※今回、ひょっとしたら宗教表現に関して「ん?」となる箇所があるかもしれませんが、あくまでも文章表現の一環ですので、

何卒ご了承いただけますようお願い申し上げます。

 

 

 

 夜闇に浮かんだ炎は鮮明に過ぎるほどの色を目に焼き付けた。
 予期せぬ攻撃、掴めぬ全容、把握できない状況。
 何があったのかと通信機ごしに問い掛けてみても連絡網は分断されており役には立たない。各所から悲鳴が上がる。気付いた時には遥か上空から町への一斉攻撃が始まっていた。空の色が黒から薄い青へ、薄い青からやがて濃い青へ変わっても依然として状況は好転せず。
 何故だ。
 何故、誰も救ってくれない。
 何故、『神』は救ってくれない。
 自分たちは『神』のために戦っていたではないか。『神』のために命を捧げてきたではないか。
 おとなたちは語っていた。仲間たちは信じていた。
 自分たちは愚かなその他大勢のニンゲンとは違う。『神』の尖兵として地上にあり、『神』の遣いとして命を落としたならば、いずれは天上に迎えられるのだと。
 だが、『神』は、物言わぬ使者に攻撃の意を添えて訪れた。誰も、誰も、『神』が進んで自分たちを殺しに来るだなんて言わなかったのに。
 おとなしく天命を受け入れて殺されればいいのか。それが正しい姿なのか。分からない。
 走る。
 闇雲に走る。
 息が荒く、身体は疲れきっている。呼吸音が耳元で大きく鳴り響く。握り締めた銃が生ぬるい熱を伝えて重さが両手に食い込む。銃弾はまだあったろうか。手榴弾は? 催涙弾は? ナイフは? もう、何もない。抱えこんだ銃以外には、何も。
 ―――いや、違う。まだだ。
 まだ、自分には―――………。
 背後を振り返り、自分と同程度の小さなふたつの影がついてきていることを確認する。
 黒髪のこどもはもうひとりの手を引きながら苦しそうに喘き、金髪のこどもは先程から泣きじゃくるばかりで走る足元さえも覚束ない。
 綺麗に整っていたであろう衣服を泥で汚しながらこどもが嘆く。
「まっ………て、刹那! もう、無理だよ………走れないよ………! ルイスだって、」
「行くぞ」
 立ち止まっている暇はないのだと視線で促して、泣き言にも聞く耳もたずに走り出す。
 遠くから聞こえる銃声と爆撃。時間の感覚など既に消し飛んでいる。咄嗟に持ち場を離れてしまったのは反省すべき点だが、知り合ったばかりのふたりが無事でいるのか気になって仕方がなかったのだ。
 建物は脆くも崩れ落ち、大地は瓦礫で埋められ、行き交うひとびとは阿鼻叫喚の態、町をすり抜ける自分達のようなこどもには見向きもしない。赤ん坊を抱えた母親、老婆を背負った父親、手を取り合って必死に逃げ惑う男女、取り残されて泣いているこども、血に倒れ伏す「仲間」たち。
 ひとびとの上に闇が降りる。空に浮かんだ影を認めて知らず知らず刹那は叫んだ。
「浮遊センサー!」
 天に座す『ヴェーダ』の遣い。冷酷無比な使者。
 彼らは敵に非ず、愚かなニンゲンを導く存在の一部。恐れ敬え。崇め奉れ。万が一彼らによって傷つけられたとしても恨んではいけない。それは、彼らがその者を天の城に招いた結果なのだ。瞬間的に死んだとしても真実の「死」ではない。次に目覚めた時にはいと高き白亜の城で「永遠の生命」を与えられ、苦しむことも飢えることもない穏やかな暮らしが約束されるのだと。
