吹き抜ける風が勢いを増している。太陽の光が目に眩しく、目を細めると共に深く息を吸い込んだ。
「―――大丈夫か」
「何が?」
 問いに問いを返してからしまったなと苦笑する。いまの答え方はあまりにも素っ気無かった。
 874との情報交換を終えたハロを抱え、機体のエンジンを入れて、見送りに来てくれたただひとりの同僚をニールは振り返る。ハレルヤにはまだ事後処理の任務が残っている。プトレマイオスへ戻るのはもう少し先になるだろう。彼の帰りが遅くなることは残念でもあったが、ほっとしてもいた―――今回の件を知るのは彼を含めた一部の人間だけだから。
 左手でゴーグルを握り締めたままニールは再度苦い笑みを刻んだ。
「………悪ぃ。お前に当たるようなことじゃなかった」
「気にすんな」
 むしろ誰かに八つ当たりすべきだろと真っ向から見つめられると冗談抜きに頼りたくなってしまう。
 浮かんだ誘惑を振り払い、「考えておくよ」と言い残してデュナメスへと乗り込んだ。アポロニウスに滞在していたのは半日程度。けれども、精神的な疲労は数日間の任務についた時よりもひどいものだった。表情だって見られたものではないに違いない。
(基地に帰り着くまでに―――)
 いつも通り振る舞えるようになっていなければならない。
 こんな状態でグラハムにでも会ってみろ、何を言われるか知れたものではない。アレルヤも駄目だ。ティエリアだって、イアンだって、モレノやスメラギだって、誰にも心配などかけたくないし情けない面など晒したくはない。
 ハロをコックピット内の定位置に嵌め込んで操縦桿を握った。
 低い唸り声を上げてデュナメスが滑走路を走る。空へと至る際に身体にかかる重圧が暗く澱んだ体内に拍車をかける。
 嗚呼、まったく。
 今更どうしようもないことを考えている。所詮は無力なニンゲンひとり。誰かの命を奪うことはできても運命を背負えるはずもなく、先行きも未来も当人が決めるものと知りながら、それでもこんな結末になるぐらいならと傲慢な想いが頭を擡げている。
 赤毛の青年の疲れきった金色の瞳が脳裏に閃く度に。

 ―――あの時。
 撃ち殺しておけばよかったのか。

 きつく噛み締めた唇には気付かぬ間に血が滲んでいた。




 薄暗い廊下を歩いていると何処かから声が聞こえてきた。
 珍しい。いつもは閉じ篭もった部屋でひっそりと話しているのに、今日は何を油断しているのだろう。あるいはわざと聞かせているのだろうか?
 少しだけ開いた扉の隙間から廊下へと光が差し込んでいる。
 あまり褒められた行為ではないと知りながら好奇心を抑えることができず、足を忍ばせて近づくと耳を欹てた。話しているのは………声からしてリボンズとリジェネ、のようだ。
 垣間見た白い部屋の中。
 リボンズはゆったりとしたソファに腰掛け、リジェネはその背後で腕を組んで佇んでいた。
 眼鏡をかけた少年が口を開く。
「―――ブリングは始末されたようだよ」
「そうらしいね」
「どうする? あのまま放っておくかい。量産型だから捨て置いても問題ないと思うけど」
「いや。今回は王留美に連絡を取ってきちんと回収しておこうと考えている。軍の内情を色々と見てきてくれたようだから」
 彼の中にはニンゲンと軍に対する恨みや憎しみがごまんと詰められているに違いない。絶望も諦観も憎悪も怒りもデータとして蓄積されるなら無駄ではないよ。あまりにもニンゲン的感情に支配されたことは嘲笑の対象としか成り得ないけどね。
 薄い唇の端を上げてひっそりと笑う。
 ブリング。
 ブリング・スタビティ。あるいはデヴァイン・ノヴァと呼ばれた『モノ』。
 彼は『自分』と同じ量産型だ。『ヴェーダ』さえあればすぐに代わりが作れる存在で、敢えてニンゲンとして地上に降ろされて、他者と触れ合うことで得た知識や感情のすべてを『ヴェーダ』に情報として吸収されて行く只の生きた端末だ。
 確かブリングは長期任務に出されていたはずである。リボンズが知恵の一端を与えた超兵機関に「サンプル」のひとつとして送りつけていたことを思い出す。彼は組織内でそれなりに大切に扱われていたと聞いていたが、その施設もいまでは破壊され、流れるままに生きていたらしい。
 知らず、瞳が憂いの色に染まった。
 彼は『自分』と同じだ。
 知らぬままに任務に出され、記憶のないままに『ヴェーダ』に経験を吸い取られ、不要となれば簡単に始末される。幸か不幸か『自分』は記憶を保ったまま城に再回収される運びとなったが、おそらくブリングは「死んだ」のちに検体係に速やかに回収されるのだろう。城に戻ってきたブリングは地上で何年かを生き抜いてきた「ブリング」ではない。量産型の中の「単なる一体」に戻る。
 ぼんやりと扉の前に佇んだままでいると。
 ―――リボンズが、こちらを見て笑った。
「………!!」
 慌てて扉から離れて、薄暗い廊下を走り出す。
 息が荒い。呼び止められたくない。早く逃げたい。
 いつから? いつから気付かれていた? 最初から? なら、どうして盗み聞くことを許した? 目的があって? 単なる気紛れで? わからない、わからない、わからない………。

