窓から月明かりが差し込んでくる。室内灯をつけていようともほのかに差し込む光は確かに存在し、時にそれを目にしては気持ちを落ち着ける。
 とはいえ、此度ばかりは落ち着き払っていても埒が明かぬのだろうとニールは自室の机の前で一頻り悩んでいた。目の前のモニターに並んでいるのは新人の一覧表と配属候補先、担当教官からのコメントだ。何のことはない。要するに新人のクラス分けで悩んでいるのである。
 しかしこれが簡単に見えて結構厄介な代物で、多くは受け持ちが変わることがないのだが、一部に関しては本当に扱いに困ってしまう。分かりやすい問題児ならばいい。指導に慣れているベテラン教官に依頼すればまあ上手く行く。けれども、問題らしい問題行動はなく、かといって問題がないと言い切るのも微妙な訓練兵―――に関しては、果たしてこのまま自分が受け持っていていいものか他に任せるべきなのかと考え込んでしまうのである。
(さて………)
 件の三人組はこの道云年のベテラン教官が引き取っていった。合同授業で顔を合わせることこそあれ、今後は厳しく指導されて奴らが泣きを見ることはほぼ確実だ。
(どうしたもんかな)
 顔色の悪い如何にも挙動不審な中年男性。彼は引き続き自分が様子を見守ることにした。疑いの眼差しを向けるだけ向けて、結果を見届けないのも筋が通らない。一応は上官に報告もしているし、今頃、王留美を始めとしたエージェントが背景を探ってくれているはずだ。問題は程なく解決するだろう。
 なので目下のところ一番の悩みの種は。
(預かってていい………ような悪いような)
 赤茶けた瞳が印象的な少年のことである。
 訓練は真面目だし小柄な割に格闘技等の成績もいい。もう少し背が伸びたなら立派なパイロット候補となれるだろう。
 故に、期待を篭めてその成長を見守りたいと思う一方で、向けられる視線に秘められた意志を掴み切れず、どうにも落ち着かない気分にさせられてしまうのだ。
 自分は教官としては未熟なのだから経験豊富なベテラン教官や、彼自身に確かな好意を抱いてくれている人物に託した方が良いのかもしれないと思ったりもするのだが、ならばとグラハムの組に割り振ったりしたら何だかとんでもない事態を引き起こしてくれそうでやっぱり踏み切れない。
 挙句の果てには、他から「彼はうちで引き取ろう」と手を上げてくれる誰かが現れたりはしないかと他力本願な考えまで浮かんでくる始末。
 でも、そうなったらそうなったで自分は相手の申し出を拒絶するのだろう。
(―――矛盾してやがる)
 苦く笑った後で、青年は画面上のエントリーボタンをクリックした。