 ―――語られた内容は一言一句違わずに覚えている。
 しかし、それでは。
 それでは、<異教徒>たる沙慈やルイスはどうなるのか。
 暴漢に襲われていたところを偶々助けた程度の浅い繋がりではあるが、旅行の途中で町に立ち寄っただけの彼らに、いっそ死んで『ヴェーダ』に生まれ変わらせてもらえだなんて願うはずもない。無知なニンゲンは充分に侮蔑と嘲笑の対象と成り得たが、愚かしさから来る平穏と安寧は尊くも得難い存在であると思えたのに。
 逃げ惑っていた人々が浮遊センサーの一撃を食らって物言わぬ躯と化す。
 今度は促さずともふたりとも黙って走り出した。目指すは町の外れに在る聖堂だ。そこには近隣の<使徒>たちを纏め上げている男がいる。彼ならば町から安全に抜け出すルートを確保しているはずだ。幸いにして自分は彼から直々に訓練を受ける程度には目をかけてもらっている。抜け道ぐらいなら教えてくれるのではないか―――………。
 崩れてくる建物の瓦礫に埋もれそうになりながらも必死の思いで角を折れ、浮遊センサーに見つからぬよう神経を張り巡らせながら、通常の倍以上の時間をかけて漸く聖堂へと辿り着く。辺りには<使徒>の仲間たちが血肉と化して転がっていた。咄嗟に駆け寄り助け起こすが息をしていないことは明白。爆撃に遭った聖堂にも屍が累々と続いている。傷跡は浮遊センサーの攻撃によるものがほとんどと思われたが、中には銃創と思われるものもあり、何があったんだと気が急く。
 だからこそ尚更に刹那は走った。
 ただ、助けて欲しくて。救ってほしくて。
 聖堂の扉の向こうでは天井が崩れて空が覗いていた。市街地から立ち上る黒煙を余所に、ぽっかりと不気味なほどの美しい青。
 崩れたパイプオルガンに足をかけ、赤い長髪を風に靡かせながらひとりの男がじっと空を見上げている。彼の姿を認めた瞬間、刹那の胸を深い安堵が覆った。緊張で固まっていた両腕から力が抜ける。大丈夫。大丈夫だ。彼なら、アリーならきっと、助かるための道を示してくれる。これまでずっとそうだった、だからきっと今回だって―――………。
 付いて来たふたりを振り返り、ちょっとの間でもいいから休んでいろと聖堂の隅にある黒焦げた椅子を指し示した。
 彼は誰かと通信機で話している。仲間と連絡を取っているのだろうか。こちらの存在に気付いているはずなのに振り返りもしない。近づくほどに彼の声が鮮明に刹那の耳に届いた。
「ああ。―――ああ。問題ねえよ。きちんと後始末はしておいた。今更生き残られたって面倒くさいだけだからな。狂信者ってのは時に敵よりも救えねえし役に立たねえ。そうだろ? リボンズさんよ」
 くつくつと笑う口元が覗く。
 左手に通信機、右手にライフル。銃口からは僅かに煙が立ち上っている。
 ―――仲間の何名かの命を確実に奪っていた銃創。傷口を見れば、どんな銃が使われたのかをある程度判断することはできる。
 自然と刹那の歩みが鈍くなった。
「今度はそっちが約束を果たす番だぜ。とっとと回収してくれ。幾らオレが血と硝煙の匂いに慣れてるっつっても流石にそろそろ酒でも飲んで寛ぎてえや」
 連絡を終えたらしい男は漸くこちらを振り返ると、愉快そうに頬を歪めた。
 燃えるような赤い髪。
「お前か。上手いこと生き延びてたんだなあ、意外だったぜ。ちっとばかし見くびってたか?」
