― kaza 風花 hana ―


 

 

 山々の木々が色づき空は青く空気は澄み、少しの寂しさと清々しさを内包した季節がやってくる。
 過ぎ行く風が頬を撫でるたびにやがて訪れる寒さを予感しつつ、いまは動物たちも篭もる直前の食料収集に余念がない。それが鹿や栗鼠などの小動物の類ならばよいけれど下手をすれば猛獣にも突き当たりかねないと木の実を集める間も気が気でない。いざ獣に出遭ったならば背を見せずにゆっくりと後退すればいいのか死んだふりでもするべきなのか、眼前にすれば冷静な思考は吹っ飛んで即座に逃げを打ちそうだ。
 日吉は薬草や木の実を集めながら、横で何やら仕込んでいる友人の手元を覗き込んだ。
「ひさぎ、なにしてるの?」
「うん………ちょっと、な」
 辺りに散らばる小枝や手持ちの糸を利用して簡単な罠を作り上げていく。白い無地の着物の裾を掃いながら、野うさぎの一匹でも捕まればいいのだが、と。
「捕まえてどうするの?」
「食べるのさ」
 それはそうだけど、と日吉はボソボソ口中で呟いた。動物の肉が美味いことは重々承知しているし、自分だって死ねばいつかは腐り骨となり大地に同化して生き物の肥やしになるのだと理解していても、どうも眼前で罠を仕掛けられるのは気が進まない。
 可哀想だなあ、なんて思うのは。
 呆れるほどなまぬるい感傷に過ぎないのに。
 何も気付かない顔でひさぎは淡々と告げる。
「捕まえても寺には持っていかない………じいさんにやる。あいつは滋養のつくものでも食った方がいいんだ」
「おじいさんが元気でないと心配?」
「まさか」
 言葉と表情は素っ気無いことこの上ないが内心、結構案じているのだと最近ようやく分かりはじめた。能面で出来たように小奇麗なだけで色のない顔と瞳と思われがちだけど、どうしてどうして彼の想いはゆたかである。
 老人にありがちの持病とでもいうのか、このところ五柳は咳き込むことが多くなっていた。薬湯を勧めても「老い先短い身の上じゃからの」と取り合おうともしない。日吉がそれを歯痒く感じたのと同じように、ひさぎとて案じているに違いなかった。寺の者はもとより、日吉だってひさぎのことを充分に理解しているとは言えない現状、彼にとっては五柳こそが一番の身内なのだろうから。
 根元の目立ちにくい場所に罠を仕掛けたひさぎは、立ち上がり裾についた葉を掃った。
「行くか」
「どこへ?」
「町へ。お前の作った血止め薬が売れるか確かめてみるのも面白そうだろう?」
「えっ………!?」
 あたふたと日吉は顔を赤くした。草の見分け方をひさぎに、煎じ方を老人に教えてもらい、寺の仲間にも概ね好評な自作の薬ではあるが、さてそれが一般で受け入れられるかというと途端に自信を失くす。
「いっ………いいよ、ひさぎ。売らなくていいよ」
「そうはいっても日吉、お前いい加減つくりすぎだぞ? この冬だけでそんなに消費する訳ないだろうに」
 練習もかねて作り上げた血止め薬は山のように檜の洞に仕舞われている。確かに、あれを消費しようと思ったらかなりの時間がかかるだろう。
「だ、だからってっ、売ってもさっ………もうけたお金なんてどこでつかうのっ」
「金があって困ることはない」
「ひさぎぃ」
 耳を貸す気など更々ない友はとっとと山を下り始める。手にした薬の材料と木の実の袋を見比べていた日吉は僅かな逡巡ののちに慌てて跡を追った。この荷物をまた例の根元に隠したならば、やっぱり町へ行く羽目になるのだろうと多少泣きそうな気分になりながら。




