― ten 天泣 kyuu ―


 

 意識は暗い闇の淵を彷徨う。遠のいては近づく光が覚醒を促すのか更なる眠りへいざなうのか、体ごと宙を漂っているような落ち着かない気分がまた心地よくも感じる。どこか遠くで鳥が鳴いている。風がそよぎさる。
 ―――ああ、俺は。
 つい先刻まで冷たい空気に取り囲まれて、硬く体を戒められて、認めたくない現実に打ちひしがれていたはずなのに。いま、差し込む日の光とやわらかな感触に包まれてこのままでいたいと願っている。少しずつ少しずつ、意識が上昇を始める。水の中をたゆたう感覚が遠ざかり、それを残念に思いながら儚く青く澄んだ夢の世界と別れを告げる。

 そして、日吉は目をあけた。




「………あれ?」
 耳に届くは自身の間の抜けた声、周囲の状況がわからずに幾度か目をしばたかせる。体の下にやわらかな布団、かけられているのは豪勢な羽根の毛布、視線の先にある僅かに隙間の開いた唐障子は下っ端に割り当てられている継ぎ接ぎも明らかな古臭いものではなく、透かし模様まで入った見事な和紙づくり。次いで見上げた天井は綺麗な木目を覗かせて、違い棚には花が活けられている。凛と咲く風情もあざやかに活けたのは竹で編まれた小さな花瓶。床の間に飾られた書は威風堂々、下に置かれた香炉は鈍い光を放つ。
 これまで一度も目にしたことの無い光景にしばし日吉は呆然としていた。やがて視覚と共に嗅覚も復活してきたのか、彼の鼻が堪え切れないいい香りをとらえる。ゆっくり上体を起こすとあちこちが痛んだ。そうなった経緯を思い出しかけて―――いまは、まだ。と頭を振る。
 いまはまだ考えたくない………考えるなら、せめてこの空腹が満たされてからにしてほしい。これだけ食欲をそそる香りもしているのだから。
 布団から這い出すと次の間のしきり付近に膳が置かれていた。冷え切ってはいるが米と魚と惣菜と、味噌汁のそろった立派な朝食だ。喉が鳴る。恐る恐る腕を伸ばして、しかし、直前でその行為を押し留めた。

「あ………」

 声が引きつる。膳の向こう、背を見せて座り込んだ小さな影に。
 自分より本当に少しだけ大きく見える姿は麻でできた仕立てのよい服と、それ以上になめらかな黒髪をさらしてなにか書物をめくっている。静かに、悠然と、書物の頁がめくられる。その度に発せられるかそけき音色がひどくこころを波立たせる。
 これは―――彼の食事なのか。なら、食べてはいけないだろう。食べたいけれど、手を出してしまったらどんなお咎めが来るか知れたものではない。
 凍りついた様子に勘付いたか否か、眼前の子供はかすかに首をこちらへ傾げて呟いた。起きたのか、と告げた後で。
「食べるといい………お前の食事だ」
「―――え?」
 信じられない思いで目を見張っても相手の意識は既に手元の書へ戻ってしまっている。後は、自分と彼の間に膳が挟まっているだけ。ひざを使ってずり寄って、その存在を気にかけながらも意識が食事へと向いてしまう。しばらく視線を背中と食事で往復させていた日吉だったが、意を決して手を膳へと伸ばした。
 箸を使うのももどかしく卓に乗っていたものを全てかきこむ。時折りむせ返りながらそれこそ舐めるようにして全てを食べつくした。はぁ、と息をついて、再度慌てて相手を見やる。日吉の視線をまるで感じていないのか、彼は黙々と書を読み進めていたけれど―――。
(ほんとうに………きのうの、あの人、かな?)
 目覚めてしまえば昨夜の記憶は随分と曖昧だ。部屋を抜け出すところまではいつもどおりだったけれど、その後のことは全部悪い夢だったんじゃないかと思えてくる。上役たちの下卑た笑い声も、組み敷かれた友人も、榎にくくりつけられていたことも―――。
 けれど日吉の淡い期待を裏切るように肌には未だうっすらと縄の跡が食い込んでいる。なにより覚えのないこの部屋とこの状況。消えかけた意識の最後に垣間見た笑顔は真実だったのだろうか。
 口元をてのひらで拭うと遠慮がちに声をかけた。
「あ………あの………」
 返事はない。無視しているのか、気づいていないのか。困り果てて更に言葉を重ねる。
「あの………俺………その、ごちそうさま―――でした。それで、その………俺―――」
 こんな言葉ではなく、もっと伝えなければいけないことがあるはずなのに。自らの回らぬ舌を腹立たしく感じながら、日吉はもっと肝心なことを告げていないと気がついた。きちっと正座して居住まいを正す。

「―――ありがとう、ございました」

 その声にようやく相手の肩が震えて、のんびりと体をこちらへ向けた。知らず、目を細めて魅入ってしまう。
 ああ、やっぱり、夢なんかじゃなかった。
 怖いくらいに整った顔立ちと頬に残る幼さが仏殿に備えられている像を思い起こさせる。僅かに年上らしい子供には気品とも呼べるものが漂っていてなんとなく腰が引ける。いまは色の無い表情だって微笑を浮かべれば信じられないほど優しい光を湛えるのだ。
 不思議と感じ入っている日吉に対して、少年からかけられた言葉といえば