 ―――怖い。
 怖くて、怖くて、怖くて堪らない。

 城の中から広い甲板へと飛び出したところで漸く安堵の息を吐く。吹き抜ける風。眼下に広がる大地。深呼吸することで動揺を収める。
 ………『自分』の立場が微妙なものであることぐらい疾うに理解している。
 ただの使い捨ての情報収集役として、数ある量産型の一体として生み出された。リボンズの意志ひとつで消されてしまうような儚い『自意識』しか持ち合わせていない人形。彼は量産型の上位に属しているから、いつでも好きな時に『自分』たちを操ることができるのだ。
 それに対して不満を抱くことこそないけれど、でも、気付かぬ内に色々な記憶を消されてしまったとしたらやはり寂しいと思う。寂しいと思うことさえなくなってしまう事実が怖いと思う。多くの「同僚」が死んだ事件の原因の一端が自らにあると知っていても、地上に居た頃の記憶をいとおしく感じている。言えた義理か。恥を知れと罵られることも分かっている。いっそ綺麗さっぱり忘れてしまった方が、愚かなニンゲンへこころ惹かれている己に幻滅することも、それ以上の罪悪感に苛まされることもないと理解している。
 だが、たとえ何と言われようとも。
(―――失くしたくない)
 お願いだから『彼』に対する想いと記憶だけは消さないで………と。
 泣きたくなる気持ちを抱えて空を見上げる。
 凍り付いていた足を頑張って動かして、今日もまた甲板の何処かで地上を眺めているだろう『彼』を探す。『彼』もまた、過去を持たぬ存在だ。一度死んで、甦った『彼』の中からは、記憶があっても感情は消え失せていた。
 何が楽しかったのか何が嬉しかったのか何が幸せだったのか。
 何が嫌だったのか何が憎らしかったのか何を恨んでいたのか。
 理論立てて説明することはできても、いまとなっては薄皮一枚挟んだ遠い世界のことのように曖昧に思えるのだと、いつか語っていた。
 でも。

『あんたと居たことは―――楽しかった、ってのは覚えてるぜ』

 そう、『彼』が笑いかけてくれたから。
 所詮は幼い精神しか抱かぬ者同士の拙い想い、単なる傷の舐め合いだと他者からは笑われるような、それでも思い返してみればひどく切なくあたたかい地上での出会いも、語り合った夜も、触れ合った記憶も、何よりもそれに伴って得られた喜びや悲しみといった感情の数々も、いまとなってはいつ消されるか分からない『自分』ひとりの中にしか根付いていないのだとしても。
 だからこそ、『彼』の傍に居たいと思うのだ。
 リボンズに消されたくないと願うのだ。
(どうか………)
 失いたくないから。
(………『私』の名前を呼んで)
 いつ消されるか分からないと怯えているこころに喩え消されても再び同じ感情と共に出会えるのだと根拠のない夢と希望を信じ込ませて。
 この不確かな存在に確かな実在の証を刻んで。
「ライル………」
 呟くアニューの身体は未だ小刻みに震えていた。




