「よーし皆、準備は整ったか? IDとパスワードを使ってログインしろ」
 青年の声を合図としてキーボードを操作する音が響いた後に、教室内のそこかしこで驚嘆の声が上がった。確かに誰でも最初は驚く。プトレマイオスの一室に居ながらにして、戦闘機のコクピットに乗っているような臨場感を味わえるのだから。
 新兵たちは仮想空間を体験するためのゴーグルとイヤホンを装着している。教官たるニール自身はログインしていないが、モニター上で画面は確認できるし、通信もできているから問題ない。端末の稼動状況に異常がないことを確認しながら室内をゆっくりと巡回する。
「今回はまだ試運転だから無理をする必要はないぞ。あくまでも仮想空間に慣れることが目標だからな」
「了解!」
 ざっと見て体調に異常をきたしている者は現時点でいないようだとほっと息をつく。実際にコックピットのようなものに乗り込んで稼動させるシュミレーターもあるが、あれは数が限られているので持ち回り制になっている。今日はアレルヤのクラス―――不在のハレルヤ担当クラスも含めて―――が使用しているはずだ。
 本来なら実際に戦闘機に乗って空を飛ぶ感覚を掴んでもらいたいところだが、いつ『ヴェーダ』が攻撃を仕掛けてくるかも分からないし、戦闘機の数に余剰はないし、下手に事故でも起こされようものなら貴重な人材も資材も失われかねない。今回のように各人の机に齧りついてキーボードを操作しているだけでは実感も掴みにくかろうが、本格的なシュミレーターを使えば身体的な負担も現実に近くなるし、シュミレーション中に『事故』を起こせば当然リバウンドもある。仮想空間に「酔う」タイプもいるし、出来る限り現段階で慣れておいて欲しかった。
 いまのところ、新兵たちの『飛行』は概ね順調なようである。未だ少年と呼んで差し支えない年齢の訓練兵が嬉しそうに声を上げた。
「教官! すごいですね、これ! でも、もっと本格的なのがあるんですよね!?」
「そっちを使えるのは来週だ。たぶん合同訓練になるからな、それまでに充分慣れておけ。あと―――あんまりはしゃぐな」
 はーい! と喜び勇んでいる歳若い訓練兵の頭に軽く手を置いて嗜めてから、ふと、合同訓練の相手を思い浮かべる。本当ならアレルヤかハレルヤの班と組むことになっていたのだが―――アレルヤが二班を同時に請け負わざるを得ないために組み合わせが変わってしまったから、おそらくグラハムの班と組むことになるだろう。互いに互いを『敵』と定めて模擬戦をやる予定だが、奴が無駄にはしゃぐことが簡単に予想できていまから天を仰ぎたくなった。なにせ、こちらには刹那が居る。
 周囲に気付かれぬよう溜息をついたニールは、ふと、教室の隅から突き刺さるような視線を感じた。
 刹那だ。
「どうした、セイエイ。OSの調子でも悪いのか」
「………いいえ」
 僅かにゴーグルをずらしてこちらを盗み見ていた刹那は、そのままフイッと視線を逸らしてしまった。一体なにを言いたかったのやら。そういやひとさまの頭に手を置いたままだったなと遅ればせながら腕をどかしたが、まさかその程度のことを気にするような彼でもあるまい。もとより何を気にするのかも明瞭でない相手だ。
 少しだけ視線を教室の隅へと転じた。テーブルが、ひとつだけ、空いている。
 瞬間的に表情を曇らせたのち、再び青年は手元の端末へと視線を落とす。いまはまだ隊列を組んで真っ直ぐに飛行させているだけなのだが。
「セイエイ、前に出すぎだ。もっと速度を落とせ。マイク! 少しずつ逸れてるぞ。機首の角度に気をつけろ。アフマド! 高度が低い―――今度は上げすぎだ、『ヴェーダ』に撃ち抜かれるぞ? ………そう。そのぐらいだ」
 初心者だけあって皆なかなかに注意点が多い。よくできた仮想空間でこれだ。現実の戦闘機に乗ったならどんな目に遭うことかと頭が痛い。特に慣れない内はうっかりと規定高度を超えてしまい、『ヴェーダ』に「撃墜」される者がほとんどだ。
