器に執着することなく、相手が固執したならばあっさり手を離し、不用意に近づいていた敵を殴打する。殴りつけた後でご丁寧に回し蹴りを一発、怯んだ敵陣に割り入って急所に容赦ない一撃。
 取り囲んで滅多打ちにすればよいとようやく思い至ったか、野武士たちが円陣を組み始める。察した半兵衛は即座に攻勢をかける。
「うえっ!? お、おい………っ!!」
 周囲の悲鳴など何処吹く風。
 悪びれた様子もなく相手の顔面を踏み台に、跳躍。
 事のついでに撃墜された敵が地に倒れこむより早く、彼の身体は寺の屋根瓦の上に位置していた。
 激昂した連中が急ぎ軒に手をかけるが容赦なく踏みつけられ、上りかけた顔を蹴り飛ばされ情けなくも落下する。多方向から同時に這い上がろうにも崩れかけた屋根に取り付くは容易でなく、足がかりのある場所を選べば半兵衛に蹴落とされた。
「そうか、あの位置なら………」
 とは誰の呟きか。
 全身をさらすのは一見、無謀なように思える。しかし今回のように上ってこれる場所が限られ、敵方に飛び道具がないならば有利な立地条件とも成り得るのだ。刀を投げつけたところで避けるに容易い距離、もぐら叩きのように軒に張り付いて息切れしている敵を倒せばいいだけ。元より軍師に殲滅の意図はなく逃げるは逃げるに任せればいいのだから気楽なものだ。
 剥がれ落ちた屋根瓦を裏から上ってきた敵の頭頂部に投げつけ、撃墜した。
 気付けば数十人もいた野武士たちもまばらになり大半が地に伏している。さすがに周囲に動揺が走った時だった。

「う―――ぉぉぉっ!!」

「!?」
 突然の鬨の声に慌てて皆が飛び退く。人垣を掻き分けて奥の院から飛び出した影はあっという間に手をかけ、蹴落とす暇さえ与えずに屋根まで登りつめた。食いしばった唇の端に血を滲ませ片手に刀を握り締め瞳には底抜けに深い恨みの念。出で立ちも髪型も何もかもが記憶からかけ離れているが、あれは紛れもなく間違いようもなく。秀吉は呻く。
「生きてたのか………!」
 戦場で遥か彼方に眺めやっただけだとしても一度見た顔は忘れない。
 屋根の上で半兵衛と対峙する斉藤龍興の姿を見た瞬間に事の顛末がすべて飲み込めた気がした。
 他とは実力が違うと知っているのか、半兵衛は右手を前に掲げたまま慎重に足場を確かめる。徐々に近づいてくる刀と狂気に等しい相手の気迫に飲み込まれぬよう、互いの目と目をかわし間をはかって隙を窺う。いつの間にか辺りの空気さえも静まり返ってふたりの戦いを見つめている。秀吉たちはおろか野武士たちにも身動きする者はいなかった。
 緊張―――の、切れる前に。
 半兵衛の呟き声が風に乗って聞こえてきた。
「ひとつ、お伺いしたいことがございます」
 答えなど端から期待していないのか。返事がなくとも気にせぬ素振りで淡々と問い掛けを続ける。
「山吹殿は―――どうなされたのですか」
 その、直後。
 これ以上ないくらいに龍興の顔が歪んだ。嘲りに。
「山吹だと?」
 妙なことを言われた、自明の理を聞かれた、そんなことも分からないのかとひしゃげた笑い。
 漏れ出でる掠れた笑い声は寒風に虚ろに木霊した。
「あの女ならいの一番にいなくなったさ! 美濃を落ち延びた直後にな!!」
 僅かに半兵衛の眉が痛ましげに歪む。
 共通の知り合いらしいが、果たしてどういう存在なのかは皆目見当もつかなかった。だが、親しい間柄であったろうことは気落ちした軍師の顔色からも察せられる。
「そう………ですか。姿が見えないから―――………」
「金も権力もない男に興味はないんだとよ。今頃はどこぞの金持ちに飼われてイイ暮らしをしてるこったろろうぜ! 伊予にもそう伝えてやんな!!」
 かつての主の口から出てきたいまひとつの名前にまた別の意味で半兵衛の眉が顰められた。この場で聞きたいものではなかったのかもしれない。伊予という名が、彼の妻のものだったと思い出すのに幾分時間を要した。
 無駄話はこれで終わりというように互い、唇を引き結んで視線を交錯させる。
 幼少時に斉藤義龍から手解きを受けた龍興の実力が生半なものであるはずもなかった。薄手の鎧を身に着けている彼とは違い半兵衛の服装は単一枚、一太刀くらえば即座に雌雄は決する。
 動いたのは龍興が先だった。
 切っ先が孤を描いて迫り風切る音が鼓膜を穿つ。

 ―――ビュッ!!