「で、―――結局、彼については組み替えしなかったんですね。そうなるとは思ってましたが」
「なんだよ。その予想通りって表情は」
 表を提出した翌日、薄い雲ごしの直射日光も目映い甲板で青年はアレルヤに笑われていた。
 柵にもたれかかりながら隣の人物を見上げる。
 むかしは小さかった彼もここ数年で随分と背が伸びた。そろそろ追い抜かれると予感したのはいつ頃だったか。以来、意地でも彼の身長データにだけは目をやらないようにと努めているニールである。
 今日の訓練は午後からの予定だ。その時に新しい組み分けも発表される。今頃新人たちは大部屋でごろ寝したりのんびりと艦内を散策したりしながら微妙に落ち着かない気分を味わっているに違いない。各人の適正にそった教官に代わるだけだと説明を受けてはいても気になるに決まっている。自分もそうだった。
 そういや、オレの時は最初っから最後までセルゲイ大佐が教官だったんだよな、と思い出す。
 実質セルゲイが後見人を務めてくれたようなものだし、ハロの誼でイアンとも仲良くなれたし、何と言うか、日頃から貧乏くじと評されている己もあの頃は随分と運が良かったではないかと今でも思う。
 にっこりとアレルヤが笑った。
「食堂で一緒に騒いでたんでしょう? それだけ目立っちゃったのに受け持ちから外したら新人の中で彼が悪い意味で浮いてしまうだろうなと」
「なんで知ってんだよ」
「………知られてないと思う方が不思議ですよ」
 なんたって、あのグラハム・エーカーと一緒にいたんだし。
 真顔で告げられてしまうと頷かざるを得ない現状に溜息つきたくもなる。してみると、かの少年をグラハムの担当にしなかったのは賢明な判断だったか。
「ったく、グラハムの奴もどうしてセイエイに拘るんだか」
「波長が合うんじゃないですか? きっとあの子も『ガンダム』が好きなんだ」
「否定はしないが、グラハムが熱愛してるのはフラッグだぞ」
「同じですよ。どっちも機体だもの」
 確かにそうだけどな、と苦笑しながら吹き付けてきた風の方へと顔を向ける。
 空は青く、空気は何処までも澄み切っている。
 これだけ視界が良好ならば今日は遠くに『ヴェーダ』を望めるかもしれない。だとしたら、少し時間を作ってでも訓練兵たちに見せておくべきか。敵はいつでもこちらを迎撃できる距離にいるのだと実感することは彼らにも何がしかの覚悟を促すに違いない。
 太陽の眩しさに目を細めて僅かに顔を俯ける。
「―――あ」
「どうしました?」
「ハレルヤだ」
 戦闘機が飛び交う眼下の甲板をハレルヤとマネキン大佐が連れ立って歩いている。ちょっと珍しい組み合わせだ。
 柵にもたれかけたままだった上体を軽く起こした。
「丁度いい。オレ、まだマネキン大佐に挨拶してなかったんだよな。ちょっと行って来る」
「え、行くって―――ニール!」
 年下の同僚の声を後に残してニールは下へ降りるための階段へと向かってしまう。
 伸ばした腕も虚しく、呼び止めの言葉も聞き入れられなかった気のいい青年は困ったように眉根を寄せた。
「………行かない方がいいと思うんだけどなあ」
 ごめん、ハレルヤ。
 ―――なんて呟きは勿論ニールの耳には届くはずもなく。
 背後で同僚が嘆いていることなど露知らず、軽快な足取りで下の階に辿り着いた青年は、響く爆音に目を見開いた。
 送迎用の戦闘機が移動を始めている。折りよく収納されるタラップが見えた。
 そして。
「あっ………!?」
 閉じていく扉の奥で敬礼しているマネキン大佐と、同じく甲板で敬礼を返しているハレルヤの姿。
 急いで足を回転させたところで動き出した戦闘機を止められるはずもない。誘導員と管制塔の指示に従い滑走を始めた戦闘機は、黒光りする機体を日のもとに晒しながら轟音と爆風を残して飛び立ってしまった。
 舞い上がる僅かな砂塵に目を細める。
 まったく、なんて慌しい出立だ。彼女がプトレマイオスに居たのなんて本当に短期間に過ぎなかったのではあるまいか。
(新人育成に口出ししに来たのかと思ってたんだが)
 目的は他にあったということか。尤も、彼女の有能さを思えば数日単位で基地間を移動していたとてなんら不思議はないのだが。
 やっぱり挨拶ぐらいはしておきたかったと純粋な落胆を覚えながら、敬礼を解いたハレルヤの隣に肩を並べる。
「―――マネキン大佐。帰っちまったのか」
「AEUでゴタゴタが起きてるらしくてな、忙しいんだとよ」
 彼の声にニールは微かに首を傾げた。
 腕組みしたまま戦闘機の行く先を見守るハレルヤの口調は柔らかい。言葉の表面だけを捉えれば代わり映えしない内容なのに、口調というか語調というか、何かしら気遣う雰囲気が滲み出ている。スメラギやイアンには、そんなの感じ取れるのは共に過ごした時間の長いアレルヤとソーマ、セルゲイに加えて自分ぐらいのものだと言われるのだが―――アレルヤたちはともかく、自分に関しては買い被りだと思わざるを得ない。なにせ、口調が優しいということまでは理解できても何をもって彼がそんな気分になっているのかは分からないのだ。
 ただ、意外と細やかなこの年下の同僚は、『ニール』に関して何か思うところがあると言葉の攻撃性が低くなるということぐらいはギリギリで気付いている。
「AEUのゴタゴタなんて聞いてないな。手伝わなくて大丈夫なのか?」
「さあな。けどまあ、それに関しては―――」
 ちらりとハレルヤが視線を背後へ流す。
 遅ればせながら彼の双子の兄弟が甲板に辿り着いたところだった。
「何やってんだよ、アレルヤ!」
「ごめん、ハレルヤ」
 半身の舌打ちに片割れはすまなそうに眉を下げる。到着が遅れたことを怒られているのか。それならばニールとて同じであるし、何より、この場にはマネキン大佐を見送るに相応しい身分の将校は誰もいない。全員同罪ではないかと思えばますますもってアレルヤが申し訳なさそうにしている理由が分からなかった。
 ちょっと困った感じでアレルヤがこちらを見る。
「あの………マネキン大佐とは話せましたか」
「いや。来る前にもう出発しちまってたからな」
 ハレルヤは何か話してたのかと水を向ければ、「人材が不足してるみたいだからお呼びがかかった」と実に面倒くさそうに吐き捨てられた。
「お呼びって、出向かよ? 新人の教育はどーすんだ」
「アレルヤに任せる。出発は数日後だからそれまでに引き継ぎぐらいはすませておくさ」
 つまりはアレルヤが二組分を担当するということか。流石にきついんじゃないかと思ったが、苦笑した双子の兄弟は「いざとなったらセルゲイ大佐に手伝っていただけることになってますから」と穏やかな笑みを返された。
 自分も貧乏くじと呼ばれるようになって久しいが、この青年もかなり損な役回りばかり押し付けられている気がする。
「でもなあ、ハレルヤ。お前の手が必要になるような事態ってなんなんだ?」
「知らねーよ。そんなんマネキンに訊けよ」
「………彼女がいないからお前に尋ねてるんだが」
「じゃあ訊かなきゃいいだろ」
 駄目だ、こりゃ。
 取り付く島のない態度にニールはこっそりと溜息をついた。急に呼び出されたからなのか面倒な仕事を押し付けられたからなのか、口調は穏やかであるにも関わらず、金目の青年の機嫌は下降の一途を辿っているらしい。
(まあ、大きな任務だったら後で報告書が上がるだろうし)
 内容はそこで確認すればいい。ふたりが揃って沈黙を貫くならばそれが総意ということなのだろう。
 たぶん。いや、確実に。
 自分は彼らに甘やかされているのだと思い、ニールは複雑な表情を浮かべた。




