月光の雲海


 

 静まり返った空の上。月光が雲海を青白く浮かび上がらせ、果て無き空の広さを感じさせる。フィンフィンと特有の音を響かせながら移動する飛行船は大海を彷徨う一匹の魚のようであった。オンボロの図体はちょっとした風に煽られれば敢え無く崩れてしまいそうである。そんな見る者が見れば即座に下船を促すであろう船の中で海賊の女首領と専属技工士は傍目にはのんびりとチェスを打っていた。
 スメラギの私室の中、ウィスキー瓶片手に彼女はじっと盤上を眺めている。同じくドーナツ―――彼の要望に応えてロックオンが作ったもの―――を横に置いて、ぽつりとビリーが呟いた。
「………勝ち目はないと思うんだけどね」
「なあに? いきなり逃げ腰? 勝負はまだまだこれからじゃないの」
 彼の言葉がチェスの勝負を指してのことではないと気付きながらも微笑と共にポーンを動かす。次はどの駒を動かそうかしらとわざとらしく呟く彼女に相手も苦笑を返した。手近にあったナイトを摘む。
「確かにいい子だよ、あのふたりは。でも、カタギに肩入れしても尊敬はしてくれない」
「尊敬が欲しい訳じゃないわよ。海賊の目的はお宝。それだけでしょ」
 今更なことを言わないでと笑いながら彼女はクイーンを前に進めた。
「よし。これでチェックメイトね!」
「………あれ?」
 ぱしぱしと瞬きする同僚に笑ってスメラギは席を立った。戦利品のドーナツを脇へ退けて、私室の扉を開ける。
「はーい。今日も私の勝ちだったわね! おやすみなさーい」
「やっぱりこの勝負は僕に不利な気がするよ。いつになったら幻の酒とやらを飲めるんだい?」
「勿論、あなたが勝負に勝ったらね」
 軽やかな笑いを浮かべながらビリーを送り出す。その際、開け放った扉の向こう、甲板に佇む影を見つけてちょっとだけ驚いた。食事が終わったら来て欲しいと伝えてはいたが、思ったよりも早く来ていたようだ。両腕を抱えて甲板に寄りかかる姿が実に寒そうだ。
「ロックオン! なに、もう来てたのね。ノックぐらいしてくれればよかったのに」
「いや………邪魔しちゃ悪いかと思いまして」
 押しが強い一方で気遣いと遠慮の塊である青年は困り果てたように己が頬をかいた。おやすみ! と気さくに声をかけるビリーに「はあ」と生返事しか返さなかったのは、ひょっとしてスメラギとビリーがあれでそれな関係だったらどうしようとか案じていたのだろうか。付き合いの長い海賊仲間では見られない反応にスメラギは微笑ましくなってしまった。
「何を勘違いしてるのか知らないけど、あたしは既婚者よ? 旦那は、空軍との戦いでお陀仏になっちゃったけど。これからは生涯独身を貫くつもり」
「そうなんですか? 勿体無い」
「勿体無くないわよー。ほんの数年で一生分の恋が出来たんだから」
 にこやかに微笑んで、さ、いらっしゃいと手招きする。
「そうそう、食事はどうだった? みんな食欲すごかったでしょ」
「そりゃあ、もう………! あんな戦場みたことないですよ。あいつらもう少し味わって食べりゃいいってのに、食べるだけ食べてすぐ寝ちまうし」
 部屋に入ってきた青年は先刻までの夕食の場面を思い出したのか不満そうにちょっとだけ頬を膨らませた。男所帯だし、肉体労働ばかりしているから腹は減るし、大食らいが多いしで、船の食卓は常に戦場だ。誰もが他の面子を押し退けながら飯をかき込み、スープを飲み、食べ終わらぬ内から「おかわり!」と叫ぶ。図体の小さい刹那はきちんと食事が出来ただろうかとちょっと案じたが、おそらくは目の前の青年が少年の食料を死守したはずである。
「ここんとこまともな食事も作ってなかったから仕方ないわね」
 部屋に入ってきた青年にまとめておいたシーツと枕と掛け布団を手渡した。
「流石にベッドは貸してあげられないから、悪いけど床で寝てくれる?」
「そりゃ構いませんが、ミス・スメラギ」
 あ、既婚者なら「ミス」じゃないのか? と零された青年の自問自答には応えない。
 彼も特に答えなど期待していなかったのだろう。つ、と絨毯が敷き詰められた床を指差す。
「なんでオレだけあなたと相部屋なんですか。刹那たちと一緒にごろ寝で充分ですよ」
「あなたも一緒に寝かせるには狭いのよ、あの部屋。刹那ならちっちゃいからテーブルの隙間に挟まってくれれば全然問題ないんだけど」
 プトレマイオスは小さな船だ。スメラギの私室、機関室、台所などを除いたら自由に使える部屋などほとんどない。残るひとつを仮眠室に割り当ててはいるが、全員がそこで雑魚寝しようと思ったらとんでもなくむさ苦しいことになる。何名かが交代で見張りについたり艦首で操縦をしているから辛うじて空きがあるのであって、更におとなひとりを突っ込むには厳しすぎた。以前にはハンモックを使う手も取られていたが、寝相の悪いメンバーがハンモックから転がり落ち、怪我を負って以来とりやめになっている。
「でも、オレより刹那のが疲れているだろうし………」
「あらあ。あたしがおとなの魅力で刹那を篭絡しにかかってもいいのかしら?」
「洒落にならんことを言わんでくださいっ! そもそもあいつには早すぎます!」
「刹那が何歳だと思ってるのよ………」
 拳握り締めて力説する姿に、前途多難にも程があるわ、刹那はもっと頑張らなくちゃねと嘆息したくなるスメラギなのであった。