 常よりも早く昼が過ぎ、夕方となり、夜が訪れる。行きとは異なり遠ざかりつつあるプトレマイオスを追いかける体勢になったためか、帰り着いたのは遅い時刻だった。頭上に瞬く星が遠い。疾うに日中の訓練は終わり、一般兵たちの食事も終わっている。本来であれば自らも食事に向かうべきであったが何となく食欲がわかなかった。帰りの航路でつまんだ携帯食料と水だけが今日の栄養補給源だ。
 着陸したデュナメスの中で相棒の頭を撫でる。
「ハロ。すまないが今日は機体の整備に回っててくれるか」
 賢い独立AIは目をチカチカと点滅させるばかりで答えようとしない。気遣われているのだと分かってニールは曖昧な笑みを返す。
「だーいじょうぶだって。ほら、デュナメスにとっても結構強行軍だったろ? 万全の態勢に整えておきたいだけだ」
『………リョウカイ、リョウカイ』
 未だ釈然としない雰囲気を残したままハロが両耳をはためかせた。本来的には機械に過ぎないはずの存在にまで心配させるとは、まったく、いまの自分はどんな顔をしているのだろう。ぱちぱちと己が頬を叩いて「しっかりしろ」と叱り付ける。
 意を決して管制室の戸を潜り、折りよく在席したままであったセルゲイに事と次第を報告する。時刻が時刻なためか人影も疎らだ。スメラギやアレルヤといった顔見知りがいなかったことに胸を撫で下ろしたが、何より良かったのはグラハムがいなかったことかもしれない。時に彼はビリーと共に管制室に乗り込んで延々と演説をかましていることがあるのだ。行きがけに無事を知らせたまえと声をかけられてはいたが、こんな状態で帰還の挨拶などできるはずもない。彼と会えばそれとなく慰められることが確かであるだけに尚更だ。
 説明を聞き、入隊した頃からの上司は深々と頷きを返す。
「了解した。―――ご苦労だったな」
「いえ。個人的な事情に過ぎないのにアポロニウスに向かわせていただいたことに感謝しています。明日からは通常の任務に復帰いたします」
 代役の手配もありがとうございましたと敬礼する。
 労わるようなセルゲイの言葉に見送られて管制室を後にした。
 扉が閉まると同時に零した溜息が重たく廊下に響く。ゴーグルを外し、黒手袋を外し、スカーフを外して襟元を緩める。
 就寝時間を過ぎた廊下には非常灯しか点けられておらず、窓から差し込む月の光が廊下にやわらかく広がっていた。響くのは己が足音のみ。人声もなく、ひとのいる気配もなく、不気味なほどに静かな時間だった。
「………」
 軽く、目を閉じる。
 開いて、再び歩き出す。
 少しでも気を抜くとまた思考が深く沈みこんでしまいそうになる。
 どうしようもないことだ。どうしようもないことだったと知りながら、自分はまだ、自分が彼のために何かできたのではないかと思い上がったことを考えている。
 例えば、―――殺しておけば良かったのか、なんて。
 ヒトの生き死にに関することを自らの後悔の念だけで左右しようとしてしまう。
(駄目だな、オレは)
 勝手に自己完結してすべてを進めようとする癖はむかしから何ひとつ変わっていない。
 喉の渇きに誘われて薄暗い食堂に足を踏み込んだ。常ならば賑わっている場所もいまは静まり返っている。窓の近くに置かれた観葉植物がゆらゆらと夜の空気の中に葉を揺らめかせ、月の光により得た影がテーブルの上に長々と続いていた。
 食べ物なんてないし、食器も見当たらないし、給湯器も動いていない。当たり前かと呟きながら奥の給湯室へと向かう。多くの搭乗員がいるプトレマイオスの清掃は基本的に新人を中心として持ち回りで行われているが、今日の担当はどの組だったのだろう。流しの傍に積み上げられた食器の中からガラス製のコップをひとつ取り出して水を注いだ。蛇口から流れ落ちる細い水の線を眺め、縁から溢れそうになったところで止める。持ち上げた指先に伝わる温度はぬるい。熱くもなく、冷たくもない水で喉を潤したところで何気なく視線を給湯室内へと回す、と。