 組み分けが発表されて数日が経過した。
 ハレルヤは既にアポロニウスに向けて出発している。見送りに行ったらやたら真剣な眼で見詰められたが、理由を問うても彼が応えることはきっとない。アレルヤに尋ねたところで同じように答えは得られないのだろう。
 溜息をつきながら周囲をあらためて眺めてみる。同僚たちのペースはこれまでと同じ、『ヴェーダ』も最近は不気味に大人しく、新人たちも大分プトレマイオスでの暮らしに慣れてきたようで最近は方々で寛いでいる姿も見受けられるようになった。
 この頃になると気の合う、合わないが明確化してくるのだろう。多くは数名のグループに自然と分かれて行動している。時に組分けを超えて親交を保っている例もあるが、共に過ごす時間が長いほど仲良くなるのはある種の真理であると思われた。
(―――に、しても)
 一方ではそういった流れに乗ることなく自然と孤高を貫いてしまう存在も当然のようにいて、悪意を持って敬遠している訳でもないのに常にひとりでいる者も徐々に特定されてきていた。
(孤立しすぎだろ………)
 溜息をつきながらニールは視線を下へとずらす。
 いつかの如く甲板の柵にもたれた己の眼下では昼休憩に入った訓練兵たちが束の間の休息を楽しんでいる。大抵の者は雑談に興じたり復習に余念がなかったり手洗いに行ったりしているのだ、が。
 問題視されている少年。
 刹那・F・セイエイはドッグで整備員相手に専門的な言葉を交わすことこそあれ、他と打ち解ける気配は微塵もなかった。それとなく周囲に尋ねてみたところ声をかければ視線は向けてくるらしいから、全く興味がない訳でもないのだろうが。
(ああ、でも、そういえば)
 珍しくも自分から声をかけたそうにしていた時が何度かあったんだっけな、と思い出す。
 それは新たな組み分けが発表された直後であったり、例の三人組にニールが絡まれたりした時だったりした。ような、気がする。
 絡まれた、というのは組み分けがあった当日の出来事である。




