<壱> 将軍の寵、武将の寵


 

 隙間から入り込んだ風に我知らず身震いする。どうやら相当に体調は悪化の一途を辿っているらしいぞとまるで他人事のように考えながら傍らの火鉢に身を寄せた。中で燃される炭に潜んだ赤い炎がチリチリと音を立てている。激しくはない、こんな穏やかな炎もいいものだとてのひらに巻かれた包帯を外しながら半兵衛は笑う。
 将軍のおわす館にある部屋の一画では、奥に半兵衛を置いて、縁側にはまだまだ元気な小一郎と寒さに強い蜂須賀小六と、付き合いに義理堅い利家が車座になって座っている。各人に割り当てられた屋敷や部屋は違えども、話しやすいということで将軍の御座からやや離れた中央の部屋がいつしか集会場と化していた。
 年の瀬も差し迫ったこの時期、障子の向こう側は一面の銀世界である。木下組の軍師は雪を殊の外好むのであるが、熱まで出しかけているのに縁側に出るなど誰が許しても自分が許しはしない、それ以上に佐助殿が許しはしないでしょうと小一郎に押し切られて奥に座するを余儀なくされている。こんな時ばかりは腺病質な己が体質を恨まぬでもない。

『傍に居て触れてこその雪であろうに―――』

 相方の総兵衛も内心で愚痴を零した。
 膝には解かれた白い包帯が積みあがってゆく。
「すっかり雪も深くなったなぁ」
 手に息を吐きかけてあたためながら利家が呟いた。
「尾張も結構積もる地域ではあったが都に降る雪は………何というか、また格別な気がするもんだな。枯葉に積もる白雪の―――」
「珍しく風流くさいことを言うじゃねぇか犬千代。お松殿に雅ごとの教えを請うたのか?」
 からかう小六やいま席を外している秀吉などは未だに利家のことを幼名で呼ぶ。呼ばれた当人も時々それに苦笑するぐらいで今更訂正する気にはならないらしい。さすがに無礼だろうということで半兵衛や小一郎は元服後の名で呼んでいる。それで行けば小一郎もいい加減「秀長」と呼ばれてもよい頃ではあるのだが、彼の場合は幼い口調や言動、行動が相まってどうにも切り替えは難しそうであった。
「やめてくれ、お松は関係ないぞ」
「照れるな、照れるな」
 豪快に笑い飛ばされて不満げにしている利家が、その実、満更でもないことは口端に浮かんだ笑みからも窺い知れる。利家の妻であるお松はしっかり者で気立てもよく、おまけに美人で料理も上手いと専らの評判であった。かつて、利家が若気の至りから信長の近習を斬り捨ててしまった時も、彼の事をずっと待っていてくれた幼馴染である。
「でもまぁ、ここにいる限りは雅ごとに関わらずにはいられませんからね。正直………面倒くさい時もありますけど」
 小一郎が人数分の白湯を注ぐ。たちあがった湯気が辺りに白くくゆり、外の冷風に煽られて敢え無く散った。
 手を添えて熱さを確かめながらそれぞれの前に湯飲みを置いていく。
「また今度、将軍様が祭事を執り行うそうですよ。年の瀬と新年の祝いを兼ねて―――また護衛しなきゃいけないのかって兄さんが愚痴を零すんです。あれ、何とかならないですかねぇ?」
 最後の一言は半兵衛に向けての言葉だった。
 すぐ傍まで湯飲みを持って来てくれた上司の弟に半兵衛はひとつ会釈をする。
 本来は武家の出である足利義昭公はやたら風流ごとに拘る性質らしく、貴族と同じ仕来りを踏んだり祭りを開くのを随分と好んでいた。秋の紅葉狩り、冬前の鷹狩、歌詠みの会など、その都度警備やら雅ごとに秀でた人員の召集やら資金繰りやらで辛酸を舐めさせられた織田にとっては良い思い出とは口が裂けても言えはしない。
 だが尚、半兵衛は苦笑まじりに答えるしかないのだ。
「それが、上様のご命令なのでしょう?」
 京の都の護衛も、将軍の趣味に付き合うことも、付き合いながら影で制御することも。
 京都奉行に任ぜられた木下藤吉郎、明智光秀、村井貞勝らの使命である。
 だから不平不満を垂れつつも任務は遂行するしかあるまいと半兵衛だって繰り返すしか能がない。
「達観してますねぇ、先生は」
「そうでもありませんよ」
 漸く両のてのひらから包帯を全部取り終えて、表と裏に返しながらまじまじと見つめる。これならばと得心した彼は両手を小一郎へと差し出した。相手も心得たもので、じっとてのひらの線をたどり、彼の手首を掴んで小六たちの方に差し出す。互いの視線が交わされたのち皆が異口同音に声を発した。
「却下」
「なっ………」
 当てが外れて半兵衛が不満そうな声を上げる。
「もう一ヶ月近く経つんですよ?」
 と、抗議すれば
「いーや、まだ駄目だ。あんたはあいつを甘く見すぎている」
「そーだそーだ、半兵衛。あいつは徹底してるんだ、絹糸ほどの傷も見えない状態にならないと納得しやしないぞ」
「兄さんは許可しないでしょうね………たぶん、いや、絶対です」
 それぞれに言い返されて押し黙る。
 問題になっているのは約一月前、半兵衛が斉藤龍興との騒動で負った傷であった。刀を素手で受け止めるという無茶をした結果、肌は裂け、左手に至っては甲まで傷が貫通していた。おまけに中途中途で半兵衛自身が楽を奏でたり書を嗜んだり忍びと斬り合ったりと色々してくれたおかげで回復が大幅に遅れていた。
 しかしそれも過去のこと、いまではすっかり傷も癒えて薄っすらと赤い線が残るのみである。これ以上包帯を巻いていても無意味と感じるのだが。
