キースの指の動きに釣られる様に壁の時計を見上げたブルーは、残念そうな表情を浮かべるでも落胆の声を上げるでもなく、軽く鼻で笑った。「なんだ。まだ10分あるんじゃないか」、と。
聞き違えるような距離でもない。しっかとその言葉を耳にしたキースは、何を自信満々に意味不明なことを言っているのかと眉を顰めた。
「どれだけ急いだとしてもここから会場まで30分はかかる。分かっているのか」
「分かっているとも。僕がどれだけ綿密に<メイル>の出発時刻を確認したと思っている」
「それぐらいならこちらも調べている。間に合わないのは先刻承知だ」
「いちいち口喧しいね、君は。そんなにフィシスの歌を聴くのが怖いのか」
珍しくも声に僅かな苛立ちを乗せてブルーが言い放った。
歌を、聴くのが、怖い。
そんなこと考えたこともなかった―――いや、思いつかないほどに、思考を排除していたのか。
沈黙を貫くキースに焦れたのか呆れたのか最初から返事など期待していないのか。
とっとと自らの荷物をまとめたブルーは、手近にあったキースの荷物もあわせて抱え上げると部屋の電気を切った。
「………っ、おい!」
「いいから早くしたまえ。僕たちに残された時間は少ないのだ」
即座に踵を返して駆け出す後ろ姿。
舌打ちひとつ。急いで施錠だけして追いかけた。
どうやら後輩は走ることはあまり得意ではないらしい。階段を半ばも降りないうちに追いついて、抱えられたままだった鞄を取り返した。
「ありがたい。実は結構重かったんだよ………僕のも持ってくれるつもりはないかな」
「傲慢だな」
「でなきゃ君には張り合えない」
憎たらしい台詞をさらりとした態度で吐いて、階段をふたつ飛ばしで駆け下りる。
もしかして自分はうっかりとこいつの魂胆に乗ってしまっているのではないか。本来なら鞄を奪い返した段階で「後は勝手にしろ」と告げてのんびり帰宅の途に着くこともできたはずなのに。
だが。
正面玄関へ来たところでキースの足は止まった。 ―――雨。
一面の。
雨。
「………っ」
血、だ。
血の、色、だ。
周囲の木々も、地面も、硝子に跳ね返った飛沫でさえも。
どんよりと暗い空の中で毒々しい色を湛えている。
条件反射のように傘立て、の中から掴み取った傘、が、震えた。
立ち止まったままのキースの傍らを僅かに小さい影がすり抜けて行く。
左手に鞄。右手に傘。玄関を一歩出ればもう雨の雫が歩行者を襲う。だというのに彼は傘を差すこともせずにわざと雨に打たれて見せた。
静かに軒先から半歩、踏み出した。右半身だけを。
はたはたと髪の毛や頬を伝う水滴を厭うでもなく笑って見せた。
「さて。―――これで君には、僕が血塗れに見えるのかな」
「………」
見え。る。
半身だけが、血塗れに見える。空から降り注ぐ赤い雫が少年の身体を覆って行く。
彼に「雨が血の色に見える」と告げたことはない。何故、知っているのかと疑問がわいてくるのを感じたが、同時に、この喰えない少年ならば知っていてもおかしくないと感じた。あるいは―――可能性は低いけれども―――フィシスが相談、したのかもしれない。彼女はこの少年をひどく信頼しているから。
ふ、と少年が笑って。
笑っているのに瞳には冷ややかな色を乗せて言い放った。
「キース。いい加減『君』は『君』自身の目で世界を見たまえ」
雨音がやたら大きく聞こえた。
「………どういう意味だ」
「こんなものはただの水素と酸素の結合体だ。化学式で表せばなんということもない物質の一形態に過ぎない。なのに、何を恐れる。何を忌避する。色が赤い? 馬鹿を言いたまえ。だったら君の目には蛇口から流れる水でさえも赤く見えていなければならない」
分かっている。
そんなことは分かっているのだ、疾うのむかしに。
常識で考えればそんなことは有り得ない、単なる自分の思い込みに過ぎない、原因は分からないが、とにかく現実には起こり得ない出来事なのだから自らの意志を強く保てばいいだけの話だ。
だが、それでは。
「それでは………他の、有り得ないはずの出来事も。すべてが偽りだと考えなければならなくなる」