 そこに。
 ―――ヒトがいた。

「っ!? っは! げほっっ!!」
 噎せ返ってコップ内の水を流しにぶちまける。あ、危なかった。ちょっとでも腕の向きが違っていたら水を床へ垂れ流すところだった。
 ニールが激しく咳き込んでいるにも関わらず奥の影は動く様子がない。物凄く深く寝入っているようだ。両の手でしっかりと掃除用具のモップを抱え込んで、冷蔵庫と食器棚の隅にすっぽり収まるように四肢を縮めて丸まっている。明かりを点けようと手を伸ばし、ふと、熟睡している人物を起こすことが憚られた。かといって放置しておく訳にもゆくまい。どんな末端の人間であれ居住区が定められており、狭くともひとりひとりにベッドが分け与えられているのだ。マットが固くともシーツが薄くとも、こんな埃っぽい給湯室で眠るよりはなんぼかマシだろうに。
 何をやっているんだと呆れながらも近づいて、漸う明らかになった顔に驚いた。
 特徴的な赤茶けた瞳は閉じられているとも見間違いようのない黒髪、小柄な身体、日焼けした肌。
 ………刹那、じゃないか。
 なんでこんな時刻にこんな場所で―――。
 首を傾げたところでいつぞやの噂話を思い出す。確か、刹那が夜になると居なくなるとか眠っていないんじゃないかとか何とか。就寝時刻になる度にこんなせせこましい処に潜り込んでいたのでは、そりゃあ誰も気付くはずがない。ニールが気付いたのだって本当に偶然のようなものなのだから。
 モップを握り締めた姿にグラハムを思い出す。彼も何故か、眠る時はライフルだの玩具の剣だのを抱えて眠ることを好んでいた。身を守るものが近くにないと落ち着かないらしい。孤児院の出身であることが関係しているのかとも思ったが、孤児院育ちであろうと何処育ちであろうと無防備に眠る子供は眠るのだし、結局は個人の性格だの資質だのに因るところが大きいのだろう。
 右手のコップはそのままに左手を肩に―――触れることを迷い、結局、言葉で呼びかけた。
「………セイエイ。刹那・F・セイエイ」
「―――」
「おーい、こんなところで寝るなあ。規律違反もいいとこだぞ。減点くらいたいのか」
「―――」
「起きろー………ちょっかい出されたくなかったら自力で起きろー………」
「―――」
「………………くそっ」
 こんな小声では気付く訳もない、か。
 やれやれと呟きながら少年の前に屈み込んで顔を覗き込む。固く瞑った目やへの字に結ばれた口は年齢相応のもので可愛らしくもある。と、同時に、眉間に寄った皺や全身から漂う緊張感は到底ただの少年のものとも思われないのであった。まるで、疾うに戦場を体験しているかのような。
(ん?)
 刹那が何事かを呟いた気がして神経を集中した。
 僅かに唇が動いている。うわ言か。
 徐々に少年の表情が険しく、眉間の皺が深まって行く。異国の言葉を呟いている。世界の言語が一元化されつつあるとは言え地域ごとに根付いた言語がすべて淘汰された訳ではない。ニールが慣れ親しんだ言葉を刹那は聴いたことがないように、刹那が生まれ育った土地の言葉をニールは理解し得ない。かつて世界中で読まれた聖典に記された『愚かなる者たちの塔』の話をこんな場面で思い出してもどうにもならないが。
 少年がきつくモップを握り締め、小さく震え出すに至って覚悟を決めた。触れないと決めていたが、覚めない夢の中に彷徨わせるのは嫌だ。
 左手で刹那の肩を揺さぶる。
「セイエイ―――刹那・F・セイエイ! 起きろ!!」
「………」
 薄っすらと瞳が開く。赤茶色の瞳がぼんやりとこちらを捉え、意志の篭もらぬ視線を投げかける。
「どうした、大丈夫か!? お前、」
 魘されてたんだぞ、と、言いかけた瞬間。
 視認することも叶わぬ速度で繰り出された左拳を間一髪で避けた。
「っ!?」
 寝起きの癖になんて一撃だ。顔面に食らってたら一発でのされていたかもしれない。
 即座に立ち上がって相手から距離を置く。
「お、おい、セイエ………ッ!?」
「―――」
 無言のうちに裂帛の気合。
 次いで繰り出されたモップの一撃を左腕で払い除ける。
(こいつっ!)
 普段の体術の授業は手加減してやがったのか!?
 が、未だ身体は目覚めていない。判断力も低下している。払い除けられた勢いで蹈鞴を踏みながらも二撃目を繰り出そうとした刹那だが天井にモップの先端が引っかかる。その隙に右手のコップを投げ捨て、更に動こうとした刹那の足元、より正確に言うとモップの布部分を思い切り踏んづけた。
「………っ」
 小さい身体が勢い余って前につんのめる。危うく顔面から床に直撃するところを後ろから首ねっこ引っ掴むことで留め置き、代わりに落下したコップの破片がニールの右手の甲を薄く切り裂いた。
 容赦なく両腕で相手の襟首引っ掴んで顔を寄せる。
「おい! いい加減、起きてるんだろうな!? 答えろ、刹那・F・セイエイ!!」
「………」
「どんだけ寝汚いんだ、お前! もしかして毎朝こうなのか! だから団体部屋での就寝を拒否してたとか言わないだろうな!? っ、て………」
 あまりにも答えがなく、反応も反論もなく、引きずられるままにだらりと垂れた両腕と両足に違和感を覚える。眉根を顰めて罵りをやめ、改めて少年の状態を見極めるまでもなく。
「………………おい」
 まさか、と頬を引き攣らせるまでもなく。