「ア、リー………」
 両足は石のように固まって動こうとしない。
 嫌な予感がする。認めたくないし受け入れたくないし信じたくない。
 だが、その信じたくない結論を、まさにいま己が導き出そうとしていることを薄々自覚しながら声を絞り出す。
「………アリー、頼む。助けてくれ。何がどうなっているのか全く分からない。何処から何処までが戦闘区域で、何処まで逃げれば安全なのか教えて欲しい。抜け道があるならそれを使って―――」
 男はライフルを肩に背負い直すと近場に置いていたザックを拾い上げた。無造作ながらも素早い手つきで武器に新たな弾を込め、更に取り出した酒瓶を傾けて一気に煽る。舌打ち。
「ちっ。安モンの酒はいけねえな。すぐに味が落ちやがる」
「………アリー!」
 やっとの思いで一歩を踏み出した。
「頼む! もうすぐ此処にも浮遊センサーが来るかもしれない! ………危険なんだ!!」
「なに言ってんだ、てめえらは死んだら『ヴェーダ』のいる天の城に迎えられるんだろ。だったら有り難く死んでおけ」
「あんたの力が必要なんだ!! 道を教えてくれるだけでも―――」
 次の瞬間、刹那の身体は吹っ飛んだ。
 即座に間合いを詰めた男に蹴られたのだ。床に強打した背中と肩が痛む。激しく咳き込む刹那を見下ろして、彼は実につまらなそうに言い放った。
「助けろだあ? 冗談じゃねえ、こんな時だってのにオレがわざわざ出向く必要あんのかよ!!」
 腹を踏みにじられて低く呻く。
 痛い。蹴られた箇所が痛い。だが、そんな苦痛すらどうでもよくなるほどに痛むのは―――。
「これだからガキは面倒だってんだよ。なんだかんだと文句はつける。泣く。喚く。弱い。脆い。馬鹿で浅はかで愚かですぐに壊れる。力もないくせに権利だけ主張しやがる!」
 大切に抱え込んでいた何かが崩れていく。戦う源となっていたものが消えていく。
 代わりに沸き起こる疑念、悲哀、憤怒、絶望。
 口元を拭った拳に血が滲む。地面に両手をつき、長いライフルを支えにして立ち上がると、息を切らしながらも赤毛の男を見遣った。
 途端、相手は面白そうに笑うのだ。
「なんだあ、その目は」
「………」
「悔しかったら独りでどうにかしてみせるんだなあ、クソガキ!」
 呵呵と笑いながら男は倒れたパイプオルガンに足をかけ、聖堂の象徴である経典の台を踏みつけながら天に手を伸ばす。
 知らぬ間に、上空からロープが伸びてきていた。吹き付ける生ぬるい風。ロープの先に控えるは戦闘機。だが、その機体には国連を始めとしたどの軍の印も描かれてはいなかった。
「ア………」
 身体が震える。
 恐怖ではない。怒りから、絶望から、失意から、腹の奥底から燃え滾るような想いが。
「………ア………ア………ッ!!」
 彼に拾われた。彼に育てられた。彼に鍛えられた。
 彼に従って彼を崇拝して彼の命令を受けて彼の思い通りに敵を仲間を友人を―――家族を。
 ―――アリー。
 あんたのようになりたかった。絶対的な強さを持った揺るがない存在になりたかった。冷血で冷徹、それ以上に優秀で有能。下を纏め上げる指導力と統率力。
 憧れた。
 憧れたんだ。
 あんたが―――オレたちを守り、導いてくれると思ったから………!!
 両手で銃を握り締める。引鉄に手をかける。銃口を向ける。