一か十しかないような考え方を、極端から極端に走る思想を。
抱かなければならなくなる、と。
本当にごくごく小さな、ささやかな呟きを。
目の前の人物は聞いていたらしく、ほんの一瞬だけバツが悪そうな表情を浮かべた後に、すっかり見慣れてしまった苦笑を頬に浮かべた。
なるほど、と。
「思っていたよりも―――君の傷は深いらしい。『キース』」
「………」
「治せるものなら治してしまいたかったんだが………僕が『治す』というのもまた、おこがましいか」
ブツブツと呟く後輩の真意は計りかねたが、それでも、先程まで赤一色に見えていた彼の右半身が『ただの水』に濡れただけだと思えてきたことに少し驚いた。
あれは、確かに。
赤くも何ともない―――ただの、水、だ。
右手で傘を開いて、器用にも傘の柄の部分に鞄をちょいと引っ掛けて。突っ立ったままのキースを手招いた。
「ほら、急ごう。時間がないと先刻も告げたはずだ」
「………立ち止まったのは何処の誰だ」
「無論、君だとも」
にやりと不敵な笑みを浮かべてブルーはキースの手を掴まえる。驚きの声を上げる暇もなく、強引に外に連れ出された。
途端、身を叩いた雨の痛さと染まり行く真紅に冗談じゃなく叫びそうになった。
赤。
赤。
赤。
でも―――自分と、目の前の少年だけは「赤」くはない。
引き摺られて走る傍ら、足が縺れそうになるのをどうにか堪えて、こんなにも激しく動揺しているのを悟られたら末代までの恥だと呻き声を上げた。そして、その考えはたぶん正しい。隠したところでバレている、読まれている、見抜かれている―――何たる様だ。
「っ………! 何処へ行く気だ! 駅はそっちじゃない!!」
「<メイル>に乗ったところで間に合わないと君だって言ったじゃないか」
雨降る夕方の町並み。人通りの少ない学校前の大通りから裏へ、裏へ、裏へと幾つも角を折れて細い路地裏に入り込んで。駅に向かうよりも遠ざかるような道案内に何がしたいのかと本気で毒づいた。
「簡単な話だよ」
こんなものに意味はないといつの間にか傘を折り畳み―――お蔭で、ふたり揃って濡れ鼠だ。
キミガ、スベテヲイツワリダト、カンガエタクナカッタソノリユウ。
路地裏の突き当たり。互い違いに伸びる家々の軒先の下で雨脚は少し弱まる。
眼鏡を外して、真紅の瞳を晒して彼は振り向いた。
「僕は、魔法を使えるからね」
馬鹿なことをと笑い飛ばすより早く。
周囲を淡い光が包み込み、地面が青く輝くのを感じた。頭上に大小の異なる円が描かれる。
セフィロト。
十の都市群。
都市と都市を繋ぐ直線。
天に至る道と地に堕ちる道。
更にその中に描かれた文様が細かく明滅したと思った瞬間―――目を、閉じた。
ほんの一瞬だけ眩暈を感じた、後に。
瞼の裏の青い光がゆっくりと収まって、足元に確かな地面の感触を得て、耳が捉えた雨音に漸く五感が戻ってくる。
酩酊。深酒をしたらこんな気分になるのだろうか?
軽く首を振って眩暈の原因を考えている内にも手を引かれて、薄暗い路地裏から再び明るい表通りへと踏み出した。
傘の、開く音に目を開けて。
「………」
これだけ濡れているのに今更傘もないんじゃないかと当然の呟きを零す余裕もなく。
目の前にある建物に息を呑んだ。
―――フィシスが待つ、公会堂。微かに聴こえてくる歌声が事実を後押しする。
「さあ、行こう」
「っっ!」
再び右手を掴んできたブルーのてのひらを反射的に振り払った。
相手は驚くでも傷つくでも戸惑うでもなく、ひどく冷静な瞳でこちらを見詰めている。
―――わからない。何故そんなに落ち着いている?
自分が何をしたかわかっているのか。いや、自分は―――『こいつ』のしたことを理解しているのか。
「いまのは、なんだ」
振り絞った声は不穏な気配を帯びていた。
差し掛けられた傘では覆いつくせない部分から、雨がじわじわと上着の奥まで滲んでくる。前髪から流れる水滴がひどく鬱陶しい。
「何故、ここにいる。一体なにをした………!」
いやだね。先刻ちゃんと言ったじゃないか、と目の前の少年は微笑を浮かべた。
「僕は、魔法を使えるんだよ」
「ふざけるなっ………!」
魔法? 魔法だと?