 その日。
 組み分けが発表された後の甲板は静かなざわめきに包まれていた。地上にいた頃の、ジュニア・ハイやハイ・スクールにいた頃の空気によく似ている。誰と同じクラスになったとか誰が担任になったとか。同じ敷地内に通っているにも関わらず、教室の壁ひとつを隔てただけで友人との仲を引き裂かれたように感じて哀しくなった記憶もある。
 壇上のセルゲイがパン! とひとつ卓を叩いた。途端に辺りが水を打ったように静まり返るのは流石に学生時代とは違うということか。
 威厳のある眼差しで辺りを睥睨した上司が重々しく口を開く。
「組み分けはいま述べた通りだ。クラスが適応されるのは明日からとなる。今日の午後は同僚たちとの親交を深める時間として使いたまえ。また、不服がある場合には異議申し立ても可能だ。その際は担当教官に直接、面談するように」
 以上だ、と述べると共に敬礼が返される。「鬼教官」だの「荒熊」だのと評されはするものの、やはりセルゲイは尊敬されているのだ。オレがあの境地に至れるのはいつのことかねえ、なんて教官の列の途中に並びながら思いを馳せて。
 ………一生無理な気がしてきた。
 解散の指示を受けた訓練兵たちがバラバラと甲板上に散らばる。大体は組み分け前の面子で集まっているようだ。自然、ニールも自らの教え子たちのもとに向かいかけたのだが、
「姫! 待ちたまえ!!」
「―――なんだよ」
 呼び止められて嫌々ながらも振り向いた。
 背後では太陽の光を真っ向から受け止めて、艶のいい金髪に天使の輪まで描いている超絶フラッグ愛好者―――いや、既に遠回しな表現に意味はないがつまるところグラハムが―――とにかくそのグラハム・エーカーが。
 これ以上は無い笑みと共に仁王立ちになっていらっしゃるのであった。
 何故だろう。
『ヴェーダ』と間近で対峙した時以上にすっごく逃げ出したい。
「なんだとは随分な言葉だ。私としては君と久しぶりに会うのだから呼び止めたまでなのだが」
「久しぶりも何も、この前食堂で一緒になったばっかりじゃねーか。訓練が重なる時は同じ場所で指導してるし。あんたと会うのが久しぶりなら他基地の連中なんてどれだけぶりだよ」
「人間は苺イチエだとカタギリが言っていた」
「………一期一会か?」
「少しだけ恨むぞ、ニール。本音を語れば、私は君が彼の少年をこちらへ渡してくれはしないかと少なからず期待していたのだ。しかしてその一方で君が彼を手放したのならば何と見る目がないと多少の失望は禁じ得なかったことだろう」
「納得してるのかしてないのかはっきりしろ」
「無論、君に惚れ込んだ私の直感に間違いはないということだ!」
 相変わらず会話が微妙に噛み合ってないのは気の所為か。
 きょろきょろと辺りを見回したグラハムは「ところで、くだんの少年は?」と問いを発する。本題はそっちにあったろうに建前を並べなくてもなあとニールは軽く笑った。
「さあな。あいつは単独行動が多いし、オレだって向こうの居場所を常に把握してる訳じゃない」
「意外だ」
「何処がだよ。トレミーは結構広いし、カバーしきれねえよ」
「彼は常に君の傍にいるような気がしたのだ」
 だから彼を捜したい時は君を捜すし、君を捜したい時は彼を捜すのだと。
 真顔で告げられて微妙に返答に困ってしまった。
 しかしてこちらの反応に頓着しない中佐殿はクルリと綺麗なターンを披露して、
「ふむ。ならば再びの機会に期待するとしよう! また会おう、ニール!」
 勝手に結論付けると来た時と同じぐらいあっさりと立ち去ってしまった。返事をする暇もない。
 彼が移動するのにあわせて『モーゼの十戒』の如く新人たちが道を開け、また、彼を慕う面々が誇らしげに後に続く様はなかなかに面白くもあり、相変わらず賑やかな奴だとの印象が強くなった。
 ニール自身も残留が決定した新人の何名かと談笑したり、残念ながら別の組に引き取られた者たちと言葉を交わしている内に大分時間が経過してしまった。
(そういや―――………)
 彼はどうしているか、と、甲板に溢れ返る人波に猫背の男性の姿を捜す。王留美からの連絡は未だ保留状態だ。これまでにも幾度か話しかけたことはあるが、声をかけた瞬間に青白い顔を更に青白くして全力で走り去られては事情を聞き出すどころではない。だが、最近はますます顔色が悪くなっているし、せめて医務室行きを勧めても罰は当たるまい。
 未だ話し続けたそうだった面々に断りを入れて人捜しを開始する。
 程なくして彼は見つかった。
 甲板の隅っこの柵にもたれてぼんやりと下界を眺めている。風に煽られて舞い上がる軍服の裾がなんとも頼りない。気配が薄い。あのまま投身自殺を図ったとしても何らおかしくはない雰囲気だ。
(まずいな)
 本格的に鬱状態になっている。
 事と次第によっては彼の抱えている事情に関わりなく、一旦地上に降りるよう説得すべきか。
 ニールが足を一歩踏み出した瞬間。