「アリー・アル・サーシェェェェ―――ス!!!」

 ガゥン………!!!

 聖堂に銃声が響き渡り、こどもたちの悲鳴が辺りにこだました。
 地面に叩きつけられた小柄な身体。
 刹那がアリーを撃つより早く、男の一撃がこどもの肩を掠めていた。掠めただけでも大口径の銃、標準と比べても小さい身体が衝撃に耐えられるはずもなく。
 血が滲む。流れ出していく。
 だが―――致命傷、では、ない。
 するするとロープを登りながら赤毛の男が皮肉そうに頬を歪めてみせる。
「契約相手の頼みだからな。殺さないでおいてやるよ。尤も、この後、生き残ることができるのかはてめえ次第だがな!」
 あばよ、用済みの役立たず!!
 実に清々しい表情で笑いながらアリーは戦闘機と共に姿を消した。
 刹那は呆然と吹き抜けの空を見詰める。
 どれほどに待とうともアリーが戻ってくることはない。手を差し伸べてくれることはない。目の前に広がるのは荒野と、崩れた経典の台ばかり。そう、理解はできても。
 ………信じていた。
 信じていたんだ。アリー。あんたを。仲間を。『神』を。
 でも、いまは。
 もはや。
「………っ!!」
 暗くなりそうな視界に、強く唇を噛み締めた。教会の隅では沙慈とルイスが抱きあって震えている。
 アリーが立ち去ったからには此処も安全圏とは言えまい。逃げ道も戦況も何も分からない。他の仲間とも連絡がつかず、自分たちが持ち合わせているのは一丁の銃のみで、食料もなければ医療品の類もなく。
 刹那の耳が遠くから飛来する浮遊センサーの音を捉えた。
「―――行くぞ、ふたりとも」
「せ、刹那、きみ、怪我―――………」
「行くんだ!」
 短く言い切れば僅かに怯えた目を向けられた。とんだ八つ当たりだとわかりつつもどうしようもない。どうにかしてほしいのは自分も同じだが、彼らがいるからこそ未だ暴走せずにすんでいるのかもしれないと思う。
 本当は、いますぐにでも銃を撃ちながら浮遊センサーの前に身体を晒してしまいたい。そうすれば。

 ―――そうすれば。
 この胸の鼓動を痛みと共に撃ち砕いてくれるだろうに。

 聖堂を抜け出し、後に続く気配を時に確認しながら、抱えた銃の重さと撃たれた左肩の熱さを鮮明に感じながら只管に足を動かす。
(この世に―――)
 荒涼とした大地。つきない争い。足元の花を踏み潰しても気付くことなく銃を撃つ。
 ああ、嗚呼、そうだとも。

 ―――この世に、神なんていない!!

 徐々に、徐々に、連れのふたりの気配を追うことさえも困難になる。彼らを見捨てたら自分も同じになる。あの男と同じになってしまう。
 分かっていながらも抑えきれない。何もかも投げ出したくなる衝動を捨て切れない。
 行き過ぎる景色の中で「仲間」たちの死体が延々と続いていた。偶々町に訪れたと思しき観光客のものも、自国の軍人と思われるものもあったし、いまだ生きて呻いているものたちもいた。多くは絶望して天を仰ぐか膝を抱えて蹲るか、刹那と同じように銃を構えながら必死に逃げ惑うかのいずれかで、けれど、誰ひとりとして正確な状況を把握していないことは明らかだった。
 崩れた建物の隙間から浮遊センサーが徘徊しているのが見える。
(………どこまで)
 攻撃が放たれて悲鳴が上がる。建物が崩れる。土埃が舞う。
(どこまで行けばいい)
 神はいない、救いもない、何もない。
 何処まで、いつまで、何故、なんのために、どれだけの時間と労力を払って、痛みを堪えて、耐えて、信じて、信じて、盲目的に信じて、弱みから目を逸らして、恐怖した己を認めず、どこまで―――。
 いつまで。
 オレは。

 ドォ………ン!!!