「―――何故?」

 という、あまり噛み合いそうも無いものだった。
 手にした書物を近くへ置いて、彼は傍らにおいていた短刀を腰帯に挟み込んだ。十にも満たぬ子が扱うにはやや大きすぎる白木作り、まじないのように端に紙を巻きつけて。
 淡々と相手は言葉を紡ぐ。
「何故? 礼をいわれるようなことを俺はしていない」
「え………だって、その、ゆうべ助けてくれたし。いまだって食事を」
「偶々だろう、そんなの」
 あっさりと言い放つ。これでは日吉の方が対応に窮してしまうではないか。
 だって、偶々って………そんな。
 そんな理由で処罰を受けていそうな子を勝手に解放したり、あまつさえ食事まで与えてくれたと?
「帰り道にお前がいた。とらえていた縄を切りたくなったから切った。食事は用意したけれど、それだって俺がつくった訳じゃない」
 だから自分はなにもしていない。礼をいわれる筋合いもない。
 ―――というのが、少年の主張らしかった。なかなかに変わった考え方である。ただ、助けられたという事実に違いはなかったので日吉は再度頭を下げた。
 空腹も満たされて、とりあえずの対面も終了したならば俄然、好奇心が湧き上がってくる。整えられた室内やあたたかな食事や小奇麗な衣服からしても特別扱いされているのが明らかな少年。若干、年上ではあっても木にくくりつけられていた日吉を遠くまで運べるはずはないから此処は寺の何処かに相違あるまい。
 不明ながらも助けられた理由が明かされれば助けてくれた側の正体も多少は気にかかってくるというものだ。
「あの………その、ここで、なにを?」
「巻物を眺めていた」
 更に問いを重ねようとして、呼びかける際の言葉が足りないことに思い至る。慌てて自ら名乗りを挙げた。
「あ………えと、俺、日吉っていいます。それで、その―――なんて呼べば?」
 たどたどしい言葉ながらも名前を聞かれているのだと、相手は察してくれたらしい。腰の短刀に僅かに指の端をかけながら素っ気無く答える。

「ひさぎ」

「ひさぎ、さま、ですね。わかりました」
 不必要なくらい強く日吉が頷き返した。子供はやはり淡々と言葉を返す。
「ああ………敬語は必要ない。俺も使わないから」
「え、でも」
「要らない。面倒だからな」
 ひどく戸惑う。彼の言葉はあっさりしすぎていて感情と言うものが窺えない。尊大なのか鷹揚なのか無関心なのか、黙っていれば作り物めいている表情と相まって如何とも判断しがたい状況である。
 いま少し首を傾げた日吉は、やがて部屋に差し込む光がすっかり中天を示していると気付いて青褪めた。昨夜のことは昨夜のこととして、すぐに帰らなければどんな目に遭わされるか知れたものではない。焦って立ち上がり、それでも救い主に対して礼を言うことだけは忘れず再度深々と首を垂れた。
「え、えっとあの、俺、もういきます。はやくしないとしかられちゃうからっ」
「そうか」
 不思議な子供との邂逅もこれで終わるかと思った。が、すぐに彼も日吉の脇を通り抜けると縁側の下に仕舞いこんでいた履物に手を伸ばしたのだ。呆気に取られる日吉を他所に「どうした、行かないのか」とひとまわり小さな草履を指差して。
 何だか困ったことになってきたぞと内心で唸りながら日吉もそれに手を伸ばす。たどたどしく紐を結わえる彼の側で子供はすんなり草履をはき終えると歩き出してしまった。出てきた庵と前方の庭を仕切る柵、そこに設けられた戸を軽く押し開く。
 急いで後に続き、しかし日吉は僅かに後ろを振り返った。

(ここは………)

 日当たりのよい場所に立てられた庵。仕立ての良い襖や障子、それとなく生けられた花々と整えられた草木。それは紛れも無く、来た当初に存在をいぶかしんだ例の離れであった。そよぐ風にしばし呆然と佇んで。
 ようやっと振り向いた時には彼は随分と先に行ってしまっていた。小走りに追いかけるけれど、目的地が確実に自分のいたせせこましい部屋であるようで―――気が引ける。普段からあんな豪勢な部屋に住んでいるのだ、きっと自分たちの寝泊りしているところなんて物置小屋にも見えないだろう。
 彼は―――何のためにこちらへ向かっているのか? 自分を見送るためとは思えないのだが。
 こうなってしまったら自分が早く皆に合流するしかないかと、それが最良の策に思えて、日吉は全速力で子供の側を駆け抜けた。息せき切って細い通路を切り抜けて角を曲がる。はぁ、と息を吐く。俯いていた彼は、しかし次の瞬間、予期せぬ声に身体を軽く震わせた。

「―――そういうことだ。白雪はもうこの部屋には戻らん」
「そんな、戻らないってどういうことですか………っ!」

 聞き慣れた忌まわしい声と聞き慣れた親しい声。前者は高圧的で後者は恐れに縮こまっている。精一杯の勇気を振り絞っての言葉は年長者の正吉のものだろうか。角からそっと向こうを覗き見れば予想通り、仁王たち僧侶数名と、対抗するように数名の子供が寄り集まって互いを支えあっていた。皆を庇うようにしながら正吉がもう一度、青ざめた顔で繰り返す。
「だから、なんで、白雪が戻らないんですか………」
 語尾が掠れがちなのは致し方あるまい。こうして疑問を呈するだけでも一仕事なのだ。対する男は身体も大きく、余計な権力までも握り締めている。
「決まったことだ。白雪は見込みがあったからな。こちらで引き取ることに決定したのだ。感謝しておけ」
「かっ………感謝って、あいつは俺たちと同じ村の出だしっ、見込みがあるならあるであいつ自身から俺たちに挨拶があったって………っ!」
「お前らに愛想が尽きたのだろう」

 ―――嘘だ!!