「通常任務をこなす時も、浮遊センサーと戦う際も、常に対象高度よりも上がらないよう身体に感覚を叩き込んでおけ。目の前の敵を倒すことだけに気を取られてると『ヴェーダ』にやられるぞ。いいな!」
「了解!!」
 声に真剣味が増したのを感じて緩やかに笑みを浮かべた。
 慣れた頃を見計らい、実際にあった戦闘時のデータを訓練用にアレンジしたミッションを仮想空間内に送り込む。敵の外観や能力だけは本物そのものだ。とはいえ、初級者用に浮遊センサーの数は僅か二基に限られ、敵からの攻撃も単なる鏡面反射のみと設定されている。が、果たしてどうなることやら。二基を分断した上で浮遊センサーの表面にある僅かな隙間を撃ち抜くよう事前の授業で説明しておいたものの、何人がそれを実践できるのか。
「きょ、教官! 敵が!!」
「レーダーに何の反応もありませんでしたよ!?」
「ちげーよ、あったよ! 反応あったけど移動速度がとんでもねーんだよっ!!」
「おい、攻撃仕掛けてきたぞ、攻撃!!」
 室内のあちこちから動揺の声が上がる。知識として浮遊センサーの外観やら能力やらを知らされていても「現実」に見てみると明らかに違うように思えるのだろう。浮遊センサーは意外と大きいし機敏だし、器用だ。こちらの攻撃を跳ね返し、敵同士で連携もする厄介極まりない敵だ。
 隊列を組んでいた中の一機が不安定に揺れたかと思うと。
「くそっ!!」
「あ、こら!!」
 早々に放たれた一撃は即座に跳ね返され、別の一機にぶち当たった。教室の離れた場所から悲鳴が上がる。
「まだ攻撃には早いだろ! 友軍に被害を与えてどうする!」
「も、申し訳ありません、教官!」
「謝罪は後でいい。隊列を整えろ」
 落ち着けと繰り返し言い聞かせながら指示をくだしていく。初級者レベルなのだから、冷静に考えればきちんと対処できるはずなのだ。危なっかしい軌跡を描きながらも隊列が二手に分かれて敵を分断する。後は攻撃を仕掛けるのみなのだが、下手を打つと先刻のように攻撃を跳ね返されたり、避けられたり、避けられた結果として友軍を撃墜してしまったり、色々と大変なことになる。いまは模擬演習中だと笑って済ませられるものの本番でこんなミスを仕出かされれば本気で命がない。故にいつでも戦闘は真剣勝負である。
「よし、敵の分断には成功したな。そのまま少しずつ距離をあけろ」
「す、すいません、教官! 機体が思うように動かな………!」
「味方に信号で連絡。エンジンの状態を確認しろ。戦闘機の故障はランダムで発生するからな」
「んな無茶な!」
「現実にも起こり得るトラブルだ。文句を言う前に対処しろ、堕ちるぞ!」
 まだまだひよっこと呼ぶに相応しい面々に指示をくだしながら、やっとの思いで浮遊センサー二基を撃墜した頃には三十分近い時間が経過していた。まあ、平均的な成績と言えよう。ふ、と溜息をついて先ずは全員の労をねぎらった。次いで自らの戦闘成績を見直すように促す。
「画面の端にある赤いボタンを選択するとリプレイが流れる。自分の動きが隊列の中で適切だったか、燃料の消費はどの程度だったか、攻撃は当たったのか、そもそも攻撃する必要があったのか、よく確認しておけよ」
「はい!」
「いいか。『ヴェーダ』との戦いに武功を求めるな。どんだけ敵を追い詰めようとも生き残らなきゃ話にならねえ。先陣きって突っ込んで敵を倒せても、その間に友軍がやられちまったら目も当てられない。時には仲間を切り捨てる非常さも持てとは言うが―――失われた命だけはどうやっても返らん。それだけは絶対に、いつでも、忘れたりするなよ」
「はい、教官!」
 必死さを滲ませた声を微笑ましく感じながらも、果たして、実際の戦場においてどれほどの兵士がいまの言葉を覚えていてくれるだろうかと思う。生き残ることを第一目標にしろと耳にたこができるぐらい繰り返したところで、功を焦る瞬間というのは確かにあるのだ。
 こっから先は個別に戦闘シュミレーションをこなせ、とミッションデータを変更しながらもニールは僅かに苦い笑いを零した。