 秋の収穫期を迎えた町は活気付いている。農村近くの此処では盛んに物のやり取りがなされ、道の端々では行商人が品を並べて売り込みに余念がない。座という締め付けが存在するこの時代、迂闊なものを扱っていれば途端に同業者から厳しく目をつけられる。しかし子供の物真似、つまりは戯言、という振りをして隣に腰掛けていれば大人たちはからかい混じりに品を見に来る。思ったよりも出来がよければ物珍しそうに目を見開き、小遣いを与える気持ちで銭を幼い手に握らせる。
 いざ咎められても「たかが子供の飯事で」と言い逃れもしやすかろうと思うのか、意外と日吉の薬は売れる。未だ小さい生り故に同じ薬売りからのやっかみもなくて済むが、いま少しの歳を経たならば売るには注意を要するだろう。
「もっと喜べばいいのにな」
「うぅ………で、でも………」
 薬が売れた割りにはへこんでいる日吉の姿にひさぎが薄っすらと笑みを覗かせる。雑踏の中、互いの手を引いて歩む幼い影は周囲にもこころ和む光景と思われたに違いない。とはいえ、話している内容といえば
「稼ぎで言うならやはり城下だが、役人の目があるとお咎めも多い。奴らの監視下から逃れようと思えば農村に近い一角の方が有利だ」
「でもそうすると野武士がねらってくるよ」
「三十六計逃げるに如かず。取るもの取り合えず逃げておけばいい。命がなければなんにもならない」
「お金がなくてもなんにもできないよ」
 という、「和む」には聊か現実味を帯びすぎたものだったのだけれど。
 町を抜けて寺へと向かう途中は畦道で埋まっている。農作業に精を出す人々を横目に歩けば、もとが農村出身である日吉はどうにも居た堪れなくなるのであった。きっと今頃、実家でも稲の刈り入れが最盛期を迎えているに違いない。母は、姉は、どうしているだろうか。義父は少しは手伝ってくれているのだろうか………未だ幼い弟や妹はきちんと食いつなげているだろうか。
 それを思うとき、多少息苦しいときがあるとはいえ、朝夕の食事に事欠かない己の立場に恥じ入りたくもなるのだ。俯いた彼を少しだけ振り向いて、何を言うでもなくひさぎは握った手の力を強くする。胸を締め付けられるような思いにかられながら日吉もまた相手の指を握り返す。
 視線を横の木々へと流し、ふと遠くに垣間見えた姿に日吉は首を傾げた。
 一団となって走り抜ける子供の群れ。手に竹やら木の棒やらを持って囃し歌と共に駆けずり回る、だけならば何処でも見れそうな光景だけど、ただ一点。騒ぎの中心に馬がいるということが問題だった。いうまでもなく牛馬は農作業にとって欠かせない生き物であり、子供たちが遊び半分に連れ出していいものではない。年端もゆかぬ童より畜生の方がよく働くと己が子の世話よりも念を入れる飼い主とているぐらいだ。子供達が馬を取り囲んで騒ぎまわり、しかもひとりの童が馬の背に乗るに至っては言語道断。
(ひさぎと同い年くらいかなぁ………)
 ぼんやりと日吉は考えた。知らぬ間にひさぎも歩みを止めて、畦道と田んぼを挟んだ向こうの景色を眺める。
 騒ぎの中核に位置する、光の加減で群青色にも見える髪をした子供は荒馬の背でしなる竹の鞭をうならせ、従わせようと必死だった。馬が逃げないよう囲んでいる取り巻きのひとりが蹴りを食らって跳ね飛ばされる。気遣う言葉のかけようもない馬上の影は苛立たしげに鞭を投げ捨てると両の手で馬の耳を思い切りねじ上げた。
「げっ………」
 我知らず声がもれた。必死なんだか咄嗟なんだか故意か偶然か事故か知らないが何をしているのだ、あの子供は。耳なんか掴めば馬は一層暴れだすに決まっている。案の定、怒り狂った馬は子供を背から叩き落そうとますます跳ね飛んだ。しかし意地のようにしがみついた彼は舌打ちひとつ、思い切り良く馬の腹を蹴り上げた。背の上からの無謀な攻撃に高い嘶きが響き渡る。
 どれほどの間そうしていただろうか、根負けしたらしい馬はとうとう頭を垂れて振り上げていた脚を地につけた。子供が耳から手を離し、たてがみに指先をそえるだけになっても動きはしない。満足そうな笑みを浮かべた彼は馬の背から飛び降り、軽く呼びつけた。馬は逆らうでもなく首を向けて子供の眼前に自らの額を押し付ける。懐き、甘える仕草に主人はカラカラと小気味良い声で笑った。先ほど蹴飛ばされた仲間を手招いて触ってみろよと促す。
「帰りはお前を乗せてやる」
 語る声が風に乗って微かに届いた。
 随分と無茶な真似をするものだと日吉は冷や汗を流す。仲間らしい少年たちは何を思って付いていくのか、自分ならあんな乱暴な人間とは一緒にいたくないなと感じた。