「―――っ!!」
 崩落する建物に巻き込まれて全身を強打した。咄嗟の反射神経で潰されることこそ免れたものの、左肩に負った傷が手酷く痛んだ。
 激しく咳き込みながら銃を杖代わりに立ち上がると。
「………沙慈? 沙慈!!」
 背後で響いた泣き声に我に返った。
 黒髪のこどもが地面に突っ伏し、金髪のこどもが彼の身体を揺すりながら必死になって叫んでいる。慌てて駆け寄ったが、沙慈の胸部からは毒々しい血の色が滲んでいて、崩れた建物の一部に激突してしまったのだと知れた。
 地面に赤い血が滲んでいく。
 だが、打つ手がない。
 沙慈の口元に手を当てて未だ息があることを確認したが、それだけだ。重症であることが分かってもこの小柄な身体では彼を運ぶことができないし、辺りを行き交う人影もなく、誰かが通りかかったとしても自らが生き延びることに精一杯で、こどもの集団に気付いてくれる可能性は低い。切羽詰った時ほどヒトは薄情で冷徹になるのだと刹那は知っている。怪我したこどもを助けてやらないなんて可哀想に、なんて、そんなことを言えるのも考えられるのも、安全圏に住まう満たされた立場のニンゲンだけだ。
 泣きじゃくっていたルイスがふと面を上げて、その顔を恐怖に染めた。落ちかかる確かな影に刹那も視線の先を辿る。
「………っ!」
 浮遊センサーの鏡面壁が傾いてきた日の光に眩く輝く。
 嗚呼、これが。
 これが、今生最期の光景となるのだろうか。
 もはや銃を構えることもなく、けれどもせめて背後のふたりだけは見逃してもらえないだろうかとぼんやりと考えつつ、浮遊センサーが正面の射出口を開くのを微動だにせず眺めていた。
 次の瞬間。
 甲高い音と共に浮遊センサーの鏡面壁に何かが激突した。
「!?」
 音に反応してビクリと身体が震える。
(いまのは………)
 機械が眼前の自分たちではなく攻撃のあった方向へと射出口を展開し直す。通常ならば有り得ない反応だったが、<聖典の使徒>として多少は『彼ら』の知識を得ていた刹那には察しがついた。連中は、より強い「敵」を優先するのだ―――。

 ガウン!!!

 遥か遠くの建物で何かが光る。偶然でも何でもない。確かに、誰かが浮遊センサーを攻撃しているのだ。全く同じ軌道、ぶれない照準、建物からの距離を考えれば信じられないほどの精密射撃。
 浮遊センサーが反撃を開始するが、建物から放たれる攻撃は徐々に移動しながらも常に同じ場所を撃ち抜いてくる。攻撃のひとつひとつが微力であっても、幾度も繰り返し同じ位置を狙われれば影響も出てくるものだ。ヴィヴィヴィヴィと浮遊センサーがくずんだ音色と共に白煙を上げ始める。
 ぶわり、と一際高く舞い上がる。速度を増し、正体不明の第三者に突っ込もうとしたであろう機械は。

 ゴアッ!!!

 ―――ライフルとは比べ物にならない砲撃を受けて地に伏した。
 確かに、卓越した技術があれば浮遊センサーも落とせると聞いた覚えはある。だが、そのためには繋ぎ合わされた鏡面壁の僅かな隙間を狙わなければならず、隙間を狙うにも生半な武器ではダメージを与えることもできず、結局は圧倒的な火力を持つ戦闘機で狙い撃つか、さもなければ豆鉄砲にも等しい民間の銃で繰り返し同じ場所を攻撃し続けるしかないのだと。
 ………撃墜される現場を見たのは初めてだ。
 おそらく狙撃手は、繰り返し同じ場所を攻撃して鏡面壁の隙間に皹を生じさせたのちに、再び同じ箇所にライフル以上の火力を持つ武器の一撃を加えることでそれを成したのだ。
 身動き取れずにいた耳に軍靴が響く。
 ジャリジャリと地面を蹴りつける足音、小型のランチャーを背負い、肩から銃を何丁も提げ、そのうちのひとつを腕に抱え込んだ軍人が素早く駆け寄ってくるのが見えた。
 何処の軍の出身であろうとも敵を倒せば任務終了と立ち去って行く。
 ―――そう、思っていたのに。
 ズシャッ!!
 重たい足音と共に刹那の傍に着地した人物は、自らの面を覆うゴーグルを取り去った。