「―――っ!」
 一撃目、二撃目を体を引き半兵衛はかわした。ジャ、と踏み砕かれた瓦の欠片が鈍い音を立てる。捻りを加えて頭上からの打ち下ろし。上体を倒して防いだことで姿勢が揺らぎ、追い討ちをかける返す刀を更に紙一重の距離で避けきって。
 逃げ遅れた髪のひと房が風に乗って舞い落ちる。
 目を離すことができない。いつ一撃を食らってしまうかと気が気でなく、視線を逸らすことさえ出来ず、ただ只管に握り締めた拳が震え喉が渇く。
 大丈夫だ。さっきまであんなに身軽に逃げ回っていたじゃないか。大丈夫だ、大丈夫………。
 思う先で半兵衛が膝をつく。勝機! とばかりに龍興の刀が鋭く閃いた。
「死にくされぇぇ!!」
「―――っ!」
 刹那、半兵衛が両腕を前に突き出すのが見えた。

 ………シィッ!!………

 斬り捨てたにしては鈍い音が辺りに響いた。
 刃を伝う細く、赤い筋。次々と流れ落ちるそれはやがて屋根の上に赤い斑点を散らした。
 けれど―――決して、半兵衛が倒れることはなく。
 刀は寸でのところで止まっていた。間を計って突き出し、身体に届く僅か手前での攻防、たとえ両手は犠牲となるとも切り裂かれるには至らぬ。
 刃は半兵衛の両のてのひらに挟まれて止まっていた。震える刀身が拮抗する力を伝えている。
「ぐっ………!」
 上から押し付ける側が有利であるはずなのに、せめぎ合いに押し負けたか呻き声をあげたのは龍興の方だった。徐々に、徐々に半兵衛の腕が高くなり、従って刀も位置を違えてゆく。片膝つきから中腰へ、上体を曲げた立ち姿へ、視線が正面から交錯するに至り手から流れ落ちたしずくもかなりの量となる。
「う………っ………っ」
「………ぁ」
「うぁ………っ………っっ!!………」
 押し合いの最中、ふ、と半兵衛の瞳にひかりが瞬いた。
 グン! と一気に刀を龍興の胸元まで押しやり相手が驚いた一瞬の間に手を外す。血を振りまきながら回転を加えた指突、骨に衝撃が加わった鈍い音。

 ビ………ィン―――

 澄んだ音色と共に刀は天高く舞い上がった。刹那、がら空きになった間合いにするりと忍び込み、左足を基点とした回転、踏み込みに使う利き足。両てのひらを合わせて鳩尾への一打。

「哈!!」
「がっ―――!!」

 身体が僅かに宙へ浮いたのを狙いすまして更なる強烈な蹴りを腹部へ。眼下に叩きつけられるより早く跳ね飛ばされていた刀が主に続いて落下する、放っておけば屋根に突き立つものを横から掻っ攫い、背に受けた衝撃に龍興が呻く暇もなく自身も飛び降りて。
「ぎゃ………!!」
 ひしゃげた蛙のような叫び。
 上空から勢いをつけて胸部に与えられた容赦ない蹴り。落下速度も手伝って普通に蹴りを食らうより何倍も威力が増したことだろう。合わせて掴んだ刀をざっくと首の真横に突き立て膝頭で喉元を圧迫する。
 出来上がるは地に縫いとめられた男と腕から血を流しつつかつての主を踏みしだく軍師の図。
 咳き込む相手に同情の色は見せず淡々と彼は宣告した。
「勝負あり………です、ね」
 グ、と瞬間答えに詰まった龍興は怒鳴りかけ、首に感じる刀の切っ先に無言を強いられる。
 先ほどまで動き回っていたとは思えないぐらい落ち着いた口調と乱れない呼吸で半兵衛は周囲に視線を転ずる。
「用なき者は去れ」
 篭められた無言の圧力に野武士たちが一瞬怯む。
「ひ………い………!」
 一度崩れてしまえば脆かった。

 

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