 叫びそうになるのを必死の思いで食い止めた。
 朝の光に忘れたくなる、昨夜の床で縫いとめられた哀れな友の姿。怯え震えて救いを求めて、けれど自分は何も出来ずに―――白雪の、その後の運命も、知らぬままに。
 自分なんかより余程小奇麗な彼がどのような運命をたどるのか。幼いなりに薄っすらと事情の飲み込めた日吉は目頭が熱くなるのを抑えきれなくなった。

「………嘘だ」

 呟く。
 呟きは本当に小さなものだったにも関わらず、緊張に張り詰めていた裏庭ではやたら明瞭に響いた。
 振り向いた仁王の形相が憤怒に染まる。
「貴様! こんな時間まで何処で何をしていた!」
 日吉がどんな目に遭っていたかを知った上での叱責だ。思わず下唇を噛み締めて俯く。
「朝礼にも参加しなかったな。一体何を考えている!? しかも昨夜はまた書庫に忍び込もうとしていたそうだな。幾ら言われても懲りん奴め」
 あんたに言われたくない。自分は確かに書庫へ向かっていたが、その途中で友人が乱暴されている現場を目撃したのだ。どんなに取り繕おうとも厳正なる事実なのだ。寄りかかる柱を強く握り締めて、抗う。
「………俺、みてたから、知ってるよ。みんなして白雪のことをいじめてたんだ。あいつを―――どこへやったんだよ」
 握り締めたてのひらが激しく痛む。必死になって搾り出した言葉は相手に何の感銘も与えずに辺りを通り過ぎてゆく。
 自分が見せしめのため木にくくられた後で、白雪がどうなったのかはわからない。だが、この場にいない現実と突き合わせると―――未だ寝所で寝込んでいるのか、出自がよい者たちの部屋へ回されたのか、いや、それならばまだましな結末だ。最悪、彼はもう、この世にいないかもしれないのだから。あんな屈強な男たちにいいように扱われて無事でいられるとは思えない。
 どちらにしろ自分たちと白雪は二度と会わせてもらえないのだろうから………彼の生死を問わず『関わりのない世界に行ってしまった』のは事実であるわけだ。
 居丈高に僧侶が一歩踏み込む。
「ふん。貴様こそ仕置きから抜け出して何処へ行っていた。事と次第によっては寺から放逐してくれる」
 放り出されたら困るだろう、お前はまだ家に帰れるような立場ですらないのだから。折角学問を学ばせようと送り出してくれた親に何と申し開きするつもりなのだと、余裕の笑みで相手は日吉を見下す。
 言い返すことも出来ずに再び顔を伏せた時だった。

「俺と一緒にいたぞ」

 澄んだ声音に誰もが振り向く。家屋の隅で縮こまる日吉の背後から、例の少年が淡々とした顔を覗かせていた。おかしなもので彼を認めた途端に仁王の表情が青褪める。
「ひ………ひさぎ様! いつお帰りになられたのですか」
「仁王。日吉は俺と一緒にいたと言っている。何か問題があるのか」
「そ、それは、その」
「帰り道で偶々出会ったから庵に泊まらせた。何かまずかったろうか」
 舌打ちする音が聞こえる。あまり狼狽しては自らの沽券に関わると考えたのだろう。しかし目の前に現れた少年に高圧的態度を取る訳にもいかないらしく、珍しく男の顔には苦渋の色が滲んでいた。
「―――日吉は戒律を破りました。だから処罰を受けている最中だったのです。幾ら貴方様といえども、それを勝手に解放されては………」
「ならば俺も処罰を受けねばならんな。昨夜の日吉のように大木にくくられていればいいのか。一刻か? 半日か? 一日中でも構わんぞ、文句は言わぬ」
「ひさぎ様! そのような事を仰られますな」
 口調ばかりは丁寧だが目つきが全てを裏切っている。仁王は明らかに、この少年を疎ましく思っている。だがどうやらこの場で一番権力を持っているらしい眼前の子供に、権力に弱いこの男が逆らえるはずもなかったのだ。
 何やら口中で罵詈雑言を力なく呟いて踵を返す。普段の仁王の横暴さを知っている日吉からすれば呆気なさ過ぎるぐらいだった。
 唖然としている日吉を他所にわっと仲間がひさぎの周りに集まる。正吉が照れたように頬を赤らめた。
「い………いつ、帰ってたんですか」
「昨夜、な」
「ねぇ、こんどはどれぐらいいられるの? ずっといてくれる?」
「わからない。でも、多分、少しは長くいると思う」
 小さな子らが無邪気にまとわりついて首を傾げる。問い掛けはあどけなくとも瞳の奥にはかなり痛切な願いが秘められている。
 ああ、そうか―――と。
 日吉は思い出した。
 確か風太がいっていたではないか、「こんな目にあうのもあの人が帰ってくるまでだ」とか、「離れにはほとけさまみたいな人が住んでいる」だとか。
 ひさぎの外見は確かに整って一種作り物めいていたし、よくはわからないが仁王が遠慮するぐらいの立場にいるようだし、彼さえいれば確かに自分たちの日常は随分と過ごしやすくなるだろう。少なくともひさぎが見ている前で彼らは無体な真似などできなくなるのだから。

 でも、なんだか、それって。

 この時、内に根ざした疑問を日吉は上手く言葉にすることが出来なかった。
 眼前のきれいな少年は表情をひとつも変えず、揺れることない声で謝罪の言葉を口にする。
「悪いがそろそろ庵に戻る。何かあったら呼んでくれないか? できるかぎり側にいるから―――」
「だいじょうぶですよ。ひさぎ様がいらっしゃるならあいつらだってそう無茶はしませんから」
「ねぇ、でも、今日の夜あそびにきてくれる?」
「色々あったからさぁ、話したいことたくさんあるんだよ。な、いいだろ?」
 できたらな、と本当に僅かに彼は口の端をほころばせた。そのまますっと庭から離れていく後ろ姿を自然と全員で見送る。最後にこちらを振り返った彼と日吉の視線が交錯した。目をあわせること数瞬、二回の瞬きを繰り返した後で彼は再び背を向けて、そして、今度は振り向かなかった。

(………なんだろ?)