「教官」

 無遠慮なまでの力で肩を掴まれて、強制的に歩みを止めざるを得なかった。
 呼ばれた瞬間から嫌な予感はしていたが、振り向いた先の顔ぶれがあまりにも予想通りで溜息が零れてしまう。お前らが絡んでくるのは想定の範囲内だがいまは他に用事があるんだよ頼むから後にしてくれよどうしていつもいつもタイミングが最悪なんだこいつらは。
 と、愚痴りたくなる衝動をどうにか堪えて人好きのする笑みを浮かべる。
「お前らか。どうかしたのか?」
 三人の名をそれぞれ読み上げる。
 以前に刹那に絡んでいて、今回の組み分けで担当から外れた例の三人組は各々実に憎たらしそうな笑みを浮かべていた。
「いえ。実は、今日を最後に教官の担当から外れてしまうのがひどく残念で」
「迷惑かけっぱなしでしたからねえ」
「せめて最後に何か御礼でもと思いまして」
 さいですか。
 あまりにも在り来たりな誘い文句に内心、本気で呆れた。オリジナリティの欠如は軍隊で過ごすに当たって由々しき事態だぞ、などといつもよりやや辛辣なことを考えたのは、中年男性がまたふらふらと何処かに立ち去ってしまったからに相違ない。投身自殺は思いとどまってくれたようだが果たして何処に行ったのかと不安が付き纏う。
 本当に何もかもタイミングの悪い。
「別に、礼を言われるようなことは何もしてないぞ」
 一先ず当たり障りのない答えを返したが、向こうがこれぐらいで引き下がるはずもない。
「飲み物の一杯でも奢らせてくださいよ」
「地上に降りる暇は流石にないでしょうが、食堂ならこの時間でも空いてますよね」
 なるほど。流石に甲板では目立ちすぎるとの意識は働いている訳か。ちょっと考えたのち、ニールは「いいぜ」と安請け合いをした。何か企んでいるのかと逆に相手が警戒しそうなほどにあっさりと。
 勿論、何も企んでなどいない。ただ、このままここに居ても事態は進行しないと判断したまでだ。
 こちらが歩くのにあわせて三人もまた移動する。ニールの姿が他の人間から見えないよう自然に壁を作る姿に、こいつらこれまで何人の新人を甚振ってきたんだと眉根を寄せた。刹那との一件は氷山の一角に過ぎないと思い、それなりに注意してきたつもりではあるが、完全に防げてもいないのだろう。せめて三人とも個別の組に割り振るべきだったかと今更のように迷い、だが、それはそれでこいつらもお仲間がいなくて困るだろうとヘタレたことを考える。
 ふ、と。
 甲板から艦内に移る際に誰かの視線を感じた気がした。
 しかし、それが誰のものと確認するより早く甲板に至る扉は閉ざされる。
 艦内に住まう人間は多いが現時点でほとんどの訓練兵や教官は甲板にいるし、他の面子はそれぞれの持ち場で業務についている。食事をするにも早過ぎるこの時間帯、通路に人影は見えなかった。
 もはや隠すつもりもないのか、肩を押すようにして狭い通路に押し込まれたニールは目を閉じた。
 ああ、確かに自分は貧乏くじだ。
 貧乏くじというよりは単なる不運か。地上に居た頃は不良に絡まれることなど終ぞなかったのに、軍に上がってからこっち、下手すれば常に何かしら小競り合いに巻き込まれている。大半は自らのお節介が招いた事態だと自覚はしているが、勝手に降りかかって来る火の粉はどうすればいいのやら。
 壁を背に向き直る。
 気が緩んだのか自分たちの絶対的優位を確信しているのか、性質の悪い笑みを隠そうともしなくなった態度に「油断しすぎだ」と指導を与えたくなる。三人とも上背だけなら自分以上ではある、が。
 ―――だから勘違いをする。
 揃ってニヤニヤと笑っている姿に肩を竦めた。
「………奢ってくれるんじゃなかったのか?」
「むしろこっちが奢ってもらいたいぐらいっすよ、教官。散々手厳しい指導をありがとうございます。お陰でこちらの面目は丸潰れだ」
「潰れるような面目なんぞあったのか?」
 ―――との台詞は自重しておいた。
 彼らの言う『面目』とは、ひょっとして大勢の前で甲板走って来いと命じられたことを指しているのか。直接的な原因を考えれば刹那の方が絡まれても良さそうなものだったが、彼は神出鬼没だから捕まえることができなかったのだろう。だったら不幸中の幸いだ、こいつらにとって。あんな子供にまで手出ししやがったら即座にクビを切ってやる。覚悟しておけ。
 思ったより感情の沸点が低くなっている己に、まずいな、と密かに呟いた。
 どん! と強く肩を押されて背中が壁に激突する。結構な痛みに僅かながら眉間に皺を寄せると下卑た笑いが返された。
「入隊の時期が数年違うってだけで、年下に教官面されたら年長者の立場がねえってんだ」
「なよっちいくせに軍で生き延びてこれたってのが信じらんねえな。パイロットってのも名ばかりで出撃したことないんじゃねーの?」
 ………なよっちい。
 なよっちいってお前、これでも充分筋肉はついてんだぞ。確かにアレルヤとかハレルヤとかラッセみたいな男も憧れる麗しき大胸筋や逞しい上腕二等筋、八つに分かれた迫力ある腹筋と比べたら見劣りするけど中年のビール腹やもやしっ子よりゃ数段マシだろーが。
 などと思考を逸らしてはみるものの、襟首を締め上げられるのはどうしたって苦しい。
「言い返せないのか?」
「言い返せねーだろ、事実だかんなあ! てめーみたいな優男は事務でもやってりゃいいんだよ!」
「どうした? 反撃できるもんなら反撃してみやがれ!」
 ゲラゲラと笑う声が耳障りだ。
 むかつくとか腹が立つとかそれ以前の問題として、単純に、人間性の低さを感じさせるような声音がひどく悲しい。おかしいよな、確かにオレたちは『人類』のために戦ってるはずなのにと聊か話を飛躍させながらも、ニールの手は襟首を締め付ける腕をしっかと捕らえていた。
 ―――反撃できるもんなら反撃してみろ、だと?
 なら。