「むしろ外気に触れさせた方が治りも早い気がす………」
「だーめ! 駄目ですったら。傷跡が毛ほども見えない状態にならない限りは兄さんが許しませんよ」
 小六と利家もその通りだと頷きを返した。
 半兵衛自身も、おそらく彼らの方が正しいのだろうと半ば諦めてもいる。だからため息をひとつついて再び火鉢に身を寄せるのだが、未練たらしく未だ包帯は巻かずに膝の上に積み重ねておいた。
 僅かに離れたところより響いてくる足音に話題の人物が奥座敷より戻ってきたことを悟る。
 想像通り、若干の不機嫌さに眉をしかめていた木下組の当主―――木下藤吉郎秀吉は、みなが揃って白湯を飲んでいる場に遭遇して呆れてみせた。
「お前ら何やってるんだ、こんなところで?」
「暖を取ってるのさ。お前もどうだ?」
「湯なら要らねぇ、酒をくれ」
「こんな朝っぱらから何言ってるのさ、もう………小六さんも兄さんを焚き付けないでくださいよ」
 秀吉と小六だけだったらそのまま宴会に突入してしまいそうだ。全く、蜂須賀小六正勝という人間は気風もいいし腕も立つし頼りになるのだが、底抜けに酒好きという点だけは少々難があった。ひとりで飲むだけならまだしも周囲を巻き込んで朝から晩まで飲み明かしてくれるのである。これではこちらの身もふところも保たない。
(酒をくれ、と来ましたか)
 さてはまた将軍に難儀なことを頼まれたらしいと苦笑する。小一郎から白湯を受け取った秀吉は未だ不機嫌さを残した足で火鉢へと寄る。一口、白湯を啜ってから洩らすのは愚痴ばかり。
「ったく、やってらんねーよ。こんなところで言うのも難だがあの将軍ってぇのは―――」
「確かにこんなところ、ですよ、秀吉殿。どうせなら木下組の屋敷内に戻りませんか?」
 移動するのも面倒だと彷徨わせた視線が半兵衛の膝元で止まる。そこには先刻の包帯が堆く積まれていて、問い掛けるような主の視線に、半兵衛はにっこりと左手を掲げることで答えた。背後では利家たちが興味深そうに事の成り行きを見守っている。
 眼光だけで射抜けそうなほど強く半兵衛のてのひらを見つめ、次いで部下の顔色を眺め、ぶっきら棒に秀吉は言い返した。
「却下」
「………あの」
 がっくりと肩を落とす。利家たちはやっぱりな、と苦笑した。
 今し方、小一郎相手に零した繰り言を此処でもまた再現してみせた。
「もう一ヶ月近く経つのですが―――」
「まだ薄っすらと傷跡が見える。しつこく包帯巻いとけ。とことん巻いとけ。何が何でも巻いとけ。俺がいいと言うまで巻いとけ。勝手に解くことは許さん」
「外気に触れさせないと腐れて落ちます」
「大丈夫、外は寒いから腐らない」
 一理あるような無いようなことを言いながら秀吉は乱雑に包帯を半兵衛の手に巻きつけていく。適当に巻いていくものだから場所によって緩かったりきつかったり、酷い有様だ。こんな状態で放っとくよりは自身で巻き直すことを選ぶ半兵衛である。ため息は内心に押し留め、
「………この場で話してもよい内容なのでしたら、いまお伺い致しますが」
 会話の先を促した。
 部下が命令どおり傷を隠していくのを見て少しだけ気分が上昇したらしい相手は、また一口、白湯を啜って喉を潤した。
「そうだな―――おい。小六、小一郎、こっちに来い。犬千代もだ」
「木下組以外の人間が聞き耳たてていいのか?」
「いいさ。どうせ一両日中には領内全体に知れ渡ってる」
 隠したって意味がないだろう、と秀吉は薄く嘲笑った。友人たちが火鉢の周りに集まるのを待って口を開く。
「年末年始にかけての祝い事として将軍が何ぞ計画してるのは知ってるな? どーにもこーにもあの野郎は派手で華やかで賑やかなのがお好みらしくてなぁ、年越しの祝いだからと特別に余所から田楽師たちを招く気らしいぞ」
「本気か? 身元もよく分からぬ奴らを屋敷内に入れると?」
「祝い事の本番しか城内には入れないとは主張してたが………田楽師だけじゃない。白拍子や舞踊団も招くと嬉々として語ってくれたよ。ったく、その資金はどこから出てくると思ってんだか」
 利家の突っ込みも秀吉の苛立ちも至極当然のものと思われた。確かに京の都は現在、織田の支配下にあり比較的治安も安定している。しかし外部に目を凝らせば常に他の武装勢力が虎視眈々と都を狙い、織田についた将軍の命を狙い、あわよくば乗っ取らんと画策中なのである。近場の敵としては堺の商人と縁の深い三好衆が最大手か。見ず知らずの者達を進んで招こうなど愚の骨頂。
 だが、それでも、あの将軍は断行するのだろうな、と半兵衛は考える。
『しかもそれこそが信長の狙いだ』
 総兵衛も同意を示した。
 所詮は将軍も自分たちも信長のいい様に操られているに過ぎないのかもしれない。そう考えるのはあまり嬉しくなかったが、流されるも一興かといまは受け入れつつある。信長の思惑に踊らされることこそを秀吉は「我が本意」と喜ぶだろうから。
「また警護が大変になるねぇ、兄さん」
「ああ―――ったく、光秀とも話し合わねぇと。年末年始の二回開催でなく、暮れは楽団の選考会ぐらいにして、年始で祭事を行えばどうかとは提案したんだがな………」
 望まぬ展開ばかりやって来ると愚痴を零す秀吉を視界の隅に留めながら半兵衛は再び視線を庭へと向ける。
 空から舞い降りる白雪はほんの僅かな合間だけその勢いを緩めたようだった。