「―――どうした、大丈夫か!?」

 明るい翡翠の瞳。防護服の合間から覗く茶色の髪。年の頃は幾つか上か、彼を着飾るごつい武器や大きなザックの数々がその身の細さを強調している。
「こんなところに民間人がいるなんて思わなかったんでな、遅くなってすまん」
 彼の目が刹那の抱え込んだライフルを認めて僅かに煙る。
 途端に自らの立場を思い出した。ぼんやりしている場合ではない。自分は<聖典の使徒>、軍とは相容れぬ存在だ。少年の上着に施された翼の意匠に見覚えはなったが、少なくとも「仲間」ではない。
 彼を殺すべきかと銃を握る手に力を込めた瞬間、更に後ろに視線を流した少年が息を呑んだ。
「怪我してんのか!」
 銃を握り締めた刹那の横を警戒するでもなく通り過ぎ、倒れ伏した沙慈の脇に座り込む。傷の具合に眉を顰め、泣いているルイスの頭を安心させるように撫でながらこちらを振り返った。
「まだ走れるか? この怪我の具合じゃあまり移動はできないが―――此処じゃ敵さんに丸見えだ。隠れられそうな場所ならあっちに幾つかあった。行こう」
 沙慈を左手に抱き、ルイスを右手で担ぎ、ふたり分の体重によろめきながらも彼は立ち上がる。
 だが、足元がふらついたのは一瞬。有無を言わせぬ迫力で。
「こっちだ!!」
 否も応もなく、走り出した彼の後ろに反射的につき従った。
 少し離れた場所にあった崩れ落ちた建物の隙間に入り込むと、丁度、こどもが数名納まれる程度の広さがあった。入り口から差し込む日の光は心許ない。少年は大きなザックから取り出した布を地面に敷くと、その上に沙慈を丁寧に寝かしつけた。取り出した時間目盛りつきのランプ―――軍の支給品だろう―――に火を入れれば内部の様子が少し窺える。おそらく、台所だ。割れた食器や椅子の類が認められる。
 ランプで怪我人の状態を改めて確認した少年は、続いて医療品を取り出した。傷口を消毒し、薬を塗りこみ、包帯を巻き、止血剤を飲ませる。手際のよさは彼が相当の訓練を積んでいることを窺わせた。
「大丈夫。致命傷じゃない。すぐにどうこうなるってことはないはずだ」
 優しい手つきで泣きじゃくるルイスを引き寄せて、横たわる沙慈の手を握らせる。ゆっくり、穏やかに、彼女の頭を撫でながら。
「君はこの子の友達なんだろう? だったら―――名前を呼んであげてくれないか」
「よ、呼ぶ、の………?」
「そうだ。名前だ。この子が迷わずに済むように」
 ルイスは首を傾げながらも沙慈の手を握った。途端、先刻までの恐怖と不安が甦ってきたのだろう。ぼろぼろと尽きることない涙を零しながら「沙慈、沙慈」と名前を呼び続ける。強く、強くその手を握り締め、頬に擦り付けて取り縋るように。
 ぼうっとしていた刹那は、だから、少年がこちらを向いた時にひどく驚いた。右手に薬の瓶を抱えたまま彼は手を差し伸べる。
「お前も怪我の手当てしねーとな。こっち来な」
「………」
「ほっといていい傷じゃないぞ。腕が動かせなくなってもいいのか?」
「っ!!」
 眉を顰めながら伸ばされた手を反射的に跳ね除けて。
「オレに触るな!!!」
 他者からの接触は怖い。痛い。意味が分からない。
 長いとも言えないこれまでの人生の中で、自らに触れてくる手と言えば殴ってくるか叱り付けてくるかのどちらかだった。必要最低限の食料と医療品しか手に入らない環境において怪我はすべて自己責任とされ、誰かに面倒を見てもらうことも、誰かの面倒を見ることもなかった。手当てのやり方など戦場で自然と覚えた程度のものでしかない。ましてや、第三者に傷の具合を見てもらったことなど皆無だった。
 相対している少年はこちらの事情など当然知らない。いや、ライフルを抱えて彷徨っていた時点である程度の察しはつけているのか―――あるいは、『ヴェーダ』の戦闘に巻き込まれた哀れな一般市民のこどもと思い込んでいるかもしれないが。
 眉根を寄せた少年は、しかし、次の瞬間には抗いようのない力で刹那の身体を引き寄せた。
「我侭いってる場合か! ………危害なんか加えねーって。ほら、これでいいか?」
 少年は担いでいた銃を下ろし、ザックを投げ捨て、ズボンのポケットを裏返し、上着を脱いで手袋も取った。戦闘を始めてからいままで外したことがなかったのだろう彼の手だけは汚れることない白さを保っていた。