 刹那は。
 寝て、―――いた。この上もなくぐっすりと。

「………」
 もはや脱力するしかない。
 なんなんだ、一体。起きたと思ったのに実は起きてないとかなんなんだ。覚醒は一瞬だけで再び眠りに落ちてしまったのか。自らに触れた存在に攻撃を仕掛けた割には『敵』であるはずのニールにあっさり捕まってるし、まったくもって意味が分からない。
 ずるずるとへたり込んで深い溜息を吐く。右手の甲に走った朱線がチリチリと痛んだ。
 数分間は座り込んだままでいただろうか。このまま此処に居ても仕方がないと砕け散ったコップの欠片を片付ける。大きな破片を拾い、箒で掃き清め、掌で床をなぞって欠片の有無を確認し、少年から奪い取ったモップで念入りに水拭きする。その間、部屋の壁に寄りかかった刹那はいっかな目覚める様子がなかった。すぐに終わったとは言え格闘紛いのことをしてまで眠り続けられるのだから大したものだ。ひょっとしたら大地震が来ても起きないのではないか。まあ、プトレマイオスは宙に浮かんでいるのでそもそも地震とは縁がないのだが。
 棚の奥から取り出して来た救急箱で手当てをする。右手の傷は深くはない。絆創膏を貼っておけばどうにかなる程度だ。見咎められれば周囲にとやかく言われるかもしれないが、要は、手袋で隠してしまえばよいのである。そもそも手袋をしていれば怪我なんてしなかったよなあと考えて、手と指を大切にする『狙撃手』が無様なものだと苦笑した。
 起きる気配のない少年を前にして行きがけのグラハムの言葉を思い出す。戻ったら必ず、セルゲイか、自分か、刹那に無事を報告しろと言われていたような。上司であるセルゲイや同僚のグラハムはまだしも、何故そこで刹那の名が挙がるのか甚だ疑問ではあったが、なるほど、聊か荒療治ではあったがだいぶ気分は晴れたかもしれない―――非常に予想外の方法で。
 もう一度、刹那の肩を揺すってみても今度は起きる気配のひとつもない。
 魘されていないならそれはそれでいいのだけれど。
 壁の時計を確認したが、こんな時刻に大部屋に送りに行こうものなら他メンバーの安眠妨害もいいところだ。医務室には「寝てたから」なんて理由で連れて行ったが最後、モレノにどんな目に遭わされるかわかったもんじゃない。
「………起きなかったのが悪いんだからな」
 恨むなよ、と前置きをして。
 小さな身体を背に負った青年はのろのろと歩き出したのだった。