「―――それで? あなたは此処に何をしに来たのですか。無能な訓練兵たちの愚痴でも零しに来たのですか。あるいは自らの指揮官としての無能さを吐露しに来たのですか」
「無能って、………あのなあ」
 あんまりな言い草に流石に呆れる。と、更に畳み掛けるように、
「用がないのなら帰ってください。私は忙しい。もとよりあなたにもこんなところで油を売っている暇などないはずだ」
 更なる追撃をかけてくるのだから本当にティエリアは容赦がない、と青年は考える。
 傍らで唸りを挙げているのは彼の戦闘機だ。あまり無茶はするなと言ったのに、彼は時間さえあれば機体の調整に没頭している。後方支援型のヴァーチェは情報収集を担う側面も強く、『ダイヴ』に慣れておくに越したことはないのだが、あんまり無茶をし過ぎては意味がないと思うのだが。
 まあ、確かに。
 一日の講義を終えたその足でやって来たニールにも非はあると言えよう。今日の訓練結果を纏めたり上司に結果を報告したり明日のプログラムを組んだり他クラスと連携をとったり、とかく教官はやることが多い。けれども最低限の仕事はこなした上で訪ねているのだからあまりとやかく言わないで欲しいなあとは思う。ましてやティエリアも、
「まったく。あなたのような教官に指導される訓練兵たちに同情しますよ」
「………そりゃどーも」
 等と文句だけは尽きることがないものの、広い格納庫の隅に置かれたテーブル脇の椅子を引いてくれるのだから苦笑してしまう。こちらの姿を確認した途端に戦闘機から降りて、批判を繰り返しながらもポットで湯を沸かし始めるのだから実に分かりやすい。そんな感想を口にしたが最後、冷徹な視線と言葉で完膚なきまでに叩きのめされるのが目に見えているので決してしないけれど。余談ではあるが、アレルヤは常にそれをやって粉微塵に粉砕されている。
 彼が手ずから淹れてくれたコーヒーを恐る恐る口に含む。熱すぎてよく分からないが、どうにか「ニンゲン」の味をしているようだと安堵する。一緒に暮らしていた頃なんてそりゃあもう、どうして単なるインスタントでここまで壊滅的な味を出せるのか、いっそ芸術的と評してもいいぐらいだったのだが―――そうと告げたが最後、機嫌を損ねてしまうのは明白なのでやっぱり絶対に伝えたりはしない。
 散々嫌味を言った後で、ようやくティエリアはこちらを見た。
「それで? わざわざ私を訪ねてきた理由はなんですか」
「無茶してないかと思ってさ」
「お引き取りください」
「ははっ、冗談だって! 実はちょっとばかり調べてもらいたいことがあってさ」
 慌てて苦笑混じりに手を振れば、向こうもこちらの反応は想定内だったのだろう。軽く鼻であしらうにとどめ、「何をですか?」と先を促した。
 調べてもらいたいと思ったのは例の中年男性の顛末だ。随分前にクリス経由で王留美に依頼が行っていて、ハレルヤの出立から数日後に彼は上層部に引き取られていった。だから間もなく結果報告が来るだろうと踏んでいたのに何も連絡がない。常になく時間を要している。確認した限りでは報告書も上がっていないので未だ保留案件になっている可能性が高い。もしかしたら意外と複雑な事情が絡んでいたのかと、妙なことになっていなければいいんだがと、心配せずにはいられないのだ。
 どうしてそんなに苦労性なんですかとティエリアは呆れながら、まだ連絡が行っていないとは確かにおかしいですねと首を傾げた。
「王留美は優秀なエージェントです。あなたが受け持ちの訓練兵に対して調査を依頼したのは知っていますが―――これだけの日数を要しているとなると少々気になりますね」