「―――うつけ」

「え?」
 ぽつりと呟かれた言葉に日吉が顔を上げる。隣の人物は何を見ているのか定まらない瞳で騒ぎの中核を捉えていた。一度はずらした視線を再度、先の騒ぎの方向へ向け直し、首を傾げた。
 確かに、あんな無駄な馬鹿騒ぎをする様はうつけと言われてもしようがないとは思うけど。
「すぐにそう判断するのはいけないんじゃない?」
「―――俺が言ってる訳じゃない。噂さ」
 わからない、と首をますます傾ける日吉にひさぎは苦笑をもらした。本当に知らないのか、と。
「じゃあ覚えておくといい………あれが尾張の次期当主、吉法師殿だ」
「うえっ!?」
 悲鳴とも感嘆ともつかない声を上げて日吉は対岸の影をまじまじと見詰めた。
 さすがに名前ぐらいは知っている。織田家の跡継ぎと目され、生まれてすぐに乳母に噛み付き実母を張り倒し世話係りに吐血させまくっていると噂の若様である。顔立ちは愛らしくいずれは眉目秀麗な若者になるであろうと語られても、ついて回る話の突拍子なさの方が遥かに印象強い。店の商品を奪い去り、田畑に問答無用で踏み入り、女衆を集めて相撲を取らせ、竹槍、木刀を持ち寄った合戦もどきであばら家一軒を破壊する。
 どこまでが嘘でどこからが真実なのかも分からないが、要はどんな噂を流されても納得されてしまうのが吉法師という子供であった。あまりの乱暴ぶりに呆れて実母は弟を連れて他の場所へ移り住んだとも聞く。
 日吉は途方に暮れた。
「あれなのかぁ………」
「あれはないだろう、あれは。何もお前が仕えると決まった訳じゃなし」
「だって―――さぁ………」
 遠くの子供は、馬に蹴られた仲間を庇うようにしながら町へ引き返していく。見る限り、冷酷無情な人ではなさそうだけど。
 でも、なんか、その。
 ―――実に嫌な予感がするのは何故なのだろう。
「気にするなよ。尾張の大多数にとっては関わる可能性の低い御大だ」
「でも、あの人が国をおさめるなら、やっぱ俺たちにも関係あるんじゃないの?」
「本当にうつけなら被害を受けるだけだ、けどな」
 彼もまた遠ざかりつつある影を追うように視線を鋭くした。
「ただのうつけでないなら大化けする………尾張だけでなく周辺国も巻き込んで、この大地までも飲み込む」
「―――?」
「器が大きければ馬鹿も天才も大差はないさ。羽目の外し方と火遊びの加減を知ってるなら国取りさえも余興のひとつと思うか、いつかは責任と重圧を感じて自身の理想郷を追い求めるか―――」
 日吉は眉間にしわを寄せた。ひさぎの言っていることは難しくてよくわからない。つまりは吉法師が馬鹿と言いたいのか言いたくないのか、馬鹿は馬鹿でも大馬鹿なら大丈夫ということなのか、考えているだけで脳みそがこんがらがってくる。
 ひたすら首をひねる日吉の様子にまた少し、ひさぎは笑みを深くするのだった。




 秋の夕日はつるべ落とし、暮れる陽も早く薄暗く、幾度か朝と夜とを繰り返したならば当然、近づくのは寒の季節。夕闇の中で見かける白い光にあれは天照星かと目を細め、道に迷いし時は頼りにすればよいと教えられ、事実森で置き去りにされかけて泣きそうになりながら。
「冗談だ」
 さても友は笑うけれど果たして本心かと恨み言のひとつも言いたくなり、けれどそもそもの自分はあの日あの木に括られて終えるはずの命だったかと思えば詰ることも憚られる。尚も言葉につまりひたすらに俯けば逆に慰められて涙したくなる。
 足元に踏みしめる落ち葉は厚みを増し、伴って開けてゆく頭上、ほんの数日前までは紅葉が埋め尽くしていたはずの空もいまは青さを強く覗かせる。吐く息も白くなろう、霜も間もなく降りるだろう、田畑の刈り入れは疾うに終わり冬の到来に備えての準備に村は余念がないであろう、山の動物たちもいまは塒を捜して彷徨うだろう。
 なればこそ無意味に山中をうろつくのは危険と思えたが領土さえ侵犯しなければ良いのだと年上の友は語り、逆らうほどの意見も経験もない己はこうして復た足元に枯れた草花を踏みしめながら跡をついて行く。いつか罠を仕掛けたより更に奥へと。
 チラリ、と視線は前行く人物の腰の辺りで留まる。
「そういえば、さ」
 聞こう聞こうと思いながらも聞きそびれていたことを、今日こそは問い掛けにできるかもしれない。寺はもとより五柳老人のところでさえ話すのは少し躊躇われた。護身用というには聊か目立つ白木造りの鞘をした短刀、笛と共に外出時のひさぎが常に身に着けている代物。
「その刀………なんか、由来とかあるの?」
「どうしてそう思う」
「うーん―――なんとなく、だけど」
 時にひさぎは短刀を使って弓矢を整え仕掛けを作り、様々な雑事に役立ててきた。折りに付け目にする刃の輝きは幼子の目にも眩しく映った。綺麗だけど、それ以上にどこか危険な雰囲気を孕んだ刃。ああ、名のある刀とはこういうものなのかとすんなり頷くことができた。
「すごくきれいだし。きれいだけどなんとなく怖いし。ひさぎのお守りみたいだし」
「お守りか」
 振り返りもしない相手の声には苦笑の色が混じっていた。
 確かに、お守り、だけど。
「本当はふた振りあったらしい………平安の名工の手になるもので、ひとつは神に捧げられ、ひとつは貴族の家に伝わった。戦乱のどさくさに紛れてどこかの武士が持ち出してよりのち、大名の間を転々としたらしいがいまもってもう一振りの所在は知れん」
 いずこかの国の大将が部下に褒美として与えているかもしれない。
 近くの納屋に放られているかもしれない。
 人知れず野山に埋もれ鉄塊と化しているかもしれない。
 が、いずれにしても一度、行方知らずになったならば最早探りようもない。見分ける方法とて皆無ではないが無理に見つけ出す必要性もない。
「みわけること………できるの?」
「柄を取り払って刀身を検めればいい。共に作られた兄弟刀は同じ文字を刻まれている」
「へぇー」
 なんて? と尋ねれば彼は詩を諳んじた。