 ―――幼い頃の記憶は曖昧な部分と鮮烈な部分が混在している。
 物心つく頃から銃とナイフを手にしていた。満足な食事もなく、安心して休める寝床もなく、ただ身体能力を鍛え上げる日々。日毎夜毎に傍らで繰り返される聖典。選ばれた存在になれと、戦い続けることで『天』に迎えられるのだと教えられた。
 そして。
 教えられた通りに―――自らの手で、自らを産み出した者たちを殺した。
『どうして………』
 涙で揺らぐそのひとの瞳も表情もぼんやりとしていてあまり覚えていない。ただ、記憶に残るのは声ばかり。
 壁際に追い詰められ、身動きひとつとれずに、既に事切れた夫の傍らで哀れにも震えていた。
『………どうしてなの………』
 どうして、だって?
 理由なら決まっている。
 命じられたからだ。
 神に迎えられるために必要な儀式だと言われたからだ。
 地上にこの身を引き止める愚かなる未練の数々を断ち切ることで正しき世界へと導かれる。
 ニンゲンは腐りきっている。
 終わらない戦争も、やまない差別も、すべてニンゲンの愚かさが招いたことだ。
 ニンゲンは『ヴェーダ』の教えに従うことでしか遣り直す術を得られない。

 ―――引き金を引くことに迷いはなかった。

 最初の任務を終えて基地に戻ると赤毛の男に出迎えられた。
 彼は、この地域に散らばる同一の思想家たちを纏め上げるリーダーだった。威圧感があり、実力もあり、常に不適な笑みを湛えている。
 ………憧れた。
『よくやったな』
 褒められることが誇らしかった。自慢できると思った。自分自身のこころに、仲間に、そして、自らの手で消したはずの家族に。
 強くなることに疑問は抱かない。厳しい訓練にも迷いは生じない。彼に付き従うことがすべてだ。

 アリー。
 アリー・アル・サーシェス。

 あんたのようになりたかった。
 あんたのように強く、迷いもなく、死を恐れず、すべてを振り払っていけるだけの強さを体現した男になりたかった。
 時に見る両親の夢に魘される己が不甲斐ないと思った。
 けれど、ある日………日本から来たという同い年の子供と出会って。
 同じく欧米から来たという金髪の女児と共に暴漢から襲われていたのを助けたのは本当に気紛れとしか言えないが。
 いつしか顔を合わせるようになり、言葉を交わすようになり、互いの境遇を知るようになるにつけ。
 平和ぼけとしか思えない言葉の数々に苛立ちながらも、疾うに風化したはずの傷が再び痛み出すのを感じた。
 眠らせたはずの感情が疼く。押し込めていたモノが舞い戻る。

『死ぬのはこわいよ』
『こわいのか』
『そりゃ………こわいよ。だって僕は姉さんのこともルイスのこともすきだし、死んだらどうなるのかよくわからないし、すきなひとたちとはなれなきゃいけないのはやっぱりこわいなあって思うよ』

 ―――怖い。
 怖くて、怖くて、怖くて堪らない。

 些細な疑問を抱いて。
 過去を、思い出して。
 負わされた傷の痛みと、繰り返し見る夢から齎される痛みに喘いで。
 奪った命の重さと、失いたくない命の重さと、それでも武器の扱いにだけ精通して行く現実と。
 混乱したままに戦い続け、唯一と言ってもいいほどの友人まで失いそうになり、助けを求めた相手に嘲笑と共に見捨てられ。
 歪みきった世界という有難くもない事実ばかりを見せ付けられて。
 もう、―――どうにもならないのだ、と。
 絶望した。
 瞬間。