「じゃあ、遠慮なく」

「!?」
 言い様、相手の腕を振り払い足払いをかける。
 ひとりが転倒した隙に隣に突っ立ってる奴の襟を掴み、投げ飛ばす。顔面から床に激突した姿に同情することなく、漸く事態を悟って構えを取ろうとした最後のひとりに回し蹴りをお見舞いした。立ち上がろうとしていた最初のひとりの顎先に蹴りを叩き込めば、
「―――はい、終了」
 ものの十秒とかからない圧勝劇だった。伊達に軍隊に何年も勤めている訳ではない。
 にしても、幾らなんでも手ごたえなさすぎだ。どんだけ油断してたんだ。
 彼らを指導していた立場として情けなくなったが、つまるところ、反撃されるなどと思ってもみなかったのだろう。無抵抗な人間を多数の人間で甚振る。拳を振るうだけで逃げ出す。平伏す。媚びを売って諂う。そんな者たちしか相手にしてこなかったのか。
 ばたばたと通路の奥から足音が響く。
 数瞬の間を置いて見慣れた顔が姿を現した。
「ニール、大丈夫ですか!?」
「アレルヤ! 助けに来てくれたのか?」
 笑う青年の傍らで。
 呻いて蹲る三人を見て凡その事態を把握したらしいアレルヤが溜息をついた。
「………また絡まれてたんですね」
「またとはなんだ、またとは」
「だって毎年のことじゃないですか。不良あがりの新人に絡まれて通路裏に連れ込まれるの」
「それは―――」
 事実なので上手く言い返すことができない。
 僕たちも注意してたつもりなんですけど間に合わなくてすいません、ハレルヤはいまも別任務で席を外しちゃってるしと彼は謝罪を述べてくるが、もとより自分は成人男性なのだから護ってもらう必要はないと思うのだ。
 本当にこの兄弟は自分に甘い。所在なげに右頬をかいた。
 次いで、アレルヤの背後、通路の丁度曲がり角に佇む人物に気がついた。
 小柄なその人物は赤い瞳を大きく見開いている。偶々通りかかったとは思えない、とすると―――もしかして甲板から移動する際に感じた視線の持ち主は。
「セイエイ。お前がアレルヤを呼んで来てくれたのか?」
 思わず相手の頭を撫でたくなる衝動を必死に抑え込んで、半ば以上の確信を得ながらニールは問いを投げ掛けた。
 だが、何故か彼は不機嫌極まりなく。
「………問題なかったんだな」
「そりゃ、まあ」
 仮にも教官の任につく者が肉弾戦に弱くてどうする。アレルヤやハレルヤ、ソーマなどの体術を最も得意とする面子は別として、自分とて人並み程度の護身術は叩き込まれている。つい数ヶ月前まで地上をうろついてただけのゴロツキどもとは違うのだ。
「だったら―――」
 実に忌々しげに少年は視線を強めた。
 だが、それ以上の言葉を続けることなく、少年は素っ気無く立ち去ってしまった。何かを言いたそうにしていたのは確かだったのに。
 三人を容赦なく拘束していたアレルヤだけが苦笑を送る。
「なんとなく分かりますよ。あなたは無力じゃないんだから最初から抵抗すればよかったんです。軍隊では力はある意味、正義ですし―――まあ、この人たち以外にもあなたに害意を持っていた新兵はいたみたいですが、こうして実力を見せたからには連中も行動を控えるでしょう。丁度よかったのかもしれませんね」
「けどなあ。そーゆー連中だって、もしかしたら何か複雑な事情でも抱えてたのかもしれないだろ」
 尤も、事情を伺うこともなく問答無用で叩きのめすなんて大人気ない対応とったのも自分なんですけどね。って、え? 害意って何だ、害意って。オレってばそんなに皆から嫌われてたの? 少し、いや、かなりショックだぞ。
 ―――なんてことを考えてても。
「でも、あなたが最初から猫なんか被らずに彼らをこてんぱんにのしていれば、少なくとも彼は心配しなくて済みましたよね」
 さらりと告げられた内容には、何故だかそれ以上の言葉を返すことができなかった。
 それが、ほんの数日前の出来事である。