 夜。子の刻。月の光。
 降り積もった雪は日中も寒いおかげで融ける様子が全く見られない。襖や障子で遮ろうとも闇夜に零れる目映さ。月光が庭を照り返せば雪が静謐を支配して昼とはまた異なる趣が感じられる。吐く息は雪と同様に白く、薄暗い世界に少しずつ揺らめいて儚く消えていく。すり合わせた手足の先が然程の痛みも寒さも感じないのは疾うに冷え切ってしまっているからだろうか。
 未だ解かれぬ包帯に覆われたてのひらを開閉しながら縁側に腰掛けて半兵衛は問う。
「して―――堺と三好の動きはどうだ」
「やはり退かぬ姿勢を貫いております」
 返す言葉は廊下の奥、暗がりの中から響いた。雪の中に座すのは寒すぎる、廊下の影に隠れるのも遠すぎる、近くへ参れと主たる半兵衛が命じたにも関わらず、一歩引いた態度は譲らぬ佐助。
 このところ、半兵衛は佐助と茜を使って敵に探りを入れていた。各々単独行動しているふたりは折りにつけこうして報告に訪れていた。
「会合衆が座を開き協議いたしました結果、信長公の申しつけは受け入れること叶わず―――と」
 足利義昭を擁して入京し、都において絶大なる地位を確保した織田信長が起こした行動は、商業都市の堺にとっては了承しかねる内容であった。管領や副将軍といった地位には興味を示さず諸所の関税を廃し、堺や大津といった商業地を直轄地にしたいと願い出た彼は、同時に各都市に対して法外な値段の矢銭を請求したのである。将軍の権威を利用しての呼びかけとされては断るにも角が立ち、かの石山本願寺でさえ五千貫の矢銭を納めるに至った。
 堺に掲示された額は二万貫。
 先だって信長に面談した都の文化人―――千宗易、今井宗久、津田宗及らが仲立ちとなり表面上は矢銭を奉納するということで決着がついている。しかしそれで大人しく引き下がるはずもなかった。
「まさに公の思惑通り、といったところかな」
 やんわりと半兵衛は微笑んだ。
「従えば従うで軍資金が手に入る。従わねばそれはそれ、将軍に己が立場を認識させるに丁度良い敵となる」
「立場、でございますか」
「将軍は少し危険な目に遭った方がいい………そこを織田が助ければいましばらくは不平不満も抱かずに大人しくしているであろうよ」
 とはいえ、それは織田が敵に勝利することを大前提としている。守るつもりが逆にやられてしまったら洒落にならない。だからこそ京都守護を任された秀吉たちの任務は重要なのであった。
「仕掛けてくるのは―――将軍の奇行が音に聞こえているならば楽団を招いての祭事を連中が見逃すはずもないな」
「ならば、年も明けた頃………と」
「うむ。秀吉殿も同じ考えだ」
 堺が頼りとしているのは銃と馬の扱いに長けた三好衆だ。彼らの力を借りれば織田に勝利できると考えている、たとえ、不興を買っても己たちの財力があるならばと。
 甘い考えだ。思い上がる前に叩きのめし、ギリギリのところで救い上げてやろう。
「茜からの報告によりますれば現時点で楽団の中に不審な者は見られぬとのこと。されど何分、直前になりて人の出入りの多くなるが常―――全てを探ろうにも聊か労がございます」
「無理はせぬように、と………いや。舞踊団の中に間者がいるならば最早それでも構わぬ。屋敷に戻るよう茜に伝えてくれ」
「畏まりました」
 深くこうべを垂れた部下は、しかし、影に身を隠す寸前に動きを止めた。眉を顰め、先ほどまでは決して立ち入ろうとしなかった光の中に姿を晒す。静かに見つめてくる主に彼もまた真摯な瞳を返しながらそっと静寂に言葉を落とす。
「如何なさいましたか、半兵衛様」
「如何、とは」
「顔色が優れぬようです。眠れないのですか?」
 月だけが周囲を照らす闇夜、辺りをほのかに輝かせる雪の煌き、こんな情景下においては何れの顔色も青白く感じられるだろうに、こと之に関しては部下の勘は頗る良い。
 隠そうとしても隠し通せぬと経験上悟っている主は僅かに口角を上げたまま視線を天へ移した。
「―――夢を、見てな」
「夢、で、ございますか」
「そうだ。誰かが………同じ誰かが、いつも、居る」
 内容はあまり覚えていない。いつから見るようになったのかも分からない。忘れかけた頃に甦る、繰り返し、繰り返し、夜明けを待つまでの浅い眠りの中に波のように訪れる。恐ろしいような、待ち侘びているような、けれど目覚めれば夢の中の出来事は全て記憶から滑り落ちてしまうから―――もどかしい。
「誰なのか分からぬ。ただ、その影は私のことを捜している。そして私は―――その者に、見つかりたくないと逃げている」
「あなた様が逃げるほどの相手なのですか」
「買い被るな、佐助。私はお主が考えているほどに毅然としている訳ではないよ。………ともあれ泡沫の夢に過ぎぬ。黒い影が遠くで蠢いていた程度の認識しか残らぬ。されど」
 気になるものは気になるのだ。
 物事を解明したくなったらとことんまで追及してしまう主の性格を熟知している部下はまた持病が出たかとため息をつく。同時に、主らしからぬ態度だとも感じた。誰かに捜されて、けれど、彼自身は見つかりたくないから逃げていると―――つまりは、誰かに『追われている』のだと。判じたならば逆に追い詰めようとするのが常だのに。
「薬を調合致しますか? 深く、眠れるよう」
「要らぬ。夢も見なければ暁闇において我が魂が迷うであろう」
 心配するなと言外に篭められたこころを汲み取って部下は更に深々とこうべを垂れた。
 闇に紛れていく部下の気配を感じ取りながら随分と傾きを増した月をじっと見詰めた。何故か、てのひらの傷が疼く。何処かへ身を隠したい衝動に駆られている。
(全く、どうしたんだか………)
『らしくない、よなぁ。けど総兵衛も―――少し、嫌な予感がするぞ』
 かなり控えめな相方の表現に半兵衛は苦笑いを浮かべる。
 もとより感じていたことではあるが、穏やかな新年など望むべくもなさそうだと再度の覚悟を固めた。