「―――自ら喩みて志に適うか、周なることを知らざるなり。大陸の漢詩の一節だ」

「どういう意味なの」
 重ねての問いにひさぎは僅かに困った顔をした。意味を知らないからではなく、知っているけれども話していいものかどうかと迷っている表情だった。だからかは知らないがかなり淡白な答えを返す。
「この世に存在しているものは、本当はすべて夢かもしれない―――ってさ」
「夢?」
「俺たちは夢を見るだろう? 夢の中ではそこで起きていることだけが事実であり真実だ。しかし目覚めてみればそれらは全てまやかしだったと気付く。だから、いまこうして感じていることも誰かが夢として見ているだけで、そいつが目覚めれば忘れ去られる出来事なのかもしれない。万物は移り変わり流転するのさ」
 額に手を当てたまま日吉は眉間にしわを寄せた。齢、十にも満たぬ子供には言葉遊びのようにしか思えない内容であるし、ましてや相手も理解してもらおうとこころを砕いている訳でもない。むしろ混乱に拍車をかけるようにわざと解説の言葉は省いている。由来は荘子の語った『胡蝶の夢』、あとで文献を紐解いてみれば散見されようと締めくくられて、日吉は未だに首をひねっていた。
「じゃあ―――じゃあさ、俺がこうして生きてるのも、ひさぎと話してるのもぜんぶ夢なの?」
「そういう考え方もある」
「人生ってぜんぶ、夢なの?」
「そういう捕らえ方もある」
「………ぜんぶ忘れてあたりまえってこと?」
「―――忘れない時もある」
 振り向いた友人の一声に埋没していた思考から面を上げた。彼は日の光が差し込む中に颯爽と佇んでいる。
「強く思い続けていればこころの内に残る」
「………のこるだけなら」
「忘れるのを恐れるなら眠り続ける他ないぞ。厳しい現実が待ち構えていたら嫌だからと目を瞑れば、その間に何かを喪うかもしれない」
「―――よく………わかんない、や………」
 悲しいことや苦しいことも消え去るとしても、楽しかったことや嬉しかったことまでが共に消え失せてしまう。夢であれ、夢でよかったと、安堵の息をつくだけならいいけれど、目覚めた先で更なる悪夢が待っていないとも限らない。だったら周りで起きるすべてを現実として捕らえていた方がなんぼかましなのではないだろうか。
 全てをなかったことにして別の人生を歩みだすのもひとつの手だとしても、何もかもが嫌になり投げ出したくなったとしても、捨て切れないものが誰にだって在るはずだ。
 自分は結構、欲が強い方なのに違いない。与えられた物や思いを切り捨てることなんて出来ない。どれもこれも抱えようとして、結果、荷を積みすぎた船がたどる末路と同じ未来が待っているとしても―――やはり自分は伸ばされた腕は握り返してしまうだろうと思う。
 更に俯く日吉の頭をそっと撫ぜて、ひさぎは言葉を重ねた。
「暇な時にでもゆっくり考えておけばいいさ。俺の言ったことに振り回される必要はない………お前はお前で考えればいい。それに、な。この世の存在すべてが王の見ている夢で、王が目覚めた瞬間に世界が滅びるなんて説もあるくらいなんだ。気にしてたらきりがない」
「―――ほんと?」
「ああ。俺たちは俺たちで、やっぱり、苦界といわれるこの世界でどうにかやってくしかないのさ」
 そうやって頬に刻まれた笑みは、これまでに見たどんな微笑よりも優しいもののように感じられた。けれどそれはほんの一瞬で、すぐにまたいつもどおりの無表情に近い顔になると正面を向いて差し込む秋の光の中から抜け出した。
 黙して更に道なき道をたどることしばし。
 森の中に少しだけ開けた場所、落ち葉は此処でも堆く積みあがり腐葉土と化している。遠くで鹿や鳥の鳴き声が響いていた。ではそろそろ仕掛けのひとつも作るかと手近な小枝に手を伸ばし―――動きを止めた。やや遅れてついてきた日吉には何も見えていない。
 自分でも確かめるために背中から覗く。
「………どうしたの?」
「いや―――」
 気のせい、か、気の迷い、か。
 ぼそぼそと言葉が自覚なしに零れている。むしろ己の見間違いであることを願うかのように、枝に触れた手を下げて彼は一歩踏み出した。大樹の後ろは日も差し込まずに冷え切っている。陽光のもとでは未だ秋の萌しを残しているというのに、ただ日陰になったというだけで既にその場には冬が到来しているかのようであった。
 自らの姿も完全に影の中へと埋め、彼はまさかと呟いた。
「ひさ―――」
「来るな」
 一声、命ぜられて日吉の足は一旦とまる。直前には暗い木々の影、あと一寸踏み込めば自分もその仲間となり身を黒く染める。こちらからではひさぎの足元がよく見えない。ただ蟠る闇の中に何かが居るようで。
 意を決した日吉は無視して足を踏み出した。ガサガサと草履の下でかさつく落ち葉の音色だけは変わらず、明るいところから急に暗いところへ入った眩暈を感じながら何を恐れるでもなく近づいて、連れの視線の先を見て訝しげに眉をひそめた。それが何かわからなかった。
 地面とは異なる黒さ。
 かすかに感じるかさついた腐臭。
 泥と土と埃にまみれた布切れ。
 ひさぎはそっと手を伸ばして正体不明の物体に触れると、半ばを土くれに埋もれさせた『頭部』を掴みあげた。ぶつぶつと何かが切れる音がして持ち上げることも叶わず、改めて丸い後頭部に腕を差し入れて抱えあげる。おもてを確認するために。
「あ………」
 ひく、と日吉の喉が引き攣った。