「だろ? だから、そこを何とか」
「下手に情報を探れば私が減点を食らうんですがね。まあ、いいでしょう。上の連中に気付かれずに情報ぐらい盗みだせなければ『ヴァーチェ』のパイロットとは言えない」
 何処か誇らしげに彼はコクピットから小型の端末を取り出した。彼の端末は自分たちのものとは異なり、常に『ヴァーチェ』と連結されているために情報収集に長けている。なので、ニールは以前から内々に知りたいことがある時にはティエリアの力を借りることにしている。出来る限り単独で事を成したくはあるのだが誰にでも限界はある。一時期は彼にまで累が及ぶかも知れないと遠慮していたのだが、そんな気遣いはティエリアの「水臭い!」の一言で一蹴されてしまった。
 端末を操作していたティエリアがふと、動きを止めた。珍しくも戸惑ったような色を瞳に浮かべる。
「どうした?」
「いえ………あなたが出した依頼書の番号は、AG-050023409で間違いないですか」
「ああ」
「既に王留美からの回答が来ています。数日前に」
「なんだってえ!?」
 もしや自分が見逃していたのかと、慌ててニールも自身の端末を起動する。教官になってからは上層部や同僚との連絡も多く、メールや暗号回線を使っての遣り取りも増えた。その忙しさにかまけて必要な確認を怠っていたのかと焦ったのだが、何回見直しても、ティエリアが確認したという回答連絡の日時で検索をかけても、メールのひとつも引っ掛からない。
 いよいよもってティエリアが眉を顰めた。
「………故意にあなただけが連絡先から外されているようですね。誰の仕業か分かりませんが、やれるとしたら王留美か、中継地点に当たるスメラギ・李・ノリエガぐらいだ。代わりにハレルヤ・ハプティズムに連絡が行っているようです」
「おかしいだろ。依頼人たるオレには何の報告もなくて、無関係なはずのハレルヤに連絡が行くなんて」
 ふと、脳裏を数日前の光景が過ぎった。
 久しぶりにプトレマイオスを訪れていたカティ。カティと話し込んでいたハレルヤ。AEUの助っ人に向かってしまったハレルヤ。思い出してみれば、彼の出立前後の態度は少々おかしかった。陰謀、とまでは行かないまでも―――某かの作為、をそこに感じる。
 嫌な予感がした。
 やや気を取り直したようにティエリアが「いずれにせよ」と口を開く。
「いずれにせよ、問題は解決したようですね。こちらにいる問題の男性………アルベルト・ノヴァは軍を辞めることになるでしょう。事の顛末だけでも聞いておきますか?」
「ああ、頼む」
「要はあなたの察した通りです。彼は脅されていた」
 家族を盾に取られていた、と言いながらティエリアは自身のコーヒーを口に含んだ。一瞬だけしかめっ面になったのはコーヒーが想像以上に濃かったのかも知れない。特訓したお蔭でインスタントならばどうにか飲める味に仕上げられるようになった彼ではあるが、未だに粉を多く入れすぎるきらいがある。
 報告によると、アルベルトは故郷のAEUで家族を人質に取られていたらしい。家族を解放してもらいたければソレスタルビーイングから有用な情報を盗んで来いと脅されて、結果、彼が選んだのは従軍という方法だった。もともと身寄りのない彼にとってはいま現在の家族こそがすべてで、大切なひとたちに何かあってはならないとの想いから軍や警察に相談することすらできなかったのだろう。
 彼の事情を察したエージェントは速やかに行動を起こし、恐喝者を捕縛すると共に家族の身の安全を確保した………。
「そっか。解決したんなら―――それでよかったよ」