 その夜。

 半兵衛は再び夢を見た。
 夢の中でその影は笑っていた。
 もうすぐだ、もうすぐだ、もうすぐだ………。

 ―――そう言って笑っていた。




 その日は朝から薄曇の天気だった。
 どんよりとした空気が両肩に圧し掛かって何時にない息苦しさを感じる。冬に特有の清冽な空気が痛いぐらいに頬を刺す。午後になればまた雪を舞わせるかもしれない雲が風に吹かれて欠伸をしたくなるような速さで移動していた。
 年の瀬を感じながら半兵衛は渡り廊下で立ち止まる。何となく、気が進まない。足が重い。動きたくない。出仕が嫌になるとは実に珍しい、と自分で自分を評しながら一番戸惑っているのは彼ら自身だった。
『やはり夢の所為か?』
(さあな………何れにしても席を外す理由になどなりはしないが)
 佐助ならただそれだけの理由でも半兵衛を布団に押し込めそうではある。包帯を巻かれて動きの鈍くなった拳を強く握り締めた。
 今日はいよいよ将軍の希望した楽団が到着する日だ。御前で舞いが披露できる機会に謁見を希望する組合は多かったが、どれが危険でどれが安全な集団かなどすぐに判断できる筈もない。請け負う側も所詮は野武士あがり、将軍にしたところで俄仕込みの雅ごと、結局は面接時の印象と、裏で佐助と茜が入手した情報をもとに実に曖昧な決定をくだすしかなかった。
 守護を任されたにしては暢気なことよ、と僅かに笑い。
 招いた面子に敵が忍び込んでいたならばまた一興、と開き直り。
 暮れと年始を控えての前祝いだと将軍が織田に召集をかけた。命令とあらば宮仕えを兼ねた武士たちは従わざるを得ず、誰もが愚痴を零し、騒ぐにはいい口実であると浮かれ、聡い者は敵が隙をついて来るやもしれぬと気を引き締め、列を為して本圀寺へと足を運ぶ。主要な面子しか呼ばれていないとはいえ大した人数だ。
 途中で眠たそうな小一郎と、面倒くさそうにしている秀吉に会った。目が合った瞬間に秀吉はにやりと笑う。朝の挨拶もそこそこに列を逸れて廊下の隅へと移動した。
「おはようございます。………朝から賑やかになってしまいましたね」
「宴会前の準備って感じだな。やってられないことこの上ないぜ」
「小六殿は? 見掛けませぬが」
「何処かにはいるだろ。合流する暇がなかった」
 お前もとっとと目ぇ覚ませよ、と秀吉が小一郎の肩をどつく。
 辺りを見回してみればそこかしこに知人の顔が確認できた。小六も人波の向こうに頭が覗いている。光秀と視線が交錯して笑いながら手を振る。相手も手を振り返してくれたが、相変わらず疲れている印象を受けた。
 所は将軍のおわす本圀寺。敷地内に舞台代わりとなる板敷きを用意し、上座に将軍とその侍従、両脇の通路に秀吉や光秀といった織田からの兵が控え、彼らの部下達は更に一歩背後についての観劇となった。面を上げれば重々しい空の下で立ち動く人々の姿が捉えられる。
 招かれた者たちの装いは、と言えば。
 笛と笙、太鼓に鼓、琴と鈴。舞い手は白拍子の呼び名に相応しく真白の水干、緋の長袴、立て烏帽子、腰に太刀つけ手に蝙蝠。
 意外なことに舞うのはあの小柄な女ひとりだけらしい。他は全て音曲にまわっている。艶やかな黒く長い髪とほっそりとした後ろ姿が顔など見ずとも女の美しさを想起させた。実際、この場に集まった何人かはこっそり指差して何やら囁きあっている。半兵衛も女の姿を視界に留めながら、周囲とは裏腹に妙な焦り―――もしくは不安、を、感じていた。
(あの女………)
 敵意を向けられている訳でも視線が交錯した訳でもなく、互いの表情が窺えた訳でもない。なのに、何故だろう。

 あの女は半兵衛の存在を意識している。
 そう、感じた。

(らしくない―――自意識過剰にも程があるぞ)
 妙な夢ばかり見ていたので神経が過敏になっているのだと無理矢理に自身を納得させた。
 やがて舞台の準備が整う。弾き手が指を揃えて時を待ち、舞い手が壇上に上がった。

 ドォ………ン………

 重々しく銅鑼が鳴る。鼓が間を取る。笛が低く主旋律を奏でる。

 タン………ッ

 白拍子が板敷きの上にて踏み込む足音。
 眩暈がした。

 ――― 花の外には松ばかり 花の外には松ばかり 暮れそめて鐘や響くらん………

 滔々と流れる語りが敷地内に木霊する。先ほどまでのざわめきがまるで嘘のように静まり返った庭先で曲だけが場を支配する。白拍子は未だ面を蝙蝠で覆っていた。軽く風に舞い上がる裾を器用に足先で払いながら中央へと舞い出づる。
 真っ直ぐ進み出た彼女は将軍の御前に臆すことなく佇む。全ての者の注目を一身に集めながらゆっくりと顔を隠していた扇を外す。
 途端、音もなく周囲に広がる驚愕と賞賛の声。
 白い、雪よりも衣服よりもなお白いかんばせ。
 風に舞う髪は鴉の濡れ羽色、大きな黒瞳と薄っすらと赤い唇が否が応にも人目を惹き付ける。振り上げた手の先で円を描く蝙蝠、身体を捻る度に水干の先の赤い紐が跡を追って揺れる、目に痛いほどの艶やかさ。
 タン………ッ、と、歩が踏み鳴らされる度に。
 少しずつ歌に合わせて舞いの質が変わり、踏み込む速度が上がる毎に。
 やたらと痛むこめかみと半兵衛は戦う羽目になった。
(何故だ―――この女性の舞いは見事なものだ………なのに、何故―――)
 何が駄目なのか、何がいけないのか、何が不安にさせるのか。
 ことを見定めようと半兵衛の視線は彼女の動きを追う。