 ゴゥンゴゥンと機械音が耳の下で鳴り続ける。順調に航海を続けている証だ。この音が止まれば、音に変化があれば、途端に全員が命の危機に晒される。落ちるまでの僅かな合間にフラッグに乗り込めればよいが、多くのメンバーが眠りこけている時に異変があれば逃げ遅れることとてあるだろう。
「おい………起きろ。当直の時間だ」
「―――」
 コツ、と頭を軽く足で蹴られて、テーブルの下で刹那はゆっくりと目を開けた。包まっていた布団から這い出ると丁度コーラサワーが大きな欠伸をするところで。
 働かない者は船に置いてもらえない。故に、刹那もきちんと当直の順番を割り振られていた。自分もやると言って聞かなかったロックオンを、お前の戦場は一日五回の台所だと無理矢理に追い払った刹那である。役目はきちんと果たさなければならなかった。
 プトレマイオスの張り場は船の天辺と船尾の二箇所だ。基本的に前方の見張りは操縦者に任されている。寒いから持っていけとコーラサワーから渡されたシーツ片手に壁面の梯子を登っていった。風が強い。
 船の天辺ではアレルヤが見張りに着いていた。登ってきた刹那を見て少し意外そうに声を上げる。
「あれ、もう交代? 早かったね」
「―――寒くはなかったか」
「僕は頑丈だから平気だったよ。でも、刹那は気をつけた方がいいかも」
 あまり無理はしないでねと言い置いて銀目の青年が身軽に梯子を降りていく。代わりに入った見張り台は狭く、ひとがふたりも入ればギュウギュウになってしまいそうだった。持ってきたシーツを身体に巻きつけて寒さを防ぐ。
 周囲を見渡すと雲海に小さく船の陰が落ちているのが見えた。頼りなく雲の谷間に揺れ動き、雲の合間から時に覗く町の光と相俟って不思議と切なさを感じさせた。
 静かで、静かで、静かな夜。
 ひたすらに響くのは船の駆動音と風切る音、自らの呼吸音のみで。
 ぐるりと視界を巡らせた刹那は、ふと、梯子を登って来る影に気付いた。毛布を抱え込んだロックオンがたどたどしい手つきでこちらにやって来る。
「な………っ」
 何してるんだ、と声を上げるより先に青年は見張り台に到着し、素早く中に乗り込んだ。大きく安堵の息を吐いた彼がへらりと笑みを浮かべる。
「ふーっ、危なかったぜ! 危うくシーツを落とすところだった!」
 いや、落ちそうになってたのはお前なんだが。
 故意か天然か分からない青年の発言に押し黙っていると、やはり何事にも頓着しない彼の手で毛布を上から被せられた。これ以上巻かれると本気で身動き取れなくなるからやめてもらいたい。それ以上に、半袖の彼の方が見た目に寒い。
 何も言わない刹那の声を視線だけで読み取ったのか、ああ、と遅ればせながらに頷いた。
「後でオレもシーツに入らせてくれよ。勿論、お前が嫌じゃなかったらの話だが」
「………嫌じゃない」
「そっか。なら、良かった」
 青年が抱え込んでいた包みを広げるとドーナツの甘い香りが漂った。夕食の現場では欲しいと思いながらも他メンバーに押し負けてとうとう食べられなかったお菓子である。台所の隅から掘り出してきたと誇らしげに語る出納にはミルクが入っているらしい。
「スメラギのところで寝ていたんじゃないのか」
「夜食を届けに行くっつったら快く送り出してくれたぜ」
「………そうか」