「しかし、聊か解せない点もあります。恐喝者は本当に軍の情報を目的としていたのでしょうか」
「どうしてそう思う?」
「これが身内の犯行だからです」
 さらりとティエリアは答え、ニールは暗い表情を浮かべた。
「恐喝者はアルベルトの義理の息子でした。あなたも見ての通り、アルベルトの挙動不審さと言ったら誰から見ても明らかなほどです。彼ほど密偵に向いていない人間もいない。義理の息子として養父の性格を間近で見知っていたなら尚更そう判断したはず」
「………確かにな」
「端末の使用履歴が示す通り、アルベルトは家族の安否を気遣うあまり極端に地上に連絡を取り続けている。恐喝者からすれば実に厄介だ。しかし、それを止めた形跡もないし、そもそも入隊を許可したのも疑問です。軍の情報を探りたいならいっそのこと<聖典の使徒>に仮入団した方が確実だ」
 そりゃまた極端な例だと思えども、少年の言葉は事実でもあるのだ。新兵が軍の極秘情報を掴める可能性は限りなく低く、一方、内部では分からないことも外に出てみればすぐに分かる場合がある。軍の内部情報など最たるもので、下手したら自分が知っている諸般の事情よりも、<聖典の使徒>の上層部が知る軍の真相の方がよほどに多いかもしれなかった。
「単純に、アルベルトのスパイ任務を許可した恐喝者は見事なまでにヒトを見る目がなかったのかもしれませんが。どう頑張っても無理なものは無理という人種はいます。あなたみたいに」
「なんだそりゃ」
「言葉の通りです。例えばあなたが<聖典の使徒>に密偵として潜り込めと言われたところで満足行く任務が果たせるとは到底思えない」
「おいおい、あんまり舐めるなよ。確かに誰かを騙すのには向いてないかもしれないが、任務となればオレだって―――」
「あなたは敵にさえ情けをかける」
 ティエリアは整った顔に僅かに不満げな色を滲ませた。
「勿論あなたはパイロットとしては優秀な部類に属しますから、任務とあれば必要最低限の仕事はこなしてくるでしょう。ですが、無駄に敵に情けをかけそうだ。改心しそうだからなんて理由ひとつで<聖典の使徒>の子供を犬猫と同じ感覚で拾って来るに違いありません」
「………お前はオレをなんだと思ってるんだ」
「ニール・ディランディだと思っています」
 彼がそんなことを考えてしまうのは、彼自身がニールに『拾われた』からだろうか。しかし、砂漠の真ん中にどう見ても人間としか思えないもの―――更には息をしているように見えた―――が埋もれかかっていたりしたら、余力のある者なら誰だって救うに違いないと思うのだ。あの時の自分は戦闘機に乗っていて充分以上に余力があったから助けられたに過ぎないのであって、相手が犬猫でも救ったかと言われたらやっぱり拾ったかもしれないが、―――って、まあ、それはともかく。
 なんにせよ、情に厚すぎて勝手になんでも拾ってくる男だと思われるのは心外だ。
 子供っぽい不機嫌さを現すかのようにニールはそっぽをむいたままコーヒーに口をつけた。うん。とても苦い。お前だってスパイには向かないだろと皮肉をこめて言ってやろうかとも思ったが、「私に務まると思うのですか」と真顔で返されそうな気がしたからやめておいた。たぶんにそれは懸命な判断だったに違いない。
「しかし、結局は身内の犯行って………家族仲でも悪かったのか」
「―――」
 急にティエリアは考え込むように口を噤んだ。しかし次の瞬間には、また、いつも通りの落ち着いた声で報告書の中身を説明し始める。
「もともと夫妻には子供がいなかった。だからこそ養子縁組をしたのでしょう。養子にした時点で相手は子供というよりは少年に近い年齢でしたから色々と難しい面もあったろうと推察されます。ですが、報告書によれば当初は問題なく、むしろ仲睦まじく暮らしていたそうです」