 ――― 鐘に怨みは数々ござる 初夜の鐘を撞く時は 諸行無常と響くなり
 ――― 後夜の鐘を撞く時は 是生滅法と響くなり
 ――― 晨朝の響きは 生滅滅已入相は 寂滅為楽と響くなり 聞いて驚く人もなし
 ――― 我も五障の雲晴れて 真如の月を眺め明かさん

 動きには無駄がなく、小さい身体を存分に広げて男を慕う女の役を演じる。
 確かにこれほどの舞い手であるならば場に立つのは彼女ひとりで充分だ。生半可な相方では彼女に合わせられずに場の雰囲気を壊してしまうだろう。彼女に匹敵する踊り手が見つからない限りは孤独に舞わせる他に術がない。
『空間、が』
(―――総兵衛?)
『この空間が彼女に支配されている。ほら………誰も、身動きひとつ取れやしない』
 言われてみれば、既に将軍も他の武士たちも彼女の舞いに魅せられて身動きひとつ取れない状態になっていた。敵に攻め込まれでもしたら一網打尽になるだろうと思えるほどに。かく言う自身も得体の知れない感覚に襲われて心臓が早鐘を打っている。
 精神が落ち着かぬままにただ、感じたのは。

(似ている………)

 嗚呼、この女性は。
 よくよく見れば重なる部分がある。立ち居振る舞いではなく、醸し出す雰囲気ではなく、ほんの少しばかりの面影が。
 タ、タンッ、と、小気味良く歩を刻みながら目の前で舞いは続けられる。

 ――― 言わず語らぬ我が心 乱れし髪の乱るるも つれないは只移り気な どうでも男は悪性者
 ――― 桜々とうたわれて 言うて袂のわけ二つ 勤めさえ只うかと どうでも女子は悪性者
 ――― 都育ちは蓮葉な者ぢやえ

 いよいよ半兵衛は胸元を抑えて片手を床についた。さいわいにして皆が彼女に注目しているこの場においては彼の異変に気付く者もいない。せめてこの舞いの一区切りがつくまで耐えねばならぬ、と一心に念じながら横目に主を垣間見て当惑の色を濃くする。
 やや離れた場所、将軍の間近において踊りを見守っている主君。

(秀吉、ど、の………?)

 彼の目は。
 いまや直向な強さを湛えて中央へ向けられ、向けている点は他の者たちと同じでも、篭められた想いが聊か様相を異にするようで。見たこともないほどに昏く、熱を孕んだ眼差し。信長のことを語る時、己の野望を語る時、似たような目つきをしていたがもう少し本能的なもののようで。
 疑いようもなく秀吉が見つめているのは白拍子。
 彼女が身を翻すたびに空の下で絡まる緋の長袴。

(―――嗚呼、そうか)

 合点がいく。己が先刻覚えたのと同じ感想を、彼もまた、抱いたのであれば。

『嗚呼………そうだな』

 板敷きを踏み鳴らす音が響き渡る度に背中に生じた冷たい汗が衣の隙間を流れ落ちて行く。
 おそらく彼らは彼女を此処に留めおく。
 夢の暗示はそれか、ならば己を追うのは誰か、彼女の居留は己にとって吉か凶か。
 未だ判ぜられず、言えるのは穏やかな初日の光など拝むべくもなかろうという、それだけ。

 ――― 花に心を深見草 園に色よく咲初めて 紅をさすが しなよく姿よく ア姿優しやしおらしや
 ――― さツさそうぢやいな さツさそうぢやいな
 ――― 皐月五月雨 早乙女早乙女 田植え歌
 ――― 早乙女早乙女 田植え歌 裾や袂を濡らした さツさツさ
 ――― 花の姿の乱れ髪 思えば恨めしやとて
 ――― 竜頭に手をかけ飛ぶよと見えしが 引きかついでぞ失せにける

 眼前では華やかにも白拍子が舞いを続ける。
 タン………、と。
 再度踏み鳴らされた乾いた音色が彼の腹腔に重く響いた。




 女は、白拍子『華子』と名乗った。
 演じ終えた時の義昭の喜びようはすごいものだった。彼女の舞いを絶賛し、容姿を褒め称え、褒美を取らせようとまで宣言した。公衆の面前で気安く口約束をするなと周囲が反感を抱くより先に座の長が進み出て気遣い無用と平伏した。
「褒美は要らぬとな………しかし礼をさせてもらわねば我の沽券に関わるのでな。ついてはそちに頼みたき儀もある故に」
 何を告げる気かと耳を欹てる周囲の目が気になったのか、将軍は長と華子だけを屋敷に招き入れるように命じた。同時に、織田の代表だけが相席し、あとは散会するようにと告げる。随分と自分勝手な物言いだったが皆、舞いによって大らかな心持になっていたため普段と比べて不満を抱くものは少なかった。
 秀吉も将軍の下に馳せ参じるため腰を上げたが何処か呆然としている風でもあった。
 未だ座り込んだままの半兵衛に呼びかけるでもなく呼びかける。
「まぁ―――その、素直に………驚いたな」
「………」
「単なる白拍子だと思ってたが―――」
 頭をかきながら会合の場である奥の間へと姿を消す。心なしか、足元が浮ついているように見えた。きっと彼は将軍の思惑に自覚のないまま加勢してしまうに違いない。
 軽く息をついて半兵衛は悟られないほど微妙に乱れていた呼吸を整える。場はどこか騒然としており、ぼうっとした表情で辺りを見つめている者も多い。魂を奪われたまま現実に戻れなくなっているのだろう。仕方ない、確かに彼女は掛け値なしの『美人』だったのだから。
 いつもと変わらぬ態度を貫けているのは―――半兵衛は若干、冷静さをかいていたので―――将軍のもとへ向かう途中の光秀と、部下を先導している利家と、仏頂面の小六と、小一郎だけだった。「綺麗な舞いでしたねぇ」なんて物凄く健康的な感想を述べながら小一郎がひょこひょこと傍に寄ってくる。
 座り込んだままの半兵衛を見て心配そうに眉根を寄せた。
「先生、大丈夫ですか? すっごく………顔色が悪いですよ」
「心配してくれてありがとうございます。大したことありませんよ」
「何を仰ってるんです。顔色が真っ青ですよ。頼むから少し休んでください、今日はもう大した出来事なんてないでしょうしっ」
 小一郎が頬を膨らませて急かせば寄ってきた小六までが「そうだそうだ」と同意する。
 ふたりに詰め寄られて苦笑して、では屋敷に戻っておくことにしますかと妥協した。
 己が手に巻かれた包帯に目を留めた半兵衛は、僅かに目を細めた後でゆっくりとそれを解き始めた。何故いま解かねばならないのかと小一郎が驚く。
「―――先生?」
 すっかり解き終えた包帯をまとめて懐に仕舞い、