 嫌だ、見たくない。
 これ以上は見たくない。知りたくない。知らずに済むことなら知らずに済ませたい。

 できることならいますぐ踵を返して逃げ出したいのに身体は動いてくれない。忠実にひさぎの動きを追って、抱えあげられた物の正体を見極めようと視界は冴え渡って、薄暗い林の中であっても最早なんの障害もなく。どうにか埋もれていた半分までを地上に引きずり出したひさぎは、深い深いため息をついた。呼吸さえ止めてしまいそうな日吉を見て。
「―――来るなといったのに」
 不本意そうな表情をした。その間も止まらず腕は動いて残り半身までをも掘り起こす。
「あ………あ、ああ………!」
 嫌だ、嫌だ、これは何だ。
 見たくない、怖い、知りたくない。
 忘れていた罰か? 顧みることがなくなった報いか? 今更、今更、今更………!
 せめて最後まで―――生きている望みを繋がせてほしかったのに。
 いつか、自分がこの寺を去らねばならなくなるその時まで。
「うわあぁ………っっ!!」

 ―――土に、埋もれていた。
 半ば、骨と化した白雪の身体を前に。

 日吉は泣き崩れた。




 連れて帰ることは無理だった。
 半ば以上が骨と化し、ぐずぐずに解けた肉体は手で持つにも苦労したし、腐臭もしたし、寺から離れすぎていた。果たして此処に彼はどうやってたどりついたのか、逃げたのか迷い込んだのか他に目的があったのか、そもそも己は白雪があの日の夜以来どうしていたのかを知らない。
 せめて陽の当たる場所にと移し変え、墓がわりの小石を積み上げて、冬も間近な季節にまともな花の飾れようもなく、どうにか摘み取ったのは名もない野の花。
 何かを口にしたかった。
 何から口にすればいいのかわからなかった。
 悔しさか悲しさか自分でもわからないから唇をかみしめて、いい加減泣きはらした目元を拭ってぽつぽつと日吉は呟いた。
「………俺―――何も、してやれなかった………なにも―――」
 懺悔、と、いうやつだろうか? 自分は彼の存在を徐々に記憶から風化させていた。
 捜すことも祈ることも思い出すことさえもせずに。
 すべての発端を忘れてひとり居心地のいい空気に浸っていた。
「でもせめて―――白雪のこと、みんなに話すことはできるよね? そしたら、そうしたら―――」
 そうしたら。
 ―――どうだと言うのだろう。みんな驚くだろうけれど、きっとそれはそのときだけの話で、上役連中に楯突いたところで結果は高が知れている。
 だがそれでも尚、行動することに意味があると思ったのに。
「いいや」
 年上の友人はあっさりと否定した。
「言わない。話さない。何も教えない」
「なっ………」
 伏せていた面を上げて勢いよく振り仰ぐ。少しは読み取ることに慣れたはずなのに、やっぱり相手の表情には何の色も滲んでなくて、考えが理解できなくて悔しくなった。
「あんなに白雪のこと心配してたんだ………知る権利ならいくらなんでっ、なんでさ! みんな、みんなだってあるはずだろ?」
「でも、いまは誰も―――あいつのことを気にしちゃいない」
「………!」
 言い募ろうとした言葉は放たれる前に喉の奥底で消えていった。
「いない者は忘れ去られるだけだ。忘れていなかったとしても―――教えるばかりが親切とは限らない」
「けどっ」
 ひさぎの言いたいことも何となくわかる。事実、自分だっていまのいままで白雪のことを忘れていた。いや、こころの何処かでは気にかけていたのだろうけれど、流れる月日と時に訪れる穏やかな日々が思い続けることをやめさせた。
 思い描く。
 あの日、寺の連中に踏みつけられた身体を引きずって。
 あの日のうちに逃げ出したのか、あるいは数日経ってから耐え切れずに抜け出したのか、助けを求めていたのか。
 幾ら頑張ったところで十にも満たない幼子。ひさぎが翌日には到着していたとはいえすぐに救い出せるはずもなく、絶望のみがあの子のこころを染めたのか。
「行方が―――わかったって………みんな、ひさぎにさがしてほしいって―――」
「言うな」
 初めてひさぎがさみしげに瞼を閉じた。
「言うな………頼むから」
「?」
「無力さを―――お前、が………俺に」
 左のてのひらで右腕をきつく握り締めて、痛みと苦しみに耐えるかのように身体を震わせている。かみ締めた唇に血が滲んでいるのを認めて嗚呼、もしかしたら、と直感した。
 もしかしたら、彼は。
 ひさぎは、ずっと、白雪のことを。
 捜していたのかもしれない―――ずっと、ずっと。
 何処へ行く時も。山でも、狩場でも、老人のところでも、町でも、町へ行く途中でも。
 自分が物珍しさに目を奪われ、他へ興味を寄せているその隣で、彷徨わせる視線は常に見知った小さい影がないかと追っていた。
 おそらくそれは日吉とひさぎが出会った日からずっと、仲間に頼まれるまでもなく、ことの次第を理解した時からずっと、時間の許す限りずっと。
 助けようと思い上役連中の部屋を覗いても求める姿を見かけることはなかった。白雪はその日のうちに寺を飛び出し―――おそらくは郷里を目指して走り出していたのだ。だが遠く離れた地に幼い身ひとつで、痛めつけられて碌な手当てもされないままで、絶望と恐怖に駆られて夜道の獣や見知らぬ人影に怯えながら。
 たどり着けるものか―――たどり着けるものか。
 あと一日待っていればよかったのだと後から事情を知った者たちはため息をつくだろう。けれど、あの瞬間の白雪にとっては逃げ出すことが全てだった。
 間に合わなかったという慙愧の念が、常にひさぎの胸を焦がしているのだとしたら。