 刹那の答えを待たずに彼は素早く手当てを始める。肩の傷を確認し、沙慈と同じように消毒を行い、更には蹴り上げられた腹部の青痣まで見つけて眉を顰めると無言のままに痛み止めの調合された湿布で患部を覆った。
「他に痛むところは?」
 軽く、首を横に振る。
「何処か痛んだらすぐに言えよ。特に、内臓の怪我なんて気付かない内に症状が進行してたりするんだからな」
 一度は遠くへ放ったザックを手繰り寄せ、中から水の入ったペットボトルを取り出す。一度に飲むなよ、一日に必要な水の摂取量は知ってるな、と言いながら水を託してくる彼が、刹那の正体に気付いているのか判断できない。警戒を強めるべきか弱めるべきかが見極められない。
 脱ぎ捨てた上着の一部が振動して通信機の存在を知らせる。
『………ル・ディランディ! ディランディ一等兵!! 応答せよ』
 沙慈やルイスの様子にも気を配りながら少年は通信機を取り上げた。応える間も彼は荷物から携帯食料や痛み止めと思しき薬を取り出し、ふたつに分けた一方のみを再びザックへと戻していく。手袋をはめた。
「遅れて申し訳ありません、セルゲイ大佐! こちらニール・ディランディ一等兵であります」
『君の端末が有り得ない場所からの通信を伝えているのだが?』
「戦闘区域で民間人のこどもを三名保護しました。うち、一名の怪我がひどく、キャンプまで連れ帰ることはできそうにありません。医療班の派遣を願えますでしょうか」
『そこは特に戦闘が熾烈な場所だ。医療班の派遣は難しい』
「傍にいた浮遊センサーは撃墜しました。敵に動きがあった場合は自分が行きます。それに大佐、間もなく作戦は第二段階に移行するはずです。戦闘機による介入が始まれば戦闘区域は『戦闘空域』に変わる―――違いますか?」
 通信を続けながら器用に上着を羽織り直し、胸元から取り出した時計に視線を流す。ズボンの裾を巻くり上げ、脹脛にテープで張っておいた新たな弾薬をライフルにセットして。
 翡翠のように澄み切った瞳が入り口から奥の景色を遠く見渡す。
「自分のポイントはX2083-Y0089-Z7122であります。誤差修正を願います」
『………始末書ごときではすまされんと思いたまえ』
「はい。必ず生きて帰ります」
『一時間だ。貴殿の健闘を祈る』
 ぷつり、と通信が途絶えた。
 どうなることかと事の推移を見守っていたが、つまり―――助け、が、来るということだろう、か。
 着々と準備を整えつつある少年が安心させるように笑いかける。
「安心しろ。うちの医療班は優秀だ。あの子の怪我も、お前さんの傷もすぐに治るさ。けどまあ、水と食料だけはきちんと計算しながら摂れよ。いつ何時、状況が変化するかわからんからな」
「お前は………」
「オレは行かなきゃならないようだ」
 彼は入り口を指差す。そっと身を屈めて外の様子を窺うと、なるほど、すぐ近くを浮遊センサーが徘徊しているのが見えた。先程撃墜された「仲間」の回収に来たのだろう。つまり、回収が終了し次第、ニンゲンを目標とした攻撃を再開するということだ。
 一緒に居てやれなくてすまんと謝りながら、戦士の目をした少年は小型ランチャーを背負う。
 ライフルを握り締めた彼の姿に、思わず刹那は叫んでいた。
「オレも行く!!」
「………は?」
 少年が目を瞬かせた。
「オレも戦える。オレも奴らを倒す。奴らは敵だ」
「怪我人がなに言ってんだ。それに―――………お前は、こどもだろ」
「違う! オレは戦える!!」
 戸惑いを深めていた少年の瞳が少しずつ冴えた色を滲ませる。笑うでも怒るでもなく、何の感情も乗せない無機質な表情は妙に刹那のこころを逸らせた。喩えようのない焦りが胸中を駆け巡る。
 溜息混じりに相手は目を閉じた。
「………意志は尊重したいんだけどな。でも、お前がいなくなったらあのふたりはどーすんだよ。この中で曲がりなりにも銃を扱えるのはお前だけなんだろ」
「敵を倒した方が早い!!」
 直後。
 ひどいほどの強さで両肩を握られた。食い込んだ指先の力とかけられた重みと熱さに口を噤む。
 刹那を睨み返した少年が必死の表情で吐き捨てた。
 馬鹿か、何もわかっちゃいない、なぜ生き急ぐ、立ち向かうだけが正解じゃない。