 スメラギの実に楽しそうな表情が脳裏に浮かんで自然と刹那は眉根を寄せた。絶対、絶対、あの女は刹那とロックオンの関係を楽しんでいる。未だ出会って数日も経たない関係だが、たぶんに刹那が彼を気にかけているのを察している。もくもくとドーナツを齧り、あたたかなミルクを飲む。嬉しそうにロックオンが見詰めてくるのが照れ臭くて、顔を見られぬよう船の進行方向を向いた。青年が「じゃあ、オレが後ろを見張るか」と呟いて身動きする。どうやらしばらく此処に居座る魂胆らしい。背中越しに伝わる熱があたたかかった。
 先程までと同じような沈黙が落ちる。だが不快でもなく、会話がないことに焦るでもなく、むしろ落ち着くようであった。背中に感じる他者の体温がこれほどに頼もしいとは長らくひとり暮らしをしていた刹那にとっては久しぶりの感覚だった。ああ、そう言えば、船の皆と雑魚寝することさえ密かに楽しかったのだ。鉱山仲間と共に徹夜で残業したとて基本はひとり。ひとりで夜を向かえ、星を数え、仕事を片付けて、朝を迎える。決して、決して、同じような日常が虚しいだなんて愚痴を零したりはしないけれど。
「なあ………刹那」
 彼は、風に紛れそうな声で囁いた。
「今更だけど、―――オレ、まだ迷ってんだ。『ガンダム』には行かない方がいいんじゃないか、ジンクスなんて見つからない方がいいんじゃないかって」
 耳を澄ましていなければ聞き流してしまいそうになる。彼とふたりで行こうと決めた時のことを思い出した。『ガンダム』の本当の姿を見届けたいと主張した刹那に、彼もしっかりと頷きを返した。あの時の決意が嘘であったとは思われない。本当に彼が後ろ向きであったならスメラギ達にわざと光の指した方向を出鱈目に伝えた可能性とてある。
 だが、それはないと刹那は思った。喩え自らに迷いがあるとて、刹那や、スメラギ達の本気を感じ取っていたならば嘘なんか吐くはずがないのだ。その上で尚、彼がある種の躊躇を覚えるのだとすれば。
「あの、ロボットのことが気にかかっているのか」
 燃え盛る炎の塔で、彼を庇うように最後まで佇んでいた黒影。
 ロックオンは応えなかったが、微かに洩れる吐息から心情が伝わった。可哀想だったと同意を示すことは簡単で、励ましの言葉を送ることも容易だったが、口下手の自分が言葉を投げかけたところでどれ程の助けになるだろう。続けるだけの言葉もなく、刹那は触れ合う彼の背中にかける体重を少しだけ多くした。
「言い訳になっちまうが、小さい頃に教わったお呪いごときであんなことが起こるなんて思ってなかったんだよ。でも、………あれだけじゃない。他にも色んなのを教わった。怪我を治すお呪い、失ったものを見つけ出すお呪い、それに、絶対に使っちゃいけない言葉ってのもな」
「絶対に?」
「滅びの呪い。良い言葉に力を与えるためには悪い言葉も知らなければならない。でも、絶対、絶対に使うなって何度も………教わった日は怖くて眠れなかったよ」
 届く声は苦笑している時のものなのに、背中から伝わる振動は泣いているようにも感じられた。
「古い因習やお呪いにはそれぞれに意味がある。太陽石だって絶対に持ち出したりしちゃいけないものだったんだ。だからいつも暖炉の穴に隠してあって、結婚式や葬式みたいな特別な日にしか出さなかったんだ」
 自嘲混じりの声が飛行船の浮遊音に紛れて途切れがちになる。
 小さく。
 本当に小さく、彼が呟いた。