 ………己に。
 何が言えるだろう。

「―――ひさぎ」
 回らない頭で必死になって考える。どうか、どうか、彼を少しでも。
「あの、さ………ひさぎ。俺が風太でも、弥吉でも、ほかの誰でも―――白雪でも」
 死者の名を出すのは気が引ける。でも優しかったあの子はきっとひさぎがこんな風に落ち込むのを望まない。それだけは確かだから。
「ひさぎが悪いんだなんて思わない。おそすぎたなんて思わない。きっと、みつけてもらえてうれしいから」
 流す視線の先には自分たちで完成させたばかりの墓。
 この下にあるのは物言わぬ遺体。朽ち果てた肉体。感情のない肉塊。生前の思いを捏造されたとて文句も言えない、恨み言もない、単なるモノ。
「俺が白雪だったら、ひさぎのこと責めようなんて考えもつかないし、思いもしないよ。みつけてくれてうれしいって―――それだけ、だよ」
 冷静に告げるこころの何処かで誰かが痛い痛いと叫んでいる。
 言葉や表情に表すことも出来ず、だから代わりに自然と涙が零れた。疾うに泣きつくしたと思ったのに。
「みんな大好きだよ………ひさぎのこと、きらいになんてならないよ」
 はたはたと流れ落ちたしずくが落ち葉に跳ね返って鈍い音を立てた。
 しばし無言でいた連れは握り締めていた腕をほどくと、懐から細い一本の笛を取り出した。そっと口元に宛てがい、唇を湿らせて音を奏でる。

 ―――鎮魂の。
 葬送の曲と告げた、その音色を。

 とまることない涙を溢れさせながら日吉は静かに耳を傾けていた。
 いま、此処で。
 泣くに泣けない友人と、泣いていたのに慰めてもらえなかった友人のために、涙することが己の役目と思えたから。




 ………あたたかい。
 寒さの差し迫った頃に囲炉裏の傍に座すのは心地よい。
 埋葬を終えてから老人のもとに立ち寄った日吉は泣き疲れたのか倒れるようにして眠り込んでしまった。誰かが困ったように呼びかけて、次いで身体を持ち上げられたのを覚えている。静かに火の傍に横たえられて、布団をかけてもらい、眠りを邪魔しないよう抑えた低い声が子守唄のように響いてくる。
 誰かが誰かと話している。どちらも見知った声だ。けれど、よくわからない。誰が話しているのかわからない。
 夢うつつに過ぎない瞬間に通り過ぎていくのは意味をなさぬ言の葉ばかり。

 ―――よく眠っておりますな。
 ―――ああ。

 しわがれた落ち着きのある声と、透き通った幼い声音。老人はこのところの寒さでめっきり弱ったのか、厚い上着を何枚も重ねて囲炉裏の火に身を寄せていた。頬に刻まれる皺は春先に出遭った頃より随分と増えている。
 火串で木炭を転がす音。暗くなり始めた屋内を照らし出す赤い光。
 暫しの沈黙の後でゆっくりと老人は語りだす。

 ―――どう、なさりますか。
 ―――どう、とは?
 ―――このままこの地で果てるおつもりですか。

 子供は微かに笑う。

 ―――戻れというのか、あの屋敷に。いま戻ったところでどうにもなるまい。
 ―――跡を継ぐに相応しいのは若だけでしょう。
 ―――資格はない。継ぐつもりもない。だからこそ月の半分を都はずれの寺で過ごしているのだ。これ以上どうしろと?
 ―――すべてを捨てますか。
 ―――いまさら権力などに興味はない。妾腹の子とあしらうか、屋敷で育てるかを迷うた者たちが何をもって正規の後継者と競わせんとするか。長兄が役に立たぬとて崩れかけた将軍家の威光に何を縋ろうぞ。だが、所詮やつらは私が仏門に帰依し読経三昧の日々を送れども満足せぬのだろうな。