「もう、誰も気にしませんから」

 半兵衛は穏やかに微笑んだ。




 かなり無茶といえば無茶な要請だった。すっかり華子のことが気に入ってしまった将軍は彼女を此処で雇いたいと言い出したのである。確かに素晴らしい踊り手ではあるが、お抱えの白拍子とするには時期が時期だ。自重されよと周囲から窘められて不愉快そうに足利家の末裔は眉を顰めた。
 楽団の長によれば彼女は御前披露のため臨時で雇い入れただけであり、正式な仲間ではないらしく、ならば此処に留めても問題なかろうと将軍は我を張る。華子自身の意見はどうかと盗み見れば顔を伏せたまま微動だにしない。長は金さえ払えば手を打ちそうだが、稼ぎ頭になりそうな華子をあっさり手放すのも抵抗があるのだろう。体のいい人身売買だなと秀吉は感じた。
 なのに、口をついて出た言葉といえば。
「将軍が此度の催しに招いたは年明けの祭事を見越してのこと―――さらば、一先ずは正月までの契約とすればよいのではございませぬか」
 更に契約を更新したくば正月の席の舞いを見てから判断しても遅くはない。どうせ、一月としない間の話なのだ。
 ―――という、個人の意思を無視した妥協案で。
 またしても将軍への胡麻すりかと周囲の視線が突き刺さる中、光秀だけが不思議そうにこちらを見つめていた。悪いが、今回の発言は将軍へのおべっかを意識したものではない。何となく、自然と、唇から零れ落ちてしまったのだった。
 其れが良い其れが良いと無邪気に喜んだ将軍は他の苦言に耳も貸さずに話をどんどん進めてしまう。良銭を山と積んで渡せば長は文句を呟きながらも引き下がった。やがて後に残された華子の処遇へ話が転じ、いずれの武将が身柄を預かるかと目に見えぬ火花が散る。正月まで守り通すは苦労、されど守り通せば将軍の覚え目出度く、何より、『これ』は素晴らしい舞いを見せる美しい白拍子だった。
 慌てて光秀が止めに入る。女のことで争うなど愚の骨頂だ、と言いたいのだろう。
「皆、落ち着け」
「何故に止めるのだ明智殿。不満でもあると申されるのか」
「急いで話を進めすぎだ。我らが幾ら言い合うてもどうにもならぬ、ここはひとつ華子殿のご意見を伺っては如何かと申しておるのだ」
 ―――いま会ったばかりの状態で何を判断させたいのか。
 異論反論はあれど光秀の発言にも一理ある。こちらで勝手に話を進めたとて、華子から将軍に「扱いがなっていない」と告げ口されれば身の終わり、その点、彼女自身に請負人を選ばせれば強く出られることもないだろう。光秀に異を唱えていた武将も渋々と頷いて引き下がった。
 視線が華子に集中する。武将らの注目を一身に集めて華子はたじろいだ。舞いの時はあれほど堂々としていたというのに、明るい場所に突如として連れ出された野兎のように小刻みに震えていた。
 恐る恐る上げた視線がそれぞれの面を順繰りに巡っていく。一通り眺め終え、僅かな逡巡を見せた後に透けるような色合いの繊手が持ち上がる。
「この方に―――お願いしとうございます」
 消え入るような声でもって。
 女は、ひとりの武士を指差した。