「あんな石………捨てちまえばよかったのかもな」

「違う!」
 咄嗟に放った声は自分でも驚くほど大きく響いた。吃驚してこちらを振り向いた青年と目が合う。首だけでなく身体ごと振り返って、しっかりと相手の両肩を捕まえた。後ろ向きになろうと、愚痴を零したくなろうと止める気はない。人間なのだから少しぐらい落ち込んだって問題ない。でも、喩えそうであっても、決して否定して欲しくないことがあった。
「捨てるだなんて言うな。オレは、あの石のお陰でお前に会えたんだ」
 どれほどに石の存在や力を恨もうとも呪おうとも、そこから生じた多くの出会いや繋がりまでは否定しないでほしい。
「石を捨てても『ガンダム』はなくならない。第一、飛行技術がどんどん進歩している現在では、いつかは誰かに見つかってしまう。もし『ガンダム』が本当に恐ろしい帝国だと言うのなら、ゲイリーのような人間に渡してはいけないんだ」
 それに、と言いながら刹那はシーツの山からぽっかりと抜け出した。彼が持ってきてくれたシーツは寒さを凌ぐにはいいけれど、真っ直ぐに向き合うためには聊か邪魔であった。
 両手こそ青年の肩から離したけれど、視線を逸らすことだけはせず。
「―――いま逃げ出したらずっと追われることになるぞ。政府にも、海賊にも」
「けどなあ。オレはまだしも、お前さんはどうするんだ。このまま海賊になる気か? 確かにここの連中はいい奴らばっかりだけど、」
「オレは海賊にはならない」
 断言すると翡翠色の瞳が不思議そうに瞬いた。
 刹那とて明確な理由がある訳ではない。ただ、実際にこの船の皆と付き合ってみてぼんやりと理解しただけだ。少なくとも彼らは根っからの悪人と呼ばれるには役立たずの青年と少年を乗せてしまうほどお人好し過ぎたし、ズブの素人であるふたりを即座に海賊として鍛え上げようとは思ってもいないだろう。本気で自分やロックオンが海賊になりたいと志願したならば話は別だが、互いが互いの目的のために臨時で手を組んでいるだけだと分かっている。
「スメラギも、わかってくれる」
「まあ………確かに、妙にお人好しなひとたちではあるけどな」
 たぶんお前にだけは言われたくない、なんて真っ当な突っ込みを刹那が返すことはなかった。
 多少は落ち込みから復帰できたらしい青年が僅かに身体を見張り台の縁に持たせかけた。青白い月の光が反射し、薄暗い世界をか細い灯で満たす。風に靡く茶色い髪も、こちらを見て笑う表情も、なにひとつ見逃したくなかった。
 無意識のうちに伸ばした手で彼の頬を撫でる。
「全部片付いたら、―――お前を故郷に連れて行く。見せてくれ。お前の生まれた古い家や、谷や、ヤクたちを」
「刹那………」
 ロックオンがはにかんだ笑みを浮かべるのを刹那もまた穏やかな笑みで見守った。
 ―――余談ではあるが。
 彼らの会話は見張り台脇の喇叭型電話を通じて全部、すべて、逐一、最初から終わりまで船内に常時生中継であった。ちょっと懐かしい青春の甘酸っぱい香りを忍ばせたふたりの初々しくももどかしい会話にスメラギはベッドでニンマリと笑い艦首でグラハムが「押し倒せ、少年!」と叫び寝室でアレルヤたちが「若いっていいよねえ」と聞き耳立てていたりしたのだが、取り合えず、当人たちが知らぬが花である。尤も、喩え会話が駄々漏れだったと知ったところで刹那は動揺なんてせず、ロックオンだけが羞恥に駆られて転げまわったぐらいだろう。
 照れ臭い雰囲気を纏わせながら青年が改めて片身を見張り台の脇へと寄せた。火照った頬を冷やしたいと思ったのかもしれない。
 だが、のんびりしていた表情が途端に険しいものに変わった。
「刹那! あの影………!」
「影?」
 刹那も身を乗り出し、そして、戦慄した。
 青白く広がる雲の峰の中、ぽつりと落ちたプトレマイオスの小さな影。そして、その何倍も大きな、尖った船首を晒す―――………。
 送信口をひったくるようにして、叫ぶ。