 火の爆ぜる音。ゴトリと鈍い音を立てて湯飲みを引き寄せる音。老人は細い片腕を高く掲げ、台に置かれた二対の湯飲みにゆったりと茶を注ぐ。片方を子に差し出して、暖を取るかのように両の手で湯飲みを抱え込んだ。

 ―――ならば………あやつらの動きは阻止せねばなりませぬ。若を掲げて反旗を翻そうとする者共が京におりまするがゆえに。
 ―――所属を決めよというならば最初から答えは出ている。お前が此処で砦になるのか? ………死ぬぞ。
 ―――それもまた一興。

 先ほどまでとは趣の異なる重たい沈黙。思わず日吉がむずかると、はっとなったようにふたりは揃って振り返った。日吉が起きていないことを確認し、安心したように息をつく。薄っすらと開けた視線の先、ぼんやりと赤い火のゆらめくその向こう。
 やつらは、と老人は切り出した。

 ―――やつらは<神薙>を取り戻したいのかと。それこそは後継者の証と。
 ―――くだらんな。

 一言のもとに切り捨てる。

 ―――いにしえより伝わりしこの刀は、いずれ親しき者の血を吸い別れをもたらすという呪い刀ぞ? ゆえに連中は厄介払いを兼ねて我ら母子に与えたのではなかったのか。事実、直に与えられた母は自らの首を掻っ捌いてみせたのだ。
 ―――事情が変わったと申します。
 ―――証拠のひとつもなければ高貴なる血筋と証明もできぬのか。神子の威光も血に落ちたものよ。母は嘆くであろう………嗚呼、誇り高きすめらぎのみことの血筋が形ばかりに拘るとは、と。
 ―――若。
 ―――三種の神器も海へと沈め、証する手立てがないからと捨てたはずの道具にまで縋るのか。行方知れずの一振りよりも情けで飼い殺している者から巻き上げようという魂胆か。嗚呼、犬畜生にも劣る考えだとも。
 ―――若。
 ―――何故にそのようなやつらが私を育てられようか、母が了承しようものか。重圧と重責に耐えかねて逃げ込んだだけの父にいつまでも頼るものではないよ。かの女は朝廷の怨敵、宮家の宿敵、その血を継いだ子供が大人しくやられると思うてか。月の半ばを寺の結界に留められようとも我が手はいつか、はらからの首を絞めようぞ。
 ―――若!

 低く、鋭い叱責が飛んだ。かたり、と何かが倒れる音。火に煽られて浮かび上がる孤独な黒い影。

 ―――なればこそ。

 子供は抑揚のない、聞き取りにくい言葉で呟いていた。

 ―――なればこそ………寺が結界の内にあるものを儀式にて呼び出し、我が身に宿らせるもひとつの手かと思うのだ。さすれば連中は私に害意がないことを悟ろう。政に関わらず仏門に入り戻らぬと知ろう。
 ―――それは。
 ―――成功するとは限らぬ。明神宿業、八百万がうちにて異なる神仏を身に宿さば足りぬ器は砕け散る。されどな、五柳よ。私はくだらぬ政争にほとほと飽いた。何らかの動きを示すことでやつらが私を見限るならば、それでもう充分ではないか。
 ―――しかし。

「だからもう、此処でお前が付き合って朽ち果てる必要はない」

 都へ戻り養生せよ。
 命を下す声はひどく冷たく響き、老人が答えることを許さなかった。




 ゆっくりと身体が揺れる。すがる背中は細くとも感覚が懐かしい記憶を揺さぶる。
 幼き頃はこうして父に、母に、背負われてまわりを見つめていた。朝の光、昼間の青空、夕焼けの色、夜の暗さ。吹き抜ける風と耳に響く子守唄にとんとんと軽く調子をとって内に木霊する相手の鼓動。
 ―――母さん………。
 そっと呟いた自らの声に促されるように、静かに日吉は目を開けた。
 暗い。
 薄暗い森の中。
 すぐ近くを木々がすりぬけ、黒い地面が眼前に続いている。そこをただひとりの背に負ぶさりながら進んでゆく。夜空には煌々とした月明かり、他の星々のひかりを弱めながら、大地を照らし出しながら。
「………」
「―――起きたのか?」
 曖昧なうわ言に友が気遣わしげに呼びかけた。拍子に解けかかった腕を再度組み直して、日吉の身体が落ちないように。
「もう少し寝ていろ………もうすぐ、寺に着くから。休んでいればいい」
「―――ひさぎ」
「ん?」
 名前を呟いたのを最後にあとを続けるでもない。
 ゆらゆらと揺れる視界。
 はじめて出会った日の夜も、彼はこんな風にして自分を部屋まで運んでくれたのだろうか。
 とても、懐かしい。
 暗い大地に白く細かいものが舞い降りる。続ける言葉もないままに口を噤んでいた日吉の視線はそのままひらひらと漂う欠片へと移る。ひとつ、ふたつと、触れればすぐに消えてしまう小指の先ほどもない小さなしずく。おずおずと伸ばしたてのひらで溶けて消えた。
 いささか早いこの時期の夜、月のひかりのもとで木々の間を舞い落ちる。ひさぎはしばし歩みを止めて天空を仰ぎ見た。
 ―――珍しい、な。