 秀吉が本圀寺から戻ったのは割りとすぐのことだった。
 会合のあらましを聞き、華子の居留にやはりと頷き、彼がやたら上機嫌な理由に思い至ってため息をつく。手に残る数日中には消え失せるだろう傷跡が少し痛んだが、いま半兵衛の頭を悩ませるのは自身の傷などではなく、様々な意味で城内を落ち着かなくさせている白拍子であった。
(これは、何と言うか―――)
 ―――「木下組が彼女を預かることになった」と素直に軍師に報告。
 普段なら「何故に面倒な世話役を」と憤る秀吉がおとなしく従っている。これはいよいよ本気らしいぞと気を引き締めた。
(………難攻不落?)
 何はともあれお前には会わせておかなければな、と秀吉がこちらの屋敷まで連れられて来たくだんの白拍子―――華子、は、三つ指をついて顔を俯かせたまま動こうともしない。彼女の前では新しく用意されたお茶がのんびりと湯気を立てていた。
 聞けば、木下組の庇護を求めたのは彼女本人だったらしい。ならばここまで警戒しなくても良いのにと呆れつつ、薄暗い室内へ光をもたらしている障子の向こうへと目を転じた。雲間から差し込んだ陽光が雪の降り積もった庭を照らし出している。午後になればまた崩れるだろう空模様の一時の気紛れだ。
「華子殿、面を上げてください」
 ゆっくりと秀吉が呼びかけても相手は僅かに肩を震わせ微かに頷くことしか出来ない。主は苦笑の度合いを深めながら辛抱強く言葉をかける。
「紹介しましょう。あなたも名前ぐらいは聞いたことがあるやもしれませぬが―――竹中半兵衛重治、美濃の麒麟児とも呼ばれた男で、いまは織田の軍師となっております」
「は………い、ぞん、存じ上げて、おります」
 漸く上向けた瞳が半兵衛のそれとぶつかり、気圧されたようにすぐに閉じる。
「義昭公の命により我ら木下組が御身を守る役目を承りました。邸内ではゆるりと過ごされませ」
「………はい」
「入用なものは木下組の誰でも構いませぬ、申しつけられよ。野武士あがりとはいえ婦女に対する礼儀は弁えておるつもりです」
「は、―――い」
「部屋は東の棟をご用意致しました。ご不満があれば如何様にも調整致しましょう」
「い、いいえ。いいえ。とんでもございませぬ。わたくしには過ぎた扱いでございます。どうか―――どうか御気になさらぬよう」
 狼狽を深めた華子がほんの一瞬だけ秀吉を見つめる。すぐにまた顔は俯けられてしまったが、刹那に見えた彼女の表情は白い肌とほんのり染まる頬をした、男にとってこの上もなく好ましいものであった。
 秀吉が言葉を失くす。その理由を半兵衛は正確に察知していた。
 先刻、目が合ってからずっと半兵衛は視線を彼女から逸らしている。また視線が克ち合えば彼女は顔を背けるだろうし、その瞬間を秀吉に見られるのは避けたかった。嫌われて、もしくは恐れられて目を逸らされるならむしろ望むところなのだが。
『雰囲気が―――どうも。苦手だ………』
 相方も同じやりにくさを感じている。
 気付かれぬよう影で半兵衛はまた、ため息をついた。
「時に、華子殿は何故に京に参られたのですか? あなた程の踊り手であれば何処かの座に組みされた方がよいのではありませぬか」
「わ………わたくしなど―――未だ若輩者にてございます。至らぬものを御見せ致しました………」
「何を仰います。皆、一様にあなたの舞いに酔い痴れていた。不肖、この秀吉も雅ごとに疎い身の上でありながら深く感じ入りましてな―――それだけあなたの腕が優れていたということ。謙遜なさる必要はございますまい」
 相手の気をほぐすように大らかに語りかけるのが秀吉が誰かを懐柔するときの常套手段である。大抵の者はこうしている内に打ち解けて笑いながら話すようになるのだが、今回ばかりは上手く行かないらしい。華子は未だ肩を細かく震わせ、畳についた指先は白く凍り付いている。はらりと落ちた前髪が彼女の表情を奥深く隠してしまっている。
 面倒くさがりな側面も併せ持つ秀吉は、反応が芳しくなかった場合、この辺りで適当に話を半兵衛に振ることが多い。けれど今回は辛抱強く問い掛け続けている。会話が成り立とうと成り立つまいと、必死になって話しかける。
 面と向かって彼女を賞賛できる。それが嬉しくてならないのだ―――秀吉は。
 廊下の果てから駆けてくる足音に気付いてそっと秀吉に声をかけた。言葉を中途で遮られたことに相手は不服そうな顔をしたが、すぐに表情を切り替えて態度を改める。さすがにこの辺りは反応が早い。
 開ききった障子の向こうの視界に入らぬところに膝をつき、伝令は深く頭を下げる。
「何用か」
「申し上げます。明智光秀様より木下秀吉様に、至急伝えたき儀ありとのこと。お手間ながら屋敷までお越し頂きたく」
「ああ? 用事あるんならこっちに来ればいいだろうに」
 従者が聞いているにも関わらずそんな不満を秀吉が零す。滅多に犯さない失態―――、今日の彼は色々と迂闊だ。
「秀吉殿」
「あー………わかってるよ、くそっ」
 嗜めると秀吉は渋々ながらに立ち上がった。これより参りますと言伝を従者に頼んで先に行かせる。すぐに追っていくかと思いきや最後に彼はこちらを振り返って半兵衛に命を発した。
「半兵衛、華子殿を部屋までお送りしておけ。東の棟の―――奥だ、分かるよな?」
「畏まりました」
 了承の意を篭めて頷く。東棟の奥は、木下組に割り当てられた部屋の中で最も日当たりがよく、将軍の屋敷に近い方角のため最も警備の行き届いた場所だった。
「頼んだぞ。―――華子殿、それでは、また」
 掛け値なしの笑みを浮かべて笑いかける。相変わらず縮こまった体勢のままで顔だけをどうにか上向けた彼女は、困ったような、感じ入ったような、曖昧な笑みを口元に刻んだ。
 秀吉の足音が徐々に遠ざかる。
 音が完全に廊下の彼方に消え去ったところで、ふぅ、と息をついた華子が両肘を床についた。緊張の糸が切れたらしい。
「お茶を淹れましょう」
「あ………いいえ、大丈夫です」
 淹れた茶はすっかり冷えてしまっている。新しく熱い湯を注ごうとした半兵衛を女が止めた。先刻までは触れもしなかった湯飲みを持ち上げて口をつけると、すっかり落ち着いた色で照れたように笑った。
「ああ―――美味しい」