「ジンクスだ!! 真下にいるぞ!!」

 ドバン! 階下で全員が飛び出してくる音がした。何てことだ、こんな近くに来るまで接近に気付かないなんて! だが、あるいはそれも仕方がないか。高度な技術を持つ飛行船は可能な限り音を小さくして飛ぶことすら可能にしている。ましてや、分厚く眼下に広がる雲を味方につけたとあっては。
 面舵、逃げろ!
 スメラギの指示と共に高度を下げたトレミーが雲の只中に突っ込む。視界が白一色に染まる。風が強い。息ができない。背後を見遣ればロックオンも辛うじて堪えている状態だ。苦しくはあるが、こんな状況で梯子を伝って降りるのは自殺行為だ。船首スレスレをジンクスの放つ砲弾が横切って肝を冷やす。的が小さいからどうにかこうにか逃げられているようなものだ。
 ザァザァと耳障りなノイズと共にスメラギの声が響いた。
『刹那! 聞こえてる!?』
「聞こえている!」
『雲の中にいたんじゃ視界が利かないわ。その見張り台は凧になるの、あなたは目がいいし、使わせてもらうわよ! 先ずは右手にあるハンドルを回して―――』
 指示に従って刹那がハンドルを回し、起き上がってきたワイヤーについていた小型ハンドルをロックオンが回した。ワイヤーの回りに蝙蝠のような羽根が広がる。これで風を受けろと言う事か。
『どう!? できた!?』
「ああ!」
『了解、すぐに飛ばすからねっ! ところで―――ロックオン! あなた、まだそこにいるわね!?』
「ああ!!」
 引き離されたら敵わないと、青年は勝手に刹那のポシェットから縄を取り出して命綱をこさえている。
『あなたは戻って来なさい! ふたりいたってしょうがないでしょ!』
「こっから戻れっつー方が鬼ですよ、ミス・スメラギ! 大丈夫です、任せてください。オレだって山育ちで目はいいんです!!」
 そういうことにしといてくれ、と、後方から頭を撫でられた。別に頼まれなくても、彼をひとりにする心算はなかったのだが。本船から切り離されれば危険も増すだろうが、それは下に居たところで変わりはない。で、あるならばせめて、常に自分の目の届くところにいてほしかった。
 スメラギは呆れ返った溜息を零したが、緊急事態だからと諦めたようである。
『………いいわ。でも、上に言ったらこの電話は使えないわよ。無線機があるから、』
「無線ってこれですね、ミス・スメラギ!」
『―――理解が早くて助かるわ』
 今度こそ本当の微苦笑を残して回線が切れた。ガタガタと伝わる振動に慌てて刹那はハンドルを握り、ロックオンが腰に手を回す。
 弾き出されるような勢いで見張り台が船から切り離された。太いワイヤーのみを頼りにふたりを乗せた凧は高く高く飛んでいく。白く分厚い雲の壁をぶち抜いて、未だ平穏と静寂を保つ夜空へと。
(まだ―――!)
 まだ、夜は明けないのか。
 刹那は必死に太陽が登って来るであろう方角を睨んだ。




 ―――外を流れる荒々しい風や雲とは無縁のジンクス艦内で、ゲイリーは絹張りの豪奢な椅子に腰掛けていた。傍らでは多くの兵士たちが行き交い、刻々と変わる戦況を伝えている。
 小窓から外を眺めていたグッドマンが舌打ちした。
「何をしておるのだ! 雲の中に逃げ込んでしまったではないか!」
「はっ。しかし、閣下」
「しかしではない!」
 苦虫を噛み潰したような表情で彼はじっと外を睨みつけている。夜の暗さを湛えた雲海は視界も制限され、非常に面倒くさいものであった。晴れ渡る空の下であったならジンクスの優秀なシステムが即座に敵艦を捕捉していたろうに。
 苛立つ上官を余所にゲイリーは微動だにしない。彼の前にはどっしりとした樫のテーブルが置かれ、中央の羅針盤にはほのかな光を放つ太陽石が転がされていた。
「どうせ奴らは遠くには逃げない………航海は極めて順調って訳だ」
 目指すものは同じ。光は常に渦の中心方向を示している。進む方向に間違いはない。
 赤毛の男はひとり呟くと冷め切った視線を更に鋭くした。