 自分の上に目線を留め置かれたことの意味が介せずに日吉はひたすら首を傾げた。もしかして「こいつ、礼の一言もないのかよ」と思われたんだろうか。仁王のいじめから助けてくれたのに自分は何も言葉を返していないし、そりゃあ、お礼は言いたかったけど………でも、あんな風にみんなに囲まれていたんじゃあ礼の言葉なんて掻き消えてしまう。
 でも、そうだな。やっぱりゆっといた方がよかったよな。
 律儀に謝礼を決意する日吉の胸のうちなど知らぬげに風太が肩をどついてきた。目を興奮に輝かせて、頬を真っ赤に染めている。
「おい、日吉! すげぇなお前、どうやって知り合ったんだ?」
「ど………どうやって、って」
 そうだそうだ、知り合った理由がわからん、とみなに詰め寄られる。何だか非常に居た堪れない。自分が彼と出会うことになった理由が理由だから。
「昨日………寝所からぬけだして。みつかって叱られてたところをたすけてもらったんだ」
 当たり障りの無い答えを返す。真実ではないが嘘でもない答え。ただ周囲の面々はそれだけでもう感心してしまったらしく、しきりにため息をついたり嬉しそうに笑ったり、少しだけ羨ましそうにこちらを見ていたりする。中でも風太だけはひどく真面目な顔つきをしてやたら首を傾げていた。でもなあと、日吉にしか聞こえないような声で呟いて。

「―――なんで日吉なんだろ」

 聞かれても答えようの無い問いだったので耳に届かないふりをしておいた。




 日吉にとって例のひさぎという少年は全く訳のわからない処だらけだったが、しばらく月日が流れてみればなるほど、みなが彼の存在を頼りにするのも頷けた。なにしろ自分たちに直接命令を下す坊主連中の態度が違う。少なくともひさぎのいる前で乱暴はできないから、しかも彼はいつどこで見ているかわからないから、上役たちは落ち着き無くうろついている。自らの背後を気にしながらでは後輩いびりも楽しくなかろう。故に日常の業務も滞りなく進んでいく。
 また、確かに彼は誰に対しても平等なのだ。愛想のない態度は変わらずとも、相手の身分や出身地に関わらずかける言葉は同等なので寺ではひどく新鮮に映る。彼は年下の子に読めぬ字を手ほどきし、どこからか調達した菓子を配り、礼儀作法もそれとなく伝授する。怒る、殴る、蹴るの三拍子そろった坊主などより年若い彼に教わる方がよい。彼の知識が正しいか正しくないか、本当に造詣が深いのかなどこの際は大した問題でないのだ。
 しかし当の本人は―――

「俺がすべてを知ってるとは限らないのにな。怖くたって、知識は一流の坊主だって寺にいるんだぞ。そちらに教えを乞う方がいい場合だってあるのに、易きに流れてばかりいては駄目だと思うんだが」

 ………と、非常に微妙な感想を抱いているようだった。
 あの日匿われて以来、周囲の妙な偏見もとい思い込みもとい誤解もあって何故かひさぎと話す機会が増えてしまった日吉である。無論、彼のことを嫌いではないから大丈夫だけれども同年代の子らの視線が少し変化していて僅かながら居心地の悪さも感じているのだ。
 妬みとか、嫉みとか。
 そこまで鋭いものでもないけれど、まるで値踏みするような………『彼』と、つりあうだけの人間なのか自然見張られているようでなんだか息苦しくなってくる。状況だけなら日吉などより余程理解できているだろうひさぎは全てを飲み込んで仕方なさそうに唇に笑みを刻んでみるのだった。
 ―――白雪の行方も、杳として知れない。
 きっとひさぎが真実を突き止めてくれると周囲は希望的観測ばかり口にするけれど。
 だが、その彼自身についてだって、誰もまともに知りやしないのだ。
 理解に努めようとしても皆はあやふやで憶測や推測に過ぎない事実しか語らない。だから、なんとなく日吉は彼を観察する羽目になってしまう。
 ひさぎは例の離れに住んでいる。日吉たちが掃除をしたり読経している間に彼が何をしているのかはとんと掴めない。縁側で書をめくっている時もあれば、お堂で祈りを捧げている時も、笛を片手に庭を練り歩いている時もある。姿が見えなくなったと探してみれば思わぬところから現れてこちらの肝を冷やしてくれる。
 顔立ちは整っていて何処か冷たい。「高貴な血を引いている」と言われても彼ならば信じられそうだ。あんなに硬い表情ではなしにもっとおだやかな笑みを浮かべるようになれば―――きっと、もっと親しみが増すだろうに、周囲の関心を跳ね除けるように感情を封じている。
 日に日に疑問だけが深くなり、やがて天に浮かぶ太陽が光をじりじりと強くしていく。耐えられないと思っていた時間を積み重ねて季節は無情なまでに色合いを変えてゆく。
 地面に釘付けされた影がかなり濃くて、冷たい水を頭からかぶりたくなる………そんな陽気のある日のことだった。日吉が、寺から出て行こうとする彼を見かけたのは。