「―――敵を倒すことよりも、自分と仲間の命を守ることを優先しろ!!」

「………」
「生きてりゃ幾らでも機会は来る。やり直せるんだ。けどな、死んじまったら終わりなんだよ………二度と戻ってこねえんだよ!!」
 痛いのはこちらなのに、何故か、彼の方が泣きそうな顔をしていると思った。
「………………沙慈?」
「!」
 僅かな静寂の隙間に忍び込んだ幼い声にふたり揃って顔を上げる。
 ルイスがきつく握り締めた掌の向こう、黒髪のこどもがぼんやりと目を開いていた。ふらふらと何度か視線を辺りに彷徨わせた後で彼はルイスの名を呟き、やや遅れてこちらを見遣る。
 未だ覚醒しきらない眼差しで沙慈が微かに笑った。
「せ、つ、な………」
「………」
「無事、だったん、だ………。よかった―――………」
 青褪めた顔のまま語られた言葉に、心臓を、鷲づかみされたように。
 目頭が熱くなる。
 両手から力が抜けてライフルがガチャリと地に落ちた。身体が震えている。視界が滲みそうになるのを必死に堪えていると、あたたかな掌が頭を撫ぜた。
 視線を上げた先、翡翠の瞳をした少年がやわらかく微笑む。
「―――セツナ」
「………」
「嘆くな。お前は強い。いまでも充分に。だって、こんなひでぇ戦場で、この子たちを見捨てることなく一緒に逃げてきたじゃないか」
「違う………オレ、は」
「セツナ。捨てるのは簡単なんだ。置き去りにすることも。けど、歯ぁ食い縛りながら、怪我までしながら誰かを守るなんて、余程の奴じゃなきゃできないんだぜ? そして、お前たちみたいな人間を守るために、オレたち軍人が居るんだ」
 ―――だから。
 此処を託してもいいかと、正面から、真摯な表情と瞳で語られて。
 焦燥感よりも湧き上がる使命感と確かな充足と僅かな誇りに、今度こそ、刹那は強い頷きを返した。
 少年のあたたかな笑顔が脳裏に焼き付く。
 これで最後とばかりに髪を掻き混ぜていった手が離れるのを寂しく感じる己に意外の念を抱きながら、一度は取り落とした銃を拾い上げた。
 自らの装備を再確認した少年は三人へ順に視線を送ると、改めて刹那を見て、笑う。
「頼んだぞ、セツナ。―――生き延びろよ!」
 飛び出した少年の足音がすぐに遠ざかる。
 僅かな間を置いて浮遊センサーが彼を追いかけていくのが見えた。背後から銃で狙いたくなる衝動をじっと堪えて、番犬のように入り口に張り付いて医療班の到着を待つ。

(守る)

 一時間で到着すると言っていた。
 だが、何が起こるか分からない現状では時間通りに来れるとは限らない。ランプの火がつきるのは丁度一時間後。それまでに助けが来てくれることを切に願う。

(守る―――)

 生き延びる。
 生きて明日を迎える。
 もしかしたら命を繋ぐことこそが『ヴェーダ』への最大の反抗なのかも知れず、そして、それは。

(………守る)

 他の誰にも、これまで示されたことのなかった道でもあった。

 

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※WEB拍手再録


 

因縁の始まり。イメージ的には二期14話あたり?

ニールが刹那を「セツナ」呼びしてますが、沙慈くんがそう呼んでるのを聞いて真似しただけだったりします。

だから記憶からすっぽ抜けるのよ………(苦笑)

 

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