 ―――直近の記憶を思い出しながら周囲を見渡せば、やはり、ふとした瞬間に刹那と目が合う。
 ひとたび向き合ったならば相手から視線を逸らすことはほとんどない。だからいつも根負けする感じで自分から目を逸らすことになる。不誠実、なのかもしれないが―――真っ向から見詰め合っているのも非常に微妙だと思うのだ。これがグラハムならば喜んで無言の睨み合いに精を出すのだろうけど。
 彼の視線に意味を見い出したがるのは単なる自意識過剰なのではないかと悩むばかりの日々。ならばと正面きって問い質そうとすれば相手は無言の内にも不満を滲ませる。故にこそ彼は自分が「気付く」か「思い出す」ことを望んでいるのだろうとおぼろげに推測できても、記憶の底を浚ったところでどうにも合致する項目が見当たらない。
 なのに、こころの何処かでは確かに「知っている」気もするから振り切れないでいる。
 面倒だよな、と呟いたのは。
 自分に対してなのか彼に対してなのか分からなくとも、どっちにしたって結論が見えないことに違いはないのであった。
 溜息をついた後に柵から身を起こして食堂へと向かう。新兵の多くは既に食べ終わっているだろう。こちらも午後の鍛錬に間に合わせるためには早々に食事を済ませてしまわねばならない。同じように考えた教官クラスの人間が多かったのか、食堂はそれなりに混雑していた。トレイにサンドイッチやサラダやコーヒーを取り分けて空いている席がないかと視線を巡らす。
 すると。
(―――珍しいな)
 窓際の一画がぼっかりと空いている。
 そこに居るのは眼鏡をかけたひとりの少年だ。周囲は不気味な程に空席。誰も近付こうとしない。決して、決して、彼が悪い訳ではないのだが―――いつ何時、冷徹な言葉を向けられるか分からない美少年と食事を共にするのは百戦錬磨の軍人であってもなかなかに覚悟がいるということなのだろう。アレルヤやスメラギ辺りが居ればまた違ったろうが、生憎と彼と楽しく食事を取れそうな他の面子は食堂内に見当たらなかった。
 歩み寄り、正面の椅子を引く。
「空いてるか?」
「………どうぞ。ご自由に」
 ちらりと視線を寄越しただけで食事に戻ってしまう態度は実に素っ気無い。苦笑が零れた。
「相変わらずだな、ティエリア。食事の時ぐらい端末から目を離したらどうだ? 目が疲れるだろ」
「気遣いは無用です。私はあなた方のように無駄な会話で時間を潰すつもりはない」
「食事中の会話は無駄なことか?」
「職務に関連することならば話す価値もあるでしょうが、他に意味など見い出せませんね」
 そう言いつつも問い掛ければ答えてくれるのだから意外と付き合いがいい。ティエリアとは一時期、一緒に住んでいたこともあるからこの程度の反応なら慣れっこだ。
「そういや、この前モレノさんに会ったぞ。まーた無茶してるって?」
「ヴァーチェの基本性能をとことんまで試しているだけです」
「あー………そりゃあ心配される訳だ。お前、潜り始めるとキリがないからなあ」
 自身の出自に無意識ながらも不安を抱いているためか、単なる使命感ゆえか。
 理由はともかく、ティエリアは細身の外見に似合わず結構な無茶をする。健康にはモレノが逐一気を配ってくれているとしても当人が全く頓着していないのではどうにもならない。
 あたたかなコーヒーカップに手を添えたままニールはゆるく笑った。
「あんまり無茶はしてくれるなよ。頼むからさ」
「―――ふん」
 すぐにそっぽを向かれてしまったが無視された訳ではない。と、思いたい。
「ところで、あなたは」
 問いを発しかけたティエリアがすぐに口を噤んだ。
 訝しく思いながらも彼の視線を追って、ちょっと意外な人物に突き当たった。
 刹那だ。
 意外にもまだ食事を終えていなかったらしい。
 無言で隣に腰掛ける姿に「挨拶もないのか」と呆れたが、相席を断る理由もないので黙って受け入れた。いつも通り黒髪がピンピンと方々に跳ねている。誰かに切ってもらえばいいのに。
「セイエイ。食事まだ終わってなかったのか? もうあと十分もしたら集合だぞ」
「問題ない」
 ぱくぱくと勢いよく食べ物をかっこむ姿は餓えた小動物のようだ。
「そうだ。丁度いいから紹介しておこう。こいつはティエリア・アーデ。こう見えても『ガンダム』ヴァーチェのパイロットなんだぜ」
 その紹介文に少しは彼も興味を惹かれたらしい。食事の速度が遅くなる。いい傾向だと内心でガッツポーズをとりながら、今度はティエリアに刹那を紹介する。
「ティエリア。こいつは刹那・
F・セイエイっつって―――」
「知っています。新人の名前ぐらい一通り目を通しておくのが常識ですからね」
 ………氷の如き冷たさで返された。
 一度の溜息ののち、新人と同僚の仲を取り持つことを少々断念したニールは正面へと向き直った。
「そういや、ティエリア。何か言いかけてなかったか?」
「別に」
「別にって―――機密事項を話したかった訳でもないんだろ? 気になるから話してくれよ」
「………家に。戻らないのかと思いまして」
 珍しくも顔を俯けながらティエリアが控えめな声音で話す。
 ああ、もうそんな時期かとニールは軽く微笑んだ。この時期に自分が故郷へ帰ることをティエリアは知っている。帰る理由も、勿論。
「折りを見て戻るさ」
「そうですか」
 呟き返したティエリアは静かにコップに口をつける。
 中に注がれているのはハーブティなのか、とてもいい香りがした。
 粗方食べ終わった自らのトレイを見て、冷えてきたコーヒーカップに眼を転じて、更に隣のトレイを何気なく見遣る。
 ふと、少年の赤い瞳に捉えられて戸惑った。
「―――どうかしたか、セイエイ」
「………」
「………オレの家の話題が気になったとか?」
 言葉や頷きは返らない。が、視線の強さが増したので当たったようだ。人付き合いが苦手らしい少年も、徐々に周囲に興味を抱くようになったのかと思えば喜ばしい。
 確かに、この時期の自分は家へ戻る。だからという訳でもないが。
「そうか。もし―――興味があるんならオレん家でも来てみるか?」
 提案したのは何も深い意図があってのことではなかった。
 ただ、驚いたように幾度か瞬いた赤い瞳を面白く感じただけで。
 きらきらと彼の目が輝いて見えたのは気のせいではあるまい。僅かに喜色を浮かべた刹那が口を開こうとした瞬間、