 木陰をすり抜ける姿。葉ずれに除く小さな背中。彼が何処かへ出かけていることは知っていたけれど、こんな風に実際に出立する現場をとらえるのは初めてのことだ。日吉は掃除途中のほうき片手に考え込む。
 付いて行くべきか、行かざるべきか。
 興味はひかれるか無闇に他人の事情に踏み入ってはいけないとの理性も働く。門柱の脇、己がしばられていた榎の隣で考え込んでいると、逆に向こうに気付かれてしまった。無視して先に進まれると思っていただけに呼ばわれた時は心底驚いた。

「―――日吉」
「う? え、な、なに?」
「来るか」

 たった一言の呼びかけに日吉は幾度か目をしばたかせた。
 一緒に行こう、と。
 誘われているのだと解した時はもう彼は踵を返して歩き始めているところで、握り締めたほうきと彼の背中の間で視線を右往左往させること幾許か。
(そうじ、さぼるわけには………でもせっかく誘ってくれたんだし―――どっ、どどどどうしようっ)
 慌てたところで結論付けるのは己に他ならない。辺りを見回して他に誰も存在しないことを確かめる。そっとほうきを内から見えぬよう榎の陰に隠し、気合を入れるよう頬を軽くはたき、小さな掛け声ひとつ、日吉はひさぎの後を追い出した。どんどん森の奥に進むのは躊躇われたが、なぁに、要は相手を見失わなければよいのだと。急ぎ急いでようやっと追いつけた。
「ひ、さぎ」
「ああ、来たのか」
 自分で呼んでおきながら勝手な科白を吐く―――が、彼は誘ってみただけなのだからして。
 偶々外出現場を目撃されてしまったから仕方なしに声をかけてみただけに相違ないのだ。
「その―――どこ、行くの? なにしに行くの?」
「鍛錬」
「………と、ときどき、でかけてるよね。いつもその、タンレン、してるの?」
「町に行くこともある。森で寝てるときもある。決まってない」
 寺に入っている間は自由に外出できないはずなのに―――上から言いつけられた用事を果たすためならともかく、断りもなしに町まで出かけているという言葉に日吉は呆れ返り、また、呆れてしまった自分がなんとなく嫌になる。
 確かに………命じられない限り一歩も外に出ないだなんて閉じ込められている訳じゃあるまいし、罪人でもあるまいし、好き好んで留まっている理由もなしに。
 進んで『寺』という狭い世界の内に篭もろうとしていたのではないかと思えてきて嫌気がさす。
 そのまま歩き続けること数分、先を行くひさぎの足が止まった。無言で振り返り、僅かに微笑みながらそっと前方を指し示す。
「うわ………」
 日吉は感嘆の声を上げた。目の前に広がるのは果て無き平原。寺から然程も離れぬ内にこれほど狩りに適した場所があったとは想像だにしなかった。彼はいつもこうしてこの広い草原の上で、流れ行く雲を眺めたりしていたのだろうか。なるほど、常に空を見つめている者とせせこましい寺に閉じこもり下らぬ諍いを繰り返している者とでは、確かに見るものも感じるものも全く異なってくることだろう。
 鍛錬と言う割りには武器のひとつも持っていないひさぎである。腰に竹笛と短刀を差してはいるが振り回すにしては小さな獲物。疑問に感じる日吉の前で彼は手近な枝を取り上げ、どれぐらいしなるかを調べ、満足そうに笑った。懐から細い糸を取り出す。
「? なにか、するの?」
「ちょっとな」
 短刀で上下に切り込みを入れて、間に細い線を目一杯の強さで張る。張り詰められた糸が解けぬかどうか指で弾いて確認し、次いでそこそこの長さの枝を荒く削る。食い入るように見つめる眼前であっという間に簡易弓矢ができあがった。作業開始から終了までほんの数分もかかってはいまい。興味深そうな日吉に、隣人も珍しく楽しそうに笑いかけた。
「いつもこうやって調達してる。一応、建前としてあの寺に武器は持ち込めないだろう?」
「え………だって、ひさぎは、その短刀」
「一般論。これは守り刀ってことでお目こぼしをもらってる」
 少年は複雑そうに眉をひそめた。自作の弓を片手に、矢を番える。
 高く空に矢を放った。
 鋭い音を立てて飛び出したそれはやがて中空より落下して野に刺さる。突き立った場はわからずとも草原に微かな音が響く。
(どこをねらってるんだ?)
 立て続けに放たれる矢はてんでに飛んで行き当てるべき的も存在しない。これがただの憂さ晴らしならそれはそれで納得ができるのだけれども、射ている当人は涼しい顔で腹立たしさを紛らわしているようでもない。

 ―――ヒュッ.

 また、放たれる。そして。

 ―――カシッ.

 間を置かず放たれた第二矢が落下の弧を描く第一矢を弾き飛ばした。
「………すっげー」
 日吉が呆然と口を開けるのに、ひさぎは少しだけ照れたような困ったような笑みを浮かべて、手にしていた弓矢を試しに指し示した。
「練習すればできるようになる。やるか?」
「―――できるかな」
「すぐには無理かもな。やらなきゃ上手くならないのは確かだけど」
 笑って両手に弓矢を受け取る。ひさぎに合わせて臨時に作られた武器は日吉が扱うには少々重い。どうにか構えてはみるけれどとてもじゃないが様にならない。矢を引き絞る為に左手を前に突き出せば上体がそれるし、右手で弦を押さえようとすれば鏃が下がる。頑張って大地に両足を踏ん張ろうとも弓矢の重さに揺らぐ始末で、何だか本当に格好悪い。
 意地になって弦を引き絞れば

 ―――ビィンッ!!