「風花だ………」

「かざ………は、な………? ―――雪………」
 ぽつぽつと繰り返す。
 毎年、冬の訪れを確かに感じさせる白い天からの使いだ。見慣れたはずの光景は今やたらと胸に染みる。
「………ゆ、き―――」
 瞳をとじる。
 思い出すのは白いままで消えていった子供の姿。枯れ果てたはずの涙が新たに頬を伝い落ちた。
 再び動き出した背中の上で夢をみながら、縋りつく腕だけに力を込めた。




 季節の移り変わりは肌で実感するよりも早い。木々の色は先日まで赤々と色づいていたかと思えば早くも変色して地に落ち、乾いた幹をさらしている。空の高さも澄んだ青から白灰色へなり、どんよりとしたうす曇の天気になることが多くなった。
 あの夜の風花を切欠として一気に冬の使者が勢いを増したのか。木枯らし吹きすさぶ中を歩けば身も凍る、もとより造りの拙い着物一枚、寒さに打ち震えているしかない。
(―――どうしたんだろう)
 このところ頻りと考える。結局、知らぬ間に儚い命を散らしてしまった友のことを誰にも言えないまま。

(なにか、あったのかな)
 彼の死が転換点だったという訳ではあるまい。どちらかといえば鍵は己の眠っている間に交わされていた奇妙な会話。記憶の中でもうろ覚え、詳細など思い出せるはずもないが、不穏な空気だけは感じられた。
 思ったよりも複雑な立場にいるらしい年上の友人。
 固く決意しているらしい付き人を兼ねた老人。
 何かがあるらしいこの寺の地下。
(ずっと、ふさぎこんでる………)
 話す態度に変化はない。月のうち半分、姿を消すことに変わりはない。
 けれど、ただ、何となく。
 室内で考え込んでいる彼を見かけるようになった。かなり近づいて呼びかけないと気付いてもらえないなんて、数ヶ月前までは有り得なかったことだ。名前を呼べば慌てたように振り向いて「どうかしたのか」と取り繕う。
 ―――だから。
 だから、それを案じた自分が。
 彼の居ない間に密かに寺の奥に忍び込んだとて………いいではないかと。
 内心で日吉は自己弁護した。
 普段から奥の間へは立ち入りを禁じられている。夜中に書庫へ侵入しただけで厳罰をくらったのだ、見咎められればただでは済まない。いまは日吉を庇ってくれる者も留守にしているのだから。
 本当はひさぎか五柳老人に直接尋ねれば早いのだろう。けれど彼らが素直に話してくれるとはどうしても思えなかったし、何故そのことを知っているのかと問い詰められれば逆にこちらが気まずくなる。盗み聞くつもりでもなく耳に届いた話というのはひどくバツが悪い。
 誰も見ていなかったよな、と何度も後ろを振り向いた。掃除のふりをして抜け出した自分を今頃風太たちは捜しているかもしれない。黙っていることに後ろめたさを感じながらせせこましい通路を進んでいた。廊下を伝っていては呆気なく見つかってしまうだろうと天井裏に忍び込んだのだが、ちょっと、いや、かなり考えが甘かったか。蜘蛛の巣ははっているし埃だらけでむせ返るし鼠は走り回るし、何度悲鳴をあげかけたことか。農村で馴染みの光景だからといって苦手じゃないとは限らない。
 ぐっと唇をかみ締めて四つん這いの体勢のまま先を目指す。

(俺が………いるだろ)

 老人との会話を聞いて、しくじったと感じたのは。

(俺は………いるのに)

 考えた以上にさみしさを覚えてしまったこと。

 置いていかれたように感じるのは自分の我侭だ。何も教えてもらえないことに不満を抱くのも勝手な理屈だ。
 だって、もともとひさぎの人生に日吉は何一つ関係してない。偶々同じ寺にいて、偶々彼の帰還する日に木に括られていた、それだけの繋がり。なのに振り向いてもらえないと、構ってもらえないと、誘ってもらえないとひがむのか。
(おいてかないで)
 数尺先にほのぐらい光が差し込んでいた。位置的には寺の最深部に当たる。ひかりが漏れているということはつまり、この真下で何かを執り行っているということだ。
 信頼しているのは老人ただひとりだけなのだと、自分に理解できない言葉で語っている姿を見て胸が痞えた。降り始めた雪の中で涙をこぼしたのは友の死を思い出したからだけじゃない。
(俺だって―――お前のためになにかできるよ)
 小さな決意を固めて日吉は天井裏の戸板を外した。

 俺はいっしょにいるよ。
 ―――ひさぎ。

 

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