そんな馬鹿馬鹿しいものを信じる人間がこの時代にいると思っているのか。理論も理屈もない超常現象を思わせる単語を聞かされるぐらいなら、いっそ科学的な力によって転送したのだと説明された方がはるかに受け入れ易かった。
そこまで考えてキースは僅かに息を呑む。
説明された方が受け入れやすかった―――とは、つまり。
説明。を。
受け入れやすい説明をしてくれることを期待していたのだろうか―――無意識に、でも。
黙りこくってしまったキースの腕を再び掴まえて、今度は振り払われないのを知っていたような強さで握り締めて、ブルーはキースを会場まで引き摺っていく。
「生憎と君の疑問に付き合っている暇はないんだよ、キース。僕の目的はフィシスの歌を聴くことにあるのだ。悩むなら後で家に帰ってから幾らでも悩んでくれたまえ」
でもね、考えるヒントだけでもあげようか。
魔法だって科学だって結局は理論立てたなんらかの『法則』に過ぎない。ただ、どちらも全く異なる理屈で成り立っているから相容れることができない。三次元の存在は四次元の存在を体感できないし、四次元の存在は三次元の存在に慣れることはないように。
「キース」
君は言ったじゃないか。
すべてが偽りだと考えなければならなくなるのは御免だと。
言い換えてしまえば、雨が赤いのが普通なのかもしれない。君が異常なのではなく、僕たちの方が異常なのかもしれない。誰も正しいことなんてわからないし知りようもないし、結局のところは寛容に生きていくのが最良なのさ、と。
押し開けた出入り口の向こうから清廉な歌声が響いてくる。
ああ―――、あと、ひとつ。奥の扉を押し開ければ。
そこに、フィシスがいる。
係員の驚いた声を振り切っても、ロビーで休んでいた人々の視線を無視しても、開いた奥の扉の更に奥―――自分たちに与えられた席まで移動することは流石にできない。
ロビーよりも遥かに暗い室内。
一楽章が終わるまで待つべきだとの常識は、きっと、共に持っている。けれどもそれを敢えて忘れたように意識しないようにブルーはキースを引き摺っていく。止まりがちになるこちらの歩みを彼は真実まだるっこしく感じているのだろう。あるいは全ては無意識の所業で、いま自分が誰の手を掴んでいるのかも頭の中から消え去っているのかもしれない。
ただ、ひたすら。
聴こえてくる歌に導かれるように。
その可能性の方が高そうだと、キースもまた、どこか朦朧とした意識の中で思った。
最後の扉が開く。
細く、微かに響くだけだった歌声が津波のように襲ってくる。
音に、身体全体を打ち据えられるような。
腹の底から、心臓が、揺さぶられるような。
鍵楽器、打楽器、弦楽器、ありとあらゆるものの奏でる音がひとつの意志を歌い上げている。美しい高音、透き通る低音、多くの者が謳い奏でる中、スポットライトを浴びながらの独唱。
ゆたかな黄金の髪が輝く。
閉ざされたままの瞳は虚空を見上げている。
聴き入っている観衆の一番後ろ、扉のすぐ前に立ち竦んだままじっとキースはフィシスの歌声に耳を傾けた。
………ああ。
変わらない。
幼い頃に聴いた、彼女の歌声と。
胸が痛む。
たぶんそれは―――自分にも聴き覚えがあるからだ。彼女の歌を聴いて育ったからではなく、それよりも遥かむかしに、何処かの段階で、覚えこまされたからだ。
そこに関連する記憶は自分にとってあまりいいものではない。
だから、切ないほどの懐かしさを覚えるのに拒絶したくてならなくなるのだ。
………それだけの。ことだ。
右手が繋がれたままだったことに遅ればせながら気付く。姉の姿から目を逸らすように視線を転じたキースは、隣人の横顔を見て息を止めた。
雨の中を歩いてきた所為だ。傘をろくすっぽ使わなかったからだ。長い前髪が、後れて水を滴らせているだけなのだと。
思いこもうとしても―――晒された真紅の瞳から伝うものに。
白い頬を流れ落ちるものに。
目が吸い寄せられて離れなくなる。
声もなく、幾つも、後から後から流れ落ちていく。
音もなく。言葉もなく。
握り締められたてのひら越しに、彼の、深い歓喜と哀しみが伝わってくるようで。
「………」
幾度かの瞬きの後で、黙って視線を正面へと戻した。
高らかに歌い上げる姉の姿を、来ているかどうかも分からない弟のために歌っているだろう姉の姿を、真っ向から見つめて。
ゆっくり、繰り返し繰り返し、自分自身に言い聞かせた。
大丈夫―――だって、そうだろう? 『歌』自体が苦手なはずはないのだから。
篭められた想いを受け止めるのが怖かっただけなのだから。
掴まれるままだった右手を初めて自分から握り返した。
そんな態度も表情も見ていられない。調子が狂う。いつもみたいに不敵に笑っていればいいものを、ふとした瞬間に弱味なんて覗かせるんじゃない。この声が聞こえているのなら呆れた表情と共に面倒くさそうな眼差しを送ってくるがいい。
そんな風に、まるで、宇宙にひとり放り出された迷子のような表情で。
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