 ………糸が、弾けて指を切り裂いた。
「〜〜〜ってぇ―――っ!」
「大丈夫か、おい」
 人差し指を抑えて飛び上がる日吉に相手が気遣わしげな目を向ける。弓の張りが足りなかったかな、と反省の言葉を呟きながら弾け飛んだ糸を回収する。辺りを見渡すこと少し、彼はおもむろに足元の葉を千切り取った。
「日吉、手ぇ出せ」
「ん?」
「切り傷に効くからつけろ。………寺に戻ればきちんとすり潰した奴があるけど、臨時の処置だ」
 葉をもんで湿らせた後に裂けてしまった日吉の指先に貼り付ける。痺れるような痛みが走ったのもわずかな間で、同じくひさぎの取り出した懐紙を巻きつけられる頃には痛みもとうに消えていた。それが彼の付けた葉の効果なのか、他に理由があるのかは不明だったけれど。
 ぐるぐる巻きにされた指を目の前で振り、日吉ははにかんだ笑みを浮かべた。
「………ありがと」
「別に」
「え、と、あのさ。いまの葉っぱってなに? 切り傷に効くの?」
「ああ………お前も覚えておいた方がいいぞ。役立つのも多いけど危険なものも多いからな。特にこの草なんて絞り汁を香として焚くと意識が朦朧として―――」
 並んで屈みこみながら長閑に言葉を交わす。

 ―――寺から初めて脱走した日の太陽は。
 こうして広い草原の端に沈んでいった。




 悪いことは癖になるのかもしれない。日吉は腕組みして木にもたれかかりながらそう考えた。と、同時にもとから自分は束縛されていないのだから勝手に動いたっていいじゃないかとの思いも脳裏をかすめる。なんのことはない、結局はひさぎに便乗して寺を脱走しているだけのこと。彼さえ共にいればいくら逃げ出そうとも些細な咎めで済んでしまうことが尚更己を増長させているのかもしれなかった。
 寄りかかるのは出会いのきっかけともなった榎の大木。複雑に絡み合った根に腰掛けて、ぼんやり空など眺めながら相手を待つ。深く入り組んだ根元に目を下ろせば子供ひとりならすんなり入り込めそうなほどの空間があいている。だがそこはあからさまに過ぎるから使わないのだと友は語った。

「目立つ場所のすぐ側がいい。盲点だから」

 そして彼は見つかりそうもない入り組んだ根の端の、細く狭い、子供でなければ手を突っ込めないような場所に様々な物を隠し持つ。それは外出する際の軍資金だったり調合した傷薬だったり、あるいはそれ以上の物も納められているのかもしれなかった。

 貴重品はここに仕舞っておく―――いざという時は木の根を探れ。

『お前に必要なものはここに隠しておいてやるから』

 そう相手に耳打ちされた際はなんだか嬉しいような恥ずかしいような、こそばゆい気持ちに襲われた。秘密を共有しているとの思いは密かな自尊心もくすぐってくれるが、一方でこれまでの付き合いに僅かな溝を生じさせたようでもあり、日吉は微妙な立場にいるのを感じていた。みんないい奴ばかりだから責めるような言葉など露ほども聞かれないけれど、比較的新参者である己が何故に彼と親しくしているのかと………多少のやっかみが混じる場合もあったのだ。特に風太の問い質すような視線が痛い。
 けれど自分たちは寺の上役たちに対する反感でまとめられていたから仲間割れという事態に陥らずに済んでいる。
(―――に、してもなぁ)
 ずりずりと背を幹にすりつけながら徐々にしゃがみこんでいく。膝を抱え込んで真っ直ぐ中空を睨みすえる。
(どこに―――行ってるんだろう?)
 寺で過ごすことはや数ヶ月。判明したのは、ひさぎは一定の周期でいなくなるということ。月の半分を寺の庵で過ごし、残り半分は完全に行方を眩ませる。
 どこに行っているのか、行った先で何をしているのか、誰と会っているのか。
 実家に戻っているのだろうとか本院に招かれているのだろうとか山篭りの修行をしているのだろうとか噂ばかり流れて、彼自身は否定も肯定もしない。問い詰めるのも憚られてゆえずにいるけれど、彼のいない半月はそれまでの鬱憤を晴らすかのように上役どもの態度がきつくなるから―――本当は、可能な限り、寺に留まっていてほしいのだ。だがそれは自分たちの甘えに過ぎないから願いを押し付けるわけにもいかない。
 同室のみなは………日吉がそれを頼み込んでくれるのを待っているのだろうけれど。
 だからこそしてはならないと思う。彼に取り入る為に付き合っているわけではない。
「日吉」
 更にしばらく、ようやくかけられた声に日吉は俯けていた顔を上げた。森の奥で何を探してきたのか、腰に袋を下げてひさぎが駆けて来る。
「待たせて悪かったな。行くか?」
「うん」
 初めの内は躊躇っていた日吉も最近は断る回数が減っていた。寺に残ってもすることといえば雑用ばかりだし、何故ついて行かなかったのかと風太は責めるし………ならば共に行って罪悪感の片割れだけでも感じないようにしておかなければやり切れなかった。ひさぎと一緒に遊ぶのが楽しいのも紛れもない事実だし。
 相手が頷くのを確かめてひさぎは嬉しそうに笑い―――そう、以前より彼はよく笑うようになった―――いつもとは少し違った方向に足を向けた。常ならば山の頂きに向かうか、山を下るかふたつにひとつ。頂きに行けば弓矢の鍛錬や薬草の採集。山を降りれば町の散策や菓子の調達。用途が分かれているのだがいま向かうのはどちらでもない中腹。鬱蒼と生い茂った木の合間を縫う辺り高度はさして移動していないのだろう、周囲の木々の種類に然程の変化は見られない。
「ねぇ、どこ行くの? いつもとちがってるみたいだけど」
「偶にはな………会いに行かないといけない奴がいるから」
「俺が会ってもいいの?」
「いいんじゃないか、別に。禁じられているわけでもなし」
 そりゃそうだけど。
 水入らずで会いたくはないのだろうか………その相手に。
 尋ねたところで「気にしない」とか「別にいい」とか「そうでもない」とか、暖簾に腕押しの返事しか戻らないと悟りつつあるから余分な言葉は重ねない日吉である。
 林をすり抜け、川を右手に草原を渡る。強い陽射しを受けて濃さを増してきた木々の葉と落ちる影の色合いに、少しだけふらつく視界を支えて後ろを歩く。見上げた空の端に浮かび上がる雲が徐々に積乱雲の様相を呈していた。
 一刻ほど歩いた頃だったろうか、目の前に広がる景色の中に明らかな人工物を見つけて日吉は瞬いた。茶色くくすんだ茅葺の屋根、こじんまりとした佇まいは十中八九、個人の住まい。目と鼻の先の庭に猫の額ほどの菜園があって収穫を控えた野菜たちが青々とした色を覗かせる。響くししおどしの音色は手近な川の流れを利用して作られたのか不定期に傾ぐ。一見、あばら家風ではあるが障子などは綺麗に取り付けられていて印象がちぐはぐだ。
 誰の姿もない縁側に乗り上げてひさぎは無遠慮に声をかけた。