「『ガンダム』は、嵐の中にある」




 大空に浮かぶ小型の船。そこからかろうじて命綱一本で繋がる更に小さな凧に身を潜め、吹き付ける風に耐えながら視線を正面へ向ける。状況が状況でなければ三百六十度見渡せる景色に感嘆の溜息を吐いたかもしれない。だが、生憎といまは精神的な余裕がなかった。
 時に突風に煽られ、時に雲海に潜む影を敵機ではないかと身構え、休まる暇は一時たりともない。どこか高揚した精神のままに刹那は操縦桿を握る。あるいは凧の中、背中合わせで座り込んだ彼も同じ心境だろうかと思いながら。
 いまのところジンクスの姿は見えない。だが、向こうの方が高性能であり、向かう先が同一である以上はいつ発見されてもおかしくはなかった。いまは何時頃だろう、流石に時計までは持ち込んでいなかった。常ならば星の位置から方角や時間を探ることもできようが気紛れに押し寄せる雲に八方を覆われてはそれすらも侭ならず。
 不意に、ゴーグルの隙間から光が差し込んで目を細めた。あたたかで鮮烈な、太陽の光。右手を見遣って呟いた。
「夜明けか………」
「―――おかしいぞ、刹那」
 互いに夜通し起きていた、が、眠気を言の葉に滲ませることもなく背後でロックオンが呻いた。
「なんで夜明けが横から来るんだ?」
 言われて気がついた。そうだ、確か自分たちは、東に進んでいるはずだった。彼の記憶を頼りに進路を定めた。塔の先端から伸びる光は太陽の真横を指し示し、ならば、多少のズレはあれども正面から太陽を拝まなければならないのに。
 咄嗟に電話を手に取った。
「スメラギ! スメラギ、聞こえているか?」
『なあに!? ………ごめん、ちょっと回線が乱れてるのよ。何かあった?』
「太陽が右手から昇ってきた。北に向かっている」
『ええ!? コンパスは東を指してるのに………っ』
 風に流されて計器が狂ったのかしらと女船長が舌打ちする。
 どうにか方角を正さなければと策を練っている内に背中に肘鉄をくらった。言葉より先に手が出るとは何事だと不満や疑問を抱くより早く、背後の青年がやや上擦った声を上げる。
「刹那、あれを見ろ!」
「………っ」
『なに? なにが見えるの? ジンクス!?』
 雲中を突き進むプトレマイオスからは何も見えはすまい。白い、見上げるほどに白い、ところどころに稲光とおどろおどろしい灰色を讃えた圧倒的な存在が背後から迫る。
 電話の送話口をぐっと引き寄せて少年は叫んだ。
「雲だ! 物凄く大きい!」
 機械ごしにスメラギが動く気配がする。おそらく管制室か操縦室のどこかで窓にへばりついたのだ。思わず息を呑む声がしっかりと聞こえてきた。
『―――低気圧の中心よ! 風に帆を立てて! 引きずりこまれるわよ!!』
 後半は船内のメンバーに向けたものだ。背景で「舵が聞かない!」、「エンジンが燃えちゃうよ!」等、クルーの悲鳴が聞こえてくる。自分たちも強まってきた風に煽られて呼吸することさえ苦しいが、向こうは向こうでのっぴきならない状況になっている。
 スメラギが呻く。