「じゃあ何が問題だったんだ」
「本当の子供ができたからでしょう」
 もう子供はできまいと諦めていた夫婦に、なんの奇蹟か因果か、子供が授かった。自分の血を分けた子供が、自らの腹をいためた子供が、かわいいと思うのはヒトとして当然のことではある。思うに、養子と我が子とを同等に扱おうとしても節々で対応に差が出てしまったのだろう。ましてや養子と実子の年齢差もひどく、諸般の事情を目の当たりにし続けなければならなかった養子は居心地の悪さを覚えていったのかもしれない。そこから打ち解けていける例も多いが、彼らの場合はそうならず、家族間の溝が開いてしまったのだ。
 ニールは黙って再びコーヒーに口をつけた。
「恐喝者が何を考えていたのかなど我々には知る由もありません。しかし彼は、恐喝しておきながらも養母や弟に危害は一切加えていなかった。彼の言葉に養父が勝手に屈し、勝手に恐怖し、勝手に事を大きくしたとも考えられる」
 脅された側の対応が違っていれば恐喝者の反応もまた違っていたのではないかと、ティエリアは暗に告げている。引き摺られるように、もしかしたら恐喝者は「お前がそんなことをするはずがない」と養父自身に否定してもらいたかったのかもしれないと、「弟だけでなく自分も愛してくれている。信用してくれている」との安心を得たいがためにこんな馬鹿げたことを仕出かしたのかもしれないと―――虚しくも願ってしまう己もとことん愚かであるに違いない。
「………遣り切れんな」
「ありふれた出来事です」
 気にしていたら埒があきませんと続ける彼は冷たいようでもあり、気遣ってくれているようでもある。だから青年はただただ笑いを返した。確かに、今回のことはありふれた出来事である。戦乱の世の中だ。そしてまた、戦乱の世の中でなくとも人間が「人間」である限り、ヒトとヒトとのすれ違いなどゴマンと溢れている。
(でも―――)
 とどのつまり、ハレルヤはどうしてAEUに呼ばれたんだろうと考えが元に戻る。ハレルヤがAEUに向かったことと、今回の件は別問題と考えることもできるが、おそらくそうではあるまい。恐喝者は人質を傷つけることはなかったと言うが軍の人間には抵抗したのだろうか。ハレルヤの助力が必要なほどの手練だったのだろうか。わからない。
 拭い切れない違和感を抱えたまま問いを発した。
「ティエリア。そいつの、―――恐喝者の名前はなんて言うんだ?」
「知ってどうします」
「どうもしないさ。けど、聞いて、覚えておくぐらいいいだろ」
「物好きですね」
 反論はしない、とまたしても苦笑を返した。
 こちらの気紛れに少年は軽く溜息をつくと、手元の端末に再び視線を落とした。画面のスクロールにあわせて視線が僅かに上下する。
「名前は、デヴァイン・ノヴァ。養子に入ってから名前を変えたらしい」
「その前はなんて名だったんだ?」
 重ねて尋ねたことに深い意味はない。
 なかったのだ、が。
 素直に続けられたティエリアの言葉に。

「以前の名は―――ブリング・スタビティです」

 ………ひどく。
 後悔することとなった。

 

(5) ←    → (7)


 

ちんたらちんたら。

ハレルヤサイドの過去話とはここで繋がってきます。

ただこれだけのために中年おじさんの名前を出せなかったんすよね(苦笑)

 

BACK    TOP

 


女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理