「じい」

 腰掛けて草鞋を脱ぎ捨てて、日吉にも来るよう手招きしながら自分はどんどん奥へと進む。かける声がもう一回り大きくなった。
「じいさん―――いないのか。それともいよいよ耳が遠くなったのか」
「半月ぶりの挨拶がそれかの。まったく変化ないのう」
「ひっ!?」
 いきなり背後から響いた声に驚いて日吉は縁側に土足のまま飛び上がってしまった。失態に気付いて急ぎ脱ぎ捨てるも視線は相手から外さない。ひさぎが素っ気無く答える。
「なんだ、奥の林にいたのか」
「そういうことじゃの」
「久しぶり。元気そうで何より」
「久しぶりだの。若も、お変わりなく」
 嬉しそうにこうべを垂れる老人は手にしていた鍬をそっと壁に立てかけた。
 見事な白髪、見事な髭。長めの髭は丁寧にまとめあげられて、頂点がさみしい頭髪の代わりに存在を主張している。身に付けた着物は質素ながらも素材は豪華なのはひさぎと同じである。少し曲がった腰に手を当ててやんわりと微笑む様は相手の警戒心を解く効力に満ちていた。
 日吉も自然と強張っていた体の緊張をほどいた。老人と目が合う。
「おんや、これは珍しい。若が友達を連れてくるとは」
 友達―――なのか、なぁ?
 いささか疑問を抱かずにはいられない。でも、他人でもないことは確かだったので否定はしない。
 老人は縁側にへたり込んだ日吉の前まで来ると、そっと顔を覗きこむようにして問い掛けた。
「坊、名は?」
「え………っと、その、日吉っていいます」
「そうか、わしは五柳と呼ばれておるよ。会うのは初めてだがよろしく頼むぞよ」
 なんとなくどきまぎしながらひたすら頷く。そんな日吉を笑いながら老人は自らも縁側に乗り上げた。
「いま茶を淹れようかの。そこに腰掛けておるとええ」
「じい、さっき森で木の実を拾ってきた。つまみはいらんぞ」
「つまみとは………今日は酒は出さんからの」
 少しだけ嗜めて老人は奥へと引っ込む。隣に腰掛けたひさぎに寄り添うようにしてこっそり問い掛けた。
「………『今日は』、って。ふだんは―――のんでるの?」
「さぁ?」
 はぐらかされたが「絶対のんでるな」と確信した。
 老人が持ってきてくれたあたたかなお茶を飲みながら軒下の木陰でゆったりと言葉を交わす。皿に広げられた干菓子に手を伸ばしながら日吉は首を傾げた。
「ねぇ………おじいさんは、いつ、ひさぎと知り合いになったの?」
「なぁに、わしとこやつの家が近所での。赤ん坊の頃から知り合いだったがわしは隠居することになってな、これで縁も切れると思っておったよ」
 懐かしそうに老人が相好を崩してひさぎに笑いかけた。笑いかけられた相手は無愛想に外を向きながら茶を啜る。
「ところが縁は奇なもの味なもの、わしの隠居近くの寺にこやつも来ることになったというではないか。以来、ひさぎは時折りここを訪れておるのよ。わしが呆けて庭先で干からびてはおらんかと気になるらしい」
「酒を貰いに来てるだけだ。さすがに町で仕入れる気はない………バレるから」
「その歳で飲んだくれてどうする、まったく」
 気の置けないふたりの会話に日吉も無邪気に笑った。それになんとなく、ひさぎもこの老人の前では余分な肩の力が抜けて居心地が良さそうに見えて、尚更嬉しくなった。
 何か思い出したように五柳が再度、奥へと取って返す。戻ってきた時その手には紙と硯が握られていた。ぼけた紙を縁側に広げ、軽く墨を垂らして筆をひたす。
「そういえばのう、日吉。ぬしの名はなんと書く。寺で字を習っておると聞いたぞ、書けるであろう」
「え………そりゃ、習ってるけど………」
 右手に筆を握らされて悩む。
(字………漢字………ひとつひとつに意味があるとは聞いたけど)
 字は本質、字は言霊、字は物質そのもの。
 名づけられた瞬間からその物の本質は定められる。縛られる―――己が『名』に。名を持たぬものは何者でもないが故に束縛されることなく自由である。しかしそれ故に触れることも知ることも叶わないから人々は互いに『名』をつけて形を縛るのだ。
 ―――などという思想をどこぞの書物で読んだ気もするがいまのところの日吉には興味ない分野である。
 たどたどしく筆を操りながら黄ばみがかった用紙の上に名を書きつけた。