 バン!!

 テーブルを叩き割らんばかりの音に食堂が静まり返った。
 カタカタとトレイの上で食器が僅かに振動している。
 トレイをテーブルに叩きつけて耳障りな音を奏でた張本人―――ティエリア―――は、俯いたままふるふると肩を震わせていた。
「………ティエリア?」
「君はっ………!」
 あ。オレじゃないのか。
 自分から呼びかけておきながら、ニールはちょっとだけほっとした。
 眼鏡の奥にこれ以上はないぐらいきつい光を湛えて、彼は刹那を睨みつける。

「君は! 無礼だ!!」

 お前が言うか、とニールが突っ込むより先にティエリアはすっくと立ち上がる。更にはそのままの勢いで呆然とした人々の波を掻き分けて立ち去ってしまった。
 いつぞやの誰かさんを髣髴とさせる見事な去りっぷりだが、如何せん、完全に機嫌を損ねてしまったらしい。
(………こりゃ、後で謝りに行かないとなあ)
 あの調子ではただ謝るだけでは駄目だろう。尤もらしい理由をつけて任務にかこつけて尋ねなければ彼は会おうともしてくれないに違いない。
 ちょっと面倒なことになったかもしれないとテーブルに片肘ついたニールの服を刹那が引っ張る。
 赤い瞳はひどくあどけなく見えた。
「何か、まずかったのか」
「―――いや」
 おそらくティエリアは、自分がこの時期に家に戻る理由を知っているからこそ怒ってくれたのだ。
 刹那は何も知らない。
 何も知らないから責められるべきではない。
 それでも、「怒って然るべきだ」との意志を見せてくれたティエリアの好意を嬉しく思うと共に、素直に反応しただけで怒鳴られてしまった刹那にすまなく思う。
「なんにもまずくないさ。お前はな」
 結局は事情を打ち明けている人物が極端に少ない己がいけないのだと、間違いなく問題の所在を認識しながらもニールは困ったように笑いかけた。

 

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※WEB拍手再録


 

日数がぽんぽん飛んでも話は遅々として進まず(哀)

ティエさんとアレっちの口調が微妙に定まらないです。特にティエさんは

一人称もずらしてるからなー。でも今更訂正するのも手間だし。

カティさんの動向は後への伏線です。たぶん(オイ)

 

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