『龍の巣………っ!』

 果てなく続く雲の城でも一際大きな雲の峰。
 稲光が飛び交い、激しい風音と白と黒を滅茶苦茶に混ぜた疎らな灰色が不吉を煽る。
 聞いたことがある。父はどうやって『ガンダム』に辿り着いたか。どうして見つけるに至ったか。進んで飛び込んだ訳ではない、逃げ切れずに巻き込まれ、闇を突き抜け、その果てで―――………。
 見る見る内に迫ってきた雲の峰がキュウキュウと音を立てながら小さな船を取り込まんと手招く。弾けとんだ船の外装の一部が舞い上がり、目に見えぬ風の壁がそれを粉微塵に破壊する。巻き込まれたが最後、プトレマイオスはあっと言う間に藻屑と化すだろう。
 僅かに透かし見た地上には海、点在する島、プトレマイオス。
 咄嗟に電話を掴んで叫んでいた。
「行こう! 『ガンダム』はこの中だ! オレの父は龍の巣で『ガンダム』を見たんだ!!」
『正気!? 入った瞬間にバラバラになっちゃうわよ!』
 ああ、そうだ。そうだろうとも、普通なら。常識で考えたら低気圧の中心に生身に近い装備で挑もうなどと誰も考えもしない。
 だが、だからこそ。
 操縦桿を握って動かない刹那の脇からロックオンが手を伸ばし、送話口を引き寄せる。
「ジンクスだ! 真後ろにいるぞ!!」
 途端、襲い掛かる砲弾の嵐。大半は間近に迫る風の壁に阻まれるとも、これほどに距離をつめられてはいよいよもって避け難い。
 吹き付ける風は強く、湧き上がる恐怖とて勿論ある。単身で突っ込んだ挙句に落ちるだけならば全ては自己責任と割り切ることもできる。だがロックオンを、船の皆を、巻き込んでいいのかと瞬時に迷い、それでいて尚、抑え難い渇望がある。
 ―――嵐の向こうに、目指したものがある。
「行こう、スメラギ! オレの父は帰ってきた!!」
『刹那………!』
 何か答えようとした女海賊の声が不意に遠ざかる。
 次の瞬間。
「うわっ!!?」
 激しい揺れが凧を襲い、声に耳を傾けるどころではなくなった。巡る視界、近付く雲の壁、制御できない方向と深度。
(離れた―――………!?)
 船と繋がっていた命綱が切れた、ワイヤーが弾け、支えを失った凧はふたりを乗せたままクルクルと回転し続ける。必死に方角を見定めようとした目端にプトレマイオスが見えた。連続して着弾する砲弾、風に巻き込まれて捲れ上がる外装、上がる黒煙、炎。
 大破。
 ―――まさか。
 無事も確認できぬままに凧は突っ込んだ。白く、暗く、閃光がひた走る雲の只中へ。
 操縦桿を握り締める手からいまにも力が抜けそうになる。息ができない。苦しい。ゴーグルの中で目を開けるのにこれほどに苦労するなんて。自らの腰にしがみつくロックオンの腕の感触だけが確かだ。
 傍らを電光が過ぎる。一撃でも食らえばふたり揃って黒こげだ。だが、もはや風の流れに任せて進むばかりの凧に抗う術もなく。
 歯を食い縛り、せめてとばかりに前を向く。稲光が視界を白く焼くばかりで一寸先は真の暗闇。轟音。雷鳴。暴風。身体ごと引き裂かれそうな風圧にいまにも意識が飛びそうになる。

(オレは―――………)

 何もしないままに。

(オレは………!)

 目的も果たさず、誰の無事も確認できず。
 いま、同じ場にいる青年のことさえも。

(何も………!?)

 直後。
 雷光が闇を切り裂いた。至近距離で響いた轟音に耳が飽和状態に陥る。何も聞こえない。無音。前を見ても何も、何も、何も。
 ―――だが。

(………?)

 暗闇に浮かぶ、旧式の小型艇を見た。
 誰かが乗っている。人影。じっと前を見据えていたその人物がゆっくりとこちらを振り返った。ゴーグル、目深に被った帽子、手には当時の最新式カメラ。
 忘れない。
 忘れようもない姿。
 数年前、病床で最期を看取った。世間から笑われても、後ろ指を差されても、息子ひとりを残していくことを悔いながらも決して夢だけは諦めるなと力強い眼差しと共に促した。

(とう………さ………)

 四方を交錯していた雷がまるで凧を守るように両脇の進路を定める。あらぬ方向へ飛びかかる道を正し、守り、導いて。
 刹那とロックオンを乗せた凧は真っ直ぐに雲の只中へ突っ込んで行った。

 

(7)←    →(9)

※WEB拍手再録


 

普通に考えればスメラギさんと同じ寝室は有り得ないんですけどねー(笑)

映画だとこれでようやく一時間ぐらい? 先は長いなあ………。

 

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