『―――どうした、大丈夫か!?』

「………っっ!!」
 暗闇の中で眼を見開いた。
 全身を冷たい汗が流れている。呼吸は荒く、鼓動が速い。
 嗚呼、―――また、魘されていたのか。
 いい加減に己がこころの弱さに溜息を吐きたくなってくる。あれから何年経ったと言うのか。もはやここはクルジスでもアザディスタンでもないし、安否を気遣ってくれる血の繋がらない姉を持ち、自らの意志を持って従軍したと言うのに。
 ゆっくりと上体を起こした刹那は、漸く、周囲の様子が記憶にあるものと異なることに気がついた。
「………?」
 自分が寝ていたのは食堂と隣接した給湯室のはずだったのだ、が。
 多少スプリングが弱いながらも清潔なシーツとあたたかな毛布、ふんわりした枕が備え付けられた上級軍人用のベッド。握り締めていたはずのモップも見当たらない。ところどころ赤い丸がつけられた壁のカレンダー、枕元に積み上がった本の山、やや離れたところに備え付けの冷蔵庫とシンク、花の置かれたテーブル、椅子、クッション、閉められた窓、軍支給のラジオ。
 それから。
 床の上で毛布に包まっている、茶色い髪の青年ひとり。
「―――ニール・ディランディ………」
 戻っていたのか。
 日付で言えば昨日の朝早く、何処かへ出立したきりであった教官の帰りを知る。彼が居るからには此処は彼の部屋で間違いないだろうが、しかし、どうして自分がこの部屋の、更に言えば彼のベッドで寝ているのか皆目検討がつかない。
 相手を起こして理由を問うべきかと悩んでいる内に、青年の方がむずむずと動き始めた。
 毛布に半ば埋もれていた顔をのそのそと上げて眠たそうに何度か目を瞬かせる。僅かに掠れた声。
「………せつな?」
「―――」
 ………驚いた。
 青年は寝ぼけ眼のまま床に転がっていた時計を引っ掴む。確認作業を終えた彼は再び時計を適当に投げ出して呻いた。
「せつなぁー………もーすこし寝てろ………まだ深夜じゃねえか………」
「ニール………ディランディ」
「あー………?」
「何故、オレは此処にいる」
 確かに。
 彼が自分の名を呼んだ。『セイエイ』ではなく、―――『刹那』、と。
 内心の動揺を押し隠した台詞に青年は苦笑し、「給湯室に転がしておけるかよ」とおそらくは真実の一端を口にした。
 が、それ以上を語ることもなく彼はのそのそとベッドに這い上がる。
「おい!?」
「あー、うるせー………疲れてんだよ。お前、もう、充分起きてんなら………オレに譲れ」
 譲れ、ではなく返せ、というのが正しいだろうに。
 思考回路の半分も働いていない彼は毛布ごとベッドに乗り込むと、刹那を壁際に追いやったのを最後にがっくりと沈没してしまった。まさしく撃沈。熟睡だ。穏やかな寝息が聞こえてくる。
 取り残された刹那は少々困ってしまった。
 たぶん、黙って自室へ戻るのが一番正しい道なのだが、なにぶん時刻が時刻だ。深夜に廊下を歩いているのを他の軍人に見咎められるのは嫌だったし、なにより―――実に意外なことではあったが、ニールの隣はあたたかくて純粋に居心地が良かった。他者との接触は嫌いだし、ごく初期に彼が触れようとしたのを拒絶した記憶もある。あの時は遣り過ぎたと、それ以降の彼が必要以上に接触を避けているのを僅かに気にしていたのも事実ではあるのだが―――。
 こうして改めて触れた時に嫌悪感が全くない、というのも。
 なんだかおかしな話だ。
 暗い部屋の中でも電子機器の放つ僅かな光はある。シーツを握り締める青年の右手に絆創膏が貼られていて、何故だか知らないが非常に申し訳ない気持ちになった。頼むから起きてくれるなと願いつつ彼の右手を持ち上げて、大きなてのひらと、指先と、絆創膏の縁を静かに丁寧になぞった。合間から覗く細い朱線は乾きつつある。深手でないのなら幸いだ。
「………オレは」
 グラハム・エーカーにも告げた。
 気付かないなら、ただ、待つと。
 そう宣言したくせに、こころの何処かでは彼から気付いて欲しいと強く願っていることを今更のように再確認した。

 ニール。
 ニール・ディランディ。

「オレは―――………お前に救われたことがある………」

 だから、早く気付いてくれと。
 彼の右手を強く握り締めて呟いた。

 

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素直に食堂で回収して終了のはずだったのに、どうして攻撃しかけるんすか刹那さん(知らんがな)

 

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