 ―――『日吉』

「ほ。よい名じゃの。日輪の子かえ」
「………それは大げさすぎるけど………」
 日吉が頬を赤らめる。確かに母はその意を込めてこの名を付けたのだ。日吉を生む直前、日輪が腹に宿る夢を見たといって。生まれてきたのはこんなにもやせ細って見栄えのしない子供だったというのに、彼女だけは日吉がいずれ立派な人物になると信じてやまない。その思い込みが密かに近所で陰口を叩かれるもととなっているのを日吉は知って、子供心に傷ついたものだった。
 ―――こんな名前でなければよかったのに。
 自らではどうしようもないことに少しばかりひがんでみたりしながら。
「ほれ若、若も書きなされ。たまには書の練習じゃ」
 老人に押し付けられてひさぎもため息まじりに筆を握った。
(………あ、れ?)
 遅ればせながら疑問を抱く。
 どうして彼は―――時にひさぎを「若」と呼ぶのだろう、と。
 ひさぎが乱雑に見えながらも優雅な手つきで文字を書きつけた。
 そういえば自分はいつも彼の名をひらがなで発音していた気がする。意味があるなら意味を込めて口にした方が相手も気持ちいいのではなかろうか―――思いながら綴られた文字をたどる。

 ―――『飛鷺』

「………どっちも、飛ぶことに関する字だね?」
「本当はもうひとつ書き方がある」
 呟いてひさぎは隣に文字を書き加えた。

 ―――『檜』

「………?」
 互いが同じ読みを示すとはとても思えなくて日吉はあごに手を当てる。だって後から付け足された文字は明らかに植物を表す字で、しかも読みとしては。
「えのき………って、読むんじゃないの、これ………」
 丁度、寺の前に聳え立つ大木と同じく。
 ひさぎは否定するでもなく首を縦に振った。
「親は大地に根を張る木となれと願ったらしい。大地に縛られる枷となれと。でも俺は―――」
 ふと黙り込んだ隙に筆先から隅が滴る。伝い落ちた漆黒の水滴は見る間に紙の上に染みを広げて文字を侵食した。
「空を飛ぶ方がいい。だから、じいさんの宛ててくれた名を使ってる………」
 彼の親は大地に根を張り息づいて欲しいと願ったのだとしても。
 彼自身は根無し草となり宙を彷徨う未来がよいと願った。
 だから名に篭められた意味さえ変えてしまおうと異なる字を宛てて意思を逸らそうとしている。
 実に表現しがたい間がそこに生じた。照りつける日差しは強く、影は濃く、遠く蝉の鳴き声が響く。木々の合間から吹き付けるは涼風、しかし微妙に湿り気を帯びた空気は季節の移り変わりを感じさせる。
 気を取り直すように老人が切り出した。
「ああ、そうじゃ、ひさぎ。わしぁ久しぶりにぬしの笛が聴きたい。ここしばらく耳にせなんだからな」
「―――とって付けたようにいうな。この前は吹かなくていいと文句をつけたくせに」
「老人の戯言じゃ。いちいち真に受けんでええわい。それ、吹かんか」
 日吉も聴きたいであろう?
 そう顔を覗きこまれれば頷くしか術がなく、自らの意思で動かしたとは思えない仕草はひさぎのため息を誘った。それでも彼は腰に携えた竹笛を取り出すと縁側を降りて庭の真ん中に佇んだ。
 そっと唇をつけ、息を送り込む。
 静かな音色が奏でられたのは一瞬の後、甲高く、微妙に揺れるのは何の音か。かつて尋ねた折りに彼はこれを魂鎮めの―――葬送の曲であると告げた。哀切の調べを好んで奏でるは何故なのか、深く理由を問い質しはしなかったけれど、こうして改めて耳を傾ければ胸を締め付けられる思いがする。
 長めの髪を風に靡かせて佇むは孤高。周囲の援けを拒絶する風情。

(そうか―――そうかもな………)

 目を瞑り耳を傾けながら思う。彼はこうして自分と共に出かけたり遊んだりもするけれど、こころの底から何かを楽しむなんて決してないのではないかと。
 見上げた視線の先、山の端にかかる雲が見える。白というには薄暗く、真夏の入道雲とも僅かに異なる色合いを湛えたそれが湧き上がり天を覆わんと腕を伸ばす。
 タン、と。
 軽く冷たい雫が草を濡らした。
 思い出したように点々と降り注ぐ透明な水滴が庭を濡らす。埋め尽くすほどではなく、激しいものでもなく、風に乗り緩やかに。
「―――なるほど」
 頬にかかる水など介さずに笛を奏で続ける少年を前に老人が呟く。

 天泣か―――と。

「夏の終わりも近い………移ろう季節の早いものよのう」
「………うん」
 早い。

 ―――早い。

 春先に訪れたばかりの我が身を省みて日吉も静かに頷き返した。耳に届く切ない音色に瞳を伏せながら、眼前の友の姿に胸を締め付けられるような思いに駆られながら。
 彼の頬を伝い落ちる水滴がまるで、まるで。
 泣いているようだ………なんて、本人が知ったらきっと否定する。
 だから多くを口にせずに未だ降り止まぬぱらついた雨の中、佇む友人に祈るように思いを捧げる。
 暮れ始めた日の光にも酷暑の時期が遠ざかるのを感じながら。

 

弐 ←    → 肆


 

BACK    TOP

 

 


女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理