「何よりです。こちらは私の友がくれたものなのですが、お気に召して頂けたなら光栄ですよ」
「まあ、そんな大切なものを?」
「大切でも飲まねば茶の意味がありませぬからな」
 微笑んだ後で、疑問を感じて黙り込む。どうかなさいましたか、と、不思議そうに首を傾げる華子に促されるように口を開いた。
「いまのあなたは落ち着いておられますが―――先刻までは随分緊張していらしたようなので。主が不愉快な思いをさせましたでしょうか。なにゆえあそこまで怯えておられたのかが分かりかねます」
「そんな」
 不愉快だからあんな態度をとったのではございません、と華子は首を横に何度か振った。
 次いで零れるのは自嘲気味の笑みだ。美人とは得なもので、眉根を寄せた表情さえも艶を増す要素にしかならない。
「秀吉様は………お優しい方だと思います。武力を誇示したり、頭のよさを見せつけようとするばかりの殿方とは違います。真摯で、真っ直ぐで、とても―――とても、あたたかい方です」
「ならば―――」
「嗚呼、嗚呼、でも、お許しくださいませ。わたくしはどうしても駄目なのです。どうしても殿方が苦手なのです。危害を加える存在ではないと頭では理解しながらも身体が怯え、震えるのです。幼少の砌よりわたくしが安堵を覚えた相手は父と幼馴染しかおりませぬ」
 水干の袂を握り締め、目を逸らして唇をかみ締める。
 本当に、舞いを舞っている時とは別人のような―――と言うか、それ以前の感想としては。
『総兵衛たちは<殿方>の範囲外かい………』
 相棒のため息に同意したくなった。
 男性が苦手なら何故に白拍子などという職についているのだろう。必要に迫られてのことだったかもしれないが、男相手の客商売はやらずに芸だけで生き抜くのは難しくないだろうか? ―――先ほどの腕前を見れば有り得ない話ではないが。
 ぼんやりと視線を手中の湯飲みの水面へと注ぎ、僅かな手の震えにより刻まれる漣を数える。
「それでは―――この男所帯は居辛いでしょう」
「致し方ありませぬ。将軍様のご意向には逆らえませぬ」
 お茶を飲みながら半兵衛は考えを巡らせる。さして悩みもせずにひとつの提案をした。
「ならば………私の部下をお付けしましょう。傍仕えとして何なりとお申し付けください。気が合うかどうかは分かりかねますが、少なくともあなたが怯えるような相手ではありませぬから。―――茜」
「これに」
 すっ、と部屋の隅から小柄な影が進み出る。気の強そうな目の光を幾分やわらげて、茜は目の前の女に平伏した。
「茜と申します。以後、お見知りおきを」
「まぁ、―――と、とんでもございませんっ。わたくしこそ、恐れ入ります」
 慌てて華子も額を畳に擦り付けた。
 茜はしっかり者だし、武芸も心得ているし、芸術にも関心が高い。護衛しながら華子の話し相手も務められるし、彼女を見張ることも出来る。飲み干した湯飲みを脇に置いて真っ直ぐ部下の顔を見つめた。
「………頼まれてくれるか」
「仰せのままに」
 多くは語られぬ言葉の内から真意を汲み取って部下が顔を伏せる。華子の身辺警護に関してはこれで一安心だ。彼女に何かあったら将軍はもとより秀吉が悲しむ。それだけは防ぎたかった。
 はにかんだ笑みを浮かべて面を上げた華子が思い出したように気遣わしげな表情に変わる。
「そう言えば―――半兵衛様、お伺いしたかったのですが」
「はい」
「御手の怪我は如何なさいました? 先に見かけた折りは包帯を巻いておられましたから、余程深い傷かと案じておりましたのに」
「ああ………これは」
 微苦笑を浮かべながら左手を眼前に掲げてみせる。手の甲には薄っすらと赤く細い糸のような痕が残されているだけだ。
「もう治りかけているのです。大事をとって保護しておりましたが、さすがにここまで治れば最早かような包帯は要らぬでしょう」
「まぁ、然様でございましたか。お怪我が深くなくて何よりです」
 嬉しそうに微笑む彼女から僅かに視線をそらし胸中で「参ったなぁ」と呟く。秀吉にも指摘されなかったことをこの女に指摘されてしまった。
 だから、本当に、「参った」なぁ―――と。
 移ろわせた薄闇色の瞳の先でどんよりとした雲が白雪を零し始めたのを認める。
「冷えてきそうですね………早めに部屋までご案内致しましょう」
 さあ、と促せば華子も素直に立ち上がる。
 先頭に半兵衛が立ち、華子が続き、後ろを茜が護衛する。
 廊下を少し軋ませながら進む世界は妙に静まり返っていた。同じ屋敷内に何十人もの武士が生活している筈なのに不思議と物音は聞こえてこない。
「―――半兵衛様」
 角を曲がろうとしたところで華子が前方を進む影に呼びかける。
「わたくし………先ほど申し上げましたね。殿方が恐ろしくてならないと、でも」
 秘密を打ち明けるようにこっそりと、けれどしっかりと響く軽やかな声で告げる。
 にこやかに微笑みながら。

「でも、あなた様のことは、恐ろしくなかった。本当ですのよ」

 半兵衛の歩みが止まる。
 振り向いた軍師の前で女はくすくすと笑う。鈴の音を転がすような声で語る。
「御前でお見かけした時に悟りました。あなた様の中にふたつの御心があるならばわたくしが恐れる必要はないのだと。あなた様の前に秀吉様が座っていらっしゃった、だから、あの方があなた様の上司であると察しもつけられました」
 怪訝そうなものから少しずつ、冷え切った硬いものへと半兵衛の表情が変化していく。
 語られるであろう言葉は想像はつけども受け入れ難く、ましてや、なにゆえにこの女はそれをこの場で己に告げるのかと理解しきれずに唇を強く引き結ぶ。

「あなた様が居たからこそ、わたくしは秀吉様の庇護を求めたのです」

 悪意の欠片もない無邪気な白い微笑みを女は浮かべた。

 

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※注:作中の歌は『京鹿子娘道成寺』より拝借致しました。この長唄の成立年代は戦国時代よりずっと後なのですが、その辺は見逃してやってくださいネ